アジア経済
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書評
書評:Steven Levitsky and Daniel Ziblatt, How Democracies Die
New York: Crown, 2018, 312pp.
上谷 直克
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2019 年 60 巻 2 号 p. 85-90

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 はじめに

2016年11月8日に実施されたアメリカ合衆国大統領選挙での,「アウトサイダー」ドナルド・トランプの勝利は,さまざまな意味を含みつつ,国の内外を問わず大きな衝撃をもたらした。こうした衝撃は地元アメリカの政治学界でも非常に大きかった。緻密な世論調査分析でさえトランプの勝利を正しく予想できなかったという比較的軽微なものから,この現象にいわば民主主義の衰退の始まりを予感する深刻なものまで,さまざまな反応を引き起こした。そしておそらく後者の悲観論が色濃く反映されているのが,ラテンアメリカ政治研究者のスティーブン・レビツキーとヨーロッパ政治研究者のダニエル・ジブラットによって執筆された本書であろう。

 本書の内容

まず,内容紹介に入る。本書はイントロダクションを含め全10章からなる。第1章「致命的な同盟」(Fateful Alliances)では,1920~30年代のドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニ,そして1990年代後半のベネズエラのチャベスなどの権力奪取の例を引きつつ,窮地に立った既存の伝統政治家らが彼らと安易にも結んだ「同盟」が,その後の民主主義の破壊にどれほど寄与することになったのかが語られる。章の中ほどには,ともすれば独裁者となりうる政治家(アウトサイダー,ポピュリスト)の「権威主義的/独裁的な行動に関する4つの鍵となる指標」(p.23)(注1)という表が付されており,著者曰く「これらの基準のどれかひとつにでも該当する政治家には要注意である」(p.22)。

第2章「アメリカの門番」(Gatekeeping in America)では,権威主義志向を持つアメリカ国民がかつて,扇動的で危険な政治家たちを大統領に据えるに至らなかった理由として,アメリカの2大政党,とくに各党の有力者・ボスたちによるスクリーニング,党内予備選挙,「見えない予備選挙」そして全国党大会などの選抜システムが「門番」のごとく機能し,その種の候補を大統領レースから排除していたことが述べられる。だがそうした門番の働きも1970年代に予備選への立候補の敷居が下げられ,候補者選定プロセスがますますオープンで民主的になるにつれ機能不全を起こしはじめた。

そこで第3章「共和党による放棄」(The Great Republican Abdication)では,多くの有名人候補者の出現,少額寄付の解禁,新しいメディアの登場などによって,前章で説明された「門番」の役割の重要性がますます低下し,それがいかにしてトランプの政治的成功に寄与したのかが語られる。そして著者らは,すでに挙げた4つの基準に再び言及し,トランプがそのすべての基準に該当したにもかかわらず,彼の躍進を勇気ある行動で阻止できなかったとの理由で共和党の有力者や幹部たちを論難する。

次の第4章「民主制の転覆」(Subverting Democracy)では,ペルーのフジモリ大統領やロシアのプーチン大統領などの例をもとに,彼らがさまざまな手段を駆使して,いかにしてライバルの伝統政治家らや経済エリートらを排除し,最大の難関の裁判所(とくに憲法裁)=レフリーを抱き込んで自らの道具として活用し,批判的なメディアや反対派などの敵対者に執拗な攻撃を加えたのかが綴られる。そしてそれにとどまらず,権力者たちは「公共の利益」の名の下に,いよいよ選挙制度や憲法や既存の法制度そのものの改革に着手し,反対者に対する自らの優位を確固たるものとした。

こうして,政治体制が権威主義化するなかでいかに民主主義の公式の制度が形骸化されるかが詳らかにされたわけだが,一方,第5章「民主主義のガードレール」(The Guardrails of Democracy)では,健全に民主主義が運営され,維持されるのに決定的に重要なのは,憲法や公式の制度ではなく,むしろ「民主主義の柔らかいガードレール」であるという。つまり相互的な寛容(mutual toleration)と制度を活用する際の自制心(institutional forbearance)というインフォーマルな慣例や規範が政治エリートのあいだで遵守されることの重要性が示される(注2)

続く第6章「アメリカ政治の不文律」(The Unwritten Rules of American Politics)では,前半で,南北戦争に突入していくなかで完全に失われた相互的寛容の規範が,戦後,(皮肉にも)人種問題の解決が棚上げにされることで,両党間で急速に回復したことが述べられる。一方,後半は,いわば制度運用史であり,大統領(大統領令,恩赦,裁判所の抱き込み)や議会(議事妨害,大統領人事への承認,弾劾)のそれぞれが自らの制度的な権能を最大限駆使して相手を窮地に立たせないという「制度を活用する際の自制心」が,いかにアメリカ政治史において不文律として守られ,抑制と均衡のシステムが巧みに維持されてきたのかが語られる。

第7章「瓦解」(The Unraveling)では,とくに近年の共和・民主両党間での熾烈なしっぺ返しによる抗争を経るなかで,「柔らかいガードレール」としての民主主義の規範がいかに破られてきたのかが描かれる。著者らによれば,こうした政治の急進化は,公民権運動や移民人口の増加を背景とする両党の支持基盤の再編成と密接にリンクしている。そしてアメリカの2大政党は,もはやイデオロギーの違いではなく人種と宗教によって両極的に区別されるのだという。とくに,有権者のなかで少数派となりつつある白人プロテスタント(福音派)の人びとは,ますます強く自分たち「真のアメリカ人」の存亡の危機意識を抱くようになっており,それが,彼(女)らが支持する共和党の過激化に拍車をかけ,いよいよトランプのような大統領を生み出したという。

第8章「ガードレールに衝突するトランプ」(Trump Against the Guardrails)では,トランプ大統領就任1年目の動向について,著者らがここまでに提示した「民主主義の死」への危惧すべき論点や,他国の独裁者の就任1年目のエピソードに基づいて評価する。トランプ大統領の態度や所業が本書中で最も激しい口調で糾弾されているものの,結論としては,トランプ大統領の威勢のよさとは裏腹に「懸念すべき材料が多々あったにもかかわらず,2017年については,実際に民主主義が後退するほどの動きは見られなかった」(p.187)という。

そして最終章である第9章「民主主義を救護する」(Saving Democracy)では,なぜか早くもトランプ後のアメリカを見据えつつ,今後,市民というよりも,おもに民主党の政治家や活動家らが今いかにトランプ政権と共和党に対峙し,アメリカ社会の二極化を緩和していくべきかについての処方箋が述べられる。

 論評

では本書の内容紹介はこれぐらいに,いよいよ論評に移ろう。まず本書では,世界のさまざまな独裁化事例に言及し,「民主主義の死」をもたらしうるさまざまな契機ややり口が非常に簡潔にまとめられており,政治学者として改めて気づかされる点が多々ある。とくに,独立以降のアメリカ政治史やその中で発展してきた独自の民主主義の制度や機能については,教科書レベルの知識としては知っていたものの,恥ずかしながらその詳細については無知な部分も多く,その意味で非常に有益であった。また,近年の経済社会構造の変化を背景とした共和党と民主党の再編成,そして両者間でますますエスカレートする「規範や不文律破りのしっぺ返し」の攻防は非常に興味深く,同時に,こうしたコンテクストを勘案すると実はトランプ大統領の誕生はそれほど驚異的ではなく,いわば想定の範囲内であった可能性を理解することができた。

こうしてたしかに,本書の随所においてなされる個々の指摘の明晰さは認められるものの,本書全体として著者らのメッセージや主張がどれほど「説得力がある」(訳書9ページ)のかといえば,むしろその主張はやや一貫性に欠け,チグハグである印象を拭えず,その妥当性や説得力には疑問が残る。そこで以下では,とくに評者の疑問点ないし留意点,つまり①事例選択の問題と,②著者らのエリート主義的バイアス(および党派的なバイアス),そして,③議論の展開の仕方の3つを挙げる。

なお,評者は本書を政治学の学術書としてではなく,専門用語が多用されているものの,一般読者向けの政治評論ないし啓蒙書として読んだ。それゆえ,たとえば,著者らが民主主義後退の兆候として挙げる「相互的な規範」や「制度上の自制心」や,独裁傾向を持つ政治家の行為(独裁者のリトマス試験の4つの基準など)が,実際どれほどの確度で「民主主義の死」に因果効果を持つのかといった批判はあり得るが,これ以上は述べない。

 事例の選択の妥当性やアドホックさ

まず事例選択に関する問題として,本書の中で展開される著者らの主張の数々を裏づけるのに使われる事例は,その主張を補足するのにかなり都合がよく,ときに不適切ないしミスリーディングに思える。メインテーマとして解明されるべき「民主主義の死」へのプロセスの例証としてどこまで妥当なのか不明な部分がある。たとえば,民主主義の死や独裁化を語る際,ナチスのヒトラーやイタリアのムッソリーニ,近年ではベネズエラのチャベスのような典型例が,最近のトランプ大統領興隆の類似例としてどれほど妥当なのか疑問がある。

たしかに,ヒトラーもムッソリーニもチャベスもその興隆の背後には,いわば踏切板となったエスタブリッシュメントやエリート政治家らの野心,恐怖,利己的な計算や誤算があっただろうが,あくまでも彼らは,当時の政治的な慣習や規範などを含んだ意味での既存の政党政治システムの間隙を突いて出てきたいわゆる正真正銘のアウトサイダーである。トランプのように,彼が出てくる以前から,挙党的に規範破りや不文律を犯していた共和党という主流派の政党を通じて,しかも予備選挙や党大会という民主的な手続きを経て現れ出た者たちではない。

またこれに関連して,著者らは「民主主義の門番」としての政党の役割を繰り返し強調するが,概して,この種の独裁志向の強い政治家やポピュリストの多くは,彼(女)ら自身が創設者や党首であり,絶対的な力を有するような個人政党を携えて現れ,それゆえその一番の有力者を排除できる可能性は極めて低い。つまり,こうした事例では,アメリカの政党政治で見られるような,党の実力者たちによる事前審査,2種の予備選挙や大統領選での間接投票システムなどを通じたスクリーニングの可能性などは乏しく,著者らの議論や処方箋の効果は,アメリカ政治的な文脈に限定されると思われる。

これ以外の引用例に関しても,そもそも民主主義かどうか疑わしいかつてのマレーシアや,民主制が崩壊したわけでもないパラグアイや,果てはピューリタン革命前夜(!)のイギリスの事例が突然出てくるなど,ただその場の主張を裏づけるべく,関連のありそうな歴史的事例がアドホックに引用されている印象を受ける。それらの事例は,著者らが本書で解明しているはずの「民主主義の死」という大きなテーマのなかのどの部分にとって本当に重要なのか。こうしたいわば確証バイアスは,読者に不必要な混乱をもたらすだけに思えて仕方がない。

 エリート民主主義的バイアス(および党派的なバイアス?)

本書はおもに,「民主主義の死」のプロセスについて論じるに際し,近年の体制変動論の流れをふまえて,政治アクター,とくに政党政治家らの行為に注目する手法を使用している。もし本書が純粋に学術的な研究なのであれば,政治エリートの行動に着目する政治プロセスの分析は,それによって対象となる政治現象がどれだけ的確に,かつ因果的に説明されているかという観点から評価すればよい。

しかし,本書の論評が難しいのは,これが政治評論ないし啓蒙書であるという点である。率直に言えば,評者には,本書はアメリカ市民一般に向けた書というよりも,おそらく著者らの周辺にいる民主党の政治家やその幹部やシンパであるような政治・経済・社会エリートたちに向けた書としてしか読めなかった。実際,著者らの主張を素直にとれば,たとえば,独裁傾向の強い政治家と同盟を結ぶか否か,「民主主義の柔らかいガードレール」としての相互的な規範や不文律を固守するか破るか,そして,トランプ大統領の下でいかに規範意識や自制心を取り戻しつつ健全な政党政治を展開し,二極分化の解消に向けていかなる方策を打つのか否かも,結局,すべて政党政治家や一部活動家らのような政治エリートの行動如何にかかっていることになる。

こうした著者らの,いってしまえばエリート主義的な民主主義観は,本書の節々で感じ取ることができる。たとえば,大統領候補指名のプロセスがよりオープンに(民主的に)なったことを極めて否定的に描き,かつての政党の首領たちによる密室談義が理想とまでいかずとも,オープンな予備選挙以外のプロセスでのアウトサイダーのスクリーニングを懐古的に描いている点にも感じられる。また,「民主主義の死」を避けるには,政治エリート間の相互的な規範こそが肝心だと本書では繰り返し説かれる。そのためには,著者らは強く否定しているものの,人種問題や移民問題を等閑にしてでもこの規範の再構築が最優先されるべき,といわんばかりのプラグマティックな姿勢も本書には滲み出ている(注3)

たしかに,最後の最後でようやく,アメリカの民主主義の命運は合衆国市民である我われ全員の手に委ねられている(p.230)といった言葉も出てくる。一方,第2章では「我われは,政府の運命は最終的に市民の手中にあると信じようとする。人びとが民主主義的な価値を奉じている限り,民主主義は安泰なはずだ。市民が独裁者の訴えかけを受け入れようとすれば,遅かれ早かれ,民主主義は危険に晒される――しかし,こうした考えは誤りであり,民主主義では『人民』こそが思い通りに自らの政府を形成することができるという理想論にすぎない」(p.19)などと,エリート民主主義論者に見られる半ば衆愚論的な民主主義観とでもいえそうな考えを覗かせていた点は留意されるべきであろう。

しかし,こうした著者らのようなエリート主義的民主主義観にまみえたとき,評者が抱く素朴な疑問は,なぜそれほど,政治エリートの民主政治を実践するうえでのさまざまな能力(協調性や寛容性)や常識的センスや規範意識や遵法意識の強さなるものに期待し,信頼することができるのか。つまりなぜもっぱら彼(女)ら政治エリートに,いわば自浄作用を通じた民主主義の回復を賭けられると思うのかというものである。むろん,哲人王や守護者(guardian)とまでいかずとも,特定のエリート(選良)の知恵や経験や専門家の知識は,功利主義的な発想からくる政策の良し悪しの判断には資するかもしれない。しかし,そもそもいかなる形態の民主主義が望ましいかも含めて,民主主義の維持や立憲主義の尊重や,社会においてどの規範や価値がより善きものかという問題は,究極的には,個々人の倫理的,道徳的,またはより原初的な好き嫌いや感情の領域にまで踏み込むものである。そうである以上,その判断(配分)における政治エリート(選良)の理性や知識の優位を裏づけるものは何もないと思われる。

まして,著者ら自身の立場は不明だが,現代政治学における政治家の最大の動機は,典型的には「再選を通じた自己権力の保持と再生産」であったはずである。そのために彼(女)は自らの選好からして最も合理的に,ときに手段を選ばないと考えるのではなかったのか。実際,著者らが強調するように,そもそも規範破りや不文律の侵犯は,共和党のインサイダーという,ど真ん中の政治エリートたちが始めたのではなかったのか。

穿ってみれば,政治エリートらは,権力の保持が絡む利害損得を敏感に察知しうるがゆえに,自暴自棄にも見える破壊的なポピュリストの主張を(利己的に・あえて)容認する可能性があるのではないか(注4)。おそらく過去にもまして最近は,思慮分別や良識や賢さや他者への憐憫や対話力という最低限期待される資質においても「政治エリートの著しい劣化」が囁かれる。それにもかかわらず,政治エリートに多大な期待を寄せることができる著者らの姿勢を,評者はただ率直に疑問に思う。

 議論の展開の仕方

最後に,テクニカルな部分に関する懸念を少し述べる。著者自身も本文中で触れているとおり,本書の最初の数章は,体制変動論の泰斗ファン・リンスが1970年に著した『民主体制への崩壊』で示した観点,いわゆるアクター中心アプローチを参考にした議論が展開される。リンスのこの研究からその後の民主化論(移行論や定着論)へと体制変動をめぐる議論が進化していくなかで,たとえばアクターの行動に注視する場合でも,それが生じるコンテクストとしての政治制度や社会経済構造を十分に勘案し,アクターの行為をそこに「埋め込み」ながら再構成して理解するという分析手法は標準的である。本書の議論でも,独裁者の行動パターンや同盟の形成,規範または不文律破りなどの「アクターの行為のレベル」,また,憲法規定や政党(組織),インフォーマルな行動規範などの「フォーマル/インフォーマルな多様な政治制度のレベル」,そして,経済社会状況や人種構成,宗教分布といった「社会経済的な構造のレベル」の3つのレベルについて程よく言及されている。それらが累積的に作用して,トランプの興隆や民主主義の危機が生じたという彼らの主張に一定の説得力を持たせてはいる。しかし,評者の印象では,アメリカ社会の構造変動を色濃く反映した共和・民主両党の再編成,そしてとくに共和党支持者の構成や心性や行動パターン(いわば文化)の変化が詳らかにされるにつれ,おそらく著者が強調したいポイントのひとつであるトランプ大統領という主要アクターの特異性や行為に注目すべき意義がますますぼやけていくように感じた。

もちろん,彼のキャラの濃さは際立っている。こうしたトランプ現象をまさに生み出した背景要因こそを解き明かし,そこに真の「民主主義の死」の理由を見出すことこそが本書の主旨だとすれば,その目的はかなり達成されており,それはそれで評価できる。しかし,第1章をはじめとする,トランプの独裁性や異常性があれほど強調され,熱心に指弾された章の意義は,いったいどこにあるのかと思えてくる。むしろ本書を読んで,評者は,ソーシャル・メディア全盛の時代でトランプを「ひとつの部品」ないし「大きなスピーカー」とするにすぎない白人プロテスタント政党である共和党とその支持者たちが複雑に構成する「エコー・チェンバー」(注5)の動向こそが,アメリカ民主主義の帰趨を大きく左右すると思える。

いずれにせよ,いくつかの疑問や懸念は残るものの,すでに述べたとおり,民主主義の後退あるいは独裁化をとらえる際のさまざまな観点や情報量の点で,本書が有益であることは間違いない。おそらく本書は,「トランプ・ショック」も冷めやらぬ就任1年内に書かれたこともあり,アメリカ民主主義の決定的な後退を心底嘆き,その論調には共和党とトランプ大統領への民主党シンパとしての怨嗟すら感じられるが,そうした懸念が著者らの杞憂に終わるのか否か,もちろん誰にもわからない。

とはいえ,それ以降のアメリカでは,たとえば,多数のメディアが協調して大統領に抗議声明を出したり,かつての側近や著名な記者が次々と暴露本を出版したり,いわゆる「ロシア疑惑」に関する特別検察官の調査が(妨害を受けつつも)粛々と進められたり,ついには,トランプ一族の巨額脱税疑惑が大々的に報じられた。さらに,2018年11月に実施された中間選挙でも,上院は共和党が多数派を維持する一方,下院では民主党が過半数を奪還するなど,依然アメリカ民主主義はその頑強さを維持しているようにも見える。

昨今では,アメリカ同様,「先進民主主義国」のなかにも,統治権力を背景に,議会多数派であることのみを笠に着て,野党と十分な審議も経ず数々の重要法案を強行採決し,国家官僚やメディアを威嚇して忖度や自己検閲を促し,公的資源の差配において身内関係者や仲間を優遇し,公式の経済統計や公文書に都合よく手を加え・改竄さえしてもシラを切り続ける政権が存在するという。すなわち本書の表現を借りれば「民主主義のガードレール」が大きく凹んだ先進民主主義国もあるといわれているなかで,アメリカの民主政治はむしろまだまだ健全なほうに見えるのだが,いかがだろうか。

(注1)  最近本書の翻訳書が刊行されたが,本稿での引用ページ数は,とくに記載がない限り,原書のものである。スティーブン・レビツキー,ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方――二極化する政治が招く独裁への道――』濱野大道訳・池上彰解説,新潮社,2018年。

(注2)  著者らの見方からすると,共和党と民主党の指導者やエリートのあいだで醸成され,維持されるこうした規範と慣習こそがアメリカ民主主義の安定を支えるのであり,「アメリカの憲法や文化の中に,民主主義の崩壊から国民を守ってくれる特別なものなど何もない」(p.204)としている。この立場からすると,たとえば,古くはアーモンドとヴァーバの研究,最近ではイングルハートらのそれといった,比較政治学の主要テーマのひとつである政治文化(論)といったものはやはり,民主主義を維持するに際してさほど重要な意味がないということであろうか。

(注3)  実際,第6章の結論部分で,アメリカの政治システムを支える相互的規範の確立には,人種問題(人種的排斥・排除)の克服による「アメリカの完全な民主化」が犠牲になりうることを「難儀な点」として示している。

(注4)  また,そもそも,おそらくアメリカの事情もそうであろうが,トランプのようなアウトサイダーやいわゆるポピュリストが人気を集める理由のひとつは,一般有権者が持つ既存の,利己的な,いわば「内輪でよろしくやっている(ように見える)」政治エリートの「連中」への嫌悪感や忌避感であったはずで,おそらく部外者には判別しづらい政治エリート間の相互規範や不文律が支配する「政治の世界」からの疎外感があったはずである。つまり,著者らが主張する相互規範や不文律の遵守という慣例の回復は,ともすれば再び市民感情を置き去りにし,彼(女)らの疎外感を深め,「古き良き」閉鎖的なエリート民主主義を,そのエリートたちのために維持することに寄与するだけと予感する。

(注5)  エコー・チェンバー(現象)とは,反響室の意味のとおり,たとえばSNSなどで価値観やものの見方が似た者同士が交流し,共感し合うことで,特定の意見や思想が増幅されたり急進化・極端化する現象のこと。

 
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