日本考古学
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墓標からみた江戸時代の人口変動
関根 達人澁谷 悠子
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2007 年 14 巻 24 号 p. 21-39

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抄録

これまで江戸時代の人口は,主として人別帳などの文書史料に基づき研究されてきた。しかし人別帳や宗門改帳は残存する数が限られており,過去帳は一般に閲覧が困難である。そうした点に鑑み,本論では近世墓標研究の方向性の一つとして歴史人口学を指向し,その可能性を追求した。
弘前市新寺町寺院街の墓標を調査・検討した結果,墓標は一般に,ある人物の没後17回忌までの間に建てられ,その際には既に亡くなっている人の分も併せて戒名などを刻むことがわかった。一方,これまで墓標の造立年に代わるものとして用いられてきた最新年号に関しては,4基に1基程度,造立年から20年以上の時間差があるものが存在することも判明した。
津軽地方の墓標と過去帳に関して,10年単位と1年単位で,被供養者数の増減を検討した結果,墓標と過去帳の連動性が確かめられた。さらに,墓標に刻まれた被供養者数の増加時期には,「生者の記録」である宗門人別帳で総戸数・総人数が減少・横ばいになっていることから,負の相関関係が確認できた。以上のことから,歴史人口資料としての近世墓標の有効性を証明できた。また,檀那寺をもつ人が死後墓標に名を刻まれる割合は,弘前城下町とその周辺において,18世紀代には2ないし3人に1人ほどであり,1830年代頃には当地域の檀那寺を有する人の大部分が墓標を建てるようになったと推察した。
北海道・九州・四国地方を除く各地の墓標調査事例について,墓標数の増減を10年単位で検討したところ,いくつかのパターンが抽出された。奈良や京都などの畿内では,18世紀前半代には早くも墓標数が急増している。それに対し東日本では,18世紀末から19世紀代に墓標造立数がピークを迎える。東日本の中でも東北地方と関東・北陸・東海地方とでは,やや異なるパターンを示すが,この差異は基本的に墓標が普及する時期のズレと飢饉による人口変動の違いに起因すると考えられる。今後,九州・四国・中国地方の事例を追加検討することにより,墓標が普及する過程や,ある程度墓標が普及した後の飢饉や疫病による人的被害をも明らかにできるだろう。

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