2017 年 55 巻 p. 1-13
この十数年あまり西アフリカでは、イスラーム・マグレブのアル=カーイダ(Al-Qaida in the Islamic Maghreb: AQIM)をはじめとするイスラーム主義武装勢力の活発な活動が見られる。これらの組織の活動は、サハラ・サヘル地帯における治安・安全保障上の問題を提起するにとどまらない。そこでは、イスラーム主義武装勢力が、現代西アフリカの政治的・社会的変動に照らしていかなる意味を持つのかという問題も提起されているのである。そこで本稿は、こういった歴史的評価に関わる問題を掘り下げるための基礎的作業として、AQIMとその系列組織に焦点を合わせ、西アフリカへの進出の経緯、マリ北部への定着の様子、マリ北部紛争への関与、その後の動向を検討したい。その際、「グローバルなテロ組織」といった観点からの研究が陥りがちな視点の偏りを避けるため、これらのイスラーム主義武装勢力が社会とどのような関係を取り結んでいたかにとくに注目し、検討を行う。
西アフリカには多くのイスラーム教徒が居住している。西アフリカ15カ国のうち、イスラーム教徒が人口の半数以上を占める国は9カ国にのぼり、残る6カ国でもイスラーム教徒は人口の16~40%を占める[Mandaville 2007, Map 1a]。西アフリカは、地球上に広がるイスラーム世界の一部をなしているのである。ただ同時に、西アフリカは、主に中東諸国で見られてきたイスラーム政治の動き――現代におけるイスラーム復興を目指しての政治への進出の動き[小杉 2014, v]――があまり目立ってこなかった地域でもある。独立後の西アフリカ諸国では、イスラーム政治の動きはローカルなレベルや限られた社会階層でのものにとどまり、政治体制を揺るがすような大きなうねりは、わずかな例外を除き見られなかった。研究者のあいだでも、サハラ以南アフリカ全域はもとより西アフリカに関しても、イスラーム政治という観点からの研究はあまりなされてこなかったと指摘されている[Gomez-Perez 2005, 7]。
このような背景に照らして注目されるのが、「イスラーム・マグレブのアル=カーイダ」(Al-Qaida in the Islamic Maghreb: AQIM)である。このイスラーム主義武装勢力は、西アフリカではなく北アフリカのアルジェリアで創設され、2000年代の初め頃からサハラ・サヘル地帯――サハラ砂漠と砂漠の南縁に沿った半乾燥地帯であるサヘル地帯の総称――で誘拐や襲撃事件などを起こしてきたが、2012年に西アフリカのマリでの武装蜂起に関与し、一時、マリ北部一帯を実効支配下に置いたことで、西アフリカ政治に関わる組織として注目を集めた。その後、AQIMの活動は、独立以来イスラーム主義武装勢力の活動を経験してこなかったブルキナファソとコートジボワールにも拡大した。また、AQIMと協力して活動する系列組織も西アフリカに複数誕生してきた。
AQIMと系列組織の動きに対しては、2000年代前半からアメリカが西アフリカ諸国に封じ込めのための軍事的支援を行ってきたほか、2013年からはフランスがマリ北部への大規模な軍事介入を行っている。AQIM等の活動は、西アフリカの、とりわけサハラ・サヘル地帯を舞台とした「対テロ戦争」の焦点となってきたのである。だが、AQIM等の動きが提起するのは、こういった治安・安全保障をめぐる問題にとどまらない。冒頭で示した背景に照らせば、AQIM等の動きをめぐっては、西アフリカに本格的なイスラーム政治の時代が到来するさきがけなのか、それとも、単なる外来の組織による一過性の出来事に過ぎないのか、という問いが浮上してこよう。つまり、イスラーム主義武装勢力の近年の活動が、現代西アフリカの政治的社会的変動に照らしていかなる意味を持つのかという観点からの検討が求められているのである。
そこで本稿では、このような歴史的評価に関わる問いを掘り下げるための基礎的作業として、AQIMとその系列組織が西アフリカでどのような活動を行ってきたかを検討したい。ここでは、時代を追って、AQIMの西アフリカへの進出(第1節)、マリ北部への定着(第2節)、マリ北部紛争(2012~13年)への関与(第3節)、その後の動向(第4節)を順に取りあげる。なお、イスラーム主義武装勢力の研究を行ううえでは、「イスラーム原理主義組織」「国際テロ組織」といった安直なラベリングが実像の理解を大きく阻害すると指摘されている[末近2013, 3]。また、「テロ組織」という観点からの研究には、「テロ」の問題が生じてくる現地での社会的・政治的な背景についての認識が欠けがちだとの批判がある[Solomon 2015]。さらに、AQIMに向けられる国際的な関心には、グローバルなイスラーム主義武装勢力の脅威の過度な強調が見られるとの批判もある[Dowd and Raleigh 2013]。本稿では、これらの注意点を踏まえ、イスラーム主義武装勢力と西アフリカ社会の関係にとくに注目し、検討する(第5~6節)こととしたい。
なお、西アフリカのイスラーム主義武装勢力としては、ナイジェリア北部に拠点を置く「ボコ・ハラム」(Boko Haram)もよく知られているが[島田2014]、この組織はAQIMとは別個に活動を行っているため、本稿では取りあげない1。
AQIMはアルジェリアでのイスラーム主義の流れのなかから誕生した組織である[渡邊 2012]。アルジェリアでは、1962年の独立以来、「民族解放戦線」(Front de libération nationale: FLN)による実質的な一党支配が続いてきたが、1990年に実施された独立後初の複数政党制選挙でイスラーム政党「イスラーム救済戦線」(Front islamique du salut: FIS)が急激に勢力を伸張させた。これに危機感を持った軍が政権を掌握し、イスラーム主義組織に対する厳しい弾圧を開始したことで、軍とイスラーム主義組織は内戦状態に陥った。
内戦の過程で、一般市民への無差別な襲撃事件を繰り返す「武装イスラーム集団」(Groupe islamique armé: GIA)という組織が登場したが、市民を標的とすることに異論を唱える者たちがGIAを離脱し、「宣教と戦闘のためのサラフィー主義集団」(Groupe salafiste pour la prédication et le combat: GSPC)という別組織を1998年9月に発足させた。GSPCは2006年9月にウサーマ・ビン・ラーディンへの忠誠を表明し、2007年1月には、「アル=カーイダ」の名を冠したAQIMという組織名を正式に名乗るに至った。渡邊によれば、AQIMのイデオロギーは、「国家エリートとそれを支配するフランス」と「敬虔な民衆」を対置させる、内戦以前からのアルジェリアのイスラーム主義の傾向を土台とし、これを、アル=カーイダの国際ジハード路線に沿って、「マグレブ諸政権とそれを支援する諸外国」と「マグレブの民衆」という構図に拡大させたものである[渡邊 2012, 10-11]。
この組織が、アルジェリアと国境を接するモーリタニア、マリ、ニジェールのサハラ・サヘル地帯に進出するようになったのは、ムフタル・ベルムフタール(Mokhtar Belmokhtar)という幹部の存在が大きい2。ベルムフタールはサハラ砂漠を越える密輸ネットワークと深い関係を持ち、GSPC/AQIMはこのネットワークを通して武器や活動資金を調達するようになった。さらにGSPC/AQIMは2003年以降に、サハラ・サヘル地帯で誘拐や襲撃事件を相次いで実行した(事件の一覧は渡邊[2012]を参照)。GSPC/AQIMが関与したとされる誘拐は、2003年から2011年までに12件が報告されており、60人あまりが被害に遭い、殺害された者もいる[Larémont 2011, 253-254]。同時期にGSPC/AQIMに支払われた身代金は1億5000万ユーロ(約20億3250万円)にのぼるとの指摘もある3。誘拐はGSPC/AQIMにとって重要な資金調達活動であるだけでなく、主に欧米人を標的としていた点で、「マグレブ諸政権とそれを支援する諸外国」への攻撃というイデオロギーに根ざした活動としても解釈できるものである。この時期のGSPC/AQIMは、組織内の主導権争いの結果として、活動方針がアルジェリア国内中心からより「グローバル」な志向へと変化しており[Filiu 2009, 220-222]4、サハラ・サヘル地帯での活動はこの変化が背景のひとつにある。
「対テロ戦争」を掲げたアメリカは、GSPC/AQIMのサハラ・サヘル地帯への進出を念頭に置き、2000年代前半以降、サヘル諸国へ「対テロ」活動能力の強化と「テロ組織」の拠点構築阻止を目的とする支援を続けてきた。対象国は9カ国にまで拡大し、予算も一時期5億ドルまで増額された[Harmon 2010, 22-23]5。この動きは、GSPC/AQIMが「対テロ戦争」上の観点から対処が必要な脅威として認識されたことを物語っている。
とはいえ、アメリカのこの取り組みは、GSPC/AQIMが現実に及ぼしうる国際的な脅威とかけ離れた誇大なものだったとの指摘もある[Harmon 2010, 23]。実際、同時期のGSPC/AQIMは退潮傾向にあったといわれる。アルジェリアでは2005年9月に、内戦を清算する試みの一環として、国民投票を経て「国民和解憲章」が成立し、イスラーム主義武装勢力に無罪放免を約束して投降を呼びかける動きが大々的に起こっていた。自らも投降したGSPC創設者がかつての同志たちに呼びかけを行った結果、2006年夏までに数百人のメンバーが組織を離脱した[Harmon 2014, 63; Filiu 2009, 220-222]。この出来事は、GSPC/AQIMの武装闘争路線が行き詰まりを迎えていたことを示しており、サハラ・サヘル地帯への進出についても、アルジェリアの国内情勢の変化にともない、辺境地帯に逃げ場を求めたとの側面が認められよう[Harmon 2014, 62-63]。
では、GSPC/AQIMは進出先の社会とのあいだにどのような関係を築いたのだろうか。GSPC/AQIMのサハラ・サヘル地帯での拠点は、マリの領土の最北に位置する、アルジェリアと国境を接するキダル(Kidal)地域に築かれた。1990年代後半から同地域に進出したGSPC/AQIMは、ビジネス上の関係、脅迫、家族関係などを通して地元の人びとと関係を確立した[Harmon 2014, 179]。ここでいうビジネスとは主に密輸であり、タバコ、ガソリン、生活物資などから麻薬に至るまでの物品が扱われたほか、密出入国者の移送も行われた。これらの活動は、GSPC/AQIMが自ら従事するよりは、地元住民が行うものへの課税(護衛料の徴収)が大半だったとされる。家族関係に関しては、ベルムフタールが4人の妻を娶り、これを通してマリ北部のアラブ、トゥアレグのコミュニティと結びついたことが知られている[Black 2009, 10; Larémont 2011, 249; Harmon 2014, 184]。
では、GSPC/AQIMとマリ北部社会の関係において、イスラーム主義はどのような要素として作用していただろうか。マリは北部の人びとも含めイスラーム教徒が国民の大半を占める国だが、イスラーム主義武装勢力の活動はもとより、イスラーム政治の動きそのものへの関心が低いと一般にいわれる。マリ北部はトゥアレグ、アラブ、ソンガイ、フラニなどからなる多民族社会であり、そこでGSPC/AQIMはとくにトゥアレグとアラブの人びととの関係が密だとされるが、これらの人びとのあいだでも過激なイスラーム主義への共感は低かったとの指摘がある[Boilley 2012]。また、マリ北部のイスラームの宗教的権威は穏健な立場を代表しており、ジハードを呼びかける者たちを批判してきたという[Lecocq et al. 2013, 352]。これらの指摘からは、GSPC/AQIMとマリ北部社会の関係において、イスラーム主義への同調に基づく結びつきは必ずしも大きな部分を占めてきたわけではなかったとの観点を導くことができる。
とはいえ、この観点とは矛盾する事象も確認されている。次節で見るとおり、マリ北部紛争には、マリ北部出身者が加わったイスラーム主義武装勢力が関与した。具体的には、イヤド・アグ・ガリ(Iyad Ag Ghali)というトゥアレグ人名士が、AQIM傘下の武装集団から兵士を雇い入れて設立したアンサール・ディーン(Ansar Dine: AD)という組織[Harmon 2014, 179-180]と、AQIMの元幹部によって創設され、アラブ系マリ人が軍事司令官を務めていた西アフリカ統一聖戦運動(Mouvement pour l'unicité et le jihad en Afrique de l'Ouest: MUJAO)6である。両組織はともに、成立の経緯とAQIMとの協調行動からしてまさしくAQIMの系列組織と呼べる存在であった。この事象を重視するならば、GSPC/AQIMがマリ北部でイスラーム主義に基づく組織化に成功し、それを可能にするだけの関係をマリ北部社会とのあいだにも確立していたという観点が成り立つ。
これら2つの観点のどちらが妥当かは、イスラーム主義武装勢力の近年の活動が現代西アフリカの政治的・社会的変動に照らしていかなる意味を持つのかという、冒頭で掲げた問いに関わる重要な論点である。この論点を念頭に置きながら、次にマリ北部紛争とその後の動向を検討していくことにしたい。
AQIMは、2012年に始まったマリ北部での武装蜂起に系列組織とともに関与し、一時、北部一帯を実効支配するに至った。その経過は次のとおりである。このときのマリ北部の武装蜂起は、「アザワド解放全国運動」(Mouvement national de libération de l’Azawad: MNLA)を名乗る組織が2012年1月に挙兵したことが発端である。MNLAは、マリ北部社会を構成する主要民族のひとつであるトゥアレグの一部――とりわけリビアのカダフィー政権崩壊にともない帰国した軍人たち――が結成した反乱軍で、その目的は、辺境地として社会経済的な停滞が続く北部の開発と自立を求めて、マリ政府に圧力をかけることにあった。マリ北部でのトゥアレグ勢力による武装蜂起は独立以来このときで4回目であり、それまでと同様、宗教的な要求を含まない世俗主義の運動として起こされたのだが、このときはそれまでになかったこととして、イスラーム主義武装勢力がMNLAに協力するかたちで軍事行動に加わった。それがAQIM、AD、MUJAOである。
これらの勢力が北部の街を次々に攻略する一方、マリ政府は、北部に配備されていた政府軍兵士の大半が反乱側に寝返ったか、戦闘を忌避して戦線を離脱したことにより、応戦できなかった。反乱側は2012年4月までに北部の最重要都市であるトンブクトゥ(Tombouktou)とガオ(Gao)を占領し、MNLAはマリ北部の「独立」を宣言した。しかし、その後、占領地でのイスラーム法(シャリーア)の施行を求めるイスラーム主義武装勢力側とこれに反対するMNLAが対立し、武力衝突へと発展した。MNLAはこれに敗北し、2012年6月に拠点都市から追われた。このときから、2013年1月にマリ政府の要請を受けたフランスが軍事介入するまでのあいだ、マリ北部はAQIMと系列組織の実効支配下に置かれた。なお、この時期にAQIMの指導者であるアブデルマレク・ドルークデル(Abdelmalek Droukdel)が10カ月にわたりトンブクトゥに[Harmon 2014, 195]、またベルムフタールがガオにそれぞれ滞在するなど、AQIM幹部がマリ北部に直接乗り込んできていた。
以上の経過を整理すると、AQIMと系列組織は彼らだけで北部支配を実現できたわけではなく、世俗主義の武装勢力(MNLA)との同盟のもとに北部支配を実現したのち、同盟相手を放逐して主導権を握った。AQIMらが、高い軍事力を備えていたとされるMNLAを放逐できた理由としては、AQIMらの資金力と密輸ネットワークからの支持が推察される7。また、MNLAは、前述のとおりマリ北部社会の一部のみにしか基盤を持たない組織であったことも軍事的敗北の背景と考えられる。
では、この数ヵ月間にわたるマリ北部支配のあいだ、AQIMと系列組織は社会とのあいだにどのような関係を取り結んだのだろうか。武装蜂起にともなう公共サービスの停止と経済活動の停滞に加え、都市ではイスラーム法の施行によって、苛酷な刑罰(手足の切断や石打ちなど)が科される事例が頻発した。このような状況を避けるためマリ北部からは40万人もの国内避難民が流出した[Lecocq et al. 2013, 350]。軍事的抵抗(MNLAやソンガイの民兵組織によるもの)や異議申し立ての動き(イスラーム女性による抗議デモ)が見られたものの、AQIMらを放逐するには至らなかった。また、MUJAOについては、「8割方、密輸業者、商人、金目当ての者からなっていた」との指摘がある8。この指摘は、AQIMの系列組織の支配下で、密輸業者などの活動が活発に行われたことを示唆する。
このように、イスラーム主義武装勢力による統治を社会が総じて「歓迎」しなかったことを示す情報が多く残されている。これらの情報による限り、この時期のAQIMらがマリ北部社会とのあいだに築いた関係とは、自らの軍事的優位のもとで、住民生活の保障はせず、従来から利害関係にあった密輸業者を優遇するものであったと整理できるだろう。この整理は、前節で挙げた2つの観点――GSPC/AQIMとマリ北部社会の関係においてイスラーム主義がさほど重要でなかったかと見るか、強く作用していたと見るか――のうち、前者の観点と整合的なものといえる。
ただし、「歓迎」が皆無であったわけではない。AQIMの系列組織がマリ中部のコンナ(Konna)という街を2013年1月に占領した際には、あるマリ人のイスラーム聖職者が攻撃の手引きをし、占領後にこの街の「スルタン」を自称した[Zenn 2015b, 4]。アマドゥ・クッファ(Hamadou Kouffa)という名のこのイスラーム聖職者は、さらにその後、「マーシナ解放戦線」(Front de libération du Macina: FLM)というイスラーム主義武装勢力を組織している。この事象は、過激なイスラーム主義に共感する人びとがマリにたしかに存在していたことを示すと同時に、武装勢力の進出が、このような人物を具体的な行動に駆り立てたことも示している。
マリ社会に過激なイスラーム主義に同調する人びとが存在していたということに関連して、AQIMらの占領期に見られた、もうひとつの事象に触れておきたい。それは占領地でのイスラーム法の施行に関してである。イスラーム法の施行に関しては、AQIMの指導者ドルークデルが、「住民を刺激せず、シャリーアを性急に適用しないように」との司令を2012年5月に出したとの報告がある[Touchard, Ahmed et Ouazani 2012; Harmon 2014, 195]。しかし、占領地で系列組織によってイスラーム法が施行され、それに基づく苛酷な刑罰が行われたことは前述のとおりである。系列組織のこの行動は、これらの組織を主導したマリ人らが、イスラーム主義についてAQIM本体とは異なる考え方を持っていたことを示唆しており、前述の2つの観点の妥当性を検討するうえでも注目される。この点については、次節で近年の動きについて整理したのち、第5、6節で改めて検討したい。
本節では、フランスの軍事介入から最近に至る状況をおおづかみで整理しておきたい。2013年1月11日に、フランスはマリの暫定大統領から直接の要請を受けたことを公にし、マリ北部へ軍事介入した。フランス軍は空爆とその後の地上部隊の展開を実施し、マリ軍と共同で北部の拠点を早期のうちに奪還した。その後マリ北部には、西アフリカ諸国とチャドの部隊が展開したのち、国連PKOも派遣され、多国間の枠組みのもとで治安維持を図る体制が確立された9。フランス軍部隊の活動は現在も継続中であり、マリ軍と共同での武装勢力の掃討作戦が続けられてきている。
マリ北部への国際的な関与が強まるなかで、ベルムフタールがAQIMを離脱(フランスの軍事介入直前の2012年12月)し、サハラ・サヘル地帯でのもうひとりの重要幹部だったアブー・ゼイド(Abou Zeid)が死亡したため、AQIMのこの地域での存在感はいったん低下した。だが、活動が完全に停止したわけではなかった。AQIM離脱後にベルムフタールは「血盟団」(Les Signataires par le sang)という組織を結成し、アルジェリア南部10とニジェールで大規模な襲撃事件を実行した。血盟団は2013年8月にMUJAOと同盟し、「アル=ムラービトゥーン」(Al-Mourabitoune)という新組織を形成した11。この新組織は、「ナイル川から大西洋までのムスリムの同盟を実現する」ため、「イスラームの計画に反するすべての非宗教的勢力に対抗しており、とりわけフランスの利権をこの地域と全世界における標的とする」ことを掲げており、アル=カーイダとターリバーンの指導者から思想的な着想を得ているとされる[Roger 2013]。ベルムフタールがAQIM離脱後もアル=カーイダとの関係を意識していることが伺える。
2015年以降、マリ北部と深い関係を持つイスラーム主義武装勢力の活動は新たな局面を迎えている。まず、これまでは辺境地であるサハラ・サヘル地帯に限定されてきた襲撃事件が、マリの首都バマコで実行されたほか(2015年3月のナイトクラブ襲撃ならびに2015年11月の高級ホテル襲撃)、近隣諸国にも拡大した(2016年1月のブルキナファソの首都ワガドゥグでの高級ホテル襲撃、2016年3月のコートジボワールの海岸リゾート地の襲撃)。また、いくつかの襲撃事件はアル=ムラービトゥーンとAQIMの共同でのものだとされ、両組織の急速な接近が伺える12。さらに、マリでも、引き続き活動しているADに加え、前述のとおりFLMが2015年から活動を始めている。
これらAQIMと系列組織による2015年以降の「再興」ともいえる動きは、イスラーム国ならびにボコ・ハラムとの競合という観点から、また、2015年11月のパリでの同時襲撃事件で見られたような「ソフト・ターゲット」を標的とした戦術の導入という観点から解釈が可能なものである。社会との関係の面では、AQIMと系列組織がマリ以外の国々に進出したとしても、新たにイスラーム主義の活動を経験した国々(ブルキナファソとコートジボワール)でも、マリと同様、過激なイスラーム主義に同調する意識が人びとのあいだで低いのが特徴であるため、あまり深くは定着していないとの見方が成り立つだろう。
とはいえ、マリでのFLMの誕生が示唆するように、過激なイスラーム主義に立脚した武装行動を起こそうとする人びとが一定程度存在することは留意すべき点といえる。実際、ブルキナファソとコートジボワールでの襲撃事件でもこれらの国々の国民が参加していたとの情報がある。大きな流れではないかもしれないが、思想と行動の一定の伝播はあると考えてよい状況であり、何らかの武装行動が実行される可能性は常に存在しているものと考えるべきであろう。
さて、ここまでの検討で浮かびあがってきたのは、AQIMなどのイスラーム主義武装勢力とマリ北部社会のあいだにどのような関係が確立されているのかという論点であった。この論点については、本稿の考察から、2つの観点が導き出された。ひとつは、両者の関係においてイスラーム主義はさほど重要な要素ではなく、主軸となるのはそれ以外の要素(経済的利権や婚姻関係など)だとの観点である。もうひとつは、イスラーム主義は、武装勢力と社会のあいだに、同調や動員といった具体的な行動を誘発しうるだけの強い影響力を振るっていると見る観点である。これら2つの観点は対照的ではあるものの、本稿で見てきたとおり、それぞれの観点を支持する事象が観察されているため、択一的には捉えられないことが確実である。では、この2つの観点がともに妥当し両立する状況をどのように考えることができるだろうか。
その状況をここでは、以下の3つのカテゴリー間の関係として考えてみたい。3つのカテゴリーとはすなわち、(A)AQIM本体(西アフリカにとって外来のイスラーム主義活動家たち)、(B)マリ北部社会にいるイスラーム主義への同調者(ひいてはマリ人が主導するAQIMの系列組織)、(C)マリ北部社会の大部分を占める、イスラーム主義に反発する人びと、である。AQIM本体とマリ北部の大部分の人びと(AとC)のあいだでは、イスラーム主義は結束を強化するうえでとくに有効でないため、経済的利権や婚姻関係などが重要となる(第1の観点に対応)。AQIM本体とマリのイスラーム主義への同調者(AとB)のあいだでは、イスラーム主義こそが両者の関係を結びつける要となる(第2の観点に対応)。さらに、占領地におけるイスラーム法の施行に関する態度がAQIMと系列組織のあいだで食い違ったことを第3節で指摘したが、このことは、マリのイスラーム主義への同調者(B)が人びと(C)に対してイスラーム主義を広める方向で対応することを示している。これに対し、マリ北部の多くの人びとはイスラーム主義に対して拒否・反発の態度をとっているため、BとCのあいだには緊張関係が成立することとなる。
このように、イスラーム主義武装勢力を、外来勢力とマリ人が主導する系列組織とに分けて考えることで、2つの観点が無理なく両立しよう。またイスラーム主義への関心が低いマリ北部社会の多くの人びとにとって、外来勢力(AQIM)とのあいだにはイスラーム主義を押しつけないことを条件に利害を共有できる関係が成り立ちうるが、マリ人が主導する系列組織とのあいだには、イスラーム主義への同調を迫られることが必須であるため、関係が対立的にならざるを得ないということも、この考え方から論理的に記述できるだろう。したがって、マリ北部の状況を捉えるうえでは、イスラーム主義武装勢力とマリ北部社会という二項対立的な捉え方ではなく、上記のような3者関係に基づく捉え方が有効だと考えられる。
この点を踏まえて、次に提起しておきたいのは、上記の3者関係のモデルにおける「B」、すなわち、マリ北部社会にいるイスラーム主義への同調者ならびにAQIMの系列組織を主導したマリ人たちが、いったいどのようにして登場したかという論点である。
この論点をめぐるひとつの有力な考え方は、マリ(とくに北部)に小規模ながら存在したイスラーム主義の活動が歴史的背景となって、近年のイスラーム主義への同調者ならびにAQIMの系列組織が誕生したとするものである。マリでは、これまでにワッハーブ派とジャマアト・タブリーグ(Jama’at al-Tabligh. 以下、タブリーグ派)という2つのイスラーム主義の運動が見られ、とくにマリ北部では1990年代に後者の活動が盛んであり、AD創設者のガリとFLM創設者のクッファがともに、タブリーグ派に傾倒していたことが知られている。なお、9・11事件後、アメリカ当局がタブリーグ派とアル=カーイダの関係を警戒するようになり、これを受けてマリ当局も外国からやってきたタブリーグ派の教師の国外退去策をとった。これらの事象は、1990年代のタブリーグ派の活動が刺激となってマリ北部にイスラーム主義への同調者が生まれ、その人びとを中核としてマリ人主導のイスラーム主義武装勢力が生まれたとの見方を支持するものといえる。
他方、同じくイスラーム主義の運動だとはいえ、近年のマリ北部でのイスラーム主義武装勢力の行動は、タブリーグ派の宗教実践とかけ離れたものだとする指摘も多い。そもそも、タブリーグ派は基本的にジハードを禁じており、マリ北部紛争でのイスラーム主義武装勢力の活動にも反対したという[Lecocq et al. 2013, 353]。2000年代初めの調査でも、タブリーグ派が法を犯したり、政治的な活動に従事しているとの認識は、マリを含むサヘル4カ国でのインタビューからは一切確認できなかったとの報告がある[ICG 2005, 9]。マリ北部の占領地で女性に対する服装規範が強化された事例に、タブリーグ派の影響を見てとることができるものの、苛酷な刑罰のような暴力的行為は2012年以前のマリには見られなかったもので、タブリーグ派の影響からは説明できないとの指摘もある[Harmon 2014, 160-161]。これらの指摘に則れば、タブリーグ派はたしかに近年のイスラーム主義武装勢力の活動につながる何らかの契機となったかもしれないが、政治的・暴力的な特徴の直接の要因としては捉えられないとの考えを導くことができよう。
この論点については、トゥアレグの運動との関係を考慮すべきとの主張もある[Lecocq et al. 2013, 349]。それによれば、創設者のガリをはじめとしてADには多くのトゥアレグが参加したが、彼らは、過激なイスラーム主義のイデオロギーがトゥアレグの諸氏族とマリの多民族を統合しうるとの信念を持っていたという。すなわち、彼らにとってイスラーム主義は、自立を求める運動を束ねる原理を模索する立場から、一種の道具として選びとられた側面があるとの指摘である。ただこの論者は同時に、ADに参加した者の多くが、自らの個人的・氏族的な忠誠心のために戦った可能性があるとも指摘する。つまり、同じトゥアレグのなかでも、イスラーム主義に期待した人びとと現実主義的に受容した人びとに分かれるとの指摘である。トゥアレグ社会とイスラーム主義の関係もまた、一筋縄ではいかない問題であることが伺える。
以上、いくつかの議論を整理してきたが、この簡単な整理だけでも、マリ北部でのイスラーム主義武装勢力の動きを歴史的に位置づけることの難しさが確認できる。この難しさは、現地に関する情報が十分でないことでより深刻なものとなっている。一例を挙げると、系列組織のひとつMUJAOについては、メンバー構成に関する理解が情報源によって大きく異なる、「詳細に関する不一致」(disagreements over details)が指摘されている[Harmon 2014, 183]。参考までに、フランスで刊行されているアフリカ情報誌『ジュンヌ・アフリック』(Jeune afrique)を見てみると、この一誌だけでも、MUJAOの構成について、多国籍だとする指摘[Carayol 2013]、ガオ近郊の在地勢力だとの指摘(Soudan[2013]でのあるマリの政治家の談話)、「金目当ての者が8割」とする指摘(第3節でも言及したThienot[2014])と、異なる見解が示されていることが確認できる。
このような状況であるため、記述と解釈に際しては慎重さが求められるであろう。「はじめに」で記したとおり、イスラーム主義武装勢力に関しては、特定の観点に基づく理解の偏りが生じやすい傾向があるため、なおさらである。何が知られていない点なのかを研究上の論点のかたちで摘出し、その検討を通して、理解の深化に向けた考察を深めていくことが求められるであろう。
以上本稿では、西アフリカにおけるイスラーム主義武装勢力の問題を今後掘り下げて検討するための基礎的な作業として、主にマリ北部への関与を通して西アフリカに関わってきたAQIMとその系列組織の動向を検討してきた。これにより、もともとアルジェリアの国内問題の流れのなかから登場したAQIMが、戦略的ないし消極的な側面からサハラ・サヘル地帯に常時存在するようになったこと、リビア内戦後の状況の変化に乗じてマリ北部での実効支配を確立したが、国際的な軍事的圧力によりその拠点を喪失したこと、そののち他のイスラーム主義武装勢力との競合という文脈のもとでソフト・ターゲットを標的とする新たな戦術を採用し、近隣諸国へと拡大してきていることを確認した。
また、西アフリカ社会との関係においては、基本的には、在来のイスラーム教徒の態度が過激なイスラーム主義を容認しないものであったこともあり、これらの勢力は社会的な共感を広く勝ち得るには至っていないといえる。ただ、社会的な共感を広く獲得するには至っていないものの、武装行動や襲撃事件を起こしうるほどの一定数の賛同者を現に獲得している点もあわせて確認できる。
以上の検討結果を踏まえ、西アフリカに本格的なイスラーム政治の時代が到来するさきがけが訪れているのか否か、という冒頭で掲げた問題に立ち返りたい。現在までに起こってきたことを要約すれば、少数の者たちによる暴力的な活動が、社会から広い共感を勝ち得ることなく持続しているということである。少数者の活動として続く限りにおいては、イスラーム主義武装勢力が単独で実現しうる社会の変革にはおのずから限界があろう。同様の状況が今後も続くのだとしたら、本格的なイスラーム政治の時代が到来する兆しをそこに見いだすのは難しい。
だが、裏を返せば、以上の要約に含まれる要素に変化が生じれば、別の帰結が生まれうる可能性がある。ここでの鍵は「社会からの共感」である。西アフリカの国々にはそれぞれ固有の問題が存在する。階層的な不平等、民族間の潜在的な対立、開発や政治権力をめぐる地域間格差などの問題は広く存在しており、その問題を反映して政治勢力間の競合・対立関係が構築されていることも多い。このような、いわばローカルな問題の構図に訴えかけるかたちでイスラーム政治の主張や動員がなされることが、今後の可能性として想定できるだろう。このような状況が到来すれば、イスラーム主義勢力――武装しているか否かを問わず――が社会から共感を勝ち得る可能性もまた高まりうるだろう。
したがって、おそらく、本格的なイスラーム政治の時代が到来するかどうかの鍵は、AQIMのような「グローバル」な勢力の流入そのものにあるのではないと考えられる。むしろ、大きな鍵となるのは、こういった外部の勢力を触媒として、ローカルな問題意識に根ざしたイスラーム主義勢力の形成が進むかどうかであろう。もとより西アフリカは激しい社会変化を経験している地域である。そのなかでイスラーム教徒の人びととそれを取り巻く環境がどのような変化を遂げていくのか、今後もその動向を注視したい。