Ajia Keizai
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
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Idea of a Regional Order of East Asia from the Viewpoint of Hideoto Mouri’s East Asian Community Theory
Hidemi Higuchi
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2020 Volume 61 Issue 1 Pages 2-34

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《要約》

本稿は,革新官僚の1人である毛里英於菟の「東亜協同体」論を題材に,東亜新秩序構想の性格と役割を考察する。従来の研究が,日中戦争を正当化するための論理としての新秩序の後天的性格を強調するのに対し,本稿は,「東亜協同体」論の論理的特質とそれを基礎として毛里が行なった実践的活動とを解明する。本稿は,その解明を通じて,現実社会で顕現せんとする「東亜協同体」論の性格や役割を検討する。毛里の「東亜協同体」論は,一般の国際秩序論のような,国家を構成要素とする連合的組織ではない。それは,既存の諸国家・諸民族の枠組みを溶解し,広域に居住する人々が普遍的理念に基づいて国境を越えて団結し,一個の目的達成に向かって全体として邁進する,擬人的団体を創出する試みである。このため,アジアの諸国家・諸民族で共有しうる普遍的理念の確立が「協同体」建設のための最重要課題となり,その確立が十分にできないまま終戦を迎えた。

Abstract

This paper examines the nature and role of the idea of a new order of East Asia based on the “East Asian community” theory of reformist bureaucrat Hideoto Mouri. While previous studies have emphasized the acquired nature of the new order as a rationale to justify the Sino–Japanese War, the present study clarifies the logical attributes of Mouri’s theory. The practical activities that Mouri conducted in accordance with his theory are also outlined. In addition, the nature and role of this theory, which Mouri attempted to apply in real life, are examined. Unlike general theories of international order, Mouri’s is not a theory of a federal organization that perceives nations as components; rather, it is an attempt to create an anthropomorphic organization wherein people living in a widespread region are united across national borders based on a universal philosophy, striving together as one toward achieving a goal as they transcend existing national and ethnic frameworks. Accordingly, the establishment of a universal philosophy that could be shared by Asian nations and ethnic groups became the most important aspect for the construction of a community; however, the war ended before the philosophy could be fully realized.

 はじめに

Ⅰ 毛里英於菟の中国体験と「東亜協同体」論の形成

Ⅱ 「東亜協同体」論と興亜院青島出張所

 おわりに

はじめに

1930年代から1940年代にかけての日本では,いわゆる知識人層を中心に,目下の世界が歴史的大転換期の最中にあるとの意識が持たれていた。この転換期に応ずる施策として日中戦争期に考案されたのが,国内政治面での近衛新体制と国際政治面での東亜新秩序という2つの構想である。近衛文麿のブレーントラストである昭和研究会に参加した京都学派の歴史哲学者三木清は,その当時の時代思潮と2つの構想――三木は,東亜新秩序でなく,「東亜協同体」という名称を用いたが――との関連性について,「支那事変を契機として,日本の政治,経済,文化のあらゆる方面において大いなる変化」が生じ,「国内改革の問題も単に国内的見地からでなく日満支を含む東亜の一体性の見地から把握さるべきこと」が要求され,「東亜における諸民族の協同の上にヘレニズム文化のごとき世界史的意義を有する新しい『東亜文化』を創造することが東亜協同体の使命」であると論じている(注1)

三木の発言からもわかるように,「東亜協同体」国内政治の革新も視野に入れた「戦時変革」論としての性格をもつ。それだけに,「東亜協同体」論の歴史的意義に関する従来の研究も,日中戦争期に知識人層の描いた社会変革論としての言説に注目が集まり[米谷 1997石井・小林・米谷 2010],東アジアの地域秩序構想としての性格や内実,あるいは東アジア国際社会での役割や影響を正面から問うことに消極的である(注2)。対外政策理念としての「東亜協同体」論は,日中戦争勃発前後における中国のナショナリズムや国家統一の可能性の高まりを背景として現れたアンチテーゼであり,結局は,日本の戦争目的を美辞麗句で粉飾した非現実的理想論だったと評価されている[山口 1989-1990]。三木の「東亜協同体」論についても,「世界主義,アジア主義,民族主義相互の現実政治上における矛盾を,観念的に『解決』した抽象論としての性格が強い」と批判する研究がある[駒込 1996, 307]。

こうした研究状況は,東亜新秩序の後身的形態である大東亜共栄圏をめぐる近年の研究傾向とは対照的である。大東亜共栄圏に関しては,戦争目的を正当化する理念として,または理念と占領地軍政の実情との乖離についてだけ考察するのではなく,それを国際秩序・帝国秩序の一形態とみなし,秩序構想自体の性格や秩序が実体化する過程を分析する研究が増えている(注3)。これは,大東亜共栄圏内に含まれた国家・地方が広域かつ多様であって秩序の実体を把握しやすく,しかも共栄圏内の東南アジア諸国の多くが第二次世界大戦後に脱植民地化を果たしたことで,共栄圏の意義を見出しやすいことに原因がある。一方,東亜新秩序については,その構成要素とされたのが日満中3国のみであり,しかも満洲国は元来の中華民国から満洲事変によって人為的に分離かつ形成されたものだった。このため,東亜新秩序は,日本の対中侵略を糊塗した言説にすぎないとの評価を受けがちとなったのである。

そうしたなか,三木や蠟山政道など,昭和戦前期の知識人が唱えた国際秩序論の分析を通じて「東亜協同体」論の地域秩序構想としての意義を再検討したのが,酒井哲哉である。酒井は,三木らの国際秩序論が「覇権主義的な地域主義」であると同時に,ナショナリズムや国家主権の「絶対性」を乗り越える原理としての性格を兼ね備えていたと評価している。すなわち,満洲事変以降の日本の膨張主義的対中政策の展開を踏まえ,それを正当化するためには「民族協和」などナショナリズムを抑制する新しい理念の創出が必要だった,と論じているのである[酒井 2007, 8-47]。ここにおいて,東亜新秩序構想は,単に日本の戦争目的を糊塗するだけの言説ではなく,近代ヨーロッパ流の主権国家体系とは異なる地域秩序を東アジアに構築する可能性を秘めていた,とみなしうるものとなった。

では,そうした可能態としての性質を超え,主権国家体系とは異なる原理に則した東亜新秩序は,現実態として形成されえたのか。さらには,新たな地域秩序が形成され実体化した――秩序が完成せずに形成途上のまま終戦を迎えたとしても――とすれば,その秩序の特徴や形成過程はいかなるものなのか,秩序原理を現実社会で実践しようとしたときにどのような問題が惹起したのか。酒井の指摘を受けたうえで,次に検討されるべきは,そうした課題であろう。酒井の成果も含めた,東亜新秩序をめぐる過去の研究は,分析対象として知識人層に注目して毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想きた。しかし,彼らは,現実の国際社会において,東亜新秩序構想の実体化にむけた政治過程に参画するわけではない。したがって,その構想の実体化について考察するためには,三木や蠟山に類似する国際秩序論を描きながら,実務にも携わる人物に焦点をあてることが必要になる。

以上を踏まえ,本稿は,革新官僚の代表的存在である毛里英於菟をとりあげ,彼が提唱した国際秩序論の特徴と,その実体化のために彼が行なった政策や活動の解明を進める。本稿は,その解明を通じて,日中戦争勃発前後の国際関係や中国社会の実情にも留意しながら,現実社会で顕現しようとした東亜新秩序構想の特質や役割を考察するものである。

まずは,毛里の履歴を確認する[秦 2002, 519]。1902年福岡県生まれの毛里は,25年3月東京帝国大学法学部を卒業し,大蔵省に入省,33年4月満洲国総務庁主計処特別会計科長,34年1月同庁秘書処経理科長兼務,36年7月同国財政部理事官・国税科長,37年5月支那駐屯軍司令部付,38年5月に帰国して大蔵省預金部資金局監理課長,38年12月興亜院経済部第1課長,41年5月企画院総裁官房総務室第1課長(のちに第2,第4課長を兼務),45年6月総合計画局第1部長,同年9月内閣調査局調査官,47年2月死去。

毛里については,伊藤隆と古川隆久の研究がある[伊藤 1987古川 1992, 113-125]。それによると,毛里などの革新官僚は,学生時代の1920年代にマルクス主義を学び,官僚となった1930年代以降,国内・国際両政治面において全体主義理論に基づいた政策を推進した。毛里はまた,逓信官僚の奥村喜和男と並んで革新官僚の中心的イデオローグとなり,彼らの思想形成を主導した。毛里は,ときに「鎌倉一郎」というペンネームを用いながら『解剖時代』等の雑誌に寄稿し,「東亜協同体」建設についても論陣を張った。

一方,伊藤・古川の研究は,毛里のイデオロギーや革新性に注目するものだけに,実務官僚としての毛里の一面にあまり言及していない。とくに満洲国在勤以降の毛里の中国体験や対中政策をめぐる実務・活動については,本格的検討がなされていない。毛里が革新官僚中のイデオローグであったことは間違いない。毛里の「東亜協同体」論も,三木や蠟山の影響を受けていた(注4)。しかし,そのイデオロギーや国際秩序論は,彼の経験や実務に裏打ちされて提唱されたものだろう。さらに,毛里は,前述の満洲国在勤を手始めに,日本の対中政策の展開に従って冀東防共自治政府(以下,冀東政権)やいわゆる汪兆銘政権との関わりをもち(冀東・汪両政権期の活動については,後述),その実務や体験に連続性がある。「東亜協同体」論をめぐる従来の研究は,上記のように,日中戦争勃発前後の中国ナショナリズムの高揚を受けるかたちでの後発性を強調している。一方,毛里の理論を検討するにあたっては,日中開戦を境とする断絶性よりも,その前後を通じての連続性に重きを置くべきである。要するに,実務官僚である毛里の「東亜協同体」論の形成過程とその内実を検討すれば,本稿の執筆目的である地域秩序構想としての東亜新秩序論の特質や役割,その実体化の可能性を解明できるのである。

酒井の指摘によれば,近代ヨーロッパ諸国は,欧州域内において主権国家体系としての国際秩序を,その域外において植民地や勢力範囲から構成される帝国秩序を,別々に使い分けた。一方,近代日本は,東アジアから東南アジアにかけての広大な地域に勢力を拡大するにあたり,国際秩序と帝国秩序とを併用した。それゆえ,近代日本外交史の事例を検討すれば,欧米の事例をもとに組成されている現代の国際関係論・国際秩序論を塗り替えられると期待される[酒井 2007, 3-10]。本稿の最終目標は,この指摘をうけて,主権国家体系ではない地域秩序構築の可能性について,歴史学の立場から,毛里の「東亜協同体」論に関する実証的研究に依拠しつつ,時間的かつ空間的限定を超えて探求することにある。

とはいえ,秩序構想なるものは,単に提唱したからといって実体化するわけではない。提唱者とともに,その受け皿となる民衆や社会と呼応して,はじめて成立する。東亜新秩序についても,毛里のような提唱者はもちろん,提唱者以外の日本人の対応や中国社会の反応が組み合わさり,あるいは提唱した理念と社会的実状との親和や乖離を踏まえたうえで,その全体像がみえてくる。しかし,日中両国人とその社会全体を視野に入れて東亜新秩序構想への対応を考察するのは,一篇の小論では難しい。そこで,本稿では,日中戦争勃発前後に毛里が展開した実務レベルの活動に加え,興亜院華北連絡部青島出張所(以下,青島出張所)が戦時下において中国民衆・社会にむけて行なった活動を事例にあげ,東亜新秩序構想の可能性や全体像に接近する。

では,なぜ青島出張所に注目するのか。それは,同所が,興亜院中央・各連絡部(華北,蒙疆,華中,厦門)と異なり,日本海軍の影響を大きく受けていたからである。日中戦争下の1938年1月,日本は青島を軍事占領した。その中心になったのが,19世紀に膠州湾がドイツ租借地となって以来青島に大きな関心を寄せていた海軍である[樋口 2002, 17]。このため,1939年3月10日に青島出張所が開設されると(注5),同所もまた海軍の影響を受けた。そもそも出張所自体が「海軍管理中ノ元海軍特務部建物ヲ其ノ侭使用」(注6)していた。陸軍はこれに対し,「興亜本院ノ現地ニ対スル指導ハ官制ヲ無視シ華北連絡部ト青島出張所トヲ対等ニ取扱アルモノノ如キ印象」を受け,「華北ノ統制ヲ二元化」(注7)すると批判した。

先行研究が述べるように,海軍は,陸軍や革新官僚に比べ,興亜院・企画院等の総合国策機関の設置に消極的だった[御厨 1979]。また,大東亜共栄圏の建設にあたり,日本の軍事作戦の支障になるとして東南アジア諸国への独立・自治の許与に反対し,戦争目的を日本の自存自衛に限って軍需物資の獲得を容易にしようとした[波多野 1996, 223-224戸塚 2005a; 2005b]。海軍は,東亜新秩序・大東亜共栄圏建設をめぐり,日本の政治・軍事勢力のなかで,組織的利益を最も強硬に主張した。それゆえ,本稿では,青島出張所の活動の詳細を解明し,東亜新秩序構想の特徴や可能性の考察につなげる。もとより,興亜院中央官僚の毛里が,青島出張所の全活動を把握していたわけではない。しかし,毛里は,陸軍の大陸国家構想と海軍の海洋国家構想とを止揚してこそ東亜新秩序は完成するとしていた。海軍の対中政策の拠点の1つである青島での活動を新秩序のなかにいかにして織り込むかは,その建設のうえでの鍵となる。毛里は,次のように述べている[鎌倉 1940]。

東亜共栄圏といふ東亜大陸の土と太平洋の水とが自給自足といふ統一的な空間意識,言い換へれば統一的な政治意思を有ち,この二つの遠心力的線が,一つの円としての圏を画いたことは,陸と海との空間意識の統一を意味するのである。こゝに東亜新秩序の外延的範囲が一応確定せられた。

以下の行論では,政治・学術用語としての東亜新秩序ではなく,毛里の頻用句である「東亜協同体」を使用する。もとより,東亜新秩序構想には,「東亜協同体」論のほか,「東亜連盟」論等の諸思想も混入し,その構想の意義・目的は多様であった[河路 2012嵯峨 2016, 231-269]。しかし,毛里の秩序構想に焦点を当てることによって東亜新秩序の特徴等を解明するという本稿の執筆動機に照らし,彼が多用した「東亜協同体」を選択する。

Ⅰ 毛里英於菟の中国体験と「東亜協同体」論の形成

1. 満洲国在勤時代

毛里の中国体験は,大蔵省から満洲国総務庁に異動した1933年4月に始まる。同国在勤当時,毛里は30歳代の若手官僚だった。それゆえ,彼の勤務実態は不明であり,本人の責任及び権限の所在・範囲もわかりにくい。ただ,毛里が関わった事業のうち,満洲国にとって大きな意味があったものが,2つある。それは,税制整備と対ソ北鉄買収問題である。

満洲国建国前,満洲地方の税制は複雑を極めていた。1932年夏に奉天省の税制を調査した京都帝国大学教授神戸正雄によると,同地の住民は「過多税」に苦しんでいた[神戸 1932]。張作霖・学良父子を指導者とする東三省政権時代の租税は国税・省税・県税の3つに大別された。国税とは関税・塩税をさし,大連・営口等に置かれた海関や塩運使公署で徴収された。省税は「各省が区々の制度」をもち,県税も「各処不同」であった。これらを大まかに分類すると,租税の種類は13種(田賦,営業税,出産税,鉱税,漁税,牲畜税,塩税,酒税,菸税,統税,契税,印花税,雑税),税目は130種以上に及び,「消費税特に生活必需品税に偏重し,直接税を軽視し,奢侈課税を忽」にする傾向が強かった[神戸 1932満洲国史編纂刊行会 1971b, 454-456]。

満洲国では,同国財政部総務・税務両司が中心となり,税制整備を進めた。ただし,1932年3月から翌年6月までの1年4カ月間は,建国直後の混乱を避けるべく,満洲国政府は旧税制を踏襲し,むしろ歳入確保に力を注いだ。満洲国政府が税制整備を本格化させたのは,1933年7月~1936年12月の「基礎財政時代」であった。この間,同国は,税制の全国統一を行ない,租税体系を合理化しつつ,徴税機関の整備を実施し,新制度への徴税官吏の習熟を促した。東三省政権時代は徴税請負制度がとられ,税吏が「徴収額を上げるため苛斂誅求を敢て」するといわれたからである[満洲国史編纂刊行会 1971b, 429-456]。

毛里の満洲国在勤時代は,同国で税制整備が進んだ時期と重なる。総務庁に属する毛里が,財政部を主体として進められた満洲国の税制整備にどれだけ関わっていたのかは,定かでない(注8)。ただし,この時代の経験や知識は,その後の毛里の活動に大きな影響を与えた。後日,支那駐屯軍司令部嘱託として冀東政権の税制整備に関与した毛里は,冀東地区各県の税制に次の問題があることを指摘した(注9)。河北省各県の財政を調査したところ,田賦は,社書または催征書記という名称の個人に徴税権が委託され,彼らは「半職業的徴収権限者」として税額の特定率を収得している。契税についても,田房監証人(田房中人)がいて,買典契約額の特定率を得ている。田房監証人の多くは,郷長が兼務している。牲畜税,屠宰税,棉花・落花生・油秤・雑貨等の牙行に関わる営業税は,その多くが「包制」をとっている。要するに,この地区の税制は,税目が不統一で,不正徴収と中間搾取が横行している。また,県内に保安隊が存在し,その圧迫のため県政府の行政が遂行されず,隊による恣意的な徴収が行われている。それゆえ,冀東政権の財政を確立するためには,県政府内の財政関連部署を統合して県長の権限を強化し,保安隊の整理(注10)を行なうべきである。

他方,北鉄(北満鉄道)買収問題については,毛里が交渉に直接参与したわけではないが,総務庁主計処特別会計科長という立場から,この問題に関わった。毛里の総務庁在勤当時,満洲国の特別会計項目が増設され,建国当初の5会計から1936年度までに11会計分が追加された[満洲帝国政府 1969, 469-470平井 1999]。そのなかには,北鉄買収に先立って満洲国に回収された中東鉄道附属地を経営するための「北満特別区会計」(1933年度単年度会計)と北鉄買収時の1934年度に新設された「鉄路国際特別会計」の2つが含まれている。毛里は,北鉄買収とその後の鉄道経営に財政面から間接的に関与し(注11),満ソ交渉にも関心を持っていたと考えられる。

満ソ間の北鉄買収交渉は,1933年6月26日に開始され,1935年3月23日に北鉄譲渡に関する協定が結ばれた。この間,その交渉が東京で開始され,協定調印も東京で行われたことからわかるように,満ソ交渉には日本の積極的介入があった。満ソ交渉に並行し,満洲国の北鉄買収費支払いを日本が保証する旨の協定も日ソ間で結ばれた[満洲国史編纂刊行会 1971a, 453-456]。しかし,満洲国側は,日本の介入に不快感を示した。満洲国外交部次長大橋忠一は,日満ソ3国間の交渉において,日本外務省が「満側の存在を真色で無視している」と憤慨した(注12)。これは,満洲国政府の中国人官吏はもちろん,大橋を含めた日本人官吏の多くが「満洲国の併合は日満共に避くべきだ」(注13)とみなし,同国の独立国家としての性格を名実ともに確保しようとしたからである。さらに大橋は,在満日本人が満洲国人としての意識を強く持って民族的に融合することが,アジアにおける新たな地域秩序の構築にとって重要であると考えていた(注14)

満洲治国の要動は英国式に民衆を無智に保ちて其の反抗心を殺ぎ他方異民族を争わせ漁夫の利を獲ることにあると思ってゐたが,どうも日本人ではそんな器用な眞似は出来ぬ。やはり善政善知主義で行かねばならぬ。漫然として一体となり同胞の気持が唯一の指導原理だ。……日本人は亜細亜の無敗民族とシングルする事に依りて日本民族自体が駄目になるかも知れぬ而し一度大陸に手を染め亜細亜主義の大凧をかざした以上は騎虎の勢だ。理想主義一点張りで行ける処迄行くより外はない。

大橋の考えを,毛里が属する満洲国総務庁主計処も共有していた。国立国会図書館憲政資料室所蔵「毛里英於菟関係文書」には,主計処が作成した1934年3月18日付「北鉄経営方式」(注15)という文書が残されている。それによると,買収後の北鉄経営は,従来の南満洲鉄道のように日本の企業が行なうのではなく満洲国の国営にすべきだとし,その理由として,「対露親善関係」の増進のほか,次の2点をあげている。第1に,「日本国カ率先シテ満洲国ノ独立ヲ承認シ世界ニ対シテ之ヲ擁護主張スルノ大方針」に適うこと,第2に,満洲国内の鉄道経営を外国企業に任せることは「旧時代ノ権益思想ニ基ヅクモノ」だから,満洲国建国後は「旧形式及ヒ指導精神ヲ其侭拡大強化スルカ如キコトハ避ク」ること。

以上のように,毛里は満洲国在勤当時,次の2点を学んだ。まず1つには,従来の中国では,政府と民衆との間に介在する中間権力が大きな勢力を誇っていたが,満洲事変以降の日本や満洲国の施策は,こうした中間権力を排除しながら民衆にむかって直接発信すべきであること,もう1つは,日本がアジアにおいて新たな地域秩序を構築しようとするのであれば,日本がアジアの諸国家・諸民族を支配・統治するのではなく,それらの自立性・独自性を十分に確保すべきこと,である。

では,この2点の信条を,毛里は,次の異動先である華北地方において,どのように活かしたのか。これが,次項の課題である。

2. 華北在勤時代

1935年12月,日本の華北分離工作によって冀東政権が成立した。毛里は,先述のように,満洲国政府から出向するかたちで支那駐屯軍司令部嘱託の肩書を得,冀東政権の運営に携わった。この時期,毛里が関与したのは,前記の冀東地区の税制整備のほか,冀東政権のアヘン専売制度の確立,同地の水利事業・棉作改良・金融事業の整備である。このうち,アヘン専売制度については,すでに研究がある[広中 2011]。そこで,本稿は,それ以外の水利・棉作改良・金融各事業をめぐる毛里の活動について考察する。これらの事業は,華北地方における農業・農村の発展や一般大衆の日常生活と密接に関係し,毛里の経歴に鑑み,彼が重要視した問題であると思われる。

毛里の所属する支那駐屯軍司令部甲嘱託班は,「北支産業政策ノ根本方針ヲ何レニ置クヤ」との課題に対し,「農民生活ノ安定」を最優先にする方針をとった(注16)。華北地方は「軍閥ノ搾取,高利資本ノ跋扈,兵乱,天災等ノ事情ニ基因シテ其ノ発展ノ萌芽ヲ蹂躙」され,「社会経済ノ疲弊」が甚だしい。その結果,「現下産業経済ノ危機ヲ招来シ農民大衆ノ経済生活従テ亦深刻ナル窮境ニ沈湎」している。「北支住民ノ九割」を占める農民を社会的窮境から救うべく,「一切ノ政治的社会的経済的乃至自然的災害ヲ艾除」すると同時に,「農村ノ組織,機構,金融,経営等ノ各方面ニ亘リ根本的改善ノ途」を講ずるべきである。華北農民に「安居楽業ノ恵沢」を与えることは,「東亜ノ盟主日本帝国カ其ノ高遠ナル大陸政策ヲ実現セムトスル根本理念」である,というのであった。

  • (1)   冀東政権の農村水利事業

以上の方針を実現させるため,冀東政権において具体的に実施されたのが,水利・棉作改良・金融の各事業であった。このうち,水利事業については,冀東政権成立後,冀東区内の「災害ノ防止,土地開発,水運ノ整備ノ目的ヲ以テ水利計画ノ樹立並ニ事業ノ指導」を行なうため,自治政府長官に直属する「強力ナル水利機関」を政権内に設置した(注17)。冀東政権は1936年10月10日,「冀東水利委員会組織規程」を公布し,冀東水利委員会を発足させた(注18)。この委員会は,港湾・治水・水利・水運等の諸事業を進めるにあたって,調査・計画・実施を担当する組織であった(注19)

これらの諸事業のなかで最重要視されたのが,灤河や蒴運河など,冀東区内に流れる河川の治水事業,とくに洪水対策を含めた農業水利事業である(注20)。灤河と蒴運河の「両河トモ現在ハ農業上利用サレル所少ク」,もっぱら水運のみに利用されていた。なぜ利用されないかといえば,両河とも氾濫が相次ぎ,「洪水時ニ於テハ農業ニ非常ナル損害ヲ与ヘ」るからである。蒴運河は過去10年間に7~8回の洪水を起こし,流域耕地約3500平方キロを浸水させた。灤河も同時期に3~4回の洪水を起こし,浸水耕地約1200平方キロをつくりだした。それゆえ,農業水利問題は「北支農業政策ニ必要ナル諸事項ノ一部門」とみなされた。

注目されるのは,冀東水利委員会が洪水対策として「河川ニ於ケル貯水池計画ハ治水計画ヲ主体トスルモノトス」(注21)との方針を打ち出したことである。つまり,洪水被害を防ぐにあたり,堤防を築いて河川の氾濫を防止するのではなく,貯水池をつくり,それらと排水路や水門などの施設を組み合わせ,たとえ河川が氾濫したとしても,その水量をできるだけコントロールして洪水被害を最小限に食い止めようとした(注22)。以上の対策をとった理由として,満洲国での体験を踏まえつつ,毛里は次のように説明している[毛里 1939]。

満洲に於て我々が経験したことは,日本の土木技師が,その大陸河川を治めるために,三年間も神経衰弱になつたと言ふことであります。日本の川は,昨夜雨が降れば,今日はもう洪水になる。だから堤を固くし,川床を改良することによつて水を治めることが出来ます。しかし,大陸の河川といふものは,一寸考へても解るやうに,その支流は東西何千里に亙るものであります。仮にその支流といたしましても,雨が全面的に降つた場合には,如何なる堤防も,河床の改良も何の役にも立ちません。満洲に於て営んだ日本的な土木技術は,翌年の洪水に一も二もなく流されてしまふのであります。かゝる経験と苦闘しつゝ,満洲に於て新しく考へ出された大陸河川の治水の道が,即ちダムであつたのであります。支那の大陸河川に於て,洪水を防ぐ道は,堤防を築くことでもなく,また河床を改良することでもなく,たゞ水を遊ばせるところを作るやうに思はれます。御承知の洞庭湖は,自然の作つた大きな水の遊ばせ所であります。支那には十年に一度出る水と,四年に一度出る水と,またチョロチョロと流れてゐる水との三つがあるやうでありますから,これに応じて作る人為洞庭湖,即ちダムに依る治水こそ,大陸の水を治める所以であります。勿論技術も付随致しますが,支那の河川を治めるものは,一つの技術ではなく,これまで支那になかつた一種の政治自体にあると思ふのであります

満洲国在勤以来のこうした経験に由来して,毛里が後日提唱する「東亜協同体」論の主柱となった2つの論理が生まれてきた。それが,上記の引用文の末尾にもあるとおり,政治性・歴史性を有する科学技術――いいかえれば,各国・各地の伝統に配慮した歴史主義的政策展開――という認識と,その展開の結果として達成されるべき資本主義・共産主義の克服である。再び,毛里の発言を引用する(注23)

私は初め大蔵省から満洲国に参りまして考えたことは,今迄大蔵省で得た所の色々の経済知識と云ふものは大陸の仕事をする時には役に立たなかつたと云ふことでございます,寧ろ大陸に参りまして世界の歴史,東洋の歴史,日本の歴史,斯う云ふものを学ぶことに依りまして,初めて行ひとして色々の経済技術を営むことが出来たやうに考えるのであります……今迄は日本は先進国の歩きました地図を見て,其の真似をして,或は其の歩いた後を歩きながら我々は発展を遂げることが出来ましたが,もう今日は世界自体に対して東亜を作り上げる我々と致しましては地図がなくなつたのであります,地図がなくなった以上は,日本国民は自主的に自ら工夫致しまして,さうして自らの皇道原理を確立致しまして,又日本民族の精神力と云ふものを,経済の技術にも或は科学の上にも,或は企業の組織の上に総て表現して行くことに依つて立つて行かなければならなくなったと思ふのであります,今迄の経済と云ふものは皆自由主義の経済観も,マルクス主義の経済観も総て唯物的に経済と云ふものを見て来たと思ふのでありますが,我々は日本の本当の国民経済と云ふものを現代の為に……国民たる認識,此の経済を支配して行く段階にはつきり入つて来たと云ふことを感ずるのであります

かくして,満洲国在勤時代に培われた毛里の2つの信条は,アジアにおける各国家・各地方固有の伝統にあわせた歴史主義的政策を当地の民衆にむけて展開すれば,近代ヨーロッパで誕生した資本主義・共産主義を克服し,アジアに新たな地域秩序を構築できるとの見通しにつながった。それが明瞭にあらわれたのが,冀東地区での棉作改良問題である。

  • (2)   冀東政権の棉作改良事業

1930年代の河北省では,棉花の生産が急増した。それは,農業恐慌による農産物価格暴落のなかで,小麦等の穀物に比べて棉花が高値を維持したからである[飯塚 2001]。冀東政権でも,その統治区域の農村において棉作改良を進め,棉花生産を増やすことが課題となった。冀東政権は「冀東特別区ニ於ケル棉花改良増殖実施要綱」(注24)を作成し,冀東地区全耕地の20パーセントまで棉花作付面積を拡大すること,棉花の栽培奨励・品種改良・価格統制に関する業務の審議・執行機関として農事協同組合本部を置くこと,品種改良や合理的栽培法の考案など棉作改良の具体案を研究するための棉作試験場を設置すること,棉作改良に万全を期するため各県に棉作指導員を配置することなどを定めた。このうち,農事協同組合については,1935年12月13日に「冀東特別区農事協同組合設立要綱」(注25)を作成し,農民の自治組織として運営される農事協同組合が,棉作改良事業の一環として,棉作の品評会・講習会・講話会の開催,採種圃の形成,棉種子や農耕用品の共同購買,棉花の共同販売,農業経営資金の借入・貸付等を行なった。

毛里は,棉作改良事業においても,歴史主義的政策展開とその結果としての資本主義・共産主義の克服という点を重んじた。前者について,毛里は,次のように論じている(注26)

支那に於て農村問題をやる,兎に角研究する,斯う云ふ時に日本から一つの技術者が参ります,其の技術者は先づ日本と同じやうに農事試験場と云ふものを作ります,農事試験場を作ることそれ自体は一つの文化的な施設であります……がそこに良い種が出来て是を支那の国民に植えさせる方法が多くの場合違ふ……日本人が其の侭日本でやつて居ると同じやうに考へまして,農事試験場が出来まして良い種が出来る,さうすると直ぐ農民に強制的に植えさせる……が農民は仮にそれが良く出来ても偶々良く出来た位にしか取らない……農村に新しい文化を入れる場合には矢張り支那人らしい,又良くこなして一つの是を入れる組織があります,例えば棉花ならば棉花と云ふものを支那の農村に植えさせる場合に……先づ小学校の先生を千人千五百人集めて,さうして二週間三週間棉花の話をしてやります,さうして講習が終つて帰へります時に棉花の種をやります,やりますと是を田舎に持つて帰りまして学校の所謂学田と云ふものに是を植へます,さうして良く出来て良く思へば来年は良い種さへやれば村全体に拡がつて行く,此のやうに漸次棉花が自然に普及した所で農事試験場と云ふものを作ります……非常に廻り遠いやうなことでありますけれども其の方が支那の社会に対しては早いのである

次に後者に関して注目すべきは,上記の農事協同組合を含めた農事合作社の設立及び展開が資本主義・共産主義の克服に直結すると考えられた点である。毛里は1936年6月,支那駐屯軍参謀池田純久とともに来日し,華北経済問題をめぐって外務・大蔵両省の事務当局者と協議した。そのさい,華北地方における「政治工作ト経済工作トノ関係」についての大蔵省側の質問に対し,支那駐屯軍側は次のように答えている(注27)。中国問題は,中国自体の問題ではなく,中国という「舞台」における日英米ソ間の競争である。英米両国は「資本主義ヲ以テ支那ヲ其ノ植民地トシテ搾取」し,ソ連は「共産主義ノ温床」としている。これに対し,「日本カ支那ナル舞台ニ於テ花形役者タラムトセバ資本主義ニモ非ズ共産主義ニモ非ザル日本独自ノ主義思想」を持たざるを得ない。そうした「主義思想」は何かといえば,「支那農村ノ組織化即合作社運動」である。支那駐屯軍は,「農村ノ組織化,合作社運動ヲ以テ対支経済政策ノ根本」とみなし,この運動の展開によって「確固タル日支提携カ実現セラルルモノ」と見通している。

ここにおいて,毛里は,中国民衆,とくに農民を対象とする歴史主義的政策を展開して彼らの意識改革や中国農村の社会改造を行なうことが,資本主義・共産主義の克服につながると認識した。この認識は,冀東政権の金融政策を実施する際にも,基本理念となった。

  • (3)   冀東政権の金融事業

冀東政権が成立すると,冀東地区の「金融界毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想ハ著シク梗塞」し,何らかの金融機関を設置する必要に迫られた。それは,中国・中央・交通の国民政府系3銀行の現地機関がすべて冀東地区から撤退したからである。冀東政権はこれに対し,金融事業のなかでも「特ニ庶民金融機関ノ設置ハ一般民衆ノ要望スル処」であるとし,政権の中央銀行として「国庫事務取扱」を管掌する冀東銀行の設立に先立って,冀東公司を成立させた(注28)。同社は「疲弊困憊セル庶民並ニ農村ニ対スル金融業」としての性格を持ち,満洲国の大興公司(注29)から満洲国幣50万円の出資を得て,設立された銀行である。冀東公司は,「庶民金融」という性格上,「設立後数年間ハ利益ヲ計上スル事至難ナルヘキモ健実ヲ旨トシ漸進主義ヲ以テ」事業を行なうとの意思を示していた(注30)

冀東政権による「庶民金融機関」設置の動きと関連して注目されるのが,裕民公司の創立である。これは,冀東公司創立発起人の王徴察を理事長として成立した,「典当事業ノ経営並ニ補助」を専門的に取り扱う機関――つまり,「質屋」――である(注31)。冀東政権の税制整備に関する前節の記述からもわかるように,質入れによる金銭の貸借が農民生活を圧迫していた。このため,冀東政権は「本事業ヲ政府ノ統制下ニ於テ裕民公司ヲシテ経営ヲ代行」させながら,政府の「監理官」を置いて公司の営業を監督させた。また,そのような「典当事業ノ公益的性質」に鑑み,裕民公司は,営業税免除や政府系金融機関からの資金援助など,冀東政権からの優遇措置を受けた(注32)

以上,華北駐在時代の毛里は,中国民衆,とくに農民向けの歴史主義的政策展開を推進することで,中国人の意識や中国社会を改造し,近代ヨーロッパで誕生した資本主義・共産主義を克服して新たな地域秩序をアジアに構築しようとした。とはいえ,中国基層社会にむけての垂直方向の政策発信を重視すればするほど,それを中国全土に向かって水平方向に,かつ一律に拡大することは難しくなる。毛里は,満洲国や冀東政権という,いわば地域政権統治下の地方固有の歴史的・社会的状況と中国全体の国家秩序――いいかえれば,中央と地方の関係――をいかに調和させようとしたのか。次項では,この課題を,毛里が関与した,日中戦争勃発前後の日本の対中通貨工作を通じて解明する。通貨は地方間の政治的・文化的差違を乗り越えて流通する。また,その当時の華北地方は,中央・中国・交通各銀行券や河北省銀行券など30数種の通貨が流通する雑種幣制の状態にあった(注33)。これら各通貨の整理・統合の問題は,経済・金融を通じて地方同士を結びつけ,国家・社会全体の秩序として確立することと密接に関係した。

3. 日中戦争と日本の対中通貨工作

日本が華北地方での通貨工作に着手したのは,日中戦争勃発前の1935年末である。支那駐屯軍司令部は12月10日「北支自主幣制施行計画綱領案」(注34)を作成した。同年11月の国民政府による中国幣制改革に対抗し,華北分離工作の一環として「北支自主幣制」の確立を模索したのである。この計画は,華北金融を華中以南の金融から分離し,政治権力から独立した「民衆的金融中枢機関」を設け,発券・通貨の統一をはかるものであった。

しかし,幣制改革後の「中南支方面幣制崩壊ノ北支波及防止」との予測の上に立った前記の計画は,改革の進展とともに修正を迫られた。支那駐屯軍は1936年2月22日,「計画綱領」の「第二次案」(注35)を作成し,「北支自主幣制」の施行にあたって「中国政府ト協調ヲ図」り,新設の「金融中枢機関」の正貨準備のなかに金塊や外貨と並んで中国法幣を加えることにした。さらに,華北分離工作に伴って誕生した冀察政務委員会(以下,冀察政権)は5月23日,既存の河北省銀行を中央銀行とすること,同行の発券業務は「中国法貨ト価値ヲ同フスル」ことを決定した。華北新幣制実施にあたって中央銀行を新設するのは理想的であるが,同地の発券銀行は河北省銀行を除いていずれも華中に本店を有し,中央銀行新設にむけて「中支系統ノ銀行」の参加を求めることは難しいと判断された(注36)

毛里は,国民政府の幣制改革に歩調をあわせた華北通貨工作の展開という路線を支持した。改革直後の1935年11月8日,毛里は,経済評論家で,のちに昭和研究会に参加する山崎靖純からの書翰(注37)を受領した。そのなかで,山崎は,次のように主張していた。幣制改革は「その行はれざる場合よりも,その行はれる場合の方が理論的に有利」であり,もし日本が反対する理由があるとすれば,改革を通じて「イギリス其他欧米の諸国が,支那の財政経済に更に桎梏を加へる」場合に限られる。改革自体に反対を示した「日本の今回の出方は,明らかに拙劣」である。むしろ日本としては,「支那民族に極東諸国協力の理由を悟らせ」ながら,「極東連邦結成の正しいイデオロギーを一日も速やかに確立」することが必要である。毛里もこれに対し,西安事件直後の1936年12月20日,事件にもかかわらず幣制改革によって中国金融界に異変がなかったことを顧み,華北通貨問題は「幣制改革ノ根本方針タル幣制統一ノ趣旨ニ合致」させ,「法幣ノ価値安定ニ寄与シ又ハ協調ノ方針」をとるべきであるとの意見を述べている(注38)

日中戦争下で毛里が関与した対中通貨工作も,中国中央との連携をはかりながら地方の独自性を確保するという戦争前からの路線を継承した。1937年7月7日の盧溝橋事件発生後,毛里は,日中戦争下での新たな華北金融政策の確立にむけて動き出した。毛里の「常務日誌」(注39)によると,彼は同月14日に「緊急金融対策ニ関スル根本方針」を起案している。さらに毛里は8月,「時局ノ拡大ニ伴ヒ北支金融界ニ如何ナル異変発生スヘキヤモ計リ難ク且将来北支ニ一種ノ独立政権ノ成立セラルルコトカ予想セラルル」(注40)とし,華北通貨工作のさらなる推進を提言した。つまり,当面は河北省銀行を存続させるものの,「北支金融界ノ安定ヲ害ハス将来北支中央銀行ノ設立ヲ容易ナラシムル為」には,「在北支南方系銀行ノ豊富健実ナル資力ヲ北支ニ包接スル政策」を実施し,「支那側金融機関ト緊密ナル連絡ヲトリ日支ノ協力下ニ北支金融界ノ安定ヲ計リ新政権ノ強固ナル金融組織ヲ形成」するとした。

この華北通貨工作にあたっては,満洲国総務庁長代理時代に毛里の上司だった阪谷稀一(当時,満鉄理事)が,支那駐屯軍の依頼を受け,1937年7月20日に天津に来訪した[阪谷 1979, 284-285]。9月には,対満事務局次長青木一男が日本から天津に派遣され,阪谷や毛里と協力しながら,華北金融問題の「処理方針確立」(注41)をめざした。同月12日,青木が中心となって作成した「北支金融対策要綱」(注42)が閣議決定された。それは,「河北省銀行,中国,交通両行毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想其他支那側銀行ノ参加協力ニヨル北支金融ノ自主性ヲ策スル」とした。11月26日,北支那方面軍特務部作成の「華北聯合銀行設立要綱」が閣議決定された[岩武 1990, 309]。同行(後日,中国聯合準備銀行と改称。以下,聯銀)は,「北支金融対策要綱」を実現するための具体的措置として設立され,資本金5000万円は「北支政権及支那側主要銀行ノ折半出資ヲ予定」し,「北支ニ於ケル唯一ノ法貨」としての聯合銀行券(以下,聯銀券)を発行する計画であった。

しかし,中国側諸銀行が日本側の計画に応ずるかどうかは,不透明だった。そこで,阪谷や毛里は,中国側各行代表者を聯銀の「設立準備委員」として任命し,1937年12月23日,第1回設立準備委員会を開催した(注43)。その後,中華民国臨時政府行政委員長王克敏や元交通銀行経理曹汝霖など華北政財界実力者の協力を得ながら中国側各行に対する交渉を続けた。その結果,王主催下で1938年1月下旬に開かれた第2回設立準備委員会の席上,「株式ノ引受及払込方法ニ付テ実行細目」(注44)を決定した。聯銀は3月10日に正式開業し,中国側からは,中国・交通・金城・大陸・中南・塩業・河北省・冀東の計8行からの払込金(1940年当時,各行1250万円)を得た(注45)

毛里は1938年5月,大蔵省預金部資金局監理課長として約5年ぶりに日本国内での勤務についた。同年12月には,興亜院経済部第1課長に異動する。しかし,毛里の対中通貨工作への関わりは,帰国後も続く。毛里が属する興亜院経済部第1課は,「支那新政権ニ対スル経済産業協力ノ実施準備ニ関スル事務」を管掌し,汪兆銘政権成立後の華中,ひいては中国全土の通貨工作を担当した(注46)

興亜院経済部は,汪政権の正式発足に先立ち,1939年9月21日に「新中央政府樹立ニ対処スベキ通貨政策」(注47),11月14日に「新中央政府樹立ニ伴フ通貨政策内面指導腹案(試案)」(注48)を相次いで作成した。それらによると,「新支那ノ通貨制度ハ差向キ分治合作ノ政治方針ニ基ク地方分権的組織」にすると定められた。すなわち,新政府成立に伴って単一的中央銀行を創設することはせず,華北の聯銀券など「各地域ニ於ケル既存通貨制度竝之ニ伴フ諸施策ハ原則トシテ之ヲ其侭存続」させ,各通貨間の調整とその「有機的統一化」を促進する。このため,各地域間の為替調整を進めるべく「中央準備庫制度」を採用し,新中央政府は本制度を通じて通貨統制権を確保する。いずれにせよ,新中央政府の通貨制度の確立に関しては「慎重且ツ健実ニ漸進主義ニ拠リテ之ヲ施策」し,「中国民衆ノ利益ヲ尊重シ且土着資本ノ利導ヲ考慮スル」。

これに対し,汪兆銘政権は新中央銀行の「設立工作」(注49)を進め,「国家銀行」としての中央儲備銀行を設置しようとした(注50)。日本側にあっても,青木(当時,中華民国派遣特命全権大使)のように,汪政権の動きを支持するものがいた(注51)。興亜院は1940年9月10日,「新中央銀行設立ニ伴フ中支通貨処理ニ関スル件」(注52)を決定し,汪政権による新中央銀行設立に同意したうえ,「新中央銀行券ハ蒙疆及北支ニハ之ヲ流通セシメザルモノトス」との条件をつけた。中国側はこの条件をいれ,1941年1月6日,中央儲備銀行は正式に開業した(注53)

日本の対中通貨工作を通じてみるかぎり,毛里は,中国全体の国家秩序を構築するうえで,中央政府を中心とする強度の中央集権主義をとるのではなく,中央政府といくつかの地方政府との和平統一によって緩やかに統合するかたちの分治合作主義(注54)をとるとの構想を描いた。ここで問題になるのが,国家全体の秩序を維持するうえで,中央と地方との「有機的関係」をいかに設定するかという点である。それがもし国家・中央に対して地方が優位に立つのであれば,中国は連邦制度をとるべきだという議論になる。毛里の義兄で,新体制運動の推進者の1人である社会大衆党代議士亀井貫一郎は,中国の国家秩序について,「地方的な文化社会の形成せらるるを承認」し,「将来民族協同社会の具体的成熟と共に聯邦主義に成長」するとみていた(注55)。また,陸軍部内には,中国のような長大な歴史と領域を有する国家は,連邦制よりもさらに大きな地方自治権を認めた「邦連制」をとるほうがよいとの主張もあった[樋口 2016]。毛里はこれに対し,中央と地方,または国家と個人との関係を理解するため,ドイツの生物学者デュルケン(Bernhard Heinrich Dürken)の著書『全体性と生物学』の一節[デュルケン 1942,371]を「日記」(注56)に書き留めている。それは,地方や個人が固有の特性を活かしながら,それを国家という有機的全体に対する属性として各自に与えられた分肢的役割を全うするという全体主義的論理であった。

人類ソノモノモ矢張リ一ツノ有機体テアルシ ソノ社会形成トシテノ家族人種及国家モ一ツノ生活群テアル ソシテ其故ニコソ有機体ノ本質ヤ自然的ナ生活群ニツイテノ生物学ノ基本観ハ直チニ人類ノ総体特ニ国家タル緊密ナル共同体ニ適用サレル 全体思想トハ全体的ヲ部分ノ上ニ置クコトテアル 即チ基本トナルモノハ全体的ナ共同体ニアルト云フコトテアル 但シ全体的ナ有機体デ其ニヨリ作ラレタ部分モ矢張リ全体ニ対シ独自ノ意義ヲウルト同シク共同体ヨリ由来シタル人格ノ特殊ナ意義ヲ看過スルコトハナイ 個々ノモノ個人ヲ過度ニ強調スル代リニ自然的ナ総体カ正シク評価サレル 何故ナラハ全体カ先ツ来リ ソノ次カ部分ダカラデアル 全体ハ各成員ニ地位ト任務トヲ与ヘ ソシテ一次的ナ従属ヲ要求スル 個員ハ全体ニヨツテ生シ全体ノタメニ存在スル

毛里は,「国民の努力はこれを一定の方向に統合し,有機的一体として組織化」するため組織を「国民組織」と呼んだ(注57)。そして,中国は,同国に先んじて「国民組織」を形成した日本の助力を得て,「民国の統一を完成」させながら,「一体的な政治秩序即ち,東亜協同体を確立」するとされた[鎌倉 1938]。しかし,日中戦争が勃発し両国が対決状態にあるなかで,中国が日本の支援を受けながら同国の「国民組織」を形成し,その政治秩序を完成させることができるのか,ひいては日中両国が「一体の政治力」となって「東亜協同体」を建設することは可能なのか[鎌倉 1939b]。次項では,興亜院・企画院時代の毛里の思想と行動を分析し,彼の「東亜協同体」論が明確性を帯びて完成に向かいながら,現実的政策課題として実行に移される様相を考察する。

4. 興亜院・企画院時代

「東亜協同体」論が,机上の国際秩序論を超え,現実の政策課題として認識され,その形態に関する議論が日本国内で活発化するのは,日中戦毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想争に長期化の傾向がみえはじめた,1938年秋の武漢攻略作戦前後のことである。

亀井が1938年9月20日に首相近衛文麿に伝えたところでは,彼は「漢口攻略を前にして重大な動きも対支の面に於てある」と予想し,内務・外務・大蔵各省中堅官僚や陸海軍少壮将校,昭和研究会のメンバーを動員し,「東亜協同体の理念の基礎と右の見地よりせる日支事変の歴史的階梯の分析」を行なわせた[日本近代史料研究会 1970, 1]。亀井はこれにさきだち,1937年6月の第1次近衛内閣成立以降,近衛を党首とする新党結成運動に乗り出していた[酒井 1992, 119-120]。

1938年9月29日,亀井は,上記の分析結果を近衛に書通した[日本近代史料研究会 1970, 2-11]。それによれば,現在の中国では,国民党の統治区域にせよ,共産党のそれにせよ,「支那民衆のnationalismの線に沿ふ処の支那民衆の再組織が問題の基本に横はる」。この問題を解決しないかぎり,いくら軍隊を駐屯させても,「長期建設の基礎としての治安維持と政権の安定はあり得ない」。それにもかかわらず,日本政府の戦争処理方針は「緊急避難の継続」にすぎず,根本的解決策になっていない。そこで,「日支事変の根本的打結」は,次の方法によるしかない。「日本と支那のnationalismが相互に一の平面の上で調整せらるゝ事は不可能なので,より高次の面に於て立体的即ち世界の新秩序の一単位として東洋の部門に於て双方のnationalismを吸収しつゝ,その一単位を,東亜一体,東洋協同体乃至共生体に完成する」,いいかえれば,「運命を同じくする三国の超国家体」を創成する。

では,「東亜協同体」の結成にむけて,日中両国に満洲国を加えた日満中3国は,いかなる行動をとるべきか。これに関し,前掲の1938年9月29日付近衛宛亀井書翰は,日中戦争終結のための「最後処理方式と共同宣言案」を,毛里が,陸軍中佐岩畔豪雄(陸軍省軍事課員)・同主計中佐新庄健吉(同省軍務局御用掛兼企画院調査官)・外務省書記官矢野征記らとともに作成し,同盟通信社常務理事古野伊之助(昭和研究会に参加)を通じて近衛内閣の陸相板垣征四郎に提出した,と述べている。この案は,陽明文庫蔵「近衛文麿関係文書」に残存する「事変ノ最終処理方式」,「共同宣言案」(注58)に該当すると思われる。さらに,『解剖時代』主筆の杉原正巳が作成した「東亜協同体建設の具体的政策」(注59)及び「東亜協同体の基礎理論」(注60)と題する文書が,憲政資料室所蔵「亀井貫一郎関係文書」に収録されている。前者は,上記の「共同宣言案」(注61)とほぼ同じ内容を含みつつ,この宣言を発布するための方式や手順,その内容を実現するための組織や行動について記している。後者は,「処理方式」,「共同宣言案」の基礎となるべき,「東亜協同体」建設のための理念や認識を提供している。これらを参照しながら,毛里が提唱する「東亜協同体」の形態・性格とそれを実現するための具体的方法について考察する。

「事変ノ最終処理方式」によれば,日中戦争の最終目的は,「東洋永遠ノ平和」を確立するため,「日満支三国及ソノ民族ノ絶対共同ノ血縁的共同体」を結成し,「東亜民族秩序ノ国際資本主義及共産主義ノ支配及侵略ヨリノ解放」をめざすことにある。したがって,日中戦争の最終処理は「既成ノ国際法上ノ条約以上ノモノニシテ東亜維新ノ大憲章タルヘキ三国ノ共同宣言ノ方式」で行なわれる。さらに杉原が「共同宣言」16に解説を加えたところでは,それは,日満中3国が「新しき世界観に基く,東亜新秩序の建設」を共通の理想として世界に公表するものであり,「完全ナル国家意思ノ一致」による「全東亜民族ノタメノ憲章」として「宣言国ニ属スル国民及民族ノソノ最後ノ一人ヲモ規範」とすべきである。それゆえ,日中戦争は「中国の主権の性格を変へる事」を目的とし,その終結のための宣言も「単なる政府間の共同宣言」にとどまらず,「各民族の国民組織間における共通の世界観的紐帯」を示すものになると述べている(注62)

この「共同宣言」の最大の特徴は,杉原の発言からもわかるように,日満中3国政府間の「宣言」とともに,「各国民組織間のより具体的なる共同宣言」(注63)を発表する点にあった。そして,「三国ニ発生スヘキ党部ハコノ共同宣言ノ精神及綱領ヲ以テ党是」(注64)とするとされ,各国「国民組織」の規範としての役割が「宣言」に与えられた。ここに至って,「東亜協同体」建設のために残された課題は,日満中3国間で普遍的に共有し,有機体としての「東亜協同体」の統一的意思となるべき世界観の確立だった。筆者のみるかぎり,この共通理念の確立こそが,国家の枠組みを超えた「協同体」建設にむけての最難関となった。それがなければ,「東亜協同体」は全体としての志向性を持たない,単なる国家連合にすぎなくなる。杉原はこれに関し,「東亜協同体」の共通目標として「日支を現在の国際秩序の制約から解放する事」を掲げ,「東洋に帰れ」,「東洋の解放」をスローガンにする,と述べた。そして,「資本主義先進国の諸制約」を脱した「東亜協同体」諸国は,個人的営利や階級的利益のための経済的統合をめざすのではなく,「個人以上の歴史と伝統」に基づいて「祖先及び父よりうけついだ民族の文化と生活を,時代及び子孫のために,より進歩したものとしてリレーして行く使命」を有する「悠久の民族生活体」,いいかえれば「道義的協同体」,「文化的協同体」の結成をめざすとした(注65)

以上のように,「東亜協同体」のイメージは,東アジア各国家・民族・地方の歴史性を重視しながら,複数の国家が主権の枠組みを超えた運命共同体として統一的意思を持って行動する有機体として描かれた。しかし,このイメージに則した具体的政策を,日満中各国政府の国策に反映させようとすると,イメージそのものが高遠であるだけに,行政文書中の文言が抽象的とならざるをえない。「毛里英於菟関係文書」には,汪兆銘政権成立前の1939年秋頃に興亜院内部で作成されたと思われる「支那事変国策要綱」(注66)と題する文書がある。これは,汪政権統治下の中国がいかなる性格の国家となるべきかという問題に関し,興亜院の主張を述べたものである。すなわち,「漢民族ノ本質ニ立脚シ左記要件ヲ具備スル統一国家ノ創造発展」をめざすという根本方針のもと,その要件として,「新国家ハ皇道ノ大陸的顕現タル王道ヲ以テ建国精神」とし,日満両国との「一体的協力下ニ東洋永遠ノ平和ノ確立保持」をはかるとされた。ここでいう「王道」とは,この「要綱」に付随する「情勢判断」(注67)に,「現代世界ハ『アングロサクソン』民族中心ノ覇道的世界秩序ノ崩壊期」とあることから,西洋の覇道に対する東洋の王道の意味で使用されたものである。しかし,王道という言葉の乱用は,復古主義的で,中国側に受容されないおそれがあるとして,三木はこれを批判した。つまり,すべての「歴史的なものは空間的であると共に時間的である」。た毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想とえば,「ギリシア的」という言葉は空間的意味をあらわすと同時に「古代的」という時間的意味をもち,「西洋的」という言葉は「近代的」という意味を含む。それゆえ,「東洋的」という言葉が「将来的」を意味し,「大亜細亜主義」という地域的名称も,「世界史にとって新しい時期を現はし得るやうな時間的意味」を示さなければならない。「王道政治」という言葉も同じであり,「過去の支那の特定の社会組織と結び付き,しかも支那の近代的発展そのものによって歴史的に批判されつつある思想が日支親善の原理となり得るものとは考へ難い」[三木 1968a, 34-35]とされた。

この理念の問題に関し,毛里や亀井は,「東亜協同体」が単なる国家連合ではなく有機体であることを踏まえ,日満中3国が普遍的原理を平等に共有するというより,「思想戦トハ戦争指導者カ思想ヲ有スルコトテアル」(注68)との考えを持っていた。そうした思想を,彼らは「指導者理論」(注69)と呼んだ。毛里の太平洋戦争中の講演によると,彼は,大東亜共栄圏を有機体としての人体に擬し,「南は体の構造から言つたら,私は日本の胃腸だと思ひます。つまり,消化機関(ママ)です。だから,あまりイデオロギーは要らんといふ感じですね。満洲と日本がブレーンで,支那が心臓で,南が消化機関だ」と述べた(注70)。したがって,「東亜協同体」建設のための普遍的原理も,日本が「指導者理論」として案出すべきだと考えていたと思われる。しかし,毛里は,この戦時下にあっても,日本のなかで「大東亜戦争ノ歴史的意味ガハッキリ指導者ニ把握サレネバナラヌ」と焦慮していた。1943年11月30日,企画院解体・大東亜省新設をめぐる諸問題を協議するため,毛里は外務省を訪問した。そのさい,「日本トシテ世界ノ経済構造ニ対シ如何ナル主体的主張ヲ為サントスルヤ」との疑問を外務省側に質した。しかし,同省の回答は「要領ヲ得ス」,これを聞いた毛里は,「其事ハ難シイ事デ今日迄世界ニ対スル政治経済ノ主体性カ確立シテ居ナイ」と慨嘆した(注71)

かくして,「東亜協同体」の共通理念を具体的政策に反映させ,その構成国や構成国内の各民族・各地方に浸透させることは難しかった。それゆえ,「東亜協同体」と各国「国民組織」の建設にむけて,抽象的理念を社会に浸透させるに先立ち,民衆生活レベルでの実践的活動が重視された。その活動を通じて各地民衆の意識改革や地方社会の改造を進め,その成果を国家秩序・地域秩序の形成と有機的に連関させるべく,理想と現実を仲介するような具体的世界観を発見しようとしたのだろう。毛里は,日本の「国民組織」に関し,「未だ実践運動の開始される以前,机上において国民組織の具体像を得ることは困難である」[企画院研究会 1941, 42]と述べている。

次節では,青島出張所が同地の社会・民衆にむけて展開した実践的政策・活動を解明し,それが毛里の「東亜協同体」論といかなる点で親和または乖離するのかを考察し,現実態としての「東亜協同体」の可能性を検証する。

Ⅱ 「東亜協同体」論と興亜院青島出張所

日本海軍が青島を占領したのは,1938年1月10日である。同日,支那方面艦隊麾下の第4艦隊は陸戦隊を青島に上陸させ,夕刻までに青島市内を占拠した[防衛庁防衛研修所戦史室 1974, 492-498]。一方,陸軍は,これより後の1月19日,北支那方面軍所属第2軍の國崎(登)部隊が青島に到着した[防衛庁防衛研修所戦史室 1975, 443-444]。青島攻略はもともと,上海出兵直後の1937年8月14日に閣議決定したものである。しかし,日本軍が上海方面で苦戦したこと,陸軍が山東省済南方面の攻略を優先したことにより,攻略作戦実施が延期された[防衛庁防衛研修所戦史室 1974, 378-388]。これに焦慮した海軍は単独作戦実行を決断し,翌年の占領に至った。海軍は青島占領後,國崎部隊到着に先立ち,市内の主要な建物や施設を単独で差し押さえた。このため,陸海軍間に青島での施設使用や警備分担区域等の問題をめぐって軋轢が生じた。1月27日,陸海軍中央部は,青島での両軍警備分担等の詳細に関し,第2軍司令官と第4艦隊司令長官が協議して決定する旨の協定を成立させた[防衛庁防衛研修所戦史室 1974, 498]。これを受けて,第2軍及び第4艦隊の間で3月26日に電政・郵政・港務処理に関する現地協定が締結された[防衛庁防衛研修所戦史室 1975, 444]。

しかし,陸海軍の対立は,これで解消されたわけではなかった。その最大の争点は,占領後の青島に「特別市」を建設することの是非とその性格,さらには同市政府への内面指導の優先権をめぐるものであった。ここでいう「特別市」とは,青島市を山東省政府の管轄とするのではなく,北京(北平)にある中華民国臨時政府の隷下に置かれるものをさす(注72)

占領作戦終了後の1938年1月17日,青島市政府の再建に先立ち,青島治安維持会が成立した[青島治安維持会 1939, 1]。成立日が前記の國崎部隊到着前であることから,日本海軍の指導下に組織されたものだろう。海軍は,日中戦争勃発直後の1937年8月から青島駐在海軍武官室の輔佐官を増員し(注73),治安維持会成立に先立って事前準備を進めていたと思われる。その会長に就任したのは,趙琪である。趙は青島ドイツ語学校で学び,1925年に膠澳商埠局総辦に就任するなど,ドイツ通として知られていた[青島特別市 1940]。このほか,青島治安維持会には,趙を含めた9名の委員がいた(このうちの6名が常務委員)。そのなかで趙に次ぐ実力者だったのが,治安維持会総務部長姚作賓である。総務部は計画・財務・工務・教育・救済各科を管轄し,警察業務以外のほとんどを担っていた[青島治安維持会 1939, 6-7]。このため,治安維持会の事実上の権力は姚に集中したと思われる。姚は明治大学に留学経験のある日本通であった[東亜問題調査会 1941, 195-196]。

青島治安維持会の主要業務は,復興のための公共事業と土地整理事業である。後者は,旧青島市政府が管理する不動産登記簿の多くが戦争で失われ,新たに土地台帳を作成して市民の権利を保護するものであった[青島治安維持会 1939, 9-13]。したがって,治安維持会の役割は治安回復のための応急処置という性格が強く,日本陸海軍は,市政の常態にできるだけ早く復帰すべく,占領直後から青島特別市設置にむけて協議を開始した(注74)

青島を特別市にする意向を先に示したのは,陸軍側である。陸軍は1938年3月末に青島特別市公署建設について提案し(注75),その後「青島特別市建設要綱」(注76)を作成した。陸軍案の特徴は,前記のように青島特別市を中華民国臨時政府に直隷させることのほか,市の領域をドイツ租借地以来の市の中心部である港湾周辺地毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想から租借地外の即墨・膠・高密各県まで拡大する点にある。これには,市域を内陸部に拡大することで,日本の中国大陸への「大玄関」として青島を位置付けつつ,関東州と連結させて山東半島全体を特殊地帯化する狙いがあった(注77)。しかし,海軍はこれに反対した。青島市政府が臨時政府に隷属すれば,後者を成立させた北支那方面軍特務部,ひいては陸軍の青島に対する影響力が強まるし,市域拡大は港湾部を重視する海軍の影響力を逆に弱めるからである(注78)。海軍は,青島占領を機に同地の軍港としての機能を強化し,中国での作戦根拠地として活用する考えだった(注79)。また,市域の内陸側への拡大よりも,むしろ「膠州湾全部を青島港となすべきである」(注80)とした。陸軍側は,青島を根拠地化しようとする海軍の姿勢に対し,「青島ヲ帝国ノ領土乃至租界タラシメントスル観念ハ帝国ノ対支那事変ノ根本方針ニ抗反」(注81)し,「本件ハ青島ノ局地問題ナルカ如ク見ユルモ海軍側ノ思想ハ対支那処理方針全般ニ塁ヲ及ホスモノナルヲ以テ軽々ニ看過スルコト能ハス」(注82)と非難した。

その後の青島特別市設置をめぐる陸海軍間の協議の経緯は,史料的に詳らかでない。ただ,青島治安維持会成立1周年を控えた1939年1月までに特別市政府の組織が急がれ,日本政府・軍中央でも陸海外3者間の協議が行われた(注83)。その結果,青島特別市は1月10日に成立した[青島治安維持会 1939, 1]。その市長には,治安維持会長趙琪がそのまま着任し,中華民国臨時政府委員も兼務するようになった。また,特別市成立後,日中間に覚書が作成され,市政府に顧問を置くことになった。その覚書は,「市長ニ提出セラルベキ一切ノ重要文書ハ顧問ヲ経由シ市長ハ重要事項ニ付決裁前予メ顧問ト協議」(注84)すると定めていた。顧問に就任したのは,初代興亜院青島出張所長の海軍大佐柴田彌一郎である[青島特別市公署 1940, 2]。その後も,歴代の青島出張所長(全員が海軍大佐)が顧問を務めた。一方,柴田の前職は在青島海軍特務機関長であるが,青島占領以来の陸海軍特務機関同士の対立を解消すべく,青島出張所設立後,両軍特務機関を廃止するかわりに,出張所長の次席(官房長)として陸軍将校1名を同所に配属した(注85)。さらに,特別市の領域に編入されたのは,即墨・膠両県である[青島特別市公署 1940, 5]。高密県が外されたのは,同県が3県のなかで最も内陸にあり,市域拡大に消極的な海軍に配慮したからだろう(注86)。陸海軍の警備分担は,港湾部に接する旧市街を青島市警察局が担当し,即墨・膠両県を市警とともに陸軍が,黄海に面する嶗山地区を海軍が担当した(注87)。陸軍にあって,上記両県の警備を担当したのは,独立混成第5旅団である。

かくして,青島特別市の成立とその関連規程は,陸海軍の妥協の産物であった。それゆえ,同市の性格を,日本の租界のようなものにするか,それとも毛里の唱えた「東亜協同体」論の枠組みに則して「有機体」中の分肢的存在の1つとして位置付けるかは,特別市政府とそれを指導する青島出張所の運営・活動にかかっていたといってよい。つまり,前者であれば,青島を作戦・資源の根拠地とみなすだけでよいが,後者であれば,青島市とその周辺地域に居住する民衆に働きかけ,彼らの意識改革や青島の社会改造を推進し,中国における「国民組織」,ひいては「東亜協同体」の形成につなげていかねばならなかった。

青島特別市政府と青島出張所との関係は,前者に対する後者,とくに海軍側の圧力が次第に減少していった。柴田の所長時代(1939年3月10日~1940年8月8日),市政府顧問を兼務する彼は,対日問題を協議する市政府の会議において,「自ら議長の様な方式で会議の運営に当たった」。柴田は,山東省についても,そこを資源基地としてみなしがちであった。彼の所長在任中に発行された「東亜新秩序建設と山東」[興亜院華北連絡部青島出張所 1940]というパンフレットでは,同省が石炭をはじめとする資源に恵まれ,青島港もその搬出のための「大呑吐港」となり得ることを紹介し,「山東省が東亜新秩序建設の上に如何に基地として重要性を有するか」について強調している。

しかし,第2代所長多田武雄の時代(1940年8月8日~1941年8月20日)になると,彼は周囲の進言を受け入れ,日本側の要望を市政府に事前に伝えたうえ,所長として会議に出席するものの,意見を差し控えるようになった。さらに第3代所長緒方真記(1941年8月20日~1942年11月1日)は,自分で会議に出席することはせず,官房長・陸軍大佐加治武雄,外務省から出向中の島重信(青島出張所政務班政務指導担当),鉄道省から出向中の篠崎稔(同上)らを陪席させるだけにとどめた(注88)。また,独立混成第5旅団長内田銀之助は旅団長在任当時をふりかえり,「私の三十有余年に亘る公生活の中で最も思い出深きものの一つ」と述べ,「青島に於ける海軍部隊との提携も或は興亜院連絡部,総領事館,民団,市政府との折合も寔に親密でありました」と回顧している(注89)。なお,1942年11月の大東亜省新設に伴って興亜院が廃止されると,興亜院の現地機関も同省所轄の現地機関に一元化された。つまり,興亜院華北連絡部は駐北京大使館職員とともに在北京日本大使館事務所に,青島出張所とその所員も青島総領事館にそれぞれ統合され,後者は総領事の指揮・監督をうけることになった(注90)。そのさい,陸海軍は各総領事の人事に関し,文官をこれに充てることとし,さらに「現地機構内陸海軍軍人モ成ルヘク手ヲ引カシムル方針ヲ採ルコト」で合意した(注91)。大東亜省設立後の新たな青島総領事も外交官の喜多長雄が就任した。

青島特別市政府・青島出張所の活動中の最難題は,市郊外の即墨県・膠県・嶗山地区の治安対策にあった。加治の回想によると,市中心部の旧市街は戦火をあまり蒙らず,青島埠頭会社や山東塩業会社等の企業も無事だった(注92)。一方,郊外各地では,多数の匪賊(注93)が出没し,治安確立が遅れた。日中戦争下の青島周辺では,戦争で農地が荒廃したり,紡績工場が破壊されて出稼ぎ先をなくしたりしたものが,匪賊化する例が多かった。彼らは,前青島市長沈鴻烈が1937年12月に同地を退去して以降急増した。彼らは中国人敗残兵に交じって郊外各地に盤踞し,しばしば青島近郊の農村に出没した。たとえば,嶗山北部にあって市街地と境を接する李村では,匪賊によって村長が誘拐され莫大な身代金を要求されたりするなど,大きな被害が出た[南満洲鉄道株式会社北支事務局調査部 1939, 7-8]。近郊農民は貧困で,教育水準も低く,匪賊を中国正規軍と間違えて租税を提供することさえあった(注94)

こうした匪賊の活動に加え,青島郊外各地では,中国国民党・共産党の遊撃活動も行なわれた。とくに,海抜1133メートルの高さに位置する嶗山地区は,奇抜な岩山が連なり,東側は毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想急峻な崖となって黄海に面し,「遊撃戦争を行なうには理想地帯」であった。ここには,日本の占領に伴って市街地を追われた国民(重慶)政府系の旧青島市政府が1942年に辦事処を嶗山華厳寺に設け,その遊撃隊である青島市保安総隊(以下,青保隊)も約3500名の兵力を有していた[義 1993]。この青保隊にも,現地出身の農兵が数多く加わっていた。彼らは嶗山の複雑な地形を知り尽くし,掃討にきた日本軍・青島市警を苦しめた。他方,共産党も1943年8月に嶗山武工隊を建立するなど嶗山への党勢拡大をはかった。共産党側は,重慶政府系の敗残兵を吸収し,徐々に勢力を拡大した(注95)。ただし,武工隊が設置後まもなく青保隊と衝突して即墨方面に退去するなど,青島周辺に存在する国共両党の組織は,必ずしも一致協力していたわけではなかった[山東省嶗山県志編纂委員会 1990, 23]。

これに対し,日本軍は,青島特別市政府と協力して民衆の組織化や農村での宣撫工作を進めながら,匪賊掃討・治安確立をはかった。1939年8月23日,柴田は趙琪に対し,青島郊外での行政活動及び治安工作の展開を容易にするため,市政府内に郷区行政籌備事務局を設置するよう要請した(注96)。同局では,警備隊・自衛団の整備や警備道路の新築等のため,市政府各局科長級職員1名が局員を兼任して事務を取り扱った。同局はまた,日本軍や青島市警と協力し,しばしば郊外各地で治安粛清工作を展開した。たとえば,1940年7月29日から8月14日まで即墨県南方地区で展開された工作では,匪賊検挙・銃器回収・情報収集等を行なうとともに,保甲制度整備・自衛団組織・情報網拡充等に努めた(注97)

青島特別市政府は,市内各地への権力浸透をはかり,治安工作や宣撫工作を円滑に進めるため,県級単位に郷政処・行政辦事処を,それより基層の郷鎮村級単位に警察分局・分駐所を開設した。前者については,1939年12月に即墨・膠州(膠県を改称)郷政処が置かれ[青島特別市公署 1940, 55],嶗山行政辦事処も1942年7月1日に開設されている[山東省嶗山県志編纂委員会 1990, 23]。後者では,青島特別市内の李村・四滄・海西・即墨・台東に警察分局が置かれ(注98),李村管内に5つの分駐所,四滄管内に2つの分駐所,海西管内に3つの分駐所が設けられた[青島特別市公署 1940, 19]。このうち,李村分局の組織及び人員は,文末の付表の通りである(注99)

青島出張所・青島特別市政府は,民衆の組織化をはかり,社会の末端まで情報網・監視網をはりめぐらせると同時に,民心掌握のための宣撫工作も実施した。治安確立のためには,単に匪賊を粛清するだけでなく,村から匪賊を出さず,村に匪賊を寄せ付けないようにすることが必要だったからである。嶗山行政辦事処が1942年9月と1943年8月に行なった宣撫工作では,市政府宣伝処・行政科・社会局各職員,辦事処職員,新民会職員(注100)らによって「安民工作班」を組織し,劇団による慰問,標語・伝単等の宣伝品配布,食糧・マッチの配給,施療・施薬を実施している。このほか,班員による講演も行われ,「姚市長は親子のように愛民の感情を持っていることや友軍の協同作戦は安居楽業の善意から来ていること」が説明された。李村には,農事試験場もつくられた[山東省嶗山県志編纂委員会 1990, 23]。前記の即墨での治安工作に際しては,優秀村長・模範民衆の表彰も行なわれた(注101)。こうした工作の効果について安民工作班長劉希光が述べるところでは,各所で治安は確立しつつあるが,民衆の苦痛を1回の工作で除去することは難しく,再宣撫の必要があるとされた(注102)。このほか,工作の対象となった民衆からは,学校の回復・医院の設置等の要望も出された。このうち,学校の回復・教育の再興については,青島特別市政府当局が治安維持会時代から尽力するところだった。教科書を国民政府時代のものから改編し,「掃共滅党」の活動・宣伝を行なうことなどにより,「教育は五倫八徳を以て精神となし,青年の思想的誤謬を徹底的に改革し,中華固有の道徳と真精神を恢復する」のが,その狙いであった[青島治安維持会 1939, 1青島治安維持会総務部教育科 1939, 1-17]。

しかし,国共両党や匪賊の活動を完全に収束させることは難しかった。国共両党は,青島郊外の郷鎮村部で地下工作を展開し,市政府が治安・宣撫工作を実施した場所にも繰り返し働きかけ,党員の獲得・勧誘,自警団に所属する壮丁の逃避誘導,情報収集等を行なった(注103)。1943年6月18日,内田は第2代市長姚作賓(注104)に対し,治安問題をめぐる青島特別市政府の協力をあらためて求めている(注105)

我等日本軍隊ニ於テハ剿匪其ノ他地方治安ノ確立ニ関シ御協力申上クル上ニ於テ貴方行政権ノ地方滲透ヲ迅速円滑ナラシムル等ノ見地ヨリ地方施政ニ対スル干与ヲ厳ニ自戒シ専ラ作戦,警備ニ専念致ス方針ヲ以テ鋭意努力シツツアル次第ニ有之候カ治安ノ確立固定化特ニ共産党軍剿滅ノ為ニハ軍ノ行フ剿匪ニ緊密ニ膚接シ否寧ロ之ニ先行スル如ク民心ノ安定,把握ノ為適切ナル政治,経済其ノ他ノ施策カ活発ニ遂行セラルルニ非サレハ其ノ目的ヲ達シ難キコト今更申上クル迄モナキ所ニシテ之カ為従前ヨリ格別ナル御配慮ヲ煩ハシ来リタル所ニ御座候カ今後更ニ其ノ成果ノ画期的向上ヲ期スル為貴隷下各行政庁等ヲシテ一層積極的ニ最寄日本軍隊ニ連絡セシメ情報ノ収集提供,交通通信ノ整備確保,敵側潜行工作ノ剔抉等ニ努力セシメ特ニ討伐及警備行軍等ニ際シテハ最モ緊密ニ之ニ膚接シテ政治,経済,宣伝等ノ諸施策ヲ推進セシメラルル様御督励相成度切ニ希望致候

日中戦争期,青島出張所は青島特別市政府を通じ,郊外農民も含めた青島市民の組織化を進めた。毛里は,国家と個人との有機的一体化をはかるための「国民組織」の目的として,「国民生活の抹消部面に至るまで国家意思を浸透せしむる」と同時に,「あらゆる問題について下情を上達し,以て政府の樹立する政策に現実性を付与」することをあげている[企画院研究会 1941, 43-44]。青島の事例は,このうちの前者について,出張所・市政府の権力を民衆に浸透させ,治安・宣撫工作を容易にする役割は果たした(注106)。ただし,国共両党や匪賊の存在もあり,民衆組織が常に盤石なわけではなかった。後者に関していえば,青島の民衆組織化を通じて市民の意識改革や同地の社会改造を施し,その成果を「下情上達」して中国の国家秩序ないしは「東亜協同体」の建設につなげることは,十分な目的達成を得られないまま,日中戦争終結を迎えた。

おわりに

毛里英於菟の「東亜協同体」論は,一般の国際秩序のように,主権国家を構成単位とする連合組織をめざしたものではない。それは,既存の諸国家・諸民族の枠組みを相対化し,広域に居住する人々が普遍的理念に基づいて国境を越えて団結し,一個の目的達成に向かって全体として邁進するような擬人的団体を創出する試みだった。その意味では,複数の国家・民族が可視的利害の追求のため便宜的に協力するという機能性よりも,有機体としての「東亜協同体」が不可視的理念のもとに統合され,かつ行動するという形而上性を重要視するものだった。毛里がめざした「協同体」は,ヘーゲルの次のような国家哲学を,国境を越えた地域的共同体に当てはめたものに近いのだろう[ヘーゲル 2018, 120]。

国家は生命あるものとして,本質的には展開したものとして,有機的なシステムとして考えることができる。そのようなシステムとしての国家は,それぞれが自立してある集団の特殊な普遍性から成り立ってはいるが,しかし,それらの集団の自立性の活動はこうした〔国家という――原注〕全体を生み出すものであり,つまりそれぞれの集団の自立性を止揚するものである。有機体においては,普遍的なものと個別的なものの対立は,もはやまったく問題にならない。

毛里がそのような発想を持つに至ったのは,満洲国・華北在勤以来の中国体験が影響している。毛里の「東亜協同体」論は,これらの体験とそれに応じた政策展開との間断なき相互連関の中から生まれてきた理念であった。日中戦争勃発後,その戦争目的を正当化するために生まれた言説ではなく,観念のうちにとどまる空想の産物でもなかったのである。

その当時,毛里は,満洲・華北地方の中国民衆が軍閥等の中間権力からの搾取に苦しんでいることを見聞すると同時に,日本による満洲国建設・華北分離工作実施という事実を踏まえ,日本人がその民族意識を捨てて中国に溶け込み,同国民衆を直接の対象とする政策を実施することの必要性を痛感するようになった。そのさい,日本が近代化の過程で西洋から学んだ科学技術をそのまま中国に当てはめるよりも,中国在来の伝統や民衆の生活習慣に応じた歴史主義的政策を展開するほうが民生の安定につながると考えていた。

しかし,中国各地の歴史性を重んじれば重んじるほど,それらと中国全体の国家秩序,ひいてはアジア全体の地域秩序との整合性をはかることが難しくなる。そこで,毛里は,華北在勤以降,対中通貨工作を担当する過程で,中央と地方,または全体と個人の調和をはかるべく,有機体という概念を導入する。毛里はまた,そうした個々の国民の意思や努力を全体としての目標達成のために有機的に統合する組織を「国民組織」と呼んだ。

「東亜協同体」の建設が,単なる机上の論理にとどまらず,現実の政策課題として意識されるようになったのは,日中戦争長期化の気配がみえはじめた1938年秋以降である。その当時,興亜院・企画院の中央官僚として日中戦争処理方針の策定に関与した毛里は,国家主権を乗り越えて日満中3国が一個の「超国家体」を形成すれば,日中間の国家的対立は解消すると主張した。具体的には,この3国が,戦争終結のためだけでなく,共通の世界観に立脚して各国民衆の行動規範となるような共同宣言を発することにより,各国政府間の政策的一致のみならず,各国「国民組織」間の意思統一も実現できると述べたのである。

ここで問題になるのが,日満中3国間で共有する普遍的理念を創出できるか,であった。これが,「東亜協同体」建設のための最難関となった。国家有機体論は元来,西洋中世に生まれた。この時代は,人間の不等性を前提とする身分社会があり,不等性を有する諸部分が神を頂点として全体的調和に至るという神学的世界観があった[甚野 1992, 171-172]。「東亜協同体」の実現も,日本を指導者とする不等性を前提としつつ,日満中3国が有機的かつ超国家的に団結することを理想とした。三木もまた,1940年1月の『科学主義工業』誌上での毛里との対談の席上,「新しい世界の形は,近代の自由主義の遺産を継承しながら,現はれて来る形としては中世的の形,新しい中世といふかたちになる」と予想していた[津田 2018, 205]。それゆえ,西洋の中世的世界観に相当する新たなイデオロギーの創出が「東亜協同体」建設のために不可欠であった。

しかし,そうした理念・理想を日満中3国の現実レベルの政策に反映させようとすると,王道主義やアジア主義といった復古的表現にならざるをえなかった。さらに,たとえ日満中3国間で世界観を共有できたとしても,マルクスがヘーゲルの哲学を批判したように,「原理と同じ水準まで高められた実践に到達できるか」[マルクス 1974, 85]という疑念もあった。そこで,毛里は,共通理念を実現するための具体的方針を掲げるに先立ち,民衆レベルでの実践的政策展開を積み重ねることによって理念と実態との橋渡しをし,東アジアの現実社会で真に共有できるような具体的世界観を打ち出そうと考えるに至った。

興亜院の青島出張所が青島市民・社会に向かって展開した実践的政策を,毛里の「東亜協同体」論に照らし合わせてみるとき,政策が実現して親和性がみられる部分と,政策がなお実現に至らず,あるいは政策の意図に相反する結果を生んだために乖離性がみられる部分との両方がある。「東亜協同体」建設のうえで最低限必要となるのは,日本が,満中両国にさきだち,国家の全体主義化をはかり,「国民組織」を形成することである。日本国内において,その最大の障害となったのが,海軍である。海軍は,日本の政治・軍事諸勢力のなかで,組織的利害を前面に打ち出す傾向が最も強かった。日中戦争中,陸軍の意向を無視して単独で青島を占領した海軍は,その占領後も同地の占領統治政策を独力で展開しようとした。海軍は,青島を作戦根拠地または資源搬出地として発展させようと考えた。しかし,それは,西洋で誕生した資本主義・共産主義を日中共同で排除して東亜新秩序を建設する――それは,「東亜協同体」論の理念でもある――という日本の日中戦争処理方針に反するとして陸軍からの批判を受けた。

興亜院青島出張所,ひいては大東亜省の青島総領事館の設置は,陸海軍の意見対立を収拾し,青島という局地レベルでは,日本全体の戦争処理方針を統合する役割を果たした。むしろ青島出張所設立後に現地で問題化したのは,青島市毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想郊外の県級以下基層農村における治安・宣撫工作とそれを円滑に展開するための民衆組織化だった。青島出張所と青島特別市政府は,郊外農村の組織化を進め,保甲制度・自警団・情報網等の確立をはかりつつ,民心掌握のための物資配給,施療・施薬,教育,宣伝等の施策を展開した。その結果,青島出張所の意思や青島特別市政府の権力を青島市の基層部まで浸透させ,郊外農村を含めた青島市全体の治安を確立する点については,大きな成果を得た。しかし,権力浸透や宣撫工作を通じて市民の意識改革と青島全体の社会改造を実現し,同地の歴史性やアジアの伝統・習慣の重要性を自覚させるほどには至らなかった。それゆえ,青島出張所の活動を,「東亜協同体」の実体化の可能性に照らし合わせてみるかぎり,権力や政策を上から浸透させることを目的とする機能主義的組織化には成功したものの,有機的組織としての「協同体」建設にあたってより重要となる,民衆の自発性の発揮や社会における統一意思の形成といった形而上的側面での目的達成は不十分に終わった,といわざるをえない。

青島市民,とくに郊外農民の意識改革が進まなかった原因の1つは,同地で活動する国共両党の遊撃隊や匪賊の存在があった。彼らの多くは,自分自身がかつて農民だっただけに,農民の心情や農村の地理を熟知し,青島出張所・青島特別市政府が治安・宣撫工作を実施した場所において対抗的に地下工作を行ない,民衆組織や民心を動揺させた。それは,青島の事例のように,日中戦争中,日本が占領統治下の中国基層社会に働きかけ,治安・宣撫工作等を実施したことにより,中国の「民衆抗戦意識」(注107)を逆に高めた結果ともいえた。

毛里が第二次世界大戦末期に戦後構想を案出するにあたって日中戦争下の中国問題を顧みたところでは,今回の戦争のように,「文化ノ高キ国カ奥地迄軍事占領セルコトハ支那歴史上嚆矢ノ事」であり,かえって「軍,官僚,民衆ニ民族的ノ政治訓練ヲ与へタルコトハ今後ノ中国内政ニ重大ナル進歩的影響」があった。日中戦争勃発以来の中国の「顕著ナル改善ト進歩」を認めた毛里は,その戦後構想のなかで,「支那ハ今後世界ノ安定勢力国家ノ地位ヲ有スヘシ今ヤ帝国ハコノ現実ヲ主体的ニ承認シ今後ノ世界経論ヲ定メサル可ラ」ずとし,日本は「虚心坦懐彼ト共ニ彼我自衛,発展ヲ保証シツツ東亜ノ世界ニ対スル主体性ヲ確立シ日支相携ヘテ東亜ノ防衛及解放ノ世界経論ニ邁進」すべきであると述べた(注108)

毛里の「東亜協同体」論は,日本が日本国民はもちろん,中国国民にも働きかけることにより,国際社会と民衆の日常生活とを有機的に連結させ,その中間に位置する国家主権を相対化し,共通理念を有する一個の広域的共同体を建設しようとした点に特徴がある。しかし,日中戦争という国家的対立のなか,そうした働きかけを行なったことで,中国の民衆レベルでの国家意識をむしろ強化することになった。その結果,日中戦争勃発以前に確立が不十分だった日中間の主権国家的関係の構築を(注109),戦中から戦後にかけて,逆説的に促進する効果をもたらしたといえよう。

付表 李村分局諜報区人員配置(1941年10月)

(出所) (注99)を参照。

(國學院大學文学部教授,2018年11月6日受領,2019年10月11日レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  三木[1968b, 507-533]。なお,酒井[1992, 163-166]によると,この文書は,三木を委員長として昭和研究会内に設けられた「文化研究会」の「総合報告書」として取りまとめられたものである。

(注2)  1938年11月3日の近衛声明が「東亜新秩序声明」と別称される点に鑑み,日中戦争処理方針や日中和平工作の一環として東亜新秩序を分析した近年の研究に,貴志[2005]鹿[2013]戸部[2015]などがある。

(注3)  日本による東南アジア占領地への独立・自治の許与という問題を通じて大東亜共栄圏が政治秩序として実体化しつつあったことを指摘した研究に,波多野[1996]河西[2012]がある。また,共栄圏を経済圏構想の一端として把握する研究に,安達[2013]がある。

(注4)  国会図書館憲政資料室蔵「毛里英於菟文書」(127)所収の「昭和十三年下半期 東亜協同体建設関係論説集」は,三木[1938]蠟山[1938]など,雑誌『改造』,『大陸』,『解剖時代』,『今日の問題』等に掲載された国際秩序論をランダムに集成したものである。なかでも,三木の論文は巻頭に収録され,最重要視されていたことがわかる。

(注5)  外務省外交史料館蔵の1938年12月16日~1940年4月28日「対支中央機関設置問題一件 興亜院功績概要書」。

(注6)  外交史料館蔵「支那事変関係一件」第19巻所収の「華北連絡部青島出張所現状申告」。なお,在青島海軍特務機関も青島占領後の1938年2月に設置されている(防衛省防衛研究所図書館〔以下,防研〕蔵「昭和十三年 陸支密大日記」第12号〔以下,「陸支密大日記」は,「S13-密-12」のように略記〕所収の1938年2月7日付在青島陸軍特務機関長大木良枝発陸軍次官梅津美治郎宛青機秘第3号)。

(注7)  S15-密-29-3/3所収の1940年8月21日,北支那方面軍参謀長笠原幸雄発陸軍次官阿南惟幾宛方参第4電第1442号。

(注8)  満洲国の財政処理は,財政部ではなく,総務庁主計処が主体となって行なっていた。同処は,予算・決算や国庫金収支管理等に関する事務を掌理し,財政部は歳入官庁としての役割を果たすのみだった。日本を含めた諸外国のごとく,大蔵省のような組織が財政を一括処理する制度をとらず,内閣府に相当する総務庁に財政処理を集中させた点が,満洲国財政制度の特徴である[満洲国史編纂刊行会1971a, 300]。また,建国直後に税制整備の指揮をとっていた財政部総務司長阪谷稀一は,1932年10月5日に総務庁長代理に異動した[阪谷1979, 267]。以上の点から考えて,満洲国の税制整備に総務庁がまったく関与していなかったとは考えにくい。

(注9)  「毛里英於菟関係文書」(81)所収の「冀東関係資料」中の1935年12月3日付支那駐屯軍司令部甲嘱託班第2班「灤楡区内視察概況報告」。なお,「はじめに」で述べたように,毛里の履歴上「支那駐屯軍司令部付」になったのは1937年5月とされるが,本史料や後掲(注16)の史料をみるかぎり,冀東政権成立前後に「嘱託」の肩書を得て支那駐屯軍司令部に出向していたようである。

(注10)  冀東地区の保安隊の整理・改編については,「冀東関係資料」中に1936年2月7日付「保安隊強化整備要綱」と題する文書がある。それによれば,保安隊の「私兵的観念」を一掃して「政府ノ保安隊」という趣旨を明確にするため,軍紀の厳格化,兵士への教育・訓練の実施,政治的行為・商行為の禁止,隊における刑罰の確立を行なうとの方針が打ち出されている。

(注11)  「毛里英於菟関係文書」(47)所収の「北鉄買収ニ関スル件」中の1934年4月30日付満洲国総務庁主計処「北鉄買収資金調達方法及買収後ノ経営方式」。

(注12)  小池・森[2014]所収の1935年2月1日付日記。

(注13)  同上,1935年2月4日付日記。

(注14)  同上,1935年1月17日付日記。

(注15)  (注11)の「毛里英於菟関係文書」(47)「北鉄買収ニ関スル件」所収。

(注16)  「毛里英於菟関係文書」(37)所収の「棉花資料」中の1935年10月10日付支那駐屯軍司令部甲嘱託班第4班「答申第一 北支産業政策ノ根本方針」。

(注17)  同上所収の1936年8月31日付満洲国国道局利水科長本荘秀一「冀東政府水利委員会設置要綱」。

(注18)  同上所収の1936年11月11日付「冀東水利委員会設立ニ関スル経過報告」。

(注19)  同上所収の1936年10月28日付「冀東水利委員会事業実施要綱案」。

(注20)  同上所収の1936年2月付支那駐屯軍調査部産業班「冀東地区河川ノ現況ト現存計画概要」。

(注21)  (注19)の「冀東水利委員会事業実施要綱案」。

(注22)  (注20)の「冀東地区河川ノ現況ト現存計画概要」。

(注23)  「毛里英於菟関係文書」(214)所収の1938年7月8日付毛里英於菟「東亜新秩序と対支経済問題」。

(注24)  前掲「冀東関係資料」所収。

(注25)  同上。

(注26)  (注23)の「東亜新秩序と対支経済問題」。

(注27)  多田井[1983, 119-120]所収の1936年6月19日付「北支金融及経済統制限度ニ関スル天津軍池田参謀及毛里嘱託打合要領」。

(注28)  前掲「冀東関係資料」所収の1936年2月付「冀東股份有限公司設立趣意書」。

(注29)  大興公司は,柴田[1998]を参照。

(注30)  前掲「冀東関係資料」所収の1936年1月16日付支那駐屯軍司令部「冀東公司設立要綱」。同上所収の1936年2月27日付「冀東股份有限公司設立会議録」。

(注31)  同上所収の1936年4月6日付「裕民公司辦法大綱決定ノ件」。

(注32)  同上所収の1936年4月4日付「通洲会議録」。

(注33)  多田井[1983, 199]所収の1940年5月付中国聯合準備銀行顧問室「北支那通貨工作の概要と中国聯合準備銀行に就て」。

(注34)  多田井[1983,108-109]所収。

(注35)  多田井[1983,111-112]所収。

(注36)  多田井[1983,115-116]所収の1936年5月7日付支那駐屯軍司令部「冀察幣制ニ関スル打合」。多田井[1983,123-124]所収の1936年6月30日付大蔵省理財局国庫課「北支金融工作ニ関スル件」。

(注37)  「毛里英於菟関係文書」(15)所収。

(注38)  同上(18)所収の1936年12月20日付毛里英於菟「西安事変ヲ契機トシテ支那幣制及北支幣制確立ニ関スル意見」。

(注39)  同上(22)所収。

(注40)  同上(4)所収の1937年8月付「北支金融指導機関設置案」。

(注41)  憲政資料室蔵「阪谷芳郎関係文書」所収の1937年9月18日付阪谷芳郎宛阪谷希一書翰(R10-243-22)。

(注42)  多田井[1983, 108-119]所収。

(注43)  「毛里英於菟関係文書」(12)所収の田中恭(満洲国経済部金融司長)宛阪谷書翰。

(注44)  同上(11)所収の「中国聯合準備銀行ニ関スル諸般ノ準備」。

(注45)  (注33)の「北支那通貨工作の概要と中国聯合準備銀行に就て」。

(注46)  (注5)の「興亜院功績概要書」。

(注47)  多田井[1983, 234-237]所収。

(注48)  「毛里英於菟関係文書」(125)所収。

(注49)  多田井[1983, 354-355]所収の1940年7月25日付青木一男「中支通貨方針案」。

(注50)  多田井[1983, 358]所収の1940年6月付「中央儲備銀行法草案」。

(注51)  (注49)の「中支通貨方針案」。

(注52)  多田井[1983, 259]所収。

(注53)  多田井[1983, 417]所収の1944年4月付吉川智慧丸「中央儲備銀行の横顔」。

(注54)  この時期の日本の対中「分治合作」政策については,樋口[2016]を参照。

(注55)  憲政資料室蔵「亀井貫一郎関係文書」所収の亀井貫一郎「支那文化について 他」(R3-188)。

(注56)  「毛里英於菟関係文書」(230)所収の毛里英於菟「徹底行録」1944年2月3日付日記。

(注57)  企画院研究会[1941, 41-44]。なお,この研究会の実態は不明であるが,古川[1992, 235]の推定では,本書の執筆には,毛里のほか,秋永月三(企画院第一部調査官・陸軍大佐),柏原兵太郎(鉄道省運輸局配車課長)らの革新官僚が参加し,本文中の引用箇所が含まれた第3章「新政治体制の構想」は,毛里が執筆を担当した。

(注58)  憲政資料室蔵「近衛文麿関係文書(複製版)」(R9)所収。

(注59)  「亀井貫一郎関係文書」(R3-172)所収の「東亜協同体の性格からくる組織と行動,東亜協同体の研究 三」に収録されている。

(注60)  同上(R3-174)所収。

(注61)  この「宣言案」は,字句が若干異なるものの,「毛里英於菟関係文書」(90)に「大日本帝国,満州帝国及中華民国の共同宣言案」との標題で収録されている。

(注62)  (注58)の「東亜協同体建設の具体的政策」。

(注63)  同上。

(注64)  (注59)の「事変ノ最終処理方式」。

(注65)  (注60)の「東亜協同体の基礎理論」。

(注66)  「毛里英於菟関係文書」(87)所収。同一文書が「近衛文麿関係文書」(R9)と外交史料館蔵「支那事変ニ際シ支那新政府樹立関係一件 支那中央政権樹立問題(臨時維新政府合流問題連合委員会関係,呉佩孚運動及反共,反蒋救国民衆運動)」第5巻にも収録されている。

(注67)  「支那事変ニ際シ支那新政府樹立関係一件」第5巻所収。同一の文書が外交史料館蔵「支那事変関係一件」第19巻にも残され,こちらには「興亜院,鈴木案」との欄外註記がある。鈴木は,興亜院政務部長・陸軍少将鈴木貞一と推定される。

(注68)  「徹底行録」1943年10月9日付日記。

(注69)  日本近代史料研究会[1970, 2-11]所収の1938年9月29日付近衛宛亀井書翰。

(注70)  「毛里英於菟関係文書」(223)中の毛里英於菟「戦ひの最中に在りて」。

(注71)  「徹底行録」1943年11月30日付日記。

(注72)  S13-密-54所収の1938年9月21日付北支那方面軍参謀長山下奉文発陸軍次官東條英機・参謀次長多田駿宛陸支密電第136号。

(注73)  S12-密-5所収の1937年8月15日付在青島陸軍特務機関発梅津・多田宛青機電第310号。

(注74)  S13-密-12所収の1938年3月17日付在青島陸軍特務機関発梅津・多田宛青機電第213号。

(注75)  S14-密-12-3/3所収の1938年3月31日付北支那方面軍参謀長岡部直三郎発梅津・多田宛方参二電第532号。

(注76)  S13-密-24-2/2所収の1938年8月15日付北支那方面軍特務部長喜多誠一発東條・多田宛甲方特電第877号。

(注77)  (注75)の電報。

(注78)  S14-密-24-2/2所収の1938年9月5日付喜多発東條・多田宛甲方特電第45号。

(注79)  S13-密-8所収の1938年1月19日,在青島陸軍特務機関発梅津・多田宛青機電第30号。

(注80)  防研蔵の柴田彌一郎「海軍中将柴田彌一郎回想録 1・2」。

(注81)  (注76)の電報。

(注82)  (注78)の電報。

(注83)  S13-密-73所収の1938年12月26日,東條発山下宛方参二電第391号返。

(注84)  外務省外交史料館蔵の1939年3月25日付「青島特別市ニ関スル覚書」。

(注85)  防研蔵の加治武雄「政務関係事項の思い出」。

(注86)  S13-密-12所収の1938年3月18日,梅津発岡部宛陸支密電第176号。

(注87)  (注85)の「政務関係事項の思い出」。

(注88)  同上。

(注89)  防研蔵の内田銀之助「中国戦争裁判」。

(注90)  防研蔵「支那事変戦争指導関係綴其二」所収の1942年11月1日「大東亜大臣ノ訓令」。

(注91)  外務省[2010, 1469-1470]所収の毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想1942年10月1日付外相谷正之発駐華大使重光葵・駐タイ大使坪上貞二宛合第1820号。

(注92)  (注85)の「政務関係事項の思い出」。

(注93)  ここでいう「匪賊」とは,「中国農村のアウトロー」として,「国家社会と拮抗する勢力」をさす。匪賊の多くは,「たんに一時的に飢えをしのごうとした者を除けば,土地を失った者,農村の日常に同調できない乱暴者,なんらかの前歴があって二度と『まっとうな』社会に戻れなくなった者たち」である。したがって,辛亥革命以降の混乱に伴い,中華民国時代に匪賊は激増したが,彼らが革命勢力となることはまれで,「自分たちが生き延びること,匪賊の第一の関心はここにあった」[ビリングズリー1994, 3-29]。

(注94)  青島市档案館(以下,「青档館」と略記)蔵の1938年11月28日付青島治安維持会警察部「関于治安粛清工作実施状況報告」。

(注95)  青档館蔵の1941年9月付青島特別市警察局特務科「滅共警察対策」。

(注96)  青档館蔵の1939年8月23日付柴田発趙宛興政発第363号。

(注97)  青档館蔵の1940年8月15日付青島特別市郷区行政籌備事務局「即墨区南方地区旧市内接壌区域粛清工作報告」。

(注98)  青档館蔵の1939年付青島特別市警察局「治安粛清工作実施日期及村落表」。

(注99)  青档館蔵の1941年10月「李村分局諜報区人員配置」所収。

(注100)  華北政務委員会(汪兆銘政権成立に伴って中華民国維新政府を改称)に直隷する華北剿共委員会が作成した1943年9月11日付「剿共工作三要綱」(青档館蔵「関于剿共工作三要綱等件的訓令」所収)では,「全華北の宣伝活動は県中心に行ない,それより下級の各郷鎮村に及ぼす。華北政務委員会情報局と新民会中央総会宣伝局が華北剿教委員会の計画に基づいて,宣伝を行なう」と定められ,県級以下の基層単位における宣伝・宣撫工作の実施には,新民会の職員が同行することになっていた。なお,新民会の詳細については,堀井[1993]を参照。

(注101)  (注97)の「即墨区南方地区旧市内接壌区域粛清工作報告」。

(注102)  青档館蔵「偽宣伝処有関安民工作報告」。

(注103)  (注95)の「滅共警察対策」。青档館蔵の1941年12月6日付青島市政府辦事処発党政工作大隊宛軍政第16号。

(注104)  姚は趙琪の死去に伴い,1943年3月22日に市長代理となり,やがて新市長に就任した(青档館蔵の1943年3月22日付華北政務委員会発青島特別市公署宛訓令華人字第1377号)。ただし,加治は,(注85)の史料のなかで,「汪精衛政権出現し大東亜戦争が激化したので趙祺(号瑞泉)は元独逸占領時代の通訳で名望はあったが消極的だったのでもっと積極的に市政を行えるものと更迭する必要を感じ(緒方)所長を動かし華北連絡部とも連絡し同意を得て当時社会局長であった姚作賓を市長に起用した」と回顧している。趙の死亡日時とその死因は,不明である。

(注105)  青档館蔵「准日本桐第四二七〇部隊関于各機関与日軍連絡実施計画綱要的訓令」。

(注106)  内田は(注89)の史料のなかで独立混成第5旅団長時代を回想し,「三年有余に亘る長い期間を通じて,団下各部隊斎しく少しの緩みもなく終始克く訓練に精進し,徹頭徹尾厳粛なる軍紀と将兵一体の鞏固なる団結を確保し,旅団長として或は贔屓目と云われるかも知れませんが治安,警備の成果に於きましても,軍内の他兵団と較べて断じて劣らなかった」と自負している。

(注107)  「毛里英於菟関係文書」(241-2)所収の「支那問題考察資料」。

(注108)  同上。

(注109)  日中戦争勃発以前の日中関係が主権国家同士の外交関係としては不十分だった点については,樋口[2016]を参照。

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  • 津田雅夫編 2018.『三木清研究資料集成 第4巻 論壇での軌跡——座談・対談(2)・講演——』クレス出版.
  • デュルケン 1942.『全体性と生物学』長広岸郎訳創元科学社.
  • 東亜問題調査会編 1941.『最新支那要人伝』朝日新聞社.
  • 戸塚順子 2005a.「海軍省の『大東亜共栄圏論』——『国家の生存』概念をめぐって——」『日本史の方法』(1) 81-97.
  • 戸塚順子 2005b.「『大東亜共栄圏』構想における領土概念について——国際法学者松下正壽の議論を題材として——」『人間文化研究科年報』(20)423-434.
  • 戸部良一 2015.「日中戦争の泥沼化と東亜新秩序声明」筒井清忠編『昭和史講義——最新研究で見る戦争への道——』筑摩書房.
  • 日本近代史料研究会編 1970.『亀井貫一郎氏談話速記録』日本近代史料研究会.
  • 秦郁彦 2002.『日本近現代人物履歴事典』東京大学 毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想出版会.
  • 波多野澄雄 1996.『太平洋戦争とアジア外交』東京大学出版会.
  • 樋口秀実 2002. 『日本海軍から見た日中関係史研究』芙蓉書房出版.
  • 樋口秀実 2016.「日本陸軍の中国認識の変遷と『分治合作主義』」『アジア経済』57(1) 63-91.
  • 平井廣一 1999.「『満州国』特別会計予算の一考察——1932~1941——」『經濟學研究』48 (3)286-305.
  • ビリングズリー,フィル 1994.『匪賊——近代中国の辺境と中央——』山田潤訳 筑摩書房.
  • 広中一成 2011.「冀東政権の財政と阿片専売制度」『現代中国研究』(28) 71-91.
  • 古川隆久 1992.『昭和戦中期の総合国策機関』吉川弘文館.
  • ヘーゲル 2018.『世界史の哲学講義(上)——ベルリン1822/23年——』伊坂青司訳 講談社.
  • 防衛庁防衛研修所戦史室編 1974.『戦史叢書 中国方面海軍作戦〈1〉』朝雲新聞社.
  • 防衛庁防衛研修所戦史室編 1975.『戦史叢書 支那事変陸軍作戦〈1〉』朝雲新聞社.
  • 堀井弘一郎 1993.「新民会と華北占領政策」(上)(中)(下)『中国研究月報』47(1)(2)(3) 1-19, 1-13, 1-5.
  • マルクス,カール 1974.『ユダヤ人問題によせてヘーゲル法哲学批判序説』城塚登訳 岩波書店.
  • 満洲国史編纂刊行会編 1971a.『満洲国史 総論』満蒙同胞援護会.
  • 満洲国史編纂刊行会編 1971b.『満洲国史 各論』満蒙同胞援護会.
  • 満洲帝国政府編 1969.『満洲建国十年史』原書房.
  • 三木清 1938.「東亜思想の根拠」『改造』20(12) 8-20.
  • 三木清 1968a.「日支思想問題」『三木清全集』15 岩波書店 28-35.
  • 三木清 1968b.「新日本の思想原理」『三木清全集』17 岩波書店 507-533.
  • 御厨貴 1979.「国策統合機関設置問題の史的展開——企画院創設にいたる政治力学——」近代日本研究会編『昭和期の軍部』年報 近代日本研究1 山川出版社.
  • 南満洲鉄道株式会社北支事務局調査部編 1939.『青島近郊に於ける農村実態調査報告——青島特別市李村区西韓哥荘——』北支調査資料 第7輯.
  • 毛里英於菟 1939.「支那事変と東亜経済の建設」『文明協会ニューズ』(156) 10-28.
  • 山口浩志 1989-1990.「東亜新秩序論の諸相——東亜協同体論を中心に——」(Ⅰ)(Ⅱ) 『明治大学大学院紀要 政治経済学篇』26-27, 119-137, 181-194.
  • 米谷匡史 1997.「戦時期日本の社会思想——現代化と戦時変革——」『思想』(882) 69-120.
  • 蠟山政道 1938.「東亜協同体の理論」『改造』20(11)6-27.
  • 鹿錫俊 2013.「東亜新秩序をめぐる日中関係——日中戦争から太平洋戦争への拡大過程——」井上寿一編『日本の外交 第一巻 戦前編』岩波書店.
  • 青島特別市編 1940.『東莱趙琪略歴』.
  • 青島特別市公署編 1940.『一年大事記——青島特別市公署成立一週年紀念——』青島特別市公署.
  • 青島治安維持会編 1939.『青島治安維持会行政紀要彙編』.
  • 山東省嶗山県志編纂委員会編 1990.『嶗山県志』青島出版社.
  • 義昌 1993.「抗戦時期的嶗山風雲」中華人民共和国政治協商会議青島市北区委員会文史資料研究委員会編『市北文史』(2) 12-22.
 
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