Ajia Keizai
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Book Reviews
Book Review: Masahiro Kurita, Nuclear Risk and Regional Conflict: Crises and Stability in the India-Pakistan Conflict (in Japanese)
Jin Hamamura
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2020 Volume 61 Issue 2 Pages 62-65

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Ⅰ 本書の概要(注1)

本書は,核保有国間の地域紛争の先駆事例とみられてきた印パ紛争の核戦争リスクについて,従来の定説を批判した本格的な戦略研究である。一般的にも印パ紛争の核戦争リスクは懸念されることが多い。その理論的な裏付けが,「安定・不安定のパラドックス」(以下「パラドックス」)と「エスカレーション支配への競争」(以下「競争」)という冷戦期の核戦略論に起源をもつ概念である。先行研究では両概念が印パ紛争におおむね該当するとされ,そのため核戦争のリスクが高いとする理解がほぼ定説である。これに対して著者は,両概念が印パ紛争の現実を説明せず,核戦争リスクは従来考えられていたよりも低いと主張する。

まず「パラドックス」とは,米ソいずれが先に核攻撃に訴えても壊滅的な核報復を招くために相手に先行して核攻撃する誘因がない戦略的安定の状態で,在欧通常兵力で優位にある東側陣営は核戦争に発展するリスクを恐れず通常戦争を行えるというスナイダー(Glenn H. Snyder)等の議論である。印パ紛争でも同じ現象が起きているという議論が行われたが,その後スナイダーとやや異なるカプール(S. PaulKapur)の議論が現実に符合するという見方が主流化した。それによれば,核戦争に発展しかねない通常戦争をインドは避けるだろうという期待から,通常兵力で劣位にあるパキスタンが,核保有によって通常戦争に発展するリスクを恐れずに低強度紛争に訴えやすくなる。印パ紛争の先行研究では,カプールの議論が「パラドックス」の意味として定着したという。

これに対して著者は,印パ紛争の低強度紛争の現実を再検討し,カプール版パラドックスの説明に疑問を呈する(第3章)。それによれば,パキスタンの反印テロ支援は核保有で促進されたのではなく,核保有以前からの継続性やテロ支援に固有の内在的要因で説明する方が説得的である。同様に1999年のカルギル紛争も,核保有以前から印パ双方が行ってきたカシミールの実効支配ライン付近での局地的侵攻の延長とするのが自然である。

つぎに「競争」は,西側がスナイダー版パラドックスを解決するために,全面核戦争未満のあらゆるレベルで限定核戦争を遂行・勝利することが可能な「エスカレーション支配」を追求し,ソ連も対抗するという冷戦期の議論を基にしている。印パ紛争でも,インドがカプール版パラドックスを解決するために限定通常戦争ドクトリン「コールド・スタート」(以下「CS」)を導入する姿勢をみせ,これによる核抑止の信憑性低下を恐れたパキスタンは限定核戦争遂行を可能にする戦術核兵器導入で対抗するなど,「競争」が現実化しつつあると先行研究は主張する。このように限定通常戦争や限定核戦争を遂行する態勢が整えられることは,抑止が破綻した場合に戦争が行われる可能性を高め,エスカレーション限定に失敗して全面核戦争まで繋がるリスクも高まるとされる。

これに対して著者は印パの戦略態勢を再検討し,「競争」は起きていないと反論する(第4・5章)。まずパキスタンの限定核戦争遂行意思の表れとされる戦術核兵器は,むしろ核戦争の限定不可能性を前提として,全面核戦争に発展するリスクを印象づける「警告射撃」の役割を果たす。インドにも大量報復原則見直し論等が一部にあるとはいえ,核戦争の限定不可能性の前提に基づき,大量報復原則を堅持する立場が支配的である。また「競争」の起点となるとされたCSは結局実現せず,現実に採用された「積極戦略」は核保有以前の路線を継承する大規模通常戦争ドクトリンである。この背景には,いずれにせよ限定通常戦争でも完全には核戦争リスクから逃れられない一方,パキスタンの核威嚇は基本的にブラフであり,通常戦争としての軍事的合理性に欠ける限定通常戦争より大規模通常戦争が好ましいという発想があったと著者は推測する。

以上から,印パ紛争の核戦争リスクは先行研究の予測より小さい。そして,それは印パ紛争の特殊要因のためではなく,むしろ冷戦期の核戦略論の方が特殊な戦略条件を前提しているため,「冷戦モデル」は他の核保有国の地域紛争を考えるうえでも妥当でない可能性があるとされる。

Ⅱ 本書の意義

本書のテーマを正面から論じるには,南アジア地域への造詣や印パ紛争の戦略研究の通暁だけでなく,冷戦期の核戦略論やテロリズム研究の知見も必要とされよう。本書はこれらを踏まえたうえで,先行研究の通説を正面から批判する野心的な研究である。評者も本書から多くのことを学んだ。

また,本書は南アジアの戦略状況に強い関心をもたない読者にも示唆的である。たとえば,著者は核戦争の限定不可能性という発想が印パ両国で合致していることを記述し,その理由として冷戦期の欧州と南アジアの地政学的条件の違いを指摘する議論に言及する。それによれば,印パが地理的に近接するのに対して,核戦争の限定可能性を前提とした戦略論が展開された冷戦期には,米ソ本土と地理的に区別された「戦場」として欧州同盟国の領土が存在するという特殊条件があったために,戦術核兵器と戦略核兵器の区別が自然に受け入れられた(230~232ページ)。核拡散の帰結を悲観する「核拡散悲観論」のなかで,印パのような新興核保有国間の地理的近接性は冷戦期にはなかった不安定要因であるという議論もあったことを踏まえれば,むしろ安定要因であるという上記の指摘は一層興味深い。

さらに,本書は「西洋」の理論を他の文脈に安直に適用する傾向への警鐘とも読むことができ,「グローバル国際関係論」などが提起する論点とも関わる可能性があるかもしれない。

とはいえ,本書にも気になった点がある。評者には南アジアの「土地勘」がないので,的外れな指摘もあるかもしれないが,以下蛮勇を振るって述べてみたい。

Ⅲ エスカレーション支配への競争

1. コールド・スタートの復活

著者はインドが核保有以前からの大規模通常戦争ドクトリンを維持していると主張するが,これに反して2017年1月にインド陸軍参謀長のラワト(Bipin Rawat)がCSの存在を認めたことにも触れている(196ページ)。これは直近の出来事であり発言が曖昧だったこともあって,この発言を限定通常戦争ドクトリンの復活と解釈することに本書は懐疑的であるが,本書出版の2018年10月に開かれた陸軍司令官会議において,CSで構想された統合戦闘群の創設が実際に決定された。最近では,2019年10月までにパキスタン国境付近に最初の統合戦闘群が設置されるとの報道がある。これらを踏まえると,インド軍は長い反芻期間を経て結局限定通常戦争の発想を受け入れたとみられ,本書の分析は修正を迫られている。同時代を扱う研究の宿命とはいえ,現実の新展開によって梯子を外される可能性のある研究の難しさを改めて印象づけられた。

2. 研究者と研究対象の関係

もちろん,CSが現実化したとはいえ,核戦争の限定不可能性という発想で一致する印パで限定核戦争遂行に備える動きは出ていないため,「競争」は起きていないという本書の主張は健在かもしれない。しかし,この議論について気になるのは,研究者と研究対象の関係をどう考えるのかである。本書の研究テーマは現在進行形であるだけでなく,研究者自身が研究対象の現実に影響を与える可能性を無視できない分野である。このことは,政府の動向だけでなく,研究者を含む「戦略コミュニティ」も本書の研究対象であるという点からもわかる。もちろん研究者と研究対象の関係は社会科学全般につきまとう問題であるが,核戦略論は現実の核戦争による「検証」を経ないまま抽象的論理の次元で展開されるという(世界にとっては幸福な)制約下にあるために,研究者と研究対象の緊張関係が相対的に弛緩する傾向があり,この問題を考える重要性がとくに大きいように思われる。

再度確認すると,本書は先行研究の定説の経験的妥当性を批判している。しかし研究者と研究対象が密接な関係にあれば,先行研究の定説がそれに沿って現実を作り変える可能性も無視できないのではないか。事実,著者はカプール版パラドックスが現実には起きていないと主張しつつも,パラドックスが起きているという見方が定説化することでCSの登場が促されたことを否定しない(32,172ページ)。とすれば,「競争」が起きているという先行研究の定説が自己成就予言として現実に影響する可能性も論理的には排除できないように思われる。

たとえば,パキスタンがCSに対抗するため導入した戦術核兵器は(先行研究の解釈と異なり)あくまで戦略核攻撃の呼び水の役割を与えられていると著者は主張するが,その「事実」はどこまでインド側に伝わっているのか。少なくとも先行研究で著者の解釈は一般的でないのだから,インドの戦略コミュニティに十分伝わっているとはいえないだろう。確かにインドは,核戦争が限定可能であるという幻想をパキスタンは抱くべきではないと警告しており,パキスタンの戦術核兵器導入にもかかわらず大量報復原則は維持すべきという立場をとっている(138~139ページ)。しかし,核戦争の限定不可能性の認識が印パで一致しているという著者が発見した「事実」が当事者たちには共有されていないなら,つまり核戦争の限定不可能性が印パそれぞれの主観的信念に留まり両国間の間主観的了解ではないなら,その信念は相対的に脆い基盤に立っている。その場合,パキスタンが核戦争の限定可能性を信じていると誤認しているインドは,自らの大量報復の威嚇がパキスタンに対して信憑性をもつのかどうか疑念に苛まれよう。実際にはインドの戦略コミュニティで大量報復原則見直し論が少数派意見に留まっており,その少数派意見のなかでも限定核戦争遂行が可能であるという発想が奇妙なことにあまりみられないという著者の観察が妥当だとしても,上記の問題が残る限り,限定核戦争遂行の構想が今後出てくる可能性はあるように思われる(もちろん,地理的近接性その他の要因がそれを制約することは認めたうえでの話である)。

Ⅳ 核戦争のリスク

著者は,「パラドックス」と「競争」が印パ紛争で起きていないと主張することで,それらの存在を主張する先行研究が考えるよりも核戦争のリスクは小さいと結論する。前節の疑問点を除けば,この主張自体は納得がいく。しかし先行研究批判の意義を超えて,この主張がどれだけ現実に意義深いものかを考える際には,慎重な議論が必要になろう。印パ紛争における核戦争のリスクを考えるうえでは,本書の先行研究が注目するリスクだけを考慮すればよいわけではないからである。

1. 一枚岩的主体の仮定

たとえば,本書は一枚岩的主体の仮定の是非を論じていない。無論この仮定は無限に複雑な現実を人間の頭で理解可能にするうえで不可避な単純化の一種であり,それ自体として正誤を云々すべきものではない。しかし核戦争のリスクを評価する目的に照らすと,この仮定を置くことで看過される重大なリスクがあるなら問題だろう。国家の一枚岩性の仮定を取り払うことで核保有国同士の紛争のリスク評価は跳ね上がることを長年主張してきた代表的論者は,核拡散悲観論者として本書にも登場するセーガン(Scott D. Sagan)だが(23~24ページ),核拡散楽観論・悲観論の対立を乗り越える議論として広まったパラドックス論も,それを批判する本書も,彼の問題意識は継承していないのである。

セーガンの問題関心は国家を一枚岩とみることでさまざまなリスクが隠蔽されることだったが,武装勢力の暴力が危機の起点となりうる印パ紛争では,一枚岩性の仮定の問題性がさらに大きいという見解もある[Perkovich 2012]。パラドックス論や本書において,武装勢力は基本的に代理戦争の駒であり,インドに対する強制外交(威嚇によって好ましい結果を実現しようとすること)の手段としてパキスタンが操作・調整できるものとされている。しかし,たとえラシュカレ・タイバやジェイシュ・モハメドといった有力な反印テロ組織が「基本的にパキスタン軍・ISIに忠実な組織であると見られて」(75ページ)いるとしても,それはあくまでそうみられているという話であり,どの程度統制されているのかはっきりとはわからないだろう。実際に本書では,パキスタンが支援するインド国内の反乱・分離運動が自発的起源を有し,パキスタン政府・軍が公式には直接の支援の事実を否定する「もっともらしい否認」の立場をとるため,インドがテロなどの報復でパキスタンを叩くことがどれだけ状況を改善するのか不透明であるという記述もある。この記述はインドの報復を抑制する効果をもつという議論に接続されるだけであるが(64ページ),このようにパキスタンがどこまで背後にいるのか不透明なことは,意図の正確な伝達を阻害して逆にエスカレーションを促進する可能性もあるはずだ。

2. 強制外交の争点・現状

上記の問題を考えるうえでは,そもそも米ソ冷戦の文脈でも,強制外交の争点や現状などをめぐる理解が米ソで違ったために,どちらも自らは現状維持側であり相手が現状変更側であると考えることが多く,それが深刻な国際危機が起こる背景にあったという指摘が想起される[Lebow 1998]。主流派の戦略論ではこれらの点に共通理解があることが自明視されたために,ソ連の現状変更行動をアメリカがどう抑止するかが議論の出発点となり得たのである。この指摘と前項の論点を接続すると,武装勢力の暴力が危機の発火点となる印パ紛争では,パキスタンの代理戦争への対応という認識でインドが起こす軍事行動が,パキスタン側にとってはテロ事件を口実にしてインドが不当に現状変更を図っていると映り,現状を脅かしているのは相手なのだから,断固たる反撃を威嚇すれば最後には譲歩するだろうという期待を双方が抱いたまま衝突に至る可能性も考えられるのではないか。

翻って本書やその先行研究においては,強制外交の争点・現状が自明の前提とされているように思われる。確かに印パ紛争では,パキスタンがカシミール地方の実効支配をインドに放棄させるために低強度紛争を遂行してきた事実があるので,この前提が冷戦期以上に自明なものと考えられやすいのかもしれない。しかしパキスタン側の認識としてその前提はどこまで自明なのか。これについて評者には判断するだけの知識が乏しいが,本書でも触れられているように,少なくとも第三次印パ戦争ではインドがパキスタンを国家分断に追い込むという極端な現状変更行動に出たし,ブラスタックス危機ではインドの奇襲攻撃をパキスタンが恐れたのだから,インドの現状変更行動を抑止する立場にあるという自己認識をパキスタンが抱いていても不思議ではないように思われる。加えて,パキスタンの核保有もそのような認識に基づいていたのではないか。

実は本書にも核保有の動機に関してそのように読み取れる箇所はある(114ページ)。そもそもカプール版パラドックスを批判する本書の立場からして,パキスタンが自国の現状変更行動を容易にする目的で核武装したとは解釈しにくい。しかしそのような著者の理解をうかがわせる記述は,パキスタンの現状変更行動から始まる核危機のリスク評価という本書の枠組みのなかでは,埋没している感がある。

Ⅴ おわりに

以上疑問点を挙げてきたが,無論これらは本書の学術的価値を損なうものではない。印パ紛争に関して本書のように重厚な戦略研究が日本語で著されたのは誠に嘉すべきことであり,これに触発されて活発な議論が交わされることは間違いない。

(注1)  本書は①核戦争と②通常戦争と③低強度紛争(テロ支援や小競り合い等)を区別する。そして,核戦争は④全面核戦争と⑤限定核戦争に,通常戦争は⑥大規模通常戦争と⑦限定通常戦争に分かれる。⑤を遂行するドクトリンの採用は①の発生リスクを高め,⑦を遂行するドクトリンの採用は②の発生リスクを高めるというのが,本書の議論の前提である。なお,そもそもこの前提自体を受け入れない類の戦略論の伝統もある。

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