抄録
I はじめに
わが国では,1961年の農業基本法の施行などに伴う農業構造改善事業の実施や,1966年の野菜生産出荷安定法の施行の結果,野菜を消費地に安定して供給するいわゆる産地が各地に形成された.これら産地は市場での競合を経験しながら発展を遂げた.しかし,1990年代以降,産地間競争の激化や輸入野菜の増加,価格の低迷,生産者の高齢化などによって,販売金額が伸び悩み,多くの産地が縮小や再編を強いられている.本発表では,埼玉県北西部に位置する本庄市(旧児玉町)を研究対象地域として,産地を存続させるための農協や行政による施策と,それに対応する農業経営の変化を検討する.この地域は埼玉県を代表するナスやキュウリの野菜指定産地である。とくに夏秋ナスの生産は50年余りの歴史を持ち,厳選な選果に取り組んだ結果,規模を縮小しながらも市場から児玉ナスとして高い評価を得てきた.本研究ではナス生産農家を対象に調査を行った.
II 地域農業の概要と農協集出荷組織の再編
児玉地域では,1970年代までは米作+養蚕業を中心とする経営が行われていたが,養蚕業の衰退や稲作の生産調整により,1960年頃に始まった露地ナスまたは施設キュウリの生産が本格化した.とくに旧児玉町では,収益性の高さと先駆者の存在から,ナスを中心とする経営を選択した農家が多かった.当時からナスの品種は千両2号に統一され,タマネギやブロッコリーを組み合わせた生産体系が確立された.1976年には児玉地域の各農協が協力し,東京市場への一元出荷体制が誕生した.高品質のナスやキュウリを生産するための技術が普及し,それを可能にする先駆者の活動が,産地の規模と評価を保持する基盤となった.しかし,1990年代以降は,労働負担や高齢化,産地間競争などによりナス生産は減少傾向をたどり,東京市場での地位が低下した.
1997年に児玉地域の1市4町1村(本庄市・上里町・美里町・児玉町・神川町・神泉村)の各農協が合併して,埼玉ひびきの農業協同組合(以下,JAひびきの)が発足した.JAひびきのでは,広域合併をきっかけに,ナスやキュウリの生産農家の労働時間の負担軽減や出荷量の安定化を図るために,2002年度に埼玉県の輸入農作物緊急対策事業を利用して,ひびきの南部選果利用組合を組織した.JAひびきの児玉集出荷センター内に,ナスとキュウリの選果機が設置された.組合の発足時に,ナス生産農家の参加は,旧本庄市6戸,旧児玉町75戸,神川町25戸,上里町10戸,神泉村3戸であった.キュウリ生産農家については,旧児玉町8戸,美里町20戸,神川町30戸,上里町1戸の計約180戸が参加した.
選果機の稼働時期は,ナスでは6月~11月,キュウリでは2月~7月,9月~12月上旬である.選果施設では,60名(男性13名,女性47名)のパート従業員が厳選な選果にあたっている.組合員の共選共販の割合は90%以上である.ナスの出荷先をみると,埼玉県内の市場が50%,東京・神奈川の市場が50%を占める.キュウリについては,埼玉県内の市場へ30%,東京・名古屋の市場へ70%の割合である.少量の規格外のものは漬物業者と取引される.
2005年からは全農埼玉の野菜共販ブランド「菜色美人」の一つとして扱われ,「児玉のナス」の知名度の向上を図るために,消費者に向けてラジオなどの宣伝活動が行われている.
このように,農家は,選果場を利用することによって手間のかかる選別・箱詰作業を大幅に削減できた.2007年の調査では,ナス生産の主力な農家は60~70歳代の家族経営で,1戸あたりのナス作付面積は約30aである.農業経営自体は大きく変わらないが,余剰労働力を活用して生産管理に十分な時間をかけることで,農家間の品質格差を防止したり品質の向上を図ることが可能となった.また,後継者のいる農家ではナス以外の栽培も本格的に行われている.
III 産地存続の課題―まとめにかえて―
農協の広域合併をきっかけに,行政単位をこえた共選共販体制が構築され,高い品質と安定的な供給量を確保することができた.また,県の野菜ブランド化事業もある程度の役割を果たしている.課題として指摘できるのは,東京市場を中核とした販路は他産地との市場競争に直面するため,他の量産型産地とは異なるマーケティングの構築である.また,選果施設が組合を脱退する農家をある程度抑えたことは評価できるが,それは産地の存続の抜本的な解決に結びつくものではない.2008年の調査では,ナス生産者数が減少し,年齢と体力に合わせて作付面積を減らす農家も確認できた.また,高齢で後継者がなく,組合を脱退した農家は自給的な農業を行っていた.行政や農協の施策は産地の存続にとって重要な役割を果たすが,当然ながらそれには限界がある。こうした問題は日本の農業が抱える課題のひとつである。