アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
論文
日本占領下の戦時暴力と戦後の対日協力裁判をめぐる不平等な断罪――フィリピン・ネグロス島の例――
荒 哲
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2021 年 62 巻 3 号 p. 32-62

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《要 約》

本稿は,フィリピンの日本占領史研究において等閑視されてきた対日協力をめぐって住民間で頻発した暴力の状況と,それをめぐる戦後のフィリピン司法制度の恣意的運用について社会史的に考察する。ここでは,戦前より砂糖産業で隆盛を極めたネグロス島において,駐留日本軍を主体とする治安維持活動に関与したエリート住民と貧困層住民とが引き起こした暴力を事例として取り上げる。また,この暴力激化の過程において,戦前よりシュガーバロン(砂糖貴族)として社会的地位が高いエリートが駐留日本軍によって遂行された対ゲリラ戦の中で貧困層と共に対日協力を行いながらも,貧困層を利用しながら,戦後期において国家反逆罪の「汚名」から逃れているプロセスを明らかにする。そして,その結果もたらされた戦後のフィリピン社会分断の一側面を提示する。

Abstract

This article examines the wartime violence resulting from Filipino collaboration with Japanese occupying forces and the subsequent arbitrary application of the law concerning collaboration issues, which have long been ignored in Philippine historiography. This study focuses on the province of Negros Occidental, where the sugar industry has been dominant since the American colonial years, and on the wartime violence that occurred as a result of disciplinary actions initiated mainly by the Japanese occupying forces in collaboration with both local elites and the poor. This study also seeks to clarify how local elites, mostly affluent “sugar barons” who managed the region’s sugar plantations, collaborated with the Japanese by using poor local men against the anti-Japanese guerrilla forces, and how these same elites avoided the “disgrace” of being charged with the crime of treason in the People’s Court after the war, while most of the poor collaborators were convicted to the fullest extent of the law. Filipino historians such as Augusto de Viana have previously pointed out such disparities in treason convictions. Considering the process of how wartime violence emerged in the local community during the Japanese occupation, this study also shows what factors might have led to such disparity in the application of the law between the local elites and the poor masses after the war. In so doing, this study highlights one aspect of the profound social division that resulted from the wartime violence in Negros Occidental.

 はじめに

Ⅰ 駐留日本軍の治安維持工作と占領地住民らによる協力体制

Ⅱ サガイ町のプエイ町長が関わった暴力

Ⅲ 貧困層を利用した暴力に関する記憶の封殺

Ⅳ 隣組と自警団による治安維持活動

 結論

はじめに

日本占領下のフィリピン社会は,過酷だったとされる暴力の問題を抜きにして語られることはない。何故,この時代,暴力は残酷さを極め多くのフィリピン住民が犠牲となったのか。この問いに答えるべく様々な研究が行われてきた。日本側の視点からは,治安維持に重きを置いた暴力的なフィリピンの日本軍政を批判し[林・西野 2000; 林 2012],一方の支配された当事者であるフィリピン側の視点からは,ただただ残酷な日本兵によるフィリピン住民に対する仕打ちや拷問などに焦点を当てた描き方がなされている[Syjuco 1988; Ingles 1992]。

しかしながら,日本占領下のフィリピン社会に横行したこのような一律的な暴力の描き方が長い間一般的であった一方で,暴力を行使する主体と,それを受忍する暴力を受ける側の主体がそれぞれ暴力にどのように関わったのかについては十分考察されていない。戦時暴力を歴史研究で描くには,戦時暴力の定義,並びにその暴力に関わる主体をより明確化する必要があるだろう。

従来の日本占領下フィリピンにおける暴力の問題は,戦前からの地方派閥政治の文脈における分析[McCoy 1980; Ara 2012; 荒 2013]などにおいて描かれている。また,荒[2018]は,戦時下フィリピンの周縁社会で頻発した暴力を,フィリピン史家イレートが主張する「未完のフィリピン革命」[Ileto 1979; 1998]の文脈から描こうとする。すなわち,20世紀の転換期からくすぶり続けている革命運動がもたらした民衆感情によって戦時下の暴力が激化したという見方である。確かに,こうした民衆感情がフィリピン各地域においてその高低に温度差はあれ,20世紀前半から日本占領が開始される1940年前後までエリートと大衆の心に深く根付いたと考えられる[Ileto 2007; 2017],それが戦時下に展開された暴力と結びついた面はあるだろう。その他,米国植民地期から醸成されてきた農村不安から日本占領期の戦時暴力が高揚したという指摘もある[Sturtevant 1969; 1976; Kerkvliet 1977; Terami-Wada 2014]。

しかしながら,こうした一連の日本占領下フィリピンにおける戦時暴力に関する諸研究が,よりミクロな視点から様々な暴力の類型を精緻に描いたとは言えない。その中でも荒[2018; 2021]は,戦時下「フィリピン周縁社会」における暴力の主体を明確化させる作業を行ってはいるが,議論の中でそれら戦時暴力が「誰の,誰に対する暴力」であったのかを具体的に指摘していない。また荒は,エリートと民衆との間の暴力を描こうとはしているが,その暴力事案が絡む対日協力問題をめぐっての法的不平等性の問題に関して具体的に分析していない。この問題に関し,フィリピン史家オーガスト・デビアナ(Augusto de Viana)は,その著書『協力者!第二次世界大戦期の政治的対日協力者に関する問題』において,第三共和制成立後のロハス大統領(Manuel Roxas)の下での政治的並びに経済的対日協力者に対する大赦令(1948年1月)の恩恵を受けた者のほとんどがエリートを中心とした富裕層に限られ,一方で貧困層を中心とした協力者のほとんどがその大赦令の恩恵を受けていなかった点を指摘している[De Viana 2016]。デビアナはさらに,富裕層を中心とした元対日協力者らがその政治的実権を駆使して様々な手段によって自分たちに向けられた「国家反逆罪」(crime of treason)(注1)の罪状からいかに自らを解放させていったのかを詳細に説明している[De Viana 2016, 359-369]。デビアナの議論は,戦前からのフィリピン階級社会の特質が戦後の対日協力問題の扱いの中でより際立ったものになったことを指摘しており,この問題から日本占領後のフィリピン社会において深化していったとされる社会分断の一側面を垣間見ることができると思われるのである。ただ,このような戦後のフィリピン社会における社会分断について具体例を提示しながら詳細に分析を行った研究は皆無である。

こうした点を考慮し,本稿では,戦時下の地方フィリピンにおけるエリートと民衆(注2)による対日協力活動から発生した戦時暴力を手がかりに,その暴力の形成過程と終戦直後の復興期における対日協力問題をめぐる法的不平等性を検討し,終戦後に際立ったとされるフィリピン社会分断の要因の1つを提示する。ここで扱う暴力とは,冒頭で指摘された先行研究で未だ十分議論されていない暴力,すなわち,戦時下の日本軍による直接暴力だけでなく,治安維持活動(対抗日ゲリラ活動等)を通じて顕著になったエリートと民衆との間の緊張関係から激化した暴力のことも指す。本稿では暴力激化のメカニズムを詳細に解明することは不可能だが,駐留日本軍による治安維持活動の中でのエリートと貧困層との間の役割分担が暴力を助長し,ひいてはこの問題をめぐって戦後の法的平等性にも影響を及ぼした点に光を当てるものである。

そこで本稿では,中野[1996]が主張する日本占領下フィリピンの暴力の要因,すなわちフィリピンの地方で頻発した戦時暴力が治安維持活動といった駐留日本軍による「圧制」によって惹起された点に着目し,治安維持活動の主体である駐留日本軍の治安工作に占領地のエリートと民衆がいかに関わり,その結果,どのような過程を経て戦時暴力が激化していったのかを最初に考察する。その後で,その戦時暴力をめぐるエリートと民衆が関わった対日協力問題が戦後どのような展開をみせるに至ったのか考察する。

荒[2018]は,日本占領下のレイテ島の暴力について検討しているが,本稿ではレイテ島と同じビサヤ諸島の一角を占めるネグロス島の例を手掛かりに,レイテ島とは異なる戦時暴力の別の側面を民衆である貧困層住民の動きを中心にして浮き彫りにしてみたいと思う(注3)。本稿でネグロス島を事例研究にした大きな理由は,この土地が戦前期より砂糖産業で隆盛を極め,数多くの裕福な地主エリートが運営するアシエンダ(注4)の下で非常に多くの農民たちが貧しい暮らしを余儀なくされ,こうした社会状況下で発生した戦時下の様々な暴力についての研究が未だ存在しないところにある。アジア太平洋戦争期の日本占領下のネグロス島に関する研究のほとんどは,フィリピンの他の地域の日本占領に関する研究と同様,そのほとんどが抗日ゲリラ戦の展開を中心に描かれている。こうした研究では,地主らを中心としたエリートの戦時下の動きは詳細に描かれてはいるものの,何故,貧しい農民たちは,積極的に対日協力を行ったのか,また何故それが暴力という結果を招いたのか,そしてこれに対してエリートたちはどのような動きを見せたのか,などについてほとんど言及が見られない[Hart 1964; Hofileña 1996; Clope 2002; Bulado 2015]。

フィリピンにおける植民地支配が生んだ様々な社会矛盾がこのネグロス島には凝縮されていると思われるが,日本占領下のネグロス島を社会史的側面から描いた研究は極めて少ない(注5)。ネグロス島の政治史に関するいくつかの研究でも指摘されているが,フィリピン革命期,ネグロス島のエリートたちはルソン島で展開されていた革命路線とは一線を画した動きを見せ,スペインからの完全独立よりもスペイン王国内の連邦制を望んでいたとされる[池端 2002, 111-134]。米国植民地期に隆盛を極めた砂糖産業の下で実権を握っていた地主たちの中でも積極的に対日協力に加担した者たちも多かったと考えられるが,本稿ではこうしたアシエンダを運営する地主を中心とするエリート住民と貧困層住民の日本占領期における動きを精緻に追いながら,戦時下のネグロス島において駐留日本軍が行った治安対策の下での住民たちが関与した暴力激化の過程を描く。そして,その暴力をめぐる戦後の特別国民裁判所における公判の不平等性を明らかにしたい。そうすることにより,エリートのみの視点からでは見えてこなかったネグロス島社会における終戦直後の状況と階級間断絶の一側面を理解することができると思われる。

Ⅰ 駐留日本軍の治安維持工作と占領地住民らによる協力体制

本格的な議論に入る前に,駐留日本軍がフィリピンを占領するにあたって重点を置いたと言われている治安維持政策がどのようにして立案され,それが具体的にどのようにして施行されたのかを検討してみよう。

まず,治安維持の概念とそこに関わった主体について明確にする必要がある。日本近現代史家の笠原十九司は,『日本軍の治安戦――日中戦の実相』の中で,治安維持工作を「治安戦」として位置づけている。笠原は,この言葉を日中戦争期,正面戦場と後方戦場の2つの戦場において展開された日本軍作戦の中で,後者の後方戦場で主に展開された抗日ゲリラに対する作戦と戦闘,工作の総称を「治安戦」と定義している[笠原 2010, 24-25]。ただ,一方で日本軍の対抗日ゲリラ作戦は,軍の侵攻作戦の中では「討伐作戦」という言葉で称されることが多く,多くの戦史文書においてはこの名称が使用されている。日本史家の太田弘毅による日本占領下フィリピンにおける治安対策に関する研究[太田 1980]から判断すると,この治安維持活動とは,討伐作戦を兼ねた侵攻作戦終了後の占領地において展開される対抗日ゲリラ作戦(その他の各種犯罪も含む)のことを指すものと考えられる。

そのため,治安維持に伴う数々の活動や作戦策定の主体はあくまで駐留日本軍であるが,その活動には占領地内の住民たちの日本軍政への服従と協力が必要不可欠であった。1942(昭和17)年9月3日,日本軍第16師団が各占領地部隊に発した「討伐警備に関し教育錬成上の要望」の中に所収されている「配備変更に際し兵団長要望」(同年10月3日付)という文書によれば,「討伐の目的は占領地の治安を確立し住民をして我が軍政治下に帰服せしむるに在り之が為には軍政機関に積極的に協力し州知事以下地方官公吏の生命財産を保護し安じて其の任務に邁進せしめ之が統治力を強化推進する如く指導するを要す」と明記されている(注6)

また,1942(昭和17)年2月17日付の「討伐の参考」という日本軍第14軍(いわゆる,渡集団)が作成した文書では,占領地のエリートである官公吏や貧困層に属する住民双方からの協力が対抗日ゲリラ活動対策に伴う様々な情報収集には不可欠であるとの記載がある。すなわち,「官公吏を徹底的に利用するを要す」から始まり,同様に「住民も徹底的に利用するを要す」との記述を経て,「住民の協力無くして正確なる情報を獲得することは困難なり故に住民は絶対に逃避せしめざる如く注意し(中略)住民の中より密偵を獲得し直ちに之を利用すること」などと詳細な住民利用に関する要領が述べられている(注7)

こうした要領に基づいて駐留日本軍の治安工作が開始されたと思われる。特に貧困層を中心とした住民に対する積極的な協力要請は,抗日ゲリラ成員の多くが貧困層住民から構成されている現状を踏まえ,暴力的な手段を行使しながらゲリラ組織の分断を行いつつ実行された。1942年12月上旬にセブ島駐留の第11独立守備隊によって作成された「情報旬報第4号」によれば,「敵匪の大半は貧しき住民より編入されしものなるも大部分は強制加入者にして抗日の何物なるかを知らざるもの多数あり只米軍来援説或は生活苦より敵匪に投じ又は敵匪勢力圏内居住者なるが為匪団に加入し在る者も多数あり」との記述がみられ,貧困層住民を積極的に日本軍主導の治安維持活動に利用しようとした(注8)

フィリピンの各占領地における治安維持活動は,以上の要領に基づいて具体的には駐留日本軍,各地方のエリートから構成される地元の官公吏(町村長),対日協力警察隊(Bureau of Constabulary:BCあるいはPhilippine Constabulary:PC)などの協力を求めつつ,同時に貧困層である一般住民などをこうした治安組織へ投入しつつ実行された(注9)。一方,これら警察隊を補完するための自警団が1942年8月に比島行政府(Philippine Executive Commission)により発せられた行政命令77号に従い,保甲制度としての「隣組」(District of Neighborhood Associations:DANAS)の組織化によりその活動が具体化された。これにより,治安維持のための諜報活動と住民への不穏分子に関する密告が奨励された。また,この隣組は,各占領地域における道路建設,港湾整備,橋梁補修,そして飛行場建設などを目的とした地元住民から成る労働力の徴用のための役割も担った。

本稿の舞台であるネグロス島では,マニラから2カ月ほど遅れて1942年10月の上旬に保甲制度の準備が始まった。それは住民による自警団の組織化を促すものであり,その自警団は対日協力州知事並びに各町村長の指導の下で活動した。ただし,武装自警団の設立は,ネグロス島を含むビサヤ地域においては,抗日ゲリラの活動が活発化する1943年の後半以降である。抗日ゲリラの活動が活発化した1943年12月に作成された「自警団の任務」と題する日本陸軍第16師団の文書によれば,自警団は「州知事統轄のもと各町村長の指揮に依り各区各隣組毎に竹槍隊等自警隊員を以て各町村部落を警戒し匪団(治安の攪乱を行う各々種強盗団を含む)の侵入を防止又は潜伏匪団を摘発し以って治安の確立を促進す」と明記されていた。自警団の活動は,各地方の州知事と警察隊長(BC隊長)を頂点とする指揮系統に基づき,その活動命令が発せられ,その命令は各町村長によって受諾された後,最終的にそれを町村内の隣組を経由して自警団を中心とした活動へと繋がっていった(注10)

この文書は,駐留日本軍が1943年11月以降,フィリピン中部のビサヤ地域の抗日ゲリラ掃討作戦を強化するべく打ち出された作戦を補強するため,とりわけレイテ島とサマール島において展開されるべき自警団の組織化について書かれているが,ネグロス島における治安維持活動でも同様なやり方で自警団の組織化が行われていたと考えられる。対ゲリラ戦を遂行する上での治安維持活動の一環としての自警団の重要性が隣組の活動と相まって高まっていた。実際の自警団は地元警察組織のBCやPCによる治安維持活動を補完するものであり,各自警団によって使用されるべき武器は「竹槍とし状況に依り蕃刀を用うることを得」とし,占領地においては地元住民から構成される自警団員に対する竹槍訓練が頻繁に行われた地域もあった(注11)。しかしながら,米軍上陸が現実味を帯びてきた1944年後半以降,各地域の抗日ゲリラの活動が活発化してきたことから,こうした自警団団員にも武器携行が許されるようになってきた。火器は,駐留日本軍から,あるいは自警団を統括する各地域の警察署長から直接手渡されることが多かった。

このように,占領地フィリピンの地方における治安維持活動は,駐留日本軍からの命令に従う形で,公式にはPC並びにBC警察隊,自警団を中心に展開された。一方で非公式な形においては,駐留憲兵隊などによって雇用された諜報部員並びに通訳らによっても活発に治安維持活動が行われた。従って,本稿で検討される治安維持活動の中心となる主体は駐留日本軍であるが,それを補完するエリート並びに民衆らもそれら活動の主体として位置づけられることになろう。

治安維持活動には多くの貧困層が関わったと言われるが,彼らはどのような過程で対ゲリラ戦等の治安維持活動に加わっていったのか,そしてどのような過程で暴力が激化していったのかを,次にネグロス島での具体的な例を富裕層住民であるエリートの動きと重ねながら考察していく。

Ⅱ サガイ町のプエイ町長が関わった暴力

1. ネグロス島の貧困と日本占領

フィリピンのネグロス島は,米国植民地期において発達した砂糖精製業を主産業とする地域であり,現在に至るまで多くの貧困労働者たちが政治的並びに経済的実権を掌握する大中小それぞれの地主の下で苦しい生活を余儀なくされている。この島には,規模の相違はあるにせよ,数多くのアシエンダが存在し,地主たちは,戦前からの砂糖精製業において労働者たちを低賃金と強制的借入金で行動を制限しながら搾取しつつ多大な利益を得ていた(注12)。こうした右肩上がりの彼らの生活が日本占領期を期して一変し,今度は米国に代わる新たな帝国主義勢力,日本と向き合わなければならなかった。前述したように,ネグロス島やセブ島における対スペイン革命の展開は,マニラを中心とする革命運動とは違った様相を呈し,島のエリートたちが望む政治形態はスペインからの完全独立よりもむしろ,スペイン植民地体制を維持しながらの連邦制の枠内に留まることにあった。そのため,ネグロス島のエリートらは,米国植民地期において隆盛を極めた砂糖産業の保護を望みながら日本軍に協力する者も多かった。占領にあたった駐留日本軍当局は,占領政策の一環として砂糖産業を維持させながら,その砂糖製品を軍需物資の1つと見なし,現地エリート住民と良好な関係を保とうとした。日本占領期後半になると抗日ゲリラが多数組織化され,そのゲリラ勢力による砂糖工場等への破壊活動に対する軍政当局による治安維持活動(あるいは治安戦)が顕著となり,日本軍によるネグロス島の過酷な支配が終戦まで続くことになる。

ところで,日本軍のネグロス島侵攻は,日本軍によるマニラ陥落以降に始まるコレヒドール島における極東米陸軍(United States Army Forces in the Far East:USAFFE. 以下,ユサフェ)並びに比米合同軍(United States Forces in the Philippines:USFIP)との戦闘が落ち着きをみせた1942年4月頃に策定された「ビサヤ・ミンダナオ第二次作戦計画」に基づくものであった。その要領によれば,日本軍(永野支隊)がネグロス島を含むビサヤ諸島に侵攻するのは遅くとも5月下旬までとされ,果たして4月29日までには第10独立飛行隊が戦闘機並びに軽爆隊でもってボホール島とネグロス島を空爆した。その後,当初の予定よりも早く,永野支隊(歩兵第62連隊主力)の約1個大隊半の兵力をもって5月21日の早朝,ネグロス島のバコロド付近に上陸した[防衛庁防衛研究所戦史室 1966, 520-524, 538-546]。

ネグロス島における日本軍政は,島全体の9割近い領域が抗日ゲリラによって支配されていたことを考慮すれば[Baclagon 1962, Map 5],戦争終結まで完全に浸透することはなかったと言える。日本軍による占領地域以外は,ユサフェ73連隊のみによって統治された。これら地域は,「ネグロス自由国」(Free Negros)と称されていた(注13)。そのため,この島の日本占領政策の基本は,対ゲリラ戦対策のための治安維持に重点を置かざるを得なかったが(注14),軍政監部を中心として日系企業台湾製糖による砂糖産業の維持とサトウキビ畑を綿花へと転換する農業政策も同時に行われた。しかしながら,抗日ゲリラからの攻撃はこうした農業プロジェクトをことごとくとん挫させた。その最中,日本軍政当局は砂糖プランテーションの下で貧困にあえいでいた貧農層を軍票で雇いながら自警団を組織化させた。これについては,荒[2018]によっても指摘されているが,駐留日本軍当局は,貧困層の中で抗日ゲリラ戦に加担する者が多い反面,きっかけを得ればその多くを対日協力へと反転させることが十分可能と考えていたのである。そのため,非常に多くの土地のない小作人などが日本軍側の自警団やBC,あるいはPCなどの対日協力警察組織へ投入されていったのである(注15)

こうした駐留日本軍による治安維持活動には,地元の中小エリートも積極的に関わり,大小様々な暴力を生み出していく。次項では,戦前からサガイ町(Sagay. ネグロス島北部に位置する小さな町)の町長,ホセ・プエイ・シニア(Jose Puey, Sr.)並びにその部下である警察署長ポリカルピオ・ガスパー(Policarpio Gasper)らが関わった暴力の経過を検討する。

2. プエイ町長体制下での治安維持活動と激化した暴力

ネグロス島北部の西ネグロス州(Negros Occidental)サガイ町は,同島に接するパナイ島の名望家ロペス一族(Lopez)によって創設された砂糖セントラル(ロペス製糖工場)がある小さな町であった。この砂糖セントラルは,1927年にユーセビオ・ロペス(Eusebio Lopez)を中心とするロペス一族(注16)によって設立され,ここで稼働する貧しい労働者は1930年代頻繁にストライキを決行し,警察隊と流血の事態を招くことがあった[永野 1990, 119, 169]。プエイ一族は,サガイ町の中小地主の一人であり,ロペス一族の経営する砂糖セントラル傘下のアシエンダ・ピラール(Hacienda Pilar)の所有者でもあった。ただ,戦前よりロペス一族による砂糖セントラルの経営形態に不満を表明しており,過酷な労働を強いられる貧困層に多大な同情を示していたとされる(注17)。こうした貧困層に対する寛容さにより住民たちからの人望は厚く,プエイ一族のホセ・プエイ・シニア(以下,プエイ町長あるいはプエイと称することとする(注18))は,戦前より町長として選出され,日本軍駐留部隊(第11独立守備隊からの吉山部隊)(注19)がサガイ町付近に駐留した際も,日本軍当局から正式に町長として引き続きその職務を遂行するよう命令を受けていた。

こうした理由でプエイ町長は,その部下で警察署長でもあったガスパーと共に積極的に吉山部隊並びに山口部隊(第39独立歩兵守備隊)の治安維持活動並びに軍需に資するための食糧確保に協力した。ただその治安維持活動は過酷さを極め,数多くの暴力を生んだ。その大きな理由は,ロペス一族による砂糖セントラルにはゲリラ側から派遣されていたと思われる多くのスパイが浸透する状況下,様々な諜報活動が展開されており,プエイ町長らは徹底的にこの工場内の捜査と内偵を行っていたからである。1942年から1943年にかけてのサガイ町には,吉山部隊からの1個小隊(野砲兵第22連隊第3中隊第1小隊)が駐留しており,この駐留日本軍からの治安維持協力要請を受け,プエイ町長とガスパー警察署長は積極的なゲリラ嫌疑者摘発に従事していた。

こうしたゲリラ嫌疑者に対する弾圧と取り締まりの中で,1942年10月と1943年2月において,大きな暴力事件がそれぞれ発生した。終戦後,プエイとガスパーに対する対日協力事案を裁いた特別国民裁判審理の中で,それら事件の真偽をめぐり関係当事者によって数多くの供述書が作成され,中央政界の上院議員からの露骨な司法介入がなされるなど,非常に物議をかもす事件となった。まず1942年10月の事案では,プエイとガスパー両名が,町長のアシエンダにおいて,当時飼われていた馬がゲリラによって盗まれる事件に端を発し,最終的にそのゲリラ容疑者を銃撃し死亡させたというものであった。その事件の詳細は以下の通りである。

1942年10月の上旬ごろ,同アシエンダの労働者アマド・スンビ(Amado Sumbi)は,プエイ町長とガスパー警察署長の呼び出しを受け,日本軍の軍需を満たすための食糧確保に従事していた。プエイ町長は,アシエンダ・ピラールに到着後,町長所有の馬が何者かによって盗まれたという報に接した。それによると,テミストクレス・ビリャセラン(Temistocles Villaceran)というユサフェゲリラが窃盗犯の一人であり,その犯行に関わった人物は複数いるとした。プエイ町長とガスパー警察署長によって懸命の犯人捜索が行われ,最終的にビリャセラン率いる犯行グループがサトウキビ畑に潜んでいることが発覚し,プエイ町長はサトウキビ畑の焼却を命じた。炎の熱さに耐えかねたビリャセランらは,畑から逃走しようとしたが,プエイ町長とガスパー警察署長らによるものと思われる拳銃の発砲音が2度鳴り響き,フェロメノ・ログノ(Felomeno Longno. 元フィリピン国軍兵士で第74通信隊所属)とコンコルシオ・オクベニア(Concorcio Ocvenia)のゲリラ2名が撃たれた。ログノらの身柄は,ケガをしていたにもかかわらず,治療も受けずに途中通りかかった日本軍へと引き渡され,日本軍屯所のあるロペス・砂糖セントラルへと移送された。結局,この2人のゲリラ嫌疑者のうち,ログノが死亡した(注20)

もう1つの事件は翌年,1943年2月に起こった。プエイ町長のアシエンダ・ピラールに,ドミンゴ・メンドーサ(Domingo Mendoza)というゲリラ密通を疑われていた貧しい農民が住んでいた。その妻,コンソラシオン・デラペーニャ・メンドーサ(Consolacion dela Peña Mendoza)の供述書によれば,1943年5月8日午後11時頃,プエイ町長とガスパー警察署長,そしてその部下のBC警官トーマス・パルマ(Tomas Palma)らがメンドーサ家の自宅に突入し,夫ドミンゴを逮捕拘束し,プエイ町長所有のアシエンダ・ピラールへと連行した。翌日,午後3時,彼ら3人はドミンゴをロペス・砂糖セントラルへと連行し,その場で暴行が加えられた。その場には,プエイ町長も同席していたといわれ,日本軍関係者不在の中の暴行が行われた。逮捕から2日後,妻コンソラシオンは,夫を気遣いその朝,食べ物を持参して砂糖セントラルへ出向いた。その後,夫との面会を求めたが,体中傷だらけの夫の姿に驚愕し,夫の釈放を要求したが聞き入れられず,強制的に帰宅させられた。3日後,妻コンソラシオンは,砂糖セントラルへ戻ったが,すでに夫の姿はなく,後になって,夫ドミンゴはバコロドの日本軍駐留部隊によって殺害されたことを知った(注21)

また1943年12月には,サガイ町においてアンテーロ・ユアヤン(Antero Yuayan)という華人系住民で抗日ゲリラの諜報活動に従事していた人物が駐留日本軍の掃討作戦の最中逮捕された。ユアヤンは,2名の日本兵に同行していたというサガイ町警察官数名によって逮捕され,息子のアンテーロ・ジュニアと共に両手を縛られながら,警察官らはユアヤン宅を家宅捜査し,最後にはこの家屋を焼却した。その後,この2人はトラックに乗せられ,ロペス・砂糖セントラルにあったという町役場にまで連行された。砂糖セントラル内の警察署に入った途端,ガスパー警察署長は唐突にユアヤンの顔面を殴り,一方でユアヤンの息子のアンテーロ・ジュニアもガスパー警察署長によって頭を床に押し込まれながら殴る蹴るの暴行を受けた。ユアヤンの供述書によれば,この2人に対する暴行が行われた時,日本軍の兵士は不在であったという(注22)

Ⅲ 貧困層を利用した暴力に関する記憶の封殺

1. プエイ町長らに対する国家反逆罪としての起訴

ここまで検討したプエイ並びにガスパーをめぐる動きは,戦争終結後,ネグロス島を「解放」した米軍諜報部隊(Counter Intelligence Corps:CIC)の知るところとなり,彼ら両名並びに他のBC所属の元警察官はCIC部隊によって逮捕され,彼らに対して厳しい尋問が科せられた。CICによって作成された尋問調書に基づいて,ガスパーは1946年2月20日にフィリピンコモンウェルス政府改正刑法第114条違反(国家反逆罪)のかどで特別国民裁判へと起訴されたが,同時にプエイも起訴された。当初,プエイとガスパーが関わった暴力を伴う対日協力を糾弾する内容の供述書を証拠に裁判審理は行われる予定であったが,起訴から数カ月後,両名を糾弾する従来までの供述書が徐々に撤回され,裁判は両被告人にとって有利な展開の様相を呈してきた。そして,最終的にこの両事件は結局,事件棄却という決着をみてしまう。彼らが元抗日ゲリラに対して行った暴行や狙撃といった事実は裁判審理においてどのように究明されようとしていたのか,またなぜ起訴棄却という結論に達し,それはネグロス島の社会にどのような意味を持ち得たのかを考えてみたい。

プエイとガスパーに対する特別国民裁判所への起訴が決定され,両名の保釈が裁判所によって認められてから約半年後の1946年9月,前述した戦時中,両被告人によって狙撃されようとした元ユサフェゲリラであったテミストクレス・ビリャセランは,非常に奇妙な供述書を作成した(注23)。内容は,1942年の10月頃に発生したプエイ元町長並びにガスパー元警察署長の自分に対する攻撃や狙撃に関する供述書ではなく,戦争末期の1944年8月,自分が抗日ゲリラとして活動していた最中,ガスパー警察署長からサガイ町町民たちの食糧獲得を目的とする作戦を遂行するための組織の創設を求められた旨の供述書であった。この供述書によれば,駐留日本軍も食糧調達に励んでおり,日本軍の行動に先んじてゲリラ組織と共同して食糧確保に奔走する,というものであった。実は,当時日本軍は,「コメ兵」(Comehei)という食糧調達のための自警団をサガイ町首脳部に対して組織化するよう命じており,ガスパー警察署長は,ゲリラ側の協力をこの組織設立を通して求めていたと言われている(注24)

この供述書と同時に,ビリャセランは,プエイの対日協力事案での起訴において当初作成していたプエイが関わったとされるフェロメノ・ログノに対する狙撃事実を撤回する旨の供述書を作成し,ログノに対する狙撃はプエイ元町長ではなく,全く別の人物,すなわち当時この対ゲリラ戦に同行していた警察官,アレホ・ミラドール(Alejo Mirador)並びにフェデリコ・ペニャフロリダ(Federico Peñaflorida)なる2人の人物によるものである旨を強調したのである。CIC調書によれば,これら両警察官とも戦前はプエイ所有のアシエンダで働く貧しい労働者出身の人物たちであった。プエイに対する対日協力事案は,1949年頃すべて棄却されていたが,当時,ガスパーの対日協力事案はまだ審理継続中であった。この元サガイ町の首脳部が関わった事件の真相に強い関心を抱き続けていたマニラの特別検察官ペドロ・キント(Pedro Quinto)は,1949年10月22日と1950年1月31日両期日の報告書において,ある時期を期して違った展開を見せるに至った同事件(ガスパー警察署長の事案)を単なる証拠不十分として棄却することなく,再審理の必要性を説いていた。その大きな理由の1つは,ビリャセラン並びに他の関係当事者によって作成された供述書の内容の急激な変化であった。また不思議なことに,プエイとガスパーによる対ゲリラ戦において犠牲になった遺族や,その間ゲリラ嫌疑者として暴行を受けた当事者らは,その頃,当初の供述書の内容と異なった内容の宣誓供述書を作成していた。つまり,両名による暴力を糾弾する最初の供述書が撤回され,その両名に対して有利な供述内容が書かれた宣誓書が次々と作成されていたのである。この背景にはどのような経緯があったのだろうか。

キント特別検察官は,この背景に関し報告書の中でビリャセランとプエイ並びにガスパーの家族ないし親族との間で土地をめぐる裏取引があったことを指摘している。キント検察官は,プエイ元町長がフェロメノ・ログノへの狙撃と殺害には確実に関与していることを断言しながら,ビリャセランが1946年4月27日付で次のような質疑応答形式の供述書を作成していることを述べている。

  • キント検察官   「現在,特別国民裁判所で審理中のポリカルピオ・ガスパーの国家反逆罪の件についてですが,これに関し何か言いたいことはありませんか。」
  • ビリャセラン   「言いたいことはたくさんあります。ガスパー元警察署長夫人のジョセファ・デガスパー(Josefa de Gasper)が一度自宅を訪れたことがあります。そこで彼女は私に,私がその元警察署長とプエイ町長が共に私の居場所を急襲した事実について書簡を書けるかどうか尋ねたのです。また,彼女はもし私がこの両名を助けることができれば,土地を提供するとも言いました。」
  • キント検察官   「この発言に対してあなたは何と答えましたか。」
  • ビリャセラン   「こう言いました。『奥様,私たちがいくら貧しくとも,そんな申し出を受け取るわけにはまいりません。』」(注25)

実は,ガスパー夫人と同様に,プエイの母親で,タリア・プエイ(Talia Puey)という女性がビリャセランの自宅を訪れ,この裏取引を再確認するようなやり取りがあった。この訪問は一度だけでなく,何度も繰り返され,土地の提供のみならず金銭の提供にまで話が及んだという。ビリャセランはその都度こうした裏取引を拒否していたとする。この接触に関し,同じ4月27日付の供述書の中でビリャセランは次のように供述している。

  • キント検察官   「特別国民裁判所で審理されているプエイの事件に関し,この元町長の家族や親族があなたに接触したことはありますか。」
  • ビリャセラン   「はいあります。プエイの母親が訪ねてきました。」
  • キント検察官   「その母親の名前は何と言いますか。」
  • ビリャセラン   「タリアといいます。」
  • キント検察官   「その母親はあなたに何と言いましたか。」
  • ビリャセラン   「彼女は,私が自分の息子を助けてくれるかどうか,質問しました。」
  • キント検察官   「どういうことですか。」
  • ビリャセラン   「私は,どうすればプエイ町長を助けられるのか訊きました。タリアさんは,私の仲間,フィレミノ・ログノへの銃撃と殺害は誰の仕業かを訊いてきました。そのあと,彼女は無言でその場を立ち去りました。」

ここではビリャセランがプエイ一族からの土地並びに金銭提供などに応じたかどうかは明確に書かれていない。しかしながら,キント検察官はビリャセランが最終的にその取引に応じたことは間違いないと断言している。なぜなら,この4月27日付の供述書の中で誰がフィレミノ・ログノを狙撃,殺害したのかについて,もうこの時点において既に「全く知らない」旨の供述を行っていたからである。こうしたことからキント検察官は,ビリャセランは偽証罪(フィリピンコモンウェルス政府改正刑法第183条違反)で告発すべきであると提言したが,当時ビリャセランに対する取り調べを行っていたイグナシオ・デブケ(Ignacio Debuque)特別検察官は再調査を行おうとはしなかった(注26)。なおかつ,フェロメノ・ログノが狙撃され殺害された現場では,もう一人のユサフェゲリラ,コンソルシオ・オクセニアも狙撃されており,幸い傷を負うことなく逃走できたが,特別検察当局はなぜかこの決定的な証人を尋問することがなかったのである。

ところで,前節で触れたもう一方の暴力事件,すなわち1943年5月8日に発生したドミンゴ・メンドーサへの狙撃と殺人へのプエイとガスパーの関与もドミンゴ・メンドーサの妻コンソラシオン・デラペーニャ・メンドーサによって撤回されてしまう。キント検察官は,プエイとガスパー両名のドミンゴ・メンドーサに対する逮捕と拷問,そして殺害の事実は,この事件より1週間前に起こった事件によって覆い隠されようとしていたと指摘する。実は,5月8日より1週間ほど前(正確な期日は不明),ドミンゴ・メンドーサは,サガイ駐留の日本兵によって逮捕され,その後,対日協力者ペドロ・アンドロン(Pedro Andron)なる地元の住民によってゲリラとして報告され,殺害するよう求められたというが,数日後何らかの理由で釈放された。この事件に関する新たな供述書は,5月8日に発生したプエイとガスパーの事件関与に関する供述書が撤回されつつ作成されたと思われる。つまり,ドミンゴ・メンドーサの妻,コンソラシオン・デラペーニャ・メンドーサは,何者かの圧力の下で5月の最初の出来事を,あたかも5月8日の事実として書き改めていた可能性があるというのである(注27)

この新しい供述書は,1946年9月10日,当時のサガイ町長アマリオ・クエバ(Amalio Cueva)の面前で作成されたというが,この2つの供述書の矛盾点について,特別検察官らは再調査も再尋問も行うことはなかった。キント検察官は,この覚書の中で,プエイ町長の後を引き継いだクエバ町長は,プエイの戦前からの派閥の一員であり,プエイ側からの政治的圧力がクエバ町長にかけられ,これがメンドーサの妻の供述書作成に影響し,これによりプエイとガスパーの殺害関与の事実記述の撤回へとつながったのではないかと推測している(注28)

2. マガローナ上院議員の司法介入

キント検察官は,このガスパーの対日協力事案の再調査を再三にわたって司法省(Department of Justice)の特別検察局に求めたが,この請求が聞き入れられることはなかった。その背景には,やはり,プエイとガスパーをめぐる政治的思惑と,戦時下の両名による暴力関与に関する記憶を恣意的に消滅させようとする政治的動きがあったと思われる。プエイは,戦後,戦時下の対日協力事案によるネガティブなイメージを払拭しつつ,政治的復権を目論んでいた可能性がある。プエイは,戦前期の米国植民地期からフィリピンコモンウェルス期,そして戦後間もない頃にかけて西ネグロス州の有力政治家の一人であり,1946年以降は上院議員を2期つとめたエンリケ・マガローナ(Enrique Magalona)の友人の一人であった。そのマガローナ上院議員(当時,自由党所属議員)は,1949年7月13日付で司法省特別検察官フェリックス・アンヘロ・バウティスタ(Felix Angelo Bautista)に書簡を送り,ガスパーの事件に重大な関心を寄せている旨を綴り,この件に関しバウティスタ検察官に対し司法介入とも思えるような内容の要請を行っている(注29)

このマガローナ上院議員からの書簡送付から1週間後,7月21日,司法省特別検察官アンヘラ・ペーニャ(Angela Peña)は,特別国民裁判所担当特別検察官フロレンシオ・ハイメ(Florencio Jaime)に覚書を送った。その覚書の中で,ペーニャ検察官は,上記2つの狙撃事件並びに殺害事件に関し,再審理が担当特別検察官ペドロ・イバーニェス(Pedro Ibañez)により執り行われようとしたが,関係当事者によるプエイ並びにガスパー両名に対する供述書の内容が「単なるうわさ話の域を出ない」との理由で撤回され,イバーニェス検察官もこれ以上の調査をしなかった,と報告された。ペーニャ検察官は,この覚書の中で再三にわたりこの事件調査の再開を求めたが,それが実現することはなかった。その約2カ月後,前述のマガローナ上院議員の動きがこの事件の再調査をさらに困難にさせた。10月18日,マガローナは,「個人極秘」と題する書簡を前述のフェリックス・アンヘロ・バウティスタ検察官に再度送付し,実はガスパーの国家反逆罪事案に関する所見が当時のフィリピン下院議長ユーヘニオ・ペレス(Eugenio Perez)によって,司法省へ届けられていた事実を指摘し,特別検察官事務所がこのガスパー事件に「特別の処遇」(special favor)を与えることを希望する旨の要請を行っていたのである。実は,マガローナ上院議員は,この同じ書簡の中でルイス・モントーロ(Luis Montoro)という同様に国家反逆罪違反で特別国民裁判所に起訴された人物への「特別処遇」も求めていた。マガローナ氏は,モントーロ氏の家族とは古くからの付き合いであり,とても善良な市民であることをその要請理由に挙げており(注30),恐らくガスパーの件でも同様な理由が背景にあったのであろう。もう1つ考えられる可能性は,マガローナ上院議員とプエイ一族が米国植民地期より同じネグロス島内のアシエンダを運営するもの同士の「砂糖貴族」(いわゆるシュガーバロン(注31))であり(注32),そのため,マガローナがプエイの対日協力事案に影響するこのガスパー事件のもみ消し工作に加担していた点である。

3. 賄賂供与の可能性と事件棄却

キント検察官は,前述した1950年2月に作成した覚書の結論部分で,テミストクレス・ビリャセランやコンソラシオン・デラペーニャ・メンドーサらによる当初の供述内容の撤回と変更がプエイによる極めて悪質な政治的思惑によるものであり,被疑者から供述者らへ何らかの賄賂の提供,あるいは脅迫があった可能性を指摘している。キント氏は,最後に,こうした「悪意に満ちた」(acting with malice)供述書の作成は,証言者らに対する偽証の告発を視野に入れ,プエイ並びにガスパーが関与する事件を国家反逆罪事件として扱うのではなく,殺人事件として扱うべきであるとし,特別検察官事務所による再捜査の要請をイバーニェス検察官に対し行ったのである(注33)。この要請は,1950年2月7日に行われたが,その後,イバーニェス検察官はこの要請を無視し,このプエイとガスパーに対する国家反逆罪事件は証拠不十分で棄却となった(注34)

プエイとガスパー側から供述者への金銭等の賄賂譲渡があったのかどうか,これについては不明であるが,ただキント検察官が覚書でその可能性に触れており,その後,この事件自体が棄却された事実を考慮すれば,その可能性を否定することはできないだろう。戦後のガスパーの動向については不明な点が多いが,プエイは戦後,その政治的基盤を盤石にさせつつ独立新政府より西ネグロス州の州政府委員(Provincial Board Member)に任命され,1953年の下院議員選挙において第一選挙区から当選を果たし,1957年までの任期を全うした。その息子であるホセ・プエイ・ジュニアは1963年,父親がかつて町長職を勤めたサガイ町の町長選に立候補し勝利した。現在,サガイ町にはプエイ元町長の名にちなむホセ・プエイ・シニア小学校(Jose Puey, Sr. Elementary School)があり,プエイ一族の地元における政治的並びに経済的,そして社会的影響力の遺制を感じることができる。

以上のように,ホセ・プエイそしてポリカルピオ・ガスパーをめぐる国家反逆罪事案は,数多くの不可解かつ不明瞭な点を残し棄却された。ただ,キント検察官が覚書で再三指摘している通り,また筆者が精査した数多くの供述書から判断して,この2人による元ゲリラ2名に対する狙撃並びに殺人,そしてそれにまつわる拷問への関与は否定しようがない事実である。問題は,この暴力の記憶を貧困層の人物らを利用しながら封殺する様々な政治的動きが中央政界においてあったことである。例えば,当初の供述書では全く名前がなかった貧困層の人物が突如として出現し,プエイとガスパーの事件関与を覆い隠すべく新たな供述書が作成されたことは,自分たちよりも階級的に低い人物を利用しながら国家反逆罪の罪から逃れようとする動きであったということができる。

戦前からの様々な関係者による証言を総合するとプエイは,自分が運営するアシエンダで稼働する労働者に対して極めて寛容であり,日本占領期においてはゲリラの排除を目的とした治安維持に積極的に関わったと思われる。彼らは,ゲリラを「盗賊」(bandit)として扱いながら日本軍の掃討作戦に協力し,一方でComeheiなる自警団組織を利用しながら,食糧増産と備蓄にも奔走した。残念ながらプエイの対日協力に伴う治安維持活動は,暴力を手段にするだけの限界を露呈させたが,皮肉にもその暴力が彼の政治的実権をより堅固にさせたのである。結局,こうしたプロセスにおいて,自分たちに向けられた犯罪の嫌疑を貧困層へ向けることで自己の政治的実権を盤石にしていったのである。

本節では,犯罪生成において貧困層がエリートに利用されてきた例を検討してきたが,次に同じ西ネグロス州の労働者階級の者たちが関わった暴力の例を,自警組織を統括した隣組の活動とその下で活動した貧困層の動きを中心に考察してみたい。

Ⅳ 隣組と自警団による治安維持活動

1. テオフィスト・コルドバによる隣組の活動

1942年10月,ネグロス島における治安維持の一環として隣組(DANAS)が組織化された。マニラより2カ月ほど遅れてようやく保甲制度の下でのDANASの組織準備が始まった(注35)。隣組の組長(President)の多くは,地元の有力名士や政治家などのエリートが就任し,その大部分は駐留日本軍による任命であった。バコロド市内でもいくつかの隣組が組織されたが,詳細な記録はあまり存在しておらず,唯一かろうじてその活動をうかがい知ることができる記録が特別国民裁判文書に所収してあるCIC文書の中に残されている。その中でテオフィスト・コルドバ(Teofisto Cordova)という人物の活動を検討してみよう。

コルドバは,戦前米国植民地期からのアセンデーロの一人であり,前節で考察されたプエイ・サガイ町町長と同じ地元のシュガーバロンであった。弁護士でもある彼は,強い政治権力も有していたようで,1930年代,バコロド市の市議会議員にも選出されていた。日本占領期,抗日ゲリラ活動には関わらず,様子見をしながら砂糖セントラルに進駐していた駐留日本軍による占領政策に協力した。そして1943年10月にバコロド駐留の河野兵団(第10独立守備隊司令部)の命令を受けたバコロド市長アルフレド・ユーロー(Alfredo Yulo)によって第20区の隣組組長に任命された。そして,翌月の11月,フィリピン第二共和制成立後の新フィリピン政府(首班,ホセ・ラウレルJose Laurel)によって発せられた捕虜に対する恩赦命令に従い,新政府に帰順した抗日ゲリラに対する恩赦に関する宣伝工作にも従事した。CICの記録によれば,コルドバは,戦前期からの市議会で同じ政治派閥に属していた同僚議員のサツルニーノ・ブエルバ(Saturnino Buelba)の息子で,当時抗日ゲリラでもあったコンラド・ブエルバ(Conrado Buelba)を説得し,第二共和制政府に帰順させた。またコルドバは,当時のユーロー市長の命令を受け,夜警パトロール活動,並びにバコロド市内にあった日本海軍航空隊基地の整備修繕のための労働力の徴用などにも積極的に協力した(注36)

そのコルドバをはじめとする多くの隣組組長の下で,貧困層に属する多くの住民が自警団員や諜報部要員として対ゲリラ戦で利用されていく。その中でバコロド市内に居住していた労働者ロケ・エヘルシト(Roque Ejercito)とイサアク・コンデ(Isaac Conde)2人の例を考察し,その後,戦後において国家反逆罪を罪状として特別国民裁判に起訴された時の経過を,同じくその裁判に起訴されたコルドバの例と比較しながら,その相違の意味について検討する。

2. バコロド市のロケ・エヘルシトのネグロス血盟団

ロケ・エヘルシト(以下,エヘルシト)は,1920年ネグロス島のサンカルロス町生まれの小作農民で,1942年5月,日本軍のネグロス島侵攻後,ユサフェ軍に招集され,7月頃まで山岳部のジャングルに家族と共に身を隠していた。ユサフェ軍は,5月に日本軍へ降伏したため,エヘルシトは除隊されたが,滞在中の山岳部でユサフェメンバーたちが中心となって抗日ゲリラが組織され,その成員となった。この年の9月,エヘルシトはゲリラ嫌疑者として駐留日本軍によって逮捕され,釈放の条件として対日警察組織BCの隊員になることが日本軍側から示され,この年の11月にBC隊員となった。ネグロス島の隣にあるセブ島のセブ市内でのBC養成所での訓練の後,バコロド分隊(BC第4ネグロス中隊)に配属され,駐留日本軍が保管していた武器や食糧倉庫の警備を任じられていた(注37)

エヘルシト自身の供述によれば,BC隊員としての勤務は,1944年8月頃まで続いた。他の関係当事者の供述では,エヘルシトのBC隊員としての勤務状況は極めて粗悪であり,あたかも常に罪を犯す無法者であった。彼の警察隊員としての粗雑な行為は,1944年8月にBC隊員として解雇された頃,顕著となった。エヘルシトは元来酒癖が悪く,勤務中にも飲酒を行い,なおかつ頻繁に休暇を申請し無断欠勤も多かった。取り締まりと称して,ネグロス市内の賭博場を急襲し,そこから金銭を没収し蓄財を行った。時折,拳銃を見せつけながら民間人を脅し,特に華人富裕層から金品を奪ったりしていた。こうした粗雑な行動は,ネグロス駐留部隊の日本軍当局者からも問題視され,エヘルシトは1944年8月にネグロス憲兵隊により逮捕され,バコロド市内にあった州刑務所に収監されたが,この月の下旬に釈放された(注38)。その後,BC隊員を辞し,トバ酒(注39)の商売や鮮魚販売をバコロド市やサンカルロス町で行いながら生計を立てていた。この年の11月,誤った情報によりゲリラ嫌疑をかけられ日本軍に再び逮捕されたが証拠不十分で釈放となった(注40)

こうした素行癖を持つエヘルシトであったが,米軍のネグロス島上陸が差し迫った1944年12月の上旬,当時のネグロス島バコロド駐留日本軍部隊であった山口部隊(部隊長,山口正一大佐)は,当時活発化してやまなかった抗日ゲリラに対抗する戦略として現地フィリピン人から構成される自警団,いわゆる「ネグロス血盟団」(Loyal Blood Party)(注41)の組織化をもくろみ,その組織にこのエヘルシトを隊員として勧誘した。ネグロス血盟団(団長はセイ軍曹(注42))は,ネグロス市内の隣組の指揮系統の下で組織化され,そこでは数十人の元ユサフェメンバーや元BC隊員の現地人が雇われ,米軍のネグロス島上陸を前にして,対ゲリラ戦に利用された。エヘルシトの供述によれば,セイ軍曹はエヘルシトをネグロス血盟団へ勧誘する際,「この組織は悪くないぞ。もし入団したら今までの罪をすべて無かったものにしてやろう。この組織は真のフィリピン独立のためのものだ」(注43)と伝えたという。

そのような中,1944年12月5日,バコロド市内のビジネスマンで砂糖精製業にも従事しているグレゴリオ・ヤンバオ(Gregorio Yambao)宅敷地内にあった砂糖セントラルの台湾製糖会社の倉庫が抗日ゲリラによって爆破された。3日後の12月8日,セイ軍曹率いるネグロス血盟団は,エヘルシト並びに他の6人のフィリピン人血盟団隊員と共にヤンバオ宅を急襲し,そこにヤンバオが不在であることを知ると,直ちにバコロド市内ルズリアガ通りのヤンバオの恋人(コラソン・ユンソンCorazon Yunzon)宅に入り,ヤンバオを逮捕した。その後,ヤンバオは,当時,駐留日本軍の屯所かつ血盟団の本部でもあったバコロド市の有力アセンデーロ,プリミティボ・ビリャヌエバ(Primitivo Villanueva)宅(注44)へ連行され,そこで彼に対してゲリラ密通容疑に基づく厳しい尋問と殴る蹴るなどの暴行が行われた(注45)。この尋問では,ヤンバオの商売仲間であったマヌエル・アロハド(Manuel Arrojado)の名前が引き出され,この人物もゲリラと密通しているのではないかと疑われ,後日血盟団によりアロハドは逮捕された。実は,エヘルシトとアロハドとの間には,あるダンサー女性(本業はセブでの売春だった),ロリタ(Lorita)との交際をめぐる三角関係があり,その女性をめぐる確執が逮捕の引き金になったと思われる(注46)

ゲリラ嫌疑者であるヤンバオへのエヘルシトの暴行と強引なやり口については,日本軍将校から「良心的」な措置が施された場合もあった。前述したヤンバオの恋人コラソン・ユンソンは,ヤンバオが逮捕され,ビリャヌエバ宅の日本軍本部に拘束された際,恋人のヤンバオに幾度か面会が許され,様々な拷問や暴行によって受けた傷をヤンバオの顔に確認することができた。日本軍当局者は,当初,この拷問や暴行はゲリラ嫌疑者に対してのやむを得ない措置であるとし,ヤンバオがユサフェゲリラの一員であるとの疑いを持っていた。しかしながら,コラソンによる再三にわたる助命嘆願と,エヘルシトの根拠のない暴行について駐留部隊の竹下軍曹は血盟団担当のセイ軍曹に手紙を書き,1944年の12月末頃,ヤンバオはシライ町(Silay)にある駐留日本軍の屯所において,他のゲリラ嫌疑者(マヌエル・アロハド他数名)とともに釈放された(注47)。この釈放劇は,エヘルシトをはじめとする血盟団の隊員たちによる常軌を逸脱した治安維持活動に日本軍将校が一定程度のけん制的な措置を講じた結果であろう。

こうした暴力の一方で,日本軍不在の中で様々な略奪がエヘルシトによって行われた。この年の12月上旬,バコロド市に住むクリスティーナ・キリンギン(Cristina Quilingin)という華人系住民を夫に持つ女性は,エヘルシト率いるネグロス血盟団が拳銃を手に突如彼女の自宅に押し入り,クリスティーナの夫がゲリラと密通しているかどうかの尋問を行ったことを供述書で述べている。それによると,この日,彼らは家宅捜査を名目に,家中の衣服や調度品を物色し,現金や宝石類を何の理由もなく押収していった(注48)

もう1つの例を考察してみる。このネグロス血盟団の結成から1カ月も経過していなかった12月26日深夜,抗日ゲリラのための諜報活動に関わっていたとされるゲルゴニオ・ジャバ(Gergonio Java)が所有する船舶がマスバテ島よりネグロス島のカディス町(Cadiz)に到着した。この船には,コメやトウモロコシなどの食糧とレイテ島に上陸したばかりの米軍から支給された衣服が搭載され,その船をジャバの仲間数名が港で出迎えた。やがて,その船に関する情報は,血盟団の隊員たちの知るところとなり,日本兵と共に船を出迎えたジュスト・セパーナ(Justo Cepana)並びにデメトリオ・トリコ(Demetrio Tolico)ら数名が逮捕された。セパーナの供述書によれば,血盟団たちの指揮系統は一般の日本軍兵士よりも優越しており,血盟団たちの命令によって日本軍の兵士たちがセパーナらを逮捕した。彼らが全員縛り手にされカディスの山口部隊の屯所へ連行された。その屯所ではすでにジャバともう一人の事業仲間の華人がやはり縛り手にされて拘束されていた(注49)

翌日からセイ軍曹による厳しい尋問と取り調べが行われた。ただ不思議なことにこの軍曹は取り調べの際,暴力的な手法を取らず,それはジャバ並びにトリコに対しての取り調べにおいても同様であったという。ところが,セイ軍曹が席を離れ,代わりにエヘルシトが取り調べを行うと,殴る蹴るなどの暴行や拷問を加え始めた。取り調べ2日目になってもセイ軍曹は所用で取り調べに立ち会わず,エヘルシトが抗日ゲリラとの密通を否定し続けるジャバやトリコに対し容赦ない暴行を加えた。この最中,もう一人のゲリラ嫌疑者マヌエル・サルダリアガ(Manuel Zaldariaga)が引きずられるように屯所の監獄に収監された。サルダリアガは,カディス町内の裕福なアシエンダの持ち主で,ジャバとも旧知の中であった。サルダリアガは,自身は単なる民間人であってゲリラ密通者ではないと否定し続けたが,ここでもエヘルシトによる拷問が科せられ,最終的に上半身に揮発性のアルコールがかけられ,火がつけられた。たまたま,セイ軍曹が屯所に戻り,この常軌を逸した取り調べを制止し,怒りでエヘルシトをはじめとする血盟団に対しむち打ちを行った。甚大な火傷を負ったサルダリアガはこの日の夜半死亡した。セイ軍曹は,翌朝,他のゲリラ嫌疑者全員を釈放し,サルダリアガの遺族に謝罪したという(注50)

こうした一連の動きでわかることは,ネグロス血盟団といった小規模の自警団に数多くのアウトロー的で犯罪の温床を形成するような人物らが雇われており,献身的に日本軍に協力する中で,相当に暴力的な治安維持活動に従事していたことである。そして,顕著なのは,日本軍不在の時に暴力が激化したことである。エヘルシトが作成した戦後の供述調書によれば,血盟団に加わった者たちは全部で15名ほどを数えた。こうした事例でも理解できるように,日本軍当局側の貧困層を利用した治安維持活動,例えば警察隊員や他の準軍事組織への登用は,貧困からの低教育と無知を背景に,かえって彼らの暴力行為を激化させる要因ともなったと考えられる。

3. ラカルロータ町のイサアク・コンデの事例

貧しい砂糖アシエンダ労働者が関わったもう1つの暴力事案をラカルロータ町(La Carlota)の例で検討してみよう。ラカルロータ町は,西ネグロス州の州都バコロド市の南部にあり,若干内陸に位置している。この町では,戦前期よりエリサルデ一族(Elizalde)による砂糖セントラルが構築され,多くのアシエンダがこの一族の傘下にあった。この一族は,元来スペイン系の移民であったが,富の蓄積は,19世紀後半以降のホアキン・マルセリーノ・エリサルデ(Joaquin Marcelino Elizalde)によるものであり,いとこのホアキン・インチャウスティ(Joaquin Inchausti)が1910年代後半にラカルロータ町に製糖工場を設立した。ホアキン・インチャウスティは,インチャウスティ商会を設立し,ラカルロータ町において本格的な製糖業を開始した。ラカルロータ町の製糖工場は,1942年8月に抗日ゲリラによる破壊活動や焼き討ちにあい,スペイン人の管理スタッフはすべてバコロド市に逃亡してしまった。このため,ラカルロータ町の砂糖セントラルは一時完全に放棄され,多くの砂糖アシエンダ労働者が生計の手段を失うという状況を生んでしまった[永野 1990, 123,183]。それに拍車をかけたのが,日本軍の後押しで日本企業東洋紡績会社が進めた砂糖キビ栽培から綿栽培への転換計画である。ラカルロータ町の砂糖セントラルはこの影響を受け,また綿栽培への転換計画が失敗に終わったことによって,住民たちの生活もより一層厳しいものとなっていった。

このような状況下で苦しい生活を送っていた住民たちの中にラカルロータ町出身のイサアク・コンデ(Isaac Conde)がいた。戦前期,コンデは砂糖アシエンダの貧しい労働者であったが,生活費を補てんするために時折鮮魚を売って少ない収入を得ていた。ネグロス島の日本占領が始まった頃,コンデはUSFIPの兵士に志願し,その後,USFIPの日本軍への降伏後(1942年5月以降)は抗日戦線のゲリラとして活動していたという。しかしながら,その活動には全く給料が支払われることがなく生活は困窮していった。1943年2月頃,コンデは鮮魚の販売で町を巡り歩き,その際,ラカルロータ町のユンコ通り(Yunko St.)に家を構える富裕層のフェデリコ・オルティス(Federico Ortiz)宅を訪れ,同家で鮮魚を販売しようとした。当時,コンデは金銭も底をつき空腹であり,自分が売ろうとしていた鮮魚をオルティス宅において料理してもらうよう依頼した。コンデは,自分が元USFIPに所属していたと述べ,このことを知るとオルティスは,コンデを自宅に二晩泊めた。実は,このオルティスも当時,USFIPのメンバーであった(注51)

コンデは,オルティス宅に滞在中,オルティス夫人のハンカチと子供用のトランプを盗んだかどでラカルロータ町のBCに逮捕された。その後,身柄はラカルロータ町の駐留日本軍(歩兵第9連隊第9中隊ラカルロータ警備隊,隊長は酒井大尉(注52))屯所において拘束され収監された。1カ月収監された後,コンデは自分が元USFIPであることを理由に,抗日ゲリラの情報提供と屯所内の下働き(洗濯や料理)をして生計を立てることにしたという(注53)。日本軍当局は,コンデを利用しながら町内にうごめくゲリラの摘発を活発化させた。

一方で,1943年5月より,オルティスは,USFIPの民間諜報部員(いわゆるゲリラ側スパイ)として日本軍ラカルロータ警備隊屯所内で機械工として稼働し,コンデを含む対日協力者らの動向ないし,日本軍ネグロス航空部隊の動きを監視していた。オルティスの供述によれば,この年の11月頃(具体的な期日は不明という),コンデが4人のフィリピン人ゲリラ嫌疑者を屯所まで連行し,日本軍の将校の同席なしに彼ら4人を上半身裸にさせて釘付きの棒で殴打する拷問を科していたのを目撃している。また,翌年,1944年6月には,ミンダナオ島からのモロ族のゲリラ嫌疑者4人が屯所へ連行され,今度は酒井大尉同席のもと彼らに対して殴る蹴るなどの暴行が行われ,最終的にコンデの提言で全員日本兵により刺殺された。USFIP側にも取り入るコンデは,米軍のネグロス島上陸間際になり,ゲリラへの密通を疑った同僚のフィリピン人,ペドロ・マルティリョ(Pedro Martillo)と口論となり,その報を受けた日本軍兵によりコンデは逮捕された。しかし,コンデはそれでも収監されていた牢獄からの脱出に成功した(注54)

4. エヘルシトとコンデに対する断罪

以上2つの例で示された貧困層の住民が関わった暴力事件は,その後どのような経過をたどったのかを検討してみよう。

まず,エヘルシトは,1946年3月6日,日本軍当局者と協力しながら治安維持活動に関わり,その際のゲリラ嫌疑者に対する暴力や暴行のかどで国家反逆罪行為にとわれて特別国民裁判所へ起訴された。その後,長く収監され,新フィリピン独立政府の下でも収監は継続された。8月21日に保釈命令がセブの特別国民裁判所より発せられ,保釈金1万5000ペソが提示されたが,エヘルシトの父親であるファウスト・エヘルシト(Fausto Ejercito)は当時の大統領マヌエル・ロハスに書簡を送付し,この巨額な保釈金を払える金銭的余裕がなく,息子の無条件釈放ないし,保釈金額の減額を求めた(注55)。翌年,1947年1月になり,特別国民裁判所側は,先の保釈金額を減額し,イグナシオ・デブケ(Ignacio Debuque)特別検察官の名前で,その額1万ペソをエヘルシトの家族に提示した(注56)

それでも,父親であるファウスト・エヘルシトは,この減額された保釈金を払うことができず,結局,息子ロケ・エヘルシトは,裁判審理がすべて終了し判決を受ける11月までバコロド市にあった州刑務所に収監され続けた。裁判は,8月25日の罪状認否で始まり,全部で6回の審理が行われ,11月18日に判決が言い渡された。判決では,1946年3月6日付起訴状(Information)に記載された内容すべてが事実認定され,終身刑と罰金1万ペソが科せられ,セブ島のセブ市にある州刑務所へ移送された(注57)

一方で,コンデは,戦後,CICに逮捕拘束され,コンデの暴力の犠牲者やその行動を監視していた上述のオルティスらによる目撃証言や供述書などを証拠に,エヘルシトのケースと同様,1946年3月6日に特別国民裁判所へ国家反逆罪行為で起訴された。1950年3月16日,特別国民裁判所は,コンデが関わった様々な暴力行為が国家反逆罪の行為であると認定し,コンデに対し禁固刑10年と罰金刑1万ペソを科した(注58)

5. 隣組組長へのシュガーバロンによる協力と事件棄却

この2人の貧しいアシエンダ労働者の対日協力事案にまつわる断罪とは対照的に,前述したコルドバ隣組組長の国家反逆罪事件は棄却される。CICは,1945年8月頃にコルドバをよく知る人物に対する面談調査を終え,セブの特別検察官は,1946年3月11日付でコルドバをコモンウェルス改正刑法第114条に基づき国家反逆罪事件として立件し起訴した。この年の8月31日,特別国民裁判所はコルドバ逮捕の命令を出し,コルドバはネグロス州刑務所に収監された。収監されてから1年ほど経過した1947年9月になりコルドバの保釈をめぐって,バコロド市内のシュガーバロンたちの動きが激しくなり,一挙にコルドバ保釈へ向けて動き出した。まず,コルドバ一族は,ヤンソン一族(Yanson)が所有する土地を担保にフィリピン国立銀行PNBより現金1万ペソを借り受ける。その後,コルドバは,シュガーバロンであるヤンソン夫妻(Bernardino Yanson,Natividad Yanson)を身元保証人として自らの保釈申請を行った。保釈申請は,身元保証人であるヤンソン一族が1947年9月13日に行い,コルドバは9月15日に保釈された。

こうして,この保釈申請にあたっては,コルドバはヤンソン一族から手堅い協力を得ることができたのである。ただ,この事案は,1948年1月28日に第三共和制ロハス大統領によって布告された大統領令51号による「政治的経済的対日協力者に対する大赦令」に基づき同年2月16日に特別検察官イグナシオ・デブケの名により棄却動議が提出され,2月20日に正式に棄却されたのである(注59)

結 論

これまで検討された戦時下ネグロス島における暴力事件例から理解できることは,本来,治安維持活動の主体である駐留日本軍の活動にネグロス島のシュガーバロンらが積極的に加担し,その活動に多くの貧困層の民衆も加わっていたことである。シュガーバロンを中心としたエリート住民が対日協力に関わった大きな理由は,戦前から隆盛を極めた砂糖精製業に絡む様々な既得権益を保持するためであったと考えられる。この点からすれば,抗日ゲリラの活動がかなり激しかった同じビサヤ地域のレイテ島などと比較すると,駐留日本軍が主体となる治安維持活動にこうしたエリート住民らが積極的に関与したことはごく自然であったろう。

暴力激化に共通する点は,抗日ゲリラ嫌疑者を取り調べるにあたり,日本軍当局者らによる尋問の時よりも,フィリピン側対日協力者による取り調べの時のほうが暴力の度合いが増したことである。またその暴力は,単に拷問を伴う取り調べ以外の場合でも,例えばプエイ並びにガスパーらによるサトウキビ畑における抗日ゲリラ探索の際でも激化した。つまり,暴力は,駐留日本軍による対抗日ゲリラ作戦に地元のエリートや貧困層民衆を含む協力者らが加担した時点で一層激化したのである。このような暴力の過酷さは,20世紀の転換期,比米戦争後の米軍による平定作戦の中で,フィリピン人兵士から構成されていたPCによる暴力の過酷さと酷似している。ただ比米戦争時の暴力と異なる点は,日本占領下においては貧困層が利用されたことによってさらに一層暴力が激化したことにある。

こうした占領地住民による対日協力における暴力の構図は,駐留日本軍部隊の諜報員として雇われていたコンデやネグロス血盟団で活動した住民の一人エヘルシトの事例からも明らかである。コンデは,駐留日本軍の酒井大尉の誘いを受け,部隊の下働きをしながら諜報活動に従事し,日本軍兵士が不在の時にゲリラ嫌疑者に対する過酷な拷問を科した。他方,エヘルシトは,戦争末期,バコロド駐留部隊の山口部隊からネグロス血盟団への入団の誘いを受ける。その勧誘にあたったセイ軍曹がエヘルシトに発した言葉,すなわち「この組織は悪くない。祖国フィリピン独立のための組織だ」という言葉は,貧困に喘いでいたエヘルシトをこの自警団組織へと誘うこととなる。エヘルシトは,自ら進んで入団を希望し,献身的に抗日ゲリラ摘発に貢献する。ただ,抗日ゲリラ嫌疑者に対する取り調べはまさしく常軌を逸したものになったのである。

暴力は,山口部隊のセイ軍曹が不在の時に激化し,過酷な拷問で死亡したゲリラ嫌疑者の遺族に,日本軍当局側が謝罪するという異例の事態を生み出している。こうした2つのネグロス島住民の事例から察するに,治安維持活動における暴力の激化は,駐留日本軍によるゲリラ摘発と取り調べもさることながら,日本軍当局に忖度した貧困層を中心とする住民たちによる協力によっていっそう拍車がかかったと言うことができる。

その一方で,本稿で明らかにされた,プエイ町長並びにガスパー警察署長,そしてコルドバ隣組組長らによる暴力関与の事実が戦後,全くもって不問にされた部分は極めて重要な史実である。特にサガイ町のプエイとガスパーが関わった暴力的な対日協力についての特別国民裁判所による処遇は,貧困層が関わる事案と比較しても極めて理不尽であった。プエイとガスパー,そしてコルドバらは,地方のエリート同士のネットワーク,換言すればシュガーバロン同士の連携を駆使しながら自分たちに向けられた国家反逆罪の罪から自らを解放していった。ガスパー元警察署長もシュガーバロンの一人であったかどうかは未確認であるが,この事案においてプエイ元町長が事件棄却を求めて奔走していた点に鑑みると,ガスパー元警察署長が起訴され,有罪判決を受けた場合,その影響が地域におけるプエイ自身の政治的正統性に影響すると考えていたことは明白であろう。

この対日協力事案では,複数名の貧しい労働者が治安維持活動に駆り出され,抗日ゲリラ発砲殺害事件が発生した。こうした中でのゲリラ嫌疑者に対するプエイ自身の拷問への直接関与は明らかである。しかしながら,西ネグロス州選出のマガローナ上院議員による司法介入ともいうべき動きがプエイとガスパー両名を国家反逆罪の罪から解放させる。その動きを受けてか,特別国民裁判所の特別検察官らは,キント検察官からの再審査勧告を全くと言っていいほど無視した。何故これら事件に関してのみ,担当検察官らは徹底した審理を行わなかったのであろうか。その理由は今となっては知る術もないが,マガローナ議員やペレス下院議長からの司法介入がその背景にあった可能性は否めない。

ネグロス島のシュガーバロンによる協力体制は,彼らにとっては下男たちでしかない貧困層の男たちを駒として利用することで円滑に作用したと言える。バコロド市において戦時中,隣組組長として日本軍に協力したコルドバの事案もこうしたシュガーバロン同士の支えによって棄却された。その背後において,隣組の下で献身的な働きをした2人の貧しいエヘルシトとコンデの自警団員と諜報部員の存在は,エリートが関わった対日協力事案が棄却される一方で,ほとんど無視されてきている。コルドバのような隣組組長の職務には,血なまぐさい暴力への直接的な関与はなく,終戦後たとえ特別国民裁判所に起訴されたとしても,彼らエリートに対する国家反逆罪を立件するための証拠収集や証人尋問は極めて中途半端な形で終了してしまう。一方で,貧困層対日協力者であったエヘルシトとコンデ双方に対する裁判審理では,プエイらに対する国家反逆罪事案とは異なり,彼ら2人に対する公訴事実がほぼすべてにわたって事実認定されていく。貧困層に対する断罪は国家反逆罪という犯罪とそれにまつわる暴力に対してのものであったが,エリート階層出身者に対する対日協力の罪は無きものとされたのである。

結局,終戦直後にオスメーニャ大統領(Sergio Osmeña, Sr.)の下で設立された特別国民裁判所では,暴力が絡む対日協力事案において断罪された大部分の者らは,貧困層に属する被告人たちであった。すべての被告人を均等に裁くには,この改正刑法第114条の国家反逆罪の適用には限界があったのである。いわゆる「2人以上の証言規定」による立証過程では,対日協力を証明するためには証人の証言内容が物的証拠よりも優越し,たとえ1つの事件が起訴に至ったとしても,特別検察官のさじ加減1つで,事案棄却が決定されることが多かった[De Viana 2016, 328]。プエイらが関与した事案には,キント検察官が主張するように殺人罪の適用も検討されていた。しかしながら,特別国民裁判所で審理される罪状は国家反逆罪のみであったから,彼らエリートに対しての本当の断罪はなされなかったと言ってもよいだろう(注60)。彼らが犯した暴力は,裁判の審理過程において国家反逆罪の範疇に入るものとして認定されなかったのである。

こうして見ると,一連の西ネグロス州の対日協力の裁判事例では,シュガーバロンを取り巻くエリートと貧困にあえぐ民衆との間の不公平さを垣間見ることができる。日本占領当初,日本軍の支配を受け入れる中,エリート社会内の対応は抵抗あるいは協力に二分された。貧困層は地主エリートの主導するゲリラ活動,あるいは駐留日本軍による対ゲリラ治安維持活動に翻弄され,結局は迅速な現金収入が確保され,生活もある程度保証される日本軍への協力へと向かっていく。自警団組織下ないし憲兵隊組織下の諜報活動の中の対ゲリラ掃討作戦で彼らは献身的に日本軍に協力する。戦時下のフィリピンにおける貧困層の利用は,支配するものが支配される弱いものを利用する形で行われてきた。プエイは,自分の部下であったガスパーに対する反逆罪事案を無かったものにしようと,貧困にあえぐ関係当事者への土地供与という手段でそれを成し遂げた。この供与を受諾した,あるいはしなかったにせよ,例の狙撃事件に巻き込まれた当事者(テミストクレス・ビリャセラン)のプエイの妻に残した言葉,すなわち「奥様,私たちがいくら貧しくとも,そんな申し出を受け取るわけにはまいりません」には,特別検察官の面前において,地域の権力者に忖度し事の真相を白状するわけにはいかない彼ら貧困層が抱え込むジレンマが反映されている。

貧困層住民は,戦前からの貧困生活からの現状打破を動機づけに対日協力に関わったと考えられる。一方でシュガーバロンなどのネグロス島有産階級の住民たちは,戦時下においても自己保身と既得権益の保持を目的に対日協力に邁進した。その目的完遂のため,エリート層が貧困層を駒として利用したことは否定しようがない事実である。戦後のネグロス島社会は,戦時下で頻発した暴力により一層分断が進み,シュガーバロンの下で貧困層は戦前よりも過酷な生活を強いられていくことになる。

[付記]

本稿の作成にあたって,永野善子先生(神奈川大学)と日下渉先生(名古屋大学)から多くの示唆を得ました。記して感謝します。

(福島大学非常勤講師,2020年3月18日受領,2021年2月10日,レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  国家反逆罪は,米国植民地期において制定されたが,終戦直後のフィリピンコモンウェルス政府下において,行政命令44号として1945年5月31日に改定された。これは,いわゆる改定フィリピン刑法(Revised Penal Code)第114条を指す。この改定法によれば,この法律の目的は,「フィリピン国の保全を担保し,かつ国家緊急時,国内の安全を維持するべく,フィリピン国民並びにフィリピン居住の外国人の双方に対して反逆的行為を抑制し,そして抑圧するため」とし,法の適用を外国人にまで拡大した。この法律を適用するには,いわゆる「2人以上の証人規定」(two-witness rule)に従う供述書等の提出を前提とした。フィリピンコモンウェルス政府行政命令44号は以下のサイトで閲覧できる。https://www.officialgazette.gov.ph/1945/05/31/executive-order-no-44-s-1945/

(注2)  本稿で扱う「民衆」とは,インド史家ラナジット・グハ(Ranajit Guha)のサバルタン研究上の定義に従って,荒[2018]の論考で説明されている,「支配する集団たるエリート」(いわゆる「巨大な封建地主,工業・商業ブルジョワを代表する有力な人々,または官僚の上層部に採用された人々」)以外の人々を指すものとする。本稿では,こうした民衆はフィリピン社会の底辺を成す貧困層であり,具体的には土地の無い小作農民,中小地主,などを指す[Guha 2009, 187-193(邦訳 1998, 3-24)]。

(注3)  サマール島やレイテ島で展開された反米民衆運動をめぐる暴力の問題,いわゆるプラハン運動の研究もArens[1977]Borrinaga[2007]によって行われている。

(注4)  アシエンダ(hacienda)については多種多様な定義があるが,ここではスペイン植民地下で発達した伝統的な農園あるいは工場などを包括する農場のことを指す。

(注5)  社会史学に関する定義には多種多様な解釈があり必ずしも一様ではない。周知のように,社会史記述とは,20世紀前半にフランスにおける学術雑誌『アナール』の刊行に啓発された動きである。本稿では,その考察対象の1つとして,ユトレヒト大学のマルコ・ルーウェン教授が主張する「社会的不平等性」(social inequality)を適用したいと思う[Leeuwen 2012, 235-236]。社会史の考察対象をめぐっては様々な議論があるが,解りやすい入門書としては,福井[2019,1-5]を参照のこと。

(注6)  「垣(第16師団)部隊 関係書類綴 昭16.12~17.12」(防衛省防衛研究所所蔵資料)(アジア歴史資料センターC14020509400)。

(注7)  「第11独立守備隊 比島討伐に関する書類其1 昭和17年12月~18年4月」(防衛省防衛研究所所蔵資料)(アジア歴史資料センターC13071677400)。

(注8)  「イロイロ憲兵分隊 情報記録綴 昭和17年11月上旬~17年12月中旬」(防衛省防衛研究所所蔵資料)(アジア歴史資料センターC13071906200)。

(注9)  こうした貧困層の警察隊への投入は,各占領地の町長級の官公吏が個人的に住民と接しながら非公式に行われたと思われる。フィリピン警察隊の組織発展については,Jose[1992]が詳しい。

(注10)  「第16師団作命綴 昭和18年11月~19年2月」(防衛省防衛研究所所蔵資料)(アジア歴史資料センターC13071390000)。

(注11)  同上。

(注12)  本節の議論の一部は,永野善子氏の研究に依っている[永野 1990]。また1920年代から1930年代までのネグロス島における絶望的なまでの労働環境についてはMcCoy[1982, 325]参照。

(注13)  ネグロス島におけるユサフェ(フィリピン国防法〔Philippine Defense Act〕により1941年7月26日に創設,司令官ダグラス・マッカーサー〔Douglas McArthur〕)編成は,1941年8月に始まるフィリピン予備軍設立を皮切りに開始され,いくつかの町においてユサフェ71連隊,72連隊,73連隊が編成された。しかし,日米決戦の戦況の変化により,71連隊と72連隊がルソン島防衛のため移動を余儀なくされ,結局,日本軍の真珠湾攻撃時のネグロス島防衛は,ユサフェ73連隊のみによって行わざるを得なかった。そのため,このユサフェ73連隊は後になって,ウィリアム・シャープ少将(William Sharp)率いるユサフェ第81師団に吸収され,フィリピン国軍第7管区司令官ガブリエル・ガドール(Gabriel Gador)中佐がシャープ少将の命を受けネグロス島の防衛任務にあたった。直後,西ネグロス州マガリョン町にユサフェ74連隊が結成され,アメリカ人将校サム・ジョーンズ(Sam Jones)がこの連隊の指揮を執る。また東ネグロス州では,新たにユサフェ75連隊がウルダリコ・バクラゴン少尉(Uldarico Baclagon)の下で結成された。当時のネグロス島を拠点とするユサフェメンバーの大部分は,弁護士や教師,医師などを中心とする中小エリート出身者によって占められていたが,一方で元フィリピン国軍兵士などもこれら連隊の隊員となった。状況は,1942年5月以降のコレヒドール戦,バタアン戦においてユサフェ並びに比米合同軍が日本軍に降伏後に変化し,当時オーストラリアにいたマッカーサーよりすべてのユサフェ所属軍はゲリラ戦に入るようにとの命令を受け,ネグロス島では元ユサフェのメンバーらによる抗日ゲリラ戦が開始されるようになった[Clope 2002, 17-21]。

(注14)  日本軍のフィリピン占領政策が治安維持に重点を置いていた点については,1941年11月の「南方占領地行政実施要領」のひな型となった参謀本部第一研究班が作成した「占領地統治要綱案」(1941年3月)の中の第6章「対米作戦二伴ウ比島処理方策案」の第1項目「方針」ですでに述べられている。そこでは,「比島作戦は比島に於ける米軍の根拠地覆滅を主とし,比島の物資獲得を重視せず」と書かれ,それが「南方行政実施要領」の中の「治安の恢復」に基づいた日本軍のフィリピン占領政策へと繋がっていったと思われる。これに関しては次の文書が参考になる。「南方作戦に於ける占領地統治 要綱案 昭和16年3月末日」(防衛省防衛研究所所蔵資料)(アジア歴史資料センターC14060704300)。

(注15)  日本軍当局による貧困層住民の治安部隊への投入過程は,荒[2018,43-45]において検討されている。

(注16)  ロペス一族は,1970年代のマルコス政権時代,電力事業の中核,マニラ電力会社(メラルコ〔Meralco〕)を経営していた。

(注17)  40th CIC Detachment Report, 28 May 1945 in Policarpio Gasper File in People’s Court Papers (PCP), Box No. 130-16, Special Collection Section, Main Library, University of the Philippines, Quezon City, Philippines. ここに所収の供述書関係を参照。

(注18)  本稿では,プエイとガスパー両名の名前の記載について,読者の便宜を図るため戦時下の動きを追うときに限り「町長」あるいは「警察署長」の肩書を併記するが,両名の記述頻度が高まった場合,その称号を省略し,「プエイ」あるいは「ガスパー」と表記する。ただし,この肩書の併記の有無について特段,厳格な基準は設けないものとする。

(注19)  1942年7月以降のネグロス島北部に進駐していた日本軍駐留部隊については,次の文書を参照のこと。「イロイロ憲兵分隊 情報記録綴 昭和17年11月上旬~17年12月中旬」(防衛省防衛研究所所蔵資料)(アジア歴史資料センターC13071906200)。

(注20)  Interview with Amado Sumbi, 1 May 1945 in 40th CIC Detachment Report, 28 May 1945 in PCP Policarpio Gasper File; Affidavit of Fortunato Longno to CIC Agent, James King, Special Agent 40th CIC Detachment, 24 April 1945; Affidavit of Fernando Jimenez on 19 April 1946 in PCP Policarpio Gasper.  ちなみに,2番目の供述書の宣誓者フォルトォナート・ログノは,この狙撃事件で犠牲になったフェロメノ・ログノの父親である。父親はこの事実を当時,ロペス・砂糖セントラルのゲリラ側スパイでプエイ元町長の下で電話交換手をしていたコンソラシオン・アリブ(Consolacion Arib)という女性から聞いたという。

(注21)  Affidavit of Consolacion de la Pena, 14 May 1946 in PCP Policarpio Gasper. ホセ・プエイ町長関連の特別国民裁判記録は現在,フィリピン大学図書館に見当たらない。このコンソラシオン・デラペーニャ・メンドーサによる供述書は,ポリカルピオ・ガスパーの裁判記録の中に添付されている。

(注22)  Affidavit of Antero Yuayan on 25 September 1946 in PCP Policarpio Gasper.

(注23)  供述書は通常,尋問を担当した取調官あるいは検察官が聞き取りをし,それを担当係官がタイプし,その内容を供述者が確認した後に署名する。ただ,ビリャセランの供述書は自身の手書きによるもので,彼自身による作成と思われる。

(注24)  Affidavit of Temistocles Villaceran, 12 September 1946 in PCP Policarpio Gasper.

(注25)  Affidavit of Temistocles Villaceran, April 27, 1946, in Memorandum for the Honorable the Solicitor General Written by Special Attorney, Pedro Quinto, October 22, 1949 and January 31, 1950 in pp.3-4 in PCP Policarpio Gasper.

(注26)  Memorandum for the Honorable the Solicitor General Written by Special Attorney, Pedro Quinto, October 22, 1949 and January 31, 1950 in p.4 in PCP Policarpio Gasper.

(注27)  Ibid., pp.8-11.

(注28)  Ibid., pp.11-13.

(注29)  Senator Enrique B. Magalona to Solicitor General Felix A. Bautista, Manila, July 13, 1949 in PCP Policarpio Gasper.

(注30)  Senator Enrique B. Magalona to Solicitor General Felix A. Bautista, Personal Confidential, October 18, 1949 in PCP Policarpio Gasper.

(注31)  シュガーバロン(sugar baron)とは,砂糖精製業で多大な利益を得たフィリピンの地方に存在する富裕層,いわゆる砂糖貴族のことを指す。

(注32)  サガイ町のプエイ一族がいわゆるシュガーバロンであるとの情報は,日本のフィリピン史家永野善子氏(神奈川大学教授)の教示による。2020年2月19日付の筆者へのメール。

(注33)  Memorandum for the Honorable the Solicitor General Written by Special Attorney, Pedro Quinto, October 22, 1949 and January 31, 1950, p.20.

(注34)  Felix Bautista Angelo’s Indorsement to Special Prosecutor Pedro Ibanez on February 7, 1950 in PCP Policarpio Gasper.

(注35)  「比島軍政監部ビサヤ支部 陣中日誌 昭和17年10月1日~17年10月31日」(防衛省防衛研究所所蔵資料)(アジア歴史資料センターC13071882600)参照。

(注36)  Information, People of the Philippines vs. Teofisto Cordova, March 7, 1946; CIC Report, Memorandum for the Officer in Charge, 15 August 1945, Interviewed with Saturnino Buelba on May 25, 1945 in PCP Teofisto Cordova, Box No. 77-10.

(注37)  Report of 40th CIC Detachment, 20 April 1945, Interrogated with Roque Ejercito on 1 and 9 April 1945 and Affidavit of Roque Ejercito to CIC Tacloban, 22 June 1945 in PCP Roque Ejercito, Box No. 105-12 in Special Collection Section, Main Library of University of the Philippines. ちなみにCIC調書では,このエヘルシトをpeasantという呼称で表現している。よって「小作農民」という日本語を当てはめるものとする。

(注38)  A Report of 40th CIC Detachment, 20 April 1945, Interrogated with Angel Carlitos on 16 April 1945; Affidavit of Paul Bell to CIC, 5 June 1945 in PCP Roque Ejercito.

(注39)  トバとは,ヤシの実の液を発酵させて作られた酒で,いわゆる「ヤシ酒」のことである。

(注40)  Affidavit of Roque Ejercito to CIC Tacloban, 22 June 1945 in PCP Roque Ejercito.

(注41)  この組織名の翻訳は筆者によるものである。筆者は,このLoyal Blood Partyなる組織について書かれてある日本側軍事文書を未だ確認できていない。

(注42)  この日本人名「セイ」とは,恐らく「瀬井」あるいは「瀬居」と思われるが,日本側の戦史文書で確認するに至らなかった。

(注43)  A Report of 40th CIC Detachment, 20 April 1945, Interrogated with Roque Ejercito in PCP Roque Ejercito.

(注44)  米軍のCIC文書によれば,この住宅は,当時バコロド市内で最大規模の砂糖アシエンダと家屋を持つアセンデーロ,ビリャヌエバ家の所有家屋であると思われる。場所は,バコロド市ブルゴス通りにあり,住民からはDaku Balay(セブアノ語で「大きな家」の意味)と呼ばれていた。日本占領期,この家屋は駐留日本軍に接収され,本部として活用されていた。

(注45)  Report of 40th CIC Detachment, 20 April 1945, Interrogated with Gregorio Yambao, on 7 April 1945 in PCP Roque Ejercito.

(注46)  Report of 40th CIC Detachment, 20 April 1945, Interrogated with Manuel Arrojado on 16 April 1945 in PCP Roque Ejercito. ちなみにこの女性はpom-pom girlという類の女性であったとする。pom-pom girlとは売春婦一般を指すものと思われる。

(注47)  Affidavit of Corazon Yunzon to CIC Bacolod, 6 June 1945 in PCP Roque Ejercito.

(注48)  Statement of Cristina Quilingin in Evidence for the Prosecution of Roque Ejercito in PCP Roque Ejercito.

(注49)  Affidavit of Demetrio Tolico, 17 July 1947; Affidavit of Justo Cepana, 7 August 1947 in PCP Roque Ejercito.

(注50)  Affidavit of Justo Cepana, 7 August 1947 in PCP Roque Ejercito.

(注51)  Affidavit of Federico Ortiz to CIC, 16 June 1945, in PCP Isaac Conde, Box No. 76-5.

(注52)  1943年2月当時のラカルロータ警備隊の動向については,次の陣中日誌を参照のこと。「歩兵第9連隊第9中隊 陣中日誌 昭和18年1月1日~18年4月30日」(防衛省防衛研究所所蔵資料)(アジア歴史資料センターC13071522000)。ただしこの戦史文書では,ラカルロータ町を「ラカロタ」と表記している。

(注53)  Affidavit of Fausto Gidaya to CIC, 9 June 1945, in PCP Isaac Conde.

(注54)  Affidavit of Federico Ortiz to CIC, 16 June 1945, in PCP Isaac Conde.

(注55)  Order from People’s Court Cebu to Roque Ejercito, 21 August 1946; Fausto Ejercito to President Manuel A. Roxas, 4 November 1946 in PCP Roque Ejerctio.

(注56)  Special Prosecutor Ignacio Debuque, People’s Court Cebu, to Roque Ejercito, 14 January 1947 in PCP Roque Ejercito.

(注57)  Final Minutes, People’s Court Zamboanga City in PCP Roque Ejercito.

(注58)  Auto, Court of First Instance, Bacolod, Negros Occidental, 16 March 1950 in PCP Isaac Conde. エヘルシト事件と異なり,「イサアク・コンデ」ファイルに残された文書は少なく,その後のコンデの動向は不明である。

(注59)  Motion for Dismissal to People’s Court Fifth Division, 16 February 1948; Order to People’s Court Fifth Division, 20 February 1948 in PCP Teofisto Cordova.

(注60)  1948年2月,フィリピン上院議員のロレンソ・タニャーダ(Lorenzo Tañada)は,この年の1月のロハス大統領による政治的並びに経済的対日協力者らへの大赦命令(Amnesty)の件で発言し,この大赦が貧困層が大部分を占める対日協力者らにとって極めて不正義(unjust)である,との強い批判を行っている[De Viana 2016, 358-359]。ちなみに,タニャーダ上院議員は,特別国民裁判所の特別検察官の任にあったが,その後,上院議員選挙に立候補し当選した。1948年2月時点まで,マニラの特別国民裁判所は5556事件を受理し,その中で1104事件のみが起訴された。起訴された事案の中で有罪まで持ち込めた事件はわずか156件であった[De Viana 2016, 333]。

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