アジア経済
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書評
書評:小倉充夫・舩田クラーセンさやか著『解放と暴力――植民地支配とアフリカの現在――』
東京大学出版会 2018年 xviii + 365 ページ
佐藤 誠
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2019 年 60 巻 4 号 p. 71-75

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 はじめに

アパルトヘイト体制の終焉により,西欧植民地主義の暴力の産物としての「植民地国家」およびその一変種としての「入植者国家」は,前世紀末までに(西サハラなど一部地域を除き)アフリカから姿を消した。だが,アフリカの政治・経済・社会の舞台面において,暴力はいまだ無視しえぬ役割を果たしている。本書の著者はそれを認めたうえで「しかしアフリカ政治を特徴づける暴力は今に始まったことではない」(4ページ)と述べ,奴隷貿易や植民地化にともなう暴力などアフリカの暴力がこれまでの西欧との接触の歴史の産物であることを強調する。本評では著者のこうした立場を受け入れつつも,現代のアフリカにおける解放と暴力を考えるうえでは見逃すことのできない他の論点にも言及する。

アフリカにおける暴力については,これまでにも研究の前例がないわけではない。アフリカ大陸の至る所で殺戮の嵐が吹き荒れた1990年代の地域紛争については,日本でもさまざまな研究グループが実態の解明に取り組み,各地域の紛争に共通する特質については一定の共通理解が形成された。「国家間戦争ではなく内戦として現出」,「国家の正統的暴力独占の崩壊と紛争民営化」,「多数の民間人が犠牲者および加害者として関与」などである[武内2000,3-52]。紛争の多くが内戦だったのは,国際的な対立ではなく「国内的矛盾の蓄積」に起因していたからである。権力者が地位を利用した蓄積を行う一方,多数者は貧困のまま取り残され,構造調整で追いこまれた。権力者による国家の私物化と機会を奪われた若者たち,という2つの要因が交差する所に私兵が組織されていった[武内2000,37]。

紛争研究の場合,研究者の関心は個々の紛争の実態把握と原因解明にあったから,まずは個々の事例を実証的に究明することに力が注がれた。これに対して本書の場合は,南部アフリカ3カ国について各国ごとに植民地化から独立運動を経て現在に至る歴史的経緯を実証的に明らかにしたうえで,3カ国の現在を比較する構成になっている。そこでは「解放」と「暴力」という2つの鍵概念に沿って,植民地期からポストコロニアル期を通じた考察に挑むことになる。

 構成と概要

本書の章構成と各章の概要をみてみよう。「はじめに」に続く本文は全6章から構成され,3章ごとに「課題と歴史」(第Ⅰ部)および「南部アフリカの現実」(第Ⅱ部)としてまとめられている。第Ⅰ部は,暴力をめぐる理論的検討とアフリカ大陸および南部アフリカの状況。これに対して第Ⅱ部各章は,南部アフリカ地域に位置するザンビア,ジンバブウェ,モザンビークの個別分析と相互比較である。共著者の章担当は以下の通り。小倉:1章,4章,5章。舩田:2章,3章,6章。

章ごとにみてみると,第1章は,政治暴力が西欧による植民地化を通じて歴史的に形成されてきたという理解に立ち,歴史的過程を追う。2章では,第二次世界大戦後に民族解放と独立を求める声が高まって,1960年の「アフリカの年」に至った経緯を描き出す。3章は,南部アフリカ解放のための暴力的手段と非暴力を対比する。アパルトヘイトの南アフリカ以下,ジンバブウェ,モザンビークとアンゴラ。いずれも独立を求める武力解放闘争が部分的または全面的に選択され,植民地国家の側も情報や謀略などの面で越境協力しあった。

第Ⅱ部の3つの章は,ザンビア(4章),ジンバブウェ(5章),モザンビーク(6章)各国における「解放と現代の権力」がいかなるものであるかを論じている。それぞれ植民地化の主体もその依拠した暴力の手段も異なり,それは解放のために立ち上がった地元民衆の闘争の仕方,時に依拠した暴力手段を規定した。たとえばザンビアでは武力が使われることはほとんどなかった。ジンバブウェでは,英本国に加えて植民地化の先頭に立つ「白人」(注1)入植者との交渉を行った。これに対してモザンビークの人々は,強制労働すら組み入れた支配のもとにおかれ,長期的な解放区建設と武力解放闘争を選択する。1980年のジンバブウェを最後に3国は独立した。

〈論点1〉

2人の著者はともに日本における当該国研究の牽引者的立場にあるだけに,調査研究の仕方は原則的であり,二次資料に加えて現地の文書館を使い当事者にインタビューするなど,緻密な調査と事実検証に立った論旨展開を行っている。

それを確認したうえで,以降の考察事例を「ジンバブウェの土地(再分配)問題」に絞りたい。現実のジンバブウェ社会にとって難問のひとつであり,本書の叙述においても中心的な考察対象のひとつとなっている。他方,モザンビークでも近年,外資による農地の借用(リース)が進み,追い立てられたモザンビーク人農民は「land grab」(土地収奪)だとして反発し社会的緊張が昂っている。さらに鉱業の比重が高いザンビアは,銅など鉱物資源に対する外資進出をどう管理するかという課題に直面している。ジンバブウェの土地問題は,資源にかかわる経済・社会政策を比較分析する際の核になりうる。

まず,本書本文とのダブりを厭わず簡単な事実確認をしたい。1980年の独立直前の時点でジンバブウェには「白人」の大規模商業農場(5400戸)(全農地面積の39.9パーセント)とアフリカ人共同体地区農業(70万戸)(同49.2パーセント)などが並存し,土地保有格差は著しく,アフリカ人保有地は生産性も低かった(237ページ)。独立後,旧宗主国イギリスが強制的な再分配に反対したため,政府が必要な土地を市場価格で購入してアフリカ人を入植させていった(再入植)。独立協定で10年間は当初の憲法を変えないことが約束されていたが,その拘束期間が過ぎたのち,憲法修正と関連法制定で強制的買い上げが可能になった。これに対してイギリスなどが土地改革資金への援助を停止。やがて「元兵士」を名乗る集団が「白人」農場に入り込んで暴力的に占拠する事態へと展開。ムガベ大統領がこれを支持するなかでドナー諸国との関係は悪化した。国内の政治的対立は激化し経済は低迷。ジンバブウェ独立以来,首相あるいは実権大統領の座にあったムガベは2017年,軍部による事実上のクーデターで大統領を逐われた。

現在のジンバブウェが直面する土地改革問題の根底には,植民地時代に暴力的に遂行されたアフリカ人からの土地収奪がある。だが,「白人」大規模商業農場から暴力的に土地を取り上げるような処理の仕方は負の結果を招くだろう。まず旧宗主国イギリスなどドナー諸国の反発を招く。さらに大規模商業農場が市場向け農産物生産のおもな担い手である事実を無視している。政府統計を基にしたある試算では,例えば独立した1980年に市場取引された作物および畜産生産高は,大規模商業農場が4億6560万ジンバブウェ・ドル(全体の94パーセント)だったのに対して,自家消費中心の共同体地区アフリカ人農民は2720万ジンバブウェ・ドル(同6パーセント)に過ぎなかった[Sylvester 1991, 108]。大規模商業農場が食糧を供給し,輸出で外貨を稼ぎ,35万人の農場労働者(248ページ)を雇用した事実をふまえると,土地改革にはいっそう緻密な計画と慎重な取り組みが必要だった。

ムガベも当初は慎重であったが,2000年の「急速土地改革」導入以後,著しく暴力的になっていく。しかも,土地配分において「縁故主義,腐敗や汚職があり,軍・警察・治安関係の高官や党の幹部,国会議員などの政治家等に偏った形で配分が行われた」(249ページ)ことから,人々の不満や不信感は高まった。土地改革の失敗は農業のみならず経済全般の破綻をまねき,かつて食料輸出国であったジンバブウェは,21世紀初頭には労働力の輸出国,移民送り出し国となった。2007年までの10年で総人口の4人に1人が国外へ移住していったと推測される[デヤヘール2010,146]。

こうして現時点におけるジンバブウェの土地問題とは,植民地時代の人種差別政策だけではなく,独立後の土地再分配政策の(不十分な,あるいは失敗した)結果も含むものとしてある。イギリス植民地主義の歴史的責任とともに,独立以来40年にならんとするジンバブウェ国家の統治者,ムガベと与党「ジンバブウェ・アフリカ国民同盟-愛国戦線」(ZANU-PF)(注2)の統治責任も問われている。

統治とは本来,「暴力」を管理しつつ「解放」(土地の再分配)を行うだけではなく,国民の生活水準を維持向上させていくものでなければならないであろう。「暴力」,「解放」とともにジンバブウェ国民の「生活」(暮らしやすさ)はどうであったか。信頼度が高いと思われるいくつかの数値データをみてみよう。UNDPによると,1990年時点でジンバブウェの人間開発指数は0.491。それが2000年0.440,2010年0.467,2015年0.529と推移。同じ年についての1人当たり所得は2382,2080,1267,1678ドルと,概ね同じ傾向を示している[UNDP 2018]。構造調整の悪影響があるとしても,土地改革が農場の暴力的占拠へと展開した2000年以降,農業生産が極度の落ち込みを示したことと無関係とはいえない。

UNDPジンバブウェ事務所のまとめによると,1998年から2007年の10年間におもな食用穀物,輸出用作物,畜産のほとんどすべてにおいて生産量は大幅に落ち込んだ。1998年と比べた2007年の生産量は,たとえばメイズで31パーセント,小麦23パーセント,砂糖69パーセント,主要作物平均でも42パーセントであった[UNDP Zimbabwe 2008]。

「生活」視点の導入は,「暴力」,「解放」についても再検討することを求める。たとえば,2005年に政府が都市近郊の住宅密集地域で犯罪・不潔・無法対策を名目に実施した「ムランバツヴィナ作戦」と呼ばれる住宅の強制撤去で70万人が住む家を失った事実を,その目的が野党支持基盤の掘り崩しにあるという推定とともに本書は記述している。だが,衣食とともに生存の最低限必要条件である住の破壊が「解放」の大義と,どうかかわるのかは言及されていない。

ムガベが権力の座にあった37年間のなかで当初10年余りは国民の支持は強く,1990年および1995年の総選挙では与党が圧勝した。再入植事業についても,最初の10年間は国の会計検査官やイギリスの視察団報告などで総じて高い評価を得ていたとサチコニェは指摘する[Sachikonye 2011, 110-111]。土地の再分配をめぐるネポティズムが国民の不信感を高めたことは,2000年の国民投票における新憲法案否決でも示された。

〈論点2〉

本書は「現代を植民地主義の継続・再編という視覚から捉え直す」という立場に立つ。かつての植民地の人々は「主権者となり尊厳を回復し」,「しかし,『植民地主義』がもたらした社会経済構造は政治的独立後も多くの旧植民地で継続し,冷戦後は『開発』『投資』などを通じて,強められさえした」(ⅱページ)。

独立後も続く植民地主義という考え方は「新植民地主義論」を想起させる。主導的論者であった岡倉古志郎によれば,新植民地主義とは帝国主義列強が「旧植民地国を形式的には独立しているが実質的には政治的にも,経済的にも従属している半植民地に改編し」間接統治を試みることである。それは「一方では社会主義世界体制が成立,発展し,他方では反帝国主義民族解放革命の急襲により植民地体制が事実上崩壊にひんし,帝国主義が著しく弱化しつつある」時期の現象であるという[岡倉1969, 66-70]。社会主義体制の存在を前提にしていた以上,社会主義体制の崩壊で岡倉理論そのものは終わったことになる(注3)

では,本書の説くような,政治的独立後も強化される投資や貿易を通じた(旧)宗主国による社会経済構造支配は事実だろうか。UNCTADがまとめた推計によると,2016年時点でアフリカ(北アフリカを含む)に対する直接投資額(ストック,以下かっこ内単位億ドル)が多い国10カ国は,アメリカ(570),イギリス(550),フランス(490),中国(400),南アフリカ(240),イタリア(230),シンガポール(170),インド(140),香港(130),スイス(130)となっており,旧宗主国では(敗戦国イタリアを除き)イギリスとフランスだけである。むしろアジア――とりわけ中国の進出が注目される[UNCTAD 2018]。貿易面でも(サハラ以南)アフリカの5大相手国は2017年現在,輸出がインド・中国・アメリカ・オランダ・スペイン,輸入が中国・南アフリカ・ドイツ・インド・アメリカの順で,旧宗主国は影が薄い[WITS 2017]。

もちろん,これらの数値は投資額と貿易額の国別実績各1年に過ぎず,確定的なことはいえない。とはいえ,投資や貿易などの詳細な分析なくしては,植民地主義がもたらした社会経済構造は政治的独立後も継続強化されている,と断言することは困難ではないだろうか。

〈歴史的観点から〉

あらためて本書は何かと問われたならば,アフリカが経験した苦難と希望の歴史を「暴力」と「解放」の視点から3カ国について比較分析した労作,といえる。視点は明瞭,実証は丁寧で,類似研究には外せない文献となるだろう。だが,ここでは本書全体を俯瞰した時にみえてくる歴史観に関して,2点だけ述べてみたい。

第1に,ジンバブウェの土地問題を例とする暴力的な土地収用について。「暴力的に土地が収奪された点では同じでも,21世紀に起きたことは[イギリス政府の代理人である]南アフリカ会社による暴力的行為と関連しており,後者なくして前者は起こらなかった」(216ページ)という見方は,終わりのない因果応報論へ陥らないか。背景にある帝国主義も,国家あるいはネーションごとの対立の側面でのみ理解している。だが,モザンビークの農地をめぐる国家エリートと外資アグリビジネスの協調にみるように「中心国の中心部と周辺国の中心部のあいだには利益調和が存在[する]」(強調点は原文ママ)[ガルトゥング1991,75]ととらえるダイナミックな理解も必要ではないか。

第2に,「人民戦争」の理解について。ZANU-PFの解放をめざす戦いが「毛沢東理論にのっとり,『人民の海』のなかに入り,農民の支持を得ながら勢力を拡大しようとした」(226ページ)ものであったことは繰り返し述べられている。それでいて「独立時にジンバブウェは,土地改革について根本的な方向性を示すことができず」(240ページ)後の混乱を招いたという。これはどう理解すべきか。毛理論を正しく学ばなかったということか。いや逆に,手本が間違っていたと考えることもできるだろう。革命成就70年の中国では,農民が今も農村戸籍に入れられ,社会サービスでも都市住民から区(差)別されている。巨大中国を再考する手段としてアフリカの中国経験――かつての人民戦争から近年のアフリカへの経済進出まで――を省みるという発想もありえるだろう。

(注1)  格差を表すうえで皮膚の色が不可欠の場合のみ「白人」とした。

(注2)  ZANU-PFの訳は本書に従った。その他の訳語も同じ。

(注3)  グローバル化の進展とともに,別の意味内容を備えた「新植民地主義論」が唱えられている。その主張を西川長夫は「グローバリゼーションは第二の植民地主義である」とまとめている[西川2007]。

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© 2019 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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