アフリカレポート
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論考
「過去」と「未来」を生きる人びと――在米ケニア・ギクユ人移民の仕事をとおして――
石井 洋子
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2017 年 55 巻 p. 23-35

詳細
要約

アメリカ合衆国に暮らすアフリカ人移民の数は増えているが、とくに1990年代以降に渡米したケニア共和国出身のギクユ人は急増している。現在、在米ギクユ人の多くは、看護師などとして長時間働いてアメリカに家を購入し、家族を養い、母国にも送金している。これまで、低開発地域からの出稼ぎ民に関する研究・記録は苦労話に終始する事が多かったが、本研究で示したのは、苦労のなかにも仕事にやりがいを感じ、学歴を高めてステップアップする向上心あふれる姿であった。アメリカ新政権は移民に厳しい姿勢を打ち出している今、勤勉に仕事をこなし、努力する在米アフリカ人の日常を明らかにする事は重要である。

はじめに

2016年11月、アメリカ合衆国に強硬な移民政策を公言する新大統領が選出された。不法移民は経済悪、社会悪の元凶であるため、排斥すべき対象だという。しかし、筆者がアメリカで出会った移民の印象は、それとは大きく異なる。アメリカ人が敬遠する仕事を一生懸命に担い、豊かな文化をもたらし、アメリカへの感謝を忘れない、勉強熱心な人々である。本稿の試みは、アメリカ国内で見過ごされがちな「移民の仕事」に目を向けることにある。

本稿で注目するのは、ケニア共和国出身のギクユ人移民1である。ケニアからの渡米者は1990年代以降に急増したが、在米ケニア人に関する研究は少なく、さらに言えば民族や出身地の違いによる社会・文化的な多様性に着目した研究はない。しかし、異国の地で生きる人びとの生活様式、具体的に「仕事」への思いや態度をありありと示すには、仕事観、人生観もしくは生活経験などといった個別的側面を無視する事はできないのである。

現在、在米ケニア人の影響力は増しつつある。巨額の送金2はもちろんのこと、アメリカで学んだ新世代のケニア人の中には、グローバル・ビジネスを手がけた人もおり、マサチューセッツ工科大学の卒業生は90年代半ばにケニアに本社を置く通信会社のアフリカ・オンラインを創設し、ジョージタウン大学の卒業生は国外に暮らすケニア人が母国の家族へ「ご馳走のヤギ」をプレゼントできるオンライン・ショップのMamamikes.comを始めた。この数年で、在外ケニア人の投票権が認められ、国際通信費の低額化により移民と母国の人々との会話は増し、里帰りも頻繁になった。これだけの関わりが生まれながら、在米ケニア人の日常生活がどのようなものか、ほとんど理解されていないのである。

筆者は2015年4月からの11ヶ月間、アメリカ東海岸のメリーランド州に住むギクユ人移民、102名の聞き取り調査を行ったが、そこで出会った人が、在米ケニア人について「過去と未来を生きる人びと」と表現した。つまり、寝る暇を惜しんで働きながら、ケニアで過ごした時代を懐古し、帰国する日を夢見て頑張る人という意味である。本稿では、そうした人生を選び取り、過酷な移民生活を送るギクユ人の巧みな仕事戦略を明らかにするが、その作業を通じて、さらに存在感を増すアフリカ人移民の現在を提示し、大きな局面を迎えるアメリカにおいてアフリカ人移民が生きていくことの意義を見出したい。

1. 「ミルクと蜂蜜の国」へ向かったケニア人

アメリカという国に対するケニア人のイメージは大変に良く、とくにギクユ人は、アメリカやイギリスといった発展した国々を、豊かさの象徴である「ミルクと蜂蜜の国(bũrũri wa iria na ũki)」と表現している[石井 2017]。ここで、ケニア人が母国を離れて「豊かな国」へ向かった背景を整理しておこう。

そもそもケニアは、1895年から1963年まで英領下におかれており、海外渡航と言えば留学が中心であった。しかし、植民地政府はアフリカ人の高等教育支援に興味がなかったため[Stephens 2013, 21]、20世紀前半までのケニア人留学生はごく僅かであった3。英領時代末期には、第二次世界大戦で英軍として戦ったケニア人帰還兵が英国留学のチャンスを与えられたり、英国旅券を得て私費で留学したりする人もいた[Kioko 2007, 157]。

そうしたイギリス留学の流れは、冷戦の影響を受けて変わり、ケニア人による渡米の第一波(1950~60年代)へと繋がる。冷戦時代、アメリカとソ連が国のリーダーとなる若者に影響力を与えるため、競ってケニア人学生に留学の機会を与え[Okoth 2003]、ソ連が東ドイツやキューバ、ロシア、ウクライナなどで医学や農学、経済学などを学ばせた一方[D’Errico and Feinstein 2011, 1294]、アメリカはジョン・F・ケネディーやキング牧師らが中心となり、アフリカ人学生のために公費留学制度(エアリフト)を作った。エアリフトによってアメリカへ留学した人は、1959年から1961年まででケニア人を中心として676人以上にのぼり、それが渡米の第一波を創り上げた[Stephens 2013]。その時代の留学生のほとんどは、自国の発展のために卒業後に帰国しており、留学先に留まった人はほんの数名であったという[Stephens 2013, 75]。

渡米の第二波は、1990年代から2000年代初頭にあり、筆者がメリーランド州で会ったギクユ人移民の多くは、この時代にアメリカ留学を志し、現在は定住している人々である。では、同時代の母国からのプッシュ要因とは何だろうか。聞き取りをした大多数の人が、進学と経済的な理由、つまり90年代当時、国内に進学できる大学が少なかった、またアメリカン・ドリームを目指したかったと、アメリカ行きの理由を述べた。確かに、モイ政権の時代(1978~2002)、小学校の無償化によって教育機会が増えたが、90年代半ばに通学可能な大学は6校程度で、就学希望者数に全く追いついていなかった[Okoth 2003]。また国内経済が停滞し、仕事のない若者が町や村でブラブラしていた。そうした時代に、村の募金活動や家族の援助によって、渡航費と最初の学期の授業料を工面できた子供たちが、アメリカの大学を目指したのである。あるギクユ人男性(30代)は、1997年の渡米当時にはアメリカの大学から入学許可証(I-20)を得るのは非常に簡単で、ボルチモア・ワシントン国際空港に到着したケニアからの乗り継ぎ便には、30人ものケニア人留学生が同乗していたと述べた。

2. 在米ギクユ人への眼差し

(1) ギクユ人を捜す

それでは、アメリカのギクユ人はどこに暮らしているのだろうか。在米ケニア人の居住地域は人口統計等から分かるが、その下位集団である民族分布を示すデータが存在しない。そこで筆者は、在米ケニア人に人気のニュースサイト3紙の死亡記事を過去6年間にわたってリスト化し、どの民族の人がどこで亡くなったのか(どの州に暮らしていた可能性が高いか)を調べた。ケニア人が海外で死亡すると、家族や友人は医療費や遺体の本国輸送費を捻出するために訃報をネットニュースに掲載し、幅広い支援を得ようとする。2009年~2015年の6年間で死亡し、その名前から民族名が判別できたのは360名であったが4、ギクユ人の名前が10名以上あった州はメリーランド(36名)、テキサス(26名)、ジョージア(26名)、カリフォルニア(17名)、マサチューセッツ(13名)、ノースカロライナ(15名)、ワシントン(11名)であった。これは、筆者が調査中に聞き知ったギクユ人情報とほぼ一致するが、ここからも彼らがメリーランド州を始め、アメリカ東海岸から南部にかけて多く住んでいるのが分かる。これは、2000年のアメリカ人口センサスによるアフリカ系アメリカ人5の居住地域とほぼ重なっている(図1参照)。2010年のアメリカ人口センサスを基礎とした統計局の発表によると、2013年の在米ケニア人は推定10万6千人であるが、センサスから漏れ落ちる人の数については把握できない。

(出所)http://www.censusscope.org/us/map_nhblack.html(2016年11月24日アクセス)

(2) 連鎖移住

ではなぜ、メリーランド州にギクユ人が多く集まったのだろうか。その歴史を紐解くと、1960年代後半と70年代初頭に同州の大学で教鞭をとり始めたギクユ人教員2人が、出身地であるケニア中央高地のムランガ・カウンティーから次々と家族や友人、同郷の人を呼び寄せたことが発端である。さらにそうした人々が、故郷から呼び寄せた家族や押しかけてきた同郷の人びとを受け入れ、子供を産み、人口が膨れあがったのである。パイオニアとなったA教授は、故郷へ恩返しをするために、これまで30人ほど呼び寄せて別宅の部屋をカーテンで細かく仕切って住まわせ、そこから通学させたそうだ。ムランガ・カウンティーは肥沃で人口密度が高く、土地細分化が激しいので、筆者が出会った人々の多くは、土地資源が希少な地域から来た人びとであると理解できよう。

前述の通り、多くは留学生として渡米した後、仕事を得て定住しているのだが、そのほか、子供の卒業や結婚・出産などの祝賀渡航、また就労や移民家族との合流などの目的で渡航した人も増え、いまは3世代で住んでいる家族も少なくない。

(3) フィールドワーク

筆者は、在米5年以上のギクユ人移民第一世代102人6(男性61人、女性41人)をおもな対象として、彼らが集住しているメリーランド州の都市、ボルチモア郊外にてインタビューと参与観察を行なった。多くの人が医療従事者であり、その他は教師、会社員、公務員、自営業者、アルバイトなどの職業についていた。

また筆者は、ギクユ人移民社会の傾向を知るために、インタビュー対象者102人のうち、ムランガ・カウンティー出身のギクユ人世帯主47人に対して、世帯調査を行った。47世帯のうち、単身世帯は14世帯、妻がアメリカ人の例は3世帯あった。そこから、7割以上の人が1991年~2005年の間に渡米し、年齢は30~40才代である事が分かった。また87%の人が、大学や大学院卒業の最終学歴を有する高学歴者という特徴があった。調査対象者は、雪だるま式に紹介してもらったり、毎週末のように行われるケニア人イベントで会った人にインタビューを受けてもらえるように直接頼んだりした。

3. 成功を目指して懸命に働く

ギクユ人移民の誰もが、複数の仕事を掛け持ちして1日16時間も働いた経験がある。アメリカでの生活費や学費を稼ぐためだけでなく、母国の家族へ送金したり、母国の土地を購入したりするために現金が必要なのである。従来の移民研究は、社会の底辺を生きざるを得ない出稼ぎ民の苦労話に終始することが多かったが、筆者の調査からは、大変な労働環境のなかでも創造力豊かに余剰を生む努力をしたり、ニッチ市場で効率よく稼いだり、賃金アップを目指して学位を取得する等といった巧みな実践が浮き上がってきた。さらに、人種差別を乗り越える努力や仕事へのやりがい、ケニア人としての誇りを持って働く様子も観察できた。ここでは、ギクユ人移民の大多数が渡米直後に経験した非熟練労働、現在の職業で多く見られる看護師、教師として働く人々、またアフリカ人相手に仕事をしている人々の語りを紹介しながら、ギクユ人移民の仕事戦略を明らかにする。

(1) 非熟練労働者

ギクユ人移民のほぼ全員が、渡米直後には駐車場の管理人、障害者施設での夜勤、コンビニ店員、皿洗いなどの仕事を長時間こなしながら、近隣の大学やオンライン大学の学生となっていた。典型的な例として、Bさん(40代女性)は、平日朝8時から夕方16時まで託児所でアルバイトをし、18時から大学の夜間クラスでITを学んだ。夜は毎日、22時から朝7時まで精神障害者施設で夜勤をして、月に5000ドルを稼いだという。彼女の日課は多忙極まりなかったが、託児所の子供と一緒に昼寝をして、夜勤では仮眠をとる事ができたし、4人のケニア人と同居して生活費をシェアし、交替で車を運転して通学したのだという。

こうした学生時代が、人生で最も辛かったと述べた人は多いが、同時に様々な工夫を凝らして生活を成り立たせようとした様子も分かる。現在、看護師として働くC氏(40代男性)は、1990年代の生活の様子を以下のように述べた。彼は、2つのレストランで皿洗いをしながら、遠方のワシントンDCの大学で短期看護コースがあるのを知り、通い始めた。

私は当時、文章を書くのがうまかったから、ナイジェリア人学生の大学のレポートを代わりに幾つも書いてあげたら、学期の終わりに700ドルの車を買ってくれた。早朝5時に大型スーパーへ行くと、DC行きのバスを待っている人がいるので、5ドルで乗せてあげてガソリン代にした。とても危ない仕事だ。私の喋りになまり(アクセント)があると分かると、「ちょっと待って今払うから」と言って、逃げてしまう人もいた。銃を突きつけられて、運転させられたこともあった。(40代男性)

上述の2人が渡米した1990年代は、アルバイト探しも簡単だったというが、同時多発テロ(2001年)やリーマン・ショック(2008年)という危機以降は、状況が全く異なる。危機後に来たギクユ人は、先達の紹介でようやく仕事を得たが、アメリカ人上司に気に入られるために一層の努力をしたと述べた。努力とは例えば、駐車場管理のアルバイトでアメリカ人が働きたがらない週末や、強盗に襲われる危険性の高い夜間シフトを率先して引き受けるなどである。また、移民同士の緊密な情報交換は不可欠であり、アメリカ人上司の嫉妬を買ってクビにならないために、自分が学位を目指して通学している事や、車を所有している事などを隠すようにとアドバイスされたという。

一方、学校を中退したり、そもそも学校に通わずに非熟練労働者として働きつづける人の場合は、どうであろうか。D氏(60代男性)はケニアの役所で会計士として働いていたが、55才の退職を前に夫婦で渡米し、ガソリンスタンドで働いている。

ケニアで(会計士だった時)の月給は、2万2000シリング(現在のレートで2.2万円程度)だった。けれども、アメリカの時給は10ドルで、月に2400ドルも稼げる。ケニアのお金にしたら、24万シリングだ。ケニアでこれだけ稼げるのは、どこかの会社の社長ぐらいだろう。そのお金でケニアの土地を買い、親に美しい家を建ててあげれば、それは成功だ。(60代男性)

ギクユ人移民にとっての「成功」の証は、家族を持ち、母国に不動産を持つことであり、D氏は両方を達成した。さらに彼は、週末にケニア人教会7の会計を担当しており、教会のメンバーから長老として慕われている。シバ(2011)は、看護師として働く在米インド人女性の研究をしたが、まともな仕事にありつけない夫が地位復権のために力を注いだのは、移民教会であったと説明した。確かにD氏を含めて、老人介護など非熟練労働に就くギクユ人男性のなかには、教会での活動を生き甲斐にしている人もいた。

もちろん、気楽なアルバイト生活で全てを得られるわけではない。アメリカの暮らしは高額なために、親族や同郷者の家に居候したり、何人かと同居したりして生活費を節約している。妻子を残して単身渡米したE氏(40代男性)は、障害者施設の夜勤をしながら、ギクユ人のFさん(70代女性)と同居している。E氏が仕事から帰宅する朝には、Fさんはコンビニ店員として出勤するので、都合が良いのだという。しかし、こうした同居の例は、ケニアでは滅多に見られない。E氏は、以下の様に説明した。

ギクユの男が、母親や義母と同世代の女性と同じ屋根の下で寝ることはできない。しかし、ここ(アメリカ)での状況は厳しいので仕方がないし、こんなに広い部屋を1人で使う必要はない。(ケニアにいる)妻には、ガールフレンドかと疑われたくないので、同居の事は言っていない。(40代男性)

以上に見てきたように、非熟練労働者は創意工夫をこらし、移民同士の間で連携して最低賃金を生きようとしている。現在でも、そうした生活に甘んじるギクユ人移民は一定数いるものの、多くはその間にアメリカで学位を取得し、看護師や教師などとして効率よく稼ごうとしていた。

(2) 医療従事者

筆者が出会った人の半数以上が正看護師、准看護師、看護助手などの医療従事者として昼夜働いており、いつも疲れていた。アメリカの正看護師・准看護師は社会的地位が高く、看護学の学位で免許を取得し、年収4万から7万ドルを稼ぐことができる。看護助手は、病院や老人ホームなどが提供する1ヶ月程度の訓練を受けるだけで就職でき、10数ドルの時給をもらえ、コンビニなどで働くよりも割が良い。では、医療に従事するギクユ人の日常は、どのようなものだろうか。典型的な例として、2001年に移住したG氏夫妻(共に50代)の語りを紹介する。G氏は母国ケニアで牧師、妻は高校教師であった。現在、3人の子供がいる。

妻は、アメリカで看護学を勉強して看護師になり、私は老人ホームの看護助手になった。妻は15時から23時まで働き、私は23時から7時まで働いた。朝、仕事から戻って朝食を食べ、子供を学校へ送り出して8時には寝る。13時半に起きて、14時半には妻が家を出る。そんな生活だ。末子が乳飲み子だったときは、妻の職場まで連れて行って、車の中で乳を飲ませた。本当に大変だった。(G氏)

義理の両親が6ヶ月間、アメリカに遊びに来た。夫が夕食を作って子供に食べさせ、深夜に帰宅した私にチャイ(ミルクティー)を作っていたのを見て、義母が「あなたたち夫婦はどうなってるの?」と聞いてきた。私は義理の両親に尊敬を示すために、その質問には答えず、夫が事情を説明した。ここでは、アメリカの生活に合わせて生きるしかない。(G氏の妻)

G氏夫妻は、ケニアで尊敬される牧師・教師だった自分たちが、老人のおむつ交換をしなければならない事は屈辱だったと言うが、夫婦ともにクリスチャンであった事が心の支えになり、その仕事は単なる通過点に過ぎないと思って耐えたという。同夫妻の例を見ても、医療従事者の日課は子育ても加わって多忙極まりなく、過労でうつ病を発症した人もいるという。しかし、夫婦で勤務シフトを調整して交代で昼夜働き、高い世帯収入を確保しながら、ベビーシッターを雇わずに子育てすることは、移民家族にとって利点である。独身の看護師の中には、複数の医療施設などと契約して毎日働き、母国ケニアでは到底、得る事のできない額を稼いでいる人もいる。

当然、ギクユ人留学生の全てが看護師になる夢を抱いて渡米したわけではない。Hさん(30代女性)は、空港で会ったケニア人男性が看護学を勉強すると聞き、「アメリカに来てまで看護師になるなんて、頭がおかしくなったんじゃない?」と答えたという。ケニアにいるHさんのキョウダイは、医師や弁護士、エンジニアになる夢を掲げ、看護師になりたい人はいなかった。それは、母国での看護師の評判が悪いこととも関連している。あるギクユ人看護師は、以下の様に説明した。

ケニアの看護師は、医師と変わらない事をする。これは違法行為だし、傲慢だ。(ケニアの)村の女性が陣痛で病院へ行くと、看護師は力むように励ますのではなく、つねって叱る。出産は女性にとって素晴らしい旅のはずなのに、その後押しをするのではなく、力めなければ放置しようとしたり、「このままでは死ぬよ」と脅したり、悪い言葉を使ったりする。出産の良い意味が失われてしまう。患者への尊敬はない。(40代女性)

こうした悪評は今も流布しているが、アメリカにいる先達から、移民でも黒人でも問題なく就職でき、看護学校卒業の翌日から働ける看護師の資格を取るようにとアドバイスをされる。それでは、医療分野の仕事は就職差別が少なく、高給だから、仕方なく仕事を続けているのだろうか。興味深いのは、多くの看護師がやりがいを感じ、看護の仕事を肯定的に捉え始めている点である。

(ケニアで通った)高校は、ケニアでもトップ校だったので、卒業生は弁護士や医師が多かった。私はエンジニアになりたかったが、(先に渡米していた)兄は看護学校へ行って仕事を始め、お金を貯めてからエンジニアを目指したらどうかと言った。私は、なぜアメリカに来てまで看護師なのかと落ち込んだが、兄の援助で看護師になり、今はこの仕事がとても好きだ。何も出来なかった患者が、元気になる様子を見て嬉しい。エンジニアとして、これだけの満足感が得られたかは分からない。(30代男性)

看護師の昼間のシフトは歩き回って疲れるが、(私が担当している)夜のシフトは資料の整理が多い。昼間に看護師がとったデータを確認して間違いを正すのだが、「これをやるために、これをやったんだ」と理解でき、学ぶことが多いので好きだ。(30代女性)

ギクユ人看護師の多くは、時給が上乗せされる夜勤専従看護師となるが、冬期の夜の気温がマイナス10度以下まで下がるメリーランド州での通勤もまた過酷である。しかし、上記2名の語りからは、患者との関わりを楽しみ、新たな知識の獲得に喜びを感じている様子が分かる。だからといって、職場で昇進したいかと言えば、そうではない。看護師長は給料制のためシフトを増やしても給料が上がらない。また役職につけば責任も重く、自由に休めずにケニアへ里帰りできなくなるからだ。

管理職をめぐって競争があるけれど、競争するのは大抵アメリカ人で、(私たちのような)移民看護師は昇進に興味はない。むしろ私たちは、学校に戻って教科書と戦って上のレベルを目指す。他の移民看護師の友人も、学校に通っている。師長にならないかと誘われても、断ると思う。政治的なことには興味ない。(30代女性)

この語りの女性のように、仕事をしながら大学院に通い、正看護師より上級の特定看護師(一定レベルの診断や治療を行う事が許される)を目指す人は少なくない。より時給の高い仕事に就き、日勤に戻る事ができれば「普通の人間の生活ができる」というのである。フィールドで聞く限り、この職業は、大きな病院が揃っているメリーランド州だけでなく、アメリカの他州やイギリスに住むケニア人にも多いという。

(3) 学校教師

ギクユ人移民にとって、根強い人気があったのは、母国ケニアで社会的尊敬を受ける学校教師であった。母国で広まる縁故主義が一切無く、平等にチャンスが与えられるアメリカで、容易に仕事を得られたからである。

では、教師として生きる道において、どのような戦略があるのだろうか。実は彼らは、仕事を得やすいように、アメリカ人が苦手だとされる「数学」、またアメリカ人教師に人気のない「特別支援教育」を専門にし、とくに都市中心部(ダウンタウン)の荒れた公立学校、具体的には、ボルチモア市内にあるアフリカ系アメリカ人の生徒が多く通う公立高校で率先して働く事により、高い給料を得ていた。ボルチモア市の犯罪率の高さは全米有数であり、域内の公立学校の生徒の多くは父親不在の家庭環境にあり、学内には様々な問題が山積しているため、ボルチモア市は教師の給料を高額に設定しているのである。以下、ギクユ人教師の語りを紹介する。

多くの生徒の父親は、監獄に入っていて、出所しても薬を売ったりして、彼ら(生徒たち)の人生に関わる事がほとんどない。彼らが知っているのは、爺さんぐらいだろう。だから、(生徒たちは)黒人の男性教師に対して、とても否定的な態度をとる。それに外国の訛りが加われば、さらに付き合っていくのは大変だ。(30代男性)

私のクラスの生徒(35名)のなかで、本当の父親と暮らしている生徒は一人もおらず、母親か継父、お婆さん、キョウダイに育てられている。そうした生徒の7割が、何らかの問題を抱えている。(50代男性)

筆者が話をしたギクユ人移民の少なからぬ人が、職場での人種差別を語っていたが、治安の悪いボルチモアで黒人男性として生きる事はさらに困難であり、犯罪者ではないか、銃を持ち歩いているのではないかと常に疑われるという。さらに言えば、一部のアフリカ系アメリカ人とアフリカ人移民との関係は良好ではなく、上記の語りのように、ギクユ人男性教師はとくに苦労している。

そうした環境への抵抗手段として、自らアフリカ人としての誇りを持ち、相手の有りようを理解することは大切だと説明する人は少なくなかった。「私たちアフリカ人は、自分たちが誰か、どこから来てどの時代を生きたかというルーツを明瞭に理解している」(50代男性)ために自律し、またアフリカ系アメリカ人の社会や文化を学ぶことで、彼らの状況を理解できるというのである。先に語った教員の一人は、手を焼いていたある生徒から “you are my nigger”と言われたとき、ニガー(くろんぼ)という言葉に初めは驚き、そういう言葉を使うべきではないと思ったが、「あんたは、僕の友達だ」という良い意味合いで使われたのを知って、硬直していた関係が変わったと述べた。

以上のように、アメリカ人生徒の扱いに苦労が絶えない様子が分かる。それでも、生徒の質が良いとされる郊外の学校へ移らず、都市の荒れた学校で教師を続ける理由は、給料が良いからである。他州で教師をしていたI氏(30代男性)の年収は3万ドル程度だったが、ボルチモアの公立高校の教師となり8万ドル以上を得ているという。なお、メリーランド州は全米で最も世帯年収が高い(2015年は7万3594ドル)8、豊かな州の一つだそうで、生徒の扱いが難しい公立学校での破格な給料に着目したギクユ人教師の経済行動は、戦略的であると言えよう。

では、職場での昇進についてはどう考えるのだろうか。以下の内容は、ギクユ人教師たちの意見を反映している。

(校長になる事には)全く興味がない。決まり事が多く、責任が重く、偏見が大きい。親に訴えられたら、資格を失って仕事が無くなる。大学院で博士号を取れば賃金も上がるので、その方がいい。(30代男性)

ここでもまた、昇進よりも進学志向が強いのが分かる。確かに、ギクユ人教師の多くは現在、大学院に通っている。学位取得で給料は多少上がるそうだが、むしろ国際機関への転職や、ケニアで大学教員を目指したいと述べた人もいた。小さな子供のいる女性教師は余裕がなく、事務仕事が多すぎて授業準備に手が回らないと不満を述べた人もいたが、教材を安価で購入できるサイト“Teachers pay Teachers”を頻繁に利用して、時間を節約しているそうである。

(4) アフリカ人相手の仕事

ケニア人移民の増加により、ケニア人やアフリカ人相手の仕事が増えてきた。ベビーシッターや美容師、学童経営やケニア料理人、アフリカ音楽専門のDJなど、ケニア人が欲しいものを提供する、ニッチな仕事と言えよう。

例えばJさん(60代女性)は、ギクユ人の家庭の住み込みのベビーシッターとして月給1200ドル(子供2人、1人の場合は800ドル)を稼いでおり、月に2回の週末に休暇をもらえる。Jさんは、休暇になると他のベビーシッターとシェアしているアパートに戻り、日曜日はケニア人教会へ行くのだという。働くギクユ人女性がJさんの様なアフリカ人のベビーシッターを見つけるのは死活問題であり、口コミで探し、他州から呼び寄せる場合もある。アフリカ人のベビーシッターであれば、安心して子供を預けられるという。また、アフリカ人相手の仕事として、ケニアから付け毛を輸入して編み込みなどを行う美容師は、専業として成り立つ仕事である。ケニアのスーパーで購入できる付け毛は安価で良質であり、ある30代の女性は里帰りの際に大量に購入して持って帰ってきて自宅に客を呼び、4~5時間かけて100ドルの施術を行っていた。

ケニア人が集まるパーティーでは、ケニアやギクユの音楽を専門に扱うDJを副業にする人もいた。K氏(40代男性)は、平日は会社勤めをしながら、週末にはケニア人主催の募金パーティー、誕生日会、結婚式費用を集めるプレウェディングなど様々なイベントに出かけ、ホストが望む音楽をかけて場を盛り上げていた。2015年7月に行われたケニア人イベントでK氏は、ホストのギクユ人から300ドルを得ていた。そうしたパーティーでは、ケニア料理が振る舞われる。通常は女性たちが持ち寄るのだが、忙しい人はケニア料理の製造販売を副業とする女性を頼りにし、パンの一種であるチャパティーを1枚1ドルで製造してもらっていた。

このように、アフリカ人相手の仕事が色々と生まれたが、さらに事業を拡大しようとするには戦略が必要となる。ここで、ケニア人を多く集める学童保育経営を紹介しよう。

Lさん(50代女性)は、ボルチモア市の小学校教師を経て、2012年に学童保育を始めた。特徴的なのは、メリーランド州やワシントンDCで年に1~2回、開催されるケニア祝日のパーティーや、ケニア大統領が渡米したときの歓迎パーティーにおいて、子供たちにケニアの歌や踊りを披露させている事である。生徒はケニア人(ギクユ人)が中心であり、アフリカ系アメリカ人も何名か通っている。

Lさんは、働き尽くめのケニア人が子育てに苦慮しながらも、教育を重んじている事を知っている。例えば、朝7時から夜7時まで働く看護師の親は、私立へ通う子供の送迎ができないので、Lさんが親の代わりに、早朝に子供を自宅へ迎えに行き、学校へ送り届ける。また、下校時に学校から子供をピックアップし、学童に戻って宿題をさせ、家へ送り届ける。親の急な予定変更にも快く対応している。料金体系は、授業料と送迎サービスを加えて1時間20ドル~35ドルであり、毎日10~20人の生徒が利用していた。夏のサマーキャンプでは、30~40人の子供が参加し、スワヒリ語を学べるクラスもあった。

この学童保育がケニア人に支持されるのは、毎週土曜日に70~80人の子供を集め、スワヒリ語の歌やケニアの踊りを教えてくれる事である。ギクユ人の親は、小さい頃に親と渡米した1.5世やアメリカで生まれた2世の子供が、ケニアの祖父母とギクユ語やスワヒリ語で会話できないことを恥じている。Lさんは、「ケニアの子供たちがアメリカ文化に埋没しないように手助けしたい」そうで、その活動を側面支援している親たちの会合の場もまた、様々な悩みを相談し合える重要な機会だと述べていた。一方、こうしたLさんの活動に反対するケニア人も一部にはいる。

ケニア人の子供とばかり付き合うのは、不利益だ。子供達はアメリカでケニア人になるのではなく、アメリカ人になるんだ。ギクユ語やスワヒリ語より、英語をきちんと学んだ方がいい。(50代男性)

第二世代の現状については稿を改めたいが、言葉の問題は在米ケニア人社会で大きな問題になっている。子供にケニアの言葉を学ばせたい親は、子供を数年ケニアへ送り返して寄宿学校で学ばせる手もあるが、親子の別居は一般的ではない。Lさんの経営戦略は、ケニア人の要望に細やかに対応し、ケニア人文化の継承を印象づける事だが、彼女はさらに、子供を預かる自分自身の信頼を得るためにメリーランド州で死亡したケニア人の遺族に寄り添い、葬儀の準備や司会進行をボランティアで手伝うなどの工夫をしている。

おわりに:移民社会の成熟に向けて

筆者が世話になった30代のM氏は、近年、ボルチモア郊外に小さなプール付きの中古一戸建てをローンで購入した。M氏が、夜勤専従看護師とタクシー運転手を兼業して必死に働き、ようやく手に入れたアメリカン・ドリームである。

本稿では、在米ギクユ人移民の声を多く聞くなかで、仕事に忙殺され、今を楽しむ事のない人々の日常が見えてきた。この生活から脱落し、メリーランド州でホームレスになった数名、母国へ戻った相当数、ストレスで病気を発症した人、酒浸りになった人などとは、筆者はほとんど出会えていない。その意味で、ハングリー精神を持って成り上がろうと努力する人の姿が強調されたのは確かである。

ただ、こうした多忙な生活に嫌気がさして、生活の質を見直そうとする動きもある。金稼ぎに目の色を変え、子供に何でも買い与えた事を後悔して、ある女性は週末の仕事を辞める事にした。彼女は唯一、ボルチモアのダウンタウンに暮らすギクユ人であるが、子供が歩いて利用できる無料の塾や運動クラブが近所にあり、良い私立学校もあるので、子育てには最適の場所なのだという。大多数のケニア人には無かった新しい方向性である。

そうした新機軸を目指す試みは近年、少なからぬケニア人が米国内から、またケニアからテキサス州へ向かっていると頻繁に聞いた噂を思い起こさせる。同州は気候が暖かく、黒人が多く、物価が安く、仕事が多いため、人気だという。ケニアから連鎖移住をしたメリーランド州のギクユ人は、決して流動性の高い人々ではないが、アフリカ人移民に優しい土地を目指すという実践もまた、「ミルクと蜂蜜の国」の厳しい現実を生き抜く作戦である。

現在、アフリカ人移民はアメリカ新大統領の誕生とともに、自らの処遇に戦々恐々としているに違いない。新天地のアメリカで生き延びるために、法の網の目をかいくぐり、かなり際どい生活を続けてきたのである。それでも、大変な仕事を積極的に引き受け、やりがいを持って勤勉に生きようとする人々の生活は、再評価されるべきである。自らのルーツを熟知する誇り高い移民から、多民族国家のアメリカ社会が学ぶことは多い。これまで見過ごされてきたケニア人移民の日常を深く理解する事で、移住先の社会をも照らす生活の営みが見えてきたのである。今後、アメリカではさらに、アフリカ人移民の存在感が増すであろうが、彼・彼女たちこそ、移民大国アメリカの繁栄を根底から支えている存在ではないだろうか。

本文の注
1  ギクユとは、バントゥー語系言語を話すケニア最大の民族集団である。なお、本稿で述べる移民とは、20世紀に入ってから自分の意志で移住した人びとを指す。

2  ケニア中央銀行によると、2015年には15億ドルがケニアへ送金された。International Organization for Migration(IOM)によると、その約半分はアメリカからであるという(http://publications.iom.int/system/files/pdf/migration_profile_kenya.pdf, 2016年12月3日アクセス)。

3  1920~30年代は、行政首長であったコイナンゲの息子やケニア初代大統領のジョモ・ケニヤッタなどというエリートのみが留学できた。

4  ニックネームやクリスチャンネームを用いて、民族が判別できなかった28名は省いてある。

5  本稿では、「アフリカ系アメリカ人」とはアメリカで生まれた米国黒人を指し、アフリカ系移民とは区別している。

6  インタビューを行った102人の中には、ギクユ人移民の子供7人、他民族の13人が含まれている。

7  メリーランド州には、筆者が知るだけで12のケニア人教会があり、そのうちの10の教会はギクユ人が大多数を占めていた。大抵は英語でミサが行われるが、スワヒリ語やギクユ語の即時通訳が付けられる教会も3教会あった。

8  Kaiser Family Foundation(http://kff.org/other/state-indicator/median-annual-income/?currentTimeframe=0, 2016年12月26日アクセス)。

参考文献
  • 石井洋子 2017.「『ミルクと蜂蜜の国』へ移住するということ――米国・メリーランド州に住むギクユ人移民の語りの記録」『聖心女子大学論叢』第128集, 61-82.
  • シバ・ジョージ 2011.『女が先に移り住むとき――在米インド人看護師のトランスナショナルな生活世界』伊藤るり監訳 有信堂 (Sheba M. George 2005. When Women Come First: Gender and Class in Transnational Migration. CA: The Regents of the University of California).
  • D’Errico, Nicole and Scott Feinstein 2011.“Kenyan Immigrants.”in Ronald Bayor (ed.) Multicultural America. CA: Greenwood.
  • Kioko, Maria 2007.“Diaspora in Global Development: First Generation Immigrants from Kenya, Transnational Ties, and Emerging Alternatives.”Institute for Global Initiatives 2(2), 151-168.
  • Okoth, Kenneth 2003.Kenya: What Role for Diaspora in Development? Migration Policy Institute. (http://www.migrationpolicy.org/article/kenya-what-role-diaspora-development, 2016年11月24日アクセス)
  • Stephens, Robert E. 2013. Kenyan Student Airlifts to America 1959-1961. Nairobi: Kenway Publications.
 
© 2017 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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