Ajia Keizai
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
Book Reviews
Book Review: Yuko Tobinai, Returning to Future: Migration and Home of Kuku in the Two Sudans after the Civil Wars (in Japanese)
Tadayuki Kubo
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2020 Volume 61 Issue 2 Pages 78-81

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Ⅰ 「未来に帰る」とは

本書はスーダンと南スーダン,ウガンダにまたがるクク人(Kuku)にとっての「帰還」と「故郷」の意味をフィールド調査にもとづいて考察するものである。クク人とは,南スーダンの旧中央エクアトリア州カジョケジ郡を故地とする民族集団を指す。クク人は,内戦やその後の帰還事業などをとおして移動を繰り返してきた。本書は移動民としてのクク人の民族誌である。

まずは本書のタイトル「未来に帰る」が何を意味するのかを述べておく必要があろう。しかし「未来に帰る」が何を指すのかは,本書で明確に説明されていない。そこで,著者の問題意識に沿ってこのタイトルが意図するところを考察する。

著者は移動民にとっての故郷の意味を考察するにあたり,帰還すべき故郷を所与のものとはしない。著者は人が移動し定住していくプロセス,故地と移動先をつなぐネットワークと日々の生活をとおして場所の意味は変容し,帰るべき故郷が想像/創造されるという立場にたつ。移動か定住かという二分法をしりぞけ,移動とともに場所の意味が構築され更新されていく点に着目している。本書では多くのエピソードが紹介されているが「未来に帰る」という表現は最後の事例で提示されている。そこで示されるのは,彼らが帰るべき場所をみつけるのはまだ先で,彼らにとって帰るべき場所はいまここには存在しない。しかしそれは創られつつあるということである。移動民にとっての「帰還」と「故郷」について考察する本書が示す「未来に帰る」とは,「これから創られる故郷に帰る」,「これから移動する先が故郷となりそこに彼らは帰って行くだろう」という意味だと考えられる。

本書では移動をとおして場所が構築されていく点に着目して,移動し続けるクク人の故郷構築のプロセスを描いている。

Ⅱ 本書の概要

序章「移動・帰郷・場所をめぐる考察」では,上記の問題意識に至る先行研究が整理され,南スーダン人の移動・避難・帰郷の概要が提示されている。本書の特色は,クク人の移動にともない調査者自身も移動するというスタイルがとられている点にある。イギリスでの文献調査に加えて,著者はスーダンのハルツーム,南スーダンのジュバとカジョケジ,クク人の避難先であるウガンダのアジョマニで調査を行っている。

第1部「故郷になる場所,なり得ない場所」は,次の3章で構成されている。第1章「カジョケジが故郷になるまで」では,クク人の特色として,ヌエルやディンカとは異なり政治的な活動に関わらないこと,キリスト教徒が7割を占めている点が挙げられている。各地へ移動したクク人の拠点として,教会は重要な役割を担った。クク人にとってカジョケジは故郷として認識されるが,その認識は宗主国イギリスの介入,内戦にともなう移動によってカジョケジ以外の場所と出会うことで創られたのである。

第2章「ハルツームのクク人――移住の過程とその生活――」では,南スーダンのカジョケジからスーダンのハルツームに移動したクク人にとってのハルツームについて論じている。ハルツームに移住した人々は,必ずしも戦闘による避難者と自らを認識しているのではなく,歴史的にあった人の往来のなかで移動してきたことが示されている。アラブ人やムスリムが多数を占めるハルツームで,南部出身でキリスト教徒であるクク人はマイノリティである。クク人にとって教会はネットワークを強化し「クク」の繋がりをつくる場となっている。

第3章「故郷とのつながりの形成と変化――帰還をめぐって――」では,クク人の揺れ動く故郷観について論じられている。クク語で故郷とはジュルというがこれは村,国,民族を指す多義的な単語で,他者と対峙する文脈で意味合いが変化する。ただしクク人にとってカジョケジという地名は故郷を指し,クク人であることとカジョケジという土地は不可分のものだとも認識されている。2010年に国連などが連携して行う帰還プロジェクトがはじまったが,帰還者はこれに頼って帰還したわけではなく,個々の事情に応じて対応した。またハルツーム育ちの者にとってカジョケジへの帰還は,父母の出身地への帰省の感覚に近い。このように故郷への帰還をめぐる多様な認識を本章では提示している。

第2部「創られる帰郷と場所」は次の4章で構成されている。第4章「ジュバのクク人――差異と都市を生きる人びと――」では,南スーダンのジュバに帰還した人々の生活再建について論じている。ハルツームで暮らしてきた人にとって,ジュバは物価が高く不便な場所であった。ハルツームからの帰還者は日常生活の場面で,使用言語をはじめ味付けの好みや紅茶のいれ方といったさまざまな差異に直面する。ジュバに住むと,地理的な近さから故郷のカジョケジの人と接する機会が増える。しかしこれまでの都市部での生活を経て,カジョケジの人々の田舎くささや野暮ったさを感じるようになり,故郷カジョケジとの乖離をみいだすようにもなった。同時にハルツームに対しては,未来へと繋がる経由地として肯定的にとらえるようにもなる。このようにジュバへの移動をとおしてカジョケジとハルツームに新たな意味が付与されている。

第5章「カジョケジのクク人――故郷とは何か――」では,まずウガンダで亡くなったクク人にとってカジョケジが死後帰るべき場所として認識されていることが示される。他方ハルツームからの帰還民のなかには,カジョケジは故郷であるにもかかわらず異邦人として馴染めない感覚をもつ者もいる。こうした人々は,日曜に積極的に礼拝に行くなどカジョケジでの「良い振る舞い」をすることで適応しようとする。またキリスト教と融合した名付け儀礼の「ククの文化」は,故郷に新たな意味を付与していると論じている。

第6章「ハルツームを生きる人びと」では,ハルツームに留まり帰還しなかった者を対象とするが,ここで扱われているのはクク人ではなく同じ南部出身のヌバ人である。というのもクク人の帰還によって調査地の状況が著者をして「本当の意味でフィールドを失った」(296ページ)といわしめるほど激変したからである。そして残った者(ヌバ人)にとってハルツームが故郷になったかといえばそうではない。居住期間が長くアラビア語を流暢に話そうとも,彼らは異邦人のままである。そうした苦難のなかでキリスト教を信仰することが救いになると論じている。

終章「未来に帰る――移住が帰郷になるとき――」では,結論として次の点が提示される。第1に,ジュバに移り住んだクク人はそこを帰るべき場所,故郷とみなすようになってきたのに対し,アラブ・ムスリムに受け入れられなかったハルツームはクク人の故郷にはならなかった。第2に,クク人に移動か定住かの二分法をあてはめることはできず,彼らは移動しながら生きている点である。彼らにとって「住む」とは移動のなかにある。第3に,ある場所が故郷となるかどうかは移住歴,生活,故郷観によって相対的に(あるいは主観的に)決定される点である。第4に,人々は「帰るべき場所」を創りだしそこへ向かっていくこと,つまり「未来へ帰る」点である。

Ⅲ 本書への問い

以上のとおり本書の概要を述べてきたが,上記のようなまとめでよいのか心許ない部分もある。というのも,本書ではエピソードがかなり多く記載されているが,事例をとおして何を論じようとしているのか明確ではない部分もあるからである。著者のフィールドノートを読んでいるかのように思える部分や,著者の発言も含む会話形式で事例が提示されている部分も多い。問いに対してエピソードで答える,誰々はこう発言しているのでこうだ,というかたちで「論証」されており,事例の提示の仕方には再考の余地がある。著者の主張を評者のフィールドに引きつけて理解すれば次のようにまとめることができよう。

本書では,クク人がハルツームやカジョケジに対してもつアンビバレントな認識について論じられている。これは評者が調査するカレンニー難民がもつ難民キャンプと故郷(ミャンマー・カヤー州)への認識と類似している。カレンニー難民は,タイの難民キャンプ生活に希望をみいだせずアメリカなどの第三国へ再定住した。しかし第三国での苦労をとおして,難民キャンプを故地として懐かしむ態度もみられるようになった。だからといってキャンプに戻るわけではないが,第三国への移動を経て難民キャンプという場所の意味が変化したのである。またキャンプ生まれの世代にとって,ミャンマーは両親の故郷であり自身のそれではない。彼らが生まれ育った場所としての「故郷」は難民キャンプだが,そうした認識は第三国へ移動することではじめて可能になる。移動することによって場所の意味が変容するのである。

さて本書を読み進めるなかでフィールドノートのごとく記述していくスタイルに違和感をもっていたが,読了後,これには次のような理由もあるのではと考えるようになった。上記の第6章の要約で述べたように,著者がこれまで調査してきたフィールドは,クク人の帰還とともになくなってしまった。著者が過剰とも思えるほど詳細に記述するのはフィールドを失った感傷からだけではなく,記録として残しておく必要性を感じたからかもしれない。肯定的に評価すればこうした記述は記録としての価値があり,後進の研究者にとって有益かもしれない。著者がフィールドワークの途中で退避せざるを得なかったように,研究者が入りにくいフィールドだからなおさらである。また難民研究の視点からみると,人がいかに難民,避難民となるかはそれぞれの個別具体的な理由によるものなので,個々人のその都度の状況を細やかにみていくことは余分なことというよりも必須の作業である。

エピソードの行間からは著者がフィールドで出会った人々に誠実に向き合おうとする姿がみてとれる。著者と評者は同世代だが,評者が大学院生の頃はライティング・カルチャー・ショックについて日本語で書かれた論文を読む機会が多かった。著者の発言が頻繁に登場するのは,当時,さまざまに批判された民族誌家の権威に対する著者なりの対応なのだろうか。すなわち,フィールドでの出来事の解釈を民族誌家が独占しないために,自身の発話を掲載し著者が理解を得た文脈を明示している。著者の問いかけと彼らの応答をそのまま掲載することで記述を多声的なものとし,出来事に対する別の解釈の余地も残すことを試みたのかもしれない。

以上は評者の推察に過ぎないが,本書の「未来に帰る」という主題を中心に考えた場合,次の点を再考する必要がある。「未来に帰る」,つまり彼らが帰るべき故郷はこれから先の移動によって構築され,そうした移動によって新たな居場所が創られるのである。このように彼らの移動と場所の創造を肯定的に評価するのであれば,「フィールドを失った」という著者の所感を書くべきではない。そのような感傷は調査者の自己本位のものに過ぎないからである。移動か定住かの二分法ではないと述べつつも,そうした二分法にもっともとらわれているのは著者ではないのか。またクク人が移動のなかで生きていることを提示するのであれば,「帰る」という帰結(ゴール)を設定することは適切だろうか。これらは,このようなフィールドを研究する著者ですら定住化のバイアスから逃れることが難しいことを示しているのかもしれない。

また序章でいくつかの分析の枠組みが提示されているが,これらの枠組みをもとにした理論的な考察が必要である。本書で議論されている移動と場所の関係性は,ガッサン・ハージが論じる存在論的移動[ハージ 2007]と共鳴する部分が多くある。ハージ[2007]は本書の参考文献(参照文献ではない)として提示されているが,本文では言及されていない。

存在論的移動の議論では,「うまくいってない」,「どこにも行き場がない」,「ゆっくりしか進まない」,「はまっちゃった」という存在論的自己によって物理的な移動が生じると説明される。移住という物理的現象は,人々が存在論的な感覚に危機を経験したときに生じる[ハージ 2007, 40-42]。さらにハージは,「(前略)可能性という概念が,現在や過去よりもはるかに『未来』という概念を連想させる(中略)移住と結びついた可能性についての言説のなかでもっとも普及しているものは,未来というテーマの周辺で構築される」[ハージ 2007, 43]と論じており,図らずも本書の主題である「未来」にも言及している。

このように本書の事例は,存在論的移動と物理的移動の関係として整理することができるはずである。この点を考察することは,本書のタイトルの「未来」の意味を理論的に提示するための枠組みになるのではないだろうか。本書の第4章には「彼らは過去をあまり語らない。逆に未来を語る(中略)それ[過去]を(中略)踏み出しにして未来へと目を向けようと」(225ページ,角括弧内は著者補足)という記述があるように,ここでの「未来」はハージがいうような可能性としての未来として分析できると考えられる。

同様に十分に消化されていないのが,序章で紹介されているオックスフェルドとロングの3つの帰還概念である。彼女たちは想像上の帰還(imagined return),一時的な帰還(provisional return),本国帰還(repatriated return)の3つの帰還に分ける視点を提示している[Oxfeld and Long 2004, 7-13]。ここでは3つを詳述しないが,ここで鍵となるのは,物理的な移動をともなわない想像上の帰還である。想像上の帰還は,ときにその後の物理的な帰還を左右するものとされている。この点で存在論的移動と重なるが,本書の事例で想像上の帰還としてしか分析できない事例がある。それが死者の葬り方についてである。本書では,ハルツームでもジュバでもウガンダでも,死者を「故郷カジョケジ」に葬る,死者を「カジョケジに帰す」(158~159ページ)という考え方が紹介されている。このような死者の帰還は物理的な移動に先立つ存在論的移動ではとらえきれず,想像上の帰還として整理することができるのではないだろうか。

評者が評価したいのは,著者が非常に難しい調査を遂行した点である。存在論的移動(人を移動に駆り立てる自己認識)とはいうものの,これをただひとつの場所にとどまる調査で明らかにすることはできない。人の移動の経路は,インタビューにもとづいて過去遡及的に部分的に明らかにすることはできる。しかし過去遡及的なインタビューでは,その時の移動の過程でどの選択肢があり,なぜその選択をしたのかを知ることはできない。だからこそ著者が実践したように実際に移動した人を追いかけ,その時にその場所がどのような意味をもっているのかを確認する必要がある。

ハージは「社会的現実の複雑性をエスノグラフィ的分析以上によりよく把握できるものはない」[ハージ 2007, 47]と述べている。加えて著者に期待したいのは,民族誌的記述をもとに先行研究で提示された概念をブラッシュアップすることである。そのための原石は本書のなかにまだ埋もれているように思われる。

文献リスト
  • ハージ,ガッサン 2007. 「存在論的移動のエスノグラフィ——想像でもなく複数調査地的でもないディアスポラ研究について——」 伊豫谷登士翁編 『移動から場所を問う——現代移民研究の課題——』 有信堂高文社.
  • Oxfeld, Ellen and Lynellyn D. Long 2004. “Introduction: An Ethnography of Return.” In Coming Home?: Refugees, Migrants, and Those Who Stayed Behind. eds. Lynellyn D. Long and Ellen Oxfeld. Philadelphia: University of Pennsylvania Press.
 
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