アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
書評
書評:富永泰代著『小さな学校――カルティニによるオランダ語書簡集研究――』
京都大学学術出版会 2019年 389ページ
ミヤ ・ドゥイ・ロスティカ
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2021 年 62 巻 1 号 p. 87-90

詳細

Ⅰ はじめに

本書は,独立前のインドネシア,オランダ領東インド時代のジャワ北部海岸地域のプリヤイ(貴族階級)出身の女性カルティニ(R.A. Kartini)に関する研究書である。インドネシアでは,カルティニは女子教育および女性解放の先駆者として高く評価されてきた。カルティニはインドネシアで初めて女子学校を設立した人物であり,1964年にはスカルノ大統領によって国家独立英雄に列せられ,その誕生日(4月21日)は「カルティニの日」(女性解放の日)として祝日となった。本書は,著者の博士論文「カルティニの虚像と実像―1987年編カルティニ書簡集の研究」をもとに加筆されたものであり,カルティニ生誕140周年を記念して2019年4月に出版された。

カルティニが1899年5月から1904年9月までに10名のオランダ人へ書き残した105通の書簡は,彼女の死後Door Duisternis tot Licht(『闇を通って光へ至る』)(注1)として原文のオランダ語で出版された。本書は,まさしくこのカルティニの「光と闇」をとりあげ,その意味を論じ,またなぜ著者が「光と闇」という表現方法を用いたのかについて考察する(6ページ)。

1911年出版のDoor Duiternis tot Lichtと1987年出版のBrieven: aan mevrouw R. M. AbendanonMandri en haar echtgenoot」(以下,Brieven)というカルティニの書簡集2編を比較検討した本書は,インドネシアではまだ知られてないカルティニの新たな貢献を見出す1冊ともいえる。つまり,「女性解放」,「女子教育」の先駆者としてだけではなく,「地域産業振興」に貢献した側面について詳細に議論しているのである。

Ⅱ 本書の内容

本書の内容は以下の通りである。

序章では,本書における著者の出発点となる問題が提起されている。これまでのカルティニ研究では,1911年にアベンダノンによって編集されたカルティニの書簡集Door Duisternis tot Lichtがおもな資料として用いられてきた。しかし,同書は文通相手との全ての書簡ではなく,植民地官僚であった編者アベンダノンが取捨選択した書簡を収めているため,この書簡集を読んでもアベンダノンによって形成されたカルティニ像しか読んでいないことになる。そのため,本書は1987年に出版されたもう1冊の書簡集Brievenに着目し,両者の比較検討を行なったうえで,Brievenをおもな資料として用いている。

第1章では,カルティニが生きていた19世紀末から20世紀初頭にかけてのオランダ領東インドについて,その時代背景が述べられている。19世紀に入るとオランダ本国による直接的な植民地経営が始まった。そのなかで,オランダ植民地支配の目的に合致するように変質させられたジャワの伝統社会の組織が説明される。

第2章では,カルティニという人物を紹介する。カルティニは当時のジャワに珍しく女性でありながら洋式教育を受けたが,伝統的な慣習のpingitan(ピンギタン―閉居)のために学校を辞め,「鳥籠」(51ページ)のなかで不自由な暮らしをする。洋書を読み,さまざまな新しい西洋知識を身に着けていたカルティニは,不自由な生活への反発から次第にジャワの慣習に批判的な考えをもつようになる。このピンギタンこそが,カルティニが自身と自らの社会をみつめ直し「自己の再発見」(53ページ)へ至った時期であり,次第に彼女はプリヤイ階級に根付いた因習と戦うこととなる。その因習にはピンギタンだけではなく,一夫多妻制も含まれる。

第3章では,カルティニの読書リスト(オランダ語出版物,新聞・雑誌)をとりあげ,その読書について詳細に考察する。著者はカルティニが読んだオランダ語出版物の共通点を抽出し,分析する。それは,オランダ植民地文学など東インドをテーマにした作品,女性問題を主題とする作品,諸外国の文芸作品に大別される(100ページ)。このように読書はカルティニに西欧近代思想を植え付け,彼女の考え方や行動に影響を与えた。

第4章では,一般的に言及されていない「地域産業振興」に貢献するカルティニ像を検討する。カルティニとアベンダノンの関係について,従来強調されてきた女子教育の面ではなく,地域振興活動を通して詳細な議論が展開される。これまでカルティニのこうした活動が検討されてこなかった理由として,文献の少なさが挙げられている(147ページ)。木彫工芸の振興活動にかかわる書簡は,1911年のDoor Duisternis tot Lichtでは15通,1987年のBrievenでは60通であり,第3節でこれらが考察されている。著者は,1911年版でのアベンダノンの意図はカルティニを倫理政策の好例として提示することだったとする一方で,東インドの伝統が見直されていた当時,ジュパラの工芸をめぐって発注・見積り・納品・請求などの営業活動に限らず,美術工芸の復興,展示会の提案など,近代的手法を導入したカルティニの役割について議論している。

女子教育の実現という高い理想と強い意志でカルティニが設立した女学校はその後発展することはなかった。当時の時代背景やジャワの因習が,カルティニの理想とする女子教育の発展を難しくしていたのである。

第5章では,カルティニがその解決を願った問題,解決しようと努めた問題,そして解決できなかった問題を検討する(217ページ)。さらに,アベンダノン編の書簡集に収録されなかったカルティニ書簡をとりあげ,失われたカルティニの理念,カルティニのように一夫多妻制のもとで強制結婚させられた女性たちの声も分析する。

1911年版書簡集の題名で使われている「光と闇」はアベンダノン夫人宛て(注2)の書簡に頻出するが,カルティニはその「光と闇」という言葉をもって何を言わんとしたかについて,第6章で議論されている。カルティニにとっての「光と闇」の真の意味を1987年版の書簡集に求め,さらに主に3つの資料を通して分析が行われる。その結果,カルティニがイメージした「光と闇」とアベンダノンの命名した「光と闇」とでは,大きな隔たりがあることが明らかにされる。さらに,アベンダノンはどのようにして1911年版の書簡集の出版を成功させたのかが,1987年版の書簡集との比較を通して議論されている。1911年版ではアベンダノンによって一部の書簡が削除されたのに対し,1987年版では全文収録されているため,その資料的価値は1911年版に比べはるかに高いといえる。

Ⅲ 本書の特徴と意義

カルティニは25歳という若さで死去したため,カルティニ研究においては彼女が残した書簡や記事が重要な一次資料となっている。本書は,従来用いられてきた1911年版書簡集に加え,完全版である1987年版の書簡集やほかの関係資料を比較・分析し,1911年版の隠された意図および問題点を明らかにした。

今までのカルティニ研究では十分に研究されてこなかった美術工芸,とくに木彫の振興活動に対する彼女の貢献を,第4章と第5章の2章にわたってとりあげたことは,本書のオリジナリティの1つである。カルティニが住んでいたジュパラは現在では木彫産業で有名な町である。美しい模様を掘ったチーク材の家具など,ジュパラ製品が優れていることは国内外で広く知られているが,古くからジュパラでは木彫技術が発達していた。カルティニがジュパラの木彫工芸の振興や発展に大きな役割を果たしたという評価には評者も同意する。

現代のインドネシアでは,4月21日のカルティニの日が近づくと,英雄カルティニに対する賛否両論が噴出する。とくに否定派のなかには,ほかの女性英雄のように直接オランダと戦った訳でもなく,むしろオランダによる倫理政策の支持派と交流があったカルティニは,支配者であるオランダによって作り上げられた英雄でしかないとみなす人は少なくない。インドネシア大学の社会学者Harsja W. Bachtiarは「カルティニと我々の社会における女性の役割」において,カルティニが生きた時代以前にオランダに対抗したアチェのSultanah Safiatuddinと南スラウェシのSiti Aisyah We Tenriolleという二人の女性を引き合いに出して,カルティニの「英雄」性に疑問を投げかけた[Bachtiar 1979, 72-76]。これ以降,この論文を参考にしたカルティニ批判が展開されることになる。

本書は,上記のカルティニに対するネガティブな意見に真正面から反論する。カルティニはオランダによって作り上げられた英雄だという批判の原点が,本書で説明されている。アベンダノンは1911年版書簡集においてある意図をもってカルティニ像を作り上げたのだが,それが現代に至るまで,カルティニに対する誤った解釈を生み出す源となったのである。この点はこれまでも指摘されたことはあったものの,本書の第6章で展開されるような,1987年の完全版との具体的かつ詳細な比較・検証は行われてこなかった。

1911年版の収益は女学校の建設に用いるという目的があったため,オランダ人の読者を獲得する必要があった。実際,初版の書簡集の販売部数は数カ月で1000部,2版は3000部,第3版が4000部で,1年余りで8000部に達した(302ページ)。この本の出版が成功した背景には,アベンダノンのさまざまな「工夫」があったことは否定できない。

まず,アベンダノンは題名をオランダ人の好みに合わせた。書簡ではカルティニは“Door Nacht tot Licht”と書いたが,読者が親しみ易く感じるように,アベンダノンはオランダ語版の『聖書』の文言を踏まえて,Nacht(夜)をDuisternis(闇)に変えたと著者は分析した。

さらに,アベンダノンは読者を意識して,オランダ人の好みそうな箇所を拾い上げていた。著者は1911年版と1987年版の違いを細部まで検討し,アベンダノンが複数の書簡から「切り貼り」をしてまで編集を行ったことを,具体的な事例をあげつつ明らかにしている。実際,アベンダノン編集の1911年版に収録された書簡は,1987年版の3割に満たない。著者は,このような恣意的な編集を経た1911年版によって形成されたカルティニ像が拡散し,カルティニが誤解を受け続けたと主張する。

一般のインドネシア人が初めてインドネシア語でカルティニのことを知るようになったのは,1938年,アルマイン・パネ(Aarmijn Pane,以下パネ)訳版のHabis Gelap Terbitlah Terangを通じてであった。パネ訳版は,当然のことながら1911年版の翻訳である。しかも翻訳の際に,もともと7割削除されたものからさらに3分の2が削除されている。つまり,1987年版と比べるとその1割しか残されていないことになる。さらにパネ訳版では,原文の一部が削られた一方で,原文にはない文章が加えられたり,主語が変化したりした箇所もあり,原文の意味と異なるものに替えられた部分もあると,著者は指摘する(339~340ページ)。

アベンダノンは,自ら編集した書簡集の出版を通じて,カルティニを倫理政策の文脈で「植民地の女子教育推進者」として描いた。そのイメージのなかでは,カルティニにとって「闇」とは植民地東インドであり,それを照らす「光」はオランダにほかならない。また,カルティニは留学を志向していたため,ヨーロッパ文明を「光」として希求する女性と解釈され,植民地政策の忠実な支持者とみなされることになるのである。著者は,1911年版がカルティニの恣意的なイメージ像を作り上げた一方で,さらに他言語の翻訳版がそのカルティニ像の歪みを拡大させていたとする。こうした1911年版の恣意的な編集と,それが引き起こした結果を解明したという点でも,本書はカルティニ研究において決定的な仕事であるといえよう。

しかし,本書の読者は次の点をまず疑問に思うだろう。本書のタイトルには「小さな学校」とあるが,著者はむしろカルティニがジュパラの木彫工芸振興活動に貢献したことを強調し,教育者としてのカルティニにはあまり触れていない。より内容に沿ったタイトルにできなかったのだろうか。

評者は本書をカルティニ研究史における分水嶺を成すものとみなしている。しかし,その価値が本書のみではみえにくいことが悔やまれる。書簡研究であるとはいえ,既存のカルティニ研究や,インドネシアで一般に流布しているカルティニ像と十分に接続されなければ,本書の真の価値はみえてこない。

まず,現在のカルティニ像を決定付けた1911年版書簡集の位置付けである。本書では,その恣意的な編集が明らかにされたが,一方で,1911年版の出版とその成功がなければ,カルティニの存在自体が歴史のなかで忘却されていた可能性が高い。パネの翻訳についても同様のことがいえよう。アベンダノンおよびパネの功罪のうち,その功績にも言及する必要があったのではないか。

インドネシアにおいて,一般にカルティニは「女性解放」というジェンダー的な側面から評価されている。インドネシアにおける女子教育の先駆者としては,カルティニと妹のカルディナ,そしてデウィ・サルティカ,ニャイ・アフマッド・ダラン,ラーティマ・エル・ユヌシヤなどがあげられる[Bachtiar 1979, 81]。ほかの例と比べると,カルティニが設立した女学校は規模が小さく,またカルティニの早世によって発展できなかった。1913年,Door Duisternis tot Lichtの収益によってカルティニ基金が設立され,カルティニ学校(Sekolah Kartini)がジャワ各地に開設された。それはカルティニが想像した学校とは異なるものだったとしても,あるいはアベンダノンの「罪滅ぼし」[Soeroto 2001, 374]だったとしても,アベンダノンの功績として認めるべきではないだろうか。

つぎに,木彫工芸振興におけるカルティニの貢献である。カルティニは県知事(ブパティ)達の批判を受けたため,バタウィア行きの奨学金を辞退し,教師資格の取得を諦めざるをえなくなった。さらに,オランダ政庁が,アベンダノンが提案した原住民女子校案を不採用としたため,教育・宗教・産業局長官であるアベンダノンは,カルティニを女子教育ではなく東インドの工芸振興活動に位置付けたのである(201ページ)。彼女はこれに積極的に取り組んだのだが,1911年版書簡集ではこの事実は触れられず,オランダ語を解する原住民として,ほかの原住民とオランダ人の仲介者としてのみ描かれる。それでもなお,彼女が工芸振興にかかわるきっかけとなったのもまたアベンダノンである点は評価されなければならないだろう。

著者は,1987年にインドネシアの大学生を対象としてカルティニに関するアンケート調査を行ったが,彼女が「ジュパラの家具等の木彫工芸の振興に貢献した」ことについての回答はなかった(147ページ,注99)。1987年版書簡集のインドネシア語訳[Kartini 2000]がすでに出版されている現在でも,工芸振興面でのカルティニの貢献は知られていない。こうした実際の活動とは乖離したカルティニのイメージは,まさしく工芸振興面での彼女の活動を過小評価したアベンダノン編1911年版によって生み出されたものである。現在流布しているカルティニ像と,1987年版から読み取れる彼女の実像との関係を1つの注に収めるのではなく,明確にできれば本書の価値はより理解しやすくなっただろう。

同様のことが,先述のHarsja W. Bachtiarに始まるカルティニ批判についてもいえよう。彼らの批判する対象自体が,アベンダノンの恣意的な編集によって生み出された虚像でしかなかったのである。

現在のインドネシアにおけるカルティニを巡る状況を勘案すれば,カルティニの再評価を促すものとして,本書の価値は学術研究の分野にとどまらない広がりをもつものといえるだろう。さらに本書は,インドネシア国内のカルティニに関する賛否両論の意見から離れた,中立な立場の日本人によって書かれているからこそ説得力がある。評者は,インドネシアにおけるカルティニを巡る議論に一石を投じることになるよう,一刻も早く本書がインドネシア語に翻訳されることを願っている。

(注1)  著者は本書では基本的に書籍のタイトルを原語で表記している。『闇を通って光へ至る』は著者による直訳であるが(3ページ,注1),『闇を越えて光へ』という訳をあてている箇所もある(299ページ)。

(注2)  書簡集にはアベンダノンに宛てたものに加え,アベンダノン夫人宛て,アベンダノン夫妻宛ての3種類の書簡が収められている。

文献リスト
  • Bachtiar, Harsja W. 1979. “Kartini dan Peran Wanita dalam Masyarakat Kita[カルティニと我々の社会における女性の役割].” In Satu Abad Kartini[カルティニの1世紀], edited by Aristides Katoppo. 2nd ed. Jakarta: Sinar Harapan.
  • Kartini, Raden Ajeng 2000. Kartini: Surat-surat kepada Ny. R.M. Abendanon Mandri dan suaminya, translated by Sulastin Sutrisno. 3rd ed. Jakarta: Penerbit Djambatan
  • Soeroto, Sitisoemandari 2001. Kartini Sebuah Biografi [カルティニ伝]. 6th ed. Jakarta: Penerbit Djambatan.
 
© 2021 日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top