新型コロナウイルス感染症の世界的な大流行によって,現地を訪れて調査することがほぼ不可能になるなど,途上国研究に携わる多くの研究者が大きな困難に直面している。その一方で,パンデミック以前からすでに調査が難しくなっていた国・地域も多く,その要因として,民主主義の後退と権威主義の台頭が世界各地で起きているという点が挙げられる。本連載の第1回(2020年6月号)と第3回(2021年3月号)で取り上げた,近年の香港と習近平体制下の中国はまさにそうした例である。
そして,これに新たに加わるかもしれない国としていま注目されているのが,日本やアメリカなどが「対中国」という観点から,「価値観を共有するパートナー」として接近を試みているインドである。さらに,インドのなかでも研究対象にすることが非常に難しく,ここ数年で調査が一段と困難になっているのが,北部に位置する「カシミール」と呼ばれる地域である。
今回のインタビューでは,カシミールについて長年にわたって研究されてきた拓徹氏にご登場いただき,カシミールをめぐる問題の深刻さ,歴史的起源とその後の経緯,現政権下でのさらなる状況の悪化などについて,幅広く語っていただいた。また,カシミールという研究対象にたどり着くまでの紆余曲折,現地情報を見極めるうえでの現地の人たちとの信頼関係の大切さなどについてのお話は,研究の道に進むかどうかで悩んでいる学生や,政治的に微妙なテーマを扱う研究者にとって多くの点で参考になるだろう。
なお,インタビューは2021年3月15日にウェブ会議システムを通して行われた。
湊 本日は,「特別連載 インタビューで知る研究最前線」の第4回ということで,カシミールを長年研究されている拓徹さんをお招きしました。
カシミールが抱える問題というと,インドやパキスタン,あるいはもう少し広く,南アジア地域を研究する者にとってはその深刻さが身近に感じられるのですが,残念ながら一般にはそれほど知られていないのが実情です。
今回,インタビューというかたちでカシミールについて具体的なお話をうかがえるのは私にとって貴重な機会であるばかりでなく,本誌の読者にとっても得るところが多いと思います。本日はどうぞよろしくお願いします。
拓 大阪大学の拓徹です。私は2000年10月からインドのジャンムー・カシミール州に10年ほど滞在し,州立ジャンムー大学で社会学の博士号を取得しました。社会学といっても,やってきたのは歴史学と政治学の間のような,歴史人類学にも近いようなことです。私はカシミールで何が起こっているのかをとにかく知りたいというのが第一で,ディシプリンは何でもいいかな,という感覚でこれまでやってきました。
複雑なカシミールの実情を限られた時間でお話しするのはなかなか難しいのですが,皆さんに少しでも知っていただく貴重な機会だと思っています。本日はどうぞよろしくお願いします。
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻助教。九州大学大学院文学研究科にて修士課程修了,インド・ジャンムー大学にて博士号取得(社会学)。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科客員准教授などを経て現職。「カシミールの禁酒運動はどう伝えられたか―1980年代初頭インドの新聞報道とセキュラリズム―」『南アジア研究』25号(2013)で2015年度日本南アジア学会賞受賞。単著に『インド人の謎』(星海社,2016)。専門は現代カシミールの社会史・政治史。
湊 2019年8月6日にインド政府は,憲法第370条によってジャンムー・カシミール州に与えられてきた特別な自治権を剥奪しました。さらに,それとあわせて,ジャンムー・カシミール州はジャンムー・カシミール地方と東部ラダック地方の2つに分割され,ともに連邦直轄地となりました[ジェトロ 2019; Prime Minister’s Office 2019]。
それまで,ジャンムー・カシミール州の住民には特別な市民権や財産所有権が与えられ,州外のインド国民が同州の土地を購入することはできませんでした。インドのモディ政権は今回の自治権剥奪により,州外からの投資が期待され,同州の民主化が進むことでテロリズムの要因となっていた汚職や貧困が解消されると主張しています[Ministry of Home Affairs 2019]。
しかし,この決定に対しては,ジャンムー・カシミール州の地域政党や国政最大野党のインド国民会議派が反対を表明しているほか,領有権を主張する隣国パキスタンや中国も反発の姿勢を見せています。
カシミールについて関心をもって見続けてこられた拓さんの目には,日本におけるカシミール問題の取り上げられ方というのはどのように映っていますか。
拓 2019年にカシミールの自治権剥奪という大きな変化があったことで,ここ数年は以前よりは取り上げられるようになってきている気はします。ただ,中国が台頭している現在,日本は戦略的にインドとパートナーシップを結びたいところでしょうから,インドの国内問題にあまり干渉しないほうがいいというスタンスも透けて見えます。たとえば今のミャンマーに比べると,報道される割合は少ないですね。
このインタビュー前日の報道によれば,ミャンマーの死者は2月19日からの半月あまりで6580人を超えました。これが逐一報道されてきたわけですが,同じような構図で市民が毎年100人前後亡くなっているカシミールはほとんど報道されていません。これはカシミールに限ったことではなく,世界のいろんなところに政治問題や紛争地帯がありながら,知られていないもの,報道されにくいものがたくさんあるということです。
湊 たとえば,イエメンやソマリアなどがそうですね。
拓 もっと比較しやすい例としては,パレスチナ問題があります。問題になっている地域の面積の規模とか人口の規模,それからちょうど第二次大戦が終わったあたりで問題が深くなっていったという歴史的経緯はよく似ています。私がインド留学を始めた2000年の時点で,パレスチナ紛争の死者数もカシミール紛争の死者数も,累計でどちらもおよそ7万人に達していました。
パレスチナ紛争が国際舞台で常に取り上げられてきたのに対して,カシミール紛争というのはあまり注目されてきませんでした。特に,第三次印パ戦争後にカシミール問題が印パ二国間の問題として定義されて以降,国際舞台であまり取り沙汰されなくなりました。
湊 日本だけがカシミールに無関心だったというわけではないのですね。
拓 はい。むしろ日本では取り上げられているほうかもしれません。特に欧米では,パレスチナ紛争はユダヤ人問題にかかわっており当事者意識を集めますから,どうしてもカシミールより扱いが大きくなりますね。
湊 カシミールの歴史的背景を説明していただけますか。
拓 まず,「カシミール」といっても狭義のカシミールと広義のカシミールでかなり違うということを知っていただきたいと思います。
インド・パキスタンへの分割併合前,この地域にはジャンムー・カシミール藩王国という王朝がありまして,図の点線で囲まれた地域がそれです。1846年,イギリスの後ろ盾のもとでジャンムーのドーグラー族を藩王として誕生しました。昔は各地域のアイデンティティがあまり定まっていなかったので,1970年代くらいまではルーズにこの地域全体をカシミールと呼んでいました。広い意味でカシミールという時はこの旧ジャンムー・カシミール藩王国全体を指します。
白抜きのところがインドのジャンムー・カシミール州で,その中の左上,北西の部分が狭い意味でのカシミールです。カシミール渓谷と呼ばれるヒマラヤの中の谷で,真ん中あたりにスリーナガルという夏の州都があります。このカシミール地方は比較的小さな部分でしかないのですが,2011年時点で約700万人の人口がいました。南のジャンムーは535万人,東のラダックは広いわりに29万しかいません。ですので,圧倒的に人口が多くて文化的な中心はこのカシミール渓谷ということになります。
この旧ジャンムー・カシミール藩王国が域内に抱える多様性は重要な問題なので,次にこれを少し解説してみたいと思います。
カシミール地方の言語は「カシミーリー語」と呼ばれるもので,ヒンディー語やパンジャービー語とは一線を画しています。人口構成でみますと,もともとイスラーム教徒が95%を占め,ヒンドゥー教徒はわずか4%にすぎませんでした。しかしカシミール地方では4%のヒンドゥー教徒が重要な位置を占めていて,そのほぼすべてがカシミーリー・パンディットと呼ばれるコミュニティに属していました。このコミュニティの成員はヒンドゥー教における最上位のバラモン(ブラフマン)階層に属するとされています。
カシミーリー・パンディット(以下KP)はカシミール人の中で一番教育水準が高い集団で,支配者が変わっても常にエリート官僚集団としての地位を保っていました。KPには農村部でも読み書きができる人が多くて,パトワリと呼ばれる村役人や学校の教師をする人の割合が非常に多かった集団です。これに対し,カシミールのイスラーム教徒(おもにスンニー派)の大多数は貧しい農民でした。
ところが1989年にイスラーム教徒を主体に始まったゲリラ闘争で,ヒンドゥー教徒であるKPはゲリラから「親インド的である」との疑念のもとに敵対視され,結局KPたちは1990年から数年の間にそのほとんどがジャンムーもしくはデリー,その他のインドの都市へ逃げていったという経緯があります。
ジャンムー地方はカシミール地方の南に隣接しています。パンジャーブ平野に属する中央部ではドーグリー語,ヒマラヤ山中の小渓谷群である北東部と北西部ではカシミーリー語,北西部ではカシミーリー語に加えてパハーリー語という山岳言語も使われています。ヒンドゥー教徒が6割くらい,イスラーム教徒が3割くらいでしょうか。ジャンムー地方の中心都市ジャンムーは冬の州都で,私が留学していたのがここです。カシミール地方でイスラーム教徒が95%を占めているのに対して,ジャンムー地方ではヒンドゥー教徒が主体で,特にパンジャーブ平野に属する地域ではヒンドゥー教徒が大半を占めています。
(2000年代前半,ジャンムー郊外)
写真提供:廣瀬和司(フリージャーナリスト)
ラダック地方はエリアとしては非常に広いんですが,荒涼とした高原地帯でほとんど人が住んでいません。言語はチベット語の亜種のラダッキー語です。この地方の住民はほぼすべてチベット系の民族ですが,宗教的には,西側のカルギル地域がシーア派のイスラーム教徒,東側のレー地域は仏教徒が大多数です。
ここからはパキスタン側になります。旧ジャンムー・カシミール藩王国の西端に位置する縦長の地域をアーザード・ジャンムー・カシミール(AJK)と呼んでいます。言語はおもにジャンムー地方北西部と同じパハーリー語です。この地域を「パキスタン側カシミール」と呼ぶことがあるのですが,実際にはカシミーリー語をほとんど話していないので,文化的には大きな違いがあります。宗教的にはほぼイスラーム教徒のみということになっていますが実情はよくわかっていません。1974年以降,独自の暫定憲法をもち,形式的にはパキスタンから独立した「係争地」扱いとなっています。
旧ジャンムー・カシミール藩王国の北部に広がる広大な高原・山岳地帯で,小さな谷がいっぱいある地域です。言語はバラバラで,小さな谷ごとに言葉と文化が少しずつ違っているという,混沌としたところです。1970~2009年には「北方地域」(Northern Areas)という名前で呼ばれていました。
宗教的にはシーア派の12イマーム派が約4割,シーア派の少数派であるイスマーイール派が2.5割で,シーア派のイスラーム教徒が合計6.5割を占めています。残る3割がスンニー派といった構成です。
こちらはAJKと違ってパキスタン連邦政府の直轄領だったんですが,2009年に一定の自治権を与えられ,今に至るまで自治権を少しずつ拡大しています。南のAJKとは仲が悪く,旧ジャンムー・カシミール藩王国のくびきから逃れて,正式にパキスタンの一部になりたいという希望をもっている人が多いところです。
湊 広義のカシミールである旧ジャンムー・カシミール藩王国というのは,域内にこれだけの多様性を抱えていたということですね。
拓 はい。これを踏まえてカシミールに与えられた特別な自治権についてご説明します。
ジャンムー・カシミール藩王国の住民だけにこの地域における土地所有権と公職に関する被雇用権などが与えられる,という規定ができたのは,インド独立前のジャンムー・カシミール藩王国時代でした。
この規定がなぜできたかというと,かつてこの藩王国で官僚を雇うときに,ジャンムー・カシミールと歴史的・地理的に結びつきが強く,教育水準も高かった隣接パンジャーブ地方の知識人を雇う傾向があったことが事の始まりでした。その後,ドーグラー王族の出身地ジャンムーで教育水準が上がり,地元のヒンドゥー教徒の人たちの間で自分たちを官僚として雇ってほしいという要求運動が高まっていきました。さらにカシミールで高い教育を受けているヒンドゥー教徒のカシミーリー・パンディットも同様の働きかけを行ったことで,ジャンムー・カシミール藩王国の住民のみに土地所有権・被雇用権などを与えるという規定が成立したのです。今日のインドでは,これらの権利が,インド憲法第370条によってジャンムー・カシミールに与えられた自治の内容であるかのようにイメージされています。
湊 今では,これらの権利があたかもカシミールのイスラーム教徒を守るためにあると考えられていますが,その発端はあくまでもジャンムーとカシミールのヒンドゥー教徒の利益を守るためだったということですね。
拓 そうです。ですから,2019年8月の政府決定について「カシミールのイスラーム教徒に過分に与えられていた自治権を解消した良策」とするヒンドゥー右派の見方は,史実と食い違っているんですね。
一方,1920年代ぐらいから,カシミールの大多数を占めるイスラーム教徒からも政治的権利に目覚める人たちが少しずつ出てきました。それ以前から「カシミールのイスラーム教徒がヒンドゥー教徒の王様によって虐げられている」という訴えが現パキスタン側パンジャーブの大都市ラホールを中心としたイスラーム教徒たちからあがっていたのですが,この見方が教育を受けたカシミールのイスラーム教徒たちにも徐々に浸透していったのです。
カシミールの歴史的メルクマールとして今日知られているのは,1931年7月にスリーナガルで起きた民衆蜂起です。これはカシミールのイスラーム教徒の権利を主張して囚われたひとりの男の裁判をめぐって,イスラーム教徒を中心とする群衆と藩王国の治安部隊が衝突した事件です。治安部隊の発砲により30人前後の人が亡くなりました。これが,カシミールのイスラーム教徒が自分たちの政治的権利を主張した初めての機会だったと考えられています。
このいざこざの中で頭角を現したのが,シェイク・アブドゥッラー(Sheikh Abdullah)という人物です。彼はカシミールのイスラーム教徒をまとめる若きリーダーとして,翌1932年にムスリム・コンファレンス(Muslim Conference)という政党を立ち上げ,ジャンムー・カシミール藩王国のドーグラー王朝と対立していきます。
彼が最初に頼りにしたのはパンジャーブのイスラーム教徒だったのですが,1930年代半ばからはインド国民会議派のサポートを得るようになりました。インド国民会議派の一大リーダーで,のちにインド初代首相になったジャワーハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)という人物は,カシミールではなく北インドで生まれ育ったのですが,カシミーリー・パンディットの子孫です。ネルー自身にも自分のルーツであるカシミールとの連携を深めていきたいという意向があり,シェイク・アブドゥッラーに近づきました。アブドゥッラーの政党は1939年に「ナショナル・コンファレンス」(National Conference)に名称を変更し,その党是をインド国民会議派流のセキュラリズム,すなわち宗教の区別なくカシミール人の権利を守るとする方向へと舵を切りました。
現代的なカシミール問題が浮き彫りになってくるのは,第二次大戦後の印パ分離独立の際に藩王国の主要部分がインドに編入されてからということになるのですが,これは後ほど改めてご説明します。
湊 ありがとうございます。では,ここでひと息入れて,拓さんご自身の研究者としてのこれまでの経緯をうかがいたいと思います。拓さんは,そもそもなぜカシミールを研究対象にしようと思ったのでしょうか。
拓 私は1990年に筑波大学の国際関係学類というところに入ったんですが,そのときは「日本は平和だけど世界には苦しんでいる人たちがいる。何とかしなくちゃいけないんだ」というような思いがありました。
当時,日本のODAが本当に役に立っているのか,現地の人たちは本当にODAの援助を求めているのかという議論が学生の間でありまして,私はちょっとわからないなと思って,わからないなら現地の人たちが自ら助けを求めているところをやるべきなんじゃないかと思ったんですね。当時はチベットに関心があって,卒論はチベットをテーマに書きました。ただチベットは研究者が結構たくさんいて,今から自分が参入するのは難しい気がして,ちょっと西に目をやるとチベット仏教圏のラダックがありました。さらにその先を見たらカシミールがあったということです。
何しろ私はいろんなことに関心があって,対象地域を決めかねていました。でもカシミールというところは,インドの一部でもあり中央アジア文化圏にも入っていて,ヒンドゥー教もあればイスラーム教もある。独自の文学とかもありそうだし,ここをやれば何でもできそうな感じがしたんですね。何も決められないから,とりあえず何でもできそうなここにしようか,という感じで,九州大学の修士に入ったときにテーマをカシミールにしました。もちろん,カシミールの人たちが「自ら助けを求めていた」のが第一の理由です。ただ,最初は現地に行くのが怖くて,尻込みをしていましたね。
湊 それまでにインドに行ったことはあったのですか。
拓 ありませんでした。修士2年目の1997年の2月から3月にかけて初めてインドに渡り,そのときカシミールにも行きました。
湊 最初のインド訪問でいきなりカシミールに行ったんですか。
拓 ええ,全くわかっていなかったんですよ。後で思い返すと,私が散歩したスリーナガルの街はいやにガランとしていましてね。おそらく戒厳令か何かが出ていて,誰も外を歩いていなかったんです。そこを私は何も知らずにブラブラ歩いていました。
湊 まかり間違えば,治安部隊に撃たれていたかもしれませんよね。
拓 治安部隊の人たちの目には,何もわかっていない外国人観光客であることはおそらく明々白々で,見逃してもらったんだと思います。
湊 初めてカシミールを訪れて,「これは面白そうだ」という手ごたえを得て,それで現地に留学することになったんですか。
拓 いえいえ,そのときもまだ尻込みをしていて,修士論文は植民地期のイギリス人官僚がカシミールについて書いたものだけを基にして書きました。それと,自分がこの先研究を続けるかどうかということにも少し疑問をもっていたんです。大学というところがあまり好きじゃなかったんですね。修士が終わるところで私が先生に「一度大学を出ます」と言ったら,先生も二つ返事で「それがいいよ」とおっしゃいまして(笑),それで東京に帰ってきてフリーターみたいなことをしていました。実質的にはプータローです。
でも,カシミールという紛争地で人々が困っている状況があるのは確かで,しかも私は一度そこに行っている。やっぱりあの状況が何なのか,確かめないうちは死ねないなという気分になってきたんです。研究を続けるかどうかはさて置き,とにかくもう一度カシミールにしっかり行ってみたいという思いに突き動かされ,インド大使館の交換留学生のプログラムに応募してジャンムー大学に留学を始めたのが2000年の10月ということになります。
湊 こういっては大変失礼ですが,お聞きした範囲では,かなり行き当たりばったりだったわけですね。
拓 そうです。かなり滅茶苦茶です。学部のときから揺れに揺れていまして,当時の私は他の学生と同じように「海外には行きたいけれど何がやりたいかは決まっていない人たち」の一員でした。当時の筑波大学の国際関係学類では,何がやりたいか決まっていない学生は卒業前の1年間休学して,どこか外国に1年間行って満足して大学生活を終える,というのがお決まりのコースだったんですが,私はその「どこに行きたい」ということすらもなかったので,とりあえずアメリカでも行くかということで,学部の時は3年と4年の間で1年休学し,アメリカに語学留学しました。
湊 拓さんがアメリカに留学していたとは,ちょっと意外ですね。
拓 完全にモラトリアムの1年です。それで大学を5年間かけて終えて,その次に進路を迷いながら筑波の大学院を受けたんですが落ちました。それで大学院浪人をしまして,そのときも東京の荻窪で1年間プータローをやっていました。1年のブランクを経て晴れて九州大学の修士課程に入ったんですが,ここも1年留年して3年かけて修了しまして,そのあと東京に戻ってまたプータローを1年半ほどしていたわけです。それから留学を始めたので,そのとき私はもう29歳になっていました。
ジャンムー大学では修士課程をもう一度やるということで入ったんですが,いろいろあって修士課程を終えられませんでした。でも日本で修士号を一度取っているということでなんとか博士課程に入れてもらって,これを最長の7年かけて終えました。博士号を取ったのは2010年です。その後,ジャンムー大学に新しくできる研究機関に就職させてもらえるかもしれないという話があったので2年ほど待っていたんですが,全然話が進まず,もうこれは駄目だと思って2012年に帰国したという感じです。情けない話です。
湊 そんなことはないですよ。研究の道に進もうかどうか悩んでいる学生や若手研究者のなかには,こういった話に勇気づけられる人も多いと思います。成功談や武勇伝みたいな自慢話をする人はいても,過去に悩んだ経験を率直に語る人はそんなに多くないですから。
拓 そう言っていただけるとありがたいですが,あまり真似はしてほしくないですね(笑)。
『アジア経済』編集委員,アジア経済研究所地域研究センター南アジア研究グループ研究員。専門はインド政治経済。
湊 では,真面目な話にまた戻りたいと思います(笑)。
カシミール問題というのは,第二次大戦後に印パが分離独立したときに,ジャンムー・カシミール藩王国がどこに帰属するのかで揺れたところに根本があると思うのですが,その点についてかなり間違った解釈をしている議論をよく見かけます。そのあたりの事情を説明していただけますか。
拓 これは日本だけではなくて,世界的に誤った解釈が広まっていると思います。事実だけを述べると,当時,カシミールのイスラーム教徒のリーダーであったシェイク・アブドゥッラーは,どちらかと言えばインド帰属を選んだわけです。1947年10月にジャンムー・カシミール藩王国がインド連邦に帰属することを認める文書(Instrument of Accession)に署名したのは藩王ハリ・スィン(Hari Singh)でしたが,そのときシェイク・アブドゥッラーもそれに同意していました。
湊 パキスタン側のパシュトゥーン人勢力が,カシミールに侵攻したときですね。
拓 はい。あの時点でカシミールのイスラーム教徒は,シェイク・アブドゥッラーを熱烈に支持していたわけですが,そのアブドゥッラーの意向に民意を代表させることができるとするなら,彼らはインド帰属を選んだのであり,その意思を確認したうえでインド政府はカシミールに軍を送ったということになるのです。これによりインド軍がカシミールに投入され,第一次印パ戦争が始まることになりますが,以上のいきさつから,当時のカシミールの住民がパキスタン帰属を望んでいたという一般的な解釈は間違っていることがわかります。
つぎに,ジャンムー・カシミール藩王国の藩王ハリ・スィンがヒンドゥー教徒だったからインドを選んだという解釈についてですが,これも事実ではありません。彼は藩王国の独立を目指していたのですが,彼にとっての一番の脅威はシェイク・アブドゥッラーがインド国民会議派と手を組んで自分の権力を奪おうとしているのではないかということでした。ハリ・スィンは当時,インド国民会議派の影響力を抑える都合上,ムスリム連盟,つまり後のパキスタン側とも交渉していました。インドかパキスタンかという点ではどちらでもよく,あくまでも藩王国の独立,ひいては藩王としての彼の権益の確保が彼の希望の中心だったのです。
湊 自分の権力基盤が脅かされないことが,一番大事だったわけですね。
拓 はい。藩王がヒンドゥー教徒だからインドを選び,住民は大多数がイスラーム教徒だからパキスタンを望んでいた,という一般的な解釈はどちらも間違っているということになります。
湊 藩王国のインド編入後に,自治権についての規程がなお生き続けたのはどういう経緯なのでしょうか。
拓 独立前のインドには,イギリスが支配している地域と,形式的には独立している複数の藩王国(Indian States)の2種類が存在していました。独立の直前,インド国民会議派を中心とするインド政府は現在のインド領内の各藩王国に通達を出して,実質的にインド連邦に加わってその一部となる選択をするよう要請したのですが,そのときに,ハイデラーバード,ジューナーガル,ジャンムー・カシミールなどいくつかの藩王国は首を縦に振りませんでした。
結局,その後すべてインドに統合されてしまうのですが,ハイデラーバードなどが軍事力によって力づくで併合されたのに対して,ジャンムー・カシミールはネルーが愛着をもつ地域だからなのか,話し合いによって組み入れられることになりました。
ジャンムー・カシミールの独自性と自治権を考えるうえで重要になってくるのが,当時のこの地域における2つの勢力,ひとつは先ほどの藩王のハリ・スィン,もうひとつがシェイク・アブドゥッラーです。藩王が独立志向をもっていたことはすでにお話ししましたが,これとは異なるかたちで,シェイク・アブドゥッラーが率いるナショナル・コンファレンスは1940年代にインド共産党がプッシュしていたself-determinationという新しい考え方を取り入れて,カシミールはひとつのネイションなんだという意識をもちはじめていました。「カシミール」という地域名と地域アイデンティティは非常に古くから存在するものですし,インド国民会議派としても,カシミールが強い独自性をもつ地域であるという事実を完全に無視できなかったんじゃないかと思います。
それでインド憲法をつくるときに第370条が設けられ,ジャンムー・カシミール州についてのみ独自の憲法による自治を認めたうえでインド連邦に入ってもらうことになりました。そしてこの州憲法に,州民の権利規定を含む藩王国時代の法律が多くそのまま残ったのです。
湊 それでは,1947年の印パ分離独立後のカシミール問題の展開をいくつかのフェーズに分けてお話しいただけますか。
拓 1947年の秋にパキスタン側から,パシュトゥーン人(アフガニスタン南部からパキスタン北部にかけて居住する民族)の武装勢力が攻めてきて,これを防御するために藩王のハリ・スィンがインドに帰属することを表明し,インド軍がカシミールに送られて戦争が始まります。勃発の時点では,カシミール紛争はインドとパキスタンの領土争いでした。
しかしもともとこのあたりは国際的に駆け引きが繰り返されてきた地域で,その力学がカシミール紛争にも働きました。つまり,カシミールからアフガニスタンにかけての地域では,19世紀からロシアの南下政策とイギリス(英領インド)の領土保全をめぐる「グレートゲーム」と呼ばれる攻防戦が繰り広げられていて,印パ分離独立時の英米はパキスタンをソ連の南下を食い止めるための南アジアにおける基地にしようと考えていました。
この頃,イギリスはイスラエル建国をめぐって中東のイスラーム教徒を苦しい立場に立たせることになっていたので,南アジアでは彼らに少し譲歩しなくてはいけないという計算もあったことが最近の研究で明らかになっています。カシミール紛争の勃発時,国力や軍事力ではインドが圧倒的に優位に立っていましたが,こういったさまざまな事情で英米が,カシミール情勢を含めてパキスタンに便宜を図ったと言われています。
このグレートゲームは印パ分離独立後も続き,カシミールにはアメリカ側からもソ連側からもスパイみたいな人たちがたくさん入って働きかけるという状況がありました。シェイク・アブドゥッラーに対してもこうした働きかけがあり,アブドゥッラーのカシミール独立志向をそそのかしたと言われています。これはいかんということで,ネルーのインド政府は1953年8月にシェイク・アブドゥッラーを逮捕します。これが印パ分離独立後におけるカシミール内政の分岐点となりました。
これ以降,インドの傀儡政権がジャンムー・カシミール州で続くことになり,独自の憲法をもつこの州に,どんどんインド憲法の条項がなし崩し的に適用されていきます。
湊 第1のフェーズが,1947年からアブドゥッラーが逮捕される1953年までということですね。
拓 その後,獄中のシェイク・アブドゥッラーは「住民投票戦線」(Plebiscite Front)というグループを立ち上げて活動をしていくことになります。この地域の帰属を住民投票で決めるべきとする国連決議に賛同したわけですが,当時この国連決議を後押ししていたのはパキスタンでした。インド側は無視を決め込んでいました。
こうした中で,1963年の暮れから64年初頭にかけて,カシミールのハズラトバル・モスクから預言者ムハンマドの遺髪が盗まれるという一大事件が起きました。この時点のカシミールのイスラーム教徒の信仰はまだ民俗的な聖者崇拝が中心で,これはヒンドゥー教徒のパンディットたちにも共有されていたため,この事件はカシミール社会全体に衝撃を与えます。この騒乱が,傀儡政権が続いていることによるインド政府への反感を増幅して政治性を帯びはじめたので,ネルーは非常に危惧しました。そこで彼は,急遽シェイク・アブドゥッラーを釈放し,パキスタンに派遣しました。シェイク・アブドゥッラーを担ぎ上げて,もう一度この旧ジャンムー・カシミール藩王国という地域をインドとパキスタン両方で緩く治めていく一種の連邦的な共同統治への道を模索しはじめたのですが,その矢先にネルーが死んでしまいました。ここでこのプロセスは終わってしまいます。
1965年,この混乱に乗じてパキスタンがカシミールに侵攻して短期間の第二次印パ戦争が起きました。重要なことは,この時期にアブドゥッラーの住民投票戦線を軸にして,若者の間にカシミール独立への意識がかなり明確に生まれてきたことです。当時のアルジェリア独立闘争からインスパイアされた面もあったと思います。
湊 カシミールの若者たちがパキスタン寄りの独立志向を強めていったわけですね。
拓 はい。ところが1971年に第三次印パ戦争が起きると,東パキスタンがバングラデシュとして独立し,パキスタンの力が半減してしまいます。シェイク・アブドゥッラー側としてはパキスタンの力を借りてカシミールの自治を取り戻し,あわよくば独立する構想を描いていたわけですが,このシナリオは破綻しました。仕方ないので,シェイク・アブドゥッラーは当時のインド側の首相インディラー・ガーンディーと交渉して,インド連邦の枠内で最大限の自治を確保するという方向で合意します。
1975年,シェイク・アブドゥッラーがジャンムー・カシミール州首相として復帰し,ひとまず紛争は収まったかに見えました。このときアブドゥッラーは住民投票戦線を解体し,かつての自分の政党National Conference(NC)の名を復活させ再編しました。
湊 ここまでが第2フェーズですね。
拓 第3のフェーズは1975年からゲリラ闘争が始まる1989年までということになると思います。シェイク・アブドゥッラーは1982年まで生きていました。彼は最大のリーダーでありカリスマだったので,彼が生きている間は独立志向の若者も矛を収めているような状況が続きました。
ところがシェイク・アブドゥッラーが亡くなると,リーダー不在の状況になっていきます。息子のファルーク・アブドゥッラーが彼の跡を継いだのですが,リーダーとしては弱い人でした。お父さんを継いだ直後はインディラー・ガーンディーに威勢よく楯突いたんですが,ファルークの州政権は1984年にインド中央政府の工作であえなく崩壊してしまいます。1986年にはあっさりラジーヴ・ガーンディーと和解してしまったので(インディラーは84年に暗殺され,息子のラジーヴが跡を継いでインド首相になりました),ファルークはカシミールの社会の中で信用を失いました。
さらに1987年の州議会選挙では,大規模な不正がありました。イスラミストや独立志向~親パキスタン的な勢力を含むMuslim United Front(MUF)という新たな傘団体が野党として選挙戦をたたかったのですが,明らかに勝っていたMUFの候補数名が不正に落選とされ,MUFの選挙活動に加わった若者たちが理由もなく投獄され,拷問を受けました。これにより,決定的にカシミールの社会,特に若者たちが,インドの民主主義に対する信頼を失いました。このとき投獄され拷問を受けた若者を中心に,その後のゲリラ闘争が開始されます。
湊 ここからが第4のフェーズで,ゲリラ闘争が始まる時期ですね。
拓 1989年から2005年頃までがゲリラ戦期ということになります。カシミールの若者がインドからの分離独立もしくはパキスタンへの併合のどちらかを求めて,ゲリラ闘争を開始しました。
ゲリラ闘争が始まった当初は,独立志向の「ジャンムー・カシミール解放戦線」(Jammu and Kashmir Liberation Front: JKLF)の勢いが強かったんですが,1992年頃から,パキスタンの支援を受け,当初はパキスタン併合派だった「ヒズブル・ムジャヒディーン」というゲリラ団体が強くなっていきました。1990年代を通じて,カシミール渓谷でゲリラ戦が行われることになります。
湊 この時期というのは,やはりゲリラに対するパキスタンの関与が非常に大きかったのですか。
拓 そう思います。1990年代初頭ぐらいまでは国境地帯の監視が緩かったので,ゲリラの第一世代はパキスタン側に越境して,武器の使い方などのトレーニングを受けてカシミールに戻ってくるというパターンができていました。
それに加えて,当時はまだメディアなどの情報が少なく,カシミールの若者はパキスタンに大きな幻想を抱いていました。ゲリラ戦を始めればパキスタンが助けに来てくれるはずだと考えていたんです。しかも当時は旧ソ連の中央アジア諸国が次々に独立していった時期で,カシミールからしてみればすぐ北にある地域がどんどん独立していくのを見て,僕らも独立するんだと希望に満ち溢れていたんですね。
これに対して,インド側も静観していたわけではありません。大変な数の軍と治安部隊を投入してゲリラ討伐にあたらせ,無法地帯と化していたジャンムー・カシミール州に法治を取り戻し,もう一度インド寄りの政府を打ち立てようと,1996年に州議会選挙を実施しました。選挙を遂行するにあたって,ゲリラの力を弱めるために導入されたのがインド政府側のゲリラである「イクワーン」です。じつは彼らは,最初にゲリラになった後,インド側に寝返った人たちでした。第一世代ゲリラの中には,そもそもイデオロギー的な信念もなく,ただ出世目的でゲリラになった若者も多かったので,インド側からお金や地位を与えられるのと引き換えに,独立派やパキスタン併合派のゲリラをやっつけなさいと言われて,それに応じたのです。
このイクワーン勢力が中心になって,投票に行きたがらない人にも無理やり投票させるようなことをやって1996年の州議会選挙を強引に成立させたんですが,その後2000年代前半に至るまで,イクワーンはカシミール社会にとって一番の重荷になっていきました。イクワーンはもともと金で寝返るような倫理感のない人たちの集団で,それが政府と軍の後ろ盾を得て武器を手にし,傍若無人の限りを尽くしていたわけです。もともとふつうの好青年が多いうえ,カシミーリー語もわからないインド軍兵士と違って,もともと性格が悪いイクワーンは地元の事情に精通し,カシミーリー語もわかります。私が留学を始めた頃も,イクワーンの事務所の前を通るときだけは,地元のカシミール人もみな緊張していました。イクワーンにはインド政府とつるんだ地元与党NCの息がかかっていましたから,住民はなす術がなかったのです。
湊 それが現在,カシミールの人たちの間でNCや既成政党に対する信頼が低いという状況の背景にあるわけですね。
拓 そうです。ここで出てきたのがムフティ・サイード率いる「人民民主党」(J&K People’s Democratic Party: PDP)という地方政党です。PDPはNCへの対抗馬として出てきたとされていますが,このムフティ・サイードという人は,もとは国民会議派のカシミール支部のトップで,非アブドゥッラーの政治勢力をカシミールに樹立しようと長年努力していた人物です。そして2002年の選挙では,カシミールの「癒し」(healing touch)をスローガンに掲げ,PDPと国民会議派の連立州政権を打ち立てることに成功しました。
サイードがまず取り組んだのは,ゲリラを味方につけることでした。2002年の時点で,カシミール最大のゲリラ団体は前述の「ヒズブル・ムジャヒディーン」でしたが,サイードは彼らと裏で手をつなぎ,NCとつながっているイクワーン勢力を駆逐していきました。カシミール社会からの怨念が凄まじかったこともあって,イクワーンのリーダーたちはあっという間に抹殺されてしまいます。
その後PDP政府は,返す手でヒズブル・ムジャヒディーンの駆逐に乗り出し,結果的に2005年ぐらいまでにイクワーンもゲリラもカシミールから姿を消しました。カシミール社会はひとときの平和を取り戻したのです。
湊 武装組織がいなくなって一見平和になったのが,2005年頃ということですね。
拓 カシミールの人たちにとってみれば,久しぶりに何も気にせず自由に外を歩けるという状況になったわけですが,そういう状況になってみると,やっぱりインドの圧政,つまり,政治的自由がカシミールに認められていないことが嫌になってくるわけです。そして2008年,非武装の市民による反インドデモが発生しました。
きっかけは,ジャンムー・カシミール州内にあるヒンドゥー教の聖地・アマルナートの土地が地元以外の人に一部譲渡されるという話でした。先にお話ししたように,カシミールの土地は域内の人しか所有できない決まりですから,これには地元カシミールの人たちが猛反対しました。
デモが激化した結果,最初の土地譲渡問題は忘れられ,やがて反インドプロテストに変わっていきます。当時はゲリラもおらずインド治安部隊も油断していましたが,スリーナガルの街の中心部周辺を埋め尽くした群衆が,イスラームを象徴する緑色の(パキスタン国旗にかなり近い)旗を振って「カシミールに自由を」と連呼する事態になったわけです。インド側は慌てて弾圧に転じたのですが,カシミールの住民の間でカシミールの自由を求めていくという姿勢がはっきりしたのが2008年だったわけです。
湊 パキスタンへの幻想もなく,パキスタンでトレーニングを受けたわけでもないゲリラが出てくるのは,このぐらいのタイミングですか。
拓 そうですね。2010年の夏に「フェイク・エンカウンター」,つまり,治安部隊が自身の手柄のために罪のない市民をゲリラにでっち上げて殺害する事件が起きました。これに対する抗議デモでまた治安部隊が発砲し,17歳の少年の命が失われると,今度は若者たちがパレスチナのインティファーダに倣い,治安部隊に投石で抵抗するようになりました。
2010年の秋にはインド中央の政治家たちがカシミールのインド分離派のリーダーたちのもとを訪れ,謝罪と融和のメッセージを送って事態の鎮静化を図ります。この模様はカシミールを含むインド全国にテレビ中継されたので,カシミール側もそこで溜飲を下げ,抵抗運動を止めたんですが,実質的にはインド側は譲歩しておらず,逆に締め付けを強化していきました。2010年の秋以降はカシミール地元のニュース放送(テレビ)がすべて禁止となり,投石をしそうな若者はすべて投獄されるという事態になりました。この状況下で苦しんだカシミールの若者たちが再び銃を取りはじめ,「パキスタンと無関係の地元ゲリラ」が徐々に増えていくということになったわけです。
湊 ゲリラがだんだん増えてきているというのは,2014年に誕生するモディ政権の前からすでに起きていたことなんですね。
拓 はい。この頃の「パキスタンと無関係の地元ゲリラ」というのは,第一世代のゲリラと違って,パキスタンにもカシミール内の分離主義派リーダーたちにも幻滅していた世代です。これには,衛星テレビ放送を中心とした情報網が発達したことが影響していました。
特に21世紀に入った頃から,パキスタンの衛星放送がカシミールでも受信できるようになっていて,パキスタンという国の現実も惨状も如実に日々のニュース番組で知ることができましたし,カシミール内の分離独立派リーダーについては,地元衛星局のテレビ番組の長時間インタビューに応えている様子を見て,彼らが考えていることの薄っぺらさを感じ取ってしまっていたのです。
(2021年3月15日)
湊 カシミール問題への対応という意味で,モディ政権とそれまでの政権との大きな違いはどんなところにありますか。
拓 最初の頃はそんなに違わなかったと思うんです。インド人民党(BJP)長期政権で最初に首相を務めたバジパイの方向性を踏襲し,モディ首相も当初はカシミールの人たちの尊厳を守る姿勢をみせていました。変わっていくきっかけになったのは2016年初めにインド各地で立て続けに起きた学生運動と,これをめぐるテレビ討論の数々でした。これを境にインド世論全体が右傾化し,ダリト(不可触民)や学生たちの反モディ姿勢も明確になり,こうした時局に応じてモディ政権も右傾化し,政権に批判的な勢力を徹底的に弾圧するようになりました。
この後,2016年9月にはジャンムー・カシミール州北西部で起きたインド軍に対するテロ事件への報復として,インドはパキスタンに対しサージカル・ストライク(インド空軍によるピンポイント爆撃)を行なっています。
2016年7月には,新世代ゲリラの象徴となっていた若きリーダー,ブルハーン・ワーニーが治安部隊に殺されました。この頃の新世代ゲリラはパキスタンの助けをほとんど借りておらず,かつてのカシミール独立の夢に酔っていた出世志向のゲリラとは異なり,非常にストイックかつ動機も純粋だったので,地元住民の支援も厚く,人気がありました。
ブルハーン・ワーニーはソーシャルメディアを駆使して支持を集めていた人物で,Facebookに甘いマスクで穏健なメッセージを投稿する活動を続けていました。有名だったのは,潜伏している森の中でクリケットに興じている映像です。それまでゲリラと言うと凶悪なテロリストというイメージで見られていましたが,どこにでもいる普通の若者なんだというメッセージを発していました。そうして人気を博していたブルハーンが殺されたわけですから,カシミール中が怒り狂って一大民衆蜂起となりました。カシミールの人々は2010年に抵抗運動をいったん引っ込めたわけですが,その結果としてこういうことになったので,もう抵抗運動を止めることはないという姿勢をここで固めました。
湊 そうした流れの中に,2019年8月にインド憲法第370条の効力を停止して自治権を剥奪したうえで,ジャンムー・カシミール州を2つの連邦直轄地に分割するという措置があったわけですね。
拓 ただ,憲法370条を変えるためには前もって手続きが必要なので,これをモディ政権は着々とやっていました。
湊 本来は州議会の賛成が必要なわけで,そこでインチキをしたわけですよね。
拓 そうです。2014年末のジャンムー・カシミール州議会選挙で,モディ政権のBJPは「憲法を変えない」という条件でPDPとの連立政権に参加したわけですけれど,2018年6月にPDPとの協力を撤回して連立政権から離脱し,州知事による統治に持ち込んだわけです。知事統治というのは半年間と決まっていますから,半年経ったら自動的にインド大統領の統治下に入ってしまいます。こうなれば憲法をめぐる変更ができるわけですね。
それで州政権はいったん崩壊したわけですが,州議会議員の一定数以上が再びひとつの政権を支持すれば,当然ながら州政権が復活するわけです。そこでまずBJPの支持を受けた人民会議(J&K People’s Conference)という弱小地方政党が名乗りを上げたのですが,もう一方でそれまで犬猿の仲だったNCとPDPが手を組んで名乗りを上げてきました。
BJPの方は当然自分たちの傀儡政権がここで成立すると思っていたわけで,まさかNCとPDPが手を組んで対抗してくるとは思っていませんでした。二大地方政党が合体した勢力にはさすがにかなわないということで慌てたんですね。それで,「FAXが機能していなかった」という口実を付けて,彼らの申立てを受理できなかったということにして,州知事が州議会を突然強権によって解散させるということをしたわけです。それで成立するはずの州政権が成立せず,無理やり継続させた州知事統治がなし崩し的にインド大統領統治に変わって,2019年の8月を迎えるという順番です。
モディ政権が前の政権と何が違うのかという話ですが,歴代のBJP政権は常識的な判断から,一応党是にはなっていたものの370条に手を付けるような極端な政策は避けてきました。ところが,これを堂々とやってしまうのがモディ政権であるというのが大きな違いだと思います。特に2019年の春に総選挙で勝った後の第二次モディ政権でこの性格が色濃くなりました。
もうひとつはやっぱりソーシャルメディアの使い方ですね。2019年2月にカシミールのプルワマ地区で起きたテロ事件をきっかけに,インド軍は2回目のサージカル・ストライクをパキスタン側に行いましたが,BJPの勢力はこれをフェイクニュースを交えて勇ましくソーシャルメディアに発信しました。それまでBJPは次の総選挙での敗色が濃厚とされていたものの,こうした情報操作の甲斐もあって,「強いモディのインド万歳」という一種のナショナリズムの風潮を作り出すことに成功し,2019年総選挙で勝利しています。
湊 そこでもカシミールがうまい具合に利用されているということですね。
拓 はい。そして市民的な政治活動の締め付けという意味でもこの第二次モディ政権は非常に激しくて,2020年の秋にはアムネスティ・インターナショナルのインド支部が活動できなくなりました。同じ時期にカシミールの人権団体も活動ができなくなっています。
湊 それはやはり,国際社会と繋がっている組織がさまざまな情報を世界中に発信するのをインド政府が気にしているというのもあるのですか。
拓 モディ政権はかなり気にしています。デリーやムンバイーなどのNGOや市民団体もどんどん弾圧されている状況です。著名な作家のアルンダティ・ロイと一緒に活動することが多く,カシミール関係の人権擁護活動も精力的に行っていたゴータム・ナヴラカーという活動家も1年以上牢屋の中です。かつてデリーから側面支援してくれていたインドの市民活動家たちが牢屋に入れられている状況なので,カシミールの人権活動家も自由に動くことはできません。
湊 その一方でモディ政権は,カシミールにはもう何の問題もないと盛んに強調しています。その一環として,現地の「平常ぶり」を世界にアピールしようと,欧州議会の議員団や各国大使をカシミールに招待し,お膳立てしたツアーに参加してもらったりしています。
拓 2020年3月には,BJP側の新たな傀儡政党をカシミールの域内で立ち上げています。また,カシミールの地元政党はもう全部反BJPなので,政党中心の政治プロセス自体を変えてしまうという方向に舵を切りまして,もともとインド社会の末端=村レベルの行政機関である「パンチャーヤト」にBJP勢力を浸透させ,より大きな権限を与えようとしました。PDPやNCなど地元の既存政党が軒並み選挙ボイコットする中,州知事体制下のジャンムー・カシミール州ではパンチャーヤト選挙が2018年秋に実施され,BJPの息がかかったパンチャーヤト長たちが生まれています。この選挙に参加したのは実質的にBJPだけだったので,こういう結果になりました。BJPの目論見が半ば成功したわけですよね。とはいえ,これらのパンチャーヤト長たちは地元社会からBJPに買収された裏切り者とみなされ,ゲリラの標的にもされたので,そのうちの少なからぬ者が地元社会に対する謝罪文とともに辞表を出し,職を離れました。
BJP指揮下の体制が続く中,この路線をさらに展開しようとしたのが,2020年末に実行された地区開発委員会(District Development Committee: DDC)という新しい行政システムの設立とその選挙でした。インドでは大体,パンチャーヤトの上にブロック,ブロックの上にディストリクトという単位があり,ジャンムー・カシミールでも同様ですが,このディストリクト(地区)のレベルに,州議会とは別に地方の開発・発展のための大きな権限をもつDDCという機関をつくったわけです。
ただ今回は,前回パンチャーヤト選挙をボイコットしたためパンチャーヤトがBJPに乗っ取られてしまったという反省から,地元の政党がこぞって選挙に参加したので,結果はかなり異なるものになりました。地元の諸政党は,憲法が変わる前の状態を取り戻すことを目指した「グプカール宣言」のもとにひとつにまとまり,「グプカール宣言のための人民連合」(People’s Alliance for Gupkar Declaration: PAGD。カシミールの主要な地元政党の本拠地=党首宅がスリーナガルのグプカール通りに集まっているため,この名となった)の名の下にDDC選挙に参加しました。結果的に,今回は地元諸政党=PAGDが多くのDDCメンバーの獲得に成功し,地元における権益を守りましたが,見方を変えると,目先の権益のために選挙に参加することによって,地元諸政党はBJPが推し進めるジャンムー・カシミール議会の形骸化・機能低下を黙認することになったわけなので,彼らのDDC選挙参加がよかったのかどうかについては評価が分かれるところです。また,この選挙戦の最中に,多くの地元政党がPAGDの公式候補とは別に各地で事実上の自党候補を擁立したりして,PAGDは早くも仲間割れの様相を見せ,カシミールの良識ある人々を失望させました。
湊 地元の既存政党に対する信頼は高くなく,かといってBJPにもみな反感を抱いている。インドの中央政府のやり方が滅茶苦茶で,パキスタンに対する幻想もないとなると,カシミールの住民たちは今,どのような心境なのでしょう。
拓 2019年8月に憲法に手を付けた時点で,唖然としたというのが正直なところじゃないでしょうか。抗議デモも,予想されたほど大規模なかたちでは起きませんでした。カシミールの人たちは,インド中央政権といえどもカシミールの信用を完全に失うような暴挙には出ないだろうと思っていたのですが,モディ政権はそれを実行しました。この政権は何をするかわからないぞと感じ,カシミールの人々はデモをする以前に恐怖で萎縮してしまったというのが現実だと思います。
絶望といえば,カシミールの人々はもうずいぶん前から絶望している気がしますが,2019年8月以降は,これまでの抗議・抵抗活動の基盤となっていた状況判断の枠組み自体を考え直さなきゃいけないんじゃないかということで,現在はひたすら考え込んでいる状態だと思います。まあ,抵抗しようにも,がんじがらめに監視され武力で包囲されているわけなので,事実上,考えるくらいしかできることはないんですけど。
湊 BJP政権は地方に新しい制度をつくって自分の言うことを聞く勢力を据え,それを既成事実化していくという方向に進んでいるとのお話ですが,今後,カシミール問題を解決する糸口はあるのでしょうか。
拓 いま,細々であれ声を上げているのは国連の機関くらいです。370条と35a条をめぐる変更で州外の人がカシミールの土地を買えるようにして,インド政府はカシミールの人口・宗教構成をヒンドゥー教徒寄りに変えようとしているんじゃないか,との懸念を国連機関が表明しています[UN Human Rights Office of the High Commissioner 2021]。そういう国際的な枠組みの側から声を上げるくらいしか手段はありません。
湊 あとは,アメリカの政府系の委員会あたりでしょうか。
拓 先のQuad(クアッド)でもわかるように,アメリカは対中国でインドを取り込みたいところですから,どこまで踏み込めるかわからないですね。
湊 一方で,アメリカに関してはNGOが声を上げています。例えば,国際NGOのフリーダム・ハウスは各国の自由に関する年次報告書を出していますが,2021年3月に公表された最新の報告書では,インドが「自由」(Free)というカテゴリから「部分的自由」(Partly Free)というカテゴリに格下げされ,インド政府が反論のための声明を出すという一幕がありました[Freedom House 2021]
去年の報告書でも,ジャンムー・カシミール州の自治権剥奪をはじめとする,モディ政権によるムスリムに対する抑圧政策が批判的に取り上げられていました。さらに,モディ政権がそうした批判に一切耳を貸さないのは,中国がウイグル族などのムスリムに対して行ってきた抑圧政策を正当化するのと何ら変わらないとも指摘しています。
拓 そうなんですね。興味深いご指摘だと思います。
湊 ところで,カシミールの人たちというのはどういうアイデンティティをもっているんでしょうか。カシミール渓谷のイスラーム教徒であり,一応インド人でもあり,カシミール人というアイデンティティもありそうですが。
拓 まず,カシミールの人々にとっての,イスラーム教徒としてのアイデンティティについてお話ししましょう。カシミール渓谷で最初にいわゆる正統的イスラームの考え方,つまり当時の改革派イスラームの思想を導入したのは,スリーナガルのミールワーイズ(Mirwaiz)という伝統的な宗教的リーダーの勢力でした。彼らがこれを20世紀初頭に取り入れて,スリーナガル一帯で力をもったんですが,続いて20世紀半ば以降,ジャマーアテ・イスラーミー(Jamaat-e-Islami)が,ミールワーイズの影響が及んでいない地方・辺境部でマウドゥーディー(ジャマーアテ・イスラーミーを創設したイスラミスト思想家,1903~79)バージョンの正統イスラームを広めていきました。加えてタブリーギー・ジャマーアト(Tablighi Jamaat)というデーオバンド派(19世紀末から現在に至るまで,南アジアのイスラーム改革派を代表する流派)の団体が1960年代頃からカシミールでも手広く活動を始め,これによってかなり「正統的イスラーム」の規範が草の根に浸透しました。
カシミールで,自分たちは少なくともコーランに基づくイスラームというものを信仰するイスラーム教徒であるという意識が割としっかり浸透したのは1970年代くらいで,比較的遅い(クアッド)です。もちろん印パ分離独立の頃でも,お前はヒンドゥーかムスリムかと人から聞かれれば,彼らは間違いなく自分はムスリムだと答えたと思うんですが,じゃあムスリムの内実は何だと聞かれたら,答えに窮したでしょう。ほとんどの人は近所の聖者廟にお参りしている程度だったので,イスラームについてのそんなに深い認識はなかっただろうと思います。
湊 カシミール人としてはどうですか。
拓 やはりシェイク・アブドゥッラーが最初に頭角を現した1930年代に,カシミール人アイデンティティの最初の目覚めがあったと思います。ちょうどこの頃,カシミール人たちの間にカシミーリー語の文学に対する再評価の動きが起こっていました。それまで,カシミーリー語はペルシャ語やウルドゥー語と違って地元のくだらない言語と考えられてきたのですが,1930年代にカシミーリー語を使った文学が自分たちの文化的な根幹をなしているという認識が生まれました。意識的にカシミーリー語で書く詩人が登場したりして,ここでほぼ初めて,自分たちがひとつのまとまりをもつカシミール文化に属し,これを共有しているという意識が生まれたのです。
これが政治のレベルでself-determinationの概念と結びついてくるのは1940年代ですが,この考え方がある程度広範なカシミールの知識階層に広まったのは1960年代です。さらにシェイク・アブドゥッラーが政権に返り咲いた後の1975年から1982年の間,彼はインド連邦(インド憲法)の枠内でカシミールのアイデンティティを強めていく取り組みを進め,そこで州立文化アカデミー(J&K Cultural Academy)などの公立文化機関にテコ入れして,カシミールの文学史,政治史などを整備させてカシミール・アイデンティティを強めていきました。シェイク・アブドゥッラーがプッシュすることによってカシミール・アイデンティティがさらに飛躍的に根付いたわけです。
湊 インド人というアイデンティティはあるんでしょうか。
拓 印パ分離独立の時期にインドに肩入れしていた勢力にはあったと思うんですけど,カシミール渓谷のカシミール人の中にいわゆるインド人アイデンティティをもつ人はほとんどいません。一部のカシミーリー・パンディットはもっていたでしょうが,そういう人たちは1947年の時点で,カシミールから逃げるようにインド各地へ移住して行きました。
湊 カシミールのような紛争地では,印パをはじめとするさまざまなアクターが相矛盾するプロパガンダを展開し,情報がきわめて錯綜していますが,どうやって情報を見極めているのでしょうか。
拓 基本的には,やはりジャンムー大学の同級生をはじめ,知り合った人たちから少しずつネットワークを広げていき,情報を集めるということになります。そこでひとつお話ししたかったのは,本当に信頼できる情報ネットワークは,やっぱり一朝一夕に得られるものではないということです。
私の博士論文は,ヒンドゥー教徒のマイノリティであるカシミーリー・パンディット(KP)が,1980年代にカシミール社会で周縁化されていくプロセスを,地元新聞の調査をもとにインタビューを交えて裏付けていく内容のものなんですが,この調査の一環でジャンムー郊外にある彼らの難民キャンプに行ったんですね。一緒に行ったジャンムー大学の学生たちは政治学部の学生たちで,彼らは学部で割り当てられたプロジェクトの調査のためにこのキャンプを訪れていたのですが,私はそれに便乗させてもらったかたちです。地元の学生たちと一緒に行ったほうが,外国人がひとりで行くより警戒されないですからね。学生たちはジャンムー出身のヒンドゥー教徒がほとんどでしたが,それでもKPの問題に関しては初心者ばかりだったので,調査対象の難民キャンプのKPたちが口にするのは,KPがいかにカシミールのイスラーム教徒から抑圧されてきたかという,ステレオタイプの言説ばかりでした。KPが初対面の外国人記者とか研究者に対して述べるのも,大体これと同じ言説です。これがKPたちの公式な政治的見解だからです。
ところが,それから十年あまり現地に住んでキャンプへ通ううちに,キャンプに友人と呼べるような人たちもできて,そうすると,キャンプで聞こえてくる話の内容が変わってきました。それまでは自分たちがいかに酷い状況にいるかということばかりを言っていたわけですけれど,だんだん友人である私を心配させたくないという心情になってきて,キャンプの中に立派なお寺ができたんだよ,とか,明るい話題も出てくるようになったんです。また,カシミールに住んでいた頃の親友がじつはイスラーム教徒の元ゲリラで,今もたまに会っているというような,公式の政治見解から外れるような言説も出てきました。複雑な現実について,ようやく複雑なままに話してくれるようになったわけです。
(2005年10月,インド側)
やっぱり,行ってすぐにインタビューして得られる言説と,長年住んで関係を深めたうえで出てくる言説というのは全く違います。これから調査を行う若い研究者の皆さんにお伝えしたいのは,調査地が紛争地であればあるほど,傷ついている調査対象の人たちはガードが固く,最初のうちはどう転んでも公式見解のようなことしか聞き出せないということです。そこはもう執拗に現地に通って,彼らに少しでも近づいて,彼らが本当に考えていること,感じていることを理解する努力をしてほしいと思います。そうやって信頼関係を築いたうえでないと,どれが正しくてどれが誤った情報なのかということもわからないですよね。特にカシミールみたいに情報が錯綜している地域では,個人的な信頼のネットワークをコツコツつなげていくしかありません。
湊 通い詰めたキャンプのKPたち以外にも話を聞かれたと思いますが,そういう人たちとはどのように信頼関係を構築していったのですか。
拓 転機になったのは2005年10月のパキスタン地震です。この地震ではインド側カシミールの北西部も被災したんですが,この被災地の援助のために私は日本のNGOと組んで現場に入りました。そうしたら被災地にボランティアで来ているカシミールの人たちがたくさんいて,私はしばらくの間,彼らと一緒にキャンプに寝泊まりして過ごしました。粗末な設備しかないところで動機を共有して一緒に働いた絆というのは,それまでの大学(留学)生活で得た絆とは比べ物にならないほど深くて,これをきっかけにカシミールのイスラーム教徒の親しい友人ができ,信頼できる情報を得られるようになりました。ジャンムー大学に所属していると,「ヒンドゥー教徒が中心のジャンムーから来た外国人」ということで,カシミール渓谷のイスラーム教徒から警戒されることが多いのですが,その障壁がようやく取り払われたと感じたのがこのときでした。
湊 いくら情報技術が発達しても,最後は人と人との信頼関係から得られる情報が大切になってくるということですね。
今後,ご研究がさらに進んでいくことを期待しています。本日は貴重なお話をありがとうございました。