2017 年 55 巻 p. 79-91
本稿はアフリカの一党優位体制についての理解を深めるため、タンザニアの優位政党である革命党(Chama Cha Mapinduzi: CCM)を事例に、1992年の複数政党制移行後の党内の派閥政治の変遷と党幹部によるその統制を分析する。具体的には、CCM内の派閥政治と党内の権力分配のあり方について論じたグレイ(Hazel Gray)の論文を参照しつつ、複数政党制移行後初の選挙が行われた1995年、任期満了に伴って大統領が交代した2005年と2015年の計3回の大統領選挙に焦点をあて、CCMの大統領候補選考における派閥間競争の特徴を明らかにする。そして、この分析を通じ、2015年のCCM大統領候補選考がタンザニアに一党優位体制の継続をもたらしただけでなく、党内の派閥を統制し、党を中央集権化しようとする試みであったと論じる。
サハラ以南アフリカ(以下、アフリカ)の多くの国は1980年代末~90年代に民主化し、複数政党制を導入したが、1990年代のアフリカ諸国は与党が政権を維持する一党優位体制に特徴づけられていた[van de Walle 2003]。その後、政権が交代する国が徐々に増え、複数回の政権交代を経る国が出てきた一方、タンザニアのように今日まで一党優位体制を維持している国もある。アフリカ諸国の間でこのような政治体制の違いが顕著になっているため、なぜ選挙を通じて政権交代の起こる国と一党優位体制を維持する国が出てきたのかは、今日のアフリカ政治研究で重要な問いとなっている(例えばRiedl[2014])。
一党優位体制の与党(以下、優位政党)が長期政権を維持する要因は多々あるが、その内的要因の一つは、党内で大統領など国の最高指導者を選ぶ際に、派閥間競争をうまく調整し、選挙に向けて党を団結させることに成功している点にある。そこで、本稿は、アフリカの優位政党の派閥政治についての理解を深めるため、タンザニアの優位政党である革命党(Chama Cha Mapinduzi: CCM)を事例に、1992年の複数政党制移行後の党内の派閥政治の変遷と党幹部によるその統制を分析する。具体的には、複数政党制移行後初の選挙が行われた1995年、5年2期の任期満了によって新たな大統領が選ばれた2005年と2015年の計3回の大統領選挙に焦点をあて、CCMの大統領候補選考がどのように行われたかを明らかにする。そして、カーン(Mushtaq Khan)の「政治的安定」(political settlement)の分析枠組みを用いて、CCM内の派閥分裂と権力分配のあり方について論じたグレイ(Hazel Gray)の先行研究を再検討し、2015年のCCM大統領候補選考が党内の派閥間競争を統制し、党を中央集権化しようとする試みであったと論じる[Khan 2010; Gray 2015]。なお、本稿は主にフランス・アフリカ研究所(French Institute for Research in Africa)とダルエスサラーム大学政治行政学部によって実施された2015年タンザニア総選挙に関する研究の一環で、筆者が2015年9~11月にタンザニアで行った現地調査に基づく。
タンザニア政治は、1992年の複数政党制への移行後もCCMが安定して政権を維持している一党優位体制に特徴づけられる。先行研究は、CCMが複数政党制への移行過程を独占し、国家の権限や財を利用し、選挙関連法の改定や野党の活動の制限を行うことによって、選挙において常に有利であった点を論じている(例えばHyden[1999]、Makulilo[2008]、Hoffman and Robinson[2010]、Babeiya[2011])。これらの研究は民主化後のタンザニア政治の特徴を捉える上で極めて重要であるが、CCMの権威主義的な性質と政権交代の可能性の低さに重点が置かれすぎている。実際には、国民のCCM支持率は1990年代から2000年前半にかけて上昇した後、2000年代後半から下降傾向にある。直近の2015年大統領選挙ではCCMからマグフリ(John Magufuli)大統領が選出されたが、その得票率は1992年の複数政党制導入以来、最も低いものとなった(表1参照)。
CCMの権威主義的な性質に焦点をあてた先行研究が多いなか、新たな視点を提供する研究として、カーンの「政治的安定」(political settlement)の分析枠組みを用いて、CCM内の派閥分裂を分析した上述のグレイの論文がある。「政治的安定」は従来、紛争国や脆弱国家について論じられていたが[Yanguas 2017]、その後、経済学者のカーンによって発展途上国の経済成長を促進する制度(新制度派経済学で論じられている規則、規範、慣習など)やガバナンスを検討するための分析枠組みとして提唱され、途上国の政治経済分析で用いられるようになった。カーンの「政治的安定」は、制度を通じた利益の分配が社会における権力の分配のあり方に沿った形で行われており、同時に、制度が社会秩序を維持するのに必要な最低限の政治的安定(暴力のない状況)と経済発展を持続的にもたらしている状態を指す[Khan 2010, 1-21]。多くの発展途上国における権力の分配はフォーマルな制度による利益の分配に沿っておらず、恩顧主義的(clientelistic)であり、パトロン・クライアント関係のようなインフォーマルな人間関係によって成り立っているのが特徴である[Khan 2010, 5; Gray 2015, 385]。また、カーンは、発展途上国における恩顧主義的な権力の分配に基づく「政治的安定」のあり方を理解するためには、政治的権威や国家権力を握っている主要政治勢力(ruling coalition)、そして、生産部門の企業家(productive entrepreneurs)と政治勢力との関係に着目する必要があると述べている[Khan 2010, 8-9]。
グレイは「政治的安定」の分析枠組みを用い、1990年代末~2014年にタンザニアで発生した4つの主要な汚職事件から、CCM幹部や国会議員など党の上層部(以下、CCM政治家)とインド移民を中心とするアジア系タンザニア人企業家の癒着関係と、CCM内の派閥分裂を明らかにしている。グレイによると、タンザニアのアジア系企業家は植民地時代の人種差別的経済政策の下で成長し、独立後、1960~70年代の社会主義政権下でも水面下で経済活動を続けていた。そして、1980~90年代の政治経済自由化後のタンザニアの「政治的安定」は、CCM政治家とアジア系企業家のインフォーマルな関係に特徴づけられており、CCM内は汚職で富を蓄積し、同程度の権力を有する複数の派閥に分裂し、大統領も党内のどの派閥も権力を独占することができないと論じている[Gray 2015, 397-399, 401]。
しかし、2015年5月のグレイの論文発表後、同年10月に行われた大統領選挙に向けて、特定の派閥が党内の権力を独占するようになり、CCM幹部は派閥の統制を行った。具体的には、党内で最大派閥を率い、大統領に立候補したロワサ(Edward Lowassa)元首相を大統領候補から外し、派閥を持たない中立的なマグフリ建設大臣を大統領候補として擁立し、党の結束を図った。その後、ロワサは離党し、野党連合の大統領候補としてCCMのマグフリ大統領候補の対抗馬となったが、大統領選挙ではマグフリが勝利した。つまり、グレイの主張とは異なり、2015年の大統領選挙においてCCM幹部は党改革を実施し、その結果、選挙に勝利して一党優位体制を維持したのである。これをふまえ、本稿は第2節でCCMの大統領候補選考の仕組みを説明した後、第3~7節で1995年、2005年、2015年の大統領候補選考がどのように行われ、ロワサを中心とする派閥が党内でどのように成長し、解体されたかを明らかにする。その上で、第8節でグレイの論文を再検討し、タンザニアの優位政党の派閥政治について考察する。
タンザニア大統領はCCMの最高位である党首を兼任し、国の事実上の最高指導者であることから、CCM内の派閥間競争は大統領候補選考を中心に動いてきた[CCM 2012, 153, 182]。党員は100万タンザニア・シリング(約600米ドル)を支払い、全国15州から450人の署名を集めれば、誰でも大統領候補に立候補することができる[The Guardian 25 May 2015]。CCMの大統領候補選考は党の中央委員会(Central Committee)、全国執行委員会(National Executive Committee)、全国大会(National Congress)の3段階で行われる。まず第1段階として、大統領ら11人の最高幹部で構成される全国安全倫理委員会(National Security and Ethics Committee)1が全ての大統領候補を評価し、この評価結果をふまえ、最大34人の党幹部が委員を務める中央委員会2が5人以下の大統領候補を指名する。中央委員会では、伝統的に投票ではなく合意によって候補を決定する[Daily News 24 June 2015]。第2段階として、約380人の党員から成る全国執行委員会が5人の中から投票で3人以下に候補を絞る。そして最後に、全国の党の代表ら3千人以上の党員が参加する全国大会で1人の大統領候補が投票で選ばれる[CCM 2012, 153, 160, 168]。したがって、CCMの大統領候補選考は、最終的に全国大会で候補が決まるという点では民主的であるが、中央委員会が最初に5人以下の候補を指名するという点で党幹部が大きな権限を有していると言えよう。また、このような党内組織による選考過程に加え、後述するように、歴代の元大統領も党の大統領候補選考に大きな影響力を持っている[Mmuya 1998, 45-46]。
タンザニアでは1995年に複数政党制への移行後初の総選挙(大統領・国会議員・県議員選挙)が行われたが、この年のCCMの大統領候補選考は1985年に引退したニェレレ(Julius Nyerere)初代大統領の影響を大きく受けた。17名の党員が大統領候補に立候補し、CCM全国執行委員会はムスヤ(Cleopa Msuya)副大統領兼首相、ムカパ(Benjamin Mkapa)科学技術高等教育大臣、キクウェテ(Jakaya Kikwete)財務大臣の3名を指名した。この中で、ニェレレは他の候補より知名度の低いムカパを後押ししたと言われている。ムカパは全国大会で最大票を得てCCMの大統領候補に選ばれ、大統領選挙では61.8%の票を得て第3代大統領に選出された[Mwananchi 14 October 2015; Makulilo 2013, 178; Chachage 2015b; African Election Database 2011]。
1990年代にCCM政治家はいくつかの勢力に分かれたが[Mmuya 1998, 67]、そのうちの一つはキクウェテ、ロワサを含む野心的な若い世代の党員らであった。彼らは党を牛耳る古参の上層部に対抗し、1995年の選挙ではキクウェテ、ロワサともに大統領候補に立候補した。当時ロワサは広く国民の支持を得ていたが、1980年代の経済自由化後に急速に私財を築いており、社会主義を志向するニェレレによって早い段階で立候補が阻止されたと言われている[Raia Mwema 18 February 2015; The Citizen 31 May 2015; Mwananchi 11 May 2015; Chachage 2015a; Werrema 2012, 27]。その後、キクウェテ、ロワサなどのCCMの若手政治家は、ムカパの後継者としてキクウェテへの支持を集めるため、後に「ムタンダオ」(Mtandao、ネットワークの意)と呼ばれる派閥を形成するようになった。ムタンダオは恩顧主義的な派閥であり、民間企業と緊密な関係を持ち、多額の財を投じて党内外に幅広い支持ネットワークを築いていった[The Citizen 31 May 2015; Makulilo 2013, 68]。
CCMには大統領に5年2期の任期を満了させる慣習があり3、2000年大統領選挙ではCCM内に有力な対立候補は現れず、ムカパは無風で党の大統領候補指名を受け、大統領選挙では前回の61.8%より約10%ポイント高い71.7%の得票で再選した[Britain-Tanzania Society 2000; African Election Database 2011]。第2次ムカパ政権下で、ムタンダオは影響力を拡大していったが、ムタンダオのような恩顧主義的な派閥が拡大した背景には、1991年に党の指導者の行動規範(Leadership Code)が廃止されたという重要な制度改革がある4。この規範は、1967年にニェレレ初代大統領が社会主義国家の建設を目指すアルーシャ宣言とともに採択したものであり、CCMを指導する立場にある政治家による民間企業の株の保有、副業、不動産賃貸などの私的な経済活動を禁じていた[Coulson 2013, 216-217]。しかし、1970~80年代にタンザニア経済は低迷し、1980~90年代、政府は社会主義から経済自由化へ、一党制から複数政党制へと大きく政策転換することとなった。そして、1991年、CCM全国執行委員会が発表したザンジバル宣言によって指導者の行動規範が廃止され、CCM政治家は私的な経済活動を行うことが可能となった。むしろ彼らは当時の低い給与を補うために積極的に起業することが推奨されたのである[Tripp 1997, 167-177, 187-188; Mmuya 1998, 16]。また、1995年に選挙法が改定され、選挙期間前に限り、国会議員によるコミュニティ開発への財政支援が可能となった[United Republic of Tanzania 1995, 7]。これらの制度改革によって、CCMの政治家個人の経済的自立性が高まり、選挙の支持基盤を築くため、恩顧主義に基づく人間関係と派閥の形成が広がっていった[Hyden and Mmuya 2008, 36; Liviga 2011, 22-23]。
2005年、ムカパ大統領が大統領任期を終える頃、ムタンダオに支えられたキクウェテは10年間外務大臣を務め、若手の指導者として多くの国民の人気を得ていた[Makulilo 2013, 179; Kelsall 2007, 527]。キクウェテはCCMの全国大会で64%の支持を得て大統領候補となり、大統領選挙では80.3%の得票で圧勝し、第4代大統領に就任した[Kelsall 2007, 525; African Election Database 2011]。一方、ロワサは大統領候補に立候補せずにキクウェテの出馬を全面的に支援し、選挙後にキクウェテ大統領によって首相に任命された。ムカパは当初キクウェテの立候補を支持していなかったが、ムタンダオに屈するより他なかったと言われている[The East African 22 February 2014]。したがって、2005年の大統領選挙はCCMの優位性と野党の後退を示しただけではなく、ムタンダオのCCMにおける多大な影響力を証明する機会となったのである。
国民の大きな期待を受けて誕生したキクウェテ政権であったが、汚職スキャンダルなどの影響を受け、徐々に人気を失っていった。キクウェテ政権、CCM、そしてムタンダオに最も大きな影響を与えたのは、米国籍とされたリッチモンド開発会社(Richmond Development Company)によるタンザニアへの電力供給に関する汚職事件である。これは、2006年にタンザニアが深刻な電力不足に陥った際、リッチモンド社がタンザニア電力供給公社と17億タンザニア・シリング(約135万米ドル)で100メガワットの電力を供給する契約を結んだが、発電機の到着が遅れた上、結果的に予定していた電力が供給されなかった事件である。国会特別委員会の調査により、リッチモンド社は実在しない幽霊会社であり、不正な手続きを経てタンザニア電力供給公社との契約を結んでいたことが判明した。ロワサはリッチモンド社との契約を結ぶよう同公社に指示した責任を追及され、2008年に首相を辞任した[Britain-Tanzania Society 2008, 10-13; Sitta, Slaa and Cheyo 2008, 82-86; Slaa 2010, 90]。
大規模な汚職事件の発覚とロワサの首相辞任は、CCM指導者らと民間企業家の癒着関係を露呈させ、国民のCCMへの信頼を低下させた[Msekwa 2010; The Citizen 17 February 2010]。また、リッチモンド事件後、汚職に関わったとされる有力な政治家らを容認するか否かで、CCM政治家の間で意見対立が発生した。キクウェテ大統領もリッチモンド事件発覚の頃からロワサから距離を置くようになり、ロワサは独自の派閥を築くようになった5。他にCCMの有力な政治家として、キクウェテが自身の後継者と考えているのではないかとたびたび報じられたメンベ(Bernard Membe)外務大臣がおり、ロワサ、メンベともに、2015年のCCM大統領候補出馬に向けて支持層を広げていった[The East African 22 February 2014]。また、CCM内にはニェレレの進めた社会主義の倫理への回帰を訴え、汚職やムタンダオのような恩顧主義的な派閥を強く批判する左派勢力もあった。グレイは、2000年代の汚職事件から見えてくるCCMの派閥政治は、大学や党内で築かれた個人的な人間関係に基づいており、イデオロギーの影響はほぼ受けていないと述べているが[Gray 2015, 393]、社会主義を志向する左派勢力も党内で影響力を持っていたのである。
キクウェテ大統領はCCM内の派閥間の対立を解消し、党の団結を取り戻すべく努めたが、対立は続き、党の分裂の可能性も報じられるようになった[Legal and Human Rights Centre and Tanzania Civil Society Consortium for Election Observation 2010, 55]。キクウェテは2010年の大統領選挙で再選されたが、得票率は前回の選挙から約20%ポイント下がり、62.8%にとどまった[African Election Database 2011]。汚職の発覚と派閥間の対立はCCMの支持率低下の一つの要因であったと言える。2011年4月、CCM全国執行委員会は汚職に関与したCCM政治家を排除し、国民の党への信頼を取り戻すための「クジヴア・ガンバ」(Kujivua Gamba、皮を剥ぐという意味)という取り組みを開始した[Daily News 2 February 2017]。2011年4月、CCMの組織体制を一新するため、党の事務局と中央委員会は解散し、それまで中央委員会委員を務めていたロワサやメンベら有力な政治家は委員に再選されなかった[The Citizen 10 April 2011]。しかし、その後は、元CCM会計責任者で、ロワサと親しいアジア系企業家のCCM党員が自主的に政界を引退した程度で、「クジヴア・ガンバ」の効果は限定的であった[Tanzania Election Monitoring Committee 2015, 6, 9; Daily News 7 February 2017]。つまり、この頃は大統領や党幹部は派閥政治を制御することができなかったのである。その理由の一つは、党首であるキクウェテ自身が2005年にロワサを中心とする恩顧主義的なムタンダオに支えられて大統領に選出されており、ムタンダオの影響力が党の上層部にまで浸透していたことにあるだろう。
2010年以降、キクウェテ大統領の後継者争いは本格化し、CCM政治家は党内の支持集めに奔走した。一方、2014年、主要野党の民主開発党(Chama cha Demokrasia na Maendeleo: CHADEMA)やザンジバルを主な拠点とする市民統一戦線(Civic United Front: CUF)などの野党4党は、タンザニア史上初めての野党連合となる市民憲法同盟(Umoja wa Katiba ya Wananchi: UKAWA)を結成し、2015年の大統領・国会議員・県議員選挙で統一候補を立てると宣言した[The Citizen 27 October 2014]。これにより、CCMに不満を持つ国民の政権交代に対する期待は高まった。
2015年6月、CCMの大統領候補の受付が始まると、38名という多数の党員が立候補した。そのなかで、2005年のキクウェテ大統領の選挙キャンペーンを率い、長年の閣僚経験と幅広い人脈を有するロワサの知名度は抜きんでていた[Daily News 3 July 2015; Mwananchi 11 May 2015]。ロワサは汚職のイメージがある一方、決断力と実行力のある指導者としても知られ、地方の様々な団体に多額の寄付を行ってきたことから、都市部の若者を中心に人々の支持を得ていた[The Citizen 5 June 2015; The Citizen 11 July 2015; Mwananchi 29 July 2015]。
CCM大統領候補選考の1か月前に行われた世論調査では、CCMの大統領候補の中でロワサが最も高い国民の支持を得ているという結果が出た他、CCM全国執行委員会の4分の3近くの委員の支持をすでに取りつけたという報道もあった[Nipashe 6 July 2015; The East African 23 May 2015]。グレイはCCM全国執行委員会を長期にわたって独占した派閥がないことから、CCM内は複数の派閥間で権力が拮抗している状態であると述べているが[Gray 2015, 394]、2015年の大統領候補選考を前に、全国執行委員会を含め、CCM内でロワサ派の影響力が最も大きくなっていたと言える。
ロワサは大統領候補に立候補するにあたり、キクウェテの支持を期待していた。ロワサによると、両者は1995年の大統領選挙前に、どちらかが先に大統領になったら、その後、相手の大統領出馬に協力することを誓い合ったという。ロワサは2005年と2010年の大統領選挙でキクウェテの選挙活動に協力したのだから、今度はキクウェテがロワサを支持する番であると述べている[The Citizen 31 May 2015]。しかし、実際にはキクウェテとCCM幹部は、汚職に関与している政治家を大統領候補から排除する方向へと動いていた。CCM幹部は党の政治家による汚職への関与が2010年選挙でのCCM支持率を下げたことを理由に、2011年から前述の「クジヴア・ガンバ」を行った他、2012年に党の指導者と倫理に関する規定(Leadership and Ethics Regulations)を改定し、大統領候補選考において、全国安全倫理委員会が候補者を評価する権限を強化していた[Daily News 17 September 2015]。
2015年7月、CCMの大統領候補選考が始まり、まず全国安全倫理委員会が各候補の過去の不正行為を洗い出し、党則と選挙関連法に従っているかを評価した6。同委員会はこの評価結果を中央委員会に提出し、中央委員会が5人の大統領候補を指名した。この時、ムウィニ(Ali Hassan Mwinyi)第2代大統領、ムカパ元大統領、カルメ(Amani Abeid Karume)元ザンジバル大統領など、国の元最高指導者らで構成される党の諮問委員会(Advisory Council)委員も招かれ、中央委員会の会合に出席したと言われている[The Citizen 11 July 2015]。元最高指導者らは従来、中央委員会委員だったが、2012年の党則改定により委員ではなくなり、新たに立ち上げられた諮問委員会の委員となっていた[CCM 2012, 189-190]。中央委員会が指名したのは、メンベ外務大臣、マグフリ建設大臣、ミギロ(Asha-Rose Migiro)法務大臣(元国連副事務総長)、マカンバ(January Makamba)通信科学技術省副大臣、アリ(Amina Salum Ali)アフリカ連合駐米大使の5名で、ロワサは選ばれなかった[The Citizen 11 July 2015]。この結果が公表されると、ロワサを支持する中央委員会の委員3名が直ちにマスコミを通じて中央委員会の決定を非難した。彼らは、中央委員会による選考の前に、全国安全倫理委員会が実質的に大統領候補を選んでおり、これは党則違反であると主張した[Mwananchi 11 July 2015; Tanzania Election Monitoring Committee 2015, 24]。つまり、中央委員会では、委員の意見よりも全国安全倫理委員会による各候補の評価が重視されていたようだ。
翌日に行われた全国執行委員会での選考は、多数の委員がロワサを支持する歌を合唱し、騒然となるところから始まり[Simu TV 2015]、大いに紛糾した。党幹部はロワサ派と協議し、ムウィニ元大統領、ムカパ元大統領、カルメ元ザンジバル大統領など元最高指導者らも介入したと報じられている。彼らは、ロワサが大統領候補から外されたことが議論されると、全国執行委員会委員が私益を優先させていることを非難し、同委員会の決定が国の平和を脅かすかもしれないため、注意深く考えるよう忠告した[The Citizen 12 July 2015; Mwananchi 12 July 2015]。最終的には投票でマグフリ、アリ、ミギロが大統領候補に選出された。ロワサの最大のライバルと見られていたメンベは5人の候補者の中で最低の得票だったが、これはロワサ派が委員にメンベを落選させるよう働きかけたからであると言われている[Mwananchi 6 November 2015]。その後、党の全国大会でマグフリが87%の支持を得てCCMの大統領候補に選ばれ[Azam TV Twitter 2015]、メンベは大統領候補選考の1週間後に政界引退を表明した[The Citizen 18 July 2015]。
マグフリは大統領候補の選考が始まった当初は全く注目されていなかったが、ムカパ、キクウェテ両政権で長く閣僚を務め、勤勉な指導者として知られており、また、汚職事件に関与せず、CCM内の派閥間競争から距離を置いていたため、総選挙に向けて党員を一致団結させるのに最も適した中立的な候補であった[Nyamajeje 2015; Mwananchi 6 November 2015]。マグフリの大統領候補指名は偶然の結果ではなく、元最高指導者らによって主導されたもので、なかでもムカパ元大統領に強く推されていたと言われている[The Citizen 4 November 2015; The East African 18 July 2015]7。また、マグフリは前述の党内左派勢力からも厚い支持を受けていた8。キクウェテには長年ロワサやムタンダオに支えられてきた過去があり、党内でロワサの大統領候補からの排除を主導することは難しかったと思われる。むしろ党の諮問委員会委員を務める元大統領らが団結し、左派勢力の支持も得て、ロワサの排除とマグフリの大統領候補擁立を導いたのである。
CCMの大統領候補選考の1か月後、ロワサは野党CHADEMAに移り、野党連合UKAWAの大統領候補としての出馬を表明した。CCM幹部はロワサの野党への移籍を予測していたはずであるという見方もあるが9、少なくとも多くの国民にとって予想外の展開であった[Tanzania Election Monitoring Committee 2015, 33]。CHADEMAはそれまでCCM政治家の汚職への関与を強く批判してきたが、ロワサはリッチモンド事件については首相辞任ですでに政治責任をとっており、CHADEMAの敵はロワサ個人ではなく、CCMとその腐敗したシステムであるとして、ロワサの受け入れを正当化している[Millad Ayo 2015; The Citizen 29 July 2015]。
その後、CCMの重鎮のンゴムバレ・ムウィル(Kingunge Ngombale–Mwiru)、スマイエ(Frederick Sumaye)元首相などの有力政治家がロワサを支持してCCMを離党し、メディアを大きく騒がせた[The Citizen 22 August 2015; 4 October 2015]。しかし、全体として野党に移ったCCM政治家の数は限られており、ロワサの離党はCCMの深刻な分裂を引き起こしたとは言えないだろう。この背景には、与野党ともにすでに国会議員候補の指名を終えており、国会議員選挙に出るCCM政治家は野党に移っても立候補できないというタイミングの問題もあった[Mwananchi 24 August 2015]。なかには、CCMに残って密かにロワサに協力する政治家もおり、マグフリ率いるCCMの選挙対策本部は党を団結させるのに苦労した面もあるが、最終的に大統領選挙ではマグフリが58.5%、ロワサが40.0%の票を得て、マグフリが勝利した[The Citizen 6 November 2015; United Republic of Tanzania 2015]。CCMは複数政党制移行後、最も低い得票率ながらも、長期政権を維持することとなったのである10。マグフリの得票率が低かった背景としては、国民のCCMへの信頼が長期低落傾向にあったこと、ロワサ支持者の票が野党側に流れたことが挙げられる。一方、野党がロワサを受け入れたことによってCCM支持に移った野党支持者もおり、汚職疑惑のないマグフリが大統領候補でなければCCMは選挙でさらに苦戦していたのではないかと思われる。
本稿で述べてきた1995年、2005年、2015年のCCMの大統領候補選考の特徴をまとめると、1995年のムカパの指名はニェレレ初代大統領の影響力が大きく、2005年は若手の有力政治家を中心とする派閥ムタンダオに支えられたキクウェテが候補となった。2015年にはロワサへの権力集中に懸念を持ったムカパ元大統領らが、全国安全倫理委員会の権限を強化してロワサを大統領候補から外し、派閥間競争に関与しない中立的なマグフリを大統領候補に立てたということである。現職の大統領ではなく、引退した元大統領が大きな影響力を持っていたという点で、1995年と2015年の大統領候補選考は類似しており、タンザニアにおける最高指導者の後継者決定の一つの特徴と言えよう。2015年の大統領候補選考に元大統領らが介入した背景には、大規模な汚職事件の発覚によって低下した国民の党への信頼を取り戻すという目的もあるだろうし、特定の政治家とその派閥によって党内の権力の分配が独占される事態を食い止めるという意図もあろう。また、2005年の大統領候補選考で、ムカパが当初ムタンダオに支えられたキクウェテの出馬を支持しなかったことに鑑みれば、2015年のムカパらによるロワサの大統領候補からの排除もCCMの派閥間競争の一環とみなすことも可能である。
以上の分析を基に、グレイの議論を再検討したい。グレイはCCMが権力の拮抗する複数の派閥に分裂しており、大統領も党内のどの派閥も権力を独占することができないと論じているが、2015年のCCM大統領候補選考をふまえると、この見解を見直す必要がある。実際には、2015年の大統領選挙に向け、ロワサ率いるムタンダオが台頭し、CCMの派閥間の権力均衡を大きく崩すようになった。これに対し、ムカパ元大統領を中心とする党の最高幹部は、2015年の大統領候補選考において、ロワサの排除とムタンダオの弱体化という大がかりな派閥の統制を行ったのである。CCM最高幹部は反汚職という社会的規範を前面に出し、全国安全倫理委員会の権限強化という党の制度改革を通じて、アジア系企業家との癒着関係によって支えられた恩顧主義的な派閥政治を統制し、党を中央集権化しようとしたと言うことができよう。また、グレイの論文には書かれていない点として、2015年のCCM大統領候補選考に向けて、汚職や恩顧主義的な派閥を批判する形で、党内左派勢力が影響力を持つようになったことも重要である。
本稿は、タンザニアの複数政党制時代における優位政党CCMの大統領候補選考を分析し、恩顧主義的な派閥の成長と派閥間競争の激化、元大統領らを中心とする党の最高幹部によるその統制を明らかにした。2015年のCCM大統領候補選考はタンザニアに一党優位体制の継続をもたらしただけではなく、CCM内の恩顧主義的な派閥政治を統制し、党を中央集権化しようとする試みであったと言える。しかし、2015年以降、派閥という支持基盤を持たないマグフリ大統領が、CCM政治家の関与する汚職やCCM内の派閥政治を統制することができているかについては、今後注意深く見ていく必要がある。
また、マグフリ政権下のタンザニアの「政治的安定」のあり方、そして一党優位体制の今後を捉えるためには、長い年月をかけて築かれてきたCCM政治家とアジア系民間企業家の関係の変化にも注目することが重要である。あわせて、再びCCM内でムタンダオのような恩顧主義的な派閥が成長するか否かという観点から、大統領や党の最高幹部などの指導者らの動きとともに、ニェレレ時代の社会主義の倫理を重んじる左派勢力が党内外に与える影響力にも注目したい。