Ajia Keizai
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Print ISSN : 0002-2942
Special Feature
Researcher Interview: State of the Art (5)
Yu TachibanaTaro TsurumiAkihiko YamaguchiKohei ImaiYoko Iwasaki
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2021 Volume 62 Issue 3 Pages 63-90

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はしがき

2021年はソビエト連邦がその70余年の歴史に幕を下ろしてから30年の節目に当たる。「ソ連解体」のインパクトについて,途上国研究の立場から改めて捉え直すために「特別連載:インタビューで知る研究最前線」では2回にわたる連続企画をお届けする。

ソビエト連邦を構成していた共和国は,その崩壊の過程で次々と独立し,現在では15の国に分かれている。ソ連解体はそこに暮らしていたさまざまな民族的出自をもつ人々やその周辺諸国の民族主義運動にとってどんな意味をもったのか。今回のインタビューでは,ソ連と関わりの深いイラン,南コーカサス,イスラエルなどの中東諸地域におけるマイノリティの歴史や動向を中心に研究を進めている立花優氏,鶴見太郎氏,山口昭彦氏を招き,座談会という形で自身の経験やソ連解体と研究対象の関係などについてお話しいただいた。

ソ連が解体したときの三者三様の記憶,それぞれの研究対象を見定めるまでの経緯が活き活きと語られ,時代の切り取り方やアプローチには,研究者その人の視座をとおした豊かな多様性があることを実感できる。

また,多民族国家ソ連の「民族自決」原則は建前ではなく一定の実態を伴っていたこと,他方で民族間に階層構造も存在し,それがソ連解体後の展開に深く関わっていることなどが指摘され,すでに歴史上の存在となったソ連が今もなお各国に及ぼし続ける政治的・文化的影響について思いをいたす,たいへん興味深い座談会となった。

なおインタビュー(座談会)は2021年5月10日にオンラインで行われた。

現在の専門・地域を志した経緯

今井 お忙しいなかお集まりいただき,ありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします。まずは,そもそもなぜ現在のご専門の地域やテーマに関心をもつようになったかというあたりからお話しいただけますでしょうか。

山口昭彦氏

上智大学総合グローバル学部教授。現代のクルド人問題やクルド民族主義運動への関心から研究を始め,近世(とくに16~18世紀頃)から近代にかけてクルド地域がイランやオスマン朝といった周辺国家に統合されていく過程や,それにともなうクルド社会の変容を明らかにすることを目指している。

山口 私は現在,中東地域の少数派であるクルド人について研究していますが,中東に対する関心は大学に入る前からありました。中学生のときにイラン革命があって,ホメイニー師が滞在先のフランスから特別機に乗って帰国する場面をテレビで見ていたのをなんとなく覚えています。また,高校では,英語の先生がたしか大阪外国語大学ペルシア語学科出身で,イラン革命のときにちょうどイランにいたなんて話も授業中にしてくれました。そうしたことも,中東やイランなどに関心をもつきっかけになりましたね。その後も,中東に関するニュース報道などに触れながら,少しずつ中東地域に関心をもつようになっていきました。

大学に入ってからはアジア研究を専門にする学科に進学しましたので,アジアのどこを研究するかということになりました。たまたま,大学2年生の終わりぐらいだったと思いますけれど,トルコの映画でクルド系トルコ人のユルマズ・ギュネイという人が作った『路 YOL』(1982年)という映画を見たんです。ご存じの方も多いとは思いますけれど,この映画はボスポラス海峡とダーダネルス海峡のあいだにある内海(マルマラ海)に浮かぶイムラル島にある刑務所を仮出所した囚人たちの足跡をたどりながら,1980年のクーデター直後のトルコ社会を生き生きと映し出した作品です。そのなかでトルコ東部にあるクルド地域がかなり濃密に描かれていて,それに魅了されたというのが,クルド人に関心をもつようになったそもそものきっかけです。

その後,大学3年の夏に初めてトルコに行き,駆け足ですけれどもクルド人が多く暮らすトルコ東部にも足を伸ばして,それでますます関心を深めたという次第です。卒業論文でもクルド人を取り上げようと考えましたが,当時,トルコのクルド人に関しては学術的な目的であってもなかなか取り上げるのが難しかったというか,タブー視されていたようなところもありました。そのこともふまえ,イランのクルド民族主義運動,とくに第二次世界大戦期の自治要求運動を取り上げて卒業論文を書きました。

立花 優氏

北海道大学高等教育推進機構特任助教。ポストソ連期アゼルバイジャンにおける政党と議会から研究をスタートし,近年はジョージア(グルジア)・アルメニアも含めた南コーカサス地域の現代政治について,支配政党や権威主義体制の持続といったテーマを軸に研究している。

立花 私が現在研究している地域に最初に関心をもったのは小学生のときなんです。ちょうどソ連崩壊が起きました。私にとって最初の国際的な重大事というのが湾岸戦争とソ連崩壊の2つなんです。ソ連が解体・消滅するということは,子ども心に非常に不思議に映りました。冷戦構造があるなかで,国がひとつ,それも東側陣営のリーダーとなっていた国が消滅するという事態が全然理解できませんでした。家族に聞いても当然わからないので,手に入る情報をひたすら集めるというようなことをやっていたというのがそもそもの発端です。

ゴルバチョフが出てきた頃から頻繁にニュースで取り上げられていたと記憶していますが,8月のクーデター未遂あたりから新聞を切り抜いて保存していました。家族に「まだ読んでないから切らないでくれ」と怒られたりもしていましたね(笑)。新聞の1〜2面の両面にわたって記事がある場合,どっちを残そうか,いやこのまま全部残してやれといったことを子どもながらに考えながらやっていました。

しかしその後,世間的な関心は徐々に薄らいでいって,エリツィンがお酒を飲んで酔っ払っているといったニュースはありましたけれども,ロシアや旧ソ連地域のニュースが取り上げられること自体,日本ではかなり少なくなっていき,私自身も関心も移り変わっていきました。ただ,そのなかで非常に興味深かったのは,ソ連が崩壊した後,民族紛争のニュースがたびたび出てくるようになったことです。民族紛争は旧ソ連地域のみならず,東欧でも起こっていて,それまで同じ国の住民として暮らしていた人たちが銃を手に取って戦い始めるということも,また不思議だったというのを鮮烈に覚えています。

大学に入学する頃,私自身の関心は日本政治,政治学そのものに移っていました。しかし,当時神戸大学で教鞭を執られていた月村太郎先生(現同志社大学政策学部教授)の授業を受けたことがきっかけで,子どものときの強烈な印象がもう一度戻ってきたんです。月村先生が担当されていた民族紛争の授業を受けたことで,小学生だった頃の強烈な記憶や初期衝動が戻ってくる感じで,やはり国際政治や民族紛争を勉強してみたいと思ったのが直接的なきっかけになります。

鶴見太郎氏

東京大学大学院総合文化研究科准教授。パレスチナ問題を背景に,旧ロシア帝国領およびその出身者を中心としたユダヤ史・シオニズム史の研究を社会学的な観点から行っている。また,エスニシティやナショナリズムに関する人文社会科学の諸議論の一環としてユダヤ史・シオニズム史をとらえることにも取り組んでいる。

鶴見 大学に入学したときから,中東や旧ソ連といった地域には漠然と関心をもっていました。あまり日本人がやらないような,日本人がお手本として見ていないような地域に興味があったんです。

中東やイスラム地域というのは,なんだか奇妙だと思われているところがありますよね。またロシアをはじめとする旧ソ連地域は,もし冷戦時代であればある意味でひとつのモデルになりえたと思いますが,ソ連崩壊以降,とても日本人がお手本にするような地域ではなかったと思うんです。どちらかというと,まさにエリツィンとか飲んだくれている印象の,非常に駄目な感じの国というふうに映っていたと思います。

私としては,だからこそロシアや旧ソ連地域に関心をもったというか,なんとなく惹かれたんだと思います。イスラムとか社会主義体制とか,当時はもう誰も真面目にモデルだとは思っていなかったからこそ,逆に関心があって勉強してきました。ただ卒論でこの2つの地域について論じるわけにはいかないですし,民族紛争にも関心がありましたのでパレスチナ問題に軸足を定めました。

最初はその発端を勉強するつもりで19世紀終わり頃からのシオニズムを勉強していたんですが,シオニズムやユダヤ人の歴史自体というか,シオニズムという思想に至る経路そのものが非常に面白いと思ったんです。パレスチナ問題を理解するうえで,彼らがそもそもなぜパレスチナを目指したのか,行った後になにを考えていたのかを見ないといけないと思って,今日までずっとそのあたりを中心に勉強しているという感じです。

パレスチナ問題に関しては,今思い返すとまさに時代状況の影響だったと思うんですが,2000年代初頭はアルアクサ・インティファーダ後の情勢悪化とか,9.11などでかなり注目されていて,ニュースにも頻繫に出てくる地域だったということもあって,そこに関心をもつのはある意味当たり前というところがありました。私は東京外国語大学で英語専攻だったんですが,卒論はパレスチナ史の藤田進先生が指導教官をしているゼミを選び,そこでパレスチナ問題を勉強しながら,最終的にシオニズムについて卒論を書いたという経緯です。

ソ連解体の記憶

今井 ありがとうございます。私も立花さんや鶴見さんとほとんど同世代だと思いますが,やはり小学生だったときのソ連崩壊や,ゴルバチョフがよくニュースに出ていたことなどはすごく印象に残っています。当時は湾岸戦争のほうがインパクトは強かった気がしますが,今になって考えると,ソ連解体のほうが歴史の大きな節目ではあったのかなと思います。

このソ連解体ですが,皆さんどのように記憶されていますでしょうか。おそらく鶴見さんや立花さんの世代と,山口さんの世代では,感じ方が若干違うとは思いますので,そのあたりもいろいろ教えていただけますでしょうか。

立花 先ほども申しましたけれど,やはりもう不思議というしかないという感じでした。湾岸戦争の場合は対立軸がはっきりあって,戦局に注目が集まっているという形でした。けれどもソ連崩壊はなぜそうなっているのかがわからない状態のままで連日報道がなされ,徐々にソ連の中央が苦しい立場に追いやられていき,その一方では当時連邦を構成していた共和国というものが(子どもからすると)突如クローズアップされ始めて,彼らが主導権を握ってソ連がなくなっていったという…… 本当に不思議でしかなかったです。

その後,集権的なソ連体制の下で確立された民族を単位とした共和国が結局そのまま残り,それを単位としてその後の秩序を維持していったというのは,さらに不思議なことでした。共和国はソ連によってつくられたにもかかわらず,ソ連がなくなっても共和国自体は残ったということはとても興味深いと感じましたし,国家とはなにかということを考えるうえで,なかなか面白いトピックだったと今になってみると思います。政治単位としての国家というものが非常に面白く浮かび上がってきた一連の流れでした。

私の場合,ソ連解体について自主的になにかを調べるというよりは,取り上げられたニュースをどうやって集めるかという受動的な形でしかなかったですけれど,インパクトは非常に大きかったです。ソ連解体に関する報道が連日なされているということに不思議な感覚を覚えて,その先を知りたいという気持ちがひとつの大きなきっかけになったとは思います。さらにそのなかで突如民族紛争というものがクローズアップされ,チェチェンやアゼルバイジャンの紛争が断片的に流れて,それがまた子ども心にかなり強烈なインパクトをもたらしたというところでしょうか。もちろん,それをうまく理解できるような年齢ではなかったわけですけれど。

なぜいきなり撃ち合うことになっているのか,本当にわからなかった。しかも通信社はすべてではなく断片的な映像をニュースに流すだけなので,子どもにとっては「え? なんで?」という衝撃といいますか,非常に不思議な感覚に満ちていた出来事でした。

岩﨑 私はもう大人になっていましたから,世界史を勉強して「国家が消滅する」ということがあり得るということを,頭の中では理解していて,過去にそういう事例もあったということもわかっていました。でも現実として見たことはなかった。それが実際に起きて「ああ,ソ連もなくなるんだな」というような感覚で,やっぱりちょっと興奮して見ていたという感じです。

鶴見さんと立花さんは小学生のときにソ連解体を見ていて,山口さんはギュネイの映画を見て研究の道を志された。なにがきっかけになるかわからないというのが面白いですね。私自身はイラン革命がきっかけですが,当時世界にはイラン革命だけでなくいろいろ大事な事件が同時に起こっていたにもかかわらず,とりわけイランに興味を引かれたのは縁というほかない。おそらく皆さんもそれぞれ複雑な個々人の経路依存性のようなものがあって,そこでなにかぴたっとはまるものがあって「あ,これは面白い」となるのかなと,お話を伺っていて思いました。

鶴見 ソ連解体当時のことに関する記憶でいうと,私自身は新聞の切り抜きなどはやっていませんでしたし,具体的な記憶というのはないんですが……。小さい頃は,ソ連という国に対して漠然とした印象しかもってなかったと思いますが,今のプーチンロシアみたいなタカ派な感じはなかったので,おそらくわりといい印象をもっていたと思うんです。だめな感じだけど悪いやつじゃない,みたいな(笑)。

大学に入るまではちゃんとした知識もなかったのですが,とにかく不思議な国だなとは思っていたので,ソ連について勉強してみたいと思っていました。ソ連に関連する本を読んで裏側というのがわかるようになることには面白さを感じましたね。これはロシア研究ということよりも,研究という営み全般に対する興味がそこで芽生えたという感じです。

たとえば自分のなかにアフリカについてのイメージがないままアフリカに関する本を読んだとしたら,多少の面白さは感じても,それまで不思議に思っていたものの裏側や具体的構造がわかった,という種類の面白さは得られないと思うんです。しかしソ連に関しては子どもの頃からインパクトの強い映像をたくさん見ていて,裏側にあったまったく別な在り方というか,ソ連時代の話も含めて経緯と結果を知ったうえで本を読むわけです。なんというか,犯人がわかっている(『古畑任三郎』のような)推理小説を読むような感じだったと思います。

そういう感覚が研究に面白さを感じた大きなきっかけでしたし,それが実際ソ連だったので,その後もロシアへの関心をもち続けられたのかなと今になって思います。

今井宏平

アジア経済研究所地域研究センター中東研究グループ研究員。専門はトルコ地域研究,中東国際関係,国際関係論。

今井 私も親や学校の先生がソ連解体はインパクトがあったと発言をしていたのを覚えています。母が「小学校から高校生だったときはソ連は大国だと教わってきた。あのソ連がこんなにあっけなく崩壊するなんて信じられない」といったことをニュースを見ながら言っていました。また新潟出身だった学校の先生が「昔ソ連が攻めてくるといううわさが流れたことがあった」と。子ども心に「あの崩壊したソ連がそんなに大国だったのかな」と思ったんですけれど,今になってみると1960年〜1970年代ぐらいならそういう話もたしかにあったのかもしれないですね。

山口 私や岩﨑さんは,物心ついたらすでにブレジネフがいたという世代です。その後,ゴルバチョフが登場してペレストロイカを始めたのが,大学に入った頃ですね。それまでなんとなくちょっと暗いイメージだったソ連がどんどん変わっていく,外に開かれていくという,そんな期待を抱かせる雰囲気がありました。

ベルリンの壁が崩壊したのが,私が大学院の修士課程に入った頃で,ソ連が解体したのは博士課程に入った頃です。ですから,リアルタイムで学生時代にそうした事件を経験してはいるんですけれど,大学院では中東を研究するとすでに決めていましたので,むしろ同じ頃に起こった湾岸危機・湾岸戦争のほうが個人的にはインパクトがありました。湾岸危機は1990年の夏に始まりましたが,その前年の夏にイラクのクルド地域に2週間ほど旅行で訪れていたということもあって,当時は湾岸危機・湾岸戦争のほうにずっと関心が向いていたと記憶しています。

ですから,もちろんソ連がどんどん変わって崩壊しつつあるということを目の当たりにはしておりましたけれども,その歴史的な意義を正面切って考えるということは,あまりできていなかったというのが正直なところです。長く続いた共産党の独裁体制が崩れ,それが東ヨーロッパも含めた政治的な流動化につながり,ユーゴスラヴィアをはじめ各地で民族的な対立や紛争が起こっているという,非常に一般的な印象にとどまっていたかなと思います。

今井 やはり時代というものは重要ですね。われわれの世代,つまり30代後半〜40代前半ぐらいの中東研究者は結構多い気がするんですが,それはやはりリアルタイムで9.11,アルアクサ・インティファーダ,あとは中東和平の進展などを見ていたことが大きかったと思います。私より少し上の世代には東欧の研究者が結構多い気がするんですが,それは東欧(バルカン半島)でいろんな国ができたり,紛争が起こったりといった出来事を見ていたからかもしれません。

立花さん,鶴見さん,ソ連解体をリアルタイムで見て興味をもってソ連・ロシア研究の道に入られたという方は,やはり多いのでしょうか。

鶴見 研究に入った動機としてそういった出来事を挙げている人に何人か出会ったことがあるので,確実に影響はあると思います。むしろ,それまではソ連という確固とした存在があって一定数の研究者が供給されていたベースがあり,ソ連解体でさらに関心をもつ人が増えたんですが,その後は減ったかなと思います。中東研究も含め,人文学全体の傾向かもしれませんが。ある意味ではソ連崩壊は最後のインパクトだったのかなという気はしますね。

立花 ソ連研究というものが確固として存在していた一方で,ソ連解体を結局見通せなかったということがひとつの大きな枷になってしまったところがあるのではないでしょうか。ソ連研究があれだけ盛んだったのに,ソ連解体を見通せなかったという事実をどう理解すればいいのかという,学界における危機感みたいなものはかなりあったのではないかと思います。結局ソ連がもっていたイデオロギー的な魅力というか,そういったものが国家とともに消滅してしまうわけなので。そういう意味では,やはり先ほど鶴見さんがおっしゃったように,最後の輝きというかインパクトのある出来事で,その後はやはり全体的な問題関心の所在というのは旧ソ連地域から離れていくほうが優勢だったという印象はもっています。

ただ,われわれより少し上の世代でも旧ソ連地域についての研究に入った方はたくさんいらっしゃいますので,そういう方にとってはやはりソ連崩壊というのは非常に大きなインパクトであって,研究上の関心を育むひとつの大きな動機になっているというのは間違いないと思います。

岩﨑葉子

『アジア経済』編集委員,アジア経済研究所地域研究センター中東研究グループ研究員。専門はイラン経済(経済制度史研究)。

ロシア系ユダヤ人移民の急増

今井 次の質問は少し角度を変えてみましょう。ソ連解体が,皆さん自身の研究対象に対して直接的に及ぼした影響はなんだったとお考えでしょうか。

鶴見 先ほどお話ししたように,元々は私にとって旧ソ連地域への関心とパレスチナへの関心は別々にありました。しかし,じつはイスラエルという国はソ連崩壊に相当影響を受けています。冷戦崩壊による国際政治の構図の変化といったこと以上に,実際の問題として,大量のユダヤ系移民がイスラエルに,移民が自由化された1989年頃から(とくにソ連が崩壊を始めたときに)どっと来たわけです。

2000年ぐらいまでに120万人ぐらい,当時のイスラエルの人口の2割ぐらいに相当する移民がありました。ソ連崩壊後にイスラエルの人口が2割増しになったという,そういう数字上の実際のインパクトがあります。これほど人口構成に影響があった国というのは,もしかしたらイスラエルだけかもしれないというぐらい,ソ連崩壊はイスラエルに影響を与えているんです。当然,パレスチナ問題にも影響していくところになります。それはつまり,移民がイスラエルの国政選挙に影響を与えるということです。

1993年にはオスロ合意が結ばれました。これも広くいえば冷戦崩壊による構図の変化が影響しているわけですが,当時イスラエルの内政としては旧ソ連からの移民をどうするかということが重要な問題になっていた時期だったんです。結局その人口構成の変化が,どの党がたくさん票を取るかということに影響を与えることになっていきます。

中東和平とは必ずしも関係しないのですが,労働党政権に対する旧ソ連系移民の不満がまずありました。もっとも,労働党政権の施策がまずかったかどうかという以前に,これだけの数の移民が来たらしょうがないというところはあると思うんですけれど。

旧ソ連系移民というのは,旧ソ連ではかなりいい職に就いていた人たちでした。高学歴のインテリ層が多く,医者も多いんです。旧ソ連移民が来て以降のイスラエルというのは,人口当たりの医者の数が相当多くなったほどです。医者がある意味過剰供給されたんですね。また,医者に限らずエンジニアなどさまざまな知的労働者も集まってきましたけれども,ヘブライ語ができないので単純労働に就かざるを得ないわけです。そうした不満が背景にあって,労働党のラビンが暗殺された後,オスロ合意に批判的だった中道右派政党リクードのネタニヤフが政権を取りました。もちろんオスロ合意自体にも問題はありましたが,さらに骨抜きにしていくような方向になってしまった。旧ソ連系移民としては,オスロ合意に対する批判からネタニヤフを支持したということではなかったと思うんですけれど,結果的にそのような形で中東和平にも大きな影響を及ぼしていったということがあります。

エルサレム郊外の旧ソ連系移民が多い入植地でロシアでおなじみの食材を扱う食料品店(左)とロシア系のシナゴーグ(右)(鶴見太郎氏撮影,2007年)

もっとも,実際に旧ソ連系移民はわりと対アラブ政策,対パレスチナ政策に関してかなり強硬な意見をもつ人が多いんです。詳細は省きますけれど,ソ連での経験,当時とくにチェチェンに対する印象が悪かったんですね。チェチェン人はほとんどがムスリムですから,イスラム=テロリストみたいな発想があって,それで同じくムスリムが多数を占めるパレスチナ人に対する印象が非常に悪いということがあるわけです。そういう背景もあって,和平に対してはずっと後ろ向きな票を投じる勢力ということになっていました。これも中東和平の経路に大きな影響を与えたということがいえます。

一方,冷戦の構図が変化したことがイスラエルにどのぐらい影響したかといえば,人口構成の変化に比べれば,おそらく大した影響はなかったのではないかという気もしています。というのも,元々ソ連はパレスチナ問題へのコミットメントが基本的に弱いんです。1948年にイスラエルが建国宣言をしたとき,ソ連は最初の段階で支持を表明した国のひとつではあったんですが,その後はのらりくらりと,どちらかといえばアラブを支援しつつという感じでした。そのアラブが1967年の戦争でイスラエルに大敗して以降,要は大恥をかかされてからは,もっぱら反イスラエル,反シオニズムでやっていったわけです。ただ,かといってパレスチナを非常に支援したかというとそこも中途半端で,言葉のうえでのイスラエル批判にとどまっていたかと思います。

ロシア連邦に変わってからもどちらかといえばパレスチナ寄りという感じがありますが,イスラエルとは実際に人のつながりがあるので結構仲良くしていますし,国交もすぐに結びました。どっちつかずな感じです。そういう意味では,ミクロにはというか,人口構成的には大変な影響を及ぼしましたが,マクロにはそれほどでもなかったのかなという感じです。

コーカサスの民族紛争が表面化

立花 ソ連崩壊が与えた影響というと,私の場合,もうダイレクトに研究対象地域であるアゼルバイジャン,アルメニア,グルジア,ジョージア(グルジア)が独立国家になりました。それまでソ連として国際社会に参画していたところから,それぞれの国家がそれぞれの外交政策を取り始めたわけです。とくにアゼルバイジャンの場合,トルコとのつながりが独立直後から非常に緊密になりました。早くも1992年にはトルコ支援の下でモスクの再建などが始まったりしています。

当時は民族主義的な政権でしたけれども,トルコ民族主義を掲げて,トルコとの連帯,反ロシア,反イランという形で極端な方向に走るということも起きてきたように,域外とのつながりが少しずつでき始め,旧ソ連地域とのつながりが徐々に薄れていきました。その契機になったのがソ連崩壊だったと思います。とくにコーカサスでは,紛争が起きたときに自分たちだけで勝敗を決することができなくなり,周辺に同盟国を探し始めました。アゼルバイジャンはトルコです。アルメニアの場合は,どちらかというと優勢に事を進めていましたけれども,国境を東と西で封鎖されていたので,イランとの結びつきが強まりました。ジョージアは自身もオセチアやアブハジアといった民族紛争を抱えていましたので,徐々に西側を向くようになりました。コーカサスは,域外とのつながりの模索や,それまでもっていたつながりの断絶というものがかなり顕著に出た地域だったと思います。

ソ連崩壊のインパクトでいうと,民族紛争が表面化したということが大きいと思うんです。それまではソ連という体制のなかで問題を解決することが模索されてきたわけですが,その調停役が消滅してしまった。連邦構成共和国は国家の主体性というものを得たわけですが,逆にカラバフにおけるアルメニア人なんかはソ連=中央に調停してもらうという道筋が断たれました。同じようなマイノリティは他にも複数ありまして,たとえばジョージアにおけるオセット人であるとか,アブハジア人がそうです。アゼルバイジャンでは南部にイラン系のタリシュ人が,それから北部にはレズギ人がいます。それぞれが独自に問題を解決しようという方向性が出始めます。

彼らもソ連があるときはソ連の仕組みに従って問題を訴え,解決しようとしていたんです。しかしソ連崩壊が現実のものとなった後のプロセスでは,自分たちも共和国になって,連邦構成主体としてアゼルバイジャン,アルメニア,ジョージアと同列のところに並んで独立することも模索し始めました。ソ連がなくなるということは,彼らの戦略上,やはりかなり大きな影響があったと考えられます。

結局彼らの多くが実力に訴えてなんとかしようという手段を取り,一方の共和国側もそれを力で抑え込もうとするという形になってしまって,紛争がより激烈なものになってしまいました。現在もカラバフ,南オセチア,アブハジアといった未承認国家といわれるエリア以外にも,紛争の火種になるような舞台はまだ残っています。とくにジョージアの場合ですと,エスニックマイノリティが集まって住んでいる場所がまだ結構あって,なにかあると暴力事件が起きたりしています。元々はソ連という枠組みのなかである程度問題解決していた,つまり訴える先というものが一応あったわけですが,それがソ連崩壊とともにその上部構造が完全に飛んでいってしまって,彼らが訴える場所がなくなってしまったというのは,やはりインパクトがあったのかなと思います。

もちろんソ連という国で一緒に暮らしていたという経験は非常に大きなもので,ソ連人であるという意識はあったといえると思います。ただ,ソ連で一緒に暮らしたという意識・経験というのも,この30年で完全に薄れてしまっています。当時の現役世代もどんどん引退して,独立後の経験をもつ現役世代が力をもっているのが現状です。そういう意味で,ソ連の遺産というものにより掛かる部分もこの30年でかなり少なくなっている感じです。とくに第二次カラバフ紛争を見てそういうところを非常に感じました。ソ連時代に軍歴をスタートさせた将軍がパージされているという話も聞いていますので。ポストソ連期という括りもこの30年でそろそろ終わり,ということになってきたのかなと思っています。

今井 私は博士課程のときにトルコへ留学したんですが,そのときにアゼルバイジャンの学生が大学に700~800人という規模でいました。年齢はだいたい私より3~4歳ぐらい上でした。同じクラスを取っていたアゼルバイジャン人に聞くと「30代後半〜40代ぐらいだとまだロシア語をよく使っている人が多いけれど,今の若者世代はロシア語をだんだん使わなくなって,理解することも難しくなってきている」みたいなことを話していましたね。アゼルバイジャン,ジョージア,アルメニアでロシア語というのはまだ使われているんでしょうか。

立花 まだ使われてはいますが,使う機会や場所は減ってきていると思います。ただ,やはり独立直後からしばらくは,民族語で享受できる高等教育が非常に少なくて,初等教育においてもやはり優秀な先生はロシア語のスクールにそろっていました。よりよい教育を子どもに受けさせたいと思う親は,子どもにロシア語を勉強させて,ロシア語のスクールに通わせ,大学でもロシア語を使う大学に行くという流れがありました。ただ最近は,たとえばトルコやヨーロッパの大学への留学が一足飛びにできるようになったので,そういう意味では,ロシア語の魅力が圧倒的なものではなくなったのは間違いありません。ロシア語はあまり得意じゃない,けれどもビジネス等で使う必要があるので勉強しないといけない,といったことをいう若者が増えている気がします。

一方で,若者はもう英語を自主的にどんどん勉強しているわけで。そういう意味では「(ロシア語も)必要かもしれないからすこし勉強しておこうかな」くらいの位置づけになりつつあるというところですかね。

今井 ジョージア人とアゼルバイジャン人が会ったときに,英語で会話するという可能性もあるということですね(笑)。

立花 そうですね(笑)。世代にもよると思いますが,若い世代だとそうなってしまうこともあるのではないかな。お互いにロシア語で会話してみるということはあるかもしれないですけど,お互いに「なんか通じないな」とか思っているかもしれないです(笑)。その水準というのがどんどん下がっていっているという雰囲気は確かにある気がします。

クルド民族主義運動とソ連

今井 山口さんはいかがでしょうか。

山口 結論からいうと,クルド人問題というかクルド民族主義運動に対して,ソ連解体が与えた直接的な影響というのはそれほど大きくはなかったと思っています。もちろん歴史的にみると,クルド地域というのはコーカサスとペルシア湾のあいだに位置していますので,帝国時代からロシアはこの地域に強い関心をもっていました。オスマン朝とイラン(カージャール朝)との国境確定調査というのが19世紀半ばから後半にかけて行われますが,それにイギリスと並んでロシアも関与していますので,古くからロシア(およびソ連)がクルド地域に関心を抱いていたのは間違いありません。こうした関心は,基本的にはペルシア湾方面に向けての南下政策の一環だったと思います。

他方で,第二次世界大戦以降,クルド人の民族主義者のなかに左翼的な傾向をもった知識人たちが徐々に現れてきます。そのため,この地域に関心をもつソ連と,左翼的な傾向をもつクルド系組織とのあいだにイデオロギー的な親和性が生まれて,つながりそうにみえますけれども,実際にソ連がクルド人の運動に多少とも積極的に関与したのは,おそらく第二次世界大戦中にイランでクルド人たちが起こした自治要求運動ぐらいだろうと思います。当時,親独的な姿勢をみせていたイランのパフラヴィー朝を牽制するためにイギリスとソ連がそれぞれ南と北からイランを占領しましたが,クルド地域のうちソ連の影響下におかれたところで自治要求運動が高まりました。このとき,ソ連は,イランのアゼルバイジャンでの民族主義運動を支援するなかで,隣接するクルド人にも付随的に手を差し伸べたわけです。とくにイデオロギー的に互いに結びついたというよりも,お互いの利害にもとづく一時的な「同盟」関係でした。

別の例を挙げますと,今ではもう伝説的な指導者になりましたが,イラクのクルド地域にムスタファ・バールザーニーという人物がいました。1960年代から本格化したイラクでのクルド民族主義運動を率いた人物です。彼は,若い頃,先ほど紹介した第2次世界大戦期のイランの運動にも軍事部門の責任者として関わりましたが,運動が失敗に終わった後はソ連に亡命して10年以上を過ごしました。その後,イラク革命を経てイラクに戻り,まもなくして武装闘争を始めたわけです。そういった経緯から,バールザーニーがKGBともつながっていたと指摘する論文を読んだことがありますが,それが本当かどうか,私にはわかりません。ただ,バールザーニーがソ連滞在中に思想的に影響を受けたということはなく,伝統的な部族指導者でありつづけたと思います。

トルコのクルディスタン労働者党(PKK)は,マルクス・レーニン主義を掲げて70年代の終わりごろに母体となるような組織を作り,80年代半ばぐらいからは本格的に武装闘争を開始しました。確かにマルクス・レーニン主義を掲げてはいましたけれども,私が知る限り,PKKは,「ソ連の社会主義は国家主導の統制的な社会主義であって自分たちが目指すような下からの社会主義ではない」として,ソ連に対して批判的な立場をとっていました。

ソ連解体が直接的にクルド人の運動に打撃や大きな影響を与えたといったことは,少なくとも短期的にはなかったと思います。もちろん社会主義の退潮という大きな流れのなかでPKKなども1990年代~2000年代にイデオロギー的な変化を遂げていきますので,長期的な影響はあったと思います。

他方で,これは立花さんに伺ったほうがいいのかもしれませんが,コーカサスあるいは中央アジアに住んでいるクルド人たちは,ソ連崩壊に少なからず影響を受けただろうと思います。本格的に調べたわけではないですが,たとえばアルメニアはソ連時代にはクルド人に対して民族的な権利をかなり保障していて,『リヤー・タザ』(新しい道)というキリル文字で書かれたクルド語の新聞も出版されていました。共産党の機関紙だったと思いますが,クルド語による新聞の発行自体,他のクルド地域では見られないものでした。私も日本国内の書店を通じて購入していましたが,ソ連崩壊後,すぐにではなかったようですが,しばらくして届かなくなりました。結局,廃刊になったようです。廃刊自体は財政的な理由によるもののようですが,ソ連崩壊の直後には,かつてほどには少数派の権利が保護されない状況になっていったと認識しています。現状がどうなっているか私にはわからないので,立花さんに教えていただきたいのですが,いかがでしょうか。

立花 マイノリティの権利保護という点でいうと,ソ連自体がマイノリティの権利を統制の下で保護するというスタンスを取っていましたので,その範囲内において保護されていたというような部分はあったわけです。それがソ連崩壊によって途絶えたというのは,山口さんのおっしゃるとおりです。それに不満をもつマイノリティが,自分たちも国家をもちたいということで蠢動したというのが,ソ連崩壊前後のコーカサス地域のひとつの大きな潮流だったと思います。

イラク北部ラーリシュにあるヤズィーディー派の聖廟。クルド社会にはムスリムのほか,さまざまな宗教的少数派が存在するが,ヤズィーディー派もそのひとつ。アルメニアなどコーカサス地方にも多数居住している。(山口昭彦氏撮影,2013年)

ソ連崩壊時にクルド人がコーカサスにおいてそのような動きを見せていたかについて,私自身は残念ながら詳しい情報をもち合わせていません。ただ,たとえばアゼルバイジャンにおいてクルド系と噂される人が重要なポジションに就いているということがあります。前大統領ヘイダル・アリエフ時代からの大統領警護局長がクルド人だという噂があり,昔に彼だったかがトルコへ入国した時に身柄を一時拘束されたというニュースがあって,PKKとつながりがあったんじゃないかという話もありました。これも真偽のほどは定かではないのですが。

このようにマイノリティ出身と噂される人たちが政権内部に入り込んでいるケースもありますが,それはエスニック・グループとしてのマイノリティの権利保護を意味するものでもマイノリティ代表という性格のものでもなく,あくまで支配者とつながりをもつ個人が,権威主義体制の中核を構成する一部となっているということです。一般的にはマイノリティの権利はソ連崩壊以降かなり制限されているのではないでしょうか。

「民族自決」テーゼの実態

岩﨑 ソ連をはじめとする旧社会主義圏では民族自決というテーゼの下に様々な民族が融合する多民族国家というものがうたわれていました。内情はともかく,そういう大義名分を掲げる国家がなくなってしまったことは,各地のナショナリズム運動にどういう影響を及ぼしたのでしょうか。立花さんがおっしゃったように,たとえばかつてソ連邦の下で,曲がりなりにも民族間の平等が保障されていたときに比べて,たがが外れてしまい,権利争奪戦のようなことになって「あっちが取るんだったらうちも取る」と次々と紛争が起こってしまったと考えるべきなのでしょうか。また,多民族融合という高邁・高尚なイデオロギーのたがが外れてしまったことが,ナショナリズム運動の主体者たちにどのようなインパクトをもたらしたのでしょうか。

鶴見 今のご質問に対して直接的にお答えするのは難しいのですが,ひとつ手掛かりになるかなと思うのがソ連での実態です。民族自決のテーゼが一定程度定着していたのは事実で,それがその後どう影響したかということです。つまりソ連は大義名分としてやっていたのですけれど,教育制度なども含め,実際そのように政策を進めていたので,かなり実態になっている部分があるんです。

具体的にいうと,ソ連には基幹民族という考え方があります。たとえばウクライナであれば,ウクライナ人が基幹民族であり,言語もロシア語ではなくてウクライナ語を重視しましょうという考えです。ウクライナ人からすると多民族国家,多民族融和という方向として非常に好意的に受け止めるべきことだと思うんですが,ウクライナにいるユダヤ人はその対象になりませんよね。ロシア語かウクライナ語かどちらかという感じになる。

一応(ユダヤ人が使う)イディッシュ語もある時期までは保護されていましたが,かなり形骸化していったのと,地理的に分散していたユダヤ人にとっては食い扶持を稼ぐためにはあまりメリットがなかったので,むしろユダヤ人のほうからロシア語を学ぶようになっていきました。ただ,ユダヤ人は基幹民族という考え方自体はよくみていて,イスラエルに行った後,イスラエルはユダヤ人が基幹民族であるところの国だというふうに,素朴に信じ込んでいるわけです。パレスチナ人はアラブ人だから他に国があるじゃないかという考え方です。ですから,ウクライナにおけるロシア人の権利が制限されるのと同じように,他に国があるアラブ人はイスラエルにおいてはそんなに大きな顔をするなみたいな,そういう発想は結構あります。それも対アラブ政策が非常に強硬な要因のひとつになっているようです。

そういう形で,建前は単なる建前じゃなくてある程度実態化していて,その後の歴史を経路づける部分もあった。やはりソ連というたがが外れた後も,それこそジョージアだったらジョージア人の国であるというように考えがちなので,ジョージア国内のオセット人やアブハズ人などに対してはおまけ程度にしか考えないところもあります。

岩﨑 面白いですね。民族自決がある程度実態であったために,ソ連のカルチャー,遺産として残っていると。

鶴見 そうですね。多民族共生というのはあくまでもソ連という枠組みのなかでの話であって,各共和国のなかでの多民族共生は,少しはあったかもしれないが本丸ではないということだと思います。

立花 先ほど鶴見さんがおっしゃったように,ソ連はマイノリティに保護を与えていたわけですが,階層構造をもたせていました。ですから,マイノリティが属する階層の自治領域においては権利が保護されるんですが,共和国という単位においては共和国の基幹民族,名称民族が結局主体になってしまう。アゼルバイジャンの例でいいますと,ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア人は,自治州内では一定程度の文化的な権利保護等をされていたわけですが,共和国単位だとアゼルバイジャン人が中心だったわけです。階層構造のなかのどこに位置するかによって,保護される権利の範囲というものが結構変わってくるのです。

ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア人にとってみれば,それならアゼルバイジャンではなくアルメニアに帰属すればより権利が認められる対象になれるんじゃないかということで,帰属変更要求という形になったわけです。共和国のなかのマイノリティは自分たちが下の階層に位置づけられていることへの不満があって,基幹民族は共和国の単位を認めてもらっているがソ連という統制を受けていることへの不満がある。誰にとっても百点満点の解決策ではなかったわけですけれど,ソ連末期になってそれぞれの当事者にとってのマイナスの部分が徐々にクローズアップされていったんだと思います。

ソ連解体後の研究・学界動向

今井 ソ連解体後,研究環境や学界動向にはなにか変化はありましたか。

鶴見 研究についていえば,ペレストロイカ〜ソ連崩壊期あたりから,ロシア史の捉え方がさらに刷新されて,イデオロギー的に緊張したようなところは減っていき,これまでになかった視点で切り込んでいく研究が増えていったということでしょうか。それと,私自身は定期刊行物を使うのですが,各文書館が外国人に対しても開かれたというのは非常に大きいことでした。帝政期に関する研究なども,ソ連時代は特有の見方がされていましたが,別の側面からの研究も少しずつ出てきて刷新されていったと思います。帝政期も含めて新しい視点からのロシア史の資料が,とくに2000年に入ってから,書籍という単位でもだいぶ出回るようになりました。私にとって幸運だったのは,そういう新しい研究成果を吸収し身につけることができたことです。もっとも,当時はそのありがたさを意識していたわけではありませんでしたけど。

さきほど「帝政期に関する研究も刷新されていった」とお話ししましたけれど,ソ連時代の帝政期の研究では,ロシア帝国は「マイノリティ民族を抑圧していた民族の牢獄」だったことになっていました。

しかし,そうではない側面,要はマイノリティの主体性だったり,帝国という枠組みをむしろ活用しながらたくましく生き延びていた姿だったりを明らかにする研究が出てきました。シオニズムもその文脈で捉えられるということに気がついたというのは,まさにそういった研究があったからこそです。そういう意味で,ソ連崩壊による研究動向の変化というのは,私の研究に大きく影響したなと,今振り返ってみれば強く思うところです。

山口 自分の研究に直接影響があったかどうかはともかくとして,学界の大きな流れを少しお話ししたいと思います。先ほども言いましたとおり,ロシア帝国あるいはソ連は地理的にクルド地域と接しておりましたし,また内部にクルド人コミュニティを抱えていました。ですからロシア帝国時代から,とくにロシアやアルメニアにおいては,言語,文学,歴史,政治といった側面からクルド研究が盛んに行われていました。ソ連時代の研究は,確かにイデオロギー的な「色」がついていましたが,それでも1980年代までは世界のクルド研究をリードするような存在でした。たとえば,今でこそクルド語辞書はいくつも出ていますが,当時はロシア語との対訳の辞書がもっとも優れたものでした。

現在,クルド研究は北米を含め世界的にかなり盛んに行われていますが,当時は,ソ連以外ではもっぱら西ヨーロッパで行われていました。しかし西ヨーロッパの研究者にとってもやはりロシア語の壁というのがそれなりにあったのか,例外はあるにせよ,なかなかソ連のクルド研究を咀嚼して受け入れるところまではいっていなかった。つまり,ソ連のクルド研究と西ヨーロッパでのクルド研究にある種の分断があったように思います。

しかし,ソ連崩壊でそうした分断も薄れてきたのではと感じています。これに関して,個人的な体験をひとつご紹介したいと思います。1996年9月に「クルド人と都市」と題した国際シンポジウムがパリ近郊のセーヴルで行われました。たまたまパリに留学中だった私も参加したのですが,そうそうたる研究者が集まるなか,一番印象的だったのは旧ソ連圏からの研究者が何人も参加していたことです。

モスクワの東洋学研究所や,同研究所のレニングラード(サンクトペテルブルク)支部からも来ておりましたし,中央アジアのクルド人も何人か参加していたと思います。あの会合がクルド研究に関するソ連崩壊後初めての国際シンポジウムだったかどうかはわかりませんけれども,今から振り返ると,旧ソ連圏とのあいだにあった研究の壁が少しずつなくなっていく,ひとつの象徴だったのかなと思います。

現在のクルド研究がロシア帝国時代やソ連時代の研究を十分に継承できているかわかりませんけれども,最近では旧ソ連圏での研究を紹介するような論文が英語でちらほら出たりしています。あるいは,ロシア出身のクルド人研究者がヨーロッパの大学で研究し英語で成果を発表するといったこともあり,かつてあったような壁は少しずつ崩れてきていると思っています。

他方で,ロシアやアルメニアにおいて,今もクルド研究が盛んに行われているかというと,やや疑問に思っています。これも個人的な経験ですが,2012年5月にモスクワの東洋学研究所において開かれたクルド研究に関する小さなワークショップに誘われて参加したのですが,予算的に恵まれていないことと,若い人があまり育っていないのが印象的でした。十数人ぐらいの規模のワークショップで,もちろんロシアの有名な研究者が集まってはいましたけれども,やはり高齢の方が多く,私を呼んでくださった先生も「若い人がなかなか育たない」と仰っていて,せっかくの伝統がもったいないなと思いました。ただ,そうはいっても,これまでの蓄積がありますので,今後またロシアやアルメニアでクルド研究がさらに進展・発展するという可能性は十分あると期待しています。

今井 クルド研究というとやっぱりヨーロッパ,とくにオランダ,フランス,イギリスというイメージが強かったので,旧ソ連圏でそんなに盛んだったというのは印象的でした。断絶があって研究がまだ十分に咀嚼されているとはいえないというところは,クルド研究の今後のひとつの課題でもあるし,ある意味では面白い部分ですね。多言語でやらなきゃいけないので相当難しいとは思うんですけれど,とても興味深いです。

中東の大国とコーカサス

今井 私から立花さんに質問させていただきます。先ほどトルコとアゼルバイジャンの話をしていただいたときに思ったんですが,ソ連解体後,トルコならトルコ民族主義,イランならイラン民族主義とシーア派,そしてサウジアラビアならスンニ派が,ワッハーブという形の宗教的アプローチで中央アジアに進出しようとし,中東の域内大国の三つ巴の対立が見られたと思うんですが,コーカサスにおいてはどうだったんでしょう。

アゼルバイジャンですとやはりトルコの印象が強いですよね。アルメニアやジョージアでは,その3カ国間の争いはどれくらいあったんでしょうか。

立花 トルコ・イラン・サウジアラビアの三つ巴はコーカサスでも見られます。とくに顕著なのはアゼルバイジャンだと思います。アゼルバイジャンはシーア派が多数を占めるといわれていて,当然イランの影響は強いんです。とくに宗教でいうと,ソ連崩壊によって,これまでソ連体制下で認められてきたイスラムの在り方に疑問を呈する人たちが大量に出てきています。「正しいイスラム」を求める人たちが外にその答えを求め始めたということです。

それに乗じる形でさまざまな人たちが入ってきましたが,早かったのはトルコでした。ソ連体制の崩壊によってモスク再建がかなり進むわけですが,宗務庁などがかなり力を入れて入っていました。一方,ギュレン派がトルコ以外で初めて進出したのがアゼルバイジャンだといわれていまして,ギュレン派の学校もかなりありました。イランからはシーア派の影響が,最高指導者を頂点とするあの体制が宣教活動によって入ってきました。バクーの近郊にはシーア派の強烈なコミュニティが存在しています。

そのひとつがナルダランという所にあるんですが,そこのコミュニティはもう完全にシーア派一色なんです。ナルダランに行くと,壁に「水を飲むときはカルバラーを思い出せ」という標語がアゼルバイジャン語で書いてあって(笑)。ナルダランはアゼルバイジャン当局も非常に警戒しています。ヘイダル・アリエフ時代,つまり現大統領の父親が大統領だった時代に,反大統領のデモが結構頻繁に起こっていた地域でもあり,シーア派の若手の指導者が治安関係の容疑で逮捕される事件もありました。また,ナルダランはアゼルバイジャン・イスラム党が結成された場所でもあります。

ナルダランの「水を飲むときはカルバラーを思い出せ」の標語。(立花優氏撮影,2010年)

岩﨑 旧ソ連時代の宗教実践といったお話が出ましたが,ソ連時代のエスニックマイノリティで,かつムスリムであった人々の宗教実践というのはどのような感じだったのか,もう少し教えていただけますか。

お話を伺っていると,ソ連のたがが外れたところへ,いってみれば各セクトが入り込んで草刈り場のようになっているような印象をもちました。現地に住んでいらっしゃる人々が,ソ連時代の宗教実践を捨てて新たに入信するといったことが次々と起こっているのでしょうか。それともそういったことに懐疑的な人が多いのでしょうか。

立花 クリアカットで語るというのは結構難しいところもあるんですけれど,ソ連時代はロシア帝国時代から続いていた宗務局という管理体制を引き継ぐような形で,カフカース・ムスリム局というのがバクーに置かれていました。そこにシェイヒュル・イスラムといわれるトップがいて,その下で各地のモスクを管理するという体制が取られています。アーシューラーなんかの儀式もやっていたはずです。ソ連体制下の1940年代にはイマームが復活するとか,バクーの街角に再来したとか,そういったうわさも流れたそうです。

行事としては行われていたし,シーア派の信仰というのも続いている。でも,人々の宗教実践はそれほど強いものではなく,豚肉を食べたりお酒も飲んだりと,かなり緩い感じだったようです。ただ,ソ連崩壊時のナショナリズムの高揚とともに自分たちのムスリムとしての感覚を強めていくときに,ソ連体制の一部であった宗教的権威ではなく,「正しいイスラム」を求める人も結構いました。その人たちにトルコであるとか,イランとか,アラブ諸国のミッションがかなり有効に影響したといわれていて,そのあたりは中央アジアでよく見られたことなのかなと思います。

とくに宗教的なメンタリティーが強くなるきっかけになったのは民族紛争でした。ナゴルノ・カラバフ紛争に,義勇兵がアラブから入ってきているんです。そういう人たちがサラフィー主義をかなり広めたともいわれていいます。また,アラブやらイランやら,トルコも支援で避難民を保護していましたが,そこでもかなり宗教的活動が行われていたといわれています。

ジョージア関係でいえば,やはりチェチェン紛争が影響しています。ジョージア北部のチェチェンと地続きの所にパンキシ渓谷というのがあって,そこにチェチェン系の人々が住んでいるんですが,そこがサラフィー主義のひとつの拠点になっています。チェチェンにもアラブ系の義勇兵がかなり入り込んでいましたので,そことアゼルバイジャンとのつながりという形でネットワークができていたようです。

とくにカラバフではナショナリストとして民兵になり紛争に参加した人が,紛争が停戦した後,居場所を求めて今度はチェチェンに渡り,チェチェンで対ロシア紛争に参加するなかで,サラフィー主義にコンバートし,その後にイスラム国に行ったという話もあります。そういった紛争を契機とした宗派のコンバートというのも見られました。また,トルコなどからの流入ということでは,スンナ派の信仰がアゼルバイジャンでかなり強く見られるようになってきているのではないかと個人的には感じています。

これは個人的な体験なんですが,アゼルバイジャンで高校生ぐらいの男の子と話す機会があって,「大学どうするの?」みたいな話をしたら「自分はマディーナに行きたいんだ」という話だったんです。「ゴムとかじゃないの?」とちょっとびっくりした記憶があります。どうもご家族がソ連崩壊後にスンナ派の信仰を強くもつようになったようでした。ソ連崩壊後に明らかに信仰に目覚めたと思われるような人たちもいて,かなり多様になってきている印象です。

なぜイランにおけるクルド地域は安定的か

岩﨑 皆さんのご研究そのものについてもお聞かせください。まずは山口さんにお伺いします。「周縁から見るイランの輪郭形成と越境」(『越境者たちのユーラシア』,ミネルヴァ書房,2015)というご論考をとても興味深く拝読しました。かつてスーパーパワーであったオスマン朝があり,一方で(かなり規模は小さいですけれども)地域大国としてイランがあって,そのはざまに位置したクルディスタンの微妙な立ち位置が描かれています。私が非常に興味深く思ったのは,イランのほうがオスマン朝よりもよりクルドに対して懐柔的な態度をずっと取り続けていたことが,イランにおけるクルド地域が比較的安定してイランの一部であり続けた背景ではないかという指摘です。とくにクルドの有力者の子弟を中央の宮廷に呼び寄せて教育する,そこで文化的・情緒的に,要は懐柔するという話が出てきて「なるほど,面白いな」と思いました。懐柔される側からすれば,辺境地域を離れて中央に呼ばれて,宮廷の君主の下でいろんな勉強をすれば自分もエリートになったような気分になる。中央が十分な威光をもっていれば,懐柔されることにも合理性が当然あるんだと思います。一般論として,こういう政策が奏功する場合と奏功しない場合というのがあると思うんですが,懐柔する側の論理といいますか,うまくいく場合とうまくいかない場合で,大国側の条件にはどんなところに違いがあるとお考えでしょうか。

山口 大事なご質問だとは思うんですけれども,お答えするのは非常に難しいですね(笑)。私が元々こういうテーマに関心をもったのは,同じクルド人問題でも,トルコやイラクとイランとでは大きな違いがあるのはなぜなのかと考えたのがきっかけです。トルコ・イラクでは,これまで部族による反乱を含めクルド人による激しい反政府武装闘争がありました。これに対し,確かにイランでも,先ほどお話しした第二次世界大戦の頃や,あるいはイラン革命からイラン・イラク戦争期といった,政治的に流動的な時期にはクルド人による自治要求運動が高まりました。ただ,トルコ・イラクのクルド人の運動に比べると,それほど根強いものではありませんでした。

これは,ひとつには歴史的な経路が違うことに由来していると思っています。トルコやイラクが第一次世界大戦後オスマン朝が倒れた後に出来上がった国であるのに対し,イランの場合は16世紀以来500年ほどの長い時間をかけて政治統合が図られてきました。そのことが,現在のイランにおけるクルド人の統合にとって大きなメリットになっているのではないかと考えています。

帝国による統合政策がうまくいく場合とうまくいかない場合の違いはなにか,というのはなかなか難しいですね。論文ではオスマン朝による対クルド政策との比較を意識しながらイラン系王朝による統合政策を論じましたが,オスマン朝の政策も決してうまくいっていなかったわけではないとは思うんです。ただ,イランの場合とはやり方が違っていたということです。

オスマン朝の場合も,比較的小規模な王朝だった15世紀頃までは征服地域の在地の有力者の子弟を宮廷に連れてきて,養育したり,あるいはなんらかの官職を与えたりしています。つまり,在地勢力をある程度温存しながら緩やかに体制内に取り込むということは,イラン系の王朝のみならず,オスマン朝も当然やっていたわけです。

オスマン朝がクルド地域を統合するのは16世紀以降ですけれども,その時期になってくると,もうかなり集権的な支配体制をもつ巨大な帝国になっていましたので,中央から有力な軍人政治家をクルド地域各地に地方総督として派遣し,その権威の下で在地のクルド系地方領主を統制するということをやるんです。

そうすると,常にというわけではないのですが,しばしば両者のあいだに緊張関係が発生します。要するに,中央からやってきた総督はできるだけ押さえ込みたいと思うし,クルド系領主たちはできるだけ介入されたくないという,そのせめぎ合いです。18世紀頃にどうなっていたかはまだ十分に明らかにされていませんが,これまで知られている16〜17世紀あるいは19世紀以降の状況を見る限りでいえば,中央から送られてきた総督と在地の領主との関係がうまくいかないこともあったと思います。在地の領主にとってみれば,中央からやってきたエリート軍人が自分たちの縄張りに過度に介入しているという感覚があって,それが反発を生んだということだと思います。

その後,19世紀になりオスマン朝が近代化と中央集権化を進める過程で,クルド系在地領主たちは統治権をすべて奪われてしまいます。日本における廃藩置県と同じような政策がとられたわけです。このとき,政府による強引な集権化に対してしばしばクルド系領主たちによる反乱が起こります。他方,同じ頃イランでも,オスマン朝の場合と同じようにクルド系在地領主の家系が知事職を奪われますが,地元の権力構造自体はある程度温存しながらやったので,表面的にはそれほどの反発はありませんでした。

岩﨑 イランのほうが緩いと。

山口 どこまで一般化できるかわかりませんけれど,イランのクルド地域の場合はそういう形で地方統治が行われました。19世紀半ば以前では,原則として中央政府の側から総督が派遣されることはなかったので,在地社会の側に不満があれば地元の有力者たちが宮廷つまり中央政府に請願や陳情に出向きました。サファヴィー朝の場合だったらイスファハーンに,カージャール朝時代になるとテヘランに出掛けていって,宮廷でいろいろ画策するんです。そういう中央とのパイプというのは常にあったので,わりとうまく機能したのではないかと思います。

ロシア帝国主義とシオニズム

岩﨑 鶴見さんのご著書『イスラエルの起源』(講談社,2020)も読ませていただきました。いろんなタイプのユダヤ人,シオニストが登場する大変面白いご本でした。帝政ロシアの枠組みのなかで,ロシアとユダヤの両方のアイデンティティーをもちつつ,自分はこの広大な農奴の国でもっとも西欧的・先進的なものを担っているという自負をもったインテリの姿というのは,とても印象的でした。

このようにマイノリティが先進的な文化の担い手として活躍するという話は,たとえばオスマン朝やサファヴィー朝におけるキリスト教徒のように,近世以前からわりとあったと思います。さきほどの山口さんのお話とも重なるところもありますが,マイノリティをある意味うまく重用して,得意な分野で活躍させるというやり方は,ある一定の時期まではうまくいく。しかし,それがだんだん排外的な民族主義と相容れなくなっていく過程が「近代」なのかなという気がしています。そうすると,近代化とか国民国家の枠組みに限界があるということになるのでしょうか。

鶴見 第一次世界大戦前まではわりと経済の論理というのが優位にあって,ユダヤ人も時に迫害されつつも存在感をもっており,そのことを周囲も一部認めていたというところがあったとは思います。しかし,経済構造の変化によって,その役割が低下しました。これはユダヤ人がどうにかできることではありません。あとは,国民国家化の結果として排除されたというよりは,国民国家化は結果であって,その前段というのが重要ではないかという気がするんです。

先ほど第一次世界大戦と言いましたけれども,とくにロシアの場合はそれに革命がつながって,数年にわたる内戦が起きました。その混乱と,ユダヤ人(だけではないのですが)に対する暴力が非常にまん延していた時期です。今日的にいえばセキュリタイゼーションというか,そういう雰囲気が出てきてしまった。

つまり,経済の論理でうまくやっていたところに,恐怖など別の要因が上回ってしまった。軍事とか安全保障というのは,どうしても敵と味方を明確にする性質がありますが,その論理が圧倒してしまった結果として,国の枠組みでいえば国民国家みたいなものが強調されるようになりました。マイノリティが排除されたり,あるいはマイノリティ自身も敵と味方を結構はっきり分けたりするようになってしまったところもあります。とくにそれをやったのがシオニストでした。

拙著で出てくるユダヤ人はロシア帝国主義者でもあります。つまり,自分にとって都合のいい枠組みは守ろうとするけれども,ロシアとユダヤの同盟関係から外れる人たちに対しては冷たかったりします。ですから,帝国に戻ればいいということではなく,そこには危険性もあります。ただ,今から振り返ってみると,少なくともひとつの民族に一本化しなくても,お互いにうまくやっていけたメカニズムというのはあったので,(その限界に注意しながら)そこを追求していくことが,今後の世界的な課題になるんじゃないかという気がします。結果として国民国家化が先鋭化しないためにはそこが鍵になるのではないでしょうか。

岩﨑 ご著書には,ロシア革命と前後して各地にユダヤ人排斥の動きがあってポグロムが起こり,その試練の下で,時代の潮流としてイスラエル建国という話が出てきたとありました。ロシアのユダヤ人がポグロムのような試練に耐えながら,それでもユダヤ人であり続けようとした背景はなんだったのでしょう。民族問題の本質に関わるところかもしれませんが,一体どんなメリットがあったとお考えでしょうか。

鶴見 これはたぶん語り出したらもう何時間もかかる話だとは思うので(笑)ごく断片的に。これは世代差もありますが,経済の役割を担っていたことが実感できていた世代の人たちは,その記憶が続いていたということがあると思います。ユダヤ人だからこその役割がロシアにある,という記憶です。あとは,わりと月並みなことですが,やはり家族とかコミュニティとか,そういうつながりで暮らしている以上,簡単に自分個人としてユダヤ人をやめるというのは,実際問題難しいですよね。

もちろん同化するという選択肢も考えられるわけです。しかし,同化したところで二級市民扱いにとどまるとシオニストは強調します。これは実際真実でもあったと思うんです。結局,本当のロシア人として扱ってもらえることはないんだということですね。ですから頑張って同化するメリットがあまりないわけです。ユダヤ人にとどまるメリットがなにかというよりは,ユダヤ人をやめることのメリットがあまり感じられないというのが,おそらく普遍的にある気がします。

今井 先ほど鶴見さんがお話しされていたセキュリタイゼーションという分野・手法は,私も非常に興味をもっています。マイノリティはもちろん,移民や難民も,自分たちと他者を分けてしまい,それによって差別が生まれたりします。一方で政治活動においては支持者を獲得したりと,ある意味では非常に有効に機能するので,さまざまな場面で使われていますね。

コロナ禍での研究と今後の展望

今井 だんだん時間もなくなってきましたので,私から皆さんに2点ほどお伺いしたいと思います。ひとつは,コロナ禍でなかなか海外に行けない現在の状況下で,ご自身の研究手法になにか変化はあったかということ。もうひとつは,今後どのような方向性で研究を進めていきたいか,という点です。

鶴見 まずコロナ禍という状況では,文書館資料を中心に研究している歴史学者は,文書館に行けないとなるとかなり厳しい状況だと思います。ただ,先ほどお話ししたように私自身はおもに定期刊行物を使っていて,とくにヘブライ語の定期刊行物はかなりオンライン化されていますので,幸いにしてコロナ禍であっても研究を続けられています。

今後の研究に関しては…… 現地やその図書館などに行けないので,新規開拓みたいなことがなかなか難しいですよね。臨機応変に研究するということがやりにくくなってきていますので,今まで以上に資料の一つひとつをじっくり読み込むという方向になっていくのかなと思っています。あまりいろんなものを勝手に読み込まずに,虚心坦懐に資料と向き合っていきたいです。拙著で自己の側面というか,個人のなかの多様性に光を当てるということを試みましたが,その意味で一人ひとりを丁寧に見ていくという方向です。私が研究している激動の時代,つまり第一次世界大戦が終わって,ロシア革命が起き,そしてソ連崩壊があったという時代に人々がどう生きていたのかを,丁寧に見ていきたいなと思っています。

山口 私も基本的に歴史学が専門ですので,史料を読んで分析して仮説を立ててという作業が研究の中心です。史料といっても図書館や現地の文書館に入っているものもあれば,校訂されて刊行されているものもありますし,いろいろです。いずれにしても,読み切れないほどの相当量の史料が手元にありますので,今すぐに新たな史料を探しに行かなければいけないという状況ではありません。ただ,基本的に史料を相手にしていても,現地を歩くというのはやはり非常に重要です。町や村を訪れたり,景観を確認したり,道路網がどうなっているのか,あるいは古い建築物がどういうなっているのかを見ることも,研究上の大事な作業です。

そういうわけで,現地に行くと町のそばにある山など高いところに登って,町を鳥瞰図的に見るのが好きです。イランではよくあることですが,そのために治安当局に一時的に捕まったりということも何度かありました(笑)。勝手に山に登るのは最近ではあまりやっていませんけれど,できるだけ町などを歩き回るようにはしていますので,それができないのはとても残念です。

今後の研究ですが,私自身は元々,現代の民族問題や民族主義運動への関心からクルド研究に入りましたが,当時はクルド地域に関する歴史研究があまり進んでおらず,前近代からの歴史的な経緯がどうなっていたのかということがあまりよくわかっていませんでした。非常に大ざっぱにいえば,19世紀までは在地領主のような存在がクルド地域各地にあって,家臣団として多くの部族集団を従え,それぞれ特定の所領を支配して,オスマン朝なりイランの王朝から一応支配を認められていましたが,19世紀の近代化で彼らも統治権を奪われていった。それに対する反発として反乱が起こり,それがだんだんナショナリズム運動にもつながっていったというのが,よくいわれる通説です。

しかし,19世紀以前が本当はどうなっていたかというのは,あまり研究がないんです。オスマン朝に関してはそれなりに研究があって,16世紀以降の流れというのはそこそこ辿れるんですが,イランに関してはごく限られた研究しかなかった。そういうわけで,イランのクルド地域がどういう歴史的変化を辿ってきたのかということを研究し,自分なりに納得したいと思ったわけです。そのため,いったん前近代にまでさかのぼってクルド地域の権力構造や中央政府との関係を確認し,それらが近代になってどう変化し,さらに現代につながってきたのかを自分なりに考えてみたいということでもう20年以上,研究をやってきています。

ですから,今後も基本的にはその方針で研究していくつもりです。中央との関係がどうなっていったのか,あるいは在地のクルド社会自体がイランという政治空間に組み込まれるなかでどう変化していったのかといったことを研究していきたいと思っています。それをなんとか19世紀,あるいはそれ以降の歴史にうまくつなげられればと考えています。

今井 もし大きな物語の理解が進んだら,また現代に戻ってこられるという可能性もありますか。

山口 年齢的なこともありますしわかりませんけれど,個人的には20世紀の,たとえば戦間期などに関心があります。最近でも,たとえば鶴見さんがさかんに研究されていらっしゃると思うんですけれど,ただ,一般的には戦間期の中東地域を研究している人はかつてほどにはいないように思います。しかし,近代と現代をつなぐ非常に重要な時代だと思っていますので,そのあたりまでは自分の研究をつなげていければとは思っています。

立花 私自身は現代を研究していて,基本的にはニュースを丹念に読むというところからスタートしているので,文字ベースの情報の解釈に注力することになると思います。しかし,やはり現地に行って人と会って話を聞き,情報を組み合わせることでつかめることもありますので,現地に行けないという状況には(影響があるかどうかはともかく)かなり不安を感じています。

すでに以前会ったことがあって,お互いすぐにコンタクトを取れる人に対してはオンラインで話を聞くことは不可能ではないのでしょうが,新規開拓はちょっと難しい。その意味でいうと,たとえば別の人に追加で話を聞きたいなとなったとして,以前なら「ちょっと別の人も紹介してもらえませんか」ということができましたが,オンラインではそれがちょっと想像できなくて,非常に困っています。

今できることをやるしかないのですが,やはりできるだけ早く現地に行きたいという思いはあります。去年,第二次ナゴルノ・カラバフ紛争がありましたが,あのときは現地に行けたらとすごく思いました。積年の恨みをアゼルバイジャンが晴らしていく状態だったので,現地の状況を見ておきたかったですね。

今後の研究ですが,私自身の関心としてより政治研究というか,政治学の研究に軸を置いていきたいと思っています。ここ最近はとくにそういう方針でさまざまな調査を続けてきました。アルメニアやジョージアに行って政治関係者と話をしたりといったことをやっていたので,それを形にしていきたいと思っています。

軸としては,旧ソ連地域ではやはり「権威主義体制の維持」がかなり大きなテーマになります。アゼルバイジャンは世襲という形ですんなりと大統領職が継承されましたけれど,アルメニアやジョージアでは,ある程度ルールに則った形で権力を維持したいと考えた時の政権が,大統領制から議院内閣制にシフトさせて,それで任期の縛りのない首相職に大統領がスライドすることで権力を維持することをねらって,いずれも失敗するという形に終わりました。執政権の憲法上の変更と権威主義体制の維持という関係について比較研究していければと思っています。

今井 私もトルコへ行けば1~2日で終わる話が,オンラインだと1カ月ぐらいかかったりと,オンラインで人を動かすのはなかなか難しいなということを痛感しています。

私から最後にひとつだけ質問です。最近はシリア内戦でクルド問題に光が当たったり,第二次ナゴルノ・カラバフ紛争でアゼルバイジャンやアルメニアが取り上げられたりしました。今までクルド,アゼルバイジャン,コーカサスといったところの研究にはそこまで多くの人が参入していなかったわけですが,もしかしたらこれらの地域に興味をもつ若い人がこれから増えるのではないかと思います。一方,中東に関していうとイスラム国はインパクトはあったんですが,それによって研究者になろうとか中東へ行こうという人は逆に減ってしまったかなというイメージです。

今後,自分たちの研究分野に新規参入してくる若い研究者が多くなっていきそうな気配があるのか,それともだんだん少なくなっていきそうのか,こんな風にすると研究者が増えるんじゃないかなど,考えていらっしゃることがあったら教えていただけますでしょうか。

鶴見 私に関連する分野でいうと,イスラエルは昔から細々と続いている感じはありますが,パレスチナ研究なども含めると,やっぱり減少傾向にあると思います。ロシア研究ももちろん減っています。どういうふうに盛り上げていくかとは,ずっと考えてはいて,まずは興味をもってもらうことに注力することが非常に重要だとは思うんですが,もちろんこれは当時の情勢次第ではありますね。

ひとつは,地域研究は興味をもつだけではできないところがあって,一番の壁はやっぱり語学ですよね。ここで挫折する人が多いと思います。最近は博士論文にしても期間をどんどん短くする傾向にあって,なかなか悠長に語学の勉強をしていられない。だから,そこを支援できるといいのかなというのは素朴に思います。それこそ外務省に入ったら語学の研修をするぐらいの感じで「よくぞこのマイナー言語をやろうとしてくれた」といった感じで支援する。その期間の生活のためになにかしら物理的(金銭的)にも支援するとか,そういう方向のインセンティブができれば変わるのではないかと思います。

非常に難しい問題ですけれど,なにを支援するかということでいえば,興味をもってもらうための企画は本当にたくさんやられてきたことなので,新たにやるとしたらそこかなという気がします。

立花 語学は私自身も本当に苦労したので,鶴見さんのお話を聞いてそういった支援があるといいなと思いました。語学についていうと,今オンラインでいろんなものが受けられる状態にはなっていて,たとえば東京外大の語学の授業などがオンラインで開講されています。そういったものが利用できる環境にもなっていますね。

私自身はアゼルバイジャン語を教えてくれる人がいなかったので,まずトルコ語の勉強会とテュルク諸語講読会に参加して勉強した後に,アゼルバイジャン語の教科書で一人で独学というような形でした。みんなで勉強し合えるような仕組みがオンラインでもあれば,モチベーションの維持はかなりできると思います。私自身は一人でずっと厳しい勉強の日々を送ってきましたので……(笑)。

山口 とくに付け加えることはないですが,クルド研究に限っていえば,関心をもつ若い人が以前に比べれば出てきていますので,好ましい傾向かなと思っています。しかし,全体的に見れば中東研究の分野で大学院に進む人はおそらくどの大学も減っていると思いますので,将来的には少し心配な状況ですよね。なかなか妙案はないのですが…… 岩﨑さんもそうだと思いますが,われわれはいわゆるバブルの世代でもあり,大学院への進学にともなう将来的な不安があまりなくて,まぁなんとかなるだろうという感覚で大学院に進んだように思います。実際はともかくとして,大学院に進学した時点では,将来,就職に苦しむかもしれないといった不安はあまりなかった。つまり,大学院に進むときの心理的ハードルがそれほど高くなかったわけです。今は,大学院への進学ないしは研究者を目指すにあたって将来への不安感が相当あるので,そこのところをうまく緩和できるような手段があればと思います。

今井 本日は長い時間お付き合いいただき,ありがとうございました。

岩﨑 ありがとうございました。

 
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