2024 年 65 巻 1 号 p. 66-69
農業経済学の泰斗セオドア・シュルツ(Theodore William Schultz)は,工業化の初期段階において,人口および所得の上昇につれて増大する食糧(主食物)の需要に供給が追い付かず,食糧価格の上昇が賃金の上昇をもたらして工業化・経済発展そのものを制約することを「食糧問題」と呼んだ[シュルツ 1958; 速水 1986, 19]。2007~08年に世界的な食糧危機が発生した際には,世界各地の凶作という突発的な要因に加え,アジアを中心とする新興国における食糧需要の増大という構造的な要因があった。そのため,国連の食糧農業機関(Food and Agriculture Organization: FAO)は2009年に “How to feed the world in 2050” というテーマを掲げるなど,将来の食糧危機に警笛を鳴らし続けている。
シュルツが指摘したように,工業化を図ろうとする国・地域の多くが「食糧問題」を経験してきた。日本もそうであった。日本はいわゆる「松方デフレ」が収束した1880年代後半に,持続的な経済成長の局面に入り,一人当たり食糧需要が増大した。さらに,人口増加と主食構成における米食比率の増大によっても米の需要が増大し,1890年代には日本は米の輸入国となった。政府は社会不安や賃金上昇につながる米価高騰を回避するため,当初は東南アジア大陸部から米を輸入した(外米依存政策)。しかしながら,第一次世界大戦後に米の輸入の不確実性が高まると,植民地(台湾・朝鮮)における米の増産と移入を組み込みながら(帝国自給政策),1930年代初頭に米の「自給」を達成した。こうして,日本は女性・子供も含む低賃金労働力を武器に,工業化に成功した。こうした近代日本の「食糧問題」の展開は大豆生田[1993]にて実証的に解明された。その著者が,米不足を補填する食糧として位置づけられた小麦について検討したのが,本書である。
本書の目的は,1920年代から1940年前後に至る時期を対象に,日本の小麦輸入について検討することにある。著者は,小麦の需給を議論してきた先行研究について,日本の小麦・小麦粉貿易が北米(アメリカ・カナダ),豪州,東アジア(日本・中国関内,満洲)からなる「環太平洋」で行われていた点が見落とされてきたと指摘し,この問題点を克服するために三つの課題を設定する。第1の課題は,1920~30年代における日本の小麦需要のあり方を,北米・豪州など輸出側の条件と,東アジアという輸入側の条件をふまえて解明することである。第2の課題は,北米・豪州産の小麦・小麦粉の輸入,日本の小麦粉の中国・満洲輸出を実際に担った日系商社(おもに三菱商事シアトル支店)の取引活動について,1920年代から1941年の資産凍結前後に至るまでの間における具体的な取引方法とその変化を明らかにすることである。第3の課題は,1941年に外麦(帝国外地域で生産された麦)の輸入が途絶するまで対外依存を払拭できなかったことについて,食糧需給の側面から小麦輸入の特質を検討することにある。
第1の課題は,第1章~第3章で検討される。第1章では,1920年代を対象に,北米産小麦が東アジアへ輸出される過程が描かれる。アメリカ小麦は第一次世界大戦期に欧州への輸出を伸ばしたが,欧州の戦後復興と保護関税政策によって不況に陥り,その打開策として東アジアへの輸出が拡大した。東アジアではやはり大戦を契機として食糧需要が増大しており,小麦粉への需要は各地で製粉業の発展をもたらし,その原料として安価なアメリカ小麦が歓迎された。日本では,麦作農家と製粉会社の利害を調整するために,輸入麦に対しては保護関税を賦課する一方,輸出用小麦粉の原料に用いる輸入麦の関税を払い戻す「戻税制度」を設けることで,「内需内麦,外需外麦」の原料構造が形成された。米不足が東南アジア・日本植民地からの輸移入によって補填されたと同様,米不足を補う小麦もまた北米や豪州に依存する構造が形成された。
第2章では,1930年代初頭~日中戦争開戦前後の時期を対象に,北米・豪州小麦が東アジア市場に進出する過程が検討される。このうち,アメリカ小麦については,世界恐慌への対応として米国政府が農産物価格維持政策を採用したため,アメリカ小麦は国際競争力を失って東アジア市場から退出し,代わって豪州小麦の輸出が増大した。日本では昭和恐慌への対応のために小麦増産政策が進められ,1930年代半ばには自給を達成した。しかし,輸出用小麦粉の原料としては安価な外麦を必要としたため,「内需内麦,外需外麦」の構造が維持された。日本小麦粉の輸出市場として,従来の中国市場が日貨排斥の影響で縮小する一方,新たに「満洲国」(以下,かっこ略)が台頭した。満洲国では小麦・小麦粉の自給がめざされたものの小麦の自給に失敗し,日本や豪州の小麦・小麦粉の輸入に依存した。このことは,日満ブロックでは食糧自給が達成されていないことを意味した。
第3章では,1910~30年代における日本の小麦・小麦粉消費の拡大と変貌が,需給関係や消費実態に留意しながら検討される。小麦・小麦粉は米の代用食として位置づけられ,その消費は米に対する小麦の相対価格が下落(上昇)すると増大(減少)した。小麦の相対価格は1890年代から1920年代半ばまでは低下傾向にあった。その背景には第一次世界大戦・戦後の米価高騰や1920年代の安価な外麦輸入(第1章参照)があった。小麦・小麦粉は都市部ではパンや洋菓子の原料として,農村部でも麺類などの原料として消費が拡大した。1920年代後半~1930年代初頭には米価低落や小麦関税の引き上げの影響で小麦・小麦粉消費は停滞した。しかし,1930年代半ばに米価が持ち直すと再び消費が拡大した。
第2の課題は,第4章~第7章で検討される。第4章では1920年代において,北米小麦・小麦粉の対東アジア輸出を担った三菱商事シアトル支店の取引活動が検討される。三菱商事は北米の小麦輸出商の東アジア輸出の代理店として北米小麦・小麦粉を取り扱い始めた。北米の小麦輸出商は東アジア市場に明るくなく,三菱商事も小麦産地の状況に詳しくなかったためである。三菱商事は一方で北米小麦・小麦粉の取引拡大のために,大口の取引先として,1926年に日清製粉との間で小麦粉販売と原料小麦の輸入の一手委託契約を結んだ。他方で,世界市場の70パーセントを占める欧州市場を開拓するために,小麦の産地買付と第三国輸出を模索した。しかし,これらの取引拡大策は,これまで築いてきた北米の小麦輸出商との良好な関係を悪化させるものとして懸念された。
第5章では,1920年代末の,シアトル支店による北米小麦の産地買付の計画立案とその実施の試みについて検討される。三菱商事本店はシアトル支店に対して,日清製粉からの要請である安価な小麦の供給を実現するために,産地買付を開始することを要請した。しかし,シアトル支店は取引相手である北米の小麦輸出商との関係を維持するために産地買付に反対であり,買付計画においても,産地買付によるコストカットというメリットは小さいと結論づけた。本店・支店間の対立は,世界恐慌への対応としてのアメリカ政府の農産物価格維持政策により,アメリカ小麦の国際競争力が失われる形で収束した。
第6章では,三菱商事との間で小麦粉販売・原料小麦輸入の一手委託契約を結んだ日清製粉の北米出張員の派遣について検討される。日清製粉は原料の安定的調達のために北米に出張員を派遣した。三菱商事との一手委託契約の締結後には,その業務の性格は三菱商事の小麦・小麦粉取引の監視へと変化した。三菱商事シアトル支店の取引は一部是正を迫られ,日清製粉との契約にもとづいて小麦粉取引から撤退を余儀なくされた。ただし,三菱商事の北米小麦取引における日清製粉委託料の比重は1920年代後半には5~6割に達しており,三菱商事にとって日清製粉は安定的な小麦販売先であった。日清製粉の出張員の存在は,小麦・小麦粉取引業務の調整を容易にするというメリットもあった。
第7章では,1930年前後に展開する三菱商事による北米小麦の欧州輸出の計画,およびその展開と挫折が検討される。三菱商事は北米小麦の欧州輸出にあたり,大正期に隆盛を極めた総合商社である鈴木商店で本取引を担当していた社員を雇用して研究を進めた。世界の小麦・小麦粉市場の約70パーセントを占め,多数の競争相手がいる本取引は,知識・情報・経験が豊富な専門担当者を多数有し,かつ情報収集・伝達に要する電信・電話の整備を必要とした。しかし,三菱商事などの日系商社にこうした条件を満たすことは困難であった。実際,三菱商事による北米小麦の欧州輸出量は1929~30年こそ東アジア輸出量の1割強に上ったが,現物・定期相場の暴落,思惑取引の失敗により巨額の損失を計上して停止した。
第3の課題は第8章で検討される。第8章では戦時円ブロック内の小麦需給状態を俯瞰する作業により,おもに三井物産の実務的な小麦取引活動が検討される。日中戦争の勃発によって外国為替管理が強化されて小麦輸入に割り当てられる外貨は制約された。日本国内で小麦の増産が進められたが,国内消費を満たすには十分ではなく,円ブロックには豪州小麦やアルゼンチン小麦が不可欠の原料供給源であり続けた。三井物産や三菱商事は豪州小麦・アルゼンチン小麦を輸入したが,外国為替管理や船舶不足によって輸入は困難となり,1941年の対日資産凍結によって外麦輸入は停止することになった。
以上のように,本書は「食糧」としての小麦の需給や貿易を考察した第1章~第3章,小麦・小麦粉貿易の担い手である商社(三菱商事)の活動を考察した第4章~第7章,これら二つの問題を戦時について考察した第8章で構成される。本稿執筆時点で,谷ヶ城[2023]が第4章~第7章について,商社史研究の視点から論評している。そこで,本稿では第1章~第3章,および,第8章をおもな対象として,食糧としての小麦についてコメントしたい。
1.小麦市場について評者が本書で得た重要な知見の一つは,日本人の主食構成における小麦の比重が外地(台湾や朝鮮)米と同程度にあったことである。本書の表序-1を手掛かりに,小麦の消費が増大した1920~39年について計算すると,米・小麦消費熱量の約78パーセントを内地米,約12パーセントを外米・外地米,約10パーセントを小麦が構成していた。日本経済史や日本植民地経済史では,日本の食糧供給における外地米の重要性が指摘されてきたが,その外地米と同等の比重を小麦が有していたことは,食糧を米だけで議論することは困難であることを意味している。
一方で,小麦について,シュルツが言う「食糧問題」を緩和するための「食糧政策」があったのかという疑問をもった。著者は前著で米の食糧政策を考察した際,米価の安定化を目的とする政策のみならず,内地・外地の双方で米の増産政策が展開されていたことから,食糧政策を「単に米価政策だけではなく,生産・流通の両過程にわたる政策体系の『総体』として把握されるべき」[大豆生田 1993, 5]と指摘している。評者もそれに異論はないが,食糧政策が単なる農産物(たとえば評者が研究対象としてきた砂糖など)を対象とする政策と決定的に異なるのは,価格の安定化が重視される点にあると考えられる。この点で,小麦政策は食糧の安価かつ安定的な供給をめざす「食糧政策」の文脈ではなく,増産のみをめざす「産業政策」の文脈で実行されていたように読み取れた。
たとえば,小麦はアメリカ・カナダ・豪州の大産地が太平洋岸に存在し(97ページ),日系商社の活動に支えられて北米小麦の日本輸出が不安定化することはなく(第4章~第7章),したがって,1920~30年代前半に安価かつ安定的な小麦の輸入が破綻する,あるいは破綻すると予想される環境はなかった。政府は1926年に小麦の輸入関税を引き上げるに際して,それが「食糧問題の確立の上よりも亦農村振興問題上よりも共に極めて緊要」であるからだとしているが,具体的な説明では専ら農村振興の観点に立っていた(87ページ)。また,1932年に小麦の輸入関税を引き上げるとともに「小麦増殖五ヵ年計画」を実行に移したが,その目的は食糧自給・農村振興・国際収支の改善にあり,輸入関税の引き上げに対して消費者から反対の声が上がったように(89~91ページ),食糧政策の重要な構成要素である価格の安定化を図るものではなかった(小麦増殖五ヵ年計画が実行された背景には,日本農政の最大の対象であった米の「自給」が達成され,したがって農政関係者にとって米に代わる政策対象が必要とされたこともあったろう)。
小麦が主食物という意味で「食糧」であることは間違いないし,当時の政府も随所で小麦は食糧であると指摘している。しかし,上述の小麦政策の立案過程や理由をみると,食糧である米よりも一般的な農産物の増産政策に近く,小麦が「食糧」として位置づけられていたかは疑問が残る。
2.中国・満洲国の小麦自給について本書の特徴は,視点を日本におかず,太平洋地域を俯瞰しながら,小麦・小麦粉の動きを具体的に捉えようとしたことにあり,北米・豪州から日本への小麦輸入取引と,日本から中国・満洲国への小麦粉の輸出取引(本書では「東アジア市場」とされる)の二つに分けられている。前者については三菱商事シアトル支店の一次史料を用いた詳細な分析がなされており(第4章~第8章),上述の谷ヶ城[2023]においても高い評価が与えられているように,その実証レベルは極めて高い。それと比較すれば,東アジア市場についての分析レベルは低いように感じられる。たとえば,中国・満洲への小麦粉の輸出取引については,基本的には輸出量の増減が指摘されるのみで,日系商社がいかなる取引相手に対してどのような販売戦略でもって日本小麦粉を輸出していたのかは解明されていない。この点を議論する必要はなかったのだろうか。
また,食糧問題という観点からも,東アジア市場の叙述について物足りなさを感じた。日本は戦時期においても北米・豪州小麦をブロック内食糧供給構造の一環に組み込まざるを得ず,その要因は新たにブロックに組み込まれた満洲国において小麦の自給が達成できなかったからとされる(第2章・第8章)。なぜ満洲国が小麦を自給できなかったのかは,食糧問題を取り上げる本書にとって重要な論点となるが,その要因はほとんど説明されていない。この点について,北満の農業について検討した李[2023, 32]は,小麦は北満で栽培される五大作物(大豆,粟,高粱,玉ねぎ,小麦)の一つであり,満洲国の農業政策で増産がめざされたが,実際には農民に優良品種が配布される程度であったこと,そして小麦は販売用作物であり農家生活(食糧・飼料・燃料)との関連が最も弱かったため,満洲国が増産をめざした亜麻や甜菜に代替される形で,作付面積が減少していったことを指摘している。小麦は満洲国の重要な食糧であったが,政策レベルでは戦略物資の増産の犠牲となるほどに位置づけは高くなかったようである。
総じて,小麦を食糧として正面から取り上げたことによって,逆説的であるが,戦前日本における食糧としての米の特異性がより際立ったというのが,本書の読後感である。