アフリカレポート
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論考
エチオピアの統合危機のゆくえ――民族自治と治療のシチズンシップに着目して――
西 真如
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2017 年 55 巻 p. 128-139

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要約

エチオピアの現政権は、民族語による教育と行政機構の徹底した分権化とを柱とする民族自治制の導入を通して、多様な歴史文化的アイデンティティを持つ民衆の支持を確保しようとしてきた。ところが2015年11月以降、オロミヤ州およびアムハラ州において、政府に不満を表明する民衆の抗議行動や暴動が頻繁に起こるようになった。民族自治のイデオロギーと制度が民衆の支持を調達する機能を喪失しつつある中で、国家が民衆とのつながりを取り戻す方法はあるのだろうか。本稿では、国家が歴史文化的なアイデンティティを迂回して人々の「生そのもの」に働きかける方法としての治療のシチズンシップについて検討する。エチオピアで急速に拡大してきた保健介入は、国家が国民の治療の要求に応え、国民の支持を調達する機会を提供するものである。とりわけ同国の抗HIV治療体制は、グローバルな感染症対策の専門機関や資金調達の仕組み、連邦政府および地方政府の機関、そしてHIV陽性者団体といったアクターを巻き込んで、国家と国民との間に新たな結びつきをつくりだしてきた。

1. エチオピアの統合危機とふたつのシチズンシップ

エチオピアは過去十年以上にわたり、事実上の一党制のもとで急速な経済成長を経験してきた。同国の政治体制は開発独裁の様相を呈する一方で、国家のガバナンスおよび指導者の政治的なリーダーシップは高く評価され、投資と援助の優良な受入国としての実績を築いてきた[西 2014; 2016]。国内では与党エチオピア人民革命民主戦線(Ethiopian Peoples’ Revolutionary Democratic Front: EPRDF)に対抗できる政治勢力は見あたらず、現在の体制は当面のあいだ揺るぎないものに思われた。ところが2015年11月以降、オロミヤ州およびアムハラ州において、政府に不満を表明する民衆の抗議行動や暴動が頻繁に起こるようになった。2016年10月のイレチャ祭での出来事(後述)を受けて、政府は非常事態宣言を発令するまでに追い込まれた。唐突に表面化したエチオピアの統合危機が指し示すのは、現政権の存在理由であるはずの民族自治制が民衆の支持を調達する機能を失いつつあり、体制そのものが政治的な袋小路に向かっていることである。この状況において、国家が国民とのつながりを(それもなるべくなら、民主的なつながりを)取り戻す道はあるのだろうか。これが本稿の主要な問いである。

(1) ふたつのシチズンシップ

本稿では国家と国民とを結びつける政治資源として、ふたつの異なるかたちのシチズンシップに着目する。ひとつは言語や歴史文化的なアイデンティティにもとづくシチズンシップであり、これは現在のエチオピアにおいては、民族自治というかたちで統治の制度に組み込まれている。同国の民族自治は、異なる言語や文化的アイデンティティを有する多数の民族集団が平等に社会経済の開発に参加する機会を保障することを通して、政治的な安定と国民生活の向上とを図る制度であるとされる。もうひとつは治療のシチズンシップ(therapeutic citizenship)である。これは誰が、どのような条件で、病いの治療に必要な知識や技術、制度にアクセスできるかという問いに関わる概念だと考えて良いだろう。病を抱えた人々にとっての市民権は、彼らが帰属する社会によって大きく異なる意味を持つ。高所得国の市民権を持つ者は、国民健康保険や医療給付といったさまざまな制度へのアクセスが保障される。しかしアフリカ諸国をはじめ中低所得国では、その国の法制度上、完全な市民権を持っていたとしても、すぐさま治療の権利が保障されるわけではない。十分な治療へのアクセスを与えられてこなかったアフリカ諸国の人々にとって、権利としての治療のシチズンシップを獲得することは、極めて重要な意味を帯びている。また国家の側から見れば、国民に治療の機会を提供することは、民族や言語、宗教の違いを超えて人々の「生そのもの」を引き受け、人々の忠誠を獲得するための手段となりうる。エチオピアをはじめアフリカ諸国では近年、国家と人々とを結びつける回路としての治療のシチズンシップの重要性が、これまでになく高まっている。(治療のシチズンシップについてはNguyen[2005; 2010]および西[2017]を、生そのものの政治についてはローズ[2014]を参照。)

(2) 政治的な過程としての統治

医療人類学者のW. ガイスラーは、アフリカの国家と統治との関係について興味深い視点を示している。アフリカでは往々にして、民主的な統治に関わる制度や手続きそのものは維持されながら、実際には民主的なコントロールが消失してしまっている。だがそれは必ずしも、20世紀の軍事政権に見られたような民主主義を否定する体制に帰結するとは限らないのだという[Geissler 2015, 1–2]。実際の統治過程を理解するには、国家の周囲に、あるいはその間隙に居場所を見いだして、国家が果たすはずであった役割(例えばヘルスケア)を補完しているさまざまなアクターの存在を考慮に入れる必要がある[Geissler 2015, 9]。また政治学者のハグマンとペクラードによれば、アフリカの統治過程は正規の政治行政組織だけではなく、社会運動や自助組織、教会、非政府組織、軍閥、「ビッグマン」、実業家、国際機関、外国政府などのアクターを含む政治的な過程として分析する必要がある。またこれらアクターが、いかなる資源(財や知識、ネットワークなど)を持っており、いかなる規範や言説(シチズンシップやアイデンティティなど)によって人々を動員するのかを見定める必要がある[Hagmann and Péclard 2011]。これらの論者に共通するのは、アフリカにおける国家の機能がM. ウェーバーの想定した近代国家の理念型から乖離していることを以て、「脆弱国家」ないしは「失敗国家」というカテゴリーに当てはめるだけでは、現実の統治過程を理解することはできないという問題意識である(Lund[2007; 2016]も参照)。

これらの議論がエチオピアの統治過程を分析する上でどのように有効であるかは、少し慎重な分析が必要である。EPRDF政権下のエチオピアは、サハラ以南アフリカの基準に照らせば高い統治能力を獲得しており、民族自治にせよ、治療のシチズンシップにせよ、かなりの程度まで国家の管理下に置かれているように見える。だが皮肉なことは、エチオピアは過去、国民統合に最も苦しんできた国の一つであり、その問題は統治能力の向上にもかかわらず克服されていないことである。現政権のもとで導入された地方分権の制度が、国家の行政機関のポストや予算を公正に配分する仕組みとして一定の役割を果たしてきたことは間違いない。しかし四半世紀にわたる一党支配を経て、民族自治制への支持は与党への不信によって著しく浸食されている。民族自治を標榜する与党にとって不都合なことに、エチオピアの人々を抗議行動へと駆り立てているのは、自らを「圧政の犠牲者」と位置づける民族意識の高まりである。同国の統治過程を理解する手がかりとして重要なことは、統治を執行する行政組織の「機能不全」を補完するようなアクターの存在を同定するというよりは、統治能力の高まりの中で国家の統合危機が深まるという事態がどのように生じているかを理解することである。またその上で、国家が様々なアクターと手を結び人々とのつながりを取り戻すための政治資源について検討することである。本稿では、危機に瀕した民族自治制を補完しうる政治資源としての治療のシチズンシップの可能性に注目したい。

2. 騒乱と非常事態宣言

2016年10月の非常事態宣言に至った一連の抗議行動のきっかけとなったのは、オロミヤ州西シェワ県(West Shewa zone)にあるギンチ(Ginchi)という小さな町での出来事だとされる。2015年11月12日、町を訪れた数名の政府職員に対して、若者たちが抗議を始めた。町の人々がサッカー場として使ってきた場所を、政府が民間投資家に売り渡そうとしているのではないか――若者たちはそう疑ったのである1。このあと、政府に不満を表明する人々の抗議行動はオロミヤ州の各地に広がり、一部では暴動の様相を呈して、政府機関や学校の建物が略奪や破壊の対象となった。

オロミヤ州における一連の抗議行動で焦点となったのは、2014年に公表されたアジスアベバ市の「マスタープラン」である。オロモの人々は、このマスタープランが、アジスアベバ市域の大幅な拡張計画を含んでいる――すなわち、同市を取り囲むオロミヤ州の土地を「奪おうとする」ものだと解釈した。抗議行動を受けて、政府はマスタープランの撤回に追い込まれた。ところが民衆の抗議は収束するどころか、2016年7月にはアムハラ州でも抗議行動が始まり、ゴンダール(Gondar)市で大規模なデモが行われたほか、武装した農民が軍と衝突する事態となった2。アムハラ州における抗議行動のきっかけをつくったのは、ワルカイト郡(Welqayt woreda)の帰属問題であるとされる。ワルカイト郡は、1991年以前の行政区分ではゴンダール州(現在のアムハラ州の一部)に帰属していたが、現政権の下でティグライ州の帰属となった土地である。アムハラ州の人々にとってワルカイト郡は、ティグライ出身者が中枢を占める現政権の「圧政」の象徴となっている。

抗議行動はオロミヤ州でも再燃し、8月22日にリオデジャネイロで開催されたオリンピックの男子マラソンでは、2着でゴールしたフェイサ・リレサ(Feysa Lilesa)が頭上で腕をクロスするジェスチャーをすることで、政府への抗議とオロモ民衆への連帯とを表明した。フェイサを含め、世界的に活躍するエチオピア人アスリートの多くはオロミヤ州の出身者である。これまで彼らは、オリンピックや世界陸上選手権といった場で勝利するとエチオピア国旗を身にまとって歓声に応え、「エチオピア国民」の英雄として振る舞うのが常であった。そのことは彼らに経済的な成功も約束した。それだけにフェイサの行動は、オロモ民衆の現政権への強烈な不満と、エチオピアの統合危機の深まりを印象づけるものであった。

そして10月2日、アジスアベバの南東に位置するビショフトゥ(Bishoftu)市内で、イレチャ(irechaa)の祭礼のさなかに騒乱が起きた。イレチャはオロモの伝統的な信仰に根ざした重要な祝祭である。とりわけビショフトゥのホラ湖岸で行われる祭礼は規模が大きい。祭礼の当日には、群衆からオロモの「解放」を求める声があがる不穏な空気の中で、一部の者が会場に設けられたステージの上に駆け上がり、そこにいた(政府に親和的な立場をとる)長老たちを押しのけて演説を始めようとした。騒然とする群衆に警察が催涙ガスやゴム弾を発砲し、人々が逃げ惑う中で50名以上が死亡したとされる。

この騒乱に刺激された抗議行動の高まりを受け、政府は10月9日、非常事態宣言の発令に追い込まれた。BBCなどの報道によれば、2015年以来の一連の衝突による死者は600名以上にのぼるとされる。一連の抗議行動に共通しているのは、それが特定の政治勢力と結びついたものというより、インターネットなどのメディアに後押しされた側面が大きいことである。オリンピック会場での抗議や、イレチャ祭の騒乱の様子はユーチューブなどの動画サイトに投稿され、繰り返し閲覧された。エチオピア政府は非常事態の宣言とともに、携帯電話の使用やインターネットの閲覧を一時的に制限する措置で抗議行動を押さえ込もうとした。

3. 民族自治と統合危機

オロモとアムハラ民衆の抗議行動から見て取れるのは、自分たちを「体制の犠牲者」と見なす意識の高まりである。民族自治を推し進めてきた現政権にとっては、民族意識と体制への憎悪との結びつきほど厄介なものはないだろう。「(2012年8月に逝去した)メレス首相が生きていれば、この危機も収拾できたはずだ」という声も聞かれるが、死んだ者は還らない。卓越した指導者を失ったエチオピアが直面しているのは、現体制の根幹をなす民族自治制が、民衆の支持を調達する機能を失いつつある現実である。

ここで、EPRDFによって導入された民族自治制が同国の国民に何をもたらしたか簡単に振り返っておきたい。この体制は、第一に民族語の導入と結びついている。EPRDFが政権に就くまで全国一律にアムハラ語で実施されていた初等教育は、民族語による教育に置きかえられた。アムハラ語で執務をおこなっていた行政機関でも、各州の民族語による執務に切り替えられた。加えて重要なことは、民族語の導入が行政機構の徹底した地方分権化と一体になって進められたことである。現政権の成立以来、国内行政を実施する権限は各州の部局に委譲された。結果として連邦教育省や連邦保健省といった中央省庁は行政上の権限を大幅に奪われ、専ら政策立案をおこなうだけの組織となった。(その政策も、各州の行政権を必ずしも拘束するものではない。)他方で地方政府の行政機構は、新たに与えられた任務を執行するために拡大され、新たに州の公用語となった各民族語の話者には、これまでにない雇用機会が開かれた。加えて各州への配分の公正さを確保するため、連邦政府から各州への交付金は、人口比を反映した計算式(formula)によって算定されることになっている。世界銀行の報告書によれば、2012年度のオロミヤ州とアムハラ州の公的支出は、それぞれ地方政府の中で1番目と2番目に多く、合計すると地方政府支出の46.7%を占める[World Bank 2016]。地方分権のテクニカルな側面に注目する限りでは、アムハラやオロモ民衆の犠牲者意識を説明するのは難しい。

現政権がこれほど徹底した分権化政策を進めてきたのは、民族自治を通して社会経済開発の主体としてエンパワーされた民衆が、与党の支持基盤になるはずだという信念からである。エチオピアの民衆がこの信念を文字通りに受容したとは思えないが、しかし民族自治制そのものは、少なくとも消極的な支持に値するものであった。2005年の国政選挙では、民族の違いを超えた「国民統合」を訴えて民族自治制の廃止を求めた「統一と民主主義のための同盟(Coalition for Unity and Democracy: CUD)」が下院547議席のうち103議席を獲得したものの、首都アジスアベバを除けばアムハラ州の一部と南部州グラゲ県(Gurage zone)で議席を確保したのみで、全国的な支持を得ることはできなかった[西 2007]。同じ選挙で、オロミヤ州が与党の圧勝に終わったのは対照的であった。

しかしエチオピアの人々が与党に消極的な支持を与える条件は、時間とともに摩滅していることに注意する必要がある。民族自治を導入した現行憲法が1995年に制定されてから、既に20年以上が経過している。2016年の抗議行動の主な担い手となった若い世代にとっては、民族自治制も、それによってもたらされた民族語教育も「既にそこにあった」ものである。彼らが民族自治制の恩恵を当然のものとして受け止めながら、エチオピアの現体制のもうひとつの側面に、つまり行政上の徹底した地方分権にもかかわらず、政治的な決定権はあくまで政権の中枢を担う一握りの者にあるという事実に、強い苛立ちを感じても不思議ではない。

入念に分権化された行政機関とは違って、連邦政府および地方政府の議会は与党執行部の決定を追認するだけの場となっている。EPRDFは民族毎に組織された4政党すなわち、ティグライ人民解放戦線(Tigrayan People’s Liberation Front: TPLF)、アムハラ民族民主運動(Amhara National Democratic Movement: ANDM)、オロモ人民民主機構(Oromo People’s Democratic Organization: OPDO)、南部エチオピア諸民族民主運動(Southern Ethiopian People’s Democratic Movement: SEPDM)の連合による与党というかたちを取っているのだが、政権の主導権を握るのはTPLFの幹部であり、それ以外の3党の発言権は極端に小さい。このような条件の下では、TPLFの幹部たちが非公式な権益を拡大しているという疑念を止めることは難しい。オロミヤの人々が民間投資や政府の「マスタープラン」に過敏に反応しているとしたら、それはその背後に、TPLF幹部への利益誘導があるのではないかと疑っているからである。

問題は、現在のエチオピアには与党に代わる政権の担い手がほとんど見あたらないことである。その責任の一端は対抗勢力の政治的稚拙さにあると同時に、政治的な対抗勢力を丹念につぶしてきた与党の行動にある。2005年の国政選挙のあと、CUDは選挙に不正があったとして議会をボイコットし、大衆行動による政権奪取を試みて大規模な騒乱事件となった[西 2009, 237–242]。メレス首相は、大衆行動を煽動したとされるCUDの指導者や活動家を徹底的に弾圧する一方で、選挙結果を受け入れる者とは対話の用意があると呼びかけた。結果としてCUDは、議会ボイコットの継続を主張する強硬派と、選挙結果の受入れを主張する穏健派に分断された。強硬派が政府の弾圧によって壊滅させられる一方で、議会入りした穏健派議員の行動は、危険を顧みず大衆行動に参加した支持者への裏切りと受け止められた。CUDは民衆の支持を失い、穏健派議員は2010年5月の選挙で一掃される結果となった。ブルハヌ・ナガ(Berhanu Nega)をはじめCUD指導者の一部は、北米に活動の拠点を移し、グンボット・サバット(Ginbot 7)を名のって政権への抗議を続けている3。またCUDの中心的なメッセージであった国民統合の主張は、エチオピア国内ではサマヤウィ党4などの一部野党に引き継がれていると見られる。しかし若者たちの多くは政党活動への関心を失っており、直接的な抗議行動により大きな魅力を見いだしている。

ここで留意すべきは、エチオピアの人口構造である。裾野の広いピラミッド型の人口構造を持つ同国では、現政権の統治下で生まれた世代は既に人口の6割を超えており、その割合はこの先、急速に上昇してゆく。つまり民族自治制の導入がエチオピアに何をもたらしたかを直接知る世代は、急速にマイノリティ化してゆく。これから青年期を迎える多数の子どもたちが抗議行動に参加する側にまわるならば、現体制の不安定化も急速に進行しかねない。与党が政権を維持するためにできることは、力ずくで抗議行動を押さえ込むか、それとも民族自治を補完する新たな政治資源によって国民とのつながりを取り戻すことであろう。次節以降では、エチオピアの保健政策のなかにそのような政治資源を見いだすことにしたい。

4. 保健介入と生そのものの政治

1990年代のエチオピアの農村で、なにがしかの保健行政が存在する「しるし」のようなものが見つかったとしたら、国道沿いのマーケットセンターの片隅にひっそりとたたずむ剥げた土壁と錆びたトタン屋根の小さな建物くらいのものであった。その建物の前には、政府の設置した「ヘルスポスト」であることを示す看板が掲げられていたが、ひとりしかいないスタッフは不在がちであったし、運良くドアが開いていたとしても医薬品の棚はほとんど空っぽであった。そして国道から外れた村に入ると、そんな形ばかりのしるしさえ見あたらなかった。

その同じ国が20年ほどのうちに、低所得国における保健行政の模範のひとつに数えられるようになるとは誰が予想できただろうか。エチオピア国民の平均寿命は、1963年に40歳台を達成してから1997年に50歳をこえるまで34年を要した。だがそこから2009年に60歳台を達成するまでには12年しかかからず、2014年には64歳に達した。また乳幼児死亡率の低下も顕著で、最近ではインドとほぼ同水準で推移するようになった。その背景にあるのは、農村における保健インフラの整備である。1997年に247しかなかったヘルスセンターの数は、2015年には3300を超えるまでになった。筆者が2009年に調査で訪れた南部州グラゲ県内のヘルスセンターは、国道から10キロメートルほども離れた小さなマーケットセンターに隣接する位置にあったが、妊産婦ユニットやHIVユニットなど保健の重点分野に対応した部局が設けられ、複数の看護師と助産師、薬剤師らが常駐しており、薬局の棚には薬の在庫があった。また十数名の保健普及員が管内の集落を巡回し、母子保健や感染症予防など基礎的な保健知識を人々に届ける体制が築かれていた。(エチオピアの近年の保健行政の展開については西[2012; 2016]も参照。)

2013年、著名な医学誌ランセット(The Lancet)に掲載された論評は、低所得国における“good health at low cost”(限られた医療支出で国民の健康指標を改善すること)の実現に成功した事例としてエチオピアを高く評価し、同国における保健政策の成功は、2012年に逝去するまで首相を務めたメレスと、2005~2012年の間に保健大臣を勤めたテドロス・アダノム(Tedros Adhanom)のリーダーシップによるところが大きいと述べている[Balabanova et al. 2013]。1965年生まれのテドロスは、EPRDF政権中枢においては若い世代に属する。彼は1980年代に保健省職員を務めたあと英国で公衆衛生と熱帯医学を学び、現政権のもとでティグライ州保健局長を経て連邦政府の保健大臣に着任している。テドロスの業績に対する高い評価は、彼がエチオピアの外務大臣(2012~2016年)を経て2017年5月には世界保健機関(WHO)の事務局長に選出されたことからもわかる。

確かにエチオピアにおける保健政策の成功は、テドロス個人の手腕によるところが少なくないだろう。しかしより広い意味での「生そのものの政治」、つまり国民の生命に直接働きかける政治は、EPRDF政権にとって決して新しいものではない。メレス首相は生前、為政者としての夢を聞かれて、「エチオピアの人々が日に3度の食事をとるようになること」だと語ったことがある5。とりわけ政権の初期においては、飢餓の克服は民族自治の確立とならぶ(時にはそれ以上の)重要な政策課題であった。また実際、西側諸国や世界食糧計画(WFP)の協力のもとで緊急食糧援助の体制を確立し、エチオピアの歴史上初めて、大規模な飢餓の発生を未然に防ぐことができるようになった。しかし国内の食料生産の伸びは鈍く、食料問題そのものが克服されたとは言いがたい。政府は小農の生産性向上を中心に据えた従来の農業政策から、農業分野への国内外の投資を拡大させる政策へ、事実上の軌道修正を図ってきた[西 2014]。しかし農業投資は、小農や民衆から「土地の収奪」と見なされることもあり、近年の政情不安を招いた重要な伏線の一つになっている。このような状況の中で、保健介入はエチオピアにとって「生そのものの政治」の新たな切り札という様相を呈している。

既に述べたようにエチオピアの保健行政は、教育行政などの分野と同様に、現政権の下で徹底した地方分権化が施されている。にもかかわらず国民統治という観点からみて同国の保健介入は、教育介入とは本質的に異なる効果を持っていると筆者は考えている。現政権のもとで教育行政の第一の役割は、民族語教育の普及によって民族自治制を下支えすることであった。これに対して保健介入は、言語や文化に根ざしたアイデンティティの違いを迂回して、国民ひとり一人の身体に働きかける効果を持ちうる。同国の教育介入が、言語や歴史文化的アイデンティティに紐付けられた民族のシチズンシップに働きかけてきたのに対して、保健介入は、国民ひとりひとりの身体に紐付けられた治療のシチズンシップに働きかけるのである。現在のエチオピアにおいて、その傾向が特に顕著にあらわれている例として、抗HIV治療の体制を挙げることができるだろう。

5. 抗HIV治療体制と治療のシチズンシップ

エチオピアの抗HIV治療体制の特徴は、エチオピア国民である限り誰でも、全国どこにいても標準化された治療を無償で受けることができる点にある。抗HIV薬の投与を中心とする治療は、HIV陽性者の生命を支えることに加え、HIV感染の拡大を強力に予防する効果があることから6、現代のHIV介入において最も優先される取り組みである[西 2017]。エチオピア政府の推計によれば、同国では2017年時点で72万2000人(全人口の0.7%にあたる数)のHIV陽性者が生活しており、その数は2021年にかけて緩やかに増加してゆくことが見込まれる7。といっても同国では、新たにHIVに感染する者の減少傾向が続いている。つまりHIV陽性者の増加は感染の拡大によるものというより、治療の普及によってHIV陽性者の余命が伸びている要因が大きい。

エチオピア政府がHIV/AIDS予防管理事務所(HIV/AIDS Prevention and Control Office: HAPCO)を設立し、本格的なHIV対策に着手したのは2002年のことであった。以来、同国のHIV介入は急速な拡大を遂げ、抗HIV薬への平等(equitable)なアクセスを国民に保障しようとする体制が、極めて短い期間のうちに築かれてきた[Assefa et al. 2017]。連邦政府の主導で全国に一律の制度を展開する一方で、その過程で国際機関と積極的に連携したこと、さらにHIV陽性者の運動を巻き込んだ支援の仕組みを築いてきたことが、同国の抗HIV治療体制の特徴である。結論を先回りして言えば、エチオピアの抗HIV治療体制は、治療のシチズンシップの実現に関わる様々なアクターが互いに結びつくことを通して、国家と人々との間に新たなつながりが形成された事例とみることができる。

エチオピア政府が公的な抗HIV治療プログラムを導入したのは2003年7月のことであるが、当初は治療薬は有償で月額300~700ブル(当時のレートでおよそ36~85米ドル)の費用が必要であった。一人あたりGDPが120米ドル程度であった当時のエチオピアでこの金額を負担できた者は限られており、2004年6月までに治療を開始した者は1万1800人に留まった。WHOと国連合同エイズ計画(UNAIDS)が2005年末までに低中所得国の300万人に抗HIV治療を提供するイニシアチブ(3 by 5 initiative)を立ち上げたことを受け、エチオピア政府は無償の治療プログラムを導入し、より多くの国民に治療を提供することを目指した。無償治療を導入するにあたっては「統合された手法のもと、無駄と取り組みの重複を避けて」供給することが目標とされた[HAPCO 2006, 17]。2004年には、連邦保健省および地方政府の保健局に加えて、WHOやUNAIDS、米国疾病予防管理センター(CDC)などHIV介入の専門知識を有する国際機関、そして後述するHIV陽性者のネットワーク組織が参加する調整タスクフォースが設立された。

そして2005年1月に無償の治療プログラムが導入されたのだが、当初は本人が居住する地域を管轄するカバレ事務所(kebele office)から、貧困者であることの証明を受ける必要があった。カバレ事務所はエチオピアの地方行政の末端を担う組織であり、住民から選ばれた議長と評議会の委員を中心に運営されている。スタッフは公営住宅の管理や住民登録カードの発行など、住民の日常生活に直接関わる行政事務を扱うことから、カバレ事務所は同国の地方行政と住民とを結びつける重要なインターフェイスのひとつである。だがエイズに対するスティグマが非常に強かった当時のエチオピアにおいて、カバレのスタッフに感染の事実を告げねばならないことは、治療開始への大きな心理的障壁となった。そこで政府は同年のうちにこの要件を撤廃し、治療を必要とするすべての国民に対して無償の治療を提供することにしたのである。現在、抗HIV薬は政府および民間の医療機関を通じて提供され、服薬者にはコード化された投薬計画が記載された診察券が発行される。コードは全国の医療機関で共有されており、旅先で抗HIV薬を使いきってしまった場合でも、診察券を提示すれば地域のヘルスセンターや病院で薬を受け取ることができる。

エチオピア政府が抗HIV治療薬を調達する資金の大半は、世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)8や米国大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)を通じて国外から供給されている。現在のエチオピアにおいて、連邦保健省やHAPCOとともに抗HIV治療体制における重要な意思決定機関のひとつとして見逃せないのが、グローバルファンドに提出する案件を形成するための国別調整メカニズム(CCM)である。エチオピアのCCMには政府機関である連邦保健省や、国際機関のWHOや英国国際開発省(DFID)等とともに、同国内のHIV陽性者を代表する「エチオピアHIV陽性者ネットワークのネットワーク(Network of Networks of HIV Positives in Ethiopia: NEP+)」が参画している。CCMの要請にもとづいてグローバルファンドが提供する資金は、政府が無償治療プログラムを維持するための財源となるほか、一部はNEP+が受け取り、傘下のHIV陽性者団体の活動費用として配分されている。

NEP+もまた、エチオピアの抗HIV治療体制における重要なアクターとして位置づけられる。同国では1990年代から、マクダム(Mekdim)協会やテスファ・ゴフ(Tesfa Goh)協会といったHIV陽性者団体が個別に活動していたが、これら団体のリーダーたちが互いに交流を重ねる中で、2004年にHIV陽性者団体の全国的なネットワーク組織を立ち上げた。NEP+の成立には、HIV陽性者を支援する国際NGOの後押しが重要な役割を果たしており、最初から政府と緊密な関係にあったわけではない。しかし上述の調整タスクフォースへの参加を経て、現在のNEP+はエチオピア政府やグローバルファンドとの結びつきを強めてきたのである。(NEP+の設立の経緯は西[2016; 2017]も参照。)NEP+が作成した資料によれば、同ネットワークの設立に参加したHIV陽性者団体は18に過ぎなかったのが、2013年の時点では450団体がNEP+に参加し、その会員数の合計は17万人と推定される[NEP+ 2013]。ネットワークの拡大は、治療やサポートに対する人々の期待の高さを示すと同時に、政府にとってNEP+が、無視できないパートナーとなっていることを意味する。NEP+のリーダーのひとりは筆者に、NEP+と政府との関係の良好さを強調し、政府がNEP+への資金提供に積極的なのは、大衆組織(mass-based organization)としてNEP+の役割を認めているからだと述べた9

抗HIV薬はHIV陽性者にとっては、生命を維持するために不可欠の物質であり、同時に国家にとっては、国民の生そのものに働きかけるエージェントの役割を果たす。エチオピアでは、その経路はグローバルな感染症対策の専門機関や資金調達の仕組み、連邦政府および地方政府の機関、そしてHIV陽性者団体といったアクターを巻き込んで形成されている。ここで注意すべきは、地方政府の役割である。エチオピアのヘルスセンターは地方政府によって設置されており、抗HIV薬はそこで働くスタッフの手から、治療を必要とする者に手渡される。だが彼らはそうすることによって、言語や歴史文化的アイデンティティに紐付けられたシチズンシップの形成に関与しているのではなく、治療を必要とする身体に紐付けられたシチズンシップの形成に関与しているのである。彼らは民族自治の主体として抗HIV治療体制に参加しているのではなく、HIV陽性者の生そのものに働きかける国家の仲介者として、その回路に組み込まれている。こうしてエチオピアの抗HIV治療体制は、行政実務の上では地方政府の機関と人員とを経由しながら、政治的には民族自治制を迂回して国家と民衆とを結びつける回路を形成しているのである。

6. エチオピアの統合危機のゆくえ

エチオピアの現政権は、民族語による教育と行政機構の徹底した分権化とを柱とする民族自治制の導入を通して、多様な歴史文化的アイデンティティを持つ民衆の支持を確保しようとしてきた。しかし民衆の抗議行動によって非常事態宣言の発令に追い込まれた政府が直面しているのは、民族自治制が民衆の支持を調達する機能を喪失しつつある現実である。携帯電話のショートメッセージサービス(SMS)やフェイスブックで結びつけられた抗議行動は、(いわゆる「アラブの春」において実証されたように)強権的な体制を脅かすのに十分な力となる場合もある。だが民衆の要求を政治的な実践に結びつける回路がないところでは、抗議行動は社会変革の力にはなり得ない。現政権に代わる政治秩序の担い手が見いだされない中で、同国の統合危機は出口を見失っているように思われる。

本稿では、国家が歴史文化的なアイデンティティを迂回して人々の「生そのもの」に働きかける方法としての治療のシチズンシップについて検討した。エチオピアにおける保健介入の急速な拡大は、民族語教育と歴史文化的なアイデンティティとにもとづく民族自治制を迂回して、国家が国民の治療の要求に応え、国民の支持を調達する機会を提供するものであった。とりわけ同国の抗HIV治療体制は、グローバルな感染症対策の専門機関や資金調達の仕組み、連邦政府および地方政府の機関、そしてHIV陽性者団体といったアクターを巻き込んだ治療のシチズンシップの回路を短期間のうちに作りあげた事例である。エチオピアのこの経験は、民族自治のイデオロギーに拘泥することなく、人々の要求を汲み上げて、新たな国民統合の回路をつくりだすダイナミズムを、現政権が持ちうることを示している。

しかし現実には、最近のエチオピア政府は、与党中枢による強権支配への傾斜をますます強めているようにしか見えない。メレスが思わぬ病いで逝去し、テドロスがWHOに活躍の場を見いだして去ったあとの政権に、かつてのダイナミズムを期待することはできないのだろうか。2017年7月、国内の不穏さが解消されない中で、エチオピア政府は商業部門に対する課税の大幅な引き上げを強行した。政府は同月末、政府高官を含む数十名を収賄の疑いで拘束したと発表し、国民の不満に応えるジェスチャーを見せたものの、増税に反発する人々の抗議行動が活発になる中で、8月3日に議会が非常事態宣言の終結を可決している。危機を収拾するための適切な判断力さえ失ったとみなされれば、現政権への国民の信頼は、さらに消失することになるだろう。他方、北米に拠点を置いて政権への抗議を続けるグンボット・サバット(本稿3節参照)はフェイスブックのページ上で、7月30日からの3日間にわたり増税に対する抗議のゼネストを決行するよう国民に呼びかけたが、多くの商店は通常どおりの営業をおこない、かえって彼らの影響力の低さを露呈する結果となった。与党が国民の信頼を失い、他に国民の支持を結集できる政治勢力も見あたらない中で、エチオピアの統合危機はさらに深刻さを増してゆくように思われる。

本文の注
1  ギンチにおける抗議行動については、異なる内容の報道や報告が見受けられ、その詳細は必ずしも明らかではない。本稿の記述はエチオピアの英字民間紙のひとつAddis Standardウェブ版の記事 “Oromo protests defiance amidst pain and suffering”(2017年7月6日閲覧, http://addisstandard.com/oromo-protests-defiance-amidst-pain-and-suffering/)による。

2  “Ethiopia: Ethnic nationalism and the Gondar protests.” Aljazeera. 2017年7月7日閲覧, http://www.aljazeera.com/indepth/features/2017/01/ethiopia-ethnic-nationalism-gondar-protests-170102081805528.html. 

3  グンボット・サバットは、2005年5月15日(エチオピア暦で1997年グンボット月7日)に実施された国政選挙にちなんだ名称である。ブルハヌ・ナガをはじめCUDの指導者や支持者にとってこの日は、与党の選挙不正によってエチオピアの民主主義が蹂躙された日として記憶されている。

4  サマヤウィ党は2012年に結成されたエチオピアの野党。同党の政治的立場については次の記事が参考になる。“Ethiopia: Semayawi Party (Blue Party), including origin, mandate, leadership. Structure, legal status, and election participation; party membership; treatment of party members and supporters by authorities.” Refworld. 2017年7月12日閲覧, http://www.refworld.org/docid/54c9f8064.html.

5  EPRDFは、党機関誌Addis Raeyの特別号(2012年10月刊行)に掲載された故メレス首相を追悼する記事で、同首相のこの言葉を引用しつつ (p. 40)、食糧政策の成果を強調した。

6  適切な抗HIV治療を受けている者では、血液中のウイルス量が極めて低いレベルに保たれるため、性的接触による感染や母子感染を含め、ウイルスが他の者に感染するリスクが非常に小さくなる。

7  “HIV Epidemic Estimates 2017–2021, Ethiopia.” Federal HIV/AIDS Prevention and Control Office. 2017年7月17日閲覧, http://www.hapco.gov.et/index.php/epidemic-2017-ethiopia.

8  HIVなどの感染症対策の資金を中低所得国に提供するために設立された非政府組織であり、各国の政府や民間財団、企業などから資金を調達している。

9  NEP+のタダセ・アレム事務局長代理(当時)に対する2015年8月21日のインタビューにもとづく。

参考文献
 
© 2017 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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