「エビデンスに基づく教育」(Evidence-based Education)とは,教育研究によって政策や実践を実証的に裏づけることを意味する言葉である。エビデンスを産出するとされる研究は,さまざまな形態を取る研究のうち,社会的活用を第一義として行われるものである。本稿では,「エビデンスに基づく教育」という言葉が登場した社会的背景として,知識経済下における知識生産,研究成果の効率的活用といった変化を取り上げる。次いで,エビデンスを巡って,供給側の研究者の動きとして医療や教育研究の有効性の問題,需要側の政策立案者の動きとして説明責任,教育予算の獲得と費用対効果の問題を概観し,最後に知識マネジメントの観点から研究と政策との関係について考える。
「エビデンス」(evidence)とは,実証,根拠を意味する言葉であり,「エビデンスに基づく教育」(Evidence-based Education,以下EBE)とは,教育研究によって政策や実践をデータで実証的に裏づけることを意味する。そのため,エビデンスとされる教育研究は,特に社会的活用を目的として行われるものを指す。
本稿では,このエビデンスという言葉が登場した背景として,知識経済下における研究の効率的活用や知識の道具化の趨勢(すうせい)を取り上げ,エビデンスを巡って供給側である研究者の動きと需要側である政策立案者の動きを概観し,さらに教育研究と政策との関係について考えを巡らしてみたい。
エビデンスに言及するにあたり,エビデンスにかかわる研究の性質を特定する必要がある。
政治学者ストークス(Stokes, D.E.)によれば,研究の性格は,「真理探究」と「活用の考慮」といった2つの軸によって類型化される(図1)。その研究類型とは,
である1)。
いずれの研究類型もそれぞれ重要なわけであるが,EBEを考える際には,この3つのうち,パスツールのワクチン研究のような「活用に刺激された基礎研究」,いわゆる社会的活用を意図した研究に限定して取り上げる必要がある。このような研究は,活用が目的のため,有効性の提示が重要となり,その研究成果は明示的知識(形式知)として道具的に管理され,普及される性質をもつ。
社会的活用を意図した研究への需要は近年高まっている。その理由は,現代社会が知識社会と呼ばれることに関係する。知識社会とは,働く者が知識を所有し,その知識が最大の資源となる社会である。知識は知識社会では道具であり,また,知識経済注1)にあっては生産物である。
かつて,未来社会を予測した社会学者ベル(Bell, D.)によれば,高度産業社会を特徴づけるのは,もろもろの事実・アイデアを組織的に記述し,合理的判断と実験によって確認した結果による理論知であり,製造業からサービス経済への移行においては知識と技術こそが生産性を向上させ,経済を成長させる鍵であるとした2)。
ベルの未来社会の予測から時を経て,知識の生産は大きな変化を受けることになる。たとえば,大学・産業・国家の連携による知識の生産に関係する利害集団の拡大,国際競争,日常的問題解決の有効性や効率性の重視などにより,知識は,より道具的なものとしてとらえられるようになった。それに応じて科学に代表される学問の地位にも変化が生じ,知識の生産モードも変容する3)。
科学者であるギボンズら(Gibbons, M., et al.)は,大学などの学術機関で研究者により専門領域において生産される「従来の知識(モード1)」と,学際的に多様な組織と研究機関により応用や活用を目的として生産される,知識生産の全過程,意思決定過程や政策課題の設定にも社会的なアカウンタビリティーが求められる「新しい知識のモード(モード2)」を対比的に論じている4)。つまり,情報通信技術によって,ビッグデータの処理や迅速な情報伝達が可能になると,それまで知識を占有していた大学等以外でも,知識は生産,普及,活用される状況になる。そのため,よりいっそう多様で大量の情報の精選とその管理に目が向けられるようになった。
このような社会の変化の中で,エビデンスという言葉は,知識の有効活用という道具的目的をもって,まずは医療の世界に登場する。ここでは,最初に,医療から始まったエビデンスに対する研究者からの動きをみてみたい。
「エビデンスに基づく医療」(Evidence-based Medicine,以下EBM)とは,「研究で作られた最善のエビデンスを,臨床的知識・環境と,患者の価値観を統合して,目の前の患者のために使う」注2)という実践を求めようとするものである。
EBMを最初に唱道した医師で疫学者であるコクラン(Cochrane, A.L.)は,有効なものはすべて無料にすべきであると主張,かつ医療で有効なものを明らかにするために,ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trials,以下RCTs)で産出されたデータ結果を集め,それらをシステマティック・レビュー(Systematic Review:系統的レビュー,以下SR)注3)した結果,得られた「エビデンス」が重要であるとした。
EBMは,医療の中でも伝染病などの集団で罹患(りかん)する疾病や健康問題を対象とし,主に統計学を用いて分析する疫学の中で展開された。そのため,EBMでは,本質的には,厳格な実証主義により,「RCTs+SR」以外の方法論を排除する主張がなされる場合がある。このような厳密な条件統制下でのエビデンスとなる研究の計画や実施は現実には限られているため,「エビデンス」という言葉を柔軟にとらえ,広範囲の知識情報を網羅できるよう質のグレードを明示化し整理した「エビデンスの階層表」といったガイドラインが提示されている(表1)。
医療において,エビデンスとは,機械的に単純化した絶対的結論ではなく,医師個人の臨床的専門技能と,最善の利用可能な外部根拠を合わせた,個別の患者の医療判断のための知の集積とされている。EBMの背景には,臨床判断を実証的裏づけなく権威者の見解で行ってきたことへの反省と反発がある5)。また,EBMを現実に可能にしたのは,情報処理・伝達の技術革新による膨大な臨床文献を即座に検索できる巨大な書誌データベースの構築にあった6)。
つまり,インターネットなどによって知識が一般的に流通することが可能になる中で,質が保証された知識を社会で共有するための一つの形として,モード2の知識,そしてその裏づけとしてのエビデンスが重視され,実践や政策での活用が期待されるようになったのである。
このように一定水準の研究成果をデータとして集積し,有効な知識として活用するため普及しようとするEBMの動きは,1993年にコクラン共同計画(Cochrane Collaboration)注4)と呼ばれるEBMの世界的ネットワークの設立へとつながっていく。コクラン共同計画は,「RCTs+SR」によって質が保証された頑健なデータに基づく治療と予防に関する医療情報を管理し,誰もがアクセスできるよう共有し伝達しようとする知識マネジメントのネットワークである。社会科学においても,コクラン共同計画をモデルとして,教育,刑事司法,社会福祉の3領域から構成されるキャンベル共同計画(Campbell Collaboration)注5)が1999年にその活動を始める。
3.3 教育研究の有効性一方,エビデンスという言葉が教育研究者の間で注目されるようになったのは,1996年に,当時ケンブリッジ大学教授であったハーグリーブズ(Hargreaves, D.)が行った英国教員養成研修局(Teacher Training Agency: TTA)の年次講演会であった。この講演は,「教職は,研究に根ざした専門職ではない」という言葉から始まり,教育研究に多くの経費が割かれているにもかかわらず,学校教育の質の改善がみられないとの批判と,教育研究は教育専門職や教員の地位の向上に資するために,より効果的な役割を果たすべきという主張によって構成されていた7)。この講演は,EBEの重要性を訴えるものであり,英国の教育界に論争を呼び起こすものであった。
ハーグリーブズは,この時期,医療と教育を比較して,その共通点と相違点から,教育現場における知識マネジメントと伝播(でんぱ)についての課題も論じている。
たとえば,ハーグリーブズによれば,医療も教育も,患者や児童・生徒との知識量の差を根拠にその問題を診断し,解決策を推測し,対応する同様の知識システムを有している。具体的には,医師と教員はともに,診断の際,自分の所持する知識を総動員し,問題の所在を特定し,専門的に分類し,その分類によって専門的判断である治療行為/教育的働きかけを行う。そして,その結果を経験として再度知識システムへ組み入れる。このような診断,推測,治療/教育的行為という知識システムの流れにおいて,医師と教員は類似しているのであるが,両者の知識システムは細部では異なる。
たとえば,第1に,医師の場合は核となる知識ベースがあり,それに幅広い臨床経験が付加され新しい知識ベースが作られ更新されていく。それに対し教員の場合は,知識ベースに新しい経験が付与されると,その経験を理解するために従来の知識ベースを利用するにとどまる。
第2に,医師は患者個人を扱うが,教員はクラス全体を扱う。
第3に,医師は治療の根拠を生物医療科学に求めるが,教員は,子どもの対応を,直感や独創的発想で行い,その結果,個々の対応は教員個人のパーソナリティーに左右される。
第4に,医師の判断根拠は,専門家を特徴づける難解な知識ベースにあるが,教員は担当教科に関する知識はあるが,教授スキルは経験から獲得する。
第5に,知識産出の場は,医療では病院であり,実践者と研究者が一緒にいる場合が多いが,教育の場合は,現場である学校と研究を実施する大学との間に距離がある。
ハーグリーブズは,知識マネジメント・伝播の差異が結果として医師と教員の社会的ステータスの差を生み出していると結論づける。ここで,注目すべき点は,教育の診断システムにおいて専門用語が欠落していること,そして教員の知識ベースは経験に依存し,それが個人内にとどまり普遍的知識として普及・共有し難いという指摘である8)。
医療では,明確な専門用語が存在し,臨床経験に加え,エビデンスに基づく知識の産出による知識ベースへの新たな更新が生じる。それは専門用語により医師の間で共有可能であり,知識として普遍性を有する。しかし,共有可能な専門用語が欠落している教育分野では,知識の共有が難しい。教育研究の科学性が唱えられたのは,数値という共通言語により,知識を伝播する役割がEBEに期待されたということも一因かもしれない。
研究者からの動きに対して,政策立案者側にはまったく異なる観点からEBMやEBEへの需要があった。それは,大きくいえば,社会からの次のような4つの要求である。
このような社会からの要求に応えるものとして,エビデンスという言葉を,政策立案者が,政策を考える際に頻繁に用いるようになった9)。数字で表現されるエビデンスは,特に予算要求の裏づけとして重用され,EBMやEBEは,研究者による有効な知識のマネジメント・普及の枠を超え,政策といった新たな舞台においても注目されるようになっていく(図2)。
EBEが唱道されたこの頃,教育を取り巻く情勢に目を転じれば,先進諸国では,景気後退,グローバル経済競争の激化,失業率の高まりなどの状況において,高い生産性,付加価値,技術革新のための知識や熟練スキルをもつ労働力の育成,高熟練,高賃金の雇用創出が喫緊の政策課題となっていた10)。教育や職業訓練に対する教育投資の重要性は増しており,教育予算獲得のための説得力あるデータが求められるようになった。
EBEは,教育・訓練への教育予算の裏づけ(インプット指標),そして,費用対効果の視点からの政策評価(アウトプット指標)の2つの面で政策プロセスの文脈にかかわるようになる。研究者による「RCTs+SR」といった科学的データの取得は,教育現場では子どもを対象とする実験を行ううえで倫理的,方法的困難性があって難しい。そのため,実験的データによるEBEというよりは,英国や米国においては,学習到達度などの数値目標値が政策的に提示され,その達成率がエビデンスとして教育予算と結びつけられた。
また,教育予算獲得のためのデータとして多くの先進諸国で重用されたのは,経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development,以下OECD)による「生徒の学習到達度調査」(The Programme for International Student Assessment,以下PISA)注6)であった。国際比較による学力ランキングを巡って,「PISAショック」といった言葉が世論を騒がせ,PISAの結果は,各国・地域の教育政策や教育投資に大きな影響を及ぼしたのである。
OECDは,その名のとおり経済学の視点で政策提言を行う機関であり,教育政策についても,教育や職業訓練に対する教育投資が生産性や経済発展につながるといった人的資本論に立脚した主張がなされる。そのため,知識経済の時代といわれる中で,PISAやその後実施されることになる「国際成人力調査」(Programme for the international Assessment of Adult Competencies,以下PIAAC)の結果による国別のランキングが,経済生産性や国際競争力の予測代替指標として,教育投資の必要性を喚起し,予算要求時の説得あるデータの一つとして扱われるようになった。
4.3 研究の政策活用このように,EBEは,供給側の研究者と需要側の政策立案者の双方にかかわるものであり,図3は,そのプロトタイプである。しかし,厳密には,この二者の需給関係は必ずしも直線的な均衡状態にはなく,かつ二者の相互交流が円滑になされているわけではない。政策に研究が活用されるプロセスは複雑であり,公共サービスの決定をみれば,有効で最良で利用可能な頑健性あるエビデンスと考えられるものが採用されず,まったく異なる場合も多い11)。
つまり,このようなエビデンスという言葉を政策活用の場面で用いる場合,政治学者のウェイス(Weiss, C.H.)による研究活用モデルのうちの,政治的に特定の立場を支持したり反対したりするために用いられる「政治的モデル」,あるいは,研究の知見よりも研究が行われている事実だけが重要とされる「戦術的モデル」12),といった研究活用の目的が強調されることも多い。エビデンスは,「RCTs+SR」のような証拠能力によってではなく,何かをエビデンスと呼ぶことの政治的・レトリック的な効果によって威力を発揮する13)という指摘は,このような研究活用のある面を照射しているといえるかもしれない。
総じて,エビデンスにかかわる研究は,「活用に刺激された基礎研究」であり,実践や政策における活用を目的とするという点で知識の道具化,あるいは研究の功利主義的利用の一形態である。その背景には,情報技術の発展により,知識の生産,活用,普及が広く多様な場で可能となり,誰もが知識にアクセスできるようになったことがある。知識経済と呼ばれる社会の変化は,有用な知識の生産,活用,普及を巡って,学術界にも影響を及ぼす。EBEの動きはその一例である。
そもそも,教育研究におけるエビデンスの定義と質を巡る課題は当初からあった。たとえば,OECDは,「政策提言の基礎にエビデンスを置くべき」と主張するが,エビデンスの内容については,PISA調査などの大規模な一次調査,国別・テーマ別レビュー,比較事例研究,二次分析や統合的研究など多岐にわたるものを含んで議論している。前述の「エビデンスの階層表」(表1)を一緒くたにした内容である。実際,OECDでは,エビデンスとして何が重要か,そして最大限活用される場合の可能性についても内部で合意が取れていない14)。この合意が取れない主な理由は,研究者と,政策立案者や教員などの実践家との間に,研究成果に対する考え方が異なるからであろう。
研究者がエビデンスを考える場合,研究水準を高めるための手段として,知識支援を目的とした厳密な実証データを志向する。そこでは,RCTs+SRに代表される科学的客観性をもつ厳密な手法が支持される。それに対し,政策立案者,教員などの実践家は,特定の文脈で決定にいたる判断材料を求め,エビデンスを広義にとらえる傾向がある。このように,エビデンスを求める主体によって,エビデンスに対する定義の厳密さが異なり,エビデンスの定義を巡って混乱する原因をもたらしている15)。
また,EBMやEBEに限らず,知識のマネジメントが進めば,重要になるのは,実践現場,大学,研究所などの知識提供者と政策立案者などの知識活用者との間を介在し,知識を選別し普及する知識仲介を行う組織や機関(knowledge brokers)の役割と機能である。コクラン共同計画やキャンベル共同計画は,研究者側の発意による,このような知識仲介の役割や機能を担う世界的ネットワークであろう。このような知識仲介が十分になされない中では,研究活用は促進されない。
しかし,そのような中でも,エビデンスという言葉が象徴する知識経済下における知識や情報のマネジメント・活用への動きや組織化は,実は,エビデンスという言葉そのものを超えて,いっそう多義的に多様な形で,知識経済の中で展開されてきている注7)。「活用に刺激された基礎研究」の理論知は,エビデンスという言葉を内包しながら,情報通信技術の発展に伴い,さらに精緻に管理されて,社会の隅々に伝達・普及されていくことが予見される。
今後も,情報技術のさらなる発展は,知識生産の形態を変容させ,研究のありさまも変化させていくかもしれない。EBEとは,変化するこの時代の寵児(ちょうじ)として,教育研究・政策・実践の世界に出現したものといっても過言ではないであろう。
放送大学教授。専門は教育学(生涯学習論・教育社会学)。上智大学文学部卒業,筑波大学大学院 教育研究科修了,筑波大学大学院 図書館情報メディア研究科博士後期課程修了。博士(学術)。文部科学省・国立教育政策研究所 生涯学習政策研究部総括研究官を経て現職。