アフリカレポート
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論考
ムガベ後のジンバブエ――「軍人化」国家の連続性と断絶――
細井 友裕
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2020 年 58 巻 p. 73-84

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要約

2017年のジンバブエ政変で下野したロバート・ムガベに比べ、エマーソン・ムナンガグワ大統領に対する関心は低い。2000年代以降、ジンバブエでは「軍人化(Militarisation)」と呼ばれる軍の影響力増加が指摘されている。本稿は、軍を支持基盤とするムナンガグワ派が政権を獲得する過程を整理し、ムガベ政権とムナンガグワ政権の連続性と断裂を検討する。軍を基盤とするパトロン・クライアント関係を通じた政権運営や暴力的性向を勘案すると、両者の間に連続性がみられる。しかし、党内抗争の過程で、ムナンガグワ派の対立派閥が体制から疎外されたため、政権の基盤は縮小している。政権基盤の縮小に加え、政権獲得に伴う軍内部の競合激化は、中長期的なジンバブエの不安定化要因となり得る。

はじめに

2019年9月6日、ジンバブエ前大統領のロバート・ガブリエル・ムガベ(Robert Gabriel Mugabe)が95歳でこの世を去った。すでに大統領を辞任していたため、ムガベの死はジンバブエ内政に目立った影響を与えなかったが、彼の死はひとつの時代の終焉を印象付けるものだった。37年に及んだムガベの統治期間は、長期政権が多いアフリカ諸国の中でもかなり長い部類に入る1。したがってムガベの個性や2017年の政変の経緯や背景に関心が向くのは当然であるし、実際、井上や坂田、テンディら研究者のみならず、元BBC記者プラウトなどさまざまな立場や観点から、ムガベや2017年の政変に関する議論が発表されている[井上 2018; 坂田 2018; Onslow and Plaut 2018; Tendi 2019]。

ムガベとは対照的に、2017年の政変の結果大統領に就任したエマーソン・ムナンガグワ(Emmerson Mnangagwa)への関心は高くない。無論、ムガベの妻グレース・ムガベ(Grace Mugabe)らを筆頭とする「G40」と、ムナンガグワを筆頭とする「チーム・ラコステ」というふたつの派閥が与党内に存在し、派閥対立のひとつの帰結として政変が発生したという説明や、ムナンガグワが副大統領から解任された事件が引き金となって政変が起きたことなどは、すでに指摘されている[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019; Tendi 2019; 坂田 2018]。派閥の存在やきっかけとなる事件の指摘は、政変の発生要因やタイミングを説明するうえで重要である。しかしムナンガグワ派の特徴に関する議論は十分とは言い難い。

冷戦終結後比較的安定してきた南部アフリカ地域において、2000年代の最大の問題はジンバブエ情勢であった。野党支持者への激しい弾圧に加え、経済の崩壊を理由として多くの人々が周辺国に流出した。隣国の南アフリカやボツワナをはじめ、南部アフリカ諸国はジンバブエの安定化のために努力してきた。ジンバブエ情勢はジンバブエ国内にとどまらず南部アフリカ一帯に波及しうる問題でもある[Raftopoulos 2013]。

ムガベの退場と死はジンバブエの歴史における大きな区切りとなる出来事であり、その総括は重要である。しかし既存の研究の主人公はムガベであり、ムナンガグワ派はムガベの脇役として描かれる傾向があった。しかしムナンガグワ派がムガベ政権下で勢力を拡大し、政権獲得に至った過程への理解は、ジンバブエや南部アフリカの過去・現在のより深い分析だけでなく、将来的な見通しを得るためにも必要ではないだろうか。

ムナンガグワ派は他の政治勢力とどのような関係を築いてきたのだろうか。ムガベ政権とムナンガグワ政権の間に連続性や断絶はみられるのだろうか。

本稿ではムナンガグワが政権を獲得するまでの中長期的な過程を整理し、これらの問いへの応答を試みる。本稿の主張は次のようなものである。ムナンガグワ派の勝利は2000年代以降ムガベが進めてきた軍人重用の結果である。2000年以降、ジンバブエの行政機関が「軍人化(militarisation)2」していると指摘されてきたが[Alexander 2013; Cheeseman and Tendi 2010]、ムナンガグワの勝利はこの軍人化の拡大の結果に他ならない。この意味でムナンガグワ体制はムガベ政権の末期からすでに事実上はじまっており、ふたつの体制の間には連続性がみられる。しかし、ムナンガグワ派が権力を獲得する過程で起きた党内闘争の結果、若手党員や文民が放逐されたため、与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟=愛国戦線(Zimbabwe African National Union-Patriotic Front: ZANU-PF)の基盤は縮小しつつあり、さらに軍が実質的な権力を握った結果、軍人間の競合が発生する可能性もある。野党の弱体化やZANU-PFの暴力的対応により当面はZANU-PFが政権を維持できると思われるが、中長期的には体制が不安定化する可能性も排除できない。

本稿の構成は以下の通りである。まず、第1節はジンバブエにおける政軍関係に関する先行研究として「軍人化」の研究と、2017年の政変に関する分析を整理する。先行研究は軍が政治化した過程を描く一方で、中長期的な派閥抗争の様態を整理できていない点が指摘される。そこで、続く各節では豊富に蓄積されたスナップショット的な分析をもとに、ZANU-PF内における軍と対立する派閥の間のふたつの抗争の過程を時系列的に描く。第2節では2000年頃から2014年頃までのZANU-PFにおけるムジュル派(後述する)とムナンガグワ派の派閥争いの外観を整理する。第3節では2013年以降、ムジュル派に代わり伸張した「G40」グループ(後述する)とムナンガグワ派の間のZANU-PF内での派閥争いと2017年の政変に至る過程を描写する。第4節では以上を総括し、ムガベ政権とムナンガグワ政権の連続性の有無、そしてZANU-PF政権が抱える課題について議論する。

1. ジンバブエにおける軍と政治

本節ではジンバブエにおける軍と政治の関係および2017年の政変を説明した先行研究を整理する。まずジンバブエ研究において指摘されてきた「軍人化」について俯瞰し、次いで2017年の政変に関する研究を描く。

(1) ジンバブエにおける「軍人化」

ジンバブエ国軍は1980年の独立とともに旧ローデシア軍とふたつの解放闘争組織を統合して設立された。独立以来、憲法をはじめとする諸法により、国軍は政治的中立性を求められてきた[Hove 2017; Maringira 2017, 101]。しかし政治的中立性の確立は容易ではなかった。ジンバブエの解放闘争組織にはZANU-PFのほか、ジンバブエ・アフリカ人民同盟(Zimbabwe African Peoples’ Union: ZAPU)があり、独立後も衝突を伴う対立があった[Kriger 2012]。ZANU-PFは、ZANU-PFの武装闘争部門であるジンバブエ・アフリカ国民解放軍(Zimbabwe African National Liberation Army: ZANLA)の元兵士を主力とする第5旅団を設置し3、1980年代中期にはZAPUの基盤であったマタベレランドで掃討作戦を実施し、ZAPUの勢力を削減するとともに国軍におけるZANU-PF/ZANLA勢力の優位を確立した[Cameron 2018; Kriger 2012]。

このように初期から党派性が軍の構成にみられたものの、1990年代末まで、軍全体が政治的に動員されることは稀だった。1980年代中期以降に入隊した新兵には政治的中立性を含む専門教育が行われていたし、兵士個人の支持政党は問題にならなかった[Maringira 2017]。

2000年はジンバブエの大きな転換点である。1990年代の経済構造調整による影響を受けた都市住民を中心に、強力な基盤を持つ野党「民主的変革運動(Movement for Democratic Change: MDC)」が形成され、2000年の国民投票では政府の憲法改正案を否決に追い込んだうえ、議会選挙では120議席中57議席を獲得し大躍進した[Mlambo 2014, 233–34]。

MDCの支持拡大に直面したZANU-PFは軍との関係を強化し、治安部門の動員による抑圧的傾向を強めた。同時に国軍内部でもZANU-PF支持者が人事で優遇されたり、本人や家族がMDC支持であることを理由に降格されたりと、末端に至るまで政治的な立場が強く影響するようになった。MDC支持者への抑圧に際し「手ぬるい」と評価された者が降格される事例もあった。国軍はZANU-PFの党派的軍隊としての色彩を強め、2002年の大統領選挙を前に行われたMDC支持者の住居破壊や、2008年総選挙前後に展開されたMDC支持者に対する殺害や暴行を最前線で行う主体となった[Maringira 2016; 2017]。

ムガベ体制は抑圧を行う軍への報償として、鉱山経営権などの経済利権や政府ポストを軍人に配分した。2005年には各省次官、局課長、大使、公営企業社長など要職のかなりの部分が軍人によって占められるようになり4Shumba 2018, 44–46]、一般兵士も政府職員として採用され、文民職員が置き換えられていった[Alexander 2013]。

2000年代のこうした動きは政府の「軍人化」という表現を用いて描かれてきた。軍は2000年以降政治化され、ムガベ体制の忠実な支持者に変貌した。彼らは政権維持のために暴力を行使する党派的主体へと転化した一方、政治ポストや経済的利権など、さまざまな利権を有する主体になった。このようにして軍が政治に与える影響力が向上してきた、というのが軍人化の議論の要諦である[Alexander 2013; Bratton 2014; Cheeseman and Tendi 2010; Hove 2017; Maringira 2016; 2017; Shumba 2018]。

(2) 2017年政変の原因と背景

2017年の政変はムガベの37年におよぶ統治にピリオドを打った。政変の概要は次のようなものである(以下、「2017年政変」と総称する)。2017年11月6日、ムナンガグワ副大統領が解任された。これは11月4日に演説中のグレース・ムガベに対して野次が飛ばされた事件について、ムガベがムナンガグワ派の陰謀であると疑ったことが原因とされる。ムナンガグワは南アフリカに逃亡したが、同13日に国軍司令官のコンスタンティン・チウェンガ(Constantine Chiwenga)大将が政治介入を仄めかす声明を公表、翌14日に軍は「偉業回復作戦(Operation Restore Legacy)」を開始した5。作戦開始後ムガベは軟禁状態に置かれ、イグナシウス・チョンボ(Ignatius Chombo)財務大臣ら閣僚の邸宅も制圧された。各地でムガベ退任を求める運動が行われるなか、与党ZANU-PF内部ではムガベへの不信任とムナンガグワを党首に指名する手続きが進められ、同21日にムガベは「自発的」に辞任を表明、同22日付でムナンガグワが大統領に就任した[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019; Tendi 2019; 坂田 2018]。

これまでの研究では、2017年政変がふたつの理由で生じたと説明されている。第1に派閥争いの存在である。与党ZANU-PF内には比較的若い政治家からなる「G40」と、軍や退役軍人などから支持されムナンガグワを領袖とする「チーム・ラコステ」と呼ばれるふたつのグループがあった。これらの派閥はすでにムガベの後継者レースを熾烈に繰り広げており、政変の前から党内亀裂の存在は明白であった[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019; 坂田 2018]。第2に、軍人たちの既得権益が失われる可能性が高まったことが指摘される。テンディはジンバブエ軍・政府関係者へのインタビューを通じ、ムナンガグワの解任を受け、多くの軍人が既得権益を失う可能性を認識し、行動に及んだと述べている[Tendi 2019]。

(3) 先行研究の貢献と限界

「軍人化」に関する研究はジンバブエの軍が政治化した過程を描いている。これらの研究は、軍による政治介入は2017年に突如起きたわけではなく、2000年前後から中長期的に進んでいたことを示している。軍は政治的・経済的利権を得ており、これらの既得権益を守る利益があったことも、2017年政変に関する研究の指摘と矛盾しない。

一方で、「軍人化」研究の中では軍とそれ以外のアクターとの関係が明確ではない。2017年選挙に関する分析から、与党ZANU-PF内部に派閥が存在していた様子がうかがえる。しかし「軍人化」はあたかも政府機関や政府が軍によって独占されていたかのような描かれ方をしている。軍と与党内部の派閥の関係はどのようなものだったのだろうか。「軍人化」研究からは派閥抗争の過程や様態に関する議論が捨象されている。

2017年政変に関する議論はいずれも政変の直接的な原因を端的に指摘している。一方で分析の射程は政変前後の短い期間であるので、軍と他のアクターの間の経時的な関係性を描いていない。つまり、派閥抗争がどのような経緯で起き、どのような過程を経てきたのかはわからない。

ジンバブエ情勢に関しては2017年政変に関するものも含め、優れたスナップショット的分析が多数ある。おもなものとして、2000年の憲法改正国民投票と議会選挙、2002年の大統領選挙、2008年の総選挙と野党MDCとの権力分有政府、2013年の総選挙などについて短期的な視点から深い分析が与えられている。そしていずれの分析も派閥抗争について断片的ながらも描いている[Cheeseman and Tendi 2010; Hove 2017; Tendi 2013; 2016]。しかしあくまでこれらの研究の目的は短期的な視野による情勢整理であるため、派閥抗争の過程と全容を経時的に描いていない。

つまり、現在に至るまでジンバブエにおける派閥抗争の過程は断片的な情報として述べられているにすぎず、十分に整理されているとは言い難い。ジンバブエの政治構造を分析するために、政治主体としての軍の性格や軍が勢力を増大する過程で生じた変化の理解が不可欠である。そこで以下の各節では、スナップショット的な情報を整理し、「軍人化」の進行に合わせて軍と他の政治勢力がどのような関係を形成し、変化してきたのかを描く。

2. ムジュル=ムナンガグワ抗争:2013年選挙直後まで

あらゆる組織に派閥は存在し、ZANU-PFも例外ではない。ZANU-PF内部では独立闘争期から個人的な関係や出身地、軍事作戦の活動範囲、政治姿勢などさまざまな理由で派閥が形成されてきた。ムガベは闘争期に対立勢力を抑えてリーダーシップを確立したが、地位の維持にあたっては自身を越える人物の出現を抑えつつ、派閥間のバランスをとった利権配分や人事を心がけてきたとされる。ZANU-PFを離脱しムガベに反旗を翻す勢力は存在したものの、1990年代に成功を収めた者はいなかった[Compagnon 2011; Rutherford 2018]。

ZANU-PF内の派閥は1990年代末までにふたつの勢力に収斂していった。ソロモン・ムジュル(Solomon Mujuru)退役大将を領袖とするムジュル派と、ムナンガグワ派である。両者ともZANLA時代からの有力軍人であり、独立後はムジュルが国軍司令官、ムナンガグワが国防大臣を務めていた。ムジュルは自身がムガベの後継者を目指すのではなく、比較的若い層への権力継承に熱心であったとされる。ムジュルは中堅軍人や議会コーカスを含む文民など、党内に広い支持基盤を有した。ムナンガグワ派は、政府高官や高位の軍人に支持され、ムガベの後継はムナンガグワを含む軍人がふさわしいとしてきた派閥である。ムナンガグワ派は影響力のある高官の支持を得た一方、一般党員レベルでの支持の裾野は広くなかった。両派は政権内部で激しく争い、中央諜報局(Central Intelligence Organisation: CIO)がムジュルを、軍諜報部(Military Intelligence: MI)がムナンガグワを支援するなど、諜報機関をも分断した[Bratton 2014; Hove 2017; Tendi 2016]。

2000年頃のZANU-PFに対する支持低下に際し、ムガベは治安部門への依存を強めた。その対価としてムガベは軍人や退役軍人に文民ポストや経済的利権を与えた。また、ムガベ政権は1998年にコンゴ民主共和国のローラン=デジレ・カビラ(Laurent-Désiré Kabila)政権を支援するため、第二次コンゴ内戦に国軍を派遣したが、これはコンゴの鉱山利権を軍関係者に配分する目的もかねていた。さらに2006年にジンバブエ国内でダイヤモンド鉱山が発見されると、国軍関係者が代表を務める企業が利権を独占した[Bratton 2014; Kriger 2012; Rutherford 2018; Shumba 2018]。

第1節で指摘した通り、行政機関のポストも軍人に配分され、「軍人化」が進み、省庁や政府系企業の幹部に軍高官が登用された。さらに、末端職員ポストも軍人に与えられるようになった[Bratton and Masunungure 2008]。一方これまで勤務していた文民は軍人登用の玉突きを受けるかたちで降格ないし辞職を余儀なくされた。行政ポストには入札にかかわる利権やキックバックの受け取りなど、汚職の余地があった。新たに登用された元軍人たちは汚職と蓄財を進め、本来期待された職務は放置された。結果的にジンバブエの行政サービスは質量ともに急速に悪化していったと指摘されている[Alexander 2013; Cheeseman and Tendi 2010; Dorman 2016; McGregor 2002; Shumba 2018]。

このように政府の「軍人化」を通じ、ムガベは軍への資源配分を行い、忠誠心を確保した。そして、国軍を動員して野党MDCの支持者を弾圧してきた。

一方、政策形成への参加機会の増大により、軍高官や彼らが支持するムナンガグワが過度に増長する可能性を懸念したムガベは、バランスをとる目的からムジュル派の待遇を引き上げた。2004年にムジュルの妻であるジョイス・ムジュル(Joice Mujuru)を副大統領に据えたほか6、2008年までに党幹事長、政治局、報道官、青年同盟など政府や党の要職にムジュル派を登用した。とくに影響力の強いポストにムジュル派が登用されたことで、ムナンガグワ個人はムガベ後継レースで後手を踏んだ状態に置かれた[Tendi 2013]。

2008年に行われた大統領選挙は結果的にMDCとの権力分有を強要させられたため、ZANU-PFにとっては敗北ともいえる選挙であった。選挙戦略はムジュル派が取り仕切ったが、大統領選挙の1回目投票の集計結果はムガベが43%で、47%の支持を受けたMDCのモーガン・ツァンギライ(Morgan Tsvangirai)候補を下回るものであった[Tendi 2016, 215–16]。単独過半数を得た候補が不在だったために決選投票が行われることになったが、国軍などによるMDC支持者への暴力が拡大し、ツァンギライが撤退を表明、ムガベが「勝利」した。国軍による鎮圧はチウェンガとムナンガグワがムガベに強く勧めた結果であるとされる[Hove 2017]。しかしこの結果を国際社会は認めず、ターボ・ムベキ(Thabo Mbeki)南アフリカ大統領(当時)の仲介でMDCとの間で権力分有が図られた[Mlambo 2014]。

一方で2008年の大統領選挙はムナンガグワ派が勢力を巻き返す機会となった。選挙後、ZANU-PF党内ではムジュル派の選挙戦略が敗北の原因であるとして非難された。ムジュルを推挙する中央諜報局よりもムナンガグワを支持する軍諜報部が情報源としてムガベの信頼を得るようになった。こうした状況下で、2011年8月にムジュルの自宅が火災に遭い、ソロモン・ムジュルが死亡した。表向きは事故とされるが、ムナンガグワ派による暗殺であるとの見方が強い[Hove 2017; Kriger 2012; Tendi 2013; 2016]。

2013年の総選挙は権力分有状態の確実な終了が優先されたために、ZANU-PFは一体感を保って選挙戦に臨んだ。それまでの選挙と異なり、国際社会の批判を避けるため、2013年総選挙は比較的平穏に済んだ。MDCは支持基盤の縮小や権力分有政府ゆえに現職批判ができなかった。一方ZANU-PFは、硬軟合わせた戦略をとった。物理的な暴力行使は控えられたとはいえ、ZANU-PFは日常的にMDC支持者への心理的な脅迫や嫌がらせを行ってきた。テンディは、2008年選挙時のトラウマが記憶に新しい中で、これらの脅迫がMDC支持者に与えた影響は少なくないと論じている[Tendi 2013]。ルバスは2012年時点で有権者の90%が選挙時暴力を懸念していたとする調査結果を報告している[LeBas 2014]。また、ZANU-PFは選挙と前後してMDC支持層へ土地や食料配布などの資源配分を併せて行った。結果はZANU-PFの圧勝だった。MDCの獲得議席が49議席にとどまる一方、ZANU-PFは159議席を獲得した[Raftopoulos 2013]。

2013年選挙の勝利後、ZANU-PF内ではムガベの後継者レースが本格化した。すでにムガベは高齢であったし、大統領任期制限の導入により2018年の次期選挙までに後継レースが本格化するのは確定事項であった[Raftopoulos 2013]。2013年選挙の際に後継争いが表立って起きなかったのは、ZANU-PFの確実な勝利の実現のためであった。ムジュル派とムナンガグワ派の勢力は決しておらず、いずれもムガベほどのカリスマ性を持たなかったために、ムガベに代わる候補の一本化ができなかったことも一因として指摘される[Tendi 2013]。

ソロモン・ムジュルの死亡後すでに優位に立ちつつあったとはいえ、ムナンガグワ派はさらなる猛攻に出た。ムナンガグワ派は軍諜報部を通じ、ジョイス・ムジュルがムガベの目の届かないところで勢力を拡大しつつあり、ムガベの暗殺を企てていると吹聴した。ムガベは2014年にジョイス・ムジュルを副大統領から解任し、後継にムナンガグワを据えた。ジョイス・ムジュルとその一派は離党し、後継レースから脱落した[Tendi 2016]。

3. 最後の決戦:G40の出現と2017年政変

ムジュル派放逐により、ムナンガグワ派の勝利が決まったかに見えたが、ムガベはなおも勢力バランスをとろうとした。ムガベは自身の妻グレースやジョナサン・モヨ(Jonathan Moyo)ら若手を登用するようになった7。彼らは独立戦争を経験していない40代前後の人々であり、「ジェネレーション40(G40)」と呼ばれた。グレースがZANU-PFの女性連盟議長に任命されたほか、モヨは高等教育大臣に任命された[Hove 2017]。これら高官にも、鉱山利権をはじめとする経済利権が配分されている[Shumba 2018]。

少なくとも初期のG40は派閥とは言い難かったが、次第にムナンガグワに対抗する勢力になっていった。G40は「比較的最近ムガベに任命された若い政治家」である以外に共通項はなく、政策グループを形成しているわけでもなかった。一方で若い政治家たちは、SNSなどを通じて、ムナンガグワなど旧世代の既得権益を批判していた。こうした駆け引きは次第にムナンガグワを代表とする「チーム・ラコステ」とグレースを領袖とする「G40」の争いとしてフレーム化され、メディアで報じられるようになった[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019; Hove 2017; Tendi 2016]。

この対立が2017年11月に結末を迎えたのはすでに述べた通りである。ムガベによるムナンガグワ解任が直接の引き金となって事実上のクーデタがおこり、ムナンガグワが大統領に就任、ムガベ自身は退任を余儀なくされたのである。G40と目された政治家も亡命したり、あるいは離党したりと、ZANU-PFから放逐された8

4. 何が変わったのか?

2017年政変は何らかの変化をジンバブエにもたらしたのだろうか。ここまでの経緯を振り返れば分かる通り、ムナンガグワの後継大統領就任は少なくとも2014年の副大統領就任によって少なからず決定していたことである。さらに言えば、ムガベは2000年前後から約20年にわたり軍に依存した政権運営を行っており、行政機関を含めて軍人が政府の広範な領域に浸透してきた。

これらを踏まえれば、ムナンガグワ政権はムガベ政権期と本質的に変わらない。ムガベの退任は、早かれ遅かれ、予定されていた出来事だった。パトロン・クライアント関係を通じたZANU-PFと国軍の間の蜜月関係にも変化はない。むしろ、国軍司令官のチウェンガが副大統領に、国民向け放送を行ったシブシソ・モヨ(Sibusiso Moyo)少将が外務大臣に就任するなど、政府の「軍人化」はこれまで以上に進んでいるように見える。

政府の暴力性にも変化はない。ムナンガグワは就任早々に予定通り2018年に総選挙を実施すると約束し、実行した。MDC党首のツァンギライが病死しMDCが各派閥に分裂する中でZANU-PFは容易に勝利し、下院では66%の議席を獲得した。しかし選挙直後の2018年8月に起きたMDC支持者のデモに対して治安部隊を動員した鎮圧が行われ、死傷者が出た。また、2019年1月には原油高を不満とする市民のデモをやはり暴力的に鎮圧している。とくに選挙後の鎮圧はムナンガグワが主導したことが明らかになっており、国軍がZANU-PFの利益のために暴力を行使する姿勢に変化がない様子がうかがえる[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019]。

一方でZANU-PFの支持基盤が不安定になった可能性はある。ムナンガグワは大統領選挙に勝利したとはいえ得票率50.8%と僅差であり、2013年選挙の際のムガベの得票率(61%)とは程遠い。したがってムナンガグワが広い支持を得ているとは言い難い[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019, 591]。これはムジュル派やG40など従来のZANU-PF構成員の一部が2013年以降にムナンガグワ派との抗争の結果放逐されたことと無縁ではなかろう。

ただし、野党MDCが深刻に分裂していることを踏まえれば、ZANU-PFの政権維持は当面難しくないだろう。ルバスが指摘している通り、MDCが強い野党として出現し活動できた背景には、地域・民族横断的かつ、エリートと一般市民の関係が強い労働組合の存在がある[LeBas 2011]。しかし2000年代の経済混乱により労組組織率が低下し、さらに度重なる抑圧の結果としてMDC支持層が国外移住したり、トラウマのため政治活動から距離を置いたりと、MDCが強力な野党として存立できた基盤が失われつつある[LeBas 2014]。強力なリーダーシップをとってきたツァンギライは2018年2月に病死し、後継をめぐってMDCは分裂気味である[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019]。したがってZANU-PFに代わる強力な野党がすぐに出現する見込みは低く、当面ZANU-PFが選挙で多数派を占めることはそれほど困難ではないだろう。

ZANU-PFにとってより大きな脅威は軍内部で派閥の抗争が発生する危険性であろう。国軍内には大小さまざまな派閥が存在する9。これまではムガベによる統制のもと、利権が配分されてきた。しかしムナンガグワ政権の成立によって軍が直接国家を独占できるようになった。したがって、利権の分配の仕方を誤れば軍内部での抗争がおこる可能性も排除されない10。利権配分に絶大な権力を持つ大統領の後継問題は最もセンシティブである。2017年政変の立役者であるチウェンガ副大統領は、次期2023年選挙で自身がムナンガグワの後継に就任すると見込んでいるようであるが[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019; Tendi 201911、ムナンガグワが応じなければ両者の間で対立が生じる可能性もある。

おわりに

本稿は中長期的な視野からムナンガグワ派が政権を獲得する過程を描くとともに、ムナンガグワ政権とムガベ政権の間の連続性の有無を検討してきた。ムガベは治安部門への依存により抑圧的な統治を繰り広げた一方、その先兵である国軍は代償としてさまざまな利権を得ていた。ジンバブエの政府機関は「軍人化」が進み、行政機関はサービス提供よりも利権配分の仕組みとして活用されている。こうした中長期的な「軍人化」の動きはムナンガグワ政権の成立後も変化しておらず、チウェンガの副大統領就任やモヨの外務大臣任命など、むしろ加速している様子すらうかがえる。そして2018年8月のデモ鎮圧にみられるように、治安部門を動員した政府の抑圧的姿勢はムナンガグワ政権下でも引き続き観察される。

ムガベはZANU-PFの派閥間闘争を管理することで政権を維持してきた。退役軍人や国軍に支持されてきたムナンガグワは、政府の「軍人化」により立場を強化し、20年あまりにわたり、派閥抗争を繰り広げてきた。最終的にムナンガグワは、対立派閥であるムジュル派とG40だけでなく、ムガベ自身をも放逐することでムガベの後継者の地位を得た。

ここまでを振り返ると、ムガベ政権とムナンガグワ政権の間には一定の連続性がみられる。いずれも国軍を政権維持のための強い基盤とし、利権配分を通じて忠誠心を維持している。さらに、野党に対する暴力的性向も引き続き観察できる。この意味で、ムガベ政権とムナンガグワ政権は多くの特徴を共有しており、連続性がみられる。

一方で、大きな断絶も見られる。国家機構は「軍人化」していたとはいえ、ムガベ政権期にはムガベを含む文民が政権に参加していた。しかしムジュル派やG40が放逐されたことで、ZANU-PFからは文民の多くが去り、多様性は明らかに低下した。党内の多様性の低下が中長期的なZANU-PFの支持に与える影響の大きさは未知数である。しかし2018年大統領選挙でのムナンガグワの得票率の低さは、従来の支持者がZANU-PFに投票しなかった可能性を示唆している。

さらに、国軍自身が権力を握ったために却って国軍内部の対立が激化する可能性は否めない。国軍内部の派閥や「ベテラン」と「新入り」の区分など、国軍内部には外部から観察が難しいさまざまな亀裂や党派が存在しているとされる[Maringira 2017]。利権配分の責任者が国軍関係者になったことで、軍内部で抗争が起きる危険性すら秘めている。憲法で定められた2期10年の任期制限を勘案すると、遅くとも2028年までにムナンガグワ後継をめぐるレースが確実に起きる。短期的には2017年政変の立役者であるチウェンガとムナンガグワの間で、2023年の選挙に向けてどのような交渉が交わされるかが注目すべきポイントであろう。

野党側の分裂・弱体化傾向に加え、ZANU-PFが治安機関を動員した抑圧をこれまで通り続ければ、ZANU-PFが政権を維持することはそれほど難しくないだろう。しかしZANU-PFが政権を維持したとして、現在のジンバブエが抱える問題が解決するわけではない。欧米諸国は制裁解除に向けた動きを見せつつあるが、制裁解除が直ちに投資拡大や援助流入の増大をもたらすわけではない12。「軍人化」によって政府が提供する公共サービスの質や量が大きく低下したが、「軍人化」の傾向が続いている以上、状況改善は望めないだろう。人材流出や基礎的なインフラの崩壊など、ジンバブエが抱える問題の解決に関して、現時点では悲観的にならざるを得ない。

謝辞

本研究は、日本学術振興会特別研究員奨励費(課題名「現代アフリカを通じた国家形成および国家建設の理論的・歴史的研究」、研究課題番号19J11618)の成果の一部である。草稿に対し多くの建設的なコメントを下さった、匿名の査読者ならびに『アフリカレポート』関係者の皆様にこの場を借りて御礼申し上げる。

本文の注
1  2020年現在時点でムガベより在職期間の長いアフリカの国家元首は、アンゴラのジョゼ・ドス・サントス(José Dos Santos、38年、在1979~2017)、ガボンのオマール・ボンゴ(Omar Bongo、42年、在1967~2009)、赤道ギニアのオビアン・ンゲマ(Obiang Nguema、41年、在1979~現役)、カメルーンのポール・ビヤ(Paul Biya、38年、在1982~現役)、トーゴのニャシンベ・エヤデマ(Gnassingbé Eyadema、38年、在1967~2005)のみである。

2  “Militarisation”は一般に「軍事化」と訳される。しかし、後述する通り、「ジンバブエの政府機関がmilitariseされる」という場合、軍人による政府機関ポスト獲得を意味する。つまり政府機関そのものが軍事的になるのではなく、単に人員が軍人に置き換えられているにすぎない。したがって、少なくともジンバブエの文脈では、政府機関のMilitarisationという場合、「軍人化」と訳すほうが適切である。本稿では以下、Militarisationを「軍人化」と訳す。

3  統合後の軍は4つの旅団で構成されていた。イギリスは軍事顧問団を派遣し、統合の支援と兵士の訓練や教育を行っていた。一方、ムガベはかつてのライバルを信頼できず、1981年に第5旅団を結成すると表明した。第5旅団は元ZANLA兵士のショナ人からなる部隊で、北朝鮮の軍事顧問団の訓練を受けた。ムガベ政権はZAPUが武装蜂起を企てているとして、1983年から1987年頃までZAPUの基盤であったマタベレランドに第5旅団を動員し、掃討作戦を展開した。この作戦では約2万人が殺害されたと推計されている。この事件は第5旅団の標語から「グクラフンディ(Gukurahundi)」と呼ばれる。なお、グクラフンディとは、「もみ殻を洗い流す春先の雨」を意味するショナ語である[Dorman 2016; Kriger 2012]。

4  シュンバは要職に就いた軍人に関する詳細なリストを紹介している[Shumba 2018]。

5  テンディが指摘しているように本件の実態はクーデタである。国際メディアでは無血と報じられたが、テンディが軍関係者から得た情報では、チョンボ財務大臣邸制圧の際に私設ガードマンが殺害されるなど、実際には犠牲者が発生している。アフリカ連合をはじめとした地域機構は、クーデタのような非憲法的手段による政権奪取が起きた場合、加盟国資格を停止する。また、IMFや世銀などの国際機関からも支援を得られない可能性があり、クーデタ成功後に周辺国や国際社会から孤立する可能性があった。軍がクーデタ宣言を行わず、また事態進行中にムガベがジンバブエ大学の式典に参加するなど表向き通常通りの動きがみられた背景には、クーデタ成功後の地域・国際社会との関係への考慮があった[Tendi 2019]。

6  井上によれば、ムガベの盟友であったサイモン・ムゼンダ(Simon Muzenda)副大統領が党派間対立のスタビライザーとして活躍しており、ムゼンダ存命中に党派対立は表面化しなかったという[井上 2018]。一方、ムゼンダの死去後、ムジュル・ムナンガグワ抗争が本格化したといわれる。ムゼンダ死去後、ムナンガグワはムガベに対し副大統領ポストを欲したが、これがムガベの不興を買いムナンガグワ派は2008年選挙に至るまで一時期要職から遠ざけられた。ムガベはソロモン・ムジュルの妻ジョイス・ムジュルを後継副大統領に指名した[Compagnon 2011]。

7  2014年にジョイス・ムジュルが解任される直前にはSNSなどを中心にグレースらがジョイス・ムジュルを批判する言動を繰り返しており、すでに若手政治家の勢力拡大の兆候は見られた[Tendi 2016]。

8  元ムジュル派はジンバブウェ人民第一党(Zimbabwe People First: ZimPF)、G40は国民愛国運動(National Patriotic Movement: NPM)をそれぞれ結成した[Beardsworth, Cheeseman and Tinhu 2019; Hove 2017]。

9  自身もジンバブエ軍に所属した経験があるマリンギラは、ジンバブエ軍の一般兵士へのインタビューを通じ、一般兵士の間に存在する様々な対立や政治的意見の相違を示している。また、2000年代以降、ZANU-PFへの態度を理由とした人事により降格させられた兵士の間には、軍上層部や昇格した兵士への不満があることも指摘している[Maringira 2016; 2017]。

10  最近の比較政治学の議論では、軍が政権を直接運営する場合、軍内部の亀裂が露呈する可能性が指摘されている[Svolik 2012, 134–35]。

11  政変以前に発表されたBratton[2014]やTendi[2016]は、「チウェンガはムナンガグワをムガベの後継に就け、そしてムナンガグワの後継として自身が収まる算段を組んでいる」との関係者の証言を紹介している[Bratton 2014;Tendi 2016]。

12  EUとアメリカは2000年代初頭より相次いで対ジンバブエ制裁を実施し、援助の停止や政府高官の入国拒否、域内資産の凍結などを行ってきた。イギリスのブレア労働党政権とジンバブエの極端な関係悪化が制裁実施の背景として指摘される[Tendi 2014]。イギリス保守党の政権奪還を機に歩み寄りの兆しがみられ、2013年にはロンドンでEU、米、カナダ、日、豪、SADC諸国とジンバブエによる「ジンバブエ・フレンズ」会合が実施されている[Raftopoulos 2013]。

参考文献
 
© 2020 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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