2017 年 60 巻 5 号 p. 345-349
コンピューター技術とその周辺の分野には,さまざまなジャーゴンが――バズ用語も――飛び交っている。それがつぎつぎと現れ,つぎつぎと消えていく。そのジャーゴンを追いかけてみたい(以下,ジャーゴンのたぐいを“××”のように示す)。
コンピューター分野には過去半世紀の間に4つの波が押し寄せてきたという1)。第1の波は“メインフレーム”で1964年に,第2の波は“パソコン”で1979年に,第3の波は“Web”で1993年に,第4の波は“クラウド・コンピューター”で2008年に,とある。まずは第1の波に乗ってみよう。
コンピューター業界にはかつて世代論があった。計算素子が真空管のものを“第1世代”,半導体素子のものを“第2世代”,集積回路になったものを“第3世代”と呼んだ。
第2世代の時代までに,IBMはコンピューター市場――当時の表現では“事務機器市場”――において圧倒的な位置を占めていた。世人はこれを指して“白雪姫と七人の小人たち”と呼んだ2)。“白雪姫”はIBM,“七人の小人たち”はスペリー・ランド(のちにユニバック),ハネウェル,バロース,NCR,GE,RCA,CDCを指していた。
IBMが市場を制覇したのは,“上位互換”あるいは“ファミリー・マシン”という“アーキテクチャー”――設計構想――を具体化したことにある。“上位互換”とはその製品群を「小型→中型→大型」と品ぞろえし,それぞれを同じ応用プログラムで動くようにすることであった。それまではユーザーはハードウェアを乗りかえるたびにプログラムを書き換えることを迫られたが,その面倒くささを解消した。IBMはこれを1401シリーズとして出荷した。
“上位互換”は,裏返せば,いったんIBMのユーザーになれば,そのユーザーはIBMに縛られてしまうことを意味した。これを“ソフトウェアによる拘束”と呼んだ。
いっぽう,小人たちはIBMの顧客を自分の顧客として取り込むために,“PCM(Plug Compatible Machine)”を出荷した。これはIBM製品にプラグで接続できる非IBM系の機器を指した。“IBM互換”の製品は周辺機器にはじまり,最終的には演算装置にまで及んだ。IBM互換の演算装置を出荷したハネウェルはその機器に“解放者(Liberator)”という商品名を付けた。だが1970年代になると,“小人たち”は,その社名の頭文字を並べて“BUNCH”と呼ばれるようになる。GEとRCAが脱落したためであった。
“グロッシュの法則”は「システムの能力は価格の2乗に比例する」という経験則だった3)。したがってユーザーはそのジョブを分散処理ではなく集中処理でこなすように誘導された。そのグロッシュの法則とは1965年に発表された経験則であったが,その傾向はすでに1940年代後半にはじまり,ほぼ30年間も続いた。実はグロッシュはIBMの技術者であり,IBMがそのような価格政策をとっていたにすぎなかった。
ハードウェアは高価であった。ユーザーはその性能を評価するために,“MIPS”,“ベンチマーク”などというジャーゴンに翻弄された4)。“MIPS”は“Million Instructions Per Second”の略称であったが,“Meaningless Indication of Processor Speed”だという減らず口もあった。その演算能力のすべてをユーザーが利用できるか否かは不明であったから。
“ベンチマーク”はコンピューターの性能評価用の標準プログラムを指した。ただし,コンピューター業界には「3つの嘘がある――ただの嘘,真っ赤な嘘,そしてベンチマークだ」というつぶやきもあった。そもそも“ベンチマーク”は測量分野におけるジャーゴンであった。
“ムーアの法則”は,それが発表された1965年以降,21世紀にいたるまで続いている5)。これは「集積回路に搭載される素子数が2年ごとに倍増する」という経験則――あるいは予測――である。G.ムーアはフェアチャイルドの技術者を経て,1968年インテルの創業者の一人になった。
この経験則があったので,ハードウェアの高性能化,低価格化そして小型化は長期にわたり続いている6)。たとえば演算10万回あたりの平均コストは1950~1980年の間に1万分の1になっている。これを“ダウンサイジング”と呼ぶ。後年,「ハードウェアはシステムの気楽な部分,ソフトウェアはシステムの厄介な部分」といわれたりしたが7),これはハードウェアがムーアの法則に乗ったからである。実は,ムーアの法則はいずれ終焉(しゅうえん)するだろうという懸念もあるようだ。量子力学の領域に入るので8)。
話はそれるが,第1世代の時代には“フォン=ノイマンの法則”があった。それは「どんなコンピューターであっても,その完成予定時期はつねに半年先になっている」という経験則だった。“第2世代”の時代,それはすでに忘れられていた。
1964年,IBMは“システム360”を発表した。この製品名は「360度全方位にわたり可としてならざるなし」という意味を示していた9),10)。ここから“汎用機”という言葉も生まれた。それまでは技術計算用,事務計算用の専用機しかなかった。「“汎用機”ではない,“無目的機”だ」というヤジもあったが。IBMはここでも“上位互換”という概念を実現した。
IBMは“システム360”を“第3世代”のコンピューターと呼んだ。コンピューターの世代論(前出)は実はこのときに生まれた。これ以降,“第X世代”という言い方がコンピューターの売り文句になる。IBMは3.5世代,そして筆者の記憶では3.75世代,と称する製品を発表したが,ついに第4世代の製品を市場に出荷することはなかった(時間が飛んで1980年代初頭,通産省は“第5世代コンピューター”というジャーゴンを流行らせたが,それは実現しなかった)。
1960年代前半,日本のユーザーはコンピューターという代わりに“IBM”と呼んでいた。“IBM係”という職掌を設けた企業もあった。
“IBM係”は何をしたのか。それは“情報処理(DP: Data Processing)”であった。この訳語を定めたのは情報処理学会であったが,この訳語には反対論もあったらしい。「情報はスパイ活動を,また処理は汚物処理を連想させる」と11)。
情報処理の中身は何であったか。多くの企業は“PCS(Punch Card System)”のコンピューター化として受け取った。それは事務作業の“機械化”と“標準化”であり,双方を併せて“システム管理”と称した12)。“事務工場”“ビジネス・オートメーション”と呼ぶ人もいた。“EDP”(Electronic DP)という和製英語もできた。
1967年,日本の大手企業は米国に調査団を送った。コンピューターの先進的な利用を学ぶためであった。その後,“MIS(Management Information System)”というジャーゴンが多くの企業に受け入れられた。
だが,ただちに落胆の声が生じた。実は“MIS”ではなく“Myth(神話)”あるいは“Mirage(蜃気楼(しんきろう))”ではなかったか,と。“Myth”と言ったのはIBM会長であった。当時,日本における先進的なユーザーであった南沢宣郎は「自分たちは“IBMノイローゼ”に罹(かか)った」と語っている13)。
ソフトウェア開発の分野では“人月(にんげつ)”というジャーゴンが頻出する。ここで“人”は開発要員数を,“月”は開発期間を示す。双方ともソフトウェアを開発するために不可欠な資源である。したがって,“人月”はソフトウェア開発のコストを示す単位となった。
システム360のOSの開発責任者であったF.P.ブルックスJr. はソフトウェア開発において,“人”を増やせば“月”を短縮できるという迷信があると指摘し,これを指して“人月の神話”といった14)。この神話は21世紀にも残っているようだ。
問題は「人」にあった。ソフトウェアは人の脳には複雑にすぎ,人の眼には単調にすぎたので,そのなかには不可避的に不具合が紛れ込んだ。これを“バグ”と呼んだ15)。1960年代に発行された米国規格協会(American National Standards Institute: ANSI)の文書には“バグ:誤りまたは誤動作”とある。また“ABEND”は当時のプログラマーの口癖であったが,その意味は日本IBMの『情報処理用語』によると,“ABnormal END of task”とある16)。バグはソフトウェアの生産性と信頼性を妨げる主要な要因となった。
バグはその後の技術発展にも関わらず,現在でも,効果的な制御手段を見つけることができないでいる。情報処理学会は2017年に「LINE公式スタンプ」を発表したが,そのなかに“バグだああ”というスタンプもある17)。
人手に頼る以上,ソフトウェア生産においてはムーアの法則のような劇的な生産性向上を求めることはできない。したがって,プログラマーの数が需要に追い付かず,“ソフトウェア危機”が生じるだろう,という予測が生まれた18)(人手が機械の進歩に追い付かないだろうという見通しは,それまでも電話交換手,タイピストについてあった)。
結果としてシステム全体に対するソフトウェアのコストは「20%(1955年)→70%(1970年)→90%(1985年)」4)と増大した。
対応策としてソフトウェア生産の工学化が図られた。ここに“ソフトウェア工学”というジャーゴンが生まれた。これはNATO科学委員会の造語であった。ただし「ソフトウェア工学の中身は精神訓話とケーススタディーのみ」という辛口の批評もあった19)。
ここでひと言。“ソフトウェア”は総称だが,“プログラム”は個別的かつ具体的な呼称,だから後者には複数形があるという20)。もうひと言。ソフトウェアには日本語はないのか。初期には“紙物”,“やわ物”といった提案もあったらしい21)。“利用技術”という訳語を示したのは当時の通産省であった。なお,ハードウェアには昔から“金物”という訳語があった。
当時,IBMはそのロゴが紺色であったために“ビッグ・ブルー”と呼ばれていた。紺色の制服を着たIBMのセールスマンは市場を制圧した。IBMの製品名が普通名詞になることも珍しくはなかった。たとえば“OS(Operating System)”,“FORTRAN(FORmula TRANslation)”など。
IBMは“Inferior But Marketable”の略称だよと皮肉られるほど市場操作が巧みであった。結果として“白雪姫”になった。いや“It's Better Manually”にすぎないよ,という犬の遠吠えもあったが。
IBMは反トラスト法侵害の訴えを数多く抱えていた。司法省もIBMの市場における行動を監視していた。対応のために,IBMは“法律家の友”と呼ばれるほど法律家を雇った。そのIBMは2つの方針を示した。その第一は“アンバンドリング”の実施,その第二は“IBM互換機”の許容であった。
1971年,IBMはその製品のサービス価格を“アンバンドリング”した。アンバンドリングとはハードウェアとソフトウェアとに別べつの値札を付けることを意味した。日本IBMはこの方針を“価格分離”と称した。それ以前はハードウェアとソフトウェアとは一体のものとしてレンタルされていた。レンタルであれば,ユーザーは分解も改造も転売もできない。価格分離とともに,IBMは客先に対して“CE(Customer Engineer)”と“SE(System Engineer)”という担当を設けた。
当時の日本のユーザーは巨大な汎用機を見慣れていたために,形のないソフトウェアに対価を支払うなどという意識はなかった。
ただしアンバンドリングはコンピューター業界の構造を変えた。またもや,市場には多くの“IBM互換”製品が出現した。
IBM互換は,ついにハードウェアはすべて非IBM製,ソフトウェアのみIBM製というまでに進行した。その代表格がアムダール社――元IBM技術者ジーン・アムダールが創業――の製品であり,富士通・日立連合によるMシリーズの製品であった22)。
1980年代になると,互換ソフトウェアの知的財産権について,IBMは日立,富士通ととげとげしい紛争を起こす。このときに“おとり捜査”,そして“クリーン・ルーム”23)というバズ用語が生まれた。ソフトウェアのコピーについて,前者はその拒否を,後者はその許容を示す表現であった。
1983年,『TIME』の1月3日号はその表紙に“本年の機械”と題してパーソナル・コンピューターを掲げた注1),24)。そこには放心している人の石こう像も写っており,「コンピューターが入り込んでくる」というキャプションも付けられていた。本来ならばここには「本年の人」が示されるはずであった。この表紙は,コンピューターは誰でも購入できるまでに安価かつ小型になり,誰にも役立つように高性能になった,ということを報じるものであった。
コンピューター業界の主役は,すでにミニコンそしてパソコンへと移っていた。第2の波が寄せてきた。この頃に,在来の大型汎用機を指して,“メインフレーム”という呼称が生まれた。これはムーアの法則とこれにともなうダウンサイジングが,とどまることなく進行していることを示していた。
1990年代に入ると,ダウンサイジングの流れとともに,“オープン化”の風潮が広がった。それはシステム仕様の公開と共有とをよしとするものであった。オープン化を声援する『伽藍(がらん)とバザール』という本も出版される25)。ちなみに“伽藍(cathedral)”はメインフレームの開発方式,“バザール”はソフトウェアの共同開発をよしとする集団の暗喩であった。
あれやこれやで,メインフレームは“レガシー”と蔑視されるようになった。レガシーの意味はハードウェアについては,その予備部品の補給が絶望的なことを,ソフトウェアについては,それ自体は信頼こそできるが旧式であることを,それぞれ示していた。
メインフレームは世人の関心の対象からは外れたが,しぶとく残った。かつてのMISは,いったんは“OA(Office Automation)”の流れに沈みかけたが,“SIS(Strategic Information System)”,“BSR(Business System Reengineering)”などの新しい方法論を吸収しつつ生き延びた26)。
メインフレームは無傷のまま“西暦2000年問題”を乗り切った27)。21世紀になり,日本では政府が冷淡になったこともあり28),耳にすることもまれになった。だが金融分野では2010年代になっても活動しているようだ29)。
付け足しをひとつ。IBMは21世紀になると,その姿を大幅に変えた。ハードウェア部門はすべて手放した。IBMにとってメインフレームはレガシーになった。代わってIBMの代表的なサービスは“人工知能”となった。想起すれば,IBMのモットーは“THINK”であった。