日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 424
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日本統治初期の台北における内地人居住地の復原と社会空間の研究
*山下 昭洋
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抄録

1、はじめに 日本統治下台湾における内地人の居住地に対する内部構造や復原を取り扱った研究はほとんどなされていないのが現状である。 報告者は、本研究を始めるに当たり、日本統治下台湾における内地人の居住地を特定するため、先ずは日本統治下台湾で台湾総督府が実施した戸口調査の実態を把握することを試みた。その結果は、2008年7月に「日本統治下台湾の「戸口調査」と「内地人」人口」で、統治期全期を通した戸口調査(センサスも含む)を調査した上、内地人人口の推移(1896~1945)を明らかにすることできた。 次に、上記の研究を基にしてセンサスが行われた年を中心に台湾全島内のどの場所に内地人が集中していたのかを明らかにするため、2008年11月に「日本統治下台湾における「内地人」集中地の分布」において、内地人の集中地を調査発表した。その結果、台湾における内地人の集中地にはインフラが整備されていることが判明したことと、内地人の約7割は当時市に昇格した11市に集中していることが調査により判明した。そして、その中でも台北に約3割の内地人が居住していたことも明らかになった。これらの結果を踏まえた上で、日本統治下台湾における内地人居住地研究の端緒とすべく、台北における内地人居住地の研究を行うこととする。 2、研究対象の時期と地域 本研究に関した現存する当時の資料の調査を行った結果、最も初期の資料は、1900年ごろに集中して存在していることが判明した。そのため、領台初期の1900~1902年を調査の対象時期とする。主たる対象地域は、台湾北部の台湾総督府が所在した大加蚋堡内の台北三市街(城内・艋舺・大稲埕)と呼ばれていた地域である。また、内地人の居住地を復原・分析するに当たり大加蚋堡全域の人口も調査する。 3、研究目的 日本統治下台湾における都市計画及び都市発展は、後藤新平民生長官(1898~1906)時代に大きく躍進したとされている。黄蘭翔(1992)の「日本植民初期における台湾の市区改 正に関する考察―台北を事例として―」によると、台湾で最初となる台北城内の市区改正公布されたのは、1900年8月であることから、本研究で取り扱う資料は、まだこの市区改正の影響をあまり受けていない時代の台北の復原となるであろう。これらのことを踏まえた上で、先ずはこの時期の台北三市街内の内地人居住地を文献や地図を用い特定すし、内地人居住地の復原を行う。その上で、内地人居住地内の社会空間を分析する。最後に三市街の相違性や特徴を見出すことにより台北の内地人居住地の形成及び変化の過程を知るモデルとしたい。 4、研究方法 平面的に内地人居住地を捉えるために地図を使用するが、台湾日日新報社(1903)出版の『最近實測臺北全圖附圓山附近』を主に基図として使用することとする。 内地人居住地の調査では、『明治三十五年末街庄別調査臺灣現住戸口統計』(1903)を使用する。この資料は、台湾総督府総督官房文書課が編纂したもので、地方区画の最小単位である「街・庄・郷・社」で種族別人口が表記されているため、これを用い、台北の内地人居住地を見出す。 内地人居住地の社会空間の調査では、上田元胤・湊靈雄共編(1900)『臺灣士商名鑑』を使用する。この資料は1900年11月末日現在の、主に台北の内地人の「名士」を網羅したもので、総督府官吏の職位、及び城内559、艋舺487、大稲埕527の民間人の「業種、住所、商号、氏名」が記載されたものであり、これを基に内地人居住地の社会空間を研究する。 5、結果の概要  内地人居住地の調査では、当初、台北城内とその周辺にのみ内地人が集中すると予想していたが、実際には艋舺の最も古い地区や、大稲埕の清朝時代の外国人居住地にも内地人が多く居住していたなどの新たな発見があった。  また、内地人の社会空間調査では、城内・艋舺・大稲埕の内地人を職業別に分類したことにより、内台人の居住空間の相違や、内地人居住地の社会空間の特性を見出した。

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