2019 年 60 巻 2 号 p. 68-72
本書は長年日本の中国研究を指導してきた著者の最新刊であり,著者の中国政治論を体系的に展開しようとした意欲作である(注1)。まず,本書の概要を簡単に確認しておこう。第1章では,学際的な地域研究の方法とディシプリン重視の方法を対比し,一般的には前者が衰退しているといわれるが,後者は地域の特殊性を十分考慮に入れることができないので,地域研究の方法が必要性を高めていると主張する。そのうえで,中国政治を深層で規定する基底構造を,おもに国際関係にかかわる「4つの大規模性」(領土・人口・思想・権力)と,おもに国内社会にかかわる「4つの断層性」(幹部と民衆・関係と制度・都市と農村・政治と経済)としてまとめる。この基底構造をふまえたうえで,以下の諸章で各論が論じられる。
第2章では,急速な経済成長を遂げている中国社会の変化が論じられる。ライフスタイルも変化し,伝統的な都市と農村の断層性も変化が生じつつあるが,地域間格差や都市内部での格差,環境問題などの社会問題が生じていることが明らかにされる。
第3章は中央-地方関係を論じている。三級制(省-県-郷など)の行政区分は中国の伝統的な仕組みであり,共産党体制になって曲折がありつつも三級制ないし四級制が実施されているのは,史的な原因があることが示唆される。また,共産党体制の表面的な集権制にもかかわらず,地方(おもに省および県レベル)には事実上の自律性があり,「実質的には中央の下に多様な中型,小型の権威主義的権力が層をなしつつ,基本的には中央に服従するといった多層の権威的ヒエラルキーを形成していく」と主張する(106ページ)。
軍・警察とナショナリズムは第4章で議論される。物理的な力である軍や警察がほぼ完全に党の統制下にあり,反対運動の制圧を行ったことが指摘される。また,統治の内的な凝集力として,「中華民族」ナショナリズムの台頭も第4章で紹介される。
第5章は,中国共産党支配の特質と変容の分析にあてられている。毛沢東や鄧小平の支配も伝統的な中国の王朝支配と類似した点が多くあること,にもかかわらず,共産党という政党支配やその社会への浸透は新しい特徴であるという。そして,その共産党支配の制度的特徴や改革開放期の微妙な変化(脱イデオロギー化など)が論じられる。
これまでの議論をふまえ,中国の政治体制を概念化したのが第6章である。経済発展し社会が変化すれば民主化するという議論には懐疑的で,かわって「カスケード型権威主義」という概念が主張される。この体制の特徴は,次のとおりである。幹部と民衆の断層性を前提として,共産党の指導する体制であり,制度と関係の断層性から,公式の制度外の人的な「関係」(コネに似た概念),「圏子」(派閥に似た概念)の要素が強く働く。また,都市と地方の断層性を前提として,各地方がかなり自律性をもって中型,小型の権威主義体制を形成し,それを中央の権威主義体制が束ねている。
第7章は,習近平体制論であり,近年の事象をフォローするために加えられたと考えられる。習近平体制の幹部人事を中心に,「関係」「圏子」の支配がみられると主張される。
最後に,「おわりに」で,中国政治の特殊性と経済社会の普遍性を融合させた中国理解が必要であることが主張される。
本書が,「伝統的な中国」によって中国政治を説明しているのは明らかであり,そうした著作のなかで最も優れたものであろうことは論を俟たない。しかし,本書を一読して,評者が抱いた違和感は,著者の中国認識ではなく(そもそも著者の中国論に何か異論を持てるほど評者は中国に関して知らない),その地域研究的手法の有効性の主張でもない。著者の主張する地域研究の方法の優位性に評者は基本的には賛成するものである。しかし,そうした本書の中核的主張をより説得的なものとするためには,中国的特殊性に対比されるものをより正確に把握する必要があるのではないか。この点が,評者が本書に感じた最大の違和感である。以下具体的にみていく。
まず,ソ連など他の共産党体制の理解である。中国の共産党体制の政治制度がおおよそのところソ連の共産党体制から輸入されたものであることは公然の事実である。著者もそのことは各所で指摘している(たとえば,114,153~155,161,166ページなど)。しかし,そのソ連体制の理解は十分とはいえず,中国的特殊性の影響が誇張されているようにみえる。たとえば,著者は「党における個人独裁は,もちろんレーニン・スターリン主義的な統治の影響によるものであったが,それ以上に『伝統的政治体制』の部分によるところが大きいと言える」(171ページ)と主張し,例示として毛沢東や鄧小平が党規約や憲法さえも無視した超法規性を指摘する。しかしながら,スターリンの支配が,とくにその最盛期には,しばしば超法規的であったのは常識である。毛沢東や鄧小平に中国の伝統的支配者としての側面が濃厚だとしても,独裁者の超法規性それ自体は,中国の伝統支配優位の証明とはいえないのではないだろうか。
さらに,共産党の指導が,法的に明確な根拠を欠いている(ただし憲法前文には党の指導が述べられている)点も,中国的特殊性と著者は解釈している(195~197ページ)。たしかに,ソ連のいわゆるスターリン憲法(1936年)では,第126条にやや控え目に共産党が指導的中核であることが規定されており,ブレジネフ憲法(1977年)では第6条に,より明確に党の指導が規定されていたが,最初の1924年憲法には党に関する規定はなかったことは言及がない。また,「自由な国民意志による選挙で政権政党の可否が問われるというようなことはこれまでなかった」(196ページ)のは,ほぼすべての共産党体制の国家に共通し,中国の共産党体制に特有のことではない。さらに,「国民の多くの意見を聴取するといった執政党としての行動もなかった」(196ページ)というが,本当だろうか。ソ連では,投書などをとおした国民からの情報収集には熱心であった[White 1983; 松戸 2017, 190-205]。評者はアメリカの中国研究者Martin Dimitrovから,中国共産党も,かつてのソ連共産党などと同様に,国民からの情報収集にかなり熱心であると聞いたことがあるし,毛里[2012, 279-296]も陳情の政治についてかなりの紙幅を割いている。
また著者は「先知先覚」論によって中国共産党の指導を説明するが(200~201ページ),評者には,これはレーニン主義的な前衛党論を中国風に言い換えているようにみえる。それでも著者はレーニン主義的な前衛党論との差異を強調し,続けて「1990年前後にソ連・東欧社会主義諸国が短期間で一挙に崩壊した現象は,社会主義国家の経済的低迷,政治的抑圧が臨界点にまで達してしまったことの反映であり,その結果,制度的に憲法から『共産党の指導』を削除したのであった」と主張する(201ページ)。しかし,これは端的にいって事実認識として十分でない。経済は低迷していたが,それは臨界点といえるものではなかった[Ellman and Kontorovich 1998]。政治的抑圧はもちろんあったが,抑圧に対して市民革命が生じてソ連の共産党体制が瓦解したわけでもない。ソ連の共産党体制は自壊したといった方が事実に近いと評者は考えている[Ogushi 2008]。またポーランドの体制転換は大衆動員をともなわずエリート主義的だったのはよく知られている[伊東 1998]。大衆動員が生じた東欧諸国でも,短期間に一気に体制が崩壊したのは,ソ連からの干渉がないことが明らかになったことや隣国からの影響といった国際的な力学が働いた点が大きい[Kramer 2003; 2004; 2005]。
さらに,著者は非近代官僚制的人事政策を中国的人的「関係」「圏子」性の表れとみているが(212~213,233~247ページ),ソ連でもブレジネフ時代以降クライエンテリズム論・人脈政治論が隆盛を極めた[皆川 1986; 1993]。これはロシアの政治文化が作用したのみならず,中ソに共通する共産党体制の人事システムであるノメンクラトゥラ制が大きな影響を持っていると考えてよいのではないだろうか(注2)。「こういうことの一切のうちどこまでが,ロシアであるという事実に由来するものなのか,どこまでが共産主義支配のせいなのだろうか。ロシアにおける共産党の支配はどの程度ロシア的であるのか」。これは世界のソ連経済研究を牽引してきたノーヴ[1983, 274]の金言であるが,毛里[1994, 71]はこの言を引き,同じことが中国に関しても問われなければならないと論じた。この点でいうと,非常に多くの部分が「中国である」ことに由来していると著者は考えている,ということができよう。評者は「伝統的な中国」といった視点からの中国政治解釈を全く否定しないし,その歴史が他国よりはるかに長い中国では,歴史による経路依存的な説明が有効性を持つ可能性も否定しないが,中国の特殊性を説得力を持って主張するためにも,ある種の原型を提供したソ連体制はより正確に理解される必要があると考える。この点,中ソの体制比較や中ソ関係の研究をとおして,より洗練されたソ連認識を持つ毛里[2012]のほうが,評者には説得的に感じられた。
中国の特殊性に対比されるものをより正確に把握する必要があるという点は,著者のいう「普遍論」すなわち比較政治学の理解にもいえる。著者の体制転換理論の理解は,率直にいってかなり素朴である。「政治体制の変容を議論する場合,伝統的な専制主義の独裁体制あるいは全体主義的な独裁体制が,経済近代化を進めることによって権威主義的な独裁体制へ,やがて経済,社会階層の変化をもたらす過程で民主主義的な体制へ移行するという欧米政治社会学界で常識とされる『体制移行論』がある」(3~4ページ)と述べる。また,著者はリンスの議論を以下のように要約する。「一般に発展途上国が後発的に近代化していく過程での政治体制変容のパターンとして,全体主義から民主主義への移行があり,その移行期における過渡的な政治体制の一形態として権威主義体制が想定される」。そして,「主に経済発展,社会階層の変化などから漸進的に民主主義体制に移行すると説明している」(184ページ)。これがリンスの権威主義体制論の要約として正確かどうかはさておき,このような近代化論が隆盛を極めたのは1960~70年代のことであり,現代の比較政治学者で,この手の近代化論をそのまま主張する人はかなり稀であろう。近代化論も安易に捨て去るべきではなく,修正したり再考したりする価値はあると評者は考えているが,それでも単線的な近代化論はやはり支持できない。近代化論に批判的な点で,評者も著者も共通しているのであるが,問題は,今日の体制転換論の主流は近代化論ではなくなっている点にある。急速な経済発展を遂げた中国の観察者が近代化論の枠組みを用いたくなる気持ちは理解できるが,1990年代に流行した民主化論に限ってもPrzeworski [1991]やLinz and Stepan [1996]らのアクター中心主義が主流で,近代化といった構造は重視されなかった(注3)。
さらに近年では,ある独裁が崩壊しても民主化しなかった事例や,共産党体制のように安定した独裁に比較政治学(を道具として用いる地域研究)者の関心は移り,独裁の下での政党や選挙,議会といった政治制度の役割や,権威主義体制の国際的伝播といったテーマに関心の主流がある(Levitsky and Way [2010],評者の専門に近い分野での権威主義体制の国際的伝播に関してSilitski [2010], Bader [2014]など)。評者は,比較政治学に中国研究を従属させよと主張しているわけではない。世界的な超大国になりつつある中国は事例としても極めて重いので,(昔のではなく)今の主流の比較政治理論と正面から対峙し,中国の分析に利用し,修正し,また乗り越えることを目指すべきだと評者は考える。むろんこれは著者ひとりへの注文というよりは,評者自身がロシア研究を行ううえでの課題でもあるし,より若い世代の地域研究者全員の課題でもあろう。
そのような分析道具の不備は,ナショナリズムを論じた第4章にも明らかである。中華民族を論じるなかで,さすがに原初主義的理解は批判されているが,国民概念と民族概念の区別や「ソビエト人」の形成の試みとの対比も出てこない。毛里[2012, 141-150]は,このナショナリズムの分析の点でも評者にはより納得のいくものであった。
最後に,中国独自の概念による説明の多用に一言注文をつけておきたい。中国研究者は当然のことながら漢字の知識が圧倒的に豊富である。それゆえに,通常の日本語にはない熟語をそのまま使用する傾向がみられるように思われる。本書のタイトルにある「態制」からして(これは村松祐次の著書に由来しているそうであるが),評者の手元にある国語辞典には収録されていない熟語である。意味は何となくわからなくはないが,これは英語にすると何になるのだろうか。やはりregimeであろうか,それともsystemであろうか。中国独自の政治現象をそのまま中国的に説明するのはやはり極力避けるべきではないだろうか。他の研究者も了解可能な言葉に翻訳する努力をすべきではないだろうか。
かつて永井陽之助は,京極純一の『日本の政治』を評するなかで,日本独自の風土的概念の多用を批判して次のように述べた。「医学の比喩でいうと,風土病を解明することと,風土的概念で分析することは全く異なる。どこの土地でもその土地特有の風土病がある。しかし,その解明はあくまで『知識の制度』としての医学で確立されたパラダイムと方法――細菌,ヴィールスの摘出,あるいは,疫学的方法や生態学的アプローチなどで,まず解明されるべきであろう。その既存の方法やパラダイムで解明不可能な風土病の存在が確認され,新たなパラダイムを作り出すことで未知の病原が発見されるならばそれこそノーベル医学賞に値する偉業となる」[永井 1984, 153]。評者も本書での中国独自の概念の多用に関して,同様の感想を抱いた。しかし,にもかかわらず,忘れてはならないのは,京極著は日本政治論のひとつの達成であり,金字塔であったことである。本書も,評者による批判は寄せつけない,中国政治論のひとつの達成であり,金字塔となるであろう。
とはいえ,第2に,著者と評者には実は若干の利害関係もある。評者は大学院在籍時に著者の授業を受け,さらに著者は評者の(できの悪い)修士論文の副査であった。できの悪い修士論文であっても,著者は比較的に好意的な評価をしてくださったことを記憶している。いわば師に当たる人の著作を論じて,公にしてよいものなのか,若干の躊躇がある。もっとも,修士号を取得してから著者にお目にかかる機会はほとんどなかったし,著者が評者の修士論文など記憶されているか定かではない。こうしたことを気にかけ,書評する機会を失することのほうが,著者に対して礼を欠いた態度であろうと考え,本書評を引き受けることにしたものである。