アジア経済
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書評
書評:橋本彩著『ラオス競漕祭の文化誌――伝統とスポーツ化をめぐって――』
めこん 2020年 viii + 286ページ
園江 満
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2021 年 62 巻 4 号 p. 122-126

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Ⅰ はじめに

「ラオス地域研究」というものがあるのかといえば,評者はそれに少々懐疑的なところだが,本書は間違いなくその新地平を拓く秀作と呼ぶに相応しい。

ラオスでは,1990年代末頃までフィールドワークを含む現地調査にかなりの制約があったものの,ここ10数年の間にこの地域に関する研究の裾野は急速に広がりをみせている。本書は1950年代にフランスの民族学者シャルル・アルシャンボーによって行われた競漕祭の調査記録を敷衍して批判的検証を行い,国民国家形成の過程でこの競漕祭が伝統行事と位置づけられる一方,村や職域対抗のスポーツ化していくという対立をはらんだ様相を新聞資料の駆使と関係者への緻密な聞き取り調査によって深みと厚みをもって描き出しており,近年のラオスにおける研究の多様な成果を消化したうえで,新たな視点を与え,「ラオス地域研究」の確立に貢献している。

競漕祭は龍舟による競渡を伴う祭礼を総称したもので,ユニバーサルな「化け物」である龍を水神として祀り,インド亜大陸以東のラオスを含む東南アジア大陸部から中国を経て沖縄のハーリーや長崎のペーロンまで広がる地域を超えた文化と信仰に支えられている。

本書は,「伝統とスポーツ化」という視点からラオスの競漕祭が国民国家のアイデンティティ形成に果たした歴史的役割を明らかにするとともに,エスノグラフィー的手法によって近年の競漕祭の姿を克明に描き出すことに成功しているが,前者については矢野[2021]によってすでに十分な考察が行われており,評者の守備範囲は比較文化論にあるため,ここでは書名である「文化誌」としての検討を試みたい。

Ⅱ 本書の構成と概要

本書は,2014年10月に著者が早稲田大学大学院人間科学研究科に提出した博士論文「ラオス競漕祭における『伝統』と『スポーツ』の関係――ヴィエンチャンの事例から」に加筆・修正したもので,本文を3部6章に再構成し,巻末には調査地等にかかわる詳細資料が添付されている。以下では,紙幅の都合上ごく手短に各章の概要をみることにする。

「はじめに」に続く序章は,「スポーツ人類学における競漕祭研究の意義と目的」となっており,競漕祭にみられる「伝統」と「スポーツ」の関係についてディシプリン面とラオス語(注1)から基本的理解の枠組みを示すとともに,アジアの競漕祭文化を俯瞰し,先行研究が検証されている。また,本書の舞台であるヴィエンチャンの歴史・文化等の背景について12の慣習「ヒート・シップソーン」と舟の精霊という重要な世界観が提示される。

その後第1部の「フランス植民地の影響下で創造された競漕祭」として第1章「ラオス刷新運動期の競漕祭とスポーツ(1893年~1945年)」では,「大ラオス」文教政策のもとでの伝統・文化の復興とスポーツ振興の状況を,ラオス語初の新聞『ラーオ・ニャイ』紙を史料としてその内容分析から明らかにすることを試みている。

第2章の「競漕祭に付随する儀礼と守護霊の召喚(1953年~1964年)」は,1945年以降史料の断絶のあったなか,1953年に完全独立を果たしたラオスで刊行されたばかりの『ラーオ・プレス』にも掲載された競漕祭を含む祭りの調査結果をはじめとするアルシャンボーによる儀礼研究を精査し,そのなかでは言及されていない守護霊召喚のテキストについて着目している。そして,そのテキストの編纂に少なからぬ影響を与えた人物として,ラオス刷新運動(ラーオ・ニャイ)を推進したペッサラート副王の個人秘書であり,ラオスの文芸・文化の復興に大きく貢献したマハー・シラー・ヴィラヴォンの存在を看破し,ラオス側における研究成果を踏まえ「伝統」を創成する役割を果たしたと洞察する。

第2部「王国から社会主義へ移行した激動期の競漕祭」第3章「伝統スポーツ概念の登場(1965年~1974年)」では,1963年創刊の『サート・ラーオ』紙を中心とした考察を行っている。ここでは,現代ラオス社会においてもラオスの伝統と認識される「12の慣習と14の規律」(ヒート・シップソーン・コーン・シップシー)に挙げられる伝統行事のひとつとして競漕祭が扱われる一方,スポーツとしての認識が広がったことで,1971年に「伝統スポーツ」(キラー・パペーニー)の表現が紙上で採用された(115ページ)ように「スポーツ」と「伝統」は対立するものではなかったと分析している。

第4章「団結と国家繁栄のための競漕祭(1975年~1999年)」は,ラオスの社会主義革命以降,タイとの関係改善を企図する友好競漕祭を経て,ラオス観光年である1999年までの『ヴィエンチャン・マイ』紙の記事から競漕祭を読み解き,観光資源や国際的競技としての性格が付与されたことを指摘している。とくにこの期間は,スポーツとしての健康や娯楽としての要素と,伝統のなかで団結を表現する手段として国内外へ結束を示すことが要請され,伝統行事であると同時にスポーツ種目でもあるという使い分けが形成されてきたとみる。

第3部「21世紀の競漕祭における伝統論争」第5章「伝統をめぐる地域間の駆け引きと舟に集約される『伝統』」においては,引き続き『ヴィエンチャン・マイ』紙の分析に合わせて著者のフィールドワークから得られた知見によって,ヴィエンチャン平野における競漕祭の民族誌的成果が明らかにされる。

そして,続く終章「考察と展望」では,本書に示されたスポーツ化と伝統化の考察に加えて,1827年のシャムの侵攻からフランスが入植するまで廃墟であったヴィエンチャンにおける競漕祭の変容は,中部のサヴァンナケート等の事例との比較が必要であるとの課題が示されている。

Ⅲ 「創られた伝統」と本書の問いかけるもの

かつて,土屋健治はインドネシア上流の人々の応接間に飾られた風景画からそこに描かれるノスタルジアと「共同体」意識誕生の旅路[土屋 1991]を綴ったが,本書の口絵にある年中行事図は,ラオス家庭の居間や応接間あるいは役所やホテルの玄関ホールなどで目にする半ばステレオタイプな「ラオスの原風景」であり,この遠景には競漕祭の様子をみることができる。ここに描かれた文物は本論考を読み解く鍵のひとつである「12の慣習と14の規律」(ヒート・シップソーン・コーン・シップシー)と呼ばれ,仏教的世界観を中心としたラオスの「代表民族」であるラーオ族の伝統的な行事・慣習を伝える際の核となる概念であると同時に,シャムや清などの隣国とイギリス・フランスという植民地宗主国との間で他律的に領域が確定された多民族からなるラオスという共同体を表象したものといえる。

ラオスの礎となったラーンサーン王国においては,1527年にポーティサラート王によってピー(精霊)信仰禁令が出され上座仏教振興策がとられるが,当時すでに土着のピー信仰に加え,クメールの影響を受けたインド化(サンスクリット化)は相当程度に進んでいたと考えられる。この後に形成された文化の三層構造は,現代に至るまでこの地域における精神生活と社会規範の基層として人々の暮らしを規定し続けている。

ラオスの「伝統」や「慣習」にはこれらの分かちがたい複合あるいは混淆があるため,「ヒート・シップソーン」の概念にしても,どの行事をもって「12の慣習」とするのかは厳密に定義されているとは言い難い。この概念定義に対してラオス的アイデンティティを付与するうえで大きな貢献を果たしたと考えられるのは,先に挙げたマハー・シラー・ヴィラヴォンであるが[Phǭnkasɶmsuk 2006],彼自身年間12カ月の各月に複数の行事を挙げており「ヒート・シップソーン」(12の習慣)は12にとどまるものではない。

「12の慣習」の定義についての曖昧さはそれに言及する随所にみられ,たとえば,外国人の入国制限等に対しても開放政策がとられ始めた時期に刊行された『ラオスの遺産――ラオスの古き慣習篇』[Phūangsabā 1992]には,「ヒート12」の節で旧暦11月の行事として,僧侶が寺院にこもる安居が明けることと競漕祭の両方が記載されている。ここでは,安居明けの説明に多くの文字数が割かれるのに対して,競漕祭については「長い舟(ファ・ニャーオ)を競う伝統行事も4催される」(傍点評者)という簡潔な記述にとどまることに留意したい。このことは,競漕祭同様にラオスに仏教がもたらされる以前から行われていた旧暦6月のロケット祭り(ブン・バンファイ)が詳述されているのと対照的であるが,本書においてはこの頃以降になって競漕祭の「伝統行事」性が政府によって強調され始めたことが指摘されている(141ページ)。

本論考では,「伝統」が重要なキーワードとなっており,ラオス語の伝統や慣習を意味する語である「パペーニー」のほかに著者は類語として「タムニアム」(慣習・風習),「ヒートコーン」(慣習・法・慣例),「ベープペーン」(伝統・慣習)をそれぞれ挙げている(17, 69ページ)。タムニアム・ベープペーンと較べてパペーニー(プラペーニー)およびヒートはそれぞれパーリ語(paveṇi/cāritṭa)あるいはサンスクリット語(praveṇi/ṛita)に起源をもつことは明らかであり,矢野の教示に基づく「パペーニー」が1940年代以降の新語との可能性(69ページ)についてはにわかに首肯し難いものの,ラオスやそこに住むラーオ族の「伝統」を表現するにはいささかの「抹香臭さ」が否めないといえる。

「創り出された伝統」という概念はホブズボウムによって提起されたが,そこでは「『伝統』というものは,いわゆる伝統社会を支配する慣習(カスタム)とは明確に区別されなければならない」ものであって,「近代『国家』を主観的に作り上げたものの大部分は,そうした(「伝統」的な)構築物によって成り立っている」とされる[ホブズボウム・レンジャー編 1992]。

水田稲作がラオスの「伝統」であるという説を否定的にとらえ,生産の技術やその文化的背景を追っている評者の立場からすると,ラオス社会が近代を経ずして現代に至っているといえるが[園江 2000ほか],そこにはラオス社会全般やアカデミズムにおいて,研究や現地調査の際にみられる慣習や伝統を含む歴史や言説に対する批判的検証が脆弱であるということが含まれている。

首都ヴィエンチャンは,2010年に遷都450年を迎えたが,実際には著者の指摘するとおり1900年にフランス領ラオスの首都が置かれるまで100年近くにわたり廃墟だったのであり(43~44, 216ページ),現在ヴィエンチャンに住む多くの人々が,厳密な意味でのラーオではなく19世紀中頃に南下してきたシェンクアーン地方を故地とするプアン(注2)である(197ページ)という民族的出自は,ヴィエンチャン再興を担った人々が何らかの主観をもって「ラオス」の伝統をも創り出した可能性を示唆している。

「ヒート・シップソーン」における「ラオスの伝統」の表現するものは,マハー・シラー・ヴィラヴォンの企図した多民族からなる国民国家のアイデンティティはもとより,ヴィエンチャン再興によりもたらされたものを含み,実際にはラーオの文化とは明言できない原初的で多様な郷土愛にも似た「ラオスらしさ」の拠り所を仏教的規範にも求めたものであったかもしれない。これは,競漕祭が仏教や国民国家建設のはるか以前からこの地域の文化的基層として存在していたという事実によって暗示されている。

本書のなかでは触れられていないが,東南アジアにおける青銅器の代表として有名な銅鼓に描かれた長い舟に乗るバードマン(羽人)と呼ばれる人の文様は,ラーオを含むタイ系民族がこの地に移動してくる以前にここを版図とした先住民たちの多民族間関係の紐帯を示すものと考えられ,否応なく今日の競漕祭を彷彿とさせる。銅鼓の文様は,競漕祭がこの地域における文化の残存であるということを示唆するもので,このこと自体は著者が別の機会に発表している(注3)ところでもあり,決して目配りを欠いているわけでないことは承知しているものの,文化誌という観点からはこの「伝統」を地域としてのラオスの歴史を物語る文化要素として今一度検討することがあってもよかったのではないかと思う。

また,第2章に示された儀礼における文言の分析では,仏教との関連とラオス人の伝統文化の再生に主眼が置かれているが,評者の関心に照らすならば,著者が翻訳・校注を行っているアルシャンボーによる守護霊の召喚句テキストに登場するナーガ(龍)の眷属たちの存在が大変興味深い。

本稿の初めで言及したように,龍はアジア地域のみならず世界中の神話や説話に登場し,こと仏教においては水を司る護法善神でもある。ラオスでは,メコン河が龍王(パニャー・ナーク)に比定され,一般には「ナーク」(nāk)というサンスクリット語起源の呼称からこの地域の龍神信仰はインド化の所産であると考えられている。しかしながら,タイ系民族は現在の中国西南部から川沿いに南下して版図を拡大したとされており,暦などにみられる中国の文化的アイコンとしての龍を示す「マンコーン」(mangkǭn)の語をもつうえ,龍舟の分布がおもにインドシナ半島以東に広がっていることからも,インド化や後の仏教の普及とは異なる中国の影響を受けた文化的系譜が存在している。その一方で,競漕祭と思しき文様の残された銅鼓に龍紋が確認されたという報告はなく[松本 1965 ほか],民族の移動と交流の歴史のなかで舟と龍がどのように絡み合って競漕という祭礼を成立させたのかについて,ナーガたちが何か物語ることはないのだろうか。

Ⅳ まとめ

ラオスは社会・経済開発の方向性のひとつとして観光に主眼を置いており,4月中旬のルアンパバーンにおける「ラオス正月」の一連の伝統行事は,王都の安寧を祈願するとともに,先住の民と王権の関係を確認する意味をもつ賀茂祭(葵祭)に比定できる行列が山場であり,これが近年外国人観光客に熱狂的ともいえる人気を博している。

競漕祭に関しては,ヴィエンチャンとルアンパバーンでは約1カ月の間をあけて行われ,両地とも,まだどちらかといえば国内向けの行事ではあるものの,スポンサー付きスポーツイベントの様相は年々色濃くなっており,観光資源としても注目されていくことと考えられる。その一方では「伝統行事」として,日本における「国技」である相撲を担うべきとされる横綱に対する根強い「スポーツとしてとらえている」との批判的論調と同様の相克をみることができる。ルアンパバーンの調査については,おそらく本書を踏まえたうえで,遠からぬ日に新しい知見を目にする機会を得るだろうが,そこでは「伝統とスポーツ化」に加え「伝統と観光化」という展開も可能ではないだろうか。

文化誌としての評価をしてみると,いくつかの課題や期待が残されていない訳ではないが,それは本書がラオス研究の専門図書として一流の基本文献であるという価値に疵を求めるものでは全くない。むしろ著者が調査していながらここでは語られることのなかったルアンパバーンや南部といったラオスの領域を超えて,民族移動の歴史やカルチュラルスタディーズへの可能性を秘めた本論考は,この先に競漕祭の広がる世界を描き出そうとする野心さえもうかがえる著作として,新しいラオス地域研究の嚆矢といえるのである。

(注1)  本書の著者は「ラオ語」と表記しているが,評者は現在のラオス人民民主共和国憲法に規定する同国国語および国字を使用する言語については,東北タイなどで話されているものと区別する立場をとっているため,ここでは「ラオス語」と表記する。

(注2)  ラオスにおける民族分類では1995年の『第2回国勢調査実施手引き』以降,現行の公式50民族分類(2018)に至るまでラーオとして扱われている。

(注3)  第21回雲南懇話会(2012年4月14日)における「水の神:龍・ナーガに捧げる競漕祭と稲作文化――アジアにおける拡がりとラオスの現状――」(https://www.yunnan-k.jp/yunnan-k/attachments/article/564/20120414_21_03_hashimoto_projector.pdf)など。

文献リスト
  • 園江満 2000.「タイ文化圏から見るラオスの社会と文化——地域と近代の相克——」『IAM-e マガジン』(21):1-14.
  • 土屋健治 1991.『カルティニの風景』めこん.
  • 松本信広 1965.「古代インドシナ稲作民族宗教思想の研究——古銅皷の文様を通じて見たる——」松本信広編『インドシナ研究 東南アジア稲作民族文化綜合調査報告(1)』1-160.有隣堂出版.
  • ホブズボウム,エリック,テレンス・レンジャー編 1992.前川啓治・梶原景昭他訳『創られた伝統』紀伊國屋書店.
  • 矢野順子 2021.「(書評)橋本彩『ラオス競漕祭の文化誌——伝統とスポーツ化をめぐって——』」『東南アジア研究』58(2): 287-290.
  • Phǭnkasɶmsuk, Kidǣng 2006. Vatthanatham Lāo kīaokap Kāndamlongsīvit tām Hīt 12 Khǭng 14[12の慣習と14の規律に沿った生活に関するラオス文化]. Vientiane: Hǭ-samut hǣng Sāt.
  • Phūangsabā, Ph. 1992. Mǭladok Lāo sut Phaphēnī Lāo Būhān[ラオスの遺産―ラオスの古き慣習篇]. Vientiane: Samnak-phim lǣ Chamnāi-phū’m hǣng Lat.
 
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