アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
特別連載
インタビューで知る研究最前線
第2回
宇山 智彦樋渡 雅人熊倉 潤地田 徹朗
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2020 年 61 巻 3 号 p. 61-96

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はしがき

本誌特別連載の第2回は,日本中央アジア学会2019年度年次大会の公開パネルセッション「途上国研究の最前線としての中央アジア――比較政治,開発経済,現代史,環境の視点から――」の内容をご紹介する。本セッションは同学会と『アジア経済』との共同企画によるもので,日本の中央アジア研究をけん引する4名の方々にご登壇いただいた。

パネリストには,それぞれのディシプリンにおいて,中央アジア地域研究がどのような特徴をもち,またそれが理論に与える知見にはどのようなものがあるのか,ご自身の研究をふまえてお話しいただいた。読者にとって,中央アジア研究の最先端に触れるとともに,理論と途上国研究との関係を改めて検討する糧となれば幸いである。

本大会は当初,湯河原での開催を予定していたが,コロナ禍によりオンライン開催となった。オンラインの学会やセミナーはいまでは当たり前のように行われているが,2020年3月の時点では,多くの人にとってまだなじみのないものであった。本企画の実現に向けご尽力いただいた宇山智彦日本中央アジア学会長,樋渡雅人大会実行委員長,および実行委員会の皆様に深謝したい。

比較政治学における中央アジア研究の成果・可能性・課題
宇山智彦氏

宇山智彦(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)

比較政治学のジレンマ

私は比較政治学を最初からやっていたわけではなく,大体25年前,大学院の博士課程にいた頃から勉強しています。比較政治学と地域研究は,非常に密接だけれども,かなり微妙な関係にあるということを常々思っています。それは,比較政治学のなかに2つの方向性,志向性があるからだと思っています。

ひとつは,いろいろな国の政治を比較するということですから,世界中のできるだけ多くの国を対象としたいという方向性があります。そもそも,比較政治学は第二次世界大戦後に発展しました。ですから,地域研究と大体同じくらいの時期に発展を始めましたし,また,第二次世界大戦後に旧植民地が独立するということで,脱植民地化後の政治にも関心を向けてきた学問です。ですから,非欧米圏,途上国研究の必要性は非常に意識されてきたのです。

しかし,他方で,政治学全般が理論志向,科学志向を強めてきているということがあって,欧米諸国の政治を基にした理論を適用しやすい国,そして,近年はとくに選挙結果や世論調査などの数量的なデータを大量に,なおかつ意味ある形で得やすい国の研究が中心になる傾向があります。もちろん,大国である中国や,かつてのソ連・現在のロシア,あるいはイスラムとの関係で注目される中東政治の研究も,比較政治学のなかで存在感はあります。しかし,そういった国々は,他と比較するというよりは,独自性を探求する対象として取り上げられる傾向があるように思います。

ですから,中央アジア研究との関係は後で詳しくお話ししますが,こういう途上国研究と親和性のある部分とない部分の緊張関係というのは,比較政治学と中央アジア研究の関係についてもいえることだろうと思います。

比較政治学と一言にいってもさまざまな分野がありまして,たとえば,福祉,ジェンダー,移民,宗教など,社会的な問題と関連する研究,あるいはいろいろな制度を細かく分析するような研究もありますけれども,今日は民主主義や権威主義といった政治体制論を中心にお話ししたいと思います。

民主化論の黄金時代から「権威主義的転回」へ

政治体制論は元々,戦間期,それから第二次世界大戦の頃に,ナチスドイツやスターリニズムといった「全体主義」とよばれる体制――その用語が正しいかどうかは別として,当時そのように認識された体制――の特質性に対する認識がひとつのきっかけとなり,戦後になって民主主義,全体主義,それから権威主義という3つの体制を考えていこうという潮流から生まれました。とくに1960~1970年代には,権威主義体制の国がかなり増えたということがあって,ホアン・リンス[Linz 1970; リンス1995]による権威主義体制論の理論化や個別の研究が進展しました。

しかし,1970年代半ばから1990年代初めにかけて,いわゆる民主化の「第三の波」が起きると,途上国政治研究の主流は一気に民主化論に流れていきます。リンスやギジェルモ・オドンネルといった,以前は権威主義体制を研究していた人たちが,次々と民主化研究のけん引役になっていきます。

ただ,そういった人たち,それから「第三の波」の命名者であるサミュエル・ハンティントンといった人たちは,もちろん世界中の国々が一気に民主化すると楽観的に見ていたわけではありません。1990年代には,民主化したとされる国々の多くが依然として非民主的な要素をもっているということが意識され,民主主義の質の問題,それから民主主義の定着の難しさの問題が話題になります。

そして,委任民主主義(delegative democracy)というような形容詞つきの民主主義の概念があらわれ,2000年代には,そもそも民主化したとは言い難い国が多いではないかということで,競争的権威主義,選挙制権威主義といった形容詞つきの権威主義の議論が盛んになります。また,中東諸国を中心に,形容詞つきではない権威主義体制の研究も再び盛んになりました。

ただ,こういった研究は,権威主義体制を,民主化されていない,あるいは十分に民主化されていない不完全な体制ととらえ,場合によってはかなり長期間もつけれども,しかし,最終的には崩壊する体制であるとし,そういった体制がどういう条件でどのくらい長くもつのかということを探るといった,民主化論の延長あるいは裏返しのような性格を帯びるものでした。

とくに競争的権威主義という概念は2000年代初めからいわれたものですが,2010年にスティーヴン・レヴィツキーとルーカン・ウェイの『競争的権威主義――冷戦後のハイブリッド体制――』[2010]が出て,その後数年間,爆発的に流行するのです。しかしこれは,非競争的な権威主義体制が中国をはじめ有力な国々に存在するという事実から目をそらせる弊害があったと思います。

そして,2010年代,とくに半ばになってようやく,中国の台頭,それから欧米での民主主義の危機があって,単に不完全な体制としてではない権威主義体制の独自の機能や構造を研究する必要が明確に意識されるようになりました。とくに共有された言葉ではないのですが,私は仮にこの現象を「権威主義的転回」――これは「言語論的転回」など,他の分野の用語のまねですけれども――とよんでおきたいと思います。

ただ,それでも依然として権威主義体制が比較政治学のなかで極めて重要なテーマであることは理解されにくいところがあります。というのは,とくに欧米でポピュリズムが注目を浴びて,そちらのほうが華やかになってしまったのです。欧米ではポピュリズム,とくにトランプを含め右派的なポピュリズムと権威主義の共通性に注目する研究者も少なくないのですが,日本ではそういう見方は少数派であるということもあって,権威主義体制論が方法論として再び明確に確立されてきたとは言い難い状態だと思います。

以上が比較政治学の流れ,とくに政治体制論の流れを簡単に整理したものですが,そういった変化と並行して,中央アジア政治研究はどのように発展してきたのかということをお話しします。

中央アジア政治研究の試行錯誤

ソ連時代にも,もちろん中央アジア諸共和国を対象とする政治研究はある程度存在していて,たとえば,ウズベキスタンを対象にしたドナルド・カーライルの研究[Carlisle 1991]などは,今読んでも十分に価値のあるものですけれども,本格的にこの分野の研究が発展したのは1991年のソ連崩壊後であり,それも当初は民族問題と民主化を中心とする時事解説的な研究が中心でした。民主化が順調に進んでいないことはすぐに認識されるようになりましたが,それを政治体制論として明確に整理分析する研究は,なかなか出てきませんでした。私が1995年にカザフスタンの権威主義体制を研究し始めたときには,かなり暗中模索という感がありました[宇山1996]。

その後,中央アジア政治研究のかなり中心的なテーマとなったのは,中央・地方関係や,地方閥・部族閥,いわゆる「クラン」の問題です[たとえばSchatz 2004; Collins 2006]。これもかなり流行したのですが,ただ,クランとはなんなのかという定義がそもそも曖昧ですし,情報も不確かであるということで,これも実態の理解を妨げた面が否定できないと思います。

他方,2005年にクルグズスタンのチューリップ革命が起こり,その頃までクルグズスタンでの政治対立は北部と南部という地域対立であるというクラン論的な見方が中心だったのですが,どうもこの革命をよく分析すると,そういう地域対立はそれほど明確ではない代わりに,政治家が農村の人たちをお金などを使って動員する現象が顕著であるということで,市場経済化にともなう社会変化と政治の関係に注目しなければいけないという認識がかなり広く共有されるようになりました[Radnitz 2010]。この問題と,他のいくつかのテーマに関しては,文化人類学的な知見や,政治学者がある種文化人類学的に行った現地調査の成果の貢献が大きかったと思います[Adams 2010; Liu 2012]。

2000年代末以降は,研究テーマがさらに多様化し,政党論[Isaacs 2011 など]や政治経済学的な研究[Markowitz 2013 など]のなかで政治体制論にとって有益なものがあらわれています。また,クラン論は,広くいえば非公式の制度や行動に着目するということですが,それをクランという,いわば狭い枠組みよりは,もっとパトロン政治一般の問題[Hale 2015]として政治体制と結びつけて考えようという研究もあらわれてきます。そして,一番近年の,私が「権威主義的転回」と名づけた現象に関係する研究動向としては,とくに国際関係との関わりが注目されています。権威主義的な国々のあいだで政治の手法をお互いに学びあう関係や,欧米からの批判に対抗してお互いに連携するといった現象に注目する研究が増えています。

ただ,こういう研究はどちらかといえば,ロシアや中国が自らの影響力を拡大することと,世界的な権威主義傾向の強まりを結びつけて考えようとする傾向があるのですが,中央アジア諸国が権威主義的な体制を確立させたのは,ロシアよりもむしろ早く,中国が台頭するよりも早い時期のことだったので,国際関係と直結させるのは若干の無理があります。たとえば,上海協力機構が権威主義的な国々の連携であって,お互いの体制を守っているというような議論[Cooley 2015]は,間違ってはいないものの,少し誇張されていると思います。

最近の研究動向として私が一番注目しているのは,そういった大国を中心に権威主義的な政治の影響が広がっているというよりは,いろいろな国において,さまざまな問題解決が権威主義的な手法で行われる傾向が広まっていることを,国内政治と国際問題にまたがって考えようという研究動向です。これは,エクセター大学の何人かの研究者,とくにジョン・ヘザーショーという元々はタジキスタン内戦後の平和構築の研究をしていた人ですが,この人たちが「権威主義的紛争マネジメント」(authoritarian conflict management)という概念を使って,中央アジアをひとつの最重点地域としながら,ユーラシアの政治動向を考えていこうとしています[Owen et al. 2018]。なおかつ,歴史的な視点として,こういった権威主義的紛争マネジメントが,大国,帝国の植民地主義的な統治の手法とも関係があるのだというような視点を取り入れながらやっているというのが,非常に注目に値すると私は思っています。

中央アジア政治研究の強みと弱み

結論的な部分に入っていきますが,比較政治学と中央アジア研究の関係を考えると,今これだけ権威主義体制が注目されているなかで,中央アジアは,いろいろな知見や研究成果を他の分野・地域の政治研究に参考として提供できる地域ではないかと思います。というのは,1990年代という民主化が世界的なトレンドと考えられていた時代にソ連支配から解放されて独立国家建設を進めた国々ですので,自由民主主義的な政治体制を選択することがおそらく理論的には十分に考えられたのですが,なぜ権威主義的あるいは半権威主義的な体制を選んだのかを解明することが,今の世界の政治の動向の先駆例として使えるのではないかと考えています。

この権威主義的体制の成立の要因には,たくさんの理由がありますけれども,一番わかりやすいところでいえば,現在の世界の権威主義体制の強化の背景でもある社会的・政治的な秩序の問題です。安定を民主主義よりも重視するような考え方が中央アジアで他の地域に先駆けて広まったことは重要なのではないかと思います。そういった問題,あるいは他の政治的な諸問題の解明にあたって,ソ連の遺産という「歴史学的な観点」,市場経済化との関係という「経済学的な観点」,社会ネットワークの役割という「人類学的な観点」が組み合わされて学際的に研究されているというのが,中央アジア研究の大きな強みだろうと思います。

ただし,こういう学際的な地域研究としての強みが,理論志向,数理分析志向の比較政治学のなかでは,必ずしも強みとみなされていないという現実もあります。というのは,特定の歴史的・経済的・社会的な要因が結びついた結果として政治体制を見るという議論は,地域的な文脈に依存していて一般性を主張しにくいし,中央アジアはマイナーであるという偏見も,中央アジア研究からの発信を邪魔するところがあると思います。

また,いろいろな数値化できるデータがとりにくい,あるいは,とれてもあまり意味がなかったりするという現状では,中央アジアの政治と数理分析の相性がよくないところもあります。数理分析に中央アジアを取り込むという努力[たとえば東島2013]もなされていて,一定の成果はあるのですが,なかなか難しい部分があります。

こういう強みが弱みになってしまうのは,根本的には中央アジア研究側というよりも比較政治学側の問題です。地域研究を超越した科学になろうとするのが私から見れば間違いなのであって,地域研究のなかの政治研究を総合していく比較政治学というあり方をもっと追究するべきではないかと思っています。ただ,中央アジア研究の側から,より積極的に比較政治学に対して発信する余地も多くあるはずだと思っています。たとえば,ソ連崩壊後の国家建設のなかでどういう政治体制が成立したのかという問題は,他の帝国の崩壊や世界大戦にともなって成立した国々の経験と比較できるはずですし[部分的な試みとして宇山2014],市場経済化と政治の関係も,社会主義からの移行だけではなく,新自由主義的な経済運営の広まりという世界的な問題と結びつけられるはずです。

それから,私が近年,力を入れている問題は,権威主義体制がどのように進化しているかです[宇山2017]。たとえば,ガバナンスの改善や電子政府などを通じた国民のニーズ把握といった問題も,中央アジア諸国と中国など他の地域の権威主義体制の進化を比較するうえで有効な観点だろうと思っています。ですから,中央アジア研究が比較政治学の進化の起爆剤となることは,決して夢物語ではありません。ただ,中央アジア政治を専門とする研究者がなにぶん数が少ないということがありますので,もっと多くの方々が政治研究,それも理論や比較を視野に入れた研究に取り組んでほしいと希望しています。

移行経済論と開発経済学の接点としての中央アジア地域研究
樋渡雅人氏

樋渡雅人(北海道大学大学院経済学研究院)

私からは「移行経済論と開発経済学の接点としての中央アジア地域研究」という題目でお話しさせていただきます。経済学における学問領域と中央アジア地域研究のあいだの関わりのお話になります。

中央アジアというと,ユーラシア大陸の真ん中にあってランドロックされている,そういう一般的なイメージがあるかもしれませんが,私にとってはむしろ逆で,中央アジアは東にも西にもいろいろな方向につながっていて,それは学問的なアプローチを考えたときにさまざまなアプローチがあり得る,そういう地域であると感じながら研究をしています。

私が中央アジア地域研究をするにあたって心掛けていることがあります。それは,中央アジア地域の経済を「内側」と「外側」から見るということです。これを繰り返すたびに自分の見方が見直されたり否定されたりというのもあるのですが,そういうことで少しずつ理解が深まるのではないかと考えています。少し説明を加えますと,私にとって「内側」から見ることは地域研究者としてフィールドから見ることにほぼ等しくて,「外側」から見ることはほぼ経済学のディシプリンから見ることです。今回は経済学のディシプリンとして移行経済論(transition economics)――あるいはより広く比較経済学(comparative economics)という分野もあるのですが――と開発経済学(development economics)の接点というところに重点を置いてお話ししたいと思います。

双方の経済学の分野には,いろいろな志向性や,方法論に関する固有の特徴があると考えますが,それらは論争的な要素を含みます。今回はそういった点にはふみ込まないでもう少し単純な点からお話しします。そもそもtransition economicsやcomparative economics は旧社会主義の経済体制の特質に関心を置いていて,資本主義経済との比較といったところから始まった分野です。ですから,移行経済論などの枠組みから中央アジア経済を見ることは,そういったレンズを通して,旧ソ連や東欧諸国経済と比較しているということとかなり重なり合っています。

一方で開発経済学は,後で少し説明しますが,アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの途上国経済と先進国の経験との比較の視点や,主として途上国経済の分析からいろいろな理論や議論が出てきているという特徴があります。開発経済学のいろいろな理論や議論を参照しつつ,中央アジア地域研究,中央アジアの地域経済を考えるということは,ある意味,アジアやアフリカの国々と比較しているのです。そういう点で重なり合っている部分がかなりあるということです。

今日は,中央アジア地域はどちらから接近しても非常に面白くて研究しがいのある地域だということをお話ししたいと思います。報告の流れとして,今回は独立以降に限定させていただきますが,まず中央アジア経済事情を簡単に振り返ります。その後で,移行経済論と中央アジアの関係,開発経済学と中央アジアの関係についてお話しします。そのうえで,そういった,「内側」から見たり「外側」から見たりという研究事例として,手前みそですが私の研究について少し紹介させていただき,最後に展望等を話させていただければと思っています。

独立以降の中央アジア経済事情

独立以降の中央アジア経済の事情を考えたときに,ざっくりと1990年代と2000年代に分けられると思います。1990年代は移行ショック,移行不況で非常に苦しんだ時代で,2000年代は,国によって経済の成長する国が出始めたり,分極化するような経済状況が見られた時代でした。

1990年代はソ連崩壊にともない,中央アジア諸国――今回は旧ソ連に限定させていただきますが――5カ国は市場経済移行政策に乗り出します。社会主義の計画経済から,資本主義市場経済への移行というシステム転換といわれる大きな変革に乗り出すのです。そういった市場移行政策に乗り出した国は,中央アジアに限らず,東欧や中欧も当初は非常に深刻な経済不況に見舞われます。

図1は中央アジア5カ国の実質GDPの数字で,独立前の1989年を100にしたときを示しています。中央アジア諸国は,たとえばウズベキスタンで20パーセント,他の国で40~60パーセントぐらいGDPが縮小するというのを90年代に経験するのです。

図1 中央アジア5カ国の実質GDPの推移

(出所)樋渡[2018, 107]

とくに中央アジア諸国は,東欧や中欧などと比べて,そうしたシステム転換にともなうショックに加えて,そもそも旧ソ連時代にソ連内の連邦共和国間で成り立っていた一種の分業体制,産業連関が急に断ち切られたというソ連特有の問題もありまして,他の移行国以上に深刻なショックを経験することになります。そこにロシア人の帰国にともなう管理者・技術者不足や,さまざま施設の老朽化の問題なども加わり,非常に深刻な経済ショックに見舞われます。

2000年代以降は国によっては経済成長を見せます。とくに天然資源等で,カスピ海沿岸国であるカザフスタンやトルクメニスタンは経済成長を見せ始めます。早い国では2000年頃に独立以前のレベルまで実質GDPが戻りました。ただし,クルグズスタンやタジキスタンなど資源の乏しい国が独立前の水準に戻ったのは2010年頃です。後で説明しますが,たとえば,出稼ぎ労働移民のようなところに非常に依存するような経済状況になっているという背景があります。

移行経済論と中央アジア

移行経済論は,そうした市場移行政策にともなって生じる重大領域(たとえば価格の自由化や国有企業の民営化,貿易や為替関連の規制緩和,あるいは金融改革や農業改革などの分野)に関するさまざまな経済学的な議論がされます。たとえば,移行政策(移行戦略理論とよばれたりします)における「急進主義」対「漸進主義」の議論です[たとえばDewatripont and Roland 1992; Sacks 1996; Popov 2007]。いわゆるビッグバンアプローチをとって一気に経済政策を進めるべきなのか――最近はSDGsや「世界幸福度報告書」で知られるジェフリー・サックスなどは,当時ビッグバンアプローチを強く主張していました――,あるいは漸進主義で一つひとつ,新しい家を建てる前に古い家を壊さないというような,そういう姿勢で臨むのかに分かれました。こう した点は盛んに議論されたのですが,中央アジアはこうした議論の非常に主要な場だったのです。

中央アジア研究者の皆さんは多くの方がご存じだと思いますけれども,国によって移行戦略はかなり違いました。IMFなどの国際機関の助言にしたがって急進的に改革を進めたクルグズスタンやカザフスタン。逆にそういったところとは距離を置いて漸進主義で進めたウズベキスタンやトルクメニスタン。非常に対照的な違いがありました。

こうした移行経済論は,その後,政策(policy)だけではなく,その背後にある制度(institution),たとえば,さまざまな市場や所有権に関わる諸制度,あるいは初期条件,資源賦存,解放の歴史的経緯,民主化や法の支配など,そういったことも含めて議論が広がっていきます。そして,旧社会主義国を対象に,過去20~30年のあいだにこうした点に関する膨大な研究成果が蓄積されてきました。近年の移行経済論あるいは比較経済学では,いろいろな分析結果が出てきたので,移行経済論の成果を総括しようとしています。岩﨑一郎先生(一橋大学経済研究所)などがそういった数々の分析結果を数理的に統合するメタ分析といわれる方法を精力的におこなったりと[岩崎編著2018],これまでの成果を整理しようという動きがあります。移行経済論はそういう段階に入ってきました。

開発経済学と中央アジア

一方,開発経済学は開発途上国における貧困問題や開発戦略が対象になるのですが,元々システマティックな研究が始まったのは第二次世界大戦後ぐらいといわれます。当初は荒廃したヨーロッパの復興などがテーマだったのですが,その後,アフリカの国々が旧宗主国から独立したりして,途上国の研究が中心になってきます。

1960年代ごろ,初期の開発経済学――いろいろなグランドセオリーといえる議論がなされる時代――を経て,1970~1980年代は開発経済学は停滞期だったといわれたりします。その頃は,世界銀行などが途上国に構造調整政策を進めて,どんどん自由主義的な改革を進めていこうというところで,いわゆる新古典派的な経済学理論が非常に隆盛した時代です。その頃は経済学者によっては開発経済学のアイデンティティーが失われた時代だといわれたりします。

1990年代以降になると,国際的に貧困削減がいわれるようになって,市場の不完全性,あるいは途上国は先進国とは少し違うということがいわれるようになり,開発経済学の中心になってきます。制度やデータという点でも途上国でのさまざまな家計調査や企業レベルのデータが出されて,さまざまなミクロデータへのアクセスが可能になってきたこともあり,そうした途上国独自の特徴に正面から取り組む研究があらわれるようになります。

さらに2000年代以降は,国家対市場のよう なイデオロギー的な理論よりは,RCT(randomized controlled trial)などで実際に効果があるのか(どれだけハードなエビデンスが得られるのか)見てみようといった実証志向の高まりがあると感じられます。

一方,1990年代の中央アジア諸国の状況を振り返ると,元々ソ連時代から生活水準はソ連のなかでも低い状態にあったのですが,移行ショック,そして緊縮財政による社会保障・教育分野の支出が急激に低下するなどの状況があり,貧困問題などが深刻化する時代でした[武田2018]。

そのような中,独立後の中央アジアでは,欧米流の人類学的なフィールド調査も徐々に可能になってきます。また,世界銀行などによって家計調査等の調査もされるようになり,データも徐々に増えてきました。1990年代以降,開発経済学的な研究ができる素地がかなり整ってきたということです。さらに2000年代以降,新たなトピックとして,格差,移民,FDI(foreign direct investment),汚職など,そういった問題の重要性が高まってきます。この流れは中央アジアで高まってくるのですが,開発経済学の観点からしても,こうした研究が増えてくる時期と重なっています。データの整備なども進み,中央アジアを対象とした実証研究もされるようになってきました。

研究事例――労働移民問題の経学的分析――

ここで少し研究事例を紹介したいと思います。たとえば労働移民の問題です。中央アジア研究者であれば近年の移民の状況についてよくご存じだと思いますけれども,とくに2000年代以降はロシアへの労働移民問題が大量に生じて,中央アジアにおいてさまざまな社会的影響を与えているという状況になっています。

たとえば,タジキスタン・クルグズスタン・ウズベキスタンからロシアやカザフスタンへと労働移民が行くのですけれども,GDP比率で見たときの彼らが本国に送る外国送金額がとんでもないことになっています。2006~2007年あたりだと,タジキスタンではGDP比で5割程度,クルグスタンでも4割程度と,外国移民に非常に依存する経済体制になってきているわけです(図2)。

図2 外国送金受領額(対GDP比)

(出所)武田[2018, 138]

ただ,こうした労働移民の急増は,いったん中央アジア研究を離れてみれば,2000年代に世界的に見られた現象です。たとえば図3は世界における低・中所得諸国に対する資金の流入をあらわしていますけれども,実線がODAと海外援助,点線が海外送金(レミッタンス)などパーソナルな出稼ぎなどによる海外送金額です。ちなみに破線がFDIで,FDIについてもかなり似たようなことがいえます。

図3 世界の低・中所得に対する資金流入

(出所)World Development Indicator.

当然,開発経済学においても,こうした移民にかかわる研究はかなり増えてきました。中央アジア研究においても同様です。この観点は無視できない感じになってきたということです。たとえば,ヒューマンキャピタル(人的資本)が経済成長のために非常に重要であるということは,開発経済学等においてほぼコンセンサスがとれた問題です。そのために,さまざまな教育分野の開発援助等もされてきました。そこで次に問題になるのが,これだけ増えてきたレミッタンスはヒューマンキャピタルにどういう影響を与えるのかといったことです。この問いは中央アジアのこれからの経済発展を考えるうえで非常に重要な問題であるといえます。

タジキスタンのケースだと,レミッタンスによってお金が増えるので,各家計は教育投資にお金を出す余裕が出てくるという見方があります。一方で,たとえばロシアに行っても非熟練労働としてしか働けない(教育がまったく役に立たない)タイプの移民においては,もしかすると教育投資は意味がないという考えが生まれるかもしれない。したがって,教育投資が減るかもしれないという見方もあるのです。

タジキスタンでは世界銀行が家計調査などを結構昔からやっていてデータの蓄積があり,山田大地先生(東京大学)はこの問題を計量経済学的に検証しました[山田2019]。すると,やはり移民の教育投資に対するネガティブな効果が見られるのですが,とくに男の子ではなくて女の子に顕著でした。中央アジアのジェンダー研究に対しても非常に示唆的な結果が得られています。

移民とネットワーク

少し私の研究に関する話もさせていただきますと,近年の経済学におけるひとつの論点として,ネットワークの役割が注目されています[たとえばKarlan et al. 2009; Conley and Udry 2010; Ambrus 2014]。ネットワークとは,要は信頼関係です。人々のあいだの社会ネットワークです。これが経済活動の取引費を削減したり,生産活動や取引の効率を高めたり,技術の普及を促進したり,そういった役割を担い得るといわれています。移民という経済活動においても,社会ネットワークは情報共有やその他の便宜供与などをとおして移動費を削減し,移民創出を促進する役割を果たしているといわれています[Munshi 2003; McKenzie and Rapoport 2007]。

地域研究者として私が大学院生の頃からよく行っているフェルガナ盆地の農村のマハッラ(村)があるのですが,そういった場所では非常に濃密な人間関係,社会関係があって,それらがコミュニティーの基盤となっているのを見てきました。私の前著[2008]では,地縁や血縁に根差した匿名でない経済取引があって,そうした経済的なやりとりが,さまざまな保険や集団貯蓄の仕組みを通して経済ショックに対する緩衝材のような役割を果たしていたと,かつて議論していました。そうしたネットワークは,コミュニティーの凝集性を支える重要な要素だと考えています。

一方で,先に述べたように,経済学的には,そういったネットワークには移民をどんどん押し出すという効果もあります。では,そのフェルガナ盆地の農村のマハッラでは,ネットワークが結局どういう影響を与えるのか,人をどんどん押し出してしまうのか,逆にとどめるのかということが,地域研究者としての関心になるのです。

たとえば図4はフェルガナのマハッラの全世帯調査をしてネットワークを可視化したものです。点が世帯,それを結ぶ線が現金や財貨のインフォーマルなやりとりをあらわしています。

図4 フェルガナのマハッラのネットワーク(全世帯調査)

(出所)Hiwatari[2016]

左)家計間の私的な現金・財貨の移転授受

右)家計間のネットワーク総体:親族関係,私的資源移転,往来関係,ギャップ(Gap)

経済学的にはこうした効果,とくにピア効果というものは因果関係を識別するのが非常に難しいのですが,私がよく行く村で,家計調査に加えて図4のようなユニークなネットワークのデータを使って――方法論的なチャレンジではあったのですが――解決しようとしてみたところ,やはり移民送出における正の効果が確認されました[Hiwatari 2016]。要するに,コミュニティーにおけるネットワークの機能は,非常に多面的であって,ネットワークがコミュニティーの人々を外に押し出すように働くこともあるのです。

この正の効果は,私の経験に照らしても間違いないだろうと思っています。毎年そのマハッラに行き,いつも同世代の人たちと会うのですが,2006~2007年頃から急激に人が少なくなったと感じるようになりました。そういうことに関して,このコミュニティーのネットワークが十分に(たとえば皆がトラックで一緒に移民として出て行くなど)使われたということに気づかされました。いろいろと視点を変えてみると,ネットワークもいろいろな見方ができることがわかった,そういう研究でした。

中央アジア経済研究の今後の展望と課題

中央アジア経済研究の今後の展望と課題についても少し話させていただきますと,これまで述べてきたように,トピックが多様化しています。比較対象という点でも多様化しています[たとえばロラン2019]。移民やFDIなど,他の途上国と共通する問題も非常に増えてきています。移行経済論と開発経済学に共通する課題も増加してきます。それぞれの研究分野の蓄積や知見をどのように生かしていくかが今後の課題になってくると思います。

たとえば,ポポフ先生など,ロシア人の研究者の方ですけれども,実際にそういう試みがあります[Popov 2014]。そもそも,この移行(経済)というのは,決して旧社会主義国だけに限定される問題ではなくて,非常に普遍的な意味をもっているものです。そういったことを途上国において考えることもできると思います。

そして,最後の観点です。私がこの2~3年ぐらい,とくにウズベキスタンに行って感じることですが,データの入手可能性が非常に向上しました。現地調査も非常にやりやすくなりました。現地機関のキャパシティーもかなり変わってきているという実感がとくにこの2~3年はあります。中央アジアにおいてユニークなデータ等を使っていろいろな観点から研究していく素地や可能性が非常に広がっていると考えています。

民族エリートと国民国家建設からみた中央アジア地域研究
熊倉潤氏

熊倉潤(アジア経済研究所新領域研究センター)

今日の公開パネルセッションでは現代史の部分を担当いたします。ただ,現代史といってもいろいろなテーマがありますので,私の専門に引きつけて,とくに民族と国家という観点から見ていきたいと思っています。

最初にお断りなのですが,中央アジア地域研究といったときは旧ソ連領の中央アジア,今の5カ国を指すことが多いと思うのですが,私の報告に限りましては,旧ソ連,中央アジアから,中国,新疆ウイグル自治区にかけての一帯,すなわち,ソ連領トルキスタン,ソ連領中央アジアと,中国領トルキスタン,東トルキスタン,あるいは中国領の中央アジアといった一帯にかけてを見ていきたいと思っています。したがいまして,これは,ソ連の一部となった中央アジアと中国の一部となった中央アジアの両方を見ていきたいという少し欲張った感じで,到底覆いきれないのですけれども,テーマを少しずつ抽出してお話ししたいと思います。

民族エリートへの着目――植民地帝国のコラボレータ論――

先ほど述べたような地域で国家を建設する,連邦制をつくる,あるいは連邦制ではない単一性の国にする,そしてそこにどのような現地民族のエリートをつくりだすか,そういった問題に私はこれまで取り組んでまいりました。このテーマから見ていきますと,いわゆる比較帝国論や比較地域大国論など,そういった比較の可能性が大いに開かれていると思います。もちろん,中央アジア域内で比較することも可能ですし,ソ連領と中国領で比較することも可能かもしれません。あとは,たとえばソ連と中国とインドの比較といったことがあると思います。とくに最後に挙げたところでは,松里公孝先生(東京大学)がEurope-Asia Studiesに投稿された,民族領域,連邦制の興亡(rise and fall)のような論文があります[Matsuzato 2017]。多くの人に興味をもたれて,かなり中央アジア現代史研究の重要な一部分を成してきたのではないかと考えています。

この分野でこれまで不足していたのが,ソ連と中国,ソ連の中央アジアと中国の新疆ウイグル自治区の国家の建設と民族エリートの形成について比較することで,これまで多くの人に関心をもたれていながら,なかなか本格的にできていませんでした。ただ,それにつきましては手前みそも甚だですが,私が最近,本を出版しましたので,ご参照いただければ幸いです[熊倉2020]。

従来中央アジア現代史で注目を集めてきたのは,革命期,農業集団化期などビッグ・イベントが起きる時期の動向でした。この本では,そうした従来注目を集めてきた時期だけでなく,通時的に何十年というスパンで,中ソそれぞれの政治エリート集団がどのように変化したかを分析し,比較しました。ただ,これから述べるコラボレータ論とのつながりや,中ソ以外の多民族国家との横断的な比較は,今後の課題として残されているように思います。

さらに,この研究に取り組んでみて痛感したのが,中国という存在の特異性,独自性です。中国が加わることで,急に関数の次数が増えていきます。ソ連だけを見ているのでしたら,いわゆる1次方程式でよかったのが,中国が増えると2次方程式になってしまう,解の公式もなかなか覚えにくいというように難しくなって,ともすれば泥沼化の危険性もあるということで,比較はなかなか慎重にテーマを見定めてやらなければいけない面があります。

比較に際して民族エリートに着目する手法は,じつはこれまで研究が多く蓄積されてきましたが,植民地帝国のいわゆるコラボレータ(協力者)といわれるような人たちに着目する議論があります。また,議論の後のほうで時間があれば紹介したいと思いますが,ベネディクト・アンダーソンによる現地エリートの巡礼,国民国家の想像の議論も,多くの人が関心を抱いて取り組んできたものですが,これらと中央アジア地域研究の関係性,それが重要になってくると思う次第です。

植民地帝国のコラボレータ論に関して論じていきますが,これはイギリス帝国史の研究で生まれて流行した概念であることは,多くの人がご存じかと思います。1972年にロナルド・ロビンソンが提唱した議論で[Robinson 1972],以来,非常にもてはやされて,多くの人が取り組んだテーマだと思います。

これに刺激を受ける形で,帝政ロシアにおけるコラボレータに相当するような民族エリートの研究も行われてきましたが,ソ連期の民族エリートに関して,このコラボレータの議論を当てはめることはなかなか行われてこなかったですし,私もそれはしていないのですけれども,難しい課題だろうと思います。というのも,ソ連の,あるいは中国の新疆における現地エリートのような人たちは,そもそもコラボレータなのでしょうか。彼らは従属性の強い党官僚であって,党組織のなかに組み込まれていて,コ ラボレータとはいえないのではないかというようなことを念頭に置いて考えなければいけないという問題があります。

ただ,よくよく見てみると,革命期など,ごく初期には,文字どおり協力者といっていい人たちもいたのではないかと思います。共産党政権だけではなく,ロシアであれば白軍,中国であれば国民党のようないろいろな勢力があって,どちらに協力するかを選ぶことに現実的な意味があった時期も,長くはないですけれどもありました。そのときに共産党を選ぶ協力者もいたのではないかと思います。そういう観点からいえば,協力者といえなくもない人たちもいます。ただ,そういった初期にいた協力者が,その後,徐々に政権が別のところで養成して登用した従属性の高い官僚に置き換えられていくという過程があるのではないか。あるいは置き換えられずに,協力者が長く政権の上層部に居続けるようなこともあったのではないかと,そういうことが議論されると思います。

この「協力者が初期にいて,その後,従属性の高い官僚に置き換えられていく」というメカニズムは興味深いと思います。これには一定の比較可能性や普遍性があるのではないか,このメカニズムに関して他の帝国とも比較できるのではないか,ということもあるかもしれません。

そこまで考えていくと,そもそもコラボレータとはなんなのか,つまりコラボレータの定義に議論が回帰します。

コラボレータの定義について厳密な議論はできませんが,定義にある程度の幅をもたせて,緩やかな意味で「帝国が養成した官僚」といった人々の横断的比較といった観点が,今後,比較の論点として出てくるのではないかと思います。

中国新疆ウイグル自治区のケース

さらに中国を加えると――先ほど中国を加えると泥沼化するおそれがあると言いましたけれども――また次数が多くなって難しくなります。中国の場合には,中国共産党に統一戦線の概念があり,組織としても統一戦線部というのがあって,少数民族を中国共産党に協力させる,合作させるといった政策があるわけです。この統一戦線というのは,ソ連共産党にはなく中国共産党にはあるという意味で,中国のある種の特殊性を示しています。中国の少数民族エリートは,そもそも毛沢東の指示などいろいろな所に「協力」や「合作」という言葉が出てきますが,当局によっても協力者とみなされていることがわかります。そうすると,彼ら中国の少数民族エリートは,文字どおり,協力者,合作者なのではないかといったことが問題意識として出てくるのです。

もう少し具体的なことを見ていきますと,新疆の場合,中華人民共和国ができて最初の頃(1950年代頃)に政権の上層部に取り入れられた少数民族エリートのいわゆる第1世代のなかには,元々ソ連国籍をもっていたり,ソ連共産党に属していたという人たちもいました。中華人民共和国ができたことで,彼らが中国共産党に入り,中国国籍をとるといった形で,中国あるいは中国共産党に協力したということも一定のリアリティーをもっています。つまり,協力する相手を選ぶことがあり得た,ソ連に協力するのか中国に協力するのかを選ぶということがあり得たということです。

さらにいうと,後に,とくに1962年に中国を見限ってソ連に亡命していくといった形でソ連を選ぶというケースもありました。そうすると,これは植民地帝国のコラボレータ論とはかなり趣が異なるのですが,こういった中国の少数民族エリート,新疆において登用された少数民族エリートも,また一種の協力者なのではないでしょうか。性格がかなり違うことは承知していますけれども,「協力」という言葉のとおりに,彼らもまた協力者なのではないかということです。

ただ,第1世代に関してはソ連に協力するという選択肢もあったかもしれませんが,それ以降に登用された人たちに関していうと,事実上,中国共産党を選ばないという選択肢はなくなっていきます。党によって初めから養成されて,党に尽くしていくという党官僚の性格が強まっていくことで,ここにも先ほど申し上げたような,協力者から従属性の高い官僚へ置き換えられていくというメカニズムが見て取れるのです。

そういうわけで,このメカニズム自体が多民族国家に一種普遍的な問題ではないかと思いますし,それぞれを比較して有意義な議論ができる可能性は十分にあると思います。

政治エリートの「巡礼」

ここで少しベネディクト・アンダーソンについて言及したいと思います。ベネディクト・アンダーソンの議論として知られているのが「国民国家の想像」です。これはどうやって想像されるかというと,大勢の政治エリートが,ある行政区域のなかで,あたかも巡礼を行うかのうように,赴任と異動を繰り返し行います。巡礼の過程で,自分たちが巡礼しているこの一帯がひとつの共同体として想像される,イマジネーションされるといった有名な議論があります。この議論と,ソ連の連邦構成共和国における政治エリートとの関係は,これまでもいろいろといわれてきたところだと思います。

ただ,改めて考えてみると,ソ連については確かにウズベク共和国やトルクメン共和国など,共和国の単位で現地のエリートが赴任を繰り返して,いわば巡礼をすることによって,共和国があたかも国民国家であるかのような感覚を抱いていったことは,それはよくわかります。では,中国においてはどうなのでしょうか。ソ連と中国を比較したときに,中国の少数民族自治区において同じような現象が起きているのかどうかということは,じつはあまりいわれていないような気がします。

中国の新疆ウイグル自治区やチベット自治区などにも,そこで登用された現地の少数民族幹部,少数民族エリートがいまして,彼らが採用されて以来,それぞれの自治区のなかだけで,あたかも巡礼をするかのように異動を繰り返すということが起きているのですが,中国の場合は全国転勤をする漢族のエリートの存在感がとても大きいのです。つまり,新疆ウイグル自治区から1,000キロも2,000キロも離れている場所で生まれ育った漢族が,新疆に赴任してくるなど,そういったケースが多々あります。彼らが全国を巡礼圏として赴任を繰り返すことによって,中国そして中華民族は一体であるという意識,すなわち中華民族主義が彼らのなかで不断に強化されているという面があるだろうと思います。

ソ連も考えてみれば,モスクワ辺りのコア地域と周辺の地域のあいだの移動・赴任を繰り返すこと(巡礼)は相当あったのではないでしょうか。ウクライナ共和国などでキャリアを始めてカザフ共和国に赴任してきて,そしてカザフ共和国に定着せず,また別のところに異動なり栄転なりしていきます。昔の第一書記でも,ポノマレンコのような人たちもいたわけで,大きな存在感をもっていたということがいえるのです。そうすると,彼らの存在は一体なんだったのだろうかということになるのです。ソ連がその後に解体して,比較的スムーズに連邦構成共和国が独立国家になったのですから,共和国の枠組みのなかで巡礼していた政治エリートが,新生独立国家の政治エリートに横滑りしたということがいえます。ただ,現実のソ連には連邦全土を巡礼する集団がそれなりにいて,彼らもまた巨大な存在感をもっていたのではないかと感じ取れるのです。そういった点については,まだ研究が途上なのではないかと思います。

考えてみると,これは20世紀以降の帝国のひとつの特徴かもしれません。20世紀の地続きの帝国は交通がよく整備されて,それによって全国転勤が大量に可能になるといったことがあると思います。それは,アンダーソンの議論などで登場してくる19世紀以前の帝国,とくに海洋で本国と植民地が大きく隔てられていた植民地帝国とは,事情がかなり違うのだろうと思います。その点を考えると,20世紀の地続きの帝国の特徴といえるのかもしれません。

最後にひとつ取り上げるとすると,中央アジアにいるロシア人や,中国の新疆ウイグル自治区にいる漢族など,そういった人たちが現地で採用されてキャリアを積んでいく状況です。そういった人たちの赴任の問題,巡礼の問題といったものもなかなかこれまで取り上げられてこなかったので,今後,検討に値するのではないかと思っています。

環境と地理からみる中央アジア地域研究のあり方
地田徹朗氏

地田徹朗(名古屋外国語大学世界共生学部)

本報告では,アラル海地域に関する自身の研究や,自身が加わっている科研費プロジェクトの内容に言及しつつ,環境や地理といった要素をどのように中央アジア地域研究に組み込んでいるのかという視点から,地域研究のあり方の今後について展望してみたいと思います。

中央アジア地域研究では「人文地理学的」あるいは「地誌学的」な研究が不足していて,さまざまな場所を実際に訪れて,場所性(locality)のようなものを記述する研究が必要なのではな いかと思っています。この点で,民間企業やJICAなどによる知見の蓄積は無視できないと思っています。なぜかというと,われわれがカバーする研究資料がある場所・フィールドは限定されますし,研究資料がある場所というのは大体,首都だったり大都市だったりします。それに比べると,とくにトルクメニスタンで専門調査員をやっていたときに感じたのですが,民間企業の方などは結構いろいろな地方の知識をもっています。JICAもプロジェクトをするとなったら地方でやりますから,そこでの知見の蓄積は無視できないと思っています。

これに加えて,自然科学者の方々が取り組んできたような環境の要素をどのように中央アジア地域研究に取り入れていくのか,これもやはり大きな課題なのではないかと考えています。

大事なことは,われわれ地域研究者が,これらの知見をある種の「人文知」として統合して,地域についての学知を蓄積して発信をしていく,そういうことなのではないのでしょうか。個々 の場所がもつ,環境経済,社会の関係性のようなものを記述して,それを面的に広げていくことで,北東アジアや中東,アフリカなど世界の諸地域との広域的な比較研究も可能になるのではないのかということを提案したいと思っています。ですから,理論化というよりも,どちらかというと個別的な知識や場所の知を,どれだけ集めて統合できるだろうかということが話の中心になるのではないかという気がしています。

少し自己紹介しますと,私はトルクメニスタンで専門調査員をやったり,その後,北大のスラブ研で境界研究のプロジェクトにいたりしましたが,その前から地理学にかなり関心をもつようになっていました。2017年からは名古屋外国語大学に勤務しています。専門分野はソ連史なのですが,最近ではアラル海問題の現状のフィールドワークを中心にやっています。総合地球環境学研究所の「民族/国家の交錯と生業変化を軸とした環境史の解明――中央ユーラシア半乾燥域の変遷――」,通称「イリプロジェクト」に加えていただいたり,アジア経済研究所の大塚健司先生が主催された「長期化する生態危機への社会対応とガバナンス研究会」にも加えていただいたりしました。元々は民族問題やソ連時代の共和国政治のようなことに関心があって,そこから出発しているのですけれども,いろいろとあって,アラル海地域の環境史研究や,トルクメニスタンの現代政治についても論文を1本書きました。あとはソ連の地理学史研究のようなこともやったりと,地域研究の「なんでも屋」のような,少しそういう雰囲気がある研究者だなと自覚しています。

中央アジアの「環境」と「地理」――科研費プロジェクトを通じて――

現在加わっている科研費プロジェクトについてお話しします。ひとつ目として挙げるのはシンジルト先生(熊本大学)の「牧畜社会におけるエスニシティとエコロジーの相関」というプロジェクトです。牧畜民のもつ集団性とエコロジー的特性に着目しながら,その時空間での変遷を追って地域間比較をするというものです。シンジルト先生は内モンゴルやチベットなどがご専門で,そこにカルムィクの井上岳彦先生(大阪教育大学),モンゴルの上村明先生(東京外国語大学),トルコやアゼルバイジャンの田村うらら先生(金沢大学),アフリカのウガンダやケニアの波佐間逸博先生(長崎大学),あとはブータンの宮本万里先生(慶應義塾大学)というメンバーです。さまざまな地域の牧畜をやっている人が集まって,エスニシティとエコロジーの両方のバランスのようなものを見ていこう,しかもそれを時間軸でも追っていこうという内容のプロジェクトです。

ふたつ目は,名古屋学院大学の今村薫先生が代表者になっている「中央アジアにおける牧畜社会の動態分析――家畜化から気候変動まで――」で,ラクダとウマを中心とする中央アジア地域での家畜化の起源から今日の牧畜の動態までを追うというプロジェクトです。基盤(A)ですのでスコープは相当大きく,実際問題,すごく古いこととすごく新しいことが混在していて,真ん中の部分は塩谷哲史先生(筑波大学)と私がやっている感じです。今村先生は,元々はアフリカのカラハリ砂漠の狩猟採集民サン(ブッシュマン)など,アフリカをフィールドとする生態人類学的な研究をされてきた先生です。分担者として名を連ねているのはモンゴルや中国の内モンゴルをフィールドとする兒玉香菜子先生(千葉大学),最近はウズベキスタンとキルギスで遺跡の発掘調査をされている考古学者の久米正吾先生(東京藝術大学),ラクダのDNAを見ている遺伝学者の斎藤成也先生(国立遺伝学研究所),モンゴル~新疆~中央アジアがメイン拠点の生態学者である星野仏方先生(酪農学園大学)です。あとは大学院生のソロンガさん,カザフ織物の廣田千恵子さんが研究協力者として加わっています。

3つ目が「冷戦終焉とユーラシアの境界・環境・社会」というプロジェクトで,これは北大時代に取り組んでいた境界研究をもう少し別の視点から見ようという感じのプロジェクトです。研究代表者である花松泰倫先生(九州国際大学)は,アムール・オホーツク陸海統合域や日韓のボーダーツーリズムについての研究実績があります。分担者はインドのアッサム研究の浅田晴久先生(名古屋女子大),水文学の大西健夫先生(岐阜大学),ベトナム~中国~ラオス国境域の柳澤雅之先生(京都大学)です。研究協力者として,自然地理学の渡邊三津子先生(片倉もとこ記念砂漠文化財団)に加わっていただいているという感じです。

窪田順平先生(人間文化研究機構)のプロジェクト「アラル海流域における環境保全と資源利用の両立に向けたネットワークの構築」では,私は研究協力者として参加しています。窪田先生は先ほど申し上げたイリプロジェクトを率いられた方です。同じく協力者である石川智士先生(東海大学)は漁業や海の生態などを専門にされている方で,自然科学的な知見をどのように社会やコミュニティーに還元していくかということにも強い関心をもってらっしゃいます。

このような感じで,中央アジア地域研究以外の研究者にも,中央アジア地域に対する強い学術的な関心がある方がいらっしゃいます。ですから,中央アジア以外の地域を専門とする人々が科研プロジェクトを率いながら,そこで中央アジア専門の研究者と一緒にやるようなことが結構行われていて,しかも学際的な感じの研究プロジェクトが多いことが特徴になっているのではないかと思います。

地誌学的研究の必要性

次に地誌学的研究の必要性についてです。日本の地理学(人文地理学)は,第二次世界大戦後に,いわば政治的な色彩が削ぎ落とされたんだと思います。戦後の日本の地理学会では地誌学研究の伝統は元々強かった。そこに,計量革命が起きて計量的にどう空間を把握するかということに重心を置くようになっていった。しかし,やはりすごく大きな重要なミッションがあって,それは「地域の知」の社会や学校教育への還元だと思います。社会との接点という意味では,地誌的な研究は絶対に外せないと思うのです。それをずっと一手に担ってこられたのが故・中村泰三先生(大阪市立大学名誉教授)でした。何冊か地誌についての本を書かれていますし[中村1983; 1991; 1995],高校の地理の参考書も執筆されていて,私が高校生だったときなどは,地理の授業などで結構徹底的にソ連の中の話を学んだのです。

ただ,その後を継いだ人がおそらくいないのではないかと思います。私は執筆依頼を断ってしまい今となっては懺悔なのですが,加賀美雅弘先生(東京学芸大学)が編者となって朝倉書店から「世界地誌シリーズ」の『ロシア』を出しています[加賀美編2017]。この本には中央アジアもスコープに入っています。ただ,加賀美先生はどちらかというとEUの専門家ですし,執筆陣を見るとやはり自然地理の先生が結構書かれています。人文地理の先生は,今は中央ユーラシア地域を専門にしてやっている人はいません。

そういった社会との接点というところが若干弱いという気がしていて,だからこそ,社会のなかで中央アジア地域についてのイメージが古いままなのではないかという印象があります。シルクロードがあって,その周りには遊牧民の世界がありますとか,あとはサマルカンドはきれいですといったイメージです。それ以上のイメージがどこまであるだろうといわれると,クエスチョンがついてしまいます。大学で教えていてもそう思うのです。

ですから,明石書店の「エリア・スタディーズ」シリーズ,朝倉書店の『朝倉世界地理講座中央アジア』,そして日本評論社の新旧『現代中央アジア』――旧版は「論」がついていました――は,非常に重要な著作群です。中央アジア地域の地理を社会に広めるという意味では非常に重要な役割をしているのですけれど,地誌的ではないといいましょうか,地域の細部も含めたイメージをどのように伝えていくのかということに関しては,もう少し工夫して考える必要があるのではないかという気がしています。

中央アジアの地理的・社会的多様性にもっと目を向ける必要があるのではないかと,最近フィールドワークをしながら感じています。場所性(locality)を形作るコンテクストを見きわめて,「場所性の知」を蓄積していく作業がもっと要るのではないかと思うのです。ですから,特定の場所性についての知の蓄積に関して,民間企業やJICAなど援助機関の方々のほうが――彼らは個別の関心をもっているから偏ってはいるのですが――豊かであることがやはり往々にしてあるのです。私自身,最近はアラル海の周辺地域によくフィールドワークで行くのですが,たとえば,ウスチ・カメノゴルスクやテミルタウといった町は,民間の方は行くかもしれませんが,研究者として行くことはなかなかありません。けれども,そういったさまざまな場所を訪れながら,地域の地理をきちんと記述していく作業が要るのではないかという気がしています。

中村泰三先生の話に戻りますが,徹底的に文献調査をやって,地誌学的な研究をやったという意味で,改めてすごいと思います。ただ,たとえばトルクメニスタンの現状を考え合わせてみると,文献はないし,そもそも調査旅行が難しい地域でもあるので,そこはもう大使館の専門調査員の出番なのかもしれません。私もかつてトルクメニスタン大使館に勤めていましたけれど,大使館専門調査員としてもっと若い人たちに行ってもらって,そこで得た知見をわれわれの業界や社会に対してきちんと還元してもらうべきだと思っています。

人文地理学と中央アジア地域研究

次に「人文地理学と中央アジア地域研究」です。地理学と地域研究では,場所に対するアプローチの仕方はどう違うのかということです[生田2003]。どのようにいったらいいのか難しいのですが,地理学より地域研究のほうがもっと地域をトータルにとらえながら考えるのだと思います。地理学は,ある特定の地理的事項に対する関心があって,それを地域の内側から外側に広げていくようなイメージを私はもっています。もちろん,われわれ地域研究者の世界のなかで,人文地理学的な色彩をもった研究はたくさんあります。マハッラの研究や都市景観研究,文化人類学・社会人類学的な研究,あるいは労働移民研究のようなものです。ただ,中央アジア地域研究を見ていると,やはり「生業」そのものに対する関心が薄いという印象がありますので,生業に関する研究はもう少し要るのではないかという気がしています。

イリプロジェクトの成果は,人文・自然地理学者が先導した地域研究だったということができると思います。私も参加させていただいて,場所性と地域性を見る研究がかみ合っていると感じていました。『中央ユーラシア環境史』(臨川書店)は,第3巻を渡邊三津子先生が編集されていて,私も書かせてもらっていますけれども,場所性の知のようなものがいくつも論考として収められています。ただ,大きなプロジェクト終了後の人文社会科学側の研究継続の問題がやはりあって,私もいくつか仕掛けてみましたが,うまくいっているところばかりではありません。

さらに,中央アジアの自然科学者の貢献という意味ですと,やはり石田紀郎先生(京都大学名誉教授)のイニシアチブは,もう一度見つめ直す必要があるのではないかと思っています。文理融合,文理協働のようなものが唱えられるずいぶん前から日本カザフ研究会を立ち上げられて,それを実践してこられました。石田先生はちょうど今年,アラル海調査研究について回想録的な本を出されています[石田2020]。ただ,自然科学者が出してきたさまざまな知を,どう人文知や地域知として昇華させるのかというところに課題がある気がしています。私もこれから,石田先生が主導して行われてきた研究成果を咀嚼しながら研究していきたいと思っています。

あとは,理論の適用可能性です。日本の地理学は,どちらかというと地誌学的な研究,地理教育をターゲットとしてきたので,どうしても理論の部分が弱いというところがあります。欧米では地理学理論を用いた人文地理学の研究がむしろ中心になっています[たとえばReeves 2014; Megoran 2017]。

中央アジア地域研究のなかでの「環境」の要素

次に,中央アジア地域研究における「環境」の要素という話です。単純な環境決定論ではないけれども,環境による影響と人間による選択,双方の要素から地域を見る必要性があるだろうという気がしています。高倉浩樹先生が編集された『寒冷アジアの文化生態史』(2018, 古今書院)という本があって,そのなかで高倉先生は「歴史可能主義」といっています。環境については,かなりいろいろと人々の生活が制約を受けるのですが,そこには必ず人間の側からの選択の要素が働いているということです。そういったことからきちんと地域を見る必要性があるだろうという気がしています。

環境研究は,もちろん自然科学者がさまざまな研究成果を出されているのですが,それは決して自然科学の独占物ではなくて,人文社会科学の知は確実に必要だろうと考えています。人文社会科学でも自然科学の研究成果が一次資料になり得るというのは以前書いたもことがあります[地田2013]。もちろん簡単な話ではないのですが,おたがいに協働できるといいという感じはするのです。

人間―環境関係というのを,環境―生業(あるいは環境―産業)関係と置き換えて,それが社会のあり方や場所性を形作っているのではないのかと最近考えるようになりました。それを見るうえで,歴史的・社会的コンテクストの検討も必要だということで,人文・社会科学の出番になってくるのです。われわれは地域研究者ですから,このような情報を地理的に広範囲にわたって蓄積していって,個々の場所に寄り添いながら地域全体を見渡す姿勢が必要なのではないかと思います。地理学的な要素のなかに自然地理学的な要素,人文地理学な要素を合わせながら文系・理系双方の研究者が連携をしていって場所の知を積み上げていくことで,広域な比較研究の可能性が生まれるのではないでしょうか。

研究実践

私の研究実践についても少しお話しします。トルクメニスタンでの専門調査員時代には,トルクメニスタンの全5州を実際に訪れ水利用の状況を現場で観察してみたり,現地の水関係者に会って話を聞いたりしました。その成果を2012年に書きました[地田2012]。

アラル海地域研究は,最近は環境史研究から現状研究にシフトしています。元々,小アラル海にダムができて水が戻ってきて,それで漁業が再び行われるようになったということを,フィールドで聞き取りをしながら観察していました。しかし,やはりカザフ人にとって牧畜が大事だということがだんだんわかってきて,最近はアラル海地域での牧畜についてフィールドワークをするようになっています。小アラル海地域の社会経済を総合的に把握することに関心があるという感じです。細々とした仕事をいくつかしてきまして,そろそろ大きな仕事にシフトしないといけないと思っています。

あとは,カザフ・ドイツ大学主催の“From Glaciers to the Aral Sea”への参加です。中央アジアの若手と,あとは数人の中堅研究者が集まって,アルマトイから出発してアラル海まで北上するという調査旅行を2018年の8月にやりました。参加していたクルグズ人の若手研究者の関心が点滴灌漑だったので,おもにタジキスタンでビニールハウスや点滴灌漑について少し調べたこともあります。

おわりに

私が考える中央アジア地域研究の今後のあり方は,ミクロな個別的な場所性を明らかにしつつ,最終的に中央アジアという地域を総合的にとらえるということです。ミクロだけではやはりだめで,最終的に中央アジアとはこういう地域ですということを,個別的な学知の蓄積を図りながらとらえていくということです。そして,それに基づいて,他地域の研究者たちと対話をして,成果をわかりやすい形で社会に発信していくことが必要なのではないかと思います。これが,私が考える中央アジア地域研究の今後のあり方です。

ただ,もちろん課題はたくさんあります。これからも科研費がどんどん減っていき,少子化で大学のアカデミックポストもおぼつかなくなっていくなかで,さらに国際化や短期的な成果主義と向き合う必要が出てきています。地誌学のような話は,おそらくそれほど儲からないので,そういったこととどのように両立させていくのかということは,真面目に考えなければいけないと思っています。

あとは若手のリクルートです。そのためにも,やはり中央アジア地域研究は面白いという発信をわれわれがしていかなくてはいけないでしょう。

Q&A セッション
植田暁氏

司会 植田暁(アジア経済研究所新領域研究センター)

植田 では質疑応答にうつりたいと思います。質問のある方はどうぞお願いいたします。

――熊倉先生への質問です。巡礼圏の話が出てきましたが,これは非常に面白い発展可能性のあるテーマだと思います。私の十分実証的でない思いつきですけれども,エリートが巡礼をする場合に,いろいろなレベルがあるのではないかと思います。たとえば,もっぱら共和国のなかでだけ巡礼するエリート,つまり下級エリートです。それから隣接共和国まで広げて巡礼するエリート,これは中央アジアはどのくらいいたかは,ある程度出ているのでないかと思うのですが,カフカースなどは確実にいたと思います。それから,ソ連全体で巡礼するエリートです。これは,たとえば中央アジアの場合,いなくはないけれども比較的少ないのではないかと思います。モスクワやレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)に行く人は,一時モスクワかレニングラードで勉強してから,また現地に戻って,現地の比較的近い所で巡礼するのです。ところがロシアだけではなく,ウクライナ,ベラルーシ,それから,アルメニア辺りであれば,比較的少数であるけれども,ソ連全土で巡礼するという高級エリートが出てきます。

こういった巡礼圏のレベルを異にする複数のレベルのエリートがいたのではないかという仮説をもっているのですが,どの程度当たっているかということについて,教えていただけたらと思います。

熊倉 巡礼圏にもいろいろなレベルといいますか,全国へ行く人もいれば共和国の枠内にとどまる人もいるという違いがあって,それが出身の民族とある程度対応してくるのではないかというのは,私も思っています。

具体的に申し上げますと,ヨーロッパ系の民族の場合には,全国を転勤して巡礼するといったことが多々あるのに対して,中央アジアの現地出身のエリートで全国を回る人はほとんど見かけられませんし,先ほどおっしゃられたとおり,多くの場合は最初の頃にモスクワやレニングラードで教育を受けて,各出身の民族共和国に戻っていき,そこでキャリアを積んでいきます。そして,多くの場合,キャリアの巡礼はその共和国の枠内でとどまるといったことになるのではないかと思います。

私が知っているかぎりでは,以上のような理解なのですが,確かにカフカース出身の民族のエリートについては,隣接する共和国に赴任するケースもそれなりにあると思いますし,また,全国転勤をする民族エリートも,全体のなかでは少数ですけれども,それなりに存在感のある人が輩出されてきているとも思います。

――「権威主義的紛争マネジメント」(authoritarian conflict management)について,宇山先生に質問です。独立以降,私から見ると経済的ショックしかなかった不安定なトルクメニスタンで,なぜ権威主義体制が確立していったのでしょうか。

もうひとつ,樋渡先生にも質問をさせてください。とても興味深いテーマで,やはり中央アジア人――とくにクルグズスタンとタジキスタン――といったら,海外からの送金がおもな関心事項になってくると思います。この国外からの送金は,国内でのヒューマンキャピタルの成長・発展につながっているのでしょうか。

そして熊倉先生へのコメントです。私もやはり巡礼の場合は,ヨーロッパ系活動家と東方の現地エリートの違いが大きいと思っています。さらに,東方の民族,たとえばクルグズスタンの例でいうと,南部出身の官僚が北に行かなかったり,北部出身の官僚が南に行かなかったりなどして,そういう差異が各共和国内でもあるという印象をもちました。

――宇山先生への質問です。中央アジアにおける権威主義は,ロシアや中国の台頭よりも早く成立・形成されたということですが,もう少し解説していただけますでしょうか。たとえば政治体制の要素だったり,あるいは,中央アジアのどの国で中国やロシアよりも早く権威主義が確立したかについてです。

樋渡先生にも質問があります。中央アジアでは,確かに急進主義といったらカザフスタンやキルギス(クルグズスタン),漸進主義といったらウズベキスタンやトルクメニスタンといわれました。確か1990年代にナザルバエフが「ウズベキスタンが先に立って発展方針を見せると思っていたのだけれども,カザフスタンのほうが1人当たりのGDPが発展して中央アジアのリーダーになった」ということを述べました。ウズベキスタンが漸進主義を選んで,ウズベキスタンの発展モデルというものは,当時,日本側からも高く評価されていましたが,経済政策の面でウズベキスタンはなにがだめだったのでしょうか。あるいは,この25年間は「停滞の25年間」といわれていますが,漸進主義はモデル的には非常に正しいものなのだけれども,一体どこでウズベキスタンがミスをしたのか,ご意見を聞かせていただきたいと思います。

宇山 手短に言うと,お二人の質問は関連しあっていると思います。中央アジア諸国の権威主義体制が早く成立した事情については,それぞれの国で違うので,今お話ししていると長くなりますから,『現代中央アジア論――変貌する政治・経済の深層――』(2004, 日本評論社)の第2章に詳しく書きましたので,どうかそれを読んでいただければと思います。

トルクメニスタンについては,ソ連崩壊前後の不安定な事情が権威主義体制の成立に深く関わったというのが私の主張のひとつなのですが,もうひとつの主張は,かつての民主化論が前提としていたような世界各国の政治は民主化するのが自然の流れであるというのと逆で,権威主義化を止める要因がなければ,権力者は権威主義を目指す傾向が強いということです。トルクメニスタンの場合は,それを止める要因が非常に弱かったことが大きいと思っています。

パネリスト間の議論も少し必要だと思うので,私からお三方の報告に一言ずつコメントないし質問をしたいと思います。

樋渡先生のお話は,移行経済論と開発経済学という2つの分野と中央アジア研究の関わりという大変興味深いお話でした。移行(transition)という問題は,政治学でも重要なテーマだったのですが,「なにから」というのははっきりしていますが,「なにへ」の移行なのかということが,政治体制の多様化にともなってなんともいえなくなってきて,これは結局移行ではないのではないか,移行パラダイムの終焉ということが21世紀に入る頃からいわれるようになりました。旧ソ連諸国については,ソ連の遺産やソ連崩壊の経験は重要であるけれども,それを移行というパラダイムで眺めるよりは,比較政治一般のなかにおける旧ソ連諸国の位置づけということで考え直そうということになったと思います。経済学の場合は,この移行経済論と開発経済学がどのように折り合っているのかということに関心をもちました。

それから,熊倉さんのご報告にあったコラボレータ論は「協力」ということに注目が集まりがちなのですが,コラボレータ論の中心的な論点は,帝国権力と現地社会の関係で,現地社会を代表する人が帝国に協力するのか,もしくは抵抗するのかという話です。ですから官僚であっても,現地社会を代表しているような位置づけであれば,コラボレータになり得る,よばれ得るのです。ソ連の場合は,初期の有力者がつぶされて,ソビエトシステムのなかで養成された人たちが官僚になるのだけれども,彼らも 地元の代表者としての性格を完全に失ったわけではなくて,ソ連末期にはその役割がとくにクローズアップされて,彼らがリーダーとして独立共和国を率いるという流れになるのです。これが,はたして中国,とくに新疆についていえるのか。今,中国共産党体制の下での新疆のエリートたちは現地社会を代表しているのかどうかというのが,大きな論点になるのではないかと思います。

それから,地田先生のご報告にあった,地誌学的な研究が重要だというのは私も完全に賛成です。ただ,研究者が行かないような資源探査のための地域などに民間企業やJICAの人が行くというのはそうなのですけれども,おそらく州レベルのくくりで考えた場合,中央アジアのなかに日本の研究者が行ったことがない場所はほとんどないはずです。それを人文地理や地誌学という枠組みでまとめるような試みはこれまでほとんどされてこなかったということだと思いますし,文化人類学的な研究で蓄積された地 誌学的な知識を,どうやって個々のフィールドを越えた中央アジア全体のものとして位置づけ直すのかも,必ずしも明示的にはされてこなかったということだと思います。そのあたりを地田さんが音頭をとって,ひとつのプロジェクトなり本なりにまとめるといいのではないかと思いました。

植田 宇山先生,ありがとうございました。では,宇山先生からのコメントも受けまして,樋渡先生,お願いいたします。

樋渡 初めに海外送金と国内のヒューマンキャピタルの問題,これは非常に難しい問題です。これを考えなければいけないときに,データを見ても,そもそもどういう人がミグラントを出すのかという問題も関わってきますので,データを一見しただけでは,相関関係がわかったとしても,因果関係についてはなにもいえない問題なのです。

なかなか難しい問題ですけれども,それをクリアしようとしたひとつの実証分析の結果として,先ほど山田先生の研究[山田2019]を紹介しました。その結果を見るかぎり,タジキスタンにおいては,親が子どもの教育にどれだけ投資するかという点において,送金はネガティブな影響を及ぼしています。とくに女の子のほうがネガティブです。これはミグラントで行くことによって,先ほどいったような教育に対する期待が下がる効果もあります。あとは女の子の場合だと,おそらく親が行ったから家の仕事をやらなければいけない,学校に行っている場合ではなくなるなど,そういう問題もあると思います。ただ,このあたりは明らかになっていないことも多いので,他の国などでもこうした研究が増えるべきなのではないかと思います。

ふたつ目の「経済政策の面でウズベキスタンはなにがだめだったのか」という質問ですが,ウズベクモデルがだめだったと思っているわけではありません。ウズベクモデルを非常に評価している,先ほど少し紹介したポポフ先生などもいるのです。

カザフスタンと比べて,なぜこのような差ができたかといえば,これはひとえにカザフスタンはカスピ海沿岸で天然ガスがあり,非常にガスオイルの輸出ポテンシャルがあるということです。ウズベキスタンは産出はしますけれども,国内需要もありますし,輸出できるほどではありません。この天然資源の問題があるので,そこでウズベキスタンの政策がだめだったかどうかを論じるのは少し違うと思います。

ただ,ウズベキスタンの経済政策にたくさんの問題があったのは確かだと思います。いろいろと挙げられるのですが,たとえば代表的な問題として為替レートがあります。これは大統領が交代するまで,為替レートの自由化はできなかったのです。2重の為替レートが存在するのは,本当に外資などが入ってくるうえでの最低条件です。そういった最低条件が満たされていなかったのです。

それには政治的な理由があると私は思っています。政治的な抵抗勢力があって,2000年に一度,カリモフ大統領が為替自由化をやろうとしますが,そのときにまた戻ってしまいました。たとえば綿花や金などの輸出企業は,為替を自由化しないほうがいろいろなレントがとれます。彼らは外貨へのアクセスがあり,国内で法外な値段で売ることができたりするのです。そういったいろいろな政治的な理由で,明らかに経済的に合理性や効率が上がる政策がとられなかったというのは,さまざまな面で見られると 思います。これは経済的な問題だけでなく,政治経済的な問題です。

次に宇山先生に質問いただいた移行(transition)です。確かに1990年代当初は,市場経済,資本主義市場移行という一直線の単線的な発展の経路があるように思われていました。ただ,そうした市場移行への見方は,1990年代を経て非常に変わってきたと思います。背景としては,計画経済への揺り戻しなどが起こっているわけではないのですが,資本主義といってもいろいろな種類があるということが認識され始めたことがあると思います。たとえば中国のそれです。そういう影響は非常にあって,2000年代以降,一直線に目標に向かっていくという形ではなくなってきたことがあると思います。

一方で開発経済学では,1990年代以降,途上国での市場の失敗などについての研究が増えてきます。どういう市場が失敗して,では政府にはどういう役割があるのかといった議論も盛んになってきます。そういう議論は,両分野にかなり親和性があるような形になっていると思います。

植田 コメントがある方がおられますね。お願いいたします。

――樋渡先生は資本主義の複数性ということをおっしゃっていて,それは賛成なのですけれども,いずれにせよ,どの型かは別にして,資本主義化していることは間違いなくて,計画経済に戻ることはないのです。ですから,経済に関して,やはり移行ということはいえるのだと思います。

ところが,政治に関しては,市場経済あるいは資本主義化にリベラルデモクラシー型の政治をともなうか権威主義体制をともなうかというのは,これは両方あり得ると思います。どちらかというと,権威主義のほうが大いにあり得るというのが,この間の現実なので,私は移行論は経済についてはまだしも成り立つけれども,政治については全然成り立たないと考えています。それは,中央アジアでまさしく一番早くあらわれて,ソ連解体の前夜から,すでに1990年ないし1991年の段階で,ウズベキスタンやト ルクメニスタンにはそれがあらわれ,それがその後,他の各国に広がったのではないかと考えています。

植田 ありがとうございます。続いて,報告の順で,熊倉先生と地田先生,質問やリプライがありましたら,お願いします。

熊倉 「ヨーロッパ系活動家と東方の現地エリートの違い」というコメントについては異論はなにもなくて,全国転勤,全国巡礼をする人たちは大体ヨーロッパ系で,現地の人たちは,その共和国の枠を出ないというのは,先ほど申し上げたとおりです。

さて,宇山先生からいただいたコメントに触発されて考えるのは,ソ連の党官僚はコラボレータといっていいのかどうかといったところも議論になるのではないかと思います。初期の頃は,コラボレータらしいところが多々あったと思うのですが,少なくとも大テロルを経て,現地社会の代表としての性格がどのくらいあるのか,現地民族だからということで現地社会を実質どの程度代表していると見ていいのか,といったところから慎重に議論したほうがいいのではないかと思います。そういうことも含めて,ソ連的コラボレータといいますか,19世紀の帝国にはなかった,あるいは植民地帝国にはなかったソ連的なコラボレータというのが,概念を少し見せてくるのではないかと思う次第です。

植田 ありがとうございます。では地田先生,お願いします。

地田 宇山先生からのコメントで,州レベル単位で行っていない場所はないというのは,そのとおりだと思います。(地誌について)実際にきちんと人を束ねてなにかを出すという作業をしなければいけないということは,自分でも感じています。

ただ,自分のフィールドに重ね合わせてしまうのですが,やはりアラル海の地域でも,そこの村などがもっている自然環境など,いろいろな社会的のコンテクストによって,かなり生業のあり方が違ったりするので,ある程度ぐるりと巡検しながら見ていくという作業が要るのではないかということをイメージしていた感じです。いろいろな牧畜のあり方や生業のあり方などを,もう少しグラデーションで見ていくようなことができると,そのグラデーションがだんだん外のほうにつながっていって,北東アジアや他の地域などとも比較ができるのではないかというのが,私なりの考えです。おそらくそのためには,きちんと環境的な要素を加えながら,地誌をきちんと書いていく作業が必要だと思うので,やはりやらなければいけないだろうと改めて思った次第です。

私からも質問してよろしいでしょうか。まずは熊倉先生に対する質問です。ソ連をある意味,帝国としてとらえた場合,帝国権力と現地社会をつなぐ役目を果たす人々をコラボレータと考えた場合,共産党のノーメンクラツーラや地方の議員さんなども全部コラボレータになるのでしょうか。

樋渡先生にも質問させてください。私はどちらかというとミクロな地域のコンテクストを結構重視してやってきて,樋渡さんの話も,おそらくそういったミクロのコンテクストがご自分のフィールドにあるのではないかと思ったりするのです。やはり村や地域のもっているコンテクストの違いというものが,移民のあり方などに出てくるのかということを知りたいと思いました。

最後に宇山先生への質問です。権威主義的紛争マネジメントの話ですが,考えてみると,1995年に永世中立を宣言したトルクメニスタンの隣にはアフガニスタンがあります。そういったことも関わってくるのではないかという気がしたのですが,どうでしょうか。

植田 ありがとうございます。では,ご報告順に簡潔にリプライをお願いできますでしょうか。

宇山 先ほどは非常に大ざっぱに答えましたけれども,トルクメニスタンの場合は,もちろん安全保障の問題が意味をもっていないということではなくて,国内的にもいろいろな隠れた対立があるといわれるなかで,ニヤゾフとベルディムハメドフが体制を確立してきたわけですし,もちろん隣にはアフガニスタンがあるということは大きなことです。

ただ,紛争マネジメントと関連させてアフガニスタン問題についていえば,トルクメニスタンはむしろタリバンに融和的であったり,その後のアフガニスタンからの脅威の拡大についてもウズベキスタンやタジキスタンに比べると国境警備も少し甘く,それゆえに時々銃撃戦が国境で起きたりしています。こういったことを考えると,必ずしも対外的な紛争への対応のハードさと国内の権威主義体制のハードさとは比例しないという例のひとつでもあるのだろうと思います。

樋渡 私はケーススタディでフェルガナ盆地のマハッラへ頻繁に行ってまして,もう第2の故郷のようになっていますが,アンディジャンという州は面積は狭いのですが人口がたくさんいます。ですから,そもそもネットワークが期待される地域で,コミュニティーが強い地域をあえて選んでやっているのです。そういう地域であっても,一気にコミュニティーから人がいなくなるという状況になり得ます。そうであれば,ネットワークが弱い地域のコミュニティーはなおさらではないかということも考えられています。

すみません,私からもひとつだけ質問いいでしょうか。宇山先生にお聞きしたいのは,こういう中央アジアの地域研究は,どのようにしてより広い一般理論へ貢献できるのかという話です。私がこうしてケーススタディをやっているのは,別にこれをウズベキスタン全体に一般化するためではありません。むしろ,なにか一般論があって,それに対して少し違う異例を見つけてくるのです。そうなってくると,一般論を修正することは十分に可能で,そこがケーススタディの強みだと思ってやっています。

ですから,むしろ極端な場所を選ぶほうがいいのです。ネットワークが強いのであれば,ネットワークが強くてもこういうことが起こり得るなど,そういう形でケーススタディをやろうとしています。中央アジアは,そういう意味で結構やりやすい地域であって,一般論の修正ということに対して非常に貢献できるのではないかと私は思っています。一般論に対する中央アジア研究の貢献の仕方について,宇山先生のお考えもお聞きかせいただければと思います。

宇山 政治学の場合は,経済学以上に一般理論はそう簡単に作れない分野なのです。かつてはグランドセオリー志向のようなものもあったのですが,それはなかなか難しいので,もう少し範囲を絞った中範囲理論のようなものが,むしろ多くの人が目指しているところではないかと思います。

ただ,問題なのは,欧米やラテンアメリカを出発点として作られた理論が,作った人はそれが完全に普遍的なものだと必ずしも思っていなくても,なにか普遍的なものとして流行してしまうことが,ままあるのです。それに対してのオルタナティブを提供するには,中央アジアはかなりいい場所なのではないかと,私も思っています。

樋渡 ありがとうございます。

植田 では,おそらく最後のリプライで,熊倉先生,お願いできますか。

熊倉 地田先生からのご質問,どうもありがとうございます。ノーメンクラツーラが当てはまるのかどうか,あるいは他の議員についてもコラボレータとしてみなせるのかどうかということなのですが,コラボレータの定義はひとまず脇に置き,比較の土台に乗せることになると思います。ただ,もちろん若干の違和感がともないます。ですので,その辺は定義の伸縮とも関係しますけれども,コラボレータといえるかどうかということが,そもそもの議論,研究の主眼となるのではないかと思います。

先ほども申し上げましたとおり,革命期においては,協力者らしい人,コラボレータらしい人がそれなりにいると思うのですが,時代を追って,そういう人がいなくなっていくという,そのことを含めて研究しなければいけないと思っています。

宇山 今の点について一言だけです。コラボレータ論については,私のプロジェクトで散々議論をしましたが,コラボレータの定義を話し出すと収拾がつかなくなります。あるいは,これはコラボレータといえるのか否かということを話すと,収拾がつかなくなります。そうではなくて,コラボレータ「論」がどういうケースに使えるのかということを考えたほうがいいと思います。

植田 本当に議論が尽きないとは思いますが,時間になりましたので,このあたりで締めようと思います。皆さま,ありがとうございました。

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