日本地理学会発表要旨集
2007年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 211
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アジア・太平洋戦争期の満鉄調査部における地理学者の役割
増田忠雄の場合
*柴田 陽一
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抄録


 旧日本植民地では,さまざまな分野の学者が,教育,軍事,調査活動に従事していた.戦後長い間,こうした活動について検討されることはなかったが,近年他分野では盛んに行われている(岩波講座「帝国」日本の学知を参照). しかし,日本の地理学界において,植民地における地理学者の活動を検討した研究は,ようやく始まったばかりである.発表者は,5月の歴史地理学会で,植民地高等教育機関(「満洲国」建国大学)についての事例報告を行った. 本発表では,植民地調査機関の代表例である満鉄調査部を取り上げる.具体的には,アジア・太平洋戦争期の満鉄調査部と係わった地理学者の一人増田忠雄(1905年~中央アジアで客死)に注目し,彼の活動を,満鉄全体の方針と彼の研究との間の関連性を考慮しつつ追跡することを通じて,調査機関における地理学者の役割や,満鉄という「場」の特長と限界を考える.
 増田の活動の追跡の結果,以下のことが明らかになった.
 第一に,満鉄という「場」は,植民地支配の上に成立したものではあるが,当時の「息も詰まるばかり」の国内とは異なり,多額の資金,膨大な資料を自由に用い,十分な現地調査を行う機会を提供していたことも事実であること.
 第二に,こうした環境の中で増田は,自身がヘディンを論評したごとく(『書香』115号参照),自分の立場を理解した上で,「時の政治勢力を利用」し,「文化圏」研究という「科学的熱望を実現」しようとした節があるが,彼の主観的意図がどうであれ,彼は「満洲国」の地政学的位置のため,悲運な死を遂げたし,満ソ国境研究というテーマ選択も満鉄にいたがゆえのものであったこと.
 第三に,増田の活動の軌跡は,さまざまな分野の学者が集う植民地調査機関で地理学者に求められたのは,「総合の学」としての統括能力ではなく,何をどのように分析できるかであり,地理学者は基礎的調査の担当であったことを示していることなどである.
 今後もわれわれは,植民地における学術活動を,それを可能にした諸条件を念頭に入れつつ批判的に検証していく必要があるが,本発表をその布石としたい.

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