アジア経済
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学界展望
日本における台湾史研究の100年――伊能嘉矩から日本台湾学会まで――
春山 明哲
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2019 年 60 巻 4 号 p. 27-56

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《要約》

台湾史研究とはなにか,台湾史は誰がどのように書いてきたのか。この問いは日本による植民地統治と戦後の国民党政権による統治体制を経てきた台湾を対象とする歴史の研究にとって重要な意味を持つ。本稿は,この問題意識から,日本における台湾史研究の歴史と個性にアプローチすることを試みる。前半では,1895年から1945年までの帝国日本による台湾統治時期における,伊能嘉矩,岡松参太郎,矢内原忠雄及び台北帝国大学の研究者らによる研究のうち「里程標」というべき書物を取り上げ,歴史研究と植民政策論及び人類学の関係を検討する。ついで,帝国日本の「遺産」と戦後への「架け橋」という視点から,1945年前後の連続性と変化を検討する。後半では,1945年から現在までの時期を対象として,日本における台湾史研究の「再出発」の契機ともなった台湾人留学生の群像,それに知的刺激を受けた台湾近現代史研究会の活動,90年代の台湾の変化,日本台湾学会の設立から現在までの研究史を素描する。さいごに台湾史研究をめぐる史論と方法論についても触れ,台湾はどこに行くのかという問いへの始点とする。

 はじめに

Ⅰ 伊能嘉矩――台湾史研究の開拓者――

Ⅱ 台湾に関する学知の系譜――後藤新平,岡松参太郎,竹越与三郎――

Ⅲ 植民政策学と台湾史――新渡戸稲造から矢内原忠雄へ――

Ⅳ 台北帝国大学における人類学と台湾史

Ⅴ 帝国の「遺産」と戦後への「架け橋」

Ⅵ 台湾留学生による戦後台湾史研究の再出発

Ⅶ 台湾近現代史研究会のことなど――1973~1987年――

Ⅷ 新時代への胎動――1987~1997年――

Ⅸ 日本台湾学会の創立から現在まで――1998~2018年――

Ⅹ 台湾史とはなにか――史論と方法――

 おわりに――課題と展望――

はじめに

台湾とはなにか。それはどこから来て,どこに行くのか。この問いに答える学術的研究を台湾に関する地域研究あるいは広く人文社会科学的研究とするなら,主として「台湾はどこから来たのか」という問いのもとに進められる学術的活動をひとまず「台湾史研究」と定義することができよう。では「台湾史」とはなにか。

イギリスの歴史家E・H・カー(1892~1982年)は1961年,ケンブリッジ大学において「歴史とは何か」と題する連続講演を行った。フランスの思想家ヴォルテールが発明した「歴史哲学」という言葉を,カーは「歴史とは何か」という問題に対する答えを意味するものと考え,「歴史家が歴史を作る」という問題を考察する。そして「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり,現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」というひとつの答えを提出するのである[カー 1962, 40]。では,歴史を書くのは誰なのか。

アジア経済研究所が1969年9月に刊行した『日本における発展途上国の研究――「アジア経済」100号記念特集――』の序文で,同研究所会長の東畑精一は「植民地主義が植民地原住民に自らの歴史を忘却させ,歴史意識を薄弱ならしめ」てきた事情を忘れてはならない,そして「新興の独立国に満ちている新生のナショナリズムは,必ずや自国民による自国史の研究を促すであろう」と述べた[アジア経済研究所 1969, 3]。また,この特集の「台湾」の項目を担当した台湾出身の戴國煇は,戦後の日本における台湾研究について「戦前の業績――『台湾私法』,『台湾文化志』,『帝国主義下の台湾』など――があるだけに戦後の不振は目をおおうものがあろう」と述べるとともに「戦前の台湾研究を批判検討し,新しい姿勢で台湾研究(中国研究のごく一部としてもよいから)に情熱を燃やしてもよいとおもう若い日本人研究者の出現もまた期待薄のもようである」としていた[アジア経済研究所 1969, 53, 56]。

E・H・カーの「歴史家が歴史を作る」という文脈に引き付けて言えば,東畑精一と戴國煇が指摘していることは,台湾の歴史を誰がどのように書いてきたのか,書くべきなのかという問いにほかならない。本稿は,「台湾史とはなにか」という問題意識のもとに,「台湾史を誰がどのように書いてきたのか」という視角から,日本における台湾史研究のおよそ100年の歴史を検討する試みである。ここで「日本における」とは,歴史空間的には戦前期帝国日本と戦後の日本であるが,言語的には日本語で書かれた歴史的叙述という限定を意味する。また,取り上げる歴史的著作は,台湾の歴史的理解に寄与した古典的著作,いわば研究史における「里程標」とも言うべき書物を対象としたい。

以下に本稿の構成と目次に沿ってその検討課題と方法を略述することにより,あらかじめ本稿全体の見通しとイメージを提供したい。

ⅠからⅣまでの4節では,1895年から1945年までの日本統治期台湾における台湾史研究を取り上げる。戴が「戦前の業績」として言及した伊能嘉矩の『台湾文化志』,岡松参太郎の『台湾私法』,矢内原忠雄の『帝国主義下の台湾』などを検討対象とするが,ただちにひとつの問題が生ずる。伊能の著作はさておき,岡松も矢内原も歴史叙述そのものを目指してはいない,という点である。たとえば『帝国主義下の台湾』は矢内原の歴史的洞察に満ちた古典的著作であるとはいえ,その本旨は植民政策の社会科学的分析にある。台湾旧慣調査,植民政策論,人類学研究は,日本統治期の台湾研究の大きな柱であった。ではこれらは「台湾史」とどのような関係に立つのか。これこそが本稿の課題でもある。

このような視角から,では伊能嘉矩を取り上げる。伊能こそ台湾史研究の創始者と位置付けられる人物であり,その著作は「台湾史」という学問領域の構図を描くための方法を提供すると考えるからである。では,台湾総督府民政長官の後藤新平が植民地統治政策として実施した事業である台湾旧慣調査を取り上げ,それを主導した法学者岡松参太郎による調査研究と歴史家竹越与三郎の著作を,植民地統治権力と学知の関係という視角から検討する。では,新渡戸稲造と矢内原忠雄を取り上げ,特に矢内原の植民政策論と台湾史の関係を考察する。では,台北帝国大学の土俗・人種学教室における移川子之蔵らによる人類学研究と台湾先住民族の歴史との関係を考える。

では,戦前と戦後の連続と不連続ないし変化の問題を取り扱う。そのためにⅠからⅣで取り上げた帝国の「遺産」が戦後への「架け橋」としてどのように継承されたのか,あるいは忘れられたのかについて,戦後の1970年代までを見通して検討する。

からは戦後日本における台湾史研究が対象になるが,ここからは筆者自身が台湾史研究に関わった時期になるため,「同時代の観察者」という立ち位置となる。の台湾留学生による戦後台湾史研究の再出発,の台湾近現代史研究会,の新時代への胎動は,回想を含む同時代的考察の試みである。の日本台湾学会の創立から現在までの時期は,台湾史の研究者も増加し,したがってその著作も飛躍的に多くなり,筆者の立場も学会運営に関与することとなったので,個々の著作はもとより,全体的な動向を概観するのも容易ではない。「台湾史とはなにか」,「誰が台湾史を書くのか」という視角から各期の動向を概観するに留まる。この点を補うためもあり,また全体の総括的検討を行うために,で台湾史とはなにか――史論と方法――の節を設けた。

台湾の政治の民主化と学問・思想・言論の自由化に伴う1990年代以後の「台湾における台湾史研究」の展開・発展にはめざましいものがあるが,それ自体別の研究視角と方法論が必要であり本稿では視野に入れるにとどめる。

Ⅰ 伊能嘉矩――台湾史研究の開拓者――

日本における台湾史研究の起点をどこに求めるべきだろうか。1895(明治 28)年11月10日,伊能嘉矩は基隆の埠頭に降り立ち台湾生活の第一歩を踏み出した。このとき29歳の伊能は以後13年間,台湾において先住民族地域の実地踏査等の人類学研究,台湾史研究,台湾社会の民俗学研究に従事し,1908年郷里の岩手県遠野に帰ったのちも郷土史研究のほか,台湾史の研究を続け,畢生の遺稿『台湾文化志』を残して1925(大正 14)年に没した。59歳であった。

1867(慶応 3)年,遠野に生れた伊能は1886(明治 19)年岩手県師範学校に入学,この頃から東北各地を旅行しながらその地方の地理,歴史,民俗などを調査することを好み,『北遊日記』,『奥東探蹟紀行』などを教育関係の雑誌に寄稿している。自由民権運動にもかかわった伊能は師範学校を中退し東京に出た。歴史学者重野安繹のもとで歴史学と漢学を学び,図書館で独学している。重野は東大に国史学科を創設し,実証的な近代史学を創始した人物である。伊能は新聞・雑誌の編集で生活の糧を得ながら,学問で身を立てる道を探していた[邱 2003, 312-321]。

生涯の転機となったのは人類学者の坪井正五郎帝国大学理科大学教授との出会いである。坪井は1893年6月伊能の要望を受け入れて人類学教室での講義の聴講と東京人類学会への入会を許可した。近年の研究によれば,伊能は坪井のイギリス留学時の師であり人類学の創始者と称されたエドワード・タイラー(Edward Tylor)の学問を吸収し,大英科学振興協会発行のNotes and Queries on Anthropologyを精読して独自の「研究の要領」を作成したという[全 2016松田 2003, 96-105]。

日清戦争の結果下関講和条約が締結され,台湾が日本の領土となったことを機に伊能は渡台の決心を固め,関係方面に「余の赤志を陳べて先達の君子に訴ふ」を配布した。日本の新たな版図となった台湾は学術上のみならず「治教」の上でもその研究調査が必要であるから,是非人類学を学んだ自分を台湾での蕃地探検に派遣して欲しい,と訴えたのである[全 2016, 240]。

台湾総督府雇員となった伊能は南部福建語(閩南語)及び台湾先住民アタイヤル系の言語,マレー語を学び先住民各族の言語を調査した。伊能は渡台前に英語,清国官話,朝鮮語,アイヌ語も学んでいる。伊能は言語習得に努力したばかりでなく,外国語を聞いて正確に記録する能力に優れていたという[全 2016, 232]。

1896年から1900年まで,伊能は5回にわたり台湾全島を踏査し実地調査を行った。なかでも1897年5月23日から同年12月1日まで,193日間に及ぶ「蕃人教育施設準備調査」は危険に満ちた探検的調査で,これらに基づいて1900年に後藤新平民政長官に提出されたのが『台湾蕃人事情』である。なお,この書は伊能と粟野伝之丞の共著として台湾総督府民政部から刊行されたが,実質的には伊能の著作とされる。

人類学研究者の笠原政治は,伊能嘉矩の人類学における業績として,台湾原住民族の体系的分類と平埔族の研究を挙げている[笠原 19982000]。

伊能の台湾研究は,人類学,歴史,地理,民俗学など広い分野に及んでいる。また,その著作は台湾史関係だけでも15点あり,雑誌・新聞に掲載された論文・記事は2300点を超える膨大なものである[荻野 1998]。ここでは,『世界に於ける台湾の位置』[伊能 1899],『台湾志』[伊能 1902],そして遺著となった『台湾文化志』[伊能 1928]の3点を取り上げて,伊能の台湾史研究の構図を検討する。

『世界に於ける台湾の位置』の「小引三則」において伊能は「世界の局面に於て古来台湾の占めつつありし位置の如何を歴史的に叙述するを主眼とせり」[伊能 1899, 1]とその趣旨を述べる。

これに基づく本書の構成は,「世界に於ける台湾の位置」,「台湾の初めて世界に知られし時期」,「台湾に与ヘられたる地理的称呼の変遷」,「和蘭[オランダ]の根拠地としての台湾」,「台湾に於ける西班牙[スペイン]人」,「台湾に於ける鄭氏の依拠」,「清の台湾の領有」,「清政府の台湾経営」,「台湾蕃地領域問題」,「台湾巡撫としての劉銘伝」,「清の領土としての台湾の末路」,「当今世界の局面の上に占むる台湾の地歩」となっている([ ]内は引用者の補記)。本書は59ページの分量ながら,台湾史の流れを概観する「台湾史綱要」ともいうべき内容となっている。また,注目すべきことに,伊能はこの時点ですでに「日本の領土としての台湾島」という続編執筆の構想を明らかにしている。

次に『台湾志』を見てみよう。その「小引三則」で注目すべきことは,伊能が1895年の渡台の時点ではやくも,台湾の先住民族のみならず移住漢族の研究も目的としていたことである。伊能の研究対象は広く,「常に専ら全台の地理・歴史より故制・旧慣の事情を探討」する意図を有していた[伊能 1902, 5]。「附言五則」によれば,本書は全6巻から成り,巻1巻2が「沿革志」,巻3巻4が「地理志」(自然地理,人文地理の大要と,巻末に地名索引が付く),巻5巻6が「人類志」(「固有土蕃」と「移住支那人」の本質,風俗習慣と巻末に「言語編」,「支・蕃言語一斑」が付くというのが全体の構想であった[伊能 1902, 20]。しかし,現在まで巻3~6は発見されていない。おそらく刊行されなかったと思われる。

「沿革志」の目次を見ると,『世界に於ける台湾の位置』の構成を基本にして,清国時期の叙述がより詳しく展開され(「分類械闘」,「支那人の移植」,「産業の発達」,「行政沿革」,「理蕃施設」など),日本への割譲以後の台湾が新規の項目となっている。巻末には「台湾歴史年表」が付いている。

「分類械闘」とは,清代に頻発した民間集団の武力衝突で,台湾では出身地の閩(福建)と粤(広東),泉州と漳州,あるいは村落や親族集団の単位により「分類」されるグループが,土地・水利などを武力で争う「械闘」が頻発した。また,「理蕃」とは清による台湾原住民族に対する統治政策で,日本が大規模に展開した。伊能はこれら台湾社会を歴史的に規定する主要な現象をダイナミックに把握し,自著で展開していくのである。

この『台湾志』の各論が拡充されて,『台湾に於ける西班牙人』,『領台始末』(1904年),『台湾巡撫としての劉銘伝』,『領台十年史』(1905年),等の単行書が刊行されている。これらはすべて個人著作であり,多くは東京の出版社から出され,自費出版もある。これとは別の系統になるのが,『台湾蕃人事情』(1900年),『台湾蕃政志』(1904年),『理蕃誌稿』(1911, 1918年)であり,これらは台湾総督府の刊行物で,執筆・編集の「担当」として伊能の名がある。なお,伊能には「部族」別の「蕃俗志」執筆の構想があり,その草稿の一部も残っているとのことである[笠原 1998, 73]。

『台湾文化志』は上中下3巻,17篇,3000ページに及ぶ大著である。『台湾文化志』という書名は,刊行に尽力した民俗学者の柳田国男と経済学者の福田徳三が相談して付けたとのことであるが[板澤 1928],実際の内容は「文化志」に限ったものではなく,清朝統治下の台湾の政治,行政,経済,産業,社会,軍事,外交,国際関係,文化,教育,宗教,地理など広範囲にわたる総合的な「全史」であり,先史時代から日本による領台初期にまで及ぶ。とくに,台湾先住民(清朝時期の「番人」に対する政策)に関する記述,世界史の中の台湾(第13篇「外力の進漸」)への目配り,文芸・修史・図書・民俗・生活,台湾史上の人物など,百科全書的な内容を持っている[邱 1998]。

以上のことから,伊能にとっての「台湾志」の全体像の特徴を以下のようにまとめることができるだろう。

  1.  (1)   台湾の歴史(沿革志),人文・自然地理,人類誌(漢族・先住民),言語学,風俗習慣(のちの民俗学)という広い領域に及ぶこと。
  2.  (2)   その中心に「台湾史」があり,先史時代から日本領有後の「同時代史」にまで及ぶこと。
  3.  (3)   先住民族については,人類誌・統治政策史を総合し個別族志編纂の意図があったこと。
  4.  (4)   学術的専門著作に加えて,日本人向けの啓蒙的著作を意図したこと。

こう見てくると,『台湾文化志』は遺作とはなったが,もし伊能に時間があったなら「日本統治下の台湾」などの別の歴史書が書かれていたかも知れない。

1909年の夏,柳田国男が遠野に伊能を訪ねている。柳田は伊能から『遠野古事記』を見せてもらい,以後,伊能と柳田の交流は伊能が亡くなるまで続いた。谷川健一は伊能との交流が柳田の『遠野物語』の刊行あるいは「山人論」と関係があると推測している[谷川 1994]。柳田は伊能の「門下」板澤武雄(のち東大教授,蘭学研究)の依頼を受けて,伊能の遺稿を『台湾文化志』全3巻として刊行することに尽力した。柳田は上巻の序文で本書を「人間の歴史を基礎から観察しようといふ地方学問の独立宣言」であると述べている[伊能 1928, 6]。

Ⅱ 台湾に関する学知の系譜――後藤新平,岡松参太郎,竹越与三郎――

1898(明治31)年3月,児玉源太郎台湾総督と後藤新平民政局長(6月に長官)が台湾に赴任した。後藤新平は「台湾統治の大綱」の第一項目において「予め一定の施政方針を説かず,追って研究の上之を定む。研究の基礎を科学殊に生物学の上に置くこと」とし,これについて「台湾の民情,自然現象,及び天然の富源等を現代科学の力を藉りて研究調査し,以て人民に対しては,最も適当なりと信ずる統治法を行ひ,気候風土及びそれに由りて生ずる危害,疾病に対しては,之亦適当なる処置を講ずる」などと説明している[春山 2008a, 331]。台湾統治の政策立案の基本的方法として「科学的な調査研究」を据え,かつそれを大規模に継続的に実行したことが,結果として台湾史研究という学知の成立にとって大きな基盤と環境条件となった。その中心的事業が「台湾旧慣調査」である。

調査の実施機関として1901(明治 34)年に臨時台湾旧慣調査会が設置され,京都帝国大学法科大学教授の民法学者岡松参太郎が法制担当の第一部長として起用された。調査会は法制,農工商経済,清国行政,台湾先住民族,外国植民地統治など広範囲な調査を進め,膨大な報告書が作成された。また,総督の諮問に応じる法案審査会が第三部として設置され,1914(大正 3)年までに,台湾親族相続令等9本の律令案を作成した。

台湾旧慣調査は,京都帝国大学の多数の学者たちの参加を得て,学術的性格を強く帯びたものになった。後藤民政長官の要請を受けて,京都帝大初代総長の木下広次の強力な支援のもとで参加・協力した教授陣は,岡松参太郎(民法)のほか,織田万(行政法),狩野直喜(文科大学,支那哲学),石坂音四郎(民法),雉本朗造(民事訴訟法)など多くにのぼっている[春山 2019]。

臨時台湾旧慣調査会の調査報告は膨大なものであるが,第一部の調査は3回にわたって刊行され,その第三部が『台湾私法』で本編6冊,附録参考書7冊,計13冊である。附録参考書は第1回,第2回にも計4冊が付されているから,参考書は計11冊となる。これらは調査の過程で収集された土地契約文書や人事慣行資料などを豊富に含んでおり,台湾史研究の重要な史料群である。『台湾私法』は緒論,第1編不動産,第2編人事,第3編動産を岡松が主となり,第4編の商事及び債権を石坂と雉本が分担している(『台湾私法』第1巻上の岡松叙言)。彼らの法思想,台湾社会の認識を知る上で,法案起草過程における議事録,意見書等もきわめて興味深いものである[春山 2019]。

歴史家竹越与三郎(三叉)の『台湾統治志』は,台湾統治政策史研究の先駆けとも言うべき著作であり,「権力と知」の側面からも興味深いものである。竹越は1904(明治 37)年6月と1905(明治 38)年6月の2回,後藤民政長官の依頼で台湾を訪問し『台湾統治志』[竹越 1905]を書いた。後藤は台湾の視察と調査について,竹越に最大限の便宜を計ったようである。台北では早朝から,後藤と竹越は自転車に乗って市内を散策した。後藤は台湾統治8年の実績に対する評価を,竹越の歴史家・ジャーナリストとしての観察眼と筆力に期待したのであった。『台湾統治志』は,第1章の「殖民及び殖民国」の世界史的概況から始まり,台湾における日本の統治,台湾統治の法制上の観察,過去の台湾と続く。竹越は台北の民政長官官邸で,「楼上楼下通路の左右悉く書架なるを見て」蔵書の多さに驚嘆したところ,後藤は「多くは総督府の図書なり,我等は総督府を以て,日本人がいまだ卒業せざる殖民学を研究する大学となす,総督は校長にして余は幹事なり,此書は即ち殖民大学の図書室なり」と答えたという[竹越 1905, 53]。

竹越与三郎の『台湾統治志』は英訳されて,Japanese Rule in Formosaとして英国のマクミラン社から刊行されている。おそらく後藤の意図が背景にあったものだろう。さらに竹越は『台湾統治志』の姉妹編とでもいうべき『比較殖民制度』(読売新聞社,1906年)を刊行し,さらには1909年には南洋視察旅行にでかけ,翌年に『南国記』を著した。竹越の位置は,植民学の系譜にも連なるものであるが,後藤が歴史家の目を借りようとしたことが興味深い。

後藤新平の台湾経営における現代科学の応用は,土地調査からセンサス(戸口調査)まで,そして台湾社会の法制・慣習・経済・社会の総合調査まで,20世紀初頭における台湾の全体を可視化するものであった。そして,農業・衛生・医学・鉱物学など自然科学研究機関の設置も台湾経営の重要な一環であった。さらに,統計学の導入・行政記録の作成など近代的な行政運営も注目すべき点である。これらすべてが台湾史研究の素材であり,植民地統治の実証的な批判検証の対象たりうる学知の蓄積となった。この点においても,後藤の存在を学知の系譜として歴史的に検証する意味がある。

Ⅲ 植民政策学と台湾史――新渡戸稲造から矢内原忠雄へ――

後藤新平,新渡戸稲造,矢内原忠雄という人間関係の連鎖は,台湾史に関する学知の系譜を考える上でもっとも興味深いものである。

新渡戸稲造は教育者,国際人として著名であるが,台湾との関係も深い。新渡戸は盛岡に生まれ,札幌農学校に二期生として入学(内村鑑三,宮部金吾と同期),卒業後米国,ドイツに留学,1891年札幌農学校教授となったが,病気のため渡米して静養中の1899(明治 32)年,台湾総督府民政長官の後藤新平から台湾の産業政策についての協力を依頼されたのである。新渡戸は再三断ったが,後藤は雇用条件を整え三顧の礼で新渡戸を迎えた[新渡戸 1931草原 2012]。

新渡戸は台湾総督府嘱託としてヨーロッパ諸国の植民地における熱帯農業の調査を行い,1901年帰国後はじめて後藤に面会している。この年総督府殖産課長となった新渡戸は9月に「糖業改良意見書」を作成するのであるが,ここにいたる過程では「台湾の戦略的産業はなにか」についての検討が行われている。新渡戸の「台湾に於ける糖業奨励の成績と将来」[新渡戸 1969, 227-249]によれば,新渡戸と後藤が台湾の基幹産業として糖業を選択したのは,それが農業政策(サトウキビの改良)のみならず,工業政策(品質改良)さらには商業政策(海外輸出)に対して持つ展開可能性を見たからである。後藤は台湾の農業の限界を見据え,水力発電と化学工業も早くから展望している。また,新渡戸は『農業本論』で「農商工鼎立併進論」を主張しており,この点でも新渡戸の考え方は後藤の構想と近い関係にあった。

後藤は新渡戸をいつまでも台湾にとどめるつもりはなかった。京都帝大法科大学長の織田万に依頼した結果,1903年に新渡戸は京都帝大法科大学教授兼任となり,翌年からは農業経済学講座専任として植民政策と統計学を講じた[清水 2008]。1906年からは第一高等学校の校長に就任したが,同時に東京帝大農科大学兼任となった。1909年東京帝大法科大学に経済学科が新設されると,新渡戸は法科に転じて植民政策講座を担当した(一高校長兼任)。この講座開設に尽力したのが後藤新平である。後藤は台湾の民政に関与して以来「殖民的知識の淵源」を養うための政策研究が必要だと切実に感じて,「殖民科の講座」の開設を木下広治京都帝大総長に説いて賛成を得ていた。しかし,木下が辞任したので,次に東京帝大の浜尾新総長と穂積陳重法科大学長に相談したところ,賛同は得たが財源が苦しいということなので,民間から寄附を募ることにした,と述べている[後藤 1908, 4-5]。一方,大内兵衛の語るところでは,児玉源太郎を記念する寄附講座が基礎となっており,後藤はそのために尽力したとなっている。[東京大学経済学部 1976, 621]。

こうして,東京帝国大学というアカデミズムの場に経済学の講座として植民政策の研究・教育の小さな拠点ができたわけである。「植民政策論(学)」という枠組みの中で,「台湾史研究」の場が生れたのである。

台湾史研究の100年という時空において,矢内原忠雄の『帝国主義下の台湾』ほど「書物の運命」を感じさせるものはない。この書物はおそらく著者矢内原の意図をはるかに越えて長く,深く,広く読みつがれてきた。それはなぜだろうか。この問いこそ,台湾史研究の課題のひとつになる。

1910(明治 43)年,矢内原忠雄は第一高等学校に入学し,新渡戸稲造校長を囲む読書会に入った。翌年には内村鑑三の聖書研究会に入り,無教会主義のクリスチャンとなっている。1913(大正 2)年,矢内原は東京帝国大学法科大学に入学し,新渡戸教授の「植民政策講座」に出席した。新渡戸は京都帝大と東京帝大で植民政策の講義を担当したにもかかわらず,植民政策についてまとまった本を書かなかった。「植民政策は植民の事実を実行する上の標準を示すものである。国家学が生理学であるとすれば,植民政策は病理学である。植民地は一の病的状態ではないだろうか」と新渡戸は書いている[新渡戸 1969, 63]。新渡戸は体系的植民論の刊行を嫌った節がある。矢内原は講義録の出版を新渡戸に要望したが,新渡戸はこれを断った。矢内原は,後年新渡戸の死後に,自分の講義筆記に高木八尺と大内兵衛のノートを補充して,矢内原忠雄編『新渡戸博士植民政策講義及論文集』(岩波書店,1943年)を刊行した。新渡戸の植民思想はこのような文脈を考慮して理解される必要がある[矢内原 1943]。

矢内原は1917(大正 6)年東京帝大を卒業後,住友総本店に入社したが,1920(大正 9)年に東京帝大経済学部助教授に就任し,10月からイギリス,ドイツに留学した。1923(大正 12)年に帰国して教授に昇任,10月から新渡戸の後任として,植民政策の講義を担当した。第一次世界大戦後のヨーロッパで,矢内原はスミス,マルクスからヒルファーディングにいたる経済学を学び,キリスト教の信仰を深めるとともに,民族自決の新しい潮流のもとにある植民地問題を研究した。アイルランドを実見し,イギリスによる委任統治が始まったばかりのパレスチナを訪問した矢内原が帰国後に書いたのが『植民及植民政策』,『植民政策の新基調』である。

矢内原は『植民及植民政策』において,今日なお思想史的に議論されている「実質的意義としての植民」,すなわち社会群が新たなる地域に移住して社会的経済的に活動する現象という定義を提出する。東京帝大経済学部における矢内原の同僚であった大内兵衛は「矢内原教授の『植民及植民政策』」という長文の「紹介及批評」をいちはやく『経済学論集』5巻2号(1926(大正 15)年9月)に寄せている。大内の書評で注目されるのは2つの点である。

ひとつは,大内が矢内原の新著を,これまで断片的局部的であった社会学,経済学,土俗学,民俗学的な素材を集大成して見たという点に着眼し,これを新しい社会科学的出発とみなしていることである[大内 1926]。このような矢内原の社会科学的な方法論の総合性が,台湾現地における政治・民族・教育等の広範囲にわたる実地調査を経て『帝国主義下の台湾』に結実したと見ることができる。

いまひとつは,大内が後年この文章の末尾を引用し,次のように結んでいることである。「新渡戸先生の植民政策と矢内原君のそれとについての感想だけは,矢内原君に対する若き日の友情の記念として,ここに再録する」[大内 1968, 73],「この二家の間には歴史の継続がある。そは,私の喜(ママ)である。」

矢内原の『植民及植民政策』は,「愛敬と感謝とを以て」大ポイント活字で印刷された「新渡戸稲造先生」に献じられた。本書は,矢内原によれば「概論」であり,「特殊問題及び個々の植民地についての更に詳細なる考察並に植民史の研究」によって補われるべきものであった[矢内原 1963a, 5]。『植民政策の新基調』は,特殊問題すなわち「帝国主義的植民政策は行き詰らんとして居る」という世界的問題についての論文集である。台湾など「個々の植民地」についての考察もすでに植民講座と執筆の主題として予定されていたのである。

1921(大正 10)年,台湾の名望家林献堂らは帝国議会に「台湾議会」の設置を求める請願を提出,以後1934年まで15回にわたって行われたこの「台湾議会設置請願運動」は,台湾の新しい近代知識人達によって担われた政治運動である。この運動に矢内原は深く関わっていく。

1924年春,台湾議会設置請願運動の中心的活動家の蔡培火は林呈禄とともに大森八景坂上の矢内原の自宅を訪ねた。このことが機縁となり,1927年3月から5月まで,矢内原は台湾に調査旅行に赴いた。台湾では蔡培火,葉栄鐘が案内し,台湾民族運動・文化運動の最大の指導者の林献堂にも会っている。若林正丈編『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読』所収の若林による「解説」は,矢内原の調査旅行の歴史的意義を間然するところなく読者に伝えてくれる。矢内原は台湾総督府の案内という「表玄関」からではなく,蔡培火など「台湾人の友人」の案内で,「裏玄関」から入って現地調査を敢行したのである。このことによって,矢内原は当時の台湾の民族運動,社会運動の同時代の観察者となったのである[若林 2001, 360-369]。

矢内原は『帝国主義下の台湾』の序において,伊能嘉矩『台湾文化志』を「清国治下の台湾」とすれば本書は「日本治下の台湾」というべき書で,「台湾の,又台湾に対する,経済的政治的発展の事実関係の分析を試み,その社会的意味を探り,台湾統治の性質を明かにせん」としたと述べている[矢内原 1963a, 179]。矢内原が参考にした資料を見ると,伊能の『台湾文化志』,岡松の『台湾私法』,竹越与三郎の『台湾統治志』,製糖業を中心とした総督府の統計書などが目につく。土地調査は「台湾資本主義化の基礎工事」と述べた個所など,矢内原は竹越の『台湾統治志』を社会科学の目で批判的に分析している。台湾現地調査に基づく,教育問題,政治問題,民族運動の各章は,植民地台湾の同時代史叙述そのものである。

『帝国主義下の台湾』は,このように台湾近代史として最初の記念碑的書物と評価しうるのであるが,その背景には蔡培火,葉栄鐘,陳茂源,張漢裕らとのキリスト教信仰と学問を通じた深い交友があった。戦後のことになるが,南原繁ほか編『矢内原忠雄――信仰・学問・生涯』(岩波書店,1968年)に収められた彼らの回想を読むと,『帝国主義下の台湾』が戦後台湾で読まれていく精神史的背景を知ることができる[南原ほか 1968矢内原 1998, 377-392]。なかでも,1929(昭和 4)年11月,矢内原が自宅で始めた聖書講義に参加した葉栄鐘と翌年に参加した陳茂源(戦後,国立台湾大学教授)の回想は,矢内原の学問と精神がどのように台湾人に受容されたかを知る印象深い文章である。

『帝国主義下の台湾』は,矢内原が新渡戸稲造と内村鑑三から受けた学問と信仰を基礎に,1920年代の世界の民族運動と植民政策の認識に立って,古典経済学,マルクス主義,キリスト教という「世界思想」の地点から,日本統治下台湾の実態を分析した書物である。そして,戦後から今日にいたるまで,矢内原の著作は台湾においても台湾史とキリスト教信仰の両面で読者を持っている[何 2011]。

Ⅳ 台北帝国大学における人類学と台湾史

1928年,台北帝国大学が設立された。朝鮮の京城帝国大学に次ぐ「植民地の大学」として設立された台北帝大には,初代総長となる幣原坦の構想が反映され,「南支・南洋」の人文研究を中心とする文政学部と熱帯農学を中心とする理農学部が設置された。のち1936年に医学部が増設されている。

瀧井一博は,幣原坦の教育者・学術行政官としての生涯を概観しつつ,台北帝大設立に関する幣原の理念と構想を分析し「世界的な植民地研究の潮流と帝国的統治の威信発揚の融合の産物として」,「研究成果や学術行政の国際競争力が問われる20世紀の科学史的再編という文脈の中で」植民地大学である台北帝大が成立した,と論じている[瀧井 2014, 66-67]。中生勝美は台北帝大と朝鮮・京城帝大,東北及び九州帝大の文科系講座を比較して検討している。京城帝大には朝鮮史学が2講座あるのに対して,台北帝大の文政学部には台湾史はなく,南洋史学と社会学として土俗・人種学の講座が開設された。土俗・人種学とは,現在の学術区分では文化人類学・民俗学・考古学に対応している[中生 2014, 221]。

1926(大正 15)年3月,台北帝大土俗・人種学教室の開設準備のため,移川子之蔵は遠野の伊能家を訪ね,「台湾館」の資料の全貌を直接確認している。伊能のコレクションのうち台湾関係のものは,蔵書,文書資料等の「伊能文庫」と民族資料の「土俗標本」に大別され1929年に台北帝大所蔵となった。なお,遠野関係の資料,個人的な履歴書,書簡,日記,原稿などは,伊能家に残された。

土俗・人種学教室は教授の移川子之蔵,助手の宮本延人,学生の馬淵東一によって台湾先住民の研究を展開していく。馬淵東一「移川先生の追憶」によれば,移川は米国ハーバード大学のディクソン教授のもとで民族学を学び,その学問的傾向にはアメリカ文化史学派の色彩が濃く,最も興味を持って研究していたのは太平洋域の文化交渉の問題で,広く東洋史,東洋美術史,東洋歴史考古学まで参照していた[馬淵 1974c, 471-472]。

元台湾総督の上山満之進の寄贈による研究資金がこの台北帝大の土俗・人種学教室と言語学教室に分与されたことにより,1930年から32年にかけて長期の調査事業を実施することができた。その成果が移川,宮本,馬淵(嘱託)による『台湾高砂族系統所属の研究』と言語学者の小川尚義(台北帝大教授)と浅井恵倫(大阪外国語学校教授)による『原語による台湾高砂族伝説集』である。

『台湾高砂族系統所属の研究』の「緒言」は,この研究の趣旨を以下のように述べている。台湾高砂族のような文字無き民族にあっては,「口碑伝承以外に,典拠すべき文献はなく,系統所属を明瞭ならしめんとするには種々なる困難に逢着する」が,その口碑伝承は「彼らの歴史であり物語であると同時に,詩であり文学であり哲理,科学でもあり,又,宗教をも混融し,未だ浄化せられざる,謂わば,民族的全財産である」として,この間に史実を索めなければならない。口碑伝承の中で,比較的史実に近いものは,系譜関係と移動関係のものである,と述べる[台北帝国大学土俗・人種学研究室 1935, 2]。

馬淵は,戦後とりまとめた「高砂族に関する社会人類学」[馬淵 1974a, 443-483.]において,この事業を「歴史的再構成作業」と位置づけている。この論文は,1954年の『民族学研究』18巻1-2号に掲載されたもので,日本における人類学研究の開始,伊能嘉矩の研究,臨時台湾旧慣調査会の事業,その学史的意義,高砂族統治と慣習法研究の関係,台北帝大設置以後の調査研究などについての研究回顧である。なかでも,岡松参太郎の『台湾番族慣習研究』を取り上げての人類学と法学との関係に関する議論,オランダのインドネシア慣習法研究と比較しての臨時台湾旧慣調査会事業の学史的意義の検討,ラドクリフ・ブラウンやマリノウスキーらの世界的な人類学研究の展開と台湾の先住民研究との比較など,台湾史研究の論策としてもきわめて興味深い内容を持っている。

なお,台北帝大における台湾史関係の研究としては,村上直次郎,岩生成一らによるオランダ統治期の研究がある。移川もオランダの文書館で台湾関係の古文書を多数収集した。

Ⅴ 帝国の「遺産」と戦後への「架け橋」

1945年の日本の敗戦と植民地台湾の終焉を挟んで,台湾史研究の「戦前と戦後」の関係をどのように考えたらよいだろうか。その「連続性と変化」を検討するためのひとつの手がかりとして,伊能嘉矩,岡松参太郎,矢内原忠雄らにより戦前に蓄積された台湾に関する学知が,どのように帝国の「遺産」として戦後に受容されたのか,なにが戦後への「架け橋」となったのかについて,若干検討してみたい。

1939(昭和 14)年,伊能嘉矩15年祭が行われ,板澤武雄は『伊能友寿翁年譜・伊能嘉矩先生小伝』を100部刊行した。1977年伊能の遠野関係の著作が「遠野史叢」として刊行され,1980年には遠野市立図書館博物館が「伊能嘉矩・佐々木喜善・柳田国男」の系譜展示を開催,1982年には顕彰碑が建立されるとともに,第34回日本民俗学会年会が遠野市で開催され,宮本延人が『伊能嘉矩氏と台湾研究』という冊子を配布した。しかし,伊能は「遠野物語」に関連して思い出されたので,その台湾史研究への本格的な検証にはいたっていない。

戦後まもなく社会人類学者の馬淵東一は「台湾史及び高砂族研究の偉大なパイオニア伊能嘉矩氏」として,『台湾蕃人事情』を「台湾に於ける民族学的研究の総括的な見通しはこれによって始めて基礎づけられたといってもよい」と高く評価した[馬淵 19541974b, 250-251]。しかし,1990年代になってさえ,人類学者の笠原政治によれば「伊能嘉矩は日本の文化人類学界(あるいは民族学界)では決して知名度が高いとはいえない」として,戦後の主要な人類学研究書にさえ伊能の名がほとんど出ていないことを指摘している[笠原 1998, 55]。

岡松参太郎が主導した台湾旧慣調査については,1958年に法制史学者の福島正夫が「岡松参太郎博士の台湾旧慣調査と,華北農村慣行調査における末弘巌太郎博士」を著している。福島はこの論文において,台湾旧慣調査が「長い間,日本の法学界からは無視されて,その存在さえひろく知られなかったのは,全く不当な事柄というべきである」と述べている[福島 1958]。福島は『台湾私法』,『清国行政法』,『台湾番族慣習研究』を臨時台湾旧慣調査会の成果として挙げ,満洲旧慣調査(岡松が満鉄調査部において実施),中国(華北)農村慣行調査(末弘が中心に実施)を台湾旧慣調査の学術的研究を継承するものとして位置付けた。戦後日本の法制史学界において,台湾旧慣調査と岡松参太郎の名があらためて想起されたのである。日本の歴史学界の中で台湾史に関わる学知が評価されることは,台湾史研究に対する知的刺激となった。

台湾旧慣調査の本格的研究は,戴國煇「日本人による台湾研究――台湾旧慣調査について――」[戴國煇 1968]をもってその嚆矢とする。春山はこのテーマを継承し「台湾旧慣調査と立法構想――岡松参太郎による調査と立案を中心に――」など一連の論考を刊行してきた。

矢内原忠雄の『帝国主義下の台湾』以後の植民政策学の系譜については,戦前では『東京帝国大学学術大観法学部・経済学部』に東畑精一が執筆した「植民学の大観」がある。東畑は矢内原事件で矢内原が東京帝大教授を辞職したあと,1939年に矢内原の植民政策講座を引き継いだが,東畑の専門は農学部の農業経済で,経済学部の植民政策学は兼任として講義を持ったのである。東畑は冒頭で「学問の歴史とはなにか」についての議論を展開し,「未熟な幼稚な段階にある研究部面」では,研究対象は雑多で方法の統一に至るまでの知識の集積もない,として植民学を挙げ「植民地に関する種々の知識,植民地的活動に就いての雑多の研究が集められて」いるだけで,植民学はまだ学問としての歴史を述べる段階になっていない,としている[東畑 1942, 639]。戦後,東京帝大の植民政策学の講座は東京大学経済学部の国際経済講座として改編され,東大に復帰した矢内原がこの講座を担当し,また創設された日本国際経済学会の初代理事長に就任している。東畑精一は東大における植民政策講座の改編に強い不満を持っていたという[加用ほか 1984, 49-50]。実際,日本統治下の植民地台湾の歴史研究が,東大経済学部において継承されたといえるのだろうか。『帝国主義下の台湾』の続編は凃照彦の登場まで書かれなかったのである。

植民学の分野では,戦前の社会運動家による著作が若干ある。山川均の「植民政策下の台湾」は『山川均全集』第7巻(勁草書房,1966年)に収録されているが,最初は『改造』1926(大正 15)年5月号に「弱小民族の悲哀――『一視同仁』『内地延長主義』『醇化融合政策』の下に於ける台湾――」として発表された(ところどころに伏字がある)。台湾の現状についてはエスペランティストの同志連温卿が資料を提供したとのことである。平易な文章で台湾民衆の状況を描き出している。細川嘉六『植民史』(東洋経済新報社出版部,1941年,現代日本文明史第10巻)は『細川嘉六著作集』第2巻(理論社,1972年)に収録されている。戴國煇に「細川嘉六と矢内原忠雄」という文章がある(『朝日ジャーナル』1972年12月15日,のち春山明哲ほか編『戴國煇著作選Ⅱ 台湾史の探索』(みやび出版,2011年)所収)。戴のこの論考は,「大正デモクラシーの時代の子」であり,第一高等学校英法科の同級生であり,東京帝大法科大学の同窓である細川と矢内原が,お互いに「背をそむけあいながら」(戴)描いた彼らの中国・アジア認識の軌跡を辿ったものである。

金子文夫「日本における植民地研究の成立事情」(小島麗逸編『日本帝国主義と東アジア』アジア経済研究所,1979年所収),浅田喬二『日本植民地研究史論』(未来社,1990年)も戦後からの「植民学」への視角として挙げておく。これら植民論は,台湾史研究の観点からは日本の社会運動・労働運動家が植民地台湾とどうかかわりを持ったのか,という史実から見るほうが興味深い。

台湾史研究の基盤としての資料の整備についても触れておきたい。1914年開設された台湾総督府図書館の第2代館長太田為三郎は満鉄図書館に範を取り,同館を調査研究図書館とすべく資料整備を手掛け,蔵書目録作成にあたって「台湾」の主題のもとにコレクションが構築できるように分類表を工夫した。そして,1927年第5代館長に就任した山中樵は歴史資料の収集に努め,『台湾関係資料展観目録』(1929年),『明治七年征台役関係資料展観目録』(1932年),『台湾文献展観目録』(1934年)など,「台湾史研究コレクション」を構築した。これらは,現在国立台湾図書館の重要な資料群となっており,帝国の「遺産」とみなしても良いだろう[春山 20132018a]。

Ⅵ 台湾留学生による戦後台湾史研究の再出発

戴國煇が『日本における発展途上国の研究』で書いた「台湾」によれば,戦後1945年から1960年代は台湾研究の「空白」と「不振」の時代だった。その原因はいくつか考えられる。まず,敗戦と植民地の喪失で「大日本帝国」は一瞬にして消え,「小日本」の再出発と戦後復興の中で,台湾が日本人の視野から消えたことが挙げられる。占領と戦後復興の過程で日本人は多忙であったとはいえ,歴史学の再建への動きは活発だった。ただ,アカデミズムの傾向と歴史学界の変化は顕著で,マルクス主義の影響が強くなり中国革命への関心が大きくなった。また,戴は「台湾研究をタブー視し,台湾について書く人間を台湾ロビイスト視する特殊な日本的雰囲気の存在」が,日本における科学的な台湾研究の発展を妨げてきた,とも指摘している[アジア経済研究所 1969, 55]。戒厳令が長く続いたため台湾における研究資料の利用も困難であった。

1950年代から,学問研究と政治活動の自由を求めて,台湾人の日本留学が少しずつ増えてきた。留学といっても「亡命」のような性格も色濃くあったが,彼らの学術活動の成果には目覚しいものがあった。まず,その前史として王育徳に触れておきたい。

王育徳は,「2.28事件」後日本に亡命,1950年東大に復学している。

「2.28事件」とは,1947年の闇タバコ取締り抗議事件に端を発した台湾全島的な民衆運動で,国民政府は軍隊でこれを鎮圧,台湾の社会的リーダーの多くが殺害された事件で,その後の台湾に長期にわたって深刻な影響をもたらした[何 2003]。「台湾人」意識の誕生,「独立運動」の背景ともなったこの事件は,台湾留学生の日本留学とその歴史研究にも影を落としている。

王育徳も兄の育霖をこの事件で失っている。王は東大に戻ったのち,「台湾語」(福佬語,福建南部の中国語方言)を研究,のち明治大学教授となり,1960年台湾青年社を設立して『台湾青年』を創刊した。言語研究のほか,戦後補償問題にも取り組み,台湾独立運動家としての生涯を送った[王 2011]。1964年に『台湾――苦悶するその歴史――』を刊行した[王 1964]。王は『台湾青年』を通じて粕谷一希『中央公論』編集次長を知り,上山春平京都大学人文科学研究所助教授の指導助言を得た。上山は王育徳の兄である王育霖の台北高校時代の親友であった。王は,本書を日本中のインテリが電車の吊革にぶらさがりながら,台湾問題を正しく認識できるように新書版で書くことにした。そして,政治宣伝的なハッタリによらず真実を訴える,正しい努力は正しい認識に始まる,「この認識の上に,私の台湾史に対する勉強が始められた」と王は回顧している[王 1970, 209-227]。

1970年代前半には,台湾人留学生らが研究成果を次々と刊行し,台湾史研究の大豊作と呼ぶべき局面が到来した。

台湾史専門書を刊行年順に並べると以下のようになる。黄昭堂『台湾民主国の研究』(東京大学出版会(以下「東大出版会」とする),1970年),戴天昭『台湾国際政治史研究』(法政大学出版局,1971年),許世楷『日本統治下の台湾』(東大出版会,1972年),江丙坤『台湾地租改正の研究』(東大出版会,1974年),凃照彦『日本帝国主義下の台湾』(東大出版会,1975年),劉進慶『戦後台湾経済分析』(東大出版会,1975年)。

戴國煇は世代的にはこのグループに入るが,1966年東大提出の博士論文は「中国に於ける甘蔗糖業の発展過程」(国立国会図書館関西館所蔵)で,タイトルを『中国甘蔗糖業の展開』に変えてアジア経済研究所から出しているが,全体の一部で研究所からの委嘱による報告という位置付けになっている。1967年4月に外国籍研究員第一号としてアジア経済研究所の正式な所員となっているので,これと関係があるのかも知れない。

この台湾人留学生7人のプロフィルを眺めると,いくつかの共通点がある。

まず生年であるが,1931年生まれの戴國煇,劉進慶から1936年生まれの凃照彦まで,7人はほぼ同じ世代で,1945年時点で14歳から9歳の間である。小学校・公学校で日本語の基礎は修得した世代である。彼らの出身社会階層は詳しく調べていないが,台湾大学出身の劉進慶,黄昭堂,許世楷など,大学教育を受けて日本に長期にわたって留学できるのだから相当の資産家・知識階層の子弟であろう。

指導教官の顔ぶれを見ると当時の東大の知的環境の一端がうかがえる。黄昭堂が衞藤瀋吉(国際政治学)に,許世楷が岡義武(政治史),林茂(日本政治史)らに,江丙坤が古島敏雄(日本経済史,農業史)に,凃照彦が楊井克己(国際経済論),川田侃(国際関係論),隅谷三喜男(労働経済学)に,劉進慶が隅谷三喜男に,戴國煇が神谷慶治(農業経済),東畑精一(農業経済)に,それぞれ指導を受けている。

彼らにはそれぞれの政治的立場や人生コースの違いはあったが,鬱勃とした「台湾への志」があった。許世楷は『日本統治下の台湾』の序歴史研究の動機として,「『台湾人とは何か』,台湾人の中における主体的な政治動向への関心,『私とは何か』『自分とは何か』という問いに対するもっとも根本的な答えは,その人間の所属する社会の歴史を総括することから始めなければならない」と書き[許 1972,序 4],「おわりに」で「この研究は日本の台湾統治を対象にしたが,すべてのものには圧制者となる機会と危険があり,したがって,この研究が人類共通の課題に対する問題提起の一端となりうれば幸いである」と結んでいる[許 1972, 411]。

黄昭堂の『台湾民主国の研究』は,1895年下関講和条約の結果,日本が台湾を領有することになったことに反対した台湾士紳による,短命に終った台湾民主国の本格的な研究である。黄は民主国の樹立から崩壊までの過程を実証的に描き,民主国国旗や郵便切手などの稀少な史料も発掘した。

許世楷の『日本統治下の台湾』は,「第一部 1895-1902年の統治確立過程における抗日運動」,「第二部 1913-1937年の統治確立後の政治運動」から構成された大作で,台湾抗日運動史研究の文字通り「里程標」となった歴史叙述である。26ページに及ぶ「文献解題」は台湾史研究の最良のレファレンス・ツールであった。許世楷は本書で台湾総督府『警察沿革誌』を駆使するなど,資料の実証的利用という面における研究水準を一気に引き上げた。

1988年,『帝国主義下の台湾』の復刻版の解説「帝国主義下の矢内原忠雄」に,隅谷三喜男はこう書いている。「戦後,日本人の学者の間からは台湾経済,とくに植民地下の台湾を対象に分析するものは全くといってよいほど現れない。そこに矢内原の分析に正面から立ち向かう少壮学者が現れた」[隅谷 1988, 300]。それが『日本帝国主義下の台湾』の著者,凃照彦であった。

凃照彦は,矢内原の「資本主義化」の概念を厳しく批判的に検討し,日本独占資本=資本家的企業と土着資本・地主制の併存にこそ,台湾植民地経済の基本的特徴があるとした。凃照彦は「台湾旧慣調査」の資料,特に『台湾私法附録参考書』等を駆使して清朝時代の台湾の伝統的経済社会の分析を行い,日本統治下の植民地化の全過程の詳細な検討を行っている。本書の書評で,岡部牧夫は凃照彦の研究全体の画期的意義を認めるとともに,利用できる基礎的統計データが不足しているため農家経営の分析に課題が残る,などと指摘している[岡部 1976]。石井寛治は台湾土着の林本源,辜顕栄,顔雲年,陳中和,林献堂の五大族系資本の部分が最も読みごたえがあるとし,本書が台湾経済の史的展開を論じようとするものにとって必読の重要文献として永い生命を持つだろう,と評した[石井 1976]。両者とも共通に指摘しているのは,後藤新平の時代の「資本主義の基礎工事」についての本書の叙述が簡単なことである。凃照彦は矢内原の『帝国主義下の台湾』と格闘しつつも,日本における国際経済論の系譜については,新渡戸稲造,矢内原忠雄の人道主義,国際平和思想の側面を高く評価している[凃 1977]。凃照彦は,新渡戸の植民政策学が「原住民の利益を尊重する人道主義的観点」を政策の原理に据えていること,台湾糖業の政策展開の基礎に台湾社会に対する農村社会学的観点からの理解があること,などを評価している。また,凃は,矢内原が新渡戸を日本の国際平和思想の第一人者として評価していることも踏まえ,矢内原の帝国主義批判がキリスト教信仰と社会科学的な分析との産物であると指摘した。この凃の議論は,両者の限界を見据えながらも,「南北問題」という当時の国際経済論の研究を深める立場から,新渡戸と矢内原の学問的位置付けを試みたものであり,台湾の植民史を戦後の世界史の文脈に引き付けて考察する上で重要である。

劉進慶『戦後台湾経済分析――1945年から1965年まで――』は,近代台湾社会の歴史的規定性(植民地性と半封建制),日本資本主義の再生産構造分析の手法による経済循環論,台湾経済の実態から直接抽出した公業・私業・官商資本という分析視角と概念を用いた戦後20年の台湾経済過程の総合的な研究である。劉もまた「近代台湾の不幸な政治経済過程における同胞の深い苦しみに思いを致し」本書を書いたと記している(著者はしがき)。

江丙坤『台湾地租改正の研究』は,日本の台湾領有初期,児玉総督・後藤民政長官時代の土地調査事業の研究である。江は台湾省地政局管理の北投倉庫で発見した『台湾土地調査始末稿本』に多くを依拠して本書を書いたという。台湾留学生は多くが日本の大学で教鞭を執ったが,江は本書刊行前に台湾に帰り,その後政府の要職についた。

戴天昭『台湾国際政治史研究』は,戦後の中華民国・台湾をめぐる国際政治だけでなく,台湾出兵など伊能嘉矩が扱った「世界における台湾の位置」の時空を含んでいる。

以上の台湾人留学生7人による台湾史研究は,ほぼ1970年代前半の5年間に集中して公刊されたこと,台湾史上の重要な事象をその研究対象としたこと,東京大学の社会科学・歴史学・農業経済・国際関係論などの教授陣の指導という知的環境のもとで形成されたこと,などにその特質を求めることができる。しかし,もうひとつ重要な要素がある。それは,彼らの「政治環境」である。台湾独立運動,中華民国・中華人民共和国の関係,日中・日台・日米関係など,東アジアの複雑な国際環境は,各自の政治的立場を厳しいものにした。

1960年5月,東京大学中国同学会が成立し,戴國煇は第1回の総幹事に選ばれた。そして会報『暖流』が創刊される。「創刊のことばにかえて」という創刊の辞を戴國煇が書いている。「大東京の濁流にいて,押し流されまいとする葦の一つの抵抗の姿勢として」この会の発足を考えたい,とする戴國煇は,「パスカルのパンセより」としてあの有名な「人間は,一本の葦にすぎない。(略)しかし,この葦は“考える葦”である。」というフレーズを引用している。会発足10年を経た1971年4月『暖流』13号に,歴代総幹事の座談会が掲載されている。戴國煇,黄昭堂,凃照彦,劉進慶などの名前を見ていると,台湾留学生による台湾史研究の揺籃期のようなものが感じられる。しかし,彼らは日本において学問的なコミュニティを作ることは難しかった。「政治」が彼らどうしのあいだを遠ざけたのである。

Ⅶ 台湾近現代史研究会のことなど――1973~1987年――

日本における台湾史研究は1970年代前半から本格的に始まったが,長い間「制度化」されなかったといえる。日本台湾学会が創立されるのは1998年のことである。台湾史研究は個人ベースの研究会活動によって展開されてきたという特色があり,ここでは私自身が参加した「台湾近現代史研究会」における経験を中心に,日本台湾学会創立までの1973年から1987年の台湾史研究について概観したい。

「台湾近現代史研究会」は,その前身である「東寧会」が1970年頃から当時アジア経済研究所にいた戴國煇を中心として池田敏雄,中村ふじゑ,矢吹晋,小島麗逸の諸氏などによる研究懇談会のような形で始まった。池田敏雄は戦前『民俗台湾』の編集に携わり,当時平凡社勤務,中村は霧社事件の初期の紹介者,矢吹・小島は中国研究者である。これに学生だった若林正丈,松永正義,宇野利玄,河原功が参加,1973年頃から霧社事件の共同研究が本格化して私も参加することになった。1975年若林の提案で若手の研究会を立ち上げることになり,これが元になって「後藤新平研究会」が発足,さらに1978年に雑誌『台湾近現代史研究』の刊行とともに台湾近現代史研究会という名称に変更した。この研究会では雑誌『台湾近現代史研究』を6号出し,共同研究の成果としては戴國煇編著『台湾霧社蜂起事件――研究と資料――』(社会思想社,1981年)を刊行して,1988年に解散した。

前後約20年近く続いたこの台湾近現代史研究会は,今振り返ってみると非常にユニークな台湾研究グループであった。大きな特色のひとつは参加メンバーの多様性である。大学・研究機関の研究者・職員,台湾研究をテーマに選んだ大学院・学部の学生,台湾になんらかの関心を持つ会社員・商店主等の市民,さらには,詩人,ジャーナリストなど各分野の人々が集まった。その結果,台湾への関心も広がっていき,国際関係論,民俗学,文学,教育,中国経済,日本近代政治史,農業経済,金融など非常に「学際的」になった。参加者には,金子文夫,近藤正己,栗原純,檜山幸夫,岡崎郁子など,それぞれの領域で独自の研究活動を発展させた研究者も多い。また,台湾からの留学生(張炎憲,陳梅卿,黄英哲,呉密察,蔡錦堂等),ゲスト報告者も多かった。台湾からのゲストには作家の呉濁流,楊逵,戦前の民族運動家葉栄鐘等もいて,日本と台湾の国際学術交流の性格も持っていた。

ただ,霧社事件研究に関しては,台湾軍司令部や陸軍大臣官房の資料の刊行が遅れたこと(春山明哲編・解説『台湾霧社事件軍事関係資料集』不二出版,1992年),共同研究に人類学者・民族学者が参加していなかったこと,後藤新平研究が共同研究としては中断したままになったことが残念であった。

台湾近現代史研究会の同人であった河原功の『台湾渡航記――霧社事件調査から台湾文学研究へ――』は,文学が中心ではあるが,台湾史研究の観点からも非常に面白く,また時代の証言としても貴重である。同書は1969年の台湾への第1回訪問から1973年の第4回訪問までの日記・備忘録「台湾渡航記」と著者による解説に加え,台湾の作家・霧社事件関係者の口述記録,及び附録として「台湾文学研究への道」が収録されている。河原は,霧社事件研究の根本資料である台湾総督府警務局の『霧社事件誌』を発見したことをはじめとして,台湾史及び台湾文学の関係資料の収集・保存・復刻に努力を傾注し,研究インフラの整備に貢献している。

Ⅷ 新時代への胎動――1987~1997年――

1987年,38年間続いた台湾の戒厳令が解除され,台湾における政治の民主化の進展と,言論,思想,学術研究の各分野での自由化が進められた。それと同時に,「本土化」すなわち郷土である台湾そのものの歴史・社会・文化・アイデンティティに対する関心が台湾社会に広がり深まっていった。台湾の大学や研究機関において台湾史研究が急速に展開していったのである。一方,1988年に台湾近現代史研究会が解散し,日本における台湾史研究の状況も変わっていった。また,「終戦50年」を控えた1994年の村山首相談話を機に,歴史研究者交流支援事業やアジア歴史資料センター設立への動きがあり,台湾(史)研究をめぐる学術環境と研究基盤に大きな影響をもたらしていった。

ここでは,1998年の日本台湾学会の創立までの約10年間の若林による台湾研究をケーススタディとして取り上げながら,台湾史研究をめぐる「新時代への胎動」のスケッチを試みたい。若林は1970年代前半から台湾史研究を開始し,80年代半ばからは,台湾政治の観察と分析を含む,台湾の地域研究全体に研究対象を拡げていった。そして,若林は日本台湾学会の創立と運営,研究のみならず教育と後進指導の分野で,先導的な役割を果してきた。その軌跡は台湾史研究の特質を考える際のひとつの視点を提供する。以下では台湾研究と台湾史研究を必ずしも明確に区別しないで記述を進める。

若林は『台湾抗日運動史研究』(研文出版,1983年)を上梓して一連の抗日運動史研究を集成したのち『海峡――台湾政治への視座――』(研文出版,1985年)を刊行した。同書「あとがき」によれば,戦後台湾政治研究へ移行する「ウォーミング・アップの記録」でもあった。以後,若林は毎年のように台湾を訪れ,選挙を実見しつつ台湾の政治の観察を続けていく。『台湾――転換期の政治と経済――』(田畑書店,1987年)の「はしがき」の末尾が「1987年7月15日,台湾の戒厳令解除の日に」となっているように,一連の著作は台湾の政治のダイナミックな変化の同時代史である。その観察記録は生き生きとした知的なルポに加えて,常に台湾政治の構造的把握とその政治学的な概念化・理論化を伴い,中国大陸との関係を含む「台湾の前途」を展望するという密度の濃い著作群である。

ついで,『転形期の台湾――「脱内戦化」の政治――』(田畑書店,1989年),『台湾――分裂国家と民主化――』(東京大学出版会,1992年)が刊行される。後者は政治社会学と歴史社会学の二重の視角からの現代台湾政治論であった。この終章で若林は台湾型権威主義体制の変容の方向について「中華民国の台湾化」という概念表現を提出し,以後,台湾政治の変化を表現する重要なキーワードとなっていく。

その後,『東洋民主主義――台湾政治の考現学――』(田畑書店,1994年),『蒋経国と李登輝――大陸国家からの離陸?――』(岩波書店,1997年,サントリー学芸賞受賞),『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人――台湾人の夢と現実――』(朝日新聞社,1997年)と,「観察記録」系統の,日本の市民社会向けの発信が続き,2冊の大著『台湾抗日運動史研究増補版』(研文出版,2001年)と,『台湾の政治――中華民国台湾化の戦後史――』(東京大学出版会,2008年,アジア・太平洋賞及び樫山純三賞受賞)の完成にいたる。

1989年に刊行された若林の『転形期の台湾――「脱内戦化」の政治――』には,「補遺」として「日本第三世代の台湾研究――呉密察氏(台湾大学歴史学講師)と語る」という「対談」が付いている。この対談はもともと『當代』という台湾の雑誌に掲載されたもので,日本と台湾の台湾史研究を先導した2人の対談は,当時の「転形期の台湾」という時代を象徴する側面があり,後述する「Ⅹ.台湾史とはなにか――史論と方法――」に関連する内容を含む点で重要なものである。

呉密察はまず研究者の世代論を提起し,第1世代を植民地期台湾を知る日本人(矢内原忠雄から中村孝志まで),第2世代を台湾留学生(黄昭堂,許世楷,劉進慶など),第3世代を若林などの日本人研究者グループとして,第3世代がなぜ登場したのか,その時代的背景はなにか,第2世代からの影響はなにか,などについて若林に質問している。若林は1960年代末の学生運動の持っていた体制批判的雰囲気,個人の経験としては呉濁流の『アジアの孤児』等の作品に触れた衝撃,第2世代の著作が研究の標準的な道具となったことなどを挙げている(許世楷の『日本統治下の台湾』や台湾総督府の『警察沿革誌』を多くめくった,という表現をしている)。呉は第2世代の成果を「後から行く者が目標とすべき標準を提供しているという点でたいへん重要な役割を果した」と評価している[若林・呉 1989,241-242]。

「台湾史研究の使命感」という見出しのもとでの2人の発言が興味深い。呉は,台湾社会の最近の変化の中で,マスコミが台湾史を研究している学者に過大な期待を寄せているため,社会の需要に対する応急的作品が市場に溢れていると指摘し,「歴史解釈権」を争うなどといって「台湾史を別の目的のための道具にして議論をぶつという風潮は,台湾史研究のようにやっと第一歩を歩み始めたばかりの学問にはたいへん良くない」と憂慮している。これに対して若林は,台湾史研究が純粋学術研究であるのは困難で,「台湾の歴史をどう見るかは,台湾がどのような運命共同体として自己実現するのかという,台湾の前途の問題を含んでいるようだ。孫文の言葉でいえば『心理建設』の重要な時期に台湾社会はさしかかっているのではないか」と応じている[若林・呉 1989, 252-253]。

この2人の対話には台湾史研究とはなにか,という問いに関係する重要な問題が含まれている(後述のⅩ節参照)。若林と呉が,呉の東大留学時代以後今日にいたるまで,日台双方の学問的コミュニティの対話者としての関係を継続していることは意義深いことと思われる。

台湾では「民主化」と「本土化」が進展し,学問・研究のタブーも解消され,台湾史の研究環境は飛躍的に改善された。台湾の国立アカデミーである中央研究院には,1993年に台湾史研究所籌備処(準備室)が設立され,各大学には台湾史研究の学科と大学院が設けられていった。各種の公文書の公開も進んできた。[杉原 1991台湾史研究環境調査会 1996川島 1997呉文星 1998]。

一方,日本でもアジアの歴史研究に関する大きな動きがあった。終戦50周年を翌年に控えた1994年8月31日の「『平和友好交流計画』に関する村山内閣総理大臣の談話」によって1995年から10年の計画で開始された「歴史研究支援事業」が,研究の促進に大きな影響を与えた。台湾関係では,交流協会(当時。現日本台湾交流協会)の中に日台交流センターが設けられ各種の事業を行ったが,なかでも「歴史研究者交流事業」が特筆される。この事業は,平成7(1995)年度から同16(2004)年度までの10年間にわたって行われた研究者の交流事業で,日本人研究者の台湾への派遣と,台湾人研究者の日本への招聘という双方向の交流事業であり,派遣者は147名,招聘者は158名に上った(「『平和友好交流計画』~10年間の活動報告」平成17年4月12日,内閣官房副長官補室(外政担当),39ページ)。

1990年代における台湾史研究の動向として注目されるのは,台湾史研究の先達,伊能嘉矩の本格的再評価である。

1992年に森口雄稔は伊能の調査日誌を整理,日本語原文で復刻して『台湾踏査日記』を台湾の出版社から刊行した(日本語張炎憲主編,台湾風物雑誌社)。1995年,遠野市立博物館は伊能の渡台100年を記念して「伊能嘉矩――郷土と台湾研究の生涯――」という特別展を開催した。1996年に『遠野物語研究』(遠野物語研究所)と雑誌『台湾原住民研究』が創刊されると,荻野馨『伊能嘉矩――年譜・資料・書誌――』(遠野物語研究所,1998年),笠原政治「伊能嘉矩の時代――台湾原住民初期研究史への測鉛――」(『台湾原住民研究』3号,1998年)等,伊能研究は大きく前進した。

一方,台湾においては台湾大学に引き継がれていた「伊能文庫」の再整備が着手され,1997年には『国立台湾大学蔵伊能文庫目録』が刊行され,98年には国立台湾大学創立70周年(台北帝国大学を起点とする)と台湾大学附属図書館の新館オープンを記念して「伊能嘉矩と台湾研究」の特別展と記念シンポジウムが開催された。台湾においては,呉密察が伊能再評価の中心的な役割を果している。

日本ではこのような台湾の変化に影響され,新たな知的刺激を受けた若い世代が登場した。また,台湾からの留学生との学術交流も広がってきた。1960年代生まれを中心とする「新世代」の登場であった。彼らの研究関心は,植民地期の政治史・経済史から社会・文化史へ,そして戦後政治史へと移っていく。これについては,次節でふれよう。

前述した河原功『台湾渡航記』の附録「台湾文学研究への道」の第1章は「日本における台湾研究・台湾文学研究の系譜」で,「台湾近現代史研究会」のほか,1977年を起点とする関西の森田明,石田浩,松田吉郎等による台湾史研究会(1977年)の創設にも触れている。また,1991年から開始された天理台湾研究会,それが1995年に改称された天理台湾学会にも触れている。関西方面の台湾研究については,下村作次郎「台湾研究,この10年,これからの10年関西地域における台湾研究」(『日本台湾学会報』11号,2009年5月)を参照されたい。

特筆すべきは,檜山幸夫中京大学教授を中心とした『台湾総督府文書目録』編纂事業の展開である。1993年に刊行が開始されたこの事業はすでに30巻を刊行して,2018年現在なお継続中である。檜山教授のグループは台湾史関係の資料集・研究書の刊行,台湾史関係の国際シンポジウムの開催などを精力的に継続し,日本の台湾史研究の大きな拠点となっている。

また,京都の国際日本文化研究センターの松田利彦教授が長年にわたり,国際的な植民地共同研究を進めている。ここで詳述する紙幅はないが,台湾史研究においても意義深い成果を挙げていることを付記したい。

Ⅸ 日本台湾学会の創立から現在まで――1998~2018年――

1998年5月30日(土曜日),東京大学本郷キャンパスで日本台湾学会の「創立会員総会」が開催された。大正時代に吉野作造が民本主義を講じた法文2号館3号大教室という学会の船出にふさわしい場所であった。午後には「『台湾研究』とは何か?」というテーマの記念シンポジウムが開催され,初代理事長の若林正丈東大教授の司会で,5人の会員の問題提起があったが,1970年代の台湾近現代史研究会のメンバーが若林のほか佐藤幸人(アジア経済研究所),呉密察(台湾大学)の3人が含まれていたことが時間の経過を感じさせた。1998年の台湾学会創立から現在までの台湾史研究の概観を簡単に試みたい。

『史学雑誌』が各年の5月号に掲載する「回顧と展望」は,前年度の歴史学界における研究成果を各分野にわたって網羅的にレビューする特集として定評があり,日本の歴史学の中で台湾史研究がどのような位置を占めているのかを検討することができる。ここでは触れないが,筆者は戦後の「回顧と展望」欄における台湾史関係文献の全体を分析したことがあり,日本台湾学会の創立が台湾史研究の発展にとっての実に大きな画期であったことが分かる。

近藤正己は『史学雑誌』110巻5号(2001年5月号)において,「戒厳令解除後の民主化に伴い,台湾における台湾研究は一瀉千里に進展した。日本でも1998年に日本台湾学会が創立され台湾近現代史研究は学際的環境の中にテイクオフした」と高揚した調子で書いている。この号では,中国/近代の中に「台湾」の項目(小見出し)が立てられ,計31件の文献が取り上げられている。林淑美が担当した翌2002年には26件が採録され,「台湾」の項目が3ページ半にもわたった。そして,この項目の末尾で,林淑美は「台湾近現代史はなぜ『中国史』の範疇に含まれているのか」という疑問を投げかけた。これを受けて,駒込武が担当した2003年には,「中国」の枠の中で「台湾」という項目が「独立」することになり,収録文献は30件を数えた。以後毎年,『史学雑誌』「回顧と展望」の「台湾」欄には30~40件余りの文献が掲載されるようになった。

それから10年後の2008年,「日本台湾学会設立10周年記念シンポジウム」が開催され,「台湾研究この10年,これからの10年」というテーマのもとに研究レビューが行われた。歴史分野の報告は駒込武が行ったが,分野横断的な討論を目指したため個別研究の評価はされなかったものの,この報告には「日本における台湾史関係図書目録」が付けられている。これは,1998年から2008年5月までに日本で刊行された台湾史関係の学術書(単著のみ)を対象とし,政治史,経済史,教育史・宗教史・言語史,社会史・女性史・民族史,文学史,翻訳書に分類したリスト(図書78件)であり,この10年の台湾史研究の大きな発展がうかがえるデータとなっている。

また,2018年の日本台湾学会学術大会では,菅野敦志が「日本における台湾史研究,この10年から考える」と題して報告し,文献リスト(2008~2017年度)も付いている。

この20年間の台湾史研究の発展は量質ともに大きいものがあった。春山「日本台湾学会の10年を振り返って」の報告でも触れたが,若林正丈が創立大会で述べた台湾研究の「個性」としての「歴史的重層性」,「学際性」,「領域際性」は台湾史研究においても明瞭である。若林は,「『台湾研究』とはなにか?」という問題提起の中で,歴史学・文学・政治学・経済学・文化人類学などの諸々の学問の「学際性」のほかに,「もう一種類の学際性」として「領域際的」学際性を挙げた。「台湾の歴史にかかわりその社会の理解に有用な,オランダ史,中国史,日本史,国際政治史などの隣接分野」を特に意識した表現であった[日本台湾学会『日本台湾学会報』編集委員会 1999,1]。

2008年の筆者の分析では,政治・経済・歴史・社会・文化・文学・教育・原住民族のどの領域においても,日本統治期の歴史記述が現れていた。しかし,2018年の菅野報告によれば,「植民地期の文学」の比重が低下し,「戦後の政治」の比重が増大している。また,植民地期においても,研究の重点が,政治史・経済史から文化史・社会史へと移行しつつあるように見える,と菅野は指摘している[菅野 2019]。

「誰が歴史を書くのか」に関してもっとも印象に残ったのが,2009年6月6日,日本大学文理学部で開催された日本台湾学会第11回学術大会における学会企画シンポジウム「台湾原住民族にとっての霧社事件」であった。このシンポジウムの記録は『日本台湾学会報』第12号(2010年5月)に詳しく掲載されている。

このシンポジウムの趣旨について企画者の駒込武は,『台湾霧社蜂起事件――研究と資料――』(社会思想社,1981年)の序文から戴国煇の「誰が誰の歴史を記述するのか」という問いを引用し,1980年代半ば以降の原住民権利促進会の活動,近年のクム・タパス(Kumu Tapas/姑目・荅芭絲)『部落記憶――霧社事件的口述歴史(Ⅰ)(Ⅱ)――』,簡鴻模とイワン・ペリン(Iwan Perin/依婉・貝林)が中心になって編集した『清流部落生命史』などを挙げ,台湾原住民族による歴史叙述をめぐる問題提起を行っている。シンポジウムでは,仁愛郷(元霧社)民政課長のタクン・ワリス(Takun Walis/邱建堂)が「ガヤと霧社事件」と題する報告を行った。タクン・ワリスは仁愛郷の行政に関わるとともに,セデックの歴史研究者ダッキス・パワン(郭明正)や鄧相揚らと霧社事件の研究を行ってきた。文献と口述歴史を総合する中で,原住民の慣習法的な社会規範である「ガヤ」の重要性を指摘し,霧社事件解釈に新たな展開可能性を与えたのである。「台湾史を誰がどのように書くのか」という問いに対する答えでもあり,台湾史研究史の上でもエポックとなる報告であった。「霧社事件」の歴史叙述はその後新たな展開を見せた。2013年,台湾映画『セデック・バレ』の日本公開である[春山 2018b.]。この映画の日本語字幕の監修に関わった経験から,映像表現と史実の関係について,新たな研究領域があることを実感した。また,この作品が持つ台湾の民族・文化・言語の多元性を日本社会がどう受け取るかも興味深い点であった。霧社事件研究はまだまだ先が長い。

Ⅹ 台湾史とはなにか――史論と方法――

はじめに」でふれた『歴史とはなにか』でE・H・カーは「歴史家が歴史をつくる」と述べている。台湾史研究の場合,この「命題」はきわめて重要な意味を持っている。とくに台湾に住む人々にとって歴史叙述の主体となることは,歴史的に困難な時期が長かったからである。

前述したように,1993年8月,台北の中央研究院に台湾史研究所籌備処(準備室)が設立された。この時にあたり呉密察は,今後の研究が「どのように台湾の歴史を効果的に分析・叙述するか」という問いに直面すること,「台湾史が成り立つところの学問的基礎およびその課題に答える」ことが必要であると問題提起した。「台湾史とは何か」,「台湾史はどうあるべきか」という学問上の課題について論じたのである。[呉 1994, 219

呉は,南島語系原住民,オランダ時代,鄭成功,清朝支配,日本による植民統治を概説し,特に日本という異民族による植民支配が台湾人の側に,ナショナリズム研究の思想家ベネディクト・アンダーソンのいう「応戦としての自民族アイデンティティ」を形成させ,「応戦としてのナショナリズム」の形成の基礎を提供したと述べる。呉はこれまでの歴史観を整理し,「台湾の歴史を,台湾という島以外の地域の人々がこの島で発展してきた過去として解釈する」という「台湾史の認識モデル」を図示して提出する。1949年に島外から来た国民党の中国史解釈では,1949年以前の日本時代の歴史は意味がないものとされ完全に剥奪される。戦前の日本植民地主義も1895年以前について同じようなモデルをもっていたとする。その結果,1895年から1949年までの台湾の歴史が二重に剥奪され,失われてきたことを指摘する。このような「外来統治者の歴史認識モデル」は,台湾人共通の記憶とは無縁のものであるとする呉は,台湾史の課題として,外来政権中心の史観の止揚,台湾を主体とした歴史叙述の確立,漢人中心史観の克服,台湾島内の各種族平等の叙述の確立,原住民の歴史の再構築を主張した。そして,この台湾ナショナリズムは東アジアそして世界へと開かれたものにしていくことが必要である,と展望する[呉 1994, 229-242]。

若林は『台湾抗日運動史研究』(増補版,研文出版,2001年)の「付篇」に「台湾をめぐる二つのナショナリズム――アジアにおける地域と民族――」を収録している。若林は,アンダーソンの『想像の共同体』における「巡礼圏」の議論を援用しながら,台湾近現代史における台湾・中国のナショナリズムを考察した。2つのナショナリズムとは,あえて単純化すれば,清朝台湾統治の遺産が生み出した中華ナショナリズムと,日本の植民地支配との対抗から生じた台湾アイデンティティを起源に持つ台湾ナショナリズムのことである。この若林の議論が重要なのは,台湾現近代の歴史解釈にかかわるものであるとともに,21世紀に向かっての台湾の前途を展望する視角ともなっていることである。

岡本真希子は,若林のこの視角をふまえながら,「『韓国併合』100年を問う」という『思想』の特集に寄せた「植民地期の政治史を描く視角について――体制の内と外,そして『帝国日本』――」で,その後の研究動向をレビューしているが,台湾史研究と朝鮮・韓国史研究との比較を試みている点が興味深い。実際のところ植民地台湾・朝鮮の「比較」は簡単ではない。

これに関連して,檜山幸夫は「日本の外地統治機構と外地支配について」(『転換期の台湾史研究』中京大学社会科学研究所)において,岡本真希子『植民地官僚の政治史――朝鮮・台湾総督府と帝国日本――』(三元社,2008年),『日本の朝鮮・台湾支配と植民地官僚』(松田利彦・やまだあつし編,思文閣出版,2009年),酒井哲哉・松田利彦『帝国日本と植民地大学』(ゆまに書房,2014年)を主たる対象として,「植民地」,「帝国」の歴史学用語の概念と用語の検討を行っている。檜山は台湾総督府文書の厳密な検討に基づく台湾の「外地」としての統治制度の知見を背景に,帝国日本の統治構造を踏まえた官僚制度論,帝国大学論が必要であると主張している。そして,檜山は戦後の「植民地」研究が「負の歴史」として論じられてきたこと,そのことが却って歴史的事実を消去する状況を生み出してきた面があることを指摘する。「如何に支配されてきたか」だけでなく「如何に支配してきたか」の視点からの「台湾統治史」も「日本史」の構成体として位置づける必要を主張している[檜山 2015, 70-71]。檜山の議論には,帝国日本の植民地統治史研究の方法論と戦後の日本歴史学における「台湾史」の位置との両方の問題が含まれている。

ところで,アンダーソンは「台湾史」をどのように見ていたのだろうか。2011年5月28日,早稲田大学における日本台湾学会第13回学術大会記念講演は「ベネディクト・アンダーソンとの対話」と題され開催された。

アンダーソンは「台湾研究――帝国主義とナショナリズムのはざま――」と題する基調講演で,まず「比較帝国主義のなかの台湾」を世界史の視野から論じ,崩壊に向かう陸の帝国の清国と,新興の海の帝国の日本のはざまに置かれた「台湾の奇妙な色合い」を描き,1895年の「台湾民主国」の反植民地主義とナショナリズムの萌芽を指摘した。「ナショナリズムという考え方のなかには,市民間の平等や国民のユニークさを強調するほかに,地理的・政治的な空間の新しい観念が,論理的に含まれており,そして想像力は,そのために本質的な役割を演じている」と述べた[アンダーソン 2012]。

呉叡人(台湾・中央研究院台湾史研究所)はアンダーソン講演の比較歴史学による解放的効果を表現し,自分の台湾研究を「世界史における近代台湾の登場」として特徴づけることができた,と述べた。しかし,呉は「台湾が,未来永劫,帝国の狭間にとらえられ,そこからの出口をもつことができないという地政学的な事実を,変えはしない」,「複数の帝国的中心の共通の周縁に台湾が位置する地政学的な構造は台湾のナショナリズムを,アイデンティティを誕生させはしたが,その完成を禁じている」と断ずる。ここからの出口はあるのか。呉はハンナ・アレントの例えを借りて「日本における台湾研究は,台湾にとって,世界と故郷の両方を代表するもの」と言う。「世界でただひとつ,日本だけが,長きにわたる台湾研究の自生的な伝統,知的で真剣な専門研究者より構成された,自発的に生まれ,自律的で,活発な台湾研究の学会をもつ」と評したのである[呉 2012]。

「帝国の周縁」という概念について,若林は「諸帝国の周縁を生き抜く――台湾史における辺境ダイナミズムと地域主体性――」を書いている。『歴史としてのレジリエンス――戦争・独立・災害――』の第4章として収められた論考である。若林は,近代の台湾史を論理的に描写するとともに,帝国のパワーの投射がその辺境/周辺に引き起こす歴史的変動を「辺境ダイナミズム」と定義し,近代の台湾は清朝という世界帝国,国民帝国としての大日本帝国,インフォーマルな帝国としてのアメリカという3つのパワーから投射される辺境ダイナミズムによって形成されてきた,とする[若林 2016, 136-137]。そして,現在の台湾には「中国要因」,すなわち「中華国民帝国」の新たな辺境ダイナミズムが押し寄せているのであり,この流れの中で,「諸帝国の周縁を生き抜く」智恵とレジリエンス(打たれ強さ,災厄からの復興)はいかに発揮されていくのであろうか,と問いかけている[若林 2016, 172]。

また,若林正丈は「『台湾島史』論から『諸帝国の断片』論へ――市民的ナショナリズムの台湾史観一瞥――」という『思想』の「研究動向」において,台湾アカデミズムの台湾史研究の系譜を「市民的ナショナリズム」の台湾史観として性格付け,その素描を試みている[若林 2017, 85-96]。論じられているのは,歴史家曹永和の「台湾島史観」,呉密察の「台湾史の成立とその課題」,周婉窈の『図説台湾の歴史』中の「地理空間により歴史を定義する」,呉叡人の「台湾は諸帝国の断片」という言説である。若林は「メタ・ヒストリーに寡黙な台湾史学界」にも「台湾史観」の語りがあることを確認したかったと書く。

なお,曹永和の「台湾島史観」については,陳姃湲の「『台湾島史観』から植民地の知を再考する――植民地台湾における『知と権力』をめぐって――」が,ここ四半世紀の間の台湾史研究が「台湾島史観」によって導かれてきたという見解を,説得力をもって提示している[陳 2019]。

おわりに――課題と展望――

台湾史を誰が書いてきたのか(書くべきなのか)という問題意識のもとに,伊能嘉矩から日本台湾学会までの,日本における台湾史研究の歴史を素描してきたが,ここでその歴史的な個性について少し感想を述べてみたい。

1925(大正 14)年10月,台北で伊能嘉矩の追悼会が開かれたとき,長く親交のあった尾崎秀真は弔辞の中で「歴史は予の生命なり。官に在ると野にあると敢て問ふ所にあらず」という伊能の言葉を紹介している(『台湾時報』73号,1925年11月,50~51ページ)。伊能の本領は歴史にあった。しかし,『台湾志』から看取されるように,彼の「志」の構図は「史」よりも広かったのではないか。世界史における台湾,先史時代,沿革志(狭義の歴史),人文・自然地理,漢族・先住民の人類学,民俗学,言語学,文学,日本統治下の同時代史まで,彼の視野は広くその学識は深い。伊能は失われつつある史料の蒐集と科学的方法の実践に心を砕き,なによりも台湾の先住民(特に漢化しつつある平埔族)や亡国の失意に沈む台湾文人との交流に意を注いだ。「台湾史を誰が書いたのか」という研究史の劈頭に,伊能のような存在があったことを幸運に思わざるをえない。伊能嘉矩研究は日本においてはまだ大いに開拓の余地があるのではないか。

台湾旧慣調査は後藤新平の台湾植民地統治の所産であり,「知と権力」の関係の考察上たいへん興味深いものがある。後藤新平研究は意外に進んでいない。旧慣調査は直接に歴史研究を目的としたものではないものの,岡松参太郎の「知の射程」は遠く,台湾社会の西欧法・中国法による解釈,先住民の法社会学的研究など多くの研究テーマが含まれており,台湾史の解釈を豊かにする可能性がある[春山 2019]。

矢内原忠雄の『帝国主義下の台湾』など一連の植民学の台湾史研究におけるひとつの意味は,スミスやマルクスの経済学理論,キリスト教信仰(特に再臨信仰),アイルランド・パレスチナ問題など,世界思想と国際政治の視点を台湾社会の観察方法に持ち込んだことにある。伊能が提起した「世界史における台湾」というコンセプトの中に,矢内原は台湾史の解釈の方法論として,経済学,マルクス主義,キリスト教という「普遍」という視点を据えたのである。

戦前期の台湾史研究は,しかし戦後長い忘却の時期を迎えた。この忘却の大きな原因は,帝国日本の崩壊による植民地台湾の喪失と,台湾における戦後の国民党政権下で「脱日本植民地」と「中華民国化」が推進されたことにあるとみてよい。そして,日本の戦後歴史学は自国史の再発見に忙しく,台湾に格別の関心を示さなかった。東京大学に学ぶ「中華民国・台湾」留学生の同窓組織である「東大中国同学会」の雑誌『暖流』に集った台湾留学生たちも,はじめは特に歴史に関心があったのではない。日本の自由な学問環境の中で「台湾にも歴史があったのだ」という「自己発見」が彼らの台湾史への志向の大きな動機であった,と何人かの歴史研究者から聞いたことがある。

台湾留学生の歴史研究に深く影響されて,日本人による台湾史研究は1970年代から本格的に始まったのだが,その社会的背景には学生運動だけではなく,日中・日台関係の大きな転換があった。台湾近現代史研究会の初期の若手メンバーには「台湾をこのまま忘れていいのだろうか」という共通の認識があったように思う(雑誌『台湾近現代史研究』創刊メモ)。

「台湾史を誰が書くのか」という問いは,自由な学術活動がなされる台湾の現在の学術環境のもとでは基本的には解決できた課題だと思う。台湾島に住む多様な全ての人々が,お互いの多元的な価値を尊重し台湾の歴史を研究し叙述するという「台湾島史観」は日本においても多くの共感を得ている。しかし台湾は「諸帝国の断片」とまでは言わないにしても,米中の強力な磁場の影響を受けている。中台関係の緊張や台湾における「中国要因」はこれからも続くと予想される。

とくに,2014年春,台湾で展開された「ヒマワリ運動」は,「中国要因」とこれに対する台湾の市民社会の抵抗を劇的に現したものとしてなお記憶に新しい。社会学者の呉介民は,「中国要因」を,中国が経済力を中心としてその影響力を台湾に対する政治的目標の達成に利用する作用のメカニズム,と定義している[呉 2015]。この作用が今後,学術・文化活動の面にも拡張されることは十分予想できる。

カーの言うように,歴史が過去と現在との不断の対話であるとするなら,「台湾はどこにいくのか」という現在的な問いは,常に過去に対する新たな問いと課題を我々に投げかけることになるだろう。その意味では,日本における台湾史研究が今後もより深まると同時に,その成果が日台間はもとより,広く国際的な学術コミュニティや世界の知的ネットワークにおいても認識され共有されることが必要ではなかろうか。日本では高等教育・学術研究の環境も厳しく,台湾史研究の将来も決して楽観できるわけではない。しかし,台湾史研究には広い沃野がある。台湾が開拓者の島であったように,台湾史研究もそのように展望することが可能である。

(2019年9月23日稿)

(早稲田大学台湾研究所招聘研究員,2017年4月27日依頼,2018年3月29日受領,2019年10月11日レフリーの審査を経て掲載決定)

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