2021 年 62 巻 1 号 p. 2-33
1979年1月の米華断交後,米国が台湾関係法を制定したことで,国府は台湾の防衛に関して米国から一応の保障を得ることができた。だが同法は米華相互防衛条約と異なり,米国に台湾防衛の義務がなかった。そのため蔣経国は単独で台湾を防衛することを想定し,「大陸反攻」の態勢を保持していた国軍を「台湾防衛」型の軍隊に改編させた。また,同法に依って提供される「防御性」兵器も米国の判断で選択されるため,国府のニーズに合った兵器とは限らなかった。それゆえ国府は,「大陸反攻」のイデオロギーが色濃く残る大規模な陸軍兵力の削減によって経費を捻出し,兵器の自主開発・生産体制の構築と米国以外からの調達で軍近代化を進めた。米華相互防衛条約の失効という安全保障上最大の危機への対応を迫られた蔣経国は,実質的に「大陸反攻」の構想を「放棄」した。そして国軍は「攻守一体」の軍事戦略に基づく「大陸反攻」任務とのジレンマを抱えつつ,「台湾防衛」のための軍隊へと変貌していくのであった。
After diplomatic relations were broken off between the US and the Government of the Republic of China (GRC) in January 1979, the US enacted the Taiwan Relations Act, which provided the GRC with a modicum of assurance from the US about the defense of Taiwan. However, unlike the Sino-American Mutual Defense Treaty, the Act did not obligate the US to defend Taiwan. Therefore, President Chiang Ching-kuo assumed that the GRC would have to defend Taiwan on its own, and the Republic of China (ROC) Armed Forces, which had maintained the posture of retaking the mainland, was reformed into a military for homeland defense. The “defensive” weapons provided under the provisions of the Act were selected at the discretion of the US, and were therefore not always appropriate for the needs of the GRC. Accordingly, the GRC defrayed its costs through a massive reduction in army forces, which remained steeped in the ideology of retaking the mainland. The GRC then proceeded to modernize the military by establishing an independent development and production system for weapons in addition to procuring them from outside the US. Forced to respond to the expiration of the Sino-American Mutual Defense Treaty—the biggest security crisis that the nation had faced—President Chiang Ching-kuo practically “abandoned” the mission of retaking the mainland. However, as the military strategy of unity of offensive and defensive remained, the ROC Armed Forces were transformed into a military for the defense of Taiwan, with a mission to retake the mainland based on this strategy.
はじめに
Ⅰ 蔣経国の総統就任と米中国交正常化への対応
Ⅱ 米華断交と「台湾防衛」型の軍隊への改編
Ⅲ レーガン政権への期待と国軍の「大陸反攻」任務
Ⅳ 「台湾防衛」型の軍隊への変貌と将来的な「大陸反攻」への望み
おわりに
1978年5月20日,中華民国第6代総統に就任した蔣経国は,就任から約半年後に米中国交正常化といった外交上の衝撃を受け,「中華民国」の存続に直結する安全保障上最大の危機への対応を迫られることとなった(注1)。
1949年10月1日,中国共産党(以下,共産党)が中華人民共和国(以下,中国)の成立を宣言すると,中国国民党(以下,国民党)が指導する中華民国政府(以下,国府)は中央政府を台北に移転させ,蔣介石は軍事力で中国大陸の奪還を目指す「大陸反攻」の準備を開始した。一方の中国は「台湾解放」を掲げ,「正統中国」を主張する二つの政府の台湾海峡を挟んだ対立が始まった。そして朝鮮戦争を契機に両政府の対立は「冷戦」に組み込まれ,台湾海峡の「現状維持」を決めた米国は,「米華相互防衛条約」(注2)を結ぶことによって中国の「台湾解放」を防ぐ一方,国府の「大陸反攻」をも防いだ[松本 1998; Lin 2016]。
1960年代に入ると,国府は中国の大躍進政策による社会の混乱を契機とし,幾度となく機会をとらえて現状の変更を試み,米国に「大陸反攻」への支持と軍事的な支援を求めた。しかし,台湾海峡の「現状維持」を望む米国に断られ続け,国府は一度たりとも大規模な「大陸反攻」作戦を発動することができなかった(注3)。そして,米国からの無償軍事援助(Military Assistance Program: MAP)の削減と中国の沿岸防衛戦力の強化を前に,国府は1969年3月の国民党第10回全国代表大会後,1949年以来続いた「攻勢作戦」の軍事戦略を,大陸光復のための「攻勢」と,中国統一のための復興基地として位置づけた「台湾」の安全を保障するための「守勢」を目標とした「攻守一体」へと転換した[五十嵐 2019]。
1969年7月,蔣経国が国防部長から行政院副院長に転じて間もなく,ニクソン大統領がグァム・ドクトリンを発表し,アジア諸国に防衛責任の自己負担を求めた。またニクソンは,ソ連や北ベトナムとの交渉を有利に進めるため,中国への接近に踏み切った。1971年7月,ニクソンが訪中の意向を発表すると,国府の国際的な立場は急速に悪化し,10月の国連総会で中国の国連代表権が承認され,国府は国連からの「脱退」を宣言した。ニクソンが1972年2月の訪中で毛沢東らとの会談を経て共同声明(以下,「上海コミュニケ」)を発表すると(注4),国府内部では「国難」を乗りこえるため蔣経国に指導力の発揮を求める声が高まるほか(注5),高齢化した党幹部の世代交代を求める主張が強まっていた[頼 2017, 23; 29]。そして同年6月,蔣経国は行政院長に就任し,1969年の交通事故以来,表舞台に立つことが少なくなった蔣介石の最高権力を実質的に引き継ぐこととなった(注6)。しかし,蔣介石の存命間,あくまで蔣経国は病床に就く総統の権限を「代行」している状態であり,その国防建設は,「大陸反攻」を前提とした従来の蔣介石路線に従うものであった[五十嵐 2020]。
蔣経国の国防建設に独自性が出てきたのは,1975年の蔣介石死後に「今後の国防方針」を示してからのことであった(注7)。ただし,それは高位軍人のリストラなど人員削減による国軍の少数精鋭化を目指すものであった。「大陸反攻」を行うためには大規模な兵力が必要であり,さらに戦場が中国大陸であることを考えると,その土地で戦ってきた彼らの経験は重要であった。しかし,高齢化した彼らは過酷な実戦に相応しくないばかりでなく,多額の人件費として限りある国防予算を圧迫し,かえって「大陸反攻」に必要な戦力構築の妨げとなっていた。この方針が示された後,国軍は人員削減の検討を始め,定員の見直しや退役制度の厳格化などを定めるのだが,そのプロセスは「自然減」を期待する消極的なものであった(注8)。一方,蔣介石の死後,周恩来や毛沢東などが相次いで亡くなると,国府では共産党内の権力闘争を好機ととらえ,「大陸反攻」の気運が高まっていた。しかし,「攻守一体」の軍事戦略を掲げてはいたものの,国軍は「大陸反攻」に必要な戦力を構築できていなかった。そして1977年8月に「文化大革命」が終結する頃には,国軍将兵たちの「大陸反攻」に向けた気運は収まりを見せており(注9),それは発動されることなく収束を迎えた。
その後,1978年5月に蔣経国は中華民国第6代総統に就任,名実ともに国軍の最高権力を掌握した。そしてその年末,カーター大統領が中国との国交正常化を発表し,「米華相互防衛条約」は終了を迎えることとなった(注10)。蔣経国が行政院長を務めた1972年6月から1978年5月の期間は,おおむね米中国交正常化のプロセスと重なった。しかし,その国防建設は,「予想される対米断交」に備えて国府が独自に「台湾」を防衛する体制を整えることを目指したものではなく,あくまで「大陸反攻」に重きを置いた蔣介石の路線を継続するものであった[五十嵐 2020]。
2. 先行研究とその課題1978年5月から約10年間におよぶ蔣経国の総統期を対象とした研究は,多くが民主化の過程や経済建設に関心を寄せている(注11)。殊に「台湾」の国防軍事・安全保障面に関しては,近代化が進む中国人民解放軍(以下,解放軍)との軍事バランスに注目が集まるほか[Wu 1994],米国による「台湾関係法」(注12)の制定プロセスや対華武器売却の再開に焦点が当てられていた[Chou 1988; Garver 1997; 戴 2001; 李洪波 2014]。
それでは,「米華相互防衛条約」によって事実上「台湾」の防衛を米国に依存してきた国府は,同条約の終了をどのように受け止め,どのように安全保障上の危機に備えようとしたのであろうか。平松[2005, 122-138]は,米国との外交関係断絶という事態に直面し,国府は一層軍事力の強化,装備の近代化,兵器輸入先の分散化,兵器・装備の国産化に力を入れることになったと,ニクソン訪中後の対応からの継続として論じる。平松をはじめとする多くの研究は,兵器・装備の近代化に着目しているが,国軍の編制について触れた研究も存在する。たとえばCole[2006, 27-28]は,すでに1970年代を通じ,国軍が蔣経国の指導下で島嶼防衛型の軍隊に性格を変えたと指摘し,小川[1995, 92]は1980年代の軍事力が「大陸反攻」に相応しくない構造をしていると説明する。また林吉郎[1992, 110-111]は,蔣経国が1975年9月に今後の国防方針を示し,人員削減による国軍の少数精鋭化と武器・装備の更新による戦力強化に取り組み始めたと指摘する。しかし,これらの研究は必ずしも国軍の具体的な改編や近代化の動向,作戦準備の態勢などについて説明できていない。
一方,蔣経国の総統期における国防軍事・安全保障を論ずるうえで着意しなければならないのは,当時は「攻守一体」の軍事戦略に基づき,国軍の任務として「台湾防衛」のみならず,「大陸反攻」も掲げられていたことである(注13)。この「大陸反攻」について,若林[1987, 386]は,1960年代以降の順調な経済発展が続くなか,そのスローガンはいつの間にか消え,軍事よりも政治,経済の成果によって「反共」の正しさを顕示するようになったと説明する。松田[2013, 355-357]は,蔣介石の退場とともに消えたと論ずる。しかし,2015年に李登輝元総統が,1990年代初頭の時点で国民党には「大陸反攻」を考えている党員がいたと明かしているように(注14),「大陸反攻」は蔣介石ただ一人の執念に収まらず,国是・党是として浸透し,蔣介石の死後も消えることはなかったのではなかろうか。五十嵐[2016]は,米華断交後も保持された「攻守一体」の軍事戦略が「守勢防衛」へと転換され,武力による「大陸反攻」を完全に諦めたのは,蔣経国の死後に李登輝政権が「国家統一綱領」を示した1991年のことであったと指摘する(注15)。実際,1982年に再版された『国軍軍事思想』には,現段階の国防思想として「大陸反攻のため,まず金門,馬祖,台湾,澎湖の防衛に着手しなければならない」と明記されている(注16)。また,夏鎮中[2006, 67-70]や李銘藤[2009, 162-166]は,国府が1980年代にも特殊作戦部隊などを中国大陸に潜入させて軍事的な反攻へ発展させる準備をしていたことを指摘している。そして門間[2016, 56-57]は,李登輝政権の下で国軍が「台湾」を守るための軍隊に改編されたと指摘する。
このように,従来の研究では蔣経国が総統であった1978年から1988年の期間,「攻守一体」戦略下において国軍の任務となっていた「大陸反攻」の構想や,米華断交後における「台湾防衛」の体制構築については関心が寄せられることは少なく,国軍の態勢についても不透明なままであった。とりわけ,蔣経国政権下の国府は,いつ「大陸反攻」を不可能と認めて実質的に「放棄」することを決断し,そしていつ「台湾防衛」型の軍隊への改編に踏み切ったのであろうか。
3. 史資料と研究の目的これまで米華断交に関しては,米中国交正常化の裏面史として研究が進められることが多かった[松田 2011]。とりわけ,カーター政権期まで発行されている米国国務省編纂の「米国外交文書史料集」(Foreign Relations of the United States: FRUS)など,史料公開が進展している米国の外交文書に基づき,米国政府の対応を焦点として分析する傾向が強かった。また,近年,台湾では一次史料の公開が著しく進展しているものの,総統府直属の歴史編纂機関である国史館において「米華断交」をはじめとする蔣経国の総統期に関する重要な政治案件の公開には至っておらず(注17),国府側の認識についても米国の史料に依拠して論じられることが多かった。こうした制約があるなか,国民党中央常務委員会文化伝播委員会党史館(以下,党史館)に保管されている中央常務委員会(以下,中常会)会議紀録を利用し,米中国交正常化といった外交上の危機を国府がどのようにして乗り切ったのかを明らかにした研究もある[松田 2011]。
ただし,同会議紀録については第11期末の1981年3月下旬までの公開にとどまっており,FRUSについても1981年1月下旬からのレーガン政権期は公開されておらず,1981年以降を取り扱った研究の多くは,新聞などに依拠しているのが現状である。また,本稿では,2020年2月3日に公開された「蔣経国日記」の一部を利用した。ただし,公開された日記は,1979年12月までとなっている。したがって,米華関係を含む蔣経国の総統期における国防軍事・安全保障関連について,一次史料を用いて実証的に再検討するには時期尚早かもしれない。しかし,本稿では国防部政務弁公室史政編譯室に開示請求した「国軍史政档案」のほか,レーガン大統領図書館において収集した同政権期の公文書を利用するとともに,国軍将校の日記や回顧録などを活用し,蔣経国の総統期における国府の国防建設の実態について考察を進めることとする。
なお,本稿では,国民党機関紙『中央日報』と国防部機関紙『青年戦士報』(『青年日報』)を使用した。党や軍の機関紙についてはプロパガンダ的な要素が否めないものの,非公表となっている内容であってもその一部が漏れ伝えられることもある。とりわけ,1988年1月1日に報道の部分的自由化が認められる前については,発行停止処分などを含めて民間紙の浮き沈みが激しいため,一定の発行が保たれていた機関紙を利用し,それを丹念に読み込むことで時代の流れを感じ取ることに着意した。
ここまでの史資料の状況をふまえたうえで,本稿では,米華断交を迎えた国府が,「中華民国」の存続がかかる安全保障上最大の危機に備え,どのように米華断交後の「台湾防衛」体制の構築に取り組んでいったのかを明らかにするとともに,「攻守一体」戦略の下に維持されている「大陸反攻」に対する蔣経国や国軍高官の認識についても論じていきたい。
1978年5月20日,蔣経国は中華民国第6代総統の就任演説において,「三民主義の実践による大陸国土の回復」,「反共の立場の堅持」など,蔣介石路線を継承する基本方針を示した[蔣経国 1980, 47-52]。また,蔣経国が総統に選出された3月の国民大会において,宋長志参謀総長が国軍の主要な目標を「復興基地を堅固にし,大陸反攻の好機を創出する」と説明するほか(注18),立案中の1981年から10年間の長期計画についても「大陸反攻」を前提としているように(注19),「大陸反攻」を掲げていることも蔣介石の時代と変わりなかった。
だが,蔣経国政権が向かう道には,国防政策の再考が迫られる事態が待ち構えていた。ブレジンスキー大統領補佐官の訪中を直前に控えた5月12日,カーターはブラウン国防長官に対し,在台米軍の総数について緊急事態への対処を目的とした戦備物資管理と航空基地管理に係る要員660名を残し,10月1日までに撤退させるよう指示をした(注20)。この指示と同時期,台湾では「復興9号」米華共同兵棋演習が行われていたのだが,同演習の計画において,解放軍の侵攻に対して投入される米軍の作戦部隊は,すべて台湾以外の地域から派遣される運用になっていた(注21)。この演習は,すでに米軍が緊急事態へ対処するため最低限の要員のみを残した10月以降の態勢を基準に検証が行われていた。
ブレジンスキーの訪中後,アンジャー駐華大使は蔣経国を訪ね,中国側との会談について説明した。これに対して蔣経国は,正常化に関する具体的な進展の有無を問い,アンジャーはそのような証拠は見られなかったと回答した。ただしアンジャーは,個人的な予想として今後数カ月以内に米国政府が中国との正常化について具体的に検討を始めるであろうと述べた(注22)。そして,その「予想」が的中するかのように,1978年6月13日にヴァンス国務長官は12月中旬に中国との関係正常化を公表することでカーターから承認を得た(注23)。そして7月5日,北京でウッドコックと黄華による国交正常化交渉が始まった(注24)。米中国交正常化交渉がカーター政権の下で一気に加速していくのだが,国府側は断交の時が近づいていることを予期できていなかった[松田 2011, 179]。
2. 米中国交正常化直前における米国の対華武器売却1978年7月1日,米国政府関係者は,カーターが国府に対するF-4戦闘機の売却案を否認する考えであることを明かした(注25)。同時期,イスラエル訪問中のモンデール副大統領が,イスラエル製のクフィル戦闘機を国府へ売却することを承認したと報じられた(注26)。これら報道に対し,国府はイスラエルから同戦闘機を購入する計画は一切ないと発表した(注27)。
8月に入ると,国防省消息筋の話として,カーター政権が連邦議会に提出した1979会計年度(Fiscal Year 1979: FY79)(注28)の武器売却リストのなかに,国府向けに2億1770万ドル分の武器が含まれていることが報じられた(注29)。また,国防省の依頼を受けたノースロップ社が,国府の老朽化した戦闘機の更新用として新たにF-5G戦闘機を開発していることが明らかになった[Fink 1978, 12-13]。そして9月5日,米国政府はF-4やF-16戦闘機は航続距離が長いことから「攻撃性」戦闘機に該当するため国府の要望には応じず,国防省が提案したF-5Gの売却に同意し,カーターの批准後に連邦議会へ通知する旨を発表した(注30)。
10月26日,カーターは国府への武器売却を承認した。ただし,F-5Gが試作段階との理由で,1981年に共同生産が終了予定のF-5Eに改良を加えて追加生産することになった(注31)。
11月6日,蔣経国はアンジャーに対し,F-5Gの提供が認められなかったことは残念だと述べ,将来的にF-5GやF-16が提供されることに期待を示した(注32)。同日,国務省報道官はF-5E戦闘機48機を国府と共同生産することを発表するとともに,カーター政権の方針として航続距離が中国大陸に到達するF-4やF-16およびF-18戦闘機の提供を認めない決定に至ったことを説明した(注33)。翌7日,国府は国防部報道官を通じ,米国政府が台湾海峡の防空と復興基地の防衛に必要な高性能戦闘機の提供を認めなかったことに遺憾の意を表明するとともに,将来的に高性能戦闘機の提供が認められることに期待を示した(注34)。
FY79以降の戦闘機更新にかかる交渉において,米国政府は国府が望む高性能戦闘機に関して,イスラエルからクフィルを購入することを認めていた。だが国府は,米国以外から戦闘機を購入することで保守・管理が煩雑になると判断し,F-5Eの共同生産を延長することで妥協した(注35)。カーター政権下で米中国交正常化が現実味を帯びるなか,国府は戦闘機調達先の分散化に踏み切ることなく,米国への依存を強めていたのである。
3. 米中国交正常化発表に対する国府の対応1978年12月15日21時(台北時間16日10時),カーターが1979年1月1日に中国と外交関係を樹立することを宣言するとともに,国府に米華相互防衛条約の終了を通知することを発表した(注36)。蔣経国は米中国交正常化の伝達に訪れたアンジャーを通じ,米国政府に対して抗議の意を示した(注37)。また,同日に示された総統令(注38)に基づき,国軍は解放軍の侵攻に備えて警戒態勢の強化を進めた(注39)。
19日には孫運璿行政院長が1979会計年度の下半期(注40)における国防予算を増額し,最新兵器の購入と重要な武器の自主生産能力の向上に充てることを発表した(注41)。さらに各界に呼びかけた募金がわずか1日で1億元近くに達したため(注42),孫院長は「自強救国基金」を設け,その運用について検討を始めた(注43)。そして23日,孫院長は新型兵器の研究開発に資する軍・公・民連携体制を構築するプランを発表した(注44)。
一方で米中国交正常化の発表翌日,「国防次官補が中心となって国府への武器売却の継続に関する文書がすでに作成されている」とのリークが報じられたほか(注45),国務省サイドからも同様の発言が飛び交っていた。そのため宋長志は,解放軍が新たな戦闘機の配備を進めているため,米華相互防衛条約の失効後は台湾海峡の航空優勢が維持できなくなるとの危機感を米国政府に訴え,F-16やF-18の売却を再検討するように要求するとともに,再び拒否された場合は他国から調達する考えがあることを示し(注46),米国政府に揺さぶりをかけた。このほか宋は,各総司令部等に対し,断交後も6月末までの1979会計年度における在米研修や留学を継続するとともに,7月からの1980会計年度における在米研修などの調整を継続するように指示を出した(注47)。米華断交という危機を迎えようとも,米国の援助に依存せざるを得ないのが国府の置かれた現実であった。
4. 米中国交正常化直前における米華協議1978年12月末,クリストファー国務副長官が台湾に赴き,断交後の関係について国府側と協議を行った。その出発に先立ち,ブレジンスキーがクリストファーに対し,断交後に非公式の関係を維持していくための新しい取り決めについてカーターの方針を伝えた。また,承認済みの武器売却については予定どおりに進め,1979年末までは新たな契約を結ばないものの,1980年以降は再開予定であることが国府側に伝えられることになった(注48)。
訪台したクリストファーは,蔣彦士外交部長や宋長志参謀総長らと協議を重ね,米国側は米華相互防衛条約を除き,両国間で締結された各種条約を継続する意向を正式に表明した。これに対して宋は,国府を取り巻く厳しい安全保障環境を説明したうえで,高性能戦闘機と各種最新兵器の提供,軍事協力関係の実質的な継続を要求した(注49)。また蔣経国はクリストファーに対し,①両国関係の持続と不変,②「中華民国」が中国を代表する正統な政府として存在する事実,③米華相互防衛条約失効後の安全保障,④防御性兵器の売却継続に関する法制化,⑤公式な政府間関係の将来的な構築,を将来の米華関係で築かなければならない五原則として訴えた(注50)。しかし,この協議で具体的な結論は見いだされることはなかった(注51)
事実上「台湾」の防衛を米国に依存していた国府にとって,米華断交は「中華民国」の存続がかかる安全保障上の危機であった。その「国難」に際し,国府は米国政府に対して断交前と実質的に「不変」の関係を求めたのであった。
1979年1月1日,国府は米国と断交した。米国が国府に対して米華相互防衛条約の終了後も武器売却を継続すると説明したものの,国府が必要とする武器が売却を認められる保証はなく,かつ米国の「台湾防衛」に対するコミットメントも不確実であった。
そのため国府は,独自に武器の研究開発・生産を完結できる国防工業を育成するため,行政院に「国防工業発展政策指導小組」を設置し(注52),立法院の議決を経て「国防工業発展基金会設置条例」を制定した(注53)。24日には同小組が「国防工業発展強化・国軍武器装備自製推進構想」を示し,軍・公・民営工業の連携を促進して国防関連工業を効率的に発展させるための実施要領や,研究開発の優先順位などを定めた(注54)。
国府は国防工業を構築していくにあたり,1960年代から軍・公・民の連携を図っていたが,国内の関係する法規の整備が行き届かず,かつエンジニアと資金が不足していたため,その発展が滞っていた(注55)。ところが,米華断交の衝撃を受けて集まった基金によって思いもよらず資金不足が解消され,それを有効に運用するために政府は横断型の組織を設置し,国防工業の発展を阻害していた問題の解消に道筋をつけることができたのであった。
一方,国民党中常会では,軍事工作全般の改革について議論を行っていた。しかし,その検討結果は,情勢の変化への対応こそ強調されていたものの,「攻守一体」戦略を軸とする従来の路線と変わりなかった(注56)。また,国軍についても,大陸で動乱が起きそうな地域に特殊作戦部隊等を潜入させ,彼らによって抗争や暴動の激化を導き,大陸の民衆や軍人を「大陸反攻」の主戦力として蜂起させ,その騒乱に乗じて国軍本隊を大陸に送り込むことをねらいとした「王師」作戦計画など,反攻作戦に関する計画の検証を続けていた(注57)。
ところが立法院第63会期の開会に先立つ施政報告において,行政院は「大陸反攻」の契機を創り出すために国軍が積極的に敵後背地における工作を展開している旨を強調する一方で(注58),「大陸光復」を成し遂げるためには,新たな概念,新たな方法,新たな実力を用いる必要があることを指摘した(注59)。また,孫運璿行政院長が立法院で実施した施政報告において,現情勢下で進めるべき国防三大要求として,①堅固な基地防衛,②国軍戦力の増強,③国防工業の発展,と示すように(注60),米国から台湾の防衛に対するコミットメントが得られる保証がない状態では,「攻守一体」を掲げていようとも,国府にとって最後の拠点である「台湾」を確保するための「守勢」に努力を傾注せざるを得なかった。そして,国際社会における最大の後ろ盾であった米国が中国と国交を正常化させた今,国府は「大陸光復」を達成するための「攻勢」の方策について再検討を迫られていたのである。
2. 「台湾関係法」制定前後における国府の対応米中国交正常化の発表以降,国府は米華相互防衛条約の失効に乗じて解放軍が台湾へ侵攻を始めることに備え,警戒態勢の強化を続けていた(注61)。一方,解放軍が1979年1月1日から金門島に対する砲撃を停め,台湾海峡に面する中国沿岸部の解放軍部隊をソ連やベトナムとの国境に転用していることについて,宋長志は,海・空軍部隊の配備はまったく変更されていないことから,中国が従来の武力による「台湾解放」から「平和的統一」に政策転換したことを示すものではないと説明し,引き続き警戒を強化する必要性を訴えた(注62)。米国がいかなる形で台湾の防衛にコミットメントを続けるか不透明のなか,国府は解放軍の侵攻に対する警戒を強めつつ,米国の立法措置を待ち続けるほかなかったのである。
そして1979年4月10日,カーターが「台湾関係法」に署名し,同年1月1日に遡及して施行された(注63)。同法には,台湾の安全保障と武器売却に関する規定が明記されていた(注64)。米国は,台湾を防衛する「義務」を放棄したが,米華相互防衛条約の失効後も台湾関係法によって台湾の安全保障にコミットメントする「権利」を留保した[松田 1996, 130-132]。同日,カーター政権が年末に迎える米華相互防衛条約の失効までの間は,従来の計画に基づき海軍艦艇を台湾に寄港させることを容認したほか,米華共同軍事演習についても実施要領を検討中であることが国務省関係筋の話として報じられた(注65)。また1979年4月17日,米国在台協会(AIT)は,国府側が設置した北米事務協調委員会(CCNAA)を通じ,年末までに終了する軍人の在米研修や留学については計画通りに行い,翌年まで続くコースについては少佐以下に階級を制限して継続することを通知した(注66)。国交正常化に向けた米中交渉の主要な論点は在台米軍の撤退と武器売却であったため,中国にとっては盲点を突かれた形で米華間の防衛協力が続くこととなった。
こうして米国政府が台湾関係法に基づき断交後も国府への武器売却を継続する姿勢を示したことで,台湾海峡の航空優勢が失われることを危惧する国府に対し,米国の航空機メーカーによる次期戦闘機のセールス競争が始まった。台湾を訪問したノースロップ社の社長は,台湾に工場を増設してF-5Fを海外輸出用に共同生産するほか,米国政府がF-5Gの売却を認めた際にはそれを台湾で共同生産する考えを示した(注67)。また,ジェネラル・ダイナミックス社の工場責任者が台湾を訪問し,F-16をノースロップ社と同様の方式で共同生産する考えがあることを明らかにした(注68)。
1979年7月3日,国防省が連邦議会に対し,F-5E戦闘機48機を含む総額2億4060万ドル分の武器売却を通知した(注69)。この売却は米中国交正常化交渉の際,すでに売却決定済みの武器として中国が容認していたものであり,台湾関係法に基づく武器売却の「再開」とはいえなかった。同法に基づく武器売却の見通しが不透明で,かつ,在台米軍の撤退によって双方の軍事協力関係が疎遠になることを危惧した蔣経国は,米軍の退役将校を軍事アドバイザーとして台湾に招聘するほか[黄克武 2016, 61],中将職の総統府侍衛長に米国留学経験のある若手の少将を抜擢するなど[黄克武 2016, 146-148],米国との軍事交流を重視した人事配置を行った。解放軍の台湾侵攻時に来援した米軍と共同作戦を遂行する際,その実効性を少しでも高めるため,平素から相互に意思を疎通させ,信頼関係を醸成するための措置であった。
3. 「台湾防衛」型の軍隊への改編1979年7月1日,陸軍の大規模な改編が行われた。かつて国軍の改編は米国の意向が強く反映されていたのだが[松田 2002, 3-4; 五十嵐 2019],この改編案については国府単独で検討が進められた(注70)。そして改編から3日後,蔣経国は国民党中常会会議において,次のように注意を促した。
年末に米華共同防衛条約が終了となる。皆は米華断交が一段落したと勘違いしているが,政治,社会,軍事,ひいては国際政治等の各方面に影響が出ている。したがって,我々は多方面にわたって準備を施さないといけない。まずは経済面であり,経済の安定が下半期の鍵となるため,我々は多くの建設を進めるとともに,空襲に備えて地下化を進めるほか,島嶼防衛の重要施設を整備しなければならない。軍事面については,米華相互防衛条約の終了により,我々は自立自強を求められている。独立作戦の精神に基づき,武器,装備,工事,部隊移動等を強化していくことで,自らの力で台湾・澎湖・金門・馬祖の安全を確保する。それを決めるのは正しく軍事面であり,国防部や武装部隊のみに頼ることなく,全面作戦を発揮し,動員機能を整備し,敵を打ち負かすことが重要である(注71)。
米華断交後,米国が台湾関係法を制定させたことで,国府は「台湾」の防衛に関して米国から一応の保障を得ることができた。そのため政府高官のなかには,楽観的な見通しを抱いた者もいたのであろう。しかし同法は米国の国内法であり,中国が台湾に対して武力を行使した際に米国が介入するか否かは,すべて米大統領の判断にかかっていた。蔣経国が目標としたのは,国府単独で台湾を防衛する体制であった。
なお,この1979年7月の改編でもっとも大きな変更点は,それまで特定の防衛担任地域を与えず,「王師」作戦の尖兵として大陸に派遣する態勢を維持させていた陸軍空降特戦司令部に台湾東部の防衛任務を与え(注72),さらに同月末日に同司令部隷下の特殊作戦部隊のうち4分の3に及ぶ兵力を憲兵司令部に移管したことである(注73)。陸軍特殊作戦部隊の憲兵司令部への移管は,1970年代に国際社会で存在を増したテロの脅威に鑑み,治安維持機能を強化する目的で行われたのだが,この移管にともない,これまで陸軍の特殊作戦部隊が担ってきた「王師」作戦の任務については,他の陸軍部隊にローテーションで担任させることとなった(注74)。従来,「大陸反攻」作戦の第一波として大陸への派遣に備えて即応態勢を維持していたのは,陸軍の特殊作戦部隊に所属するきわめて少数の将兵に限られていたのだが,その任務を一般の陸軍部隊が交代で受け持つ体制に変わったことで,多くの将兵が直接的に「王師」作戦任務に携わることとなり,結果的に国軍全体として「大陸反攻」に対する意識を高める効果につながった(注75)。だが,1976年に共産党の指導者が相次ぎ他界したことによる大陸の混乱に際し,国府では「大陸反攻」の機運が高まってはいたものの(注76),特殊作戦部隊の能力不足もあって「大陸反攻」を発動できなかったように(注77),それは一朝一夕でこなせる簡単な任務ではなく,実質的に「王師」作戦計画の「凍結」を意味していた。そして,陸軍空降特戦司令部に特定の防衛担任地域を与えたことは,「大陸反攻」に対する国府の意思が強くはなくなっていることの証左でもあった。
この改編直後,澎湖諸島において住民や物資の動員をともなう大規模な「漢聲」演習が行われた(注78)。同演習では,空挺奇襲攻撃を主体とした解放軍の着上陸侵攻を想定し,国府単独で澎湖諸島を防衛する作戦計画が検証された(注79)。
この演習を終え,蔣経国の気持ちは少し落ち着いたのであろう。自らの日記に米華断交から夏までの情勢を総括し,翌年の展望を綴っている。
米華断交によって外交関係はなくなったものの,相変わらず米国は我々を陥れようとする計画をもっている。国府を消滅させることを急ぐべく,この後に重要な政治の時期が訪れる。
国家建設会議と国民党11期4中全会を開催した。これから軍事会議を開催し,軍事演習も行う。米華断交からすでに1年近く経ち,間もなく米華共同防衛条約が終了する。国家全体の情勢をよい方向へ進めるため,将来への方針と計画を決定した。
来年は,米国大統領選が行われ,国際情勢に大きな変化が起きるであろう。わが国は,今年以上に危急の立場に立たされることになる。
(中略)
こうした厳しい環境のなか,筋道を通してかたづけていくことで,必ずすべての困難を克服することができる。そして,自らを自立自強の精神で奮い立たせることが重要である(注80)。
蔣経国は,米華共同防衛条約が終了する時を大きなターニングポイントとして考え,それを境に訪れるかもしれない「危機」に備えようとしていた。しかし,その先には米国大統領選挙が控えており,その結果次第ではさらに厳しい状況が待ち構えていることを覚悟していた。
10月に入り,蔣経国は,長期的に反共復国という大きな目的を達成するため,敵に危険を冒す機会を与えないように軍備を充実させる必要があるとの結論に至る。そして,30年という長い「時間」をかけて,敵を凌駕する近代国家に成長したことをふまえ,情勢が大きく変化した時に,共産党政権が内部から崩壊するのを待つことを決めた(注81)。
11月8日から13日までの間,国府は台湾およびその周辺海・空域において,予備役の動員をともなう30年来最大規模の実員演習を行い(注82),改編後における国軍の防衛態勢を検証した。そして11月26日から6日間,8年ぶりとなる大規模な軍事会議が開催された。これは,蔣経国が総統として初めて主催する軍事会議であり,蔣経国は国軍将校に意識改革を求めた(注83)。蔣経国は米華共同防衛条約の失効後に米国が解放軍の台湾侵攻に際して軍を派遣しないことを想定し,「攻守一体」戦略の重点を完全に「台湾防衛」へとシフトさせ,国軍を「台湾防衛」型の軍隊に改編させていくのであった。
4. 海軍艦艇輸入先の多角化とカーター政権の対華武器売却「再開」1979年7月,国防工業発展政策指導小組の発足から半年が経ち,国防工業発展基金を用いた新規事業は装甲車,高速艇,戦闘機,対戦車ミサイルのほか,各種部品の生産や設備投資など15件に上った(注84)。とりわけ,自主生産が遅れていた海軍艦艇に関しては(注85),同基金によって研究開発環境の整備が進むこととなった(注86)。
そして,海軍艦艇のなかでも潜水艦に関しては,中国が着々と配備を進めているのに対し,国府は対潜訓練の標的用として米国から提供された旧式艦を2隻しか保有しておらず,戦力差が開き続けていることが課題となっていた。そのため,1978年末にカナダ在住華僑から提案があった潜水艦の自主生産計画をもとに,同基金の長期研究プロジェクトとして検討が始まった(注87)。この検討は,もっとも造船技術が高いとされた中国造船公司が中心となり,技術者を米国と西独に派遣して検証が行われたのだが,同計画が見積りよりも多額の経費を要し,かつ技術的にも潜水艦を生産する段階には達していないとの結論に至り,自主生産は見送られた(注88)。だが,これを契機に国府は海外からの潜水艦調達に動き始め(注89),6月にはイランへの武器売却がキャンセルとなっていたオランダ企業が,国府に対して潜水艦などを売却する意向を示し(注90),1987年の配備につながる交渉が水面下で始まった。これと並行し,イタリアやギリシャの企業からミサイル高速艇を購入する検討も始まった(注91)。国府は,戦闘機については保守・管理が煩雑になることを避けるため,米国への依存を強めたのだが,艦艇に関しては反対に調達ルートの多角化を進めていった。
一方,1979年10月14日にワシントンで行われた「米中(華―筆者注)文化協会」の晩餐会において,ディーンAIT理事長が翌年から国府に対する武器売却を再開する旨を発表した(注92)。その頃,米華相互防衛条約の失効後に国府へ売却する武器の種類と,その発表の時期について,ヴァンスがカーターに指示を仰いでいた。国府が要望したリストでは,高性能戦闘機がもっとも優先順位が高かった。だがヴァンスは,F-4,F-16,F-18といった高性能戦闘機の売却を拒んだ理由に変更が生じていないため,老朽化したF-104の更新として欧州諸国で使用しているF-104G戦闘機を国府に譲渡する考えを提案した。また,海軍艦艇用の短距離対空ミサイルのほか,陸軍部隊用として改良ホーク地対空ミサイルシステムなど総額2億8770万ドル分の兵器を取りまとめ,1980年1月初旬に議会へ通知するとともに対外公表することをカーターに提案した(注93)。そして1月3日,米国政府は台湾関係法に基づき,国府に対してF-104Gなどの「防御性」兵器を供与することを発表した(注94)。
この発表を聞いた中国側は,1月5日から訪中したブラウンに対し,「非常に敏感な問題」と懸念を示した(注95)。一方で中国側は,米国製武器の売却を求めたが,ブラウンははっきりと断ったうえで,航空機搭載用の電子機器など軍事関連技術の移転については話し合う用意がある旨を回答した(注96)。そしてブラウン帰国後,国防省報道官は軍用トラック,通信器材など支援器材のなかから慎重に選択したものに限り,中国へ提供する準備があることを発表した(注97)。米中国交正常化にともない停止されていた米国の対華武器売却は,台湾関係法に拠って早くも1980年に「再開」されることとなった。一方で中国に対しては,「防御性」兵器すら売却が認められなかった。国府は米華断交といった危機に見舞われ,独自の国防態勢を早急に構築しなければならない状況にあったのだが,米国の武器売却は事実上途切れることなく「継続」され,断交前とほぼ同じように国防建設を進めることができるようになった。
1980年2月,米国政府は,中国への防衛機器の売却および技術移転について,国内企業に示す基準の検討を進めていた(注98)。一方,中国に対する武器売却を認めるべきでないとの意見が国務省や連邦議会などから上がっていた(注99)。また,国府に対するF-104Gなど「防御性」兵器の供与を発表していたものの,売却を拒んだ次期戦闘機に関して国内企業から方針転換の圧力がかかっており,ブレジンスキーは再検討を迫られていた(注100)。
6月に入ると,ノースロップ社が国府に対する次期戦闘機の輸出許可を獲得したことが報じられた(注101)。これに対して中国は,高性能な戦闘機の売却は外交関係樹立に関する合意の原則に違反するものと抗議するとともに,他の武器についても1980年以降の売却継続を発表していた米国政府を批判した(注102)。だが7月10日,国務省報道官は,米華相互防衛条約の失効後に慎重に選択された防御性の武器を国府に売却することは正常化交渉の際に説明しており,双方了解済みであると反論した。また翌日には訪台中のジェネラル・ダイナミックス社社長が,米国政府の基準に合致させるようダウングレードさせたF-16を国府に売却する準備があることを発表した(注103)。
このように連邦議会議員や企業のみならず,国務省サイドも国府への武器売却に前向きな姿勢を示すなか,すでに売却が固まっていたF-104Gなどに加え,海洋観測艦,浮きドック,燃料補給艦,哨戒艇の売却案が下院を通過したことを国防省報道官が発表した(注104)。これらは,あくまで作戦を支援するための補助艦艇であったが,直接的に戦闘を行う「防御性」兵器の性能を最大限に発揮するためになくてはならない兵器であった。とくに,海洋観測艦は潜水艦の行動を把握するために重要な役割を果たす機密性の高い艦艇であることから,国府と米国の防衛協力を証明するうえで大きな意義がある決定であった。
一方,8月ノースロップ社とジェネラル・ダイナミックス社の技術協力を受けて生産されたXAT-3攻撃/練習機がロールアウトした(注105)。また9月26日,国防部報道官は,国防工業発展基金を運用してミサイル高速艇を購入し,ミサイル高速艇中隊を新編したことを発表した(注106)。同艇は,イスラエルから購入したドボラ(Dvora)級をベースに国府が「海鴎級」として開発・生産したもので,国府が独自開発した雄風1型対艦ミサイルを搭載していた[哈用・勒巴克 2007, 96-97; 144-145]。これまで海軍艦艇は,米国からの払い下げが主体であったため,軍機関紙は技術力の向上を大々的に報じた(注107)。
そして,F-104やF-5Eが時代遅れになっているにもかかわらず,米国がF-16などの売却に応じないことに痺れを切らせた蔣経国は,次期戦闘機の自主開発を命じ,空軍航空工業発展センター(Aero Industry Development Center: AIDC)が自主生産防御戦闘機(Indigenous Defense Fighter: IDF)のデザインコンセプトの作成に着手した[黄克武 2016, 527-528]。戦闘機については米国からの調達にこだわっていた蔣経国であったが,XAT-3で培った技術を基に,米国企業の技術援助を受けることで自主生産に踏み切ったのである。
2. 国軍の更なる人員削減と任務として残る「大陸反攻」1980年11月5日,共和党のレーガンが現職大統領のカーターを制し,米国の政権交代が決まった。米中国交正常化の発表直後,レーガンがカーター政権を批判する声明を発表し,蔣経国に支持を続ける旨を綴った書簡を送っていたこともあり(注108),蔣経国はレーガンに対して速やかに祝電を送り,外交部報道官は「両国の実質的関係が強化されていくことを信じる」と発表した(注109)蔣経国の総統期における国防建設(1978~1988)[黄克武 2016, 80-82]。そして28日には,レーガンの外交政策顧問となったクラインが台湾を訪問し,空港で記者団に対して「レーガン新政権は,台湾との関係を完全かつ公正に執り行うことを約束する」と語り,旧知の蔣経国との会談に向かった(注110)。カーター政権が進めた米中国交正常化は覆ることは考えられなかったが,国府はレーガン政権によって米華関係が安定することを期待した。
1981年1月20日,レーガンは第40代大統領に就任した。その1週間前,蔣経国は国軍軍事会議において,当面における国家の基本的立場を示した(注111)。蔣経国の考えは,共産党が自滅することを期待するものであり,「大陸反攻」には言及しなかった。
また,前年末に行われた軍事会談において蔣経国は,国防予算に占める人件費の割合が50パーセントを超えていることを問題視し,人員を削減して武器等の購入に充てるように指示をしていた。台湾海峡の制海権と制空権を重視せざるを得ない状況に鑑みると,おもな削減対象は陸軍兵力であった(注112)。この削減の圧力に対し,陸軍総司令の郝柏村は「攻守一体」戦略が当面のところ守勢作戦を重視していることを認めてはいたものの,「大陸反攻」に必要な戦力は一朝一夕では築けないと考え,単に予算上の理由から更なる人員削減に踏み切ることに不満を抱いていた。だが,蔣経国の指示には従わざるを得ず,作戦部隊に影響しない形で人員削減を進める構想を国防部に提起した(注113)。
米華相互防衛条約が失効したことで,国府は単独で「台湾」を防衛することを想定しなければならなくなったため,「台湾防衛」型の軍隊へ改編することは不可逆の流れであった。だが,「大陸反攻」の任務が残る限り,反攻作戦の主力となる陸軍としては,簡単にはそれを受け入れることができなかったのである。
3. レーガンの対中・対華武器売却の決断と国軍の「大陸反攻」イデオロギー1981年1月25日,孫運璿行政院長がニューヨークタイムズ紙の取材に応じ,レーガン政権の速やかな武器売却に期待を示した(注114)。そして,米国国内でもレーガン政権が新たな戦闘機を国府に売却することに期待がかかっていた(注115)。
4月23日,CCNAAは,米国国防省が連邦議会に対してFY82における5億ドル相当の対華武器売却を提案したことを発表した(注116)しかし,米国政府からの公式発表はなかった。そしてヘイグ国務長官の訪中に先立つ6月4日,米国政府は対ソ戦略上の考慮から,中国に武器を売却する意向を明らかにした(注117)。16日,北京でヘイグが中国に対する武器売却禁止の解除を発表[平松 1985, 113-116]したことを受け,レーガンは記者からの質問に対し,中国は必ずしも同盟国ではないものの,他の多くの国と同じように特定の技術や武器を売却することは関係改善を進めるうえで正常なプロセスであると回答した。また,国府に対するレーガン個人の気持ちが変わっていないことを述べたうえで,台湾関係法にしたがって防御性兵器を売却する考えがあることを示した(注118)。レーガン政権は,国府に対する武器売却よりも先に中国へのそれを公式に発表したのである。
レーガンの発言に対し,国府側では外交部報道官が「不幸な決定」だと発表するも,レーガンが東アジアおよび太平洋地域の平和と安定のために採った措置として理解を示した。また,行政院新聞局長の宋楚瑜は「伝統的な友好関係は不変であることを確認した」と意見を述べた(注119)。国府は,レーガン政権が中国に対して売却する武器以上の性能をもつものを提示してくることを期待し,待つしかなかった。その後,レーガンが国府に対する武器売却に踏み切る意向を示したのは,12月17日の定例記者会見後,執務室へ戻る途中で記者から投げかけられた質問に答えた時のことであった(注120)。
しかし,レーガンが武器売却を明言する直前,台湾防衛作戦計画の検証を目的とした「聯強七号」三軍統合演習を行った国府は,中国が米国に売却を求めているC-130輸送機を解放軍が配備し,空挺作戦能力が大幅に向上した状態を想定していた(注121)。レーガン政権の中国に対する武器売却が国府に与えた衝撃は大きく,国軍は最悪のケースを想定したシナリオを作成していた。とはいえ同演習間,参謀総長に就任して間もない郝柏村は,作戦会同において「攻守一体」と「反攻の好機を創出する」ための具体的措置について検討を命じ[郝柏村 1995, 24],国軍全体で「如何に大陸反攻の好機を創出するか」という命題に取り組んでいた(注122)。解放軍の戦力が台湾本島を脅かすことを想定するようになっても,「大陸攻」は国軍の任務であり続けた。そして「大陸反攻」のイデオロギーは,国軍ではもはや当たり前の観念として存在していたのであった。
4. レーガン政権による対華武器売却方針の決定と国府の対応1981年の年末,レーガンはFY83における国府への武器売却を明言した。しかし,ヘイグはレーガンに対し,国府に対する武器売却は米中関係の発展に障害となるため,現状ではカーター政権のレベルを超えるべきではないと進言したうえで,「上海コミュニケ」に代わる新たな米中コミュニケの発行を提案した(注123)。
そして1982年1月10日,レーガンは,F-5Eの共同生産を継続し,将来的には老朽更新用として適切な戦闘機を提供することを決定した(注124)。翌11日,国務省は国府に対する武器売却を公式に発表するとともに,そのなかに国府が求めていた高性能戦闘機が含まれないことを明らかにした(注125)。ただし,国務省の公式発表では,将来的にF-16などの高性能戦闘機を提供する可能性があることは示れなかった。
この発表に対して蔣経国は,レーガン政権が台湾の防衛のために継続的な支援を表明したことに焦点を当てて肯定的な評価を示したうえで,米国政府に対し,今後も国府の防衛上の必要性に応じ,戦闘機の提供に関する計画の見直しを行うことを要望した(注126)。一方,2月19日に立法院では,米国政府が高性能戦闘機の提供を拒んだことについて国民党籍の立法委員らが質問し,これに対して宋長志は,中国が1980年代半ばには第二世代戦闘機を完成させ,1980年代末期には量産を始めるとの見積りを示したうえで,台湾海峡の航空優勢を維持していくため,引き続きF-16やF-18といった高性能戦闘機の提供を求めていく旨を説明した。また,この質疑応答において宋は,国府が独自に高性能戦闘機を生産する計画があることを公表した(注127)。
さらに4月12日,行政院は立法委員からの文書での質問に対し,武器輸入先の分散を進めていくなかで,フランスのミラージュ闘獲が第1目標であることを明らかにした(注128)。そして5月,フランスが台湾に代団を派遣し,彼らを迎えた郝柏村はミラージュ2000やフランスの軍事科学技術に強い関心を示した[郝柏村 2000a, 102]。かつて蔣経国は戦闘機の調達先を米国にこだわってたが,国府に友好的な態度を示すレーガンでさえも高性能戦闘機の売却を渋ったことから,米国以外からの調達に舵を切ろうとしていた。
国府が米国政府に対してF-16などの高性能戦闘機を求めると同時に,次期戦闘機として自主生産や米国以外からの調達をアピールしていくなか,米国政府は7月16日,台湾で行われているF-5Eの共同生産の追加を中国政府に伝達した(注129)。だが当時,レーガン政権の対華武器売却政策をめぐり,米中関係は悪化の一途をたどっていた[平松 1985, 113-118]。そのため,両国政府間で政治交渉が行われ,8月17日に「台湾向け武器売却についての米中共同コミュニケ」(「第2上海コミュニケ」)が発表され,米国が台湾に売却する武器について性能と数量の面で制約が課せられることが明記された(注130)。ただし,コミュニケ発表に先立つ7月14日,レーガンが蔣経国に対し,米国政府の立場が台湾関係法に重きを置いており,国府への武器供与政策に変更はなく,F-5Eの共同生産を検討中であることを伝えていた(「6つの保証」)(注131)。レーガンは中国側との合意をひそかに骨抜きにし,国府への武器供与を継続させた[若林 2008, 116-117]。そして8月19日,レーガン政権は連邦議会に対し,今後2年から2年半にわたり,台湾でF-5EとF-5Fを共同生産することを正式に通知した(注132)。
米国から最新鋭の高性能戦闘機こそ獲得することはできずとも,1973年以降F-5Eの共同生産は絶えることなく続いていた。だが,増強を続ける解放軍の航空戦力に対し,国府独自で台湾海峡の航空優勢を保つためには,より高性能な戦闘機を保有する必要があり,自主生産や米国以外の国からの調達を考えざるを得なかった。一方,米華断交後の1980年から検討を始めていた「国軍戦力地下化計画」のうち,台湾東部沿岸に所在する花蓮空軍基地の地下化計画が1983年4月12日の国軍軍事会談において蔣経国に承認された(注133)。国府は高性能戦闘機の導入によって航空戦力の増強を目指すのと同時に,もっとも重視する航空戦力を防護するため,その施設建設を進めていった。
なお,1983年3月3日の参謀会同において,郝柏村は各軍種の総司令に対し,厳しい要求だと理解を示しつつ,更なる人員の削減を求めた(注134)。1981年以降,蔣経国の指示に基づき進められてきた国軍の人員削減は,そのおもな対象が陸軍であったため,陸軍総司令であった郝柏村は「大陸反攻」に必要な兵力まで削がれることに不満を抱いていた。だが1981年11月に参謀総長へ就任し,さらに翌年に中山科学研究院院長を兼務することとなった郝柏村は,作戦のみならず研究開発をも統括する責任者として限られた予算を武器購入に費やす必要性を認め,自ら先頭に立って人件費削減を進めたのである。そして1983年9月から3年間の計画で,再び陸軍部隊の大幅な削減が始まった(「陸精4号」計画)(注135)。
1984年5月20日,中華民国第7代総統として再任された蔣経国は,就任演説において基本国策である「反共復国」を絶対不変の大前提としたうえで,「三民主義による中国の統一」を訴えた(注136)。また,蔣経国の総統再任が決まった3月の国民大会において,郝柏村が前任の宋長志と同様に国軍の目標を「復興基地を堅固にし,大陸反攻の好機を創出する」と説明しているように(注137),究極的な目標が「大陸反攻」であることも変わりはなかった。
6月に入ると米国は,中国に対して地対空ミサイルや対戦車ミサイルなどを売却することを発表した。しかしその1週間後,米国はFY85で国府に売却する予定の武器に,中国が欲していたC-130H輸送機が含まれることを明らかにした(注138)。かつて国府は,大陸に多くの部隊を送り込むための手段として輸送機や揚陸艇を米国に要求していたが,「現状維持」を望む米国はその売却を認めなかった。だが,1984年の時点で,国軍はなおも大陸に小規模な突撃部隊を送り込む「天威」特攻作戦の訓練を行っていたにもかかわらず(注139),米国は国府に対してC-130Hの売却を認めた。ただし,その訓練は,既に「大陸反攻」を目的としたものから,「台湾防衛」作戦の準備段階において中国大陸のレーダーサイトやミサイル陣地を攻撃したり,兵站補給など後方連絡線を遮断したり,解放軍の戦力発揮の妨害を想定したものに変わっていた(注140)。
なお,当時の国防予算の配分について郝柏村が制空3:制海2:対着上陸1と説明しているように[郝柏村 2000a, 684],国防建設の重点は空軍主体の制空作戦能力に置かれており[郝柏村 1995, 7-8],航空機や艦艇に比べて装甲車などの陸軍装備の研究開発が遅れていた。それに目を付けたシンガポール在住華僑から,西ドイツのレオパルド戦車の購入を仲介する申し出があった。だが,陸軍側は研究開発中のM48H戦車以外に費やせる予算がないとの説明に加え,レオパルドの重量が台湾本島の地形に適さないと評価し,この提案を断った(注141)。広大な中国大陸で作戦を行うのであれば,世界屈指の性能を誇るレオパルドは理想的な戦車であった。だが,究極的な目標として「大陸反攻」を掲げ続けていたにもかかわらず,国軍が戦車を運用する戦場として想定していたのは狭小な「台湾」であった。
2. 「厳しい人員削減要求と「制空」・「制海」を任務とする陸軍部隊の新編1985年に入り,1983年9月から3カ年の計画で行われている人員削減は,間もなく折り返しを迎えようとしていた。だが,各軍種から出る不満の声は大きく,順調には進んでいなかった。1985年1月14日,第2次参謀会同において郝柏村は,各軍種の総司令などに対し,各軍種が自己本位になり,なにも考えずに一律の割合で人員削減を進めている傾向があることを指摘し,任務上の必要性から削減対象を検討して厳正に執り行うことを指導した。とりわけ「陸精4号」計画に基づき大幅な人員削減を求められている陸軍に理解を示しつつも,確実な執行を強く要求した(注142)。
そして5月4日,郝柏村は陸海空軍の各総司令部などに対して「無効な兵力」を淘汰する計画を示した。この計画で示されたのは教育訓練機関の整理統合などであり,削減対象となった人数は少なかったが,明示された事項に限らず更なる削減を要求した(注143)。これ以降,ひと月当たり2~3回ほど行われる作戦会報において,参謀本部は時に具体的なポストを示し,各軍種の司令部に人員の削減を求め続けていった(注144)。
「陸精4号」などの大幅な人員削減計画の完了まで半年と迫った1986年2月6日,蔣経国は国防部長,参謀総長,陸海空軍の各総司令に対し,「現在,三軍の人数は多くはないが,領域もまた大きくはないので,兵力は十分に足りている」と削減状況に満足を示しつつも,「表面上や形式上の規模にとらわれず,少数精鋭の原則に応じて整備を強化せよ」と暗に更なる削減を要望した(注145)。蔣経国が示した国軍の行動する「領域」は,広大な「中国大陸」ではなく,狭小な「台湾」であった。
この蔣経国の指示に基づき,「陸精4号」に引き続き人員削減を進めるため,新たに「陸精5号」計画の検討が始まった(注146)。そして7月1日,「陸精4号」の期日まで3カ月ほど残っていたが,「陸精5号」計画に基づく陸軍部隊の更なる削減が始まった(注147)。
このように陸軍部隊が大幅に削減されていくなか,陸軍に地対艦ミサイルの部隊を新編し,離島に配備した。その部隊には,イスラエルの「ガブリエル」対艦ミサイルを地上発射式に改良した「雄風1型」が装備された(注148)。そして,さらに射程を延伸させた「雄風2型」の配備に向け,その運用構想の検討を進めた(注149)。また,米国ヒューズ社の技術援助により自主開発を進めていた「天弓」防空ミサイルシステムの部隊新編を進めた(注150)。かつて「大陸反攻」のために大規模な陸上戦力の維持に努力していた陸軍が,より遠方で解放軍の侵攻を阻止するため「制空」および「制海」に重きを置いた「台湾防衛」型の軍隊へと変貌を遂げようとしていたのである。
3. 戒厳令の解除と国軍の対応1986年10月7日,蔣経国は1949年以来続く戒厳令を解除する方針を示した[蔣経国先生全集編輯委員会 1991, 175-178]。そして15日に開催された国民党中常会会議において,「反乱鎮定動員時期臨時条項」の改正が全会一致で決定された(注151)。
戒厳令解除に関する検討が続くなか,1987年3月6日に行われた立法院第1期第79会期の会議において,立法委員からの質問に対して兪国華行政院長は「政府の大陸政策は,基地建設を強化し,大陸反攻の好機を創出することである」,「我々の大陸政策は,三民主義によって中国を統一することであり,これは単なるスローガンではなく,もっとも重要な目標である」と回答した(注152)。しかし,郝柏村が5月13日の日記に「我々は台湾において反共復国の努力を40年近く続けている。大陸光復の任務は未だ達成できていないが,我々は失敗もしていない。我々は大陸光復の目標に向かって奮闘している。(中略)我々が,台湾,澎湖,金門,馬祖を防衛して復興基地を建設し,地に足をつけて楽観的に奮闘する精神を持ち続けていれば,必ず大陸光復の任務は達成することができる」と綴っているように[郝柏村 2000b, 1126-1128],軍人トップでさえも,現状として「台湾」を確保していくことで,将来の「中国統一」に望みをかけるようになっていた。
そして7月1日,国府は「反乱鎮定動員時期国家安全法」を制定・公布したうえで,15日に戒厳令を解除した(注153)。戒厳令の解除後,国軍は福建省沿岸部に対して着上陸攻撃を行う「莒光」計画の修正を続けた(注154)。非常事態を規定する戒厳令の解除は,共産党政権と対峙を続けてきた国府にとって大きな転換点ではあったが,「中国統一」の目標も「攻守一体」の軍事戦略も変更されることはなかった。そのため国軍は,将来の「中国統一」に軍事的な手段が用いられることを想定し,「大陸反攻」に関する計画の検討を継続した。
だが一方で,「中国が7月に台湾侵攻戦略計画を3つ作成し,そのうちひとつを鄧小平が批准した」との情報を獲得した国軍は,解放軍の侵攻に備えて警戒態勢を強化した(注155)。国府側が戒厳令を解除して平時の態勢に移行したとしても,中国の態勢を変化させることはできず,国軍は将来的な「大陸反攻」に望みをかけつつも,現実に直面する脅威に対応していかねばならなかったのである。
4. 蔣経国の死と国防建設の成果戒厳令解除後,郝柏村は米国を訪問し,国務省や国防省の高官らと武器調達について協議を行った。解放軍の侵攻に対して国府単独で台湾を防衛する戦力を構築するためには,未だ米国からの支援を受け続ける必要があったため,郝柏村は1981年の参謀総長就任以来,幾度となく訪米し,次世代装備や最新軍事技術の獲得に努力していた[郝柏村 2000b, 1214]。この訪問でも長年要求を続けてきた高性能戦闘機の供与は認められなかったが,新たにE-2C早期警戒機が国府へ供与されることが決まった[郝柏村 2000b, 1216-1227]。
このように,米華断交後も米国から各種航空機や防空ミサイルなど「防御性」兵器の供与が続き,実質的に米国主導で「制空」作戦能力の向上が図られていた。一方で国府は,米国が「攻撃性」との理由で供与を認められない兵器について,対米断交以前から米国以外の国からの調達を模索していた。その最たる成果として,12月16日にオランダから購入した潜水艦が台湾南部の高雄市にある左営基地に到着した(注156)。そして,米国企業の技術支援を受け,米国政府が売却を渋る高性能戦闘機の自主開発の成果として,IDFの生産が始まっていた[郝柏村 2000a, 759-760]。だが, 1988年1月13日,蔣経国はその完成を待つことなく息を引き取った。
米華断交後,国府は蔣経国による指導の下,単独で「台湾」を防衛する戦力を構築するため,米国のみならず他の国からも優れた武器装備と先端軍事科学技術の獲得に努め,対米依存一辺倒であった国防建設からの脱却を果たそうとしていた。
1978年5月20日,蔣経国は中華民国第6代総統に就任した。1969年6月に行政院副院長に就任し,交通事故に遭った蔣介石の職務を引き継ぎ始めてから10年近くを経て,権力移行のプロセスが完了した。そして,総統就任から間もない蔣経国には,「中華民国」の存続がかかる最大の「国難」が待ち構えていた。
1977年1月に米国大統領に就任したカーターは,国府に対して武器売却を進めつつも,最低限の緊急事態対処要員のみ残して在台米軍を撤退させ,停滞していた米中国交正常化交渉を一気に加速させた。しかし,国府側は断交の時が近づいていることを予期できていなかった。そして1978年12月15日21時(台北時間16日10時),米国政府は翌年1月1日をもって中国と外交関係を樹立することを発表した。これに合わせて米国政府は,1979年末に米華相互防衛条約を終了させることを国府に通知した。この「国難」に際し,事実上「台湾」の防衛を米国に依存していた国府は,米国政府に対して断交前と実質的に変わらない関係の構築を求めた。
米国が断交後の国府との関係を規定する立法措置を急ぐなか,国府は米華相互防衛条約の失効に乗じて解放軍が台湾へ侵攻を始めることに備え,警戒態勢の強化を続けた。また,米華相互防衛条約の終了後も米国が対華武器売却を継続すると説明されたものの,その保証は一切なかったため,独自に武器を研究開発し,生産まで完結できる国防工業の構築に力を入れ始めた。一方で,米華断交といった大きな情勢の変化を迎えても,従来の「攻守一体」戦略を軸とする路線は変わることなく,国軍は「大陸反攻」に関する計画の検証を続けた。しかし,国際社会で孤立していくなか,「大陸光復」を成し遂げるためには,「攻勢」の方策を再検討しなければならないことを認めていた。
そして1979年4月10日,カーターが「台湾関係法」に署名し,同年1月1日に遡及して施行された。米国が速やかに台湾関係法を制定させたことで,国府は「台湾」の防衛に関して米国から一応の保障を得ることができた。しかし,同法は米華相互防衛条約と異なり,米国には台湾防衛の義務がなかった。そのため,蔣経国は同条約の終了後に解放軍が台湾侵攻に動き出した際,米国が軍隊を派遣せず,国府単独で「台湾」を防衛する最悪のケースを想定し,「大陸反攻」という究極の目標に向けた態勢を維持していた国軍を「台湾防衛」型の軍隊へと改編する大改革に踏み切ったのである。
また,台湾関係法に基づき国府へ提供される「防御性」兵器を選択するのは米国の判断によるものであり,国府が「台湾」を防衛するために必要と判断した兵器が提供されるとは限らなかった。鄧小平の指導下で近代化を進める解放軍の脅威を前に,国府はその受け身の状況を打破するため,武器の自主生産と,その調達ルートの多角化を進めることで国軍の近代化に努めていくのであったが,それを制約したのが国防予算の半分以上を占める人件費であった。武器等を購入する経費を捻出するために蔣経国から人員削減を求められた国軍は,「大陸反攻」作戦に必要な大規模な兵力を維持していた陸軍部隊を主たる対象として削減せざるを得ず,国軍の近代化と反比例するように,「大陸反攻」に備えた戦力は失われていったのである。
1984年に蔣経国が2任期目を迎える頃,国軍は徐々に「台湾」の防衛に見合った兵力へと人員の削減が進み,それによって捻出した経費を用いて近代化が進展するようになっていた。そして,「攻守一体」戦略に基づき,国軍は究極的な目標として「大陸反攻」を掲げ続けていたにもかかわらず,その行動する戦場として想定していた「領域」は,広大な「中国大陸」ではなく,狭小な「台湾」であった。かつて「大陸反攻」のために大規模な陸上戦力を維持することに努力していた陸軍が,より遠方で解放軍の侵攻を阻止するため「制空」および「制海」に重きを置いた「台湾防衛」型の軍隊へと変貌を遂げようとしていた。
1986年10月7日,蔣経国は1949年以来続く戒厳令を解除する方針を示し,翌年7月に戒厳令が解除された。しかし,国軍が将来の「中国統一」において軍事的な手段が用いられることを想定しつつ,現実の脅威に備えて「台湾防衛」のための戦力を強化していく状態が変わることはなかった。ただし,1988年1月に蔣経国が他界する頃になると,米国からの「防御性」兵器の調達は安定し,米国以外からの調達も始まり,そして1970年代初頭から蔣経国が推し進めてきた自主生産体制にも成果が見え始めていた。
蔣経国の総統期,それはまさに米中国交正常化の衝撃とともに幕を開けた。米華断交にともない,米国に「台湾防衛」の義務を課した米華相互防衛条約の失効という安全保障上最大の危機への対応を迫られた蔣経国は,実質的に「大陸反攻」の構想を「放棄」し,米国に頼らず国府独自で「台湾」を防衛する体制の構築に力を注いでいった。そして国軍は,「攻守一体」の軍事戦略に基づき維持され続ける「大陸反攻」任務とのジレンマを抱えつつ,蔣経国の総統期を通じて「台湾防衛」のための軍隊へと変貌を遂げていったのである。
(防衛大学校防衛学教育学群准教授, 2019年9月18日受領,2020年8月14日レフェリーの審査を経て掲載決定)