日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 109
会議情報

浅間山麓六里ヶ原周辺の土地機能回復過程に関する考察
*茗荷 傑
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録

はじめに
茗荷・渡邊(2008)では有田郡広川町と函館市椴法華地区の事例から両者を比較しつつ、また、茗荷(2008)では青ヶ島の事例から災害と土地機能の回復について考察した。
今回取り上げた北軽井沢一帯は、浅間山の天明3年の噴火で発生した鎌原土石なだれに襲われ大きな被害を出したことで知られる鎌原地区が含まれる地域である。特に六里ヶ原から押切場にかけての一帯は噴火以降長らく植生の侵入もなく、荒地の状態が続いていたが、草軽電鉄の敷設により機関車の火の粉から山火事が発生、その影響で植生侵入が助長された結果、急速に森林が形成されることとなり、現在のような別荘地開発へとつながっていったと考えられる。すなわち土地の機能は自然の回復力を待つのではなく、人為的な活動がそれと意図せず、回復させる可能性があるということが考えられるのである。
北軽井沢と草軽電鉄
北軽井沢の浅間山よりに広がる六里ヶ原一帯は天明の噴火によって吾妻火砕流に覆われた。六里ヶ原はそのほとんどが現在別荘地あるいは耕作地となっているが、浅間山近くの浅間白根火山ルート周辺は私有地であるにもかかわらず開発されずに残っている。これは特に周辺の景観を保存しようという殊勝な考えからではなく、単に浅間山に近すぎて開発しても売れないだろうという判断によるという。ルートから集落側には植生が侵入し森林を形成している。土地の者の話では昭和30年代には一木一草も無かったところに40年代になってちらほらと植生が侵入し始めたとのことである。また、同ルートから山側の地域は火口から半径4km以内の円内に入るため噴火時など入山規制が発動された場合には立ち入ることができない。
草軽電鉄は軽井沢から草津をつなぐ目的で「本鉄道は、一面草津その他沿線の旅客を目的とするとともに、草津方面に出入する物資及び長野原・嬬恋・吾妻牧場付近より積み出す木材・薪炭・その他貨物輸送のため」「この地方の発展に資するところあらんとする。」(創立趣旨)敷設され、大正4年7月にまず軽井沢-小瀬温泉間が、続いて嬬恋までが大正8年に開業した。薪炭のほか白根山から産出する硫黄の運搬に大いに寄与し他とされている。その後大正13年に電化、大正15年に軽井沢―草津間が全面開通したものの、昭和37年に全面廃線となった。ナローゲージの軽便鉄道であったが(写真・1)蒸気機関車時代にはよく火の粉が飛んで野火を出していたという。
土地機能回復の過程における可能性
六里ヶ原に植生が侵入し始めた時期と鉄道が敷設された時期が一致しているためにこの山火事が六里ヶ原の植生回復に寄与したのではないかと考えた。資料によると草軽鉄道は六里ヶ原よりもおよそ1km東よりの地域を走っており、天明の噴火で直接被害を受けた地域を縦貫しているわけではない。当時の写真絵葉書を見ると軌道周辺には森林の存在が確認できる。したがって山火事により地表が露出した状態が続くと、表土が移動しやすくなり、その結果徐々に植生は西側へと移動していくのではないかと考えた。南端部分は黒豆河原と呼ばれ現在も植生はほとんど見られないのであるがこのあたりは天丸山が草軽電鉄の軌道との間に横たわっているのである。従って軌道敷設の影響を受けたとは考えにくい。昭和50年に撮影された航空写真(写真・2)からは別荘地周辺の植生の前縁は現在の状態よりも明らかに別荘地よりの位置にある。
今回は六里ヶ原、押切場周辺の現在の植生及びその侵入状況や野火の痕跡などの調査と土壌分析にもとづいてその可能性の検証を行う。

Fullsize Image
著者関連情報
© 2009 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top