日本地理学会発表要旨集
2013年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: S0602
会議情報

発表要旨
安政元年のハザードマップ
紀伊国広における地震津波災害記録の生産と災害文化
*島津 俊之
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録
地震や津波等の周期的な自然災害の脅威に晒されてきた地域では,災害に対するある種の心構えや行動様式が社会的に構築され,それらが一定の減災効果をもたらすことが知られている。ムーアがこれを災害文化と呼んで以来,その意義や限界に関する研究が蓄積されてきた。なかでも紀伊国広の《稲むらの火》は,郷里と醤油醸造業(ヤマサ)を営む下総国銚子を往来していた七代目浜口儀兵衛が,1854年の安政南海地震の津波に際し稲叢に火を放ち,逃げる人々を導いたという語りによって,歴史的な災害文化の典型とみなされてきた。災害文化を地域文化の一つとみれば,《稲むらの火》は,高次表象レヴェルにおける地域文化の生産・流通・消費を考える上で恰好の素材となるのであろう。しかし本発表では,同じ広の災害文化とはいえ,社会の各層に流通し消費されてきた《稲むらの火》ではなく,被災現場の時空間により密着した低次表象レヴェルの災害文化の生産に焦点をあてる。固より生産される災害文化は多様であって,あるものは専らエリート層に流通し消費され,またあるものは歴史の地層に埋もれてしまう。梧陵と号したヤマサの七代目と同じく広と醤油醸造業(ジガミサ)を営む銚子を往来し,1894年に家業をヤマサの十代目儀兵衛に売却した古田荘右衛門は,家督を相続し咏処と号する前の,安政南海地震から二年半近く経った安政四年三月に,庄三郎致恭の名で『安政聞録』と題する被災記録を書き遺した。和歌山県広川町の養源寺に所蔵されるこの和装本は,『日本地震史料』に一部が翻刻され,《稲むらの火》の傍らを逃げる人々を描いた「広高浪之図」はウェブで閲覧できる。しかし同じ『安政聞録』に収められ,目次に「日本国中地震津波安否早見全図」と記される彩色地図は注目されてこなかった。《安政元年のハザードマップ》と呼ぶのはこれである。『安政聞録』の原本(広川町指定文化財)は撮影が許されず,当日呈示するのは広川町教育委員会所蔵の複製本の画像である。国名と国境を伴った素朴な日本地図が,北を上にして見開きで描かれ,右上に「大日本邦全図」と基図名が記される。被災情況が国毎に色分けで示され,「赤色ハ地震,大荒」「赤黄交ハ震うすし」「青色ハ津波上りたる邦々」「黄色には無難」「凡三十六ヶ国ノ荒也」の注記がある。安政南海地震の当時は銚子に在った古田咏処が帰郷したのは翌年で,彼は地震発生直後から見聞きした数多の情報をもとに『安政聞録』を数え年22歳で書き記した。被災情報の地図化は,弘化四年の「信濃国大地震火災水難地方全図」等の摺物にみられ,安政東海・南海地震の被災情報も「諸国大地震之図」等の摺物として出回り,件の地図が古田咏処の独創というわけでは必ずしもない。しかし彼は,地震と津波の周期性を「往古より数十年目或ハ百五拾年程目或ハ百年目」と明確に認識していた。じつは,経営史や地震学の文献で個別に言及された『安政聞録』の書き手は,戦前に小川琢治が雑誌『地球』で紹介した,1707年の宝永津波の被災記録たる『雨窓茶話』の書き手古田豊林と同一人物であったことが,『安政聞録』の調査でほぼ明らかとなった。『雨窓茶話』は,地震・津波の周期性を認識していたジガミサの跡継ぎにより,二年後の安政津波の来襲を予感するかの如く嘉永五年十一月に書かれていた。そして『安政聞録』は,速報性を旨とする摺物とは異なり,「子孫の便り」とすべく書かれた。「日本国中地震津波安否早見全図」は,周期的に来襲する地震・津波への備えという意味をも持たされたと想像される。《安政元年のハザードマップ》と称する所以である。『安政聞録』の書き手は紀伊国栖原の医師垣内己山の三男で,古田家を継ぎジガミサの当主となった。ジガミサとヤマサは元治元年に幕府より「最上醤油」の称を許された銚子の有力業者で,また己山は栖原出身の著名な経世家菊池海荘と同族であり,彼らは近隣の湯浅で漢詩文の結社(古碧吟社)を創設した。『安政聞録』という災害文化の生産は,かかる地方名望家層の資本蓄積と教養の蓄積を抜きにしては語りえない。反面,浜口梧陵の社会的活動はヤマサの経営にとって負担となった。風流韻事を嗜み,書画詩文俳句に長じた古田咏処が家業を売却する破目に陥ったことも頷けよう。
著者関連情報
© 2013 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top