アジア経済
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書評
書評:堀江未央著『娘たちのいない村 ――ヨメ不足の連鎖をめぐる雲南ラフの民族誌――』
京都大学学術出版会 2018年 v + 348ページ
小ヶ谷 千穂
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2019 年 60 巻 3 号 p. 66-68

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Ⅰ はじめに

本書は,近年注目を集めている「女性の移動」についての理論的挑戦を企図したうえで,中国の少数民族であるラフ族の女性たちの漢族男性との婚姻による遠隔地移動について,その出身社会の変容に着目するというアプローチを貫いた人類学的作品である。カラー写真の豊富さなどから,一見すると長期間のフィールドワークにもとづく地域研究書との印象を受けるかもしれないが,本作品は,もちろん丹念な人類学研究調査にもとづいたモノグラフであると同時に,骨太の「エージェンシー」論である。それは「学問知」というものに対する一種のアンチテーゼとも読め,それだからこそ婚姻移動するラフ女性に着目する本書の目指すところについて,さまざまな問いを想起させる意欲的な作品であると考える。

国内移動,国際移動を問わず女性の移動をめぐる関心が高まるなかで,本書は先行研究に対して2つの大きな批判を前提に議論を進めていく。1つは,送り出し社会側への視点が少ないこと。さらにもう1つは,移動する女性たちの「エージェンシー」に着目する議論が,実際には,女性たちの語りのなかに「主体性」を見出そうとする研究者側の思惑によって形成されてしまっているのではないか,という批判である。この2点を重ね合わせる形で,著者は「女性の主体性を強調するだけでなく,他者との関わりの上で様々に揺れ動く女性と,そのような女性を取り巻く人々との相互関係に着目する関係論的なアプローチを採りたい」(27ページ)として,中国全体に広がる「ヨメ不足」の末端にあるとされる,少数民族ラフ族における女性たちの遠隔地婚姻移動の民族誌を展開していく。

以下,国際移動論の分野において,著者と同様に送り出し社会における女性の移動の持つ意味について,フィリピンをフィールドとして研究してきた立場から,本書の特性と意義を中心に評していきたい。

Ⅱ 本書の概要

ここでまず,本書の構成について簡単に確認しておこう。第1章「女性が流出する社会」では,まず本書の理論的枠組みと先行研究批判がなされ,送り出し社会側の視点の欠如と,「エージェンシー」論の理論的批判が展開される。後述するように,ラフ族あるいは中国全土の状況について必ずしも専門としない立場の読者にとっても,最も本書の理論的立場がよくわかる示唆の多い章である。

第2章「ラフ村落の空間秩序と婚姻慣行」では,「へパ(漢族)とポイ(逃げる)」という本書の中心的な現象の背景と時間的経緯について説明されている。また,遠隔地婚姻移動を考察するうえで鍵となるラフ族にとっての「家」の空間的秩序的重要性や,婚姻上の地位がもつ差異化機能の重要性が,この章において確認される。第2章はP村での儀礼や家族・親族関係の特徴や規範が厚く記述されている章でもあり,ラフ族について馴染みの少ない読者にも村での生活について具体的なイメージが与えられる。

第3章「遠隔地婚出の登場と変遷」では,現代中国における女性の婚姻移動のマクロな状況が説明されたうえで,ラフ族の村における社会的経済的変化によって,女性の婚姻移動の変遷が起こった推移が,4章以降のさまざまなアクターの語りのマクロおよびメゾ水準の背景として示される。とりわけ,P村における遠隔地婚出の契機が,1988年に発生した大地震とその後の復旧工事の働き手としての漢族男性労働者の流入であったという点は興味深い。また,遠隔地婚をめぐる複数の仲介者(漢族仲介業者,ラフ男性「紹介者」,ラフ女性のネットワーク)の重層性と役割や機能は,たとえば日本とアジア諸国の間で見られるような国際移動をともなう婚姻移動の仲介ネットワークとの類似性もあり,改めて女性の婚姻移動が具体的に媒介される局面でのアジアにおける類似性が確認できた。

第4章「遠隔地婚出をめぐる村人たちの語り」は,「移動の原因や理由が女性や彼女たちを取り巻く人々によってどのように解釈され語られるのか,当事者の語りの様相」(143ページ)を明らかにする本書の中核的部分である。本書によると,1980年代後半に復興工事関係者とともに「ポイ(村を捨てた)した」と語られてきた女性たちの遠隔地婚に対して,1990年代後半になり漢族男性との婚姻への抵抗が薄れていくなかで,ラフ族における「結婚」と近い意味づけが女性たちの家族からもなされるようになる。しかし,女性の婚出過多により「ヨメ不足」を危惧する公安局の介入によって,2008年ごろからはラフ族の女性の遠隔地婚姻移動は再び逸脱視され,さらには性愛呪術によって解釈されるようになっていく。マクロな社会経済変動と婚姻移動自体の拡大がもたらした変化によって,女性たちの遠隔地移動をめぐる解釈がローカルな規範や儀礼を巻き込みながら変遷していく,という描写は非常にダイナミックである。この章で展開される,漢族男性とラフ族女性の結婚の「責任」を誰に/何に求めるか,をめぐるさまざまな立場の村人の語りが,著者に先行研究とは異なる「エージェンシー」論の展開を促したのであろう,と納得させられる章である。

第5章「逡巡するラフ女性たち」では,主として遠隔地婚出をしたのちのラフ女性たち自身の語りから,自分自身の「ポイ」の経験やその後の出身村との関係のなかで「逡巡」する女性たちのリアルな姿が描かれる。そして第6章「女性の属する家はどこか」においては,こうした逡巡する女性たちの「魂の居場所」をめぐって出身村の家族が儀礼を通したローカルな解釈をする一方で,一見するとそれと相反するような「戸籍」や「結婚証」という行政書類が,村の未婚男性たちがラフ女性たちの「居場所」を確定し,そうした女性たちと交渉する手段として存在感を増している,という興味深い現象が紹介される。単純化を怖れずにいえば,いわゆる「伝統」と「近代」とがローカルな場において人々によって社会秩序の維持のためのツールとして同等に扱われているという発見は,フィールドに根差した本書の特徴を再び読者に印象づけるものとなっている。そして第7章「結論 移動する女性の主体と所在」では,これまでの質的データがあらためて第1章で提起された「エスノ・エージェンシー論」として整理され,重要な分析概念として提示される。

Ⅲ 本書の特徴から考える「学問知」の使命

本書の第1の特徴は,何よりも移動をめぐる議論を送り出し社会の視点からとらえている点にある。中国全体における女性の国内移動の増加という文脈のなかで,著者が「末端」というところの少数民族の村に視点を定めている点も,中国国内の「辺境」から眺めるという意味で戦略的意義を持つのだろう。「民族間関係をマクロな言説やナショナリズム,文化表象などから眺めるのではなく,民族間結婚という対面的状況で起こるローカルな現象から捉え,統合とも差異化とも単純化できない相互交渉の場面を描くことに主眼を置く」(17ページ)という論点は明確である。冒頭で述べたように,国際移動論を,やはり送り出し社会の側から研究してきた評者にとって,移動がもたらす社会変容やそのローカルな解釈のありようは移動した当事者たちの語りだけではなく送り出し社会のさまざまなアクターの語りの総体からこそ浮かび上がる,という本書の論点は大変共感できる。ただしここで著者は「女性を送り出す社会にとってそれらがいかに異なるものとみなされているか」という側面に光を当てることで,アカデミックな議論のフレーミング(ここでは,女性の移動を再生産労働の担い手の移動,とする議論が想定されていると考えられる)から抜け出すことを意図しているようである。

著者による「ローカルな視点」の強調はまた,さらに違う角度からも展開される。それは,同じように近年女性の移動をめぐる研究が蓄積されていくなかで,移動する女性たちを「構造的な被害者」ではなく「行為主体/エージェンシー」としてむしろ過度に強調する,こうした研究動向への批判である。著者は,こうした「移動する女性たちの主体性」の強調こそが「結局のところ西洋における近代的個人観が温存されているようにも感じられる」(25ページ)と指摘したうえで,むしろ女性たちにそうした「能動的なエージェンシー」を措定しているのは,研究者の側のまなざしなのではないか,という疑問を呈していく。そして,「行為する主体が普遍的かつ意識的なものではなくむしろ文化的にかたどられた相互行為の流れのなかで不安定に生産されるものである」として,「自己の修辞的構築の過程を描くべき」(26ページ)と著者は主張する。こうした問題意識が,本書の4章~6章で展開される複数のアクターの語りのずれや,ときには儀礼や呪術,そして行政書類までを巻き込んだ重層的な「解釈」のなかに埋め込まれている,ラフ女性たちの姿の描写につながっていることは,いうまでもないだろう。

著者はこうしたアプローチを「エスノ・エージェンシー論」として,「行為を解釈する視点をその社会の人々に据え,人のあり方や人格観念との関わりから人の相互交渉を捉える手法」(316ページ)と定義する。そしてそれが,「研究者であるわたしの(俯瞰的)視点を回避することにはつながらないが,分析概念として用いられるエージェンシー論よりも具体的に女性の立ち位置を文脈化することを可能とする」(316ページ)と結論づけている。

たしかに,本書で繰り広げられるダイナミックでときとして矛盾や「逡巡」に満ちた語りのせめぎあいは,人間の行為の日常的な流動性や多層性,一方向的でない意思決定のあり方などを見事に描き出しており,この点で「エスノ・エージェンシー論」は成功しているといえるのだろう。とりわけ,人の移動が,ともすれば賃金格差や社会経済的機会の多寡によって引き起こされる現象である,と分析するような視点に対しては,非常に強烈な対抗言説となることは間違いない。評者自身もこうした「複雑さ」が,社会科学の研究のなかに反映されることをむしろ目指してきた側である。

しかしながら,本書で挙げられている女性の移動をめぐる先行研究(注1)と,本書との決定的な違いは指摘しておかなければならないだろう。それは,女性の移動に着目する根本的な理由にあると考えられる。それはいうならば,社会科学における「ジェンダー」の視点をどこまで重視しているのかどうか,という点である。本書と他の「女性の移動」研究との決定的違いは,「ジェンダー」をどのような概念として位置づけるかということにあるのだろう。単に複数ある「分析概念」のひとつとしてジェンダーを取り扱うのか,あるいは「社会変革」のための分析概念,権力構造を読み解くための重要なツールとして「ジェンダー」という視点を持つのか。本書は,女性の移動が「再生産労働」をめぐる議論として分析されている傾向を批判し,それに対して移動する当事者をめぐるローカルな文脈の複数性・多声性を強調している。しかしそもそも「女性の移動」への社会科学的な関心の根本には,ただ単に「新規な現象」あるいは「数的な増加」として「女性の移動」があるから分析する,という立場ではなく,ジェンダー関係が社会関係を読み解くうえできわめて重要な軸であるという発想がある。「女性の移動」がそもそもどのようなジェンダー構造によって生み出され,そのジェンダー関係が,ミクロな水準での女性たちや周囲の男性たちの行為や選択によって,どのように変化しうるのかを問う姿勢――すなわち既存の秩序の変化の可能性と,その「弾性」[ジョージ 2011]への強い関心があるのではないだろうか。「移動する女性の行為主体性は,彼女たちを抑圧する社会構造や言説へのアンチテーゼとして提示されてきた」とする著者の批判的な指摘は,ジェンダー視点からの社会科学のあり方をあらためて振り返させると同時に,社会科学的な研究がもつ「政治性」とは何なのか,そしてなぜ「フェミニスト人類学」といった学問領域が登場してこなければならなかったのか,ということを考えさせるように思う。

評者の力量からモノグラフ部分について詳細な批評を加えることはかなわないが,「経験知」から学び,それを「学問知」に高める,ということが本来の学問的な営みであるとするならば,本書が提示したような「学問知」への「経験知」からの批判のその先にあるものは何なのか。フィールドワーカーであればだれもがぶつかる問いをあらためてつきつけられたように思う。こうした意味で本書は,豊かな民族誌であると同時に,多くの人々にとって理論的示唆の大きい研究書といえよう。

(注1)  そのほかにも,本書では参照されていないが,中国の女性の国内移動を考えるうえで重要な研究と思われる大橋[2011]が対照的であろう。

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