2020 年 61 巻 3 号 p. 127-128
アジア諸国は直接投資を媒介にした「事実上の経済統合」を深めながら経済成長を実現してきた。その過程で構築された国際的生産ネットワークは「制度上の経済統合」を誘発し,21世紀に入るとアジア域内での二国間・多国間FTAが活発に形成されていった。しかし,2017年1月に成立したトランプ政権が「順調な経済統合の流れを一変させ混乱をもたらした」(iページ)。本書は,そのような認識のもと,揺らぐアジアの国際秩序(第Ⅰ部),多層化するアジアの経済統合(第Ⅱ部),変容するアジアの経済相互依存(第Ⅲ部)に関する14編の論文を取りまとめたものである。
第Ⅰ部,第1章(馬田啓一)は,TPP(環太平洋経済連携),RCEP(東アジア地域包括的経済連携),FTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)の関係性を整理し,米国のTPP離脱,その後の米中貿易摩擦がアジアの通商秩序に及ぼしている影響,とくにデカップリングによるサプライ・チェーン分断のリスクなどに警鐘を鳴らす。第2章(真家陽一)は「中国製造 2025」のもとで産業高度化を目指す中国との覇権争いが米中貿易戦争の核心にあると論じる。第3章(高橋俊樹)は,トランプ政権が推進する保護主義的通商政策が,アウトソーシングのコストを高めることで米国企業の競争力に悪影響を及ぼしかねないと指摘する。第4章(高安雄一)は,米韓FTAの再交渉の経緯を概説し,韓国がより多くの譲歩を迫られた点を強調する。第5章(清水一史)は域内での経済共同体,および周辺国とのFTAネットワークの構築を進めるASEANに焦点を当て,東アジアの通商秩序の再構築におけるASEANの役割を論じている。第6章(中島朋義)は,米中摩擦の争点となっている競争政策,知的財産権保護,国有企業政策などに関するTPPの規定を解説し,多国間でのルール作りの必要性を説く。
第Ⅱ部,第7章(助川成也)は,難航しているRCEP交渉の経緯を整理するとともに,日系企業にとっての意義を強調する。第8章(石川幸一)は,2015年末に設立されたAEC(ASEAN経済共同体)が2025年に向けてどのような変貌をとげているのか,その内容と現状を解説している。第9章(菅原淳一)は,米国のTPP離脱後に再構築されたCPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)の意義,概要および今後の展望を示している。第10章(大西康雄)は,中国が推進する一帯一路構想の実像とそのアジア諸国への影響,さらに日中間協力の可能性を論じている。
第Ⅲ部,第11章(椎野幸平)は,インドの通商政策を詳説したうえで「インドがアジアの広域経済圏形成に残れるか,RCEP交渉は大きな試金石となる」(169ページ)と結んだが,本書の出版と同時期,2019年11月に開催されたRCEP首脳会議での交渉は不調に終わり,最終的にインドはRCEPから離脱することになった。その要因と意義を理解し,今後を展望するために必読の論考である。第12章(春日尚雄)は,メコン地域における経済回廊開発,およびミャンマーの道路インフラ整備の現状と課題を解説している。第13章(百本和弘)は,韓国に焦点を当てて対日,対中関係を分析し,前者が相互補完的,後者は競争的であることを示す。第14章(大木博已)は日中韓台の貿易分業構造を分析し,とくに日中韓の間の緊密性が増すなかで,日韓両国の中国への依存が強まっていることを明らかにし,是正の必要性を説く。
アジア諸国が恩恵を受けてきた自由貿易体制が国際公共財たりえたのは,それが効率的な資源配分をもたらし全体の経済厚生を最大化するという経済学の命題が広く共有されていたからであろう。世界の通商秩序を揺るがした米国の通商政策の転換は,自由貿易体制を維持するための費用負担,便益配分に対する米国民の異議の表明である。「パンドラの箱」は開き,FTA交渉も選挙を通じて表明される民意をより強く反映させることが必要になった。インドのRCEP離脱もその一例といえよう。自由貿易体制を維持・強化していくためには,アジア諸国は,便益に応じた費用を負担するとともに,国内での再分配・構造調整政策を推進することが求められる。
2020年半ば現在,猛威を振るう新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は文字通り世界中の人々の生活や企業行動を揺るがし続けている。この混沌からの回復過程においては,世界的な通商秩序の再構築を避けて通ることはできない。本書は,今なお激化し続ける米中対立の核心,対中貿易依存の深化とそのリスク,広域的な通商秩序形成の主導権争い,各国が直面する「両刃の外交」(double-edged diplomacy)の諸相など,アジアのみならず世界の通商秩序の今後を展望するために有用な情報や示唆を数多く提供している。