アフリカレポート
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生殖と性愛の狭間の論理学――津田みわ氏の拙著書評に応えて――
小馬 徹
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2019 年 57 巻 p. 34-39

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はじめに

2019年2月5日朝、日本アフリカ学会のメーリング・リストを使って、本誌『アフリカレポート』No.57(2019年)の新規掲載記事の案内がなされた。掲載記事の内の一本、津田みわ氏の手になる拙著『「女性婚」を生きる―キプシギスの「女の知恵」を考える』の書評を早速読んでみて、筆者の素意とは全く正反対の主張を筆者がしているとする津田氏の断言に吃驚させられた。えっ、「LGBTを排除し反同性愛法を推し進めるアフリカ諸国の趨勢」を旗幟鮮明に肯定しているって!?

衝撃だった。何処をどう読めば、こうなるのか。一旦刊行して筆者の手を離れた著書の読み方は無論読者に任される。だが、今回ばかりは流石に看過できない。

1. 問題の所在

津田氏の書評の論旨には、酷い混線がある。しかし、幾本もの筋違いの糸が複雑に絡まり合ってこんがらがり、何処をどうほぐせばよいのか、糸口を探し出すのが中々面倒だ。書評を読めば一見辻褄が合っていそうに思えよう。拙著を通読したか、注意深い人でなければ、その混乱に気づかないかも知れない。こうした予定調和的な辻褄合わせにこそ厄介な陥穽があるのだが、ここはまず、氏の主張を正確に再録したい。書評の終わりに近い部分で、こう書いている。

著者は最終章においては、LGBTを排除し反同性愛法を推し進めるアフリカ諸国の趨勢について、「ヒトの種としての存亡」という観点を用いて肯定してみせている。そこで何度か引用されるのは、「同性婚(を結婚として認めること)は人類の死だ」という「ケニアの穏健な庶民の知識人」の発言である(P.210ほか)。ヒトは子を成すべきか、子を成さない多様な生のあり方をどう捉えるか―「女性婚」を入口とし、生殖に関わる論争的なテーマについて旗色を鮮明にした本書の議論は、いずれも挑戦的である。本書が様々な議論を喚起することを期待したい。

津田氏は、拙著第七章中の幾つかの文言を適宜組み合わせ、都合よく撚り合わせて、上の主張を紡ぎ出す。それは、恣意的に切り取った各ショットを巧みに結合させて編集する、映画のモンタージュ技法を彷彿とさせる。「切断」と「結合」の意図的な組み合わせで「意味」を創り出して、専ら共感を喚起しようとする劇映画の技術だ。この手法は、被写界深度を最大に取って映る限りの対象を(理念的には、つまり叶うことなら撮影者までも)映し出そうとし、可能な限り延々とワンショットで撮影し続けて恣意的な解釈の可能性を徹底的に排除する、記録映画の手法の対極を成す。短い書評は、得てしてモンタージュに近づきがちになる。しかし、その危険にいささかでも自覚的であれば、著者の素意と正反対の論評に陥ることはまずあるまい。

問題は、無論、津田氏が拙著の趣旨をどれだけ正確に理解しようとしたかにある。

2. 拙著第七章の趣意

今度は、拙著第七章で筆者の意図するところを忠実に再録してみよう。学術論文であれば、冒頭の総論で論文の目的と方法を簡明に明かし、どんな論理をどう展開していかなる結論を導くか、概説しておくのが常道だ。読者が長い学術論文の紆余曲折する筋に倦んで息切れしたり、特定の部分や表現に必要以上に強く感情的に反応して誤解が生じることのないように、予め筋道を明確化して、読者の正確な理解を水路付けておくためである。

やや長くなるのを厭わず、拙著第七章の「はじめに」をここで引用する。

ナイジェリアやウガンダの反同性愛法制定の動きをめぐって、二〇一七年初めから暫くの間、欧米諸国とアフリカ諸国との間で確執が先鋭化し、特に、従来強い同盟関係で結ばれてきた米国とウガンダの唐突な正面衝突に世界の目が集中した。ところが、その後、エボラ出血熱流行の急激な拡大等の陰に隠れるようにして何時の間にか曖昧な決着が図られ、事態は一応平静を取り戻したかのように見える。しかしこの問題には、安易に一件落着として済まさずに、じっくり腰を据えて考えてみるべき、原理的で、且つ人類史的な意味をもつ側面があると言える。

厄介なのは、アフリカ諸国の人々が、欧米諸国との相互関係に組み込まれた著しく非対称的な権力関係に纏わる全般的な比較劣位のゆえに力づくで抑えこまれたと感じて、苛立ちと反発を露にしていることだ。LGBT(ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスセクシャル)の人々を遮二無二差別して非人間的な厳罰を課す「例の野蛮な国々」。なにしろ、ウガンダを初め、今般アフリカ諸国が結局纏わされることになったのが、欧米諸国の見方に一方的に偏したこのようなイメージだった。しかし、アフリカもウガンダも決して一枚岩ではない。

そうであれば、国際社会がアフリカの声をこんな形で一蹴してしまって構わないのだろうか。その声の内には、冷静に思慮してみるべき真率な内容が何も含まれていないのだろうか。

東アフリカをフィールドとして三十数年間調査・研究してきた人類学徒である筆者が、今ここで誤解を恐れずに敢えて負うべき使命は、先ず権力性を孕む「非対称性の闇」からアフリカの人々の肉声を救い出して、些かでも均衡の回復に努めることであろう。そしてその次には、人類の未来を左右する普遍的な問題、しかも或る意味では喫緊の課題でもある問題に冷静な視線を向けるべく一石を投じることだと思う。そうすれば、アフリカの穏健で理性的な多数の庶民の声を生かすことになるだろう。

つまり、津田氏が問題視する第七章の大きな狙いは、反同性愛法を制定してLGBTの人々を弾圧した政府とは意見を異にするがゆえに、一元的ではあり得ないその現実を無視して自らの政府と一緒くたに野蛮人扱いされていることに異を唱えるアフリカの人々(「アフリカの穏健で理性的な多数の庶民」)が存在していることを強く訴え、それらの人々の声を冷静に伝えることである。

3. 同性愛と同性婚、或いは感情と制度

ケニアの田舎に住んでいる筆者の知己である彼らは、生殖を目的とする彼ら自身の伝統的な「同性婚」、つまり女性婚と同性愛を峻別していて、同性愛には強くこだわらず、概して寛容だ。その一方、東部アフリカの諸民族の間に見られ、老女の福祉と家系の存続を約束する生殖を確保するための女性婚とは異なる、欧米の、性愛を旨とする「同性婚」を婚姻としては認めようとしない。それは、彼らにはそうした「同性婚」が「不毛の性」である以上は結婚たり得ず、次元を全く別にする、飽くまでも個人間の個別の感情の問題だからである。社会の維持のために国家に多くを期待できず、家族、氏族、親族、姻族に強く福祉を依存する彼らにとって、結婚はまだ社会を維持し、生活を保障するうえでなくてはならない基幹的な制度なのだ。それゆえ、彼らは、家族ならびに氏族同士を結び付けることになる生殖抜きの「同性婚」を結婚として認めれば―津田氏が言うように―人類の(緩慢な)死に繋がると語っている。

その一方、今日彼ら自身の女性婚の権利が基本的人権概念に沿って容認されているのと同様に、同性愛の権利もまた同じく基本的人権概念によって容認されるべきであるとし、反同性愛法によってLGBTの人々を弾圧する諸政府を非難する。そして、その諸政府と自分たちを同一視する(と見える)欧米のジャーナリズムやそれに同調する人々に抗議の意を示しつつ、晴らせない憤懣を募らせているのだ。

ところが、津田氏は、「著者は最終章においては、LGBTを排除し反同性愛法を推し進めるアフリカ諸国の趨勢について、『ヒトの種としての存亡』という観点を用いて肯定してみせている。そこで何度か引用されるのは、『同性婚(を結婚として認めること)は人類の死だ』という『ケニアの穏健な庶民の知識人』の発言である」と書く。だが、この論理構成には、諸要素の間の幾重にも捩じれた意図的な切断と結合の関係が見られる。

まず、既に詳しく説明した通り、「ケニアの穏健な庶民の知識人」は反同性愛法に決して賛成していない。したがって、筆者が「反同性愛法に賛成する」彼らの主張を引き合いに出して反同性愛法の制定に賛成する姿勢を表明するという馬鹿げたことも、論理的にあり得るはずがない。津田氏が論拠に据えた根本的な認識が、完全に誤っているのだ。

次に、同性愛(感情)と同性婚(制度)の概念的区別など毛頭念頭にない津田氏とは異なり、彼らは同性愛と(彼らの女性婚のような)同性婚を完全に異なる次元の事柄として峻別している。だから、彼らは性愛を旨とする(「不毛の性」である)欧米の「同性婚」を「人類の(緩慢な)死」だと見ていて、それを結婚として認めることには反対しても、全く別次元に位置する同性愛をそれを根拠に論難する理由がそもそも存在しない。津田氏の論議は、その論理立てもまた間違っているのである。

4. フィールドワークの知

人類学のフィールドワークとは、何らかの現場に身をもって自ら立ち、事態に直に接し、そこに見出されるあらゆる心の襞に寄り添い、土地の人々と共に考えることである。

ただ、その「考える」ことには両面がある。一つは「その場を考える」こと、もう一つは「その場で考える」こと。そして、人類学徒の思考はその両極を絶えず往復する。或る小さな共同体の暮らしの細部を見極めて人間の社会・文化一般の理解に通じる何かを見通そうとし、そこで得た洞察に促されつつ再び諸々の細部へと立ち返って考え続ける。

さらに時間的な観点について言えば、人類学徒が現場で考える事柄は決して時局に限られない。何時何処でも人類学徒の脳裏を去らない、人類学徒にとっての常在の基本的な問がある。それは、人間とは何かであり、また人間は何処から来て何処へ向かうのか、なのだ。だから、筆者が「アフリカの人々の肉声を救い出して」「人類の未来を左右する普遍的な問題、しかも或る意味では喫緊の課題でもある問題に冷静な視線を向ける」べきだと言うのは、人類史的な次元のことであって、時局の次元ではない。

他方、実学である政治学の研究者は絶えず時局を見極め、実行性のある果断な判断を求められる。それゆえに、政治学者の思考はその全てが絶えず一つの焦点に収斂されて行かねばならないのだろう。恐らく、こうして津田氏は、人類学徒たる筆者の一切の思考と発言を時局と密接不離のものとして直に関係させ、「ヒトは子を成すべきか、子を成さない多様な生のあり方をどう捉えるか―『女性婚』を入口とし、生殖に関わる論争的なテーマについて旗色を鮮明にした本書の議論は、いずれも挑戦的である」と述べたのではないか。もしそうであれば、そこには混線したままたくし込まれてしまった諸々の思考間の論理階型の捩じれが、間違いなく潜んでいるだろう。

つまり筆者は、一方では昨今の反同性愛法問題を論じ、他方でヒトとボノボの分岐点にまで遡って婚姻制度の創始に直結するインセスト・タブーの成立が不可避的に導き出した(自己、他者、大人、子供、男性、女性、血統、親族、姻族、婚資、血償等の)諸カテゴリーと、それらの諸カテゴリーが必然的にもたらした人々の区別(差別)化と、それによる分断・反目を取り上げ、しかもそれらを今日的な観点から現場で再考したのだった。

5. 人間とは何か―――根源的な問

インセスト・タブーとは、内外の輪郭が明確な群である家族を創り出した根源的な分節であり、人間の全ての集団に妥当する普遍的な制度、つまりヒトを人間にした制度なのである。家族内での男女の性的結合の禁止は、伴侶となるべき女性の不在を帰結する。だが、その不在は交換によって埋め合わされ、かくして交換は家族と家族を結び合わせて共同体を生んだ。インセスト・タブーは、論理的には、結婚(女性の交換)のみならず経済(財貨・サーヴィスの交換)と言語(メッセージの交換)をも同期的に創り出した。その連鎖運動の無限の拡大が人間に強大無比な力を与え、ごく短期間に地球の隅々にまで侵出させてその王者としたのだ。人間は一切の動物種を圧倒し去り、一切の植物種と共に資源化した。

インセスト・タブーとは一本の線によって内と外を区別(差別)する分節だが、それには「男/女」、「大人/子供」、「家族(我々)/他者(彼ら)」等の性、年齢範疇、系統という他の生物にはない文化的な区別(差別)を生み出した。それは、種々の異なるものを自在に一括りにできる、言葉の範疇化の作用が生み出すものである。自然は不断の連続体であって、「男/女」、「大人/子供」、「味方(我々)/敵(彼ら)」を峻別する絶対的で決定的な根拠は何処にも存在しない。ただただ言葉が、恣意的に何時でも何処でもそれを創り出す。

結婚制度が生まれたことの最も大きな弊害は、交換の主体として男性を公的な存在に、また交換の客体として女性を家内的な存在に変えて二極化し、今も連綿と続く女性の劣位と従属を導き出して敷衍したことである。LGBTの人々も、こうした徹底的な性二元的な人間文化とその推進的な勢力である結婚制度の重い桎梏の痛ましい犠牲者ではなかったのか。

6. 人類学という学

人類学とは、一般に普遍性が乏しいとされる何らかの事柄や物の見方に敢えて現場でじっくりと目を凝らそうと努める学問である。そして、今度はその結果得られた洞察を起点に、一般に自明とされている事柄や物の見方を根本から問い直し、新たな理解の地平を切り開こうとする。かくして、人類学徒は、民族的、身分的、性的、身体的、精神的等々の少数者の現場に身を置き、その場を思考し、またその場で思考して、新たな理解を目指す。上記の試みの各々に各々の価値があり、上下も優先順位もなく、いずれも等しく大切だ。

筆者のフィールドで、民族的少数者と性的少数者の主張が、結婚を巡って行き合い、交錯した。ナイジェリアやウガンダの反同性愛法設置の動きに同意せず、しかしLGBTの「同性婚」にも同意しない「ケニアの穏健な庶民の知識人」の方が、「同性婚」の承認を求めるLGBTの人々よりもむしろ合理的である。もし性急に「同性婚」を結婚として認めれば、国家と政府を当てにできず、専ら家族・氏族、親族組織や姻族関係に福祉を依存する彼らの田舎の暮らしが破綻するという主張には、頷ける点が多い。ただし、彼らは、「子を成さない多様な生のあり方」を(女性婚によって)昔からも今も肯定し、婚姻と完全に等しい法的権利の享受を認めている。

一方、同性婚の承認を求めるLGBTの主張にはいかなる妥当性が認められるのだろうか。そうしたカップルのあり方を全面的に認める制度の法的確立にこそ本質的な重要性がある。しかしながら、そのカップリングが敢えて結婚である必然性が、一体何処にあるのか。例えば、フランスでは結婚や事実婚の他に、既婚者と同等の権利が保障される「民事連帯契約」(パックス)という緩やかな結合も制度的な選択肢として認められている。因習の重圧を逃れて個としての十全な自由を求めて生きようとするのなら、その選択がより相応しいだろう。

そもそも、LGBTとは、結婚を絶対の社会的基盤としてきた人間の性二元文化が生み出した差別の所産としての否定的な概念ではないのか。先に見たように、インセスト・タブーに基づく結婚という交換制度こそが人間を様々な範疇に区別(差別)してきた絶対的な「必要悪」だったのだ。その結婚によって差別されて苦しんできた者が、自ら結婚(「同性婚」)の法的認知を求め、その制度とその「必要悪」を殊更に強化しようと言うのだろうか。むしろ、一切のプレスクリプションに敢然と異を唱えるべきではないのか。その第一の対象とされるべきものは結婚制度である。「ケニアの穏健な庶民の知識人」もまた、将来そこへ向かって進んで行くに違いない。

おわりに

掉尾に、本誌編集部の冷静で好意ある対応に感謝したい。その好意に対する感謝のゆえに、ここまで、筆者も「本書が様々な議論を喚起することを期待したい」とする津田氏の言葉に積極的に応える努力をしてみた。それが、何よりも良く、「自らの政府と一緒くたに野蛮人扱いされていることに異を唱えるアフリカの人々(「アフリカの穏健で理性的な多数の庶民」)の存在を強く訴え、それらの人々の声を冷静に伝えることである」と信じて。

(こんま・とおる/神奈川大学)

 
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