アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
論文
台湾における環境行政組織の成立――1971年行政院衛生署・環境衛生處の設立――
寺尾 忠能
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2024 年 65 巻 3 号 p. 61-96

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《要 約》

台湾の環境政策,環境行政は1971年の行政院衛生署とその部局であった環境衛生處の設立から始まった。環境衛生處は,通常の環境衛生だけでなく,公害防止と環境政策の多くの分野を担当した。本稿は,まず1971年の行政院衛生署設立に対して,1967年の台北市の行政院直轄市への昇格が大きな影響を与えたことを明らかにする。1971年以前,中央政府では内政部衛生司が衛生行政を担当していたが,衛生行政の多くを実質的に台湾省政府衛生處が分担していた。1967年に台北市が行政院直轄市に昇格して台湾省政府の管轄から離れた結果,中央政府の衛生行政組織を拡充する必要が生じた。また,環境衛生處の設置は行政院の当初の想定にはなく,行政院衛生署組織法案が立法院で修正を受けた結果であった。行政院は当初は衛生署を内政部の部局のまま昇格させる予定だった。しかし,対外的な危機への対応として衛生行政の成果を国際社会にアピールするために,行政院直属の行政組織に変更した。そのために組織法を立法院で成立させることが必要となった。行政院衛生署組織法案の修正には,国民党政権の移転後に台湾で初めて行われた1969年の欠員補充選挙で新たに当選した立法委員が重要な役割を果たした。政策形成の一連の動きは,いくつかの意思決定と国際環境への対応がもたらした事前に予期されなかった影響が積み重なった結果であった。

Abstract

Environmental policies and administration in Taiwan began in 1971 with the establishment of the Department of Health, Executive Yuan (DOH), and its internal organization, the Environmental Health Division, which was assigned responsibility not only for ordinary environmental health issues but also environmental protection and pollution control. This paper argues that the promotion of Taipei City to a Yuan-controlled municipality in 1967 had a major impact on the establishment of the DOH. Before 1971, a small section under the Ministry of Interior was in charge of health administration, while most administrative functions of the Taiwan Area were carried out by the Taiwan Provincial Government. In 1967, Taipei City was elevated to a Yuan-controlled municipality and separated from the jurisdiction of the Provincial Government. This propelled the expansion of health-administration capacities in the central government and led to the promotion of the health administration section in the Ministry of Interior. Originally, the Executive Yuan had planned to promote it as a department within the Ministry of Interior. However, faced with the diplomatic crisis of the late 1960s, the central government of ROC chose to establish the DOH as an organization directly subordinate to the Executive Yuan to promote the achievements of public health policy to the international society. To this end, it became necessary for the Executive Yuan to pass an organizational law in the Legislative Yuan. This paper found that the Environmental Health Division of the DOH, which was not originally envisioned by the Executive Yuan, was the result of the Legislative Yuan amending the DOH Organization Bill. A new legislator elected in the 1969 supplementary election held to fill vacancies, the first election of Legislative Yuan in Taiwan after relocation of the central government of ROC, played a crucial role in amending the DOH Organization Bill. By tracing this process, this paper found that decisions were not dictated by the highest authority but rather were the result of unexpected outcomes brought about by several decisions on other policies and responses to international circumstances.

 はじめに

Ⅰ 中央政府レベルでの環境政策の開始――1971年行政院衛生署設立――

Ⅱ 権威主義体制期の環境政策の形成

Ⅲ 台北市の行政院直轄市への昇格

Ⅳ 台北市の直轄市への昇格による行政院衛生署設立への影響

Ⅴ 立法院による行政院衛生署組織法案の修正と環境衛生處の設置

Ⅵ 環境衛生處が環境政策の形成に果たした役割と衛生テクノクラート

Ⅶ 「法統」体制と対外的な危機

 まとめと考察

はじめに

台湾の中央政府レベルの環境政策,環境行政が始まった転換点として,1971年3月の行政院衛生署とその部局としての環境衛生處の設立(注1)が挙げられてきた。衛生行政の通史でも,環境行政の通史でも,行政院衛生署の設立は重要な転換点と位置づけられている。行政院衛生署環境衛生處は1982年1月に行政院衛生署環境保護局に改組され,1987年8月に初めて独立した環境行政組織として設立された行政院環境保護署の前身となった。さらに2023年8月,行政院環境保護署(日本の「環境庁」に相当)は環境部(「環境省」に相当)に改組された。しかし,どのような要因によりこの時期に行政院衛生署,環境衛生處が設立されたのかは十分に説明されてこなかった。通史などが説明するように,この時期に衛生政策の重要性が高まっていたことは事実であろう。しかし,政策としての優先順位が高まって中央政府レベルでの行政組織の設立につながった背景は明らかにされていない。公衆衛生,環境衛生を政策課題として重視し,行政組織と法制度として実体化させようという意図と政治力,権力を持った主体と,それを実現させうる政治的機会があったとすれば,それらがどのような形で生じて,どのように相互に連関したのかは明らかにされる必要がある。本稿ではこの過程を解明したい。

1949年の国民党政権の台湾への移転以後,台湾省は中華民国(台湾)の実効支配地域の大部分を占め,台湾省政府は一地方政府であったがその領域は中央政府とほとんど重なっていた。中央政府である行政院に衛生部門の独立した行政組織が1971年まで存在しなかった背景には,一地方政府である台湾省政府がその機能の大部分を代替していたという,中央政府と台湾省政府の重複に起因する問題があった。

本稿では,まず1971年3月の行政院衛生署設立に対して,1967年7月の台北市の行政院直轄市への昇格が大きな影響を与えたことを明らかにする。また,行政院衛生署の設立と同時にその部局として設置された環境衛生處は,行政院(中央政府)の当初の構想にはなく,行政院衛生署組織法案が立法院で修正を受けた結果設置されたこと,対外的な危機が迫るなかで行政院が衛生署を当初に想定した内政部の部局ではなく行政院直属の行政組織に変更したために組織法の制定が必要となったこと,また立法院で組織法の法案の修正に,国民党政権の台湾移転後の初めての立法委員選挙であった1969年12月の欠員補充選挙で新たに当選した立法委員が重要な役割を果たしたことなどを明らかにする。以上の検討から,行政院衛生署,環境衛生處の設置にいたる一連の動きは,これまで暗黙に想定されていたような誰かが計画したものではなく,すべてを最高権力者の命令によって行われたものでもなく,いくつかの意思決定と国際環境への対応がもたらした事前に予期されていなかった影響が積み重なった結果であることを明らかにする。

では,1971年の行政院衛生署環境衛生處の設立が中央政府レベルでの環境政策の開始であることと,その後の環境政策の形成に果たした役割を示す。では,民主化以前,権威主義体制期の台湾において環境衛生という政策分野の発達が環境政策の形成過程に果たした役割を示す。では,台北市の行政院直轄市への昇格の経緯を示し,で台北市の昇格が行政院衛生署設立に与えた影響を明らかにする。では,行政院衛生署の部局であった環境衛生處が,立法院による行政院衛生署組織法の修正によって設置されたことを示し,その背景を明らかにする。では,環境衛生處が環境政策の形成に果たした役割と,衛生テクノクラートの存在がそれを可能にしたことを説明する。では,1960年代末には顕在化しつつあり,1971年の国連からの退出につながった対外的な危機が政策形成に与えた影響を示す。最後にまとめと考察で,政策形成過程の一連の動きを整理し,考察を加えるとともに,今後の課題を示す。

Ⅰ 中央政府レベルでの環境政策の開始――1971年行政院衛生署設立――

1971年3月17日の行政院衛生署(2013年7月に衛生福利部に改組)の設立は,台湾の中央政府レベルの衛生政策にとってだけでなく,環境政策にとっても最も重要な転換点のひとつであった。行政院衛生署の設立と同時にその部局として設置された環境衛生處が,中央政府レベルの環境政策を担う最初の行政組織となったためである。

台湾の環境政策および環境行政の時期区分が,荘・黄[1984, 21-22]蕭・黄[1990, 39-40]行政院環境保護署[2012, 56-57; 2019, 103-106]などで試みられている。これらの文献のいずれでも1971年3月の行政院衛生署の設立以前を第1期とし,その設立から第2期が始まったとしている(注2)。以後の時期については,行政院環境保護署[2019]のみ1979年4月19日に行政院会議(閣議に相当,通称「行政院院会」)が決定し,その後の環境保護政策を方向づけた「加強台灣地區環境保護方案」から第3期を始めているが,それ以外では1982年1月の行政院衛生署環境保護局(行政院衛生署環境衛生處を改組)の設立以降を第3期としている。そして1984年発行の荘・黄[1984]を除いて,いずれも1987年8月の行政院環境保護署の設立(行政院衛生署環境保護局を改組)以降を第4期としている。

行政院衛生署環境衛生處の設立の環境政策に対する重要性について,蕭・黄[1990, 39-40]は「中央政府が環境事務を管理する機構として関係法規の制定を開始し,環境管理の拠点になった」とし,具体的にはその設立の後に制定された飲用水管理条例(1972年11月制定),水汚染防治法(1974年7月),廃棄物清理法(1974年7月),空気汚染防制法(1975年5月)などを挙げている。そして,それらの法規の制定は「経済政策の中に環境管理に対する考慮を導入したに等しい」と評価している。一方で「施行細則,環境の質の管理基準或いは規制基準が不充分で,依然として,法律はあるが実施には不充分という段階であった」として,この時期の環境政策の限界を指摘している。さらに,「わが国が十項目建設(蔣経国が行政院長として開始し推進した大規模インフラ建設プロジェクト「十大建設」に続けて行われた開発プロジェクト:引用者)を開始して重工業を発展させ,経済発展が何よりも重視される状況のもとで,各種の公民営事業単位は環境保護法規の遵守を考慮の範囲に入れず,各級地方政府の環境管理に責任を負う人員は甚だしく不足し且つ異なる機関に分散しており,設備も不足していた」ことにより,「環境管理は依然として机上の空論の段階にとどまり,各種の汚染は日を追って深刻になっていった」と述べている。

1971年3月の行政院衛生署環境衛生處の設立によって,台湾における中央政府レベルでの環境政策,環境行政が始まったという評価は定着していると考えられる(注3)。1970年代半ばに進んだ環境法の制定に対して,環境行政組織としての機能を持っていた行政院衛生署環境衛生處が重要な役割を果たした。一方で,制定された法律自体もその実施に不可欠な施行細則なども不十分なものであり,執行する地方政府の人員も不足し,この時期の環境政策の有効性は限られたものであった。

1982年1月の行政院衛生署環境保護局の設立以後の第3期,1987年8月の行政院環境保護署設立以降の第4期についても蕭・黄[1990, 39-40]による評価をみてみる。第3期で地方政府の環境行政組織の整備と人員の強化が進み,初めて環境管理の専門機構がほぼ形成された。また,各種の法規の施行細則と規制基準が完成し,新たに騒音規制や化学物質管理の法規も制定された。しかし依然として環境保護よりも経済発展を重視する観念が政府と国民に深く植え付けられており,人員や設備の不足と法規の整備は不十分であった。人々の環境管理への不満が高まり,反公害の「自力救済運動」が盛んに行われた。第4期に入り行政院環境保護署の設立によって,各級の行政組織と人員の拡充,法規の改正などによる環境管理の強化が,1990年の時点でみて進みつつある,という評価であった。

台湾の環境政策は,民主化が進展し社会運動などによる社会的な圧力が高まったことを受けて,中央政府の独立した行政組織である行政院環境保護署が1987年に設立され,法制度が改訂されて規制が強化されて以後,本格的に始まったと考えられてきた(注4)。そのため,民主化以前,行政院環境保護署設立以前の環境政策の形成過程はあまり関心を集めてこなかった。

Ⅱ 権威主義体制期の環境政策の形成

民主化以前の台湾の環境政策,なかでも1971年の行政院衛生署設立以前の具体的な取り組みについてはあまり知られていない(注5)蕭・黄[1990, 39]では「環境管理が存在しなかった時期」ととらえ,公害防止の法律がなかったことから環境管理を執行する方法もなく「環境無人管理時代」であったと述べている。荘・黄[1984, 21]でも,内政部衛生司(行政院衛生署の前身),台湾省政府と台北市政府の環境衛生と一般廃棄物・屎尿処理の取り組み,1970年2月に設立された経済部工業発展局(1971年11月に経済部工業局に改組)が産業政策を担当する行政組織として公害防止への取り組みを始めたことなどの紹介にとどまっている。行政院環境保護署[2012, 56-57; 2019, 103-106]は行政組織による環境政策の通史であるが,1987年の行政院環境保護署設立以前についての詳細な記述はなく,1971年の行政院衛生署設立以前については荘・黄[1984]と同様,内政部衛生司,台湾省政府,台北市政府,台湾省政府管轄下の各県・市政府のこの時期の取り組みをごく簡単に記述しているのみである(注6)

1971年の行政院衛生署の設立は衛生政策だけでなく,環境政策の形成過程においても重要であったと認識されているが,それ以前の時期への関心は低く,設立の経緯や要因は明らかにされてこなかった。環境政策に限らず,民主化以前,権威主義体制期の台湾の公共政策についての先行研究は少ない(注7)

「後発の公共政策」である環境政策は,その「初期」には,公衆衛生や産業政策,資源管理など,既存の公共政策の一部として始まり,のちに独立した政策領域として形成されていった[寺尾 2023a, 2-5]。台湾の環境政策,環境汚染対策の多くは,公衆衛生の一分野とされる環境衛生のなかに取り込まれることによって形成された。「環境衛生」とは,WHO(世界衛生組織)の定義によれば「環境要因によって決定される人間の病気の諸側面」,「健康に影響を与える可能性がある環境内の要因を評価し制御する理論と実践」である。環境衛生(environmental health)は,公衆衛生(public health)の領域の一部であり,環境から疾病の原因となる要因を除去して,良好な状態を維持することを目指す政策と考えられる。民主化以前から国民党政権は公衆衛生政策を重視し,その分野である環境衛生も重要な政策課題としてたびたび取り上げられてきた。

伝染病の予防,病気の原因となる劣悪な労働環境や生活環境の改善や病害虫の駆除などに加えて,空気汚染や飲料水の水源の汚染,従来からあった廃棄物の管理などの環境汚染対策も,台湾では環境衛生の政策課題に採り入れられていた。先進国の多くでも環境政策は衛生政策の拡張から始まった。台湾においては,衛生政策のなかでも環境衛生という分野を拡張して対応する試みが顕著にみられる(注8)。次のでは,当時の台湾で,中央政府レベルでの環境政策の開始につながる行政院衛生署,環境衛生處が設立された背景にあった要因について明らかにする。

Ⅲ 台北市の行政院直轄市への昇格(注9)

1945年9月,中華民国による台湾接収のため,台湾総督府の植民地統治機構の多くを受け継いで台湾省行政長官公署が設置された。台湾省政府は,台湾省行政長官公署を改組して1947年5月に成立した。1949年に中国共産党との内戦に敗れた国民党政権が中国大陸から台湾に移転して以降,台湾省政府は,中華民国の実効支配地域から中国大陸に近接する金門・馬祖地区を除いたほとんどの部分を占める台湾省を管轄し,その領域が中央政府とほぼ重なる地方政府であり,台湾全体を管轄する行政組織が重複した状態となっていた。国民党政権が中国全体を統治する正統な政府であり,台湾省は中華民国の一地方であるという建前が台湾省政府の存在を必要とした(注10)

1949年12月からの中央政府の台湾への移転がもたらした台湾省政府との重複による諸問題は,松田[2006b]のいう台湾の「中央化」のひとつの側面とみることができる。ここでいう「中央化」とは「中央政府が撤退・移転することによってある地方に中央的性質を有する組織,機能が集中することを指す」[松田 2006b, 252]。台湾の中央化は,領域を縮小した中華民国による台湾統治であり,第1に台湾における政治エリートのエスニックな二重構造を助長し,第2に中華民国憲法が規定する地方(省)自治が歪められるという問題をもたらした。中国全体を統治する政権という建前から台湾省政府を残したことにより,省政府の首長を憲法が規定するとおりに民選とすると総統の政治的権威を脅かしかねず,選挙を凍結して官選とせざるを得なかった[松田 2006b, 201-213]。若林[2008, 75-77]によれば,国民党政権は抗日戦争期に中央政府を重慶に移すことによって四川省で中央化を行ったことがあり,台湾は2番目の事例であった(注11)。国民党政権は,内戦の敗退により台湾への移転が避けられなくなっていた時期に,すでに中央政府の行政機構の一部を大幅に縮小していた。行政組織の体系としてみれば,国民党政権は地方の中央化を四川省で行い,ほぼそのまま台湾に移転したとみなすことができる。

台湾省政府が中央政府と併存することの矛盾は,衛生,農業,観光,気象観測,商品検査,警察,土地政策,公共建設などの内政にかかわる多くの行政分野において,その実質的な権限の多くを中央政府である行政院から台湾省政府に分担させる形で,部分的にではあるが緩和されていたと考えられる。環境政策の前史として重要であった衛生政策は,中央政府が台湾省政府に実質的に分担させていた内政分野のひとつであった。台湾における衛生政策は,台湾省政府衛生處が中央政府に代わって多くの業務を担当していた。行政院衛生署が1971年に設立されるまで中央政府に衛生政策の独立した行政組織がなかった背景には,台湾における中央政府と台湾省政府の併存という問題があった。

1967年7月1日に台北市を台湾省管轄下の県と同格の省轄市から省と同格の行政院直轄市へ昇格させる地方制度の変更が,蔣介石総統の命令を受けて,行政院,立法院での決定を経て実施された(注12)。実質的な首都である台北市を財政的に優遇することによって,その都市建設を推進することがそのおもな目的であった。しかし実際には,台北市長選挙で国民党の候補が度々敗北していたことが重要な要因であったとされている。行政院直轄市の市長は行政院により任命することができた。台北市を直轄市に昇格させることによって,市長選挙を行わずに国民党政権にとって望ましい人物を市長に任命することが,台北市の行政院直轄市への昇格の隠された目的であったと考えられている(注13)。行政院直轄市への昇格によって台北市政府は,同じく行政院直轄の地方政府であった台湾省政府の管轄下から分離され,台湾省政府と同格の地方政府となった。台北市の直轄市への昇格は1966年12月末に総統が命令してから1967年7月1日の実施まで半年あまりしか準備期間がなかった。

台北市の行政院直轄市への昇格は,直接には台北市政府と台湾省政府の関係と,台北市政府と行政院の関係を変更するものであった。台湾省政府が台北市において持っていた権限は,台北市政府あるいは中央政府に移管された。中央政府は台湾省政府を通じてではなく,直接に台北市政府とやり取りを行うことが可能となった。さらに昇格に伴う地方財政制度上のあつかいの変更によって,行政院直轄市となった台北市政府の財政を大幅に強化することが可能となった。台湾省政府はこれらの制度変更の方針に基本的には従ったが,台湾省議会は一部の権限移譲に対して異議をとなえて抵抗を試みた(注14)。台湾省政府のトップであった省主席は行政院により任命されていたが,台湾省議会議員は選挙で選出されていた(注15)。台湾省議会の意見をとりまとめた謝東閔省議会議長らが台北におもむいて行政院などに陳情を行ったが,省議会による提言はほとんど受け入れられなかった。台湾省議会が強く反発したのは,商品検査を行う台湾省政府商品檢驗局の経済部への移管であった(『徴信新聞報』1967年6月6日第2版)。台北市の昇格に対応する組織改編としては,台湾省政府の支所を台北市政府に移管する対応もあり得たが,行政院は台北市の支所だけでなく台湾省商品檢驗局全体を中央政府の経済部へ,台北市政府の昇格と同日に移管すると決定した。行政の統一性を重視したためと考えられる。行政機関の所属のほか,台北市内にあった省立の学校,病院などの公的機関を台北市と台湾省のどちらに帰属させるかなど,1967年7月1日の昇格の直前まで決定されておらず,さまざまな混乱が生じた。

行政院直轄市への昇格から1年後の1968年7月1日,台北県の景美鎮,南港鎮,木柵郷と内湖郷,台北県陽明山管理局の士林鎮と北投鎮が台北市に編入され,それぞれ台北市景美区,南港区,木柵区,内湖区,士林区,北投区となった。この編入により台北市の面積は約4倍に拡大した。1968年末の台北市の人口は約160万人となり,台湾全体の約11.8%を占めた。

台北市の行政院直轄市への昇格は,台北市政府の衛生,環境政策に大きな影響を与えた。徐慶鐘内政部長(注16)は,1967年2月28日の立法院第39期第3次会議での何適委員の台北市の昇格に関する質問に対する答弁で,台北市政府に衛生局とは別に環境衛生管理局を設置し,空気汚染などの公害対策を担当させる必要があると述べた(『立法院公報』第39會期第1期,1967年3月7日発行,121,『立法院公報』は國家圖書館「政府公報資訊網」に収録)。徐慶鐘内政部長は同年4月5日にも記者の取材に対して同様に,台北市政府に環境衛生管理局を設置したいと述べた(『徴信新聞報』1967年4月6日第2版)。しかし,内政部内での検討の結果,同年4月12日に決定された「市組織系統表」では台北市政府に10設置される局のひとつ,衛生局の下に環境衛生管理處が設置されることになっており,環境衛生管理局は組織案になかった(『徴信新聞報』1967年4月13日第2版)。

台北市政府に衛生部門から独立した環境衛生を担当する部局を設置する構想は,1968年10月に環境清潔處の設立として実現する。台北市政府環境清潔處は,一般廃棄物の収集にあたった「清潔大隊」と屎尿処理を担当した「水肥處理委員會」を統合し,衛生局のその他の環境衛生に関する業務を移管して発足した。初代處長に就任した潘敦義は警察官僚であり,廃棄物の不法投棄や空気汚染の取り締まりは警察組織による統制の手法が用いられた[荘進源 2012, 81-83; 荘 2013, 140-144]。

徐慶鐘内政部長は,台北市の行政院直轄市への昇格に伴う衛生と環境衛生の担当部局の組織編成について中央政府の地方行政担当部局の責任者として詳しく言及する一方で, 1967年2月28日の立法院での答弁や4月5日の新聞記者の取材に対する発言で,台北市の直轄市への昇格に伴う行政院,内政部の組織改編の必要性については言及しなかった。台北市の行政院直轄市への昇格は,上記のような台北市政府と台湾省政府の関係と,台北市政府と行政院の関係を変更するという直接的な影響だけではなく,行政院と台湾省政府の関係にも大きな影響を与えた。

Ⅳ 台北市の直轄市への昇格による行政院衛生署設立への影響

1.内政部衛生署案から行政院衛生署案へ

台北市の行政院直轄市への昇格は,上記のような台北市政府の位置づけに直接かかわる影響だけではなく,台湾省政府の地方政府としての位置づけと,行政院の機能と権限にまで影響を及ぼした。最も大きな影響を受けたのは,衛生行政をはじめとして,台湾省政府が行政院からその行政権限と機能の多くを移譲され,事実上分担していたいくつかの政策領域にかかわる部門であった。

行政院で衛生政策を担当していたのは内政部衛生司であり,部内の「署」,「局」,「處」などよりも低いレベルの部局であった。国民党政権が中国大陸で敗走を続け,台湾への移転を迫られる前には,衛生部門も独立した行政部門である衛生部として行政院に直属していた。国民党政権が1949年12月に台湾に移転した時点には,台湾地区には植民地期の行政機構を再編成した台湾省政府の衛生部門が存在していた。衛生政策の権限と機能の多くは中央政府である行政院から一地方政府である台湾省政府に分担された。一方で,行政院直属の衛生部は,国民党政権の中国大陸での敗退,台湾への移転準備の過程で,1949年5月に内政部衛生署に,さらに同年7月に内政部内でさらに低いレベルの衛生司に格下げされた。以後,台湾の衛生行政はおもに台湾省政府衛生處が担当し,行政院の監督を受けながら,行政実務を行っていた。

台湾省政府衛生處が中央政府に代わって担当した業務はさまざまな行政実務にとどまらなかった。科学的な衛生政策の立案に不可欠な研究機関のほとんどが台湾省政府に所属していたため,中央政府が台湾省政府の組織と人員を使わずに政策立案を行うことは困難であった。またWHOなどの国際機関を通じて台湾に派遣されてきた専門家らとの交流や台湾からの専門家の派遣についても,その多くは台湾省政府に所属する人員が担っていた。

台湾省政府には,台湾省衛生試驗所(1946年設立),台湾省血清疫苗研究製造所(WHOが派遣した専門家の助言を受けて国立台湾大学と台湾省衛生試驗所が協力して1952年設立),台湾省瘧疾研究所(アメリカ合衆国(以下,米国)のロックフェラー財団が派遣した専門家の助言を受け,同財団の資金援助で1948年にマラリア対策のため設立),台湾省婦幼衛生研究所(WHO,UNICEFと台湾省政府が協力して行った衛生事業をもとにUSAIDと中国農村復興聯合委員会の資金によって1958年設立),台湾省公共衛生教学實驗院(1959年設立),台湾省環境衛生實驗所(WHOが派遣した専門家の助言を受けて1955年設立)などの研究機関が衛生處の管轄下に設置され,多くの専門家が所属していた[行政院衛生署 1995a, 302-324; 台灣省政府衛生處 1999, 26-41]。台湾省政府衛生處の管轄下の多くの研究機関が,WHO,UNICEF(国際連合児童基金)などからの助言と協力,ロックフェラー財団,USAID(アメリカ合衆国国際開発庁),中国農村復興聯合委員会(農復会)などの米国からの資金援助を受けて設立されていた(注17)

台湾へ移転した時点では中央政府にも内政部衛生司の管轄下に中央衛生實驗院が所属していたが,1958年12月に行政機構改革によって廃止された[行政院衛生署 1995a, 285-286]。中央衛生實驗院の組織の一部は,台湾省政府衛生處の管轄下にあった台湾省衛生試驗所と台湾省環境衛生實驗所に移管された(注18)

1967年7月の台北市の行政院直轄市への昇格により,台湾省政府の権限が台北市には及ばなくなった。公衆衛生を含む,中央政府に代わって台湾省政府がおもに担当していた内政の政策分野でさまざまな混乱が生じた(注19)。台湾省政府が制定,公布した弁法や規則など(省議会の審議を経て通過した行政命令[松田 2006b, 419-420])の効力は台北市には及ばなくなった。台北市政府がそれらに代わる弁法や規則などを独自に制定,公布する必要があったが,そのような調整を短期間で行うことは困難であった。暫定的な措置として,台北市議会が直轄市昇格後の最初の選挙で改選されるまでは,台湾省政府の弁法や規則を台北市にも適用できることとされた(注20)。しかし,この措置は法令等の空白を回避したものにすぎなかった。台北市政府がそれらを暫定的に執行できたとしても,台湾省政府が台北市内で果たしてきた機能のすべてを急に代替できるわけではなかった。また,中央政府,台湾省政府,台北市政府の組織間の調整という問題も残されたままだった。

衛生行政に関しては,権限移譲に伴う問題だけではなく,行政の統一性にかかわる問題が重大であった。衛生行政の執行は各地方政府に委ねられるとしても,全体の方針と施策は統一し,各地方で同様の取り組みを行う必要がある。伝染病を予防する防疫を例に取れば,1つの地方で異なった対応を行ったことによってその地域で伝染病が蔓延すれば,感染が拡大することによって影響はすべての地域に及んで,全体を脅かす可能性がある。台北市の行政院直轄市への昇格後は,中央政府である行政院が台湾省政府と台北市政府の双方を監督すると同時に,両者の間で調整を行うことが必要となった。しかし,台湾省全体の政策を策定し,実施する機能の多くを台湾省政府に委ねたまま,行政院が十分な調整を行うことは困難であった。

行政院衛生署がまとめた衛生政策の通史では,1971年の行政院衛生署設立の理由として,急速な工業化や人口の増加と都市への集中などによる新たな問題の出現によって公衆衛生政策の重要性が高まったことを受けて,政府による国民の健康増進と衛生建設を加速するためと説明されている[行政院衛生署 1995a, 259; 1995b, 5-6]。しかし実際には,1971年3月に中央政府に直属する組織として行政院衛生署が設立された背景には,衛生政策の重要性が高まっただけではなく,1967年の台北市の行政院直轄市への昇格の影響があった。

行政院衛生署の設立につながる中央政府の組織改編の動きは,遅くとも1968年10月から12月には確認できる。1968年10月の時点で,内政部衛生司を内政部衛生署に昇格させるという,内政部内での組織改編が検討され,いったんはほぼ決定されていた(注21)。さらに,同年12月には「内政部衛生署組織法草案」が作成されていた(『聯合報』1968年12月10日第2版)。

こうした動きを受けて1969年5月,行政院は内政部内に地政署,警政署,衛生署を同年7月1日付けで設置することを決定した(『聯合報』1969年5月25日第2版)。この日程では前年末までに作成されていた「内政部衛生署組織法草案」を立法院で成立させることは困難であることから,後述するように新たに組織法を制定せずに「内政部組織法」の既存の条項を利用して対応することが決まっていたと考えられる。しかし同年7月1日の内政部内の組織改編は行われず,7月上旬に行われたとみられる「重要会議」で,地政署,警政署,衛生署のうち衛生署のみ内政部の内部組織ではなく行政院直属の組織にすることが検討され,8月初めまでには行政院衛生署の設立が決定された(『聯合報』1969年7月13日第2版,同1969年8月3日第2版)。行政院衛生署設立の正式な決定は1969年9月18日の行政院会議で行われた[行政院衛生署 1995b, 6]。

なお,衛生署と同時期に内政部内で「司」から「署」への昇格,改組が検討された地政司,警政司はいずれも台湾省政府が重要な役割を担っていた行政分野について中央政府の内政部で対応する部局であった。衛生司と同様に台北市の直轄市への昇格により台湾省政府の権限が台北市に及ばなくなったことによる不整合が顕在化し,対応するための同様の組織改変が試みられていたと考えられる。内政部地政司についてはその後も改組は行われなかったが,内政部警政司は1972年7月に内政部警政署に昇格,改組された。1972年の改組の時点では内政部警政署の根拠法は制定されなかった。内政部警政司組織法が制定されたのは2013年であった(注22)

この間の1969年6月25日に行政院内で人事が行われ,蔣経国が国防部長から行政院副院長に昇任した。1970年代初めの環境政策の進展について蔣経国のリーダーシップを強調する先行研究があり,内政部衛生署から行政院衛生署への組織形態の変更についても影響があった可能性を検討する必要がある[Selya 1975, 201; 顧慕晴 1982, 78-79; 陳淑君 1994, 54-55; 丘昌泰 1995, 53]。1969年9月に内政部衛生署設置案から行政院衛生署への組織形態の変更については,蔣経国は副院長として意思決定にかかわっていたと考えられる。その決定で蔣経国がどのような役割を果たしたかは今後の検討が必要であろう(注23)

中央政府が衛生署を内政部の内部組織から行政院直属の組織に変更した理由としては,第1に,衛生は国民の健康にかかわるだけでなく国際交流が緊密な現代において国家の体裁にもかかわるものであることが挙げられていた。台湾の衛生は近年大幅に改善されたが残された課題も多いと中央政府は認識しており,衛生署を行政院直属とし,衛生政策をより強力に推進することを目指そうとした。さらに,第2に衛生行政と医学研究は国際化しつつあり,衛生署を行政院直属とすることによって国際協力をめぐる交渉を行いやすくできること,第3に衛生署の行政組織としての地位を引き上げることにより専門家や研究者の人材を確保しやすくなることが挙げられていた。行政院が設置を予定していた地政署,警政署,衛生署はいずれも国民党政権が台湾に移転する以前に内政部内に設置していた行政組織であり,厳密には新設ではなく復元であった。1969年当時の内政部組織法には地政署,衛生署を内政部内に設置する規定がそのまま残っており,それらの再度の設置は法的根拠により容易に行うことができた。にもかかわらず衛生署については内政部の下部組織ではなく行政院直属とする理由が上記のようなものであった。行政院組織法第6条の規定により行政院直属の衛生署を設立することは可能であったが,立法院で新たに行政院衛生署組織法を制定する手続きを経るために時間を要することが見込まれた(『聯合報』1969年7月13日第2版)。

衛生署を内政部の内部組織ではなく行政院直属とすることの意味は,行政組織としての地位を上げるだけではない。行政院直属とすることにより,衛生署長は閣議に相当する行政院会議に「列席」して独立した行政組織の代表として意見を述べることができた(列席者は,正副院長,外交部,内政部,経済部などの各部と一部の行政委員会の長,無任所大臣に相当する政務委員らによる評決には加わらない)。

2.行政院衛生署組織法案の趣旨説明

衛生署を行政院直属の行政組織として設立するために制定が必要となった「行政院衛生署組織法案」は1969年12月から1970年7月にかけて立法院で審議され,成立した。実質的な審議が始まった,1970年1月14日の第1回立法院法制内政兩委員会(合同委員会)で,行政院を代表して蔣彦士秘書長(内閣官房長官に相当)が法案の趣旨説明を行った。

蔣彦士行政院秘書長はその趣旨説明の冒頭で,これまでの衛生行政組織の変遷と,1949年に衛生部を内政部衛生司に改組した際に台湾省政府衛生處に中央政府の業務の多くを行わせた経緯を説明した。法案を提出した理由として,最初に台北市政府の行政院直轄市への昇格に伴う制度と組織の整合性にかかわる不都合を解消する必要性を挙げた。そして,台湾省政府の行政権限が台北市に及ばなくなったことにより中央政府に独立した衛生行政組織を設立する必要が生じたと説明した。さらに,国際空港での検疫や医薬保健などの業務は中央政府により統一して行う必要があることも強調した。以上の理由から行政院直属の衛生行政機構として衛生署を設立すると説明した。続いて,行政院衛生署[1995a, 259; 1995b, 5-6]などの通史でも強調している衛生の政策としての重要性の高まりに対応する説明として,以下の9つの重点項目を挙げた。(1)経済,社会建設と科学の発展と調和する長期短期の衛生計画,(2)衛生人員の研究・訓練の強化,および保健事業の発展による「反攻」力量の増強,(3)国際衛生機構との連携と協力,(4)環境衛生の施策に対する指導監督の強化,(5)食品衛生,薬品衛生に対する管理の強化,(6)伝染病の予防と治療,(7)癌,心臓病,血管病などの重要疾病の研究の強化,(8)公立私立の医療機関との協力による健康保険事業の監督,推進,(9)「大陸反攻」の軍事行動の時期と中国大陸を回復後の衛生行政の計画(『立法院公報』第59巻第20期,1970年3月21日発行,委員會紀錄1)。

法案の趣旨説明で挙げられた9つの重点項目は,軍事行動による中国大陸の回復を意味する「大陸反攻」のようなすでに実現の見込みがない政治的スローガンに関連するものを除けば,その時点での衛生行政に関して重要視されていた政策が列挙されていると考えられる。衛生署を内政部の内部組織ではなく行政院直属とした重要な理由のひとつとされた国際機関との協力は3番目であるが,1番目は全般的な項目で2番目は大陸反攻に関連する項目として上位に挙げられたと考えられ,実質的には最上位となっている。環境衛生は4番目に挙げられており,行政院衛生署組織法案の提出時点で,すでには重視されていたと考えられる。しかし,行政院が提出した法案には,環境衛生處の設置は含まれていなかった。この点については次ので説明する。

なお,蔣彦士秘書長による法案趣旨説明と同様の内容は,1969年12月16日の立法院での法案審議の開始を求めるために1969年12月8日付けで行政院が立法院に提出した「院總第845號 政府提案第1032號」文書(注24)でもみられる。この文書では,冒頭でまず近年の科学技術の進歩や生活水準の向上に伴って放射性物質災害や空気汚染などの新たな健康上の問題が発生するなど,衛生業務の重要性が高まっていることを説明している。続いて,政府が台湾に移転した後,中央政府の衛生業務であった国際港での検疫,薬品および食品検査,伝染病の予防と治療などの業務を台湾省政府に行わせていたが,台北市の直轄市への昇格により省と市でそれぞれ権限の範囲が区切られることになったため,中央政府によって業務を統一して行う必要が生じた,といった説明を行っている。さらに上記の9つの重点項目を挙げた後,衛生署の行政機関としての地位を高めるために行政院直属とする必要があると説明している。続けて法案の条文を提示している。

1970年1月14日の第1回合同委員会では,行政院秘書長による法案の趣旨説明の後,各委員からの質疑と行政院側の応答が行われた。この日の5番目に登壇した徐漢豪委員から内政部衛生司の現在の組織と人員に関する資料提供の要請があった。1970年1月21日に行われた次の第2回合同委員会の冒頭で,内政部衛生司の張智康司長は以下のように回答した(注25)。「政府の台湾への移転後に内政部衛生司の職員は5名であったが,現在の正式な定員は16名,(中略)その他,臨時雇用者等をあわせて総勢28人であり,衛生業務の増大に対応できなくなっている。直轄市昇格後の台北市では2つの行政単位(台北市政府衛生局に加えて環境清潔處が新設されたことを指すと考えられる:引用者)が形成され,中央政府の行政機構の増強が必要である」(『立法院公報』第59巻第20期,1970年3月21日発行,委員會紀錄6-7)。

行政院衛生署が設立された背景として,衛生政策の重要性の高まりがあったことは事実ではあるが,政策としての緊急性,優先順位がこの時期に高まった理由は,台北市の行政院直轄市への昇格によって生じたさまざまな不都合を解消するためであったことは,立法院での行政院衛生署組織法案の趣旨説明などから明らかである。台湾省政府の権限が台北市に及ばなくなったこと,台湾省政府が行っていた台北市政府の衛生業務の監督を代わって行うこととなり内政部衛生司の業務量が増大したこと,さらに台湾省政府と台北市政府の衛生部門の間での調整業務が加わったことなどに対応するためには,中央政府の機能を強化する必要があった。

では立法院での法案審議の過程を詳しくみることにより,1971年の行政院衛生署設立が台湾の環境政策の形成に大きな影響を与えた背景を明らかにする。

Ⅴ 立法院による行政院衛生署組織法案の修正と環境衛生處の設置

1.立法院における法案修正による環境衛生處の設置

行政院衛生署組織法案は,立法院での法案の審議を経ていくつかの修正が加えられた。環境政策の形成にとって重要であった環境衛生處は,行政院が提出した法案の組織構成案には含まれていなかった。行政院が提出した法案では,環境衛生は伝染病対策を担当する防疫處の業務に含まれており,担当する独立した部局の設置は想定されていなかった。立法院で立法委員による修正提案が採り入れられることによって,行政院衛生署の設立と同時に,署内に環境衛生處が設置された。

台湾の立法院における法案審議の手続きは「読会制」によるもので,院会(本会議)での一読会,委員会での審議,院会での二読会,三読会を経て,法案が可決され,法律が制定される[周萬來 2008, 201-228]。行政院衛生署組織法案は,1969年12月16日の院会での一読で法案の条文,全19条などが示された後,1970年1月14日から5月7日にかけて11回にわたり行われた立法院法制内政兩委員会(合同委員会)で検討され,院会に戻され同年6月19日から7月7日にかけて二読として全般的な討論と逐条討論が合計4回にわたり行われ,同年7月10日の三読で成立した(注26)

環境衛生處の設置を含む修正案は1970年4月8日に行われた第7回の合同委員会で3名の立法委員,呉基福,李煥之,劉贊周によって共同提案された。この修正案の内容が採用されることによって,行政院が提出した当初の法案にはなかった環境衛生處が,行政院衛生署内に設置されることになった。この3名の委員の発言を中心に,立法院での法案審議,特に環境衛生處の設置に関連する内容を検討する(注27)

1970年3月12日の第4回合同委員会で初めて環境衛生處の増設が議論された。最初に登壇した劉贊周は,行政院が提出した法案による衛生署内の組織について取り上げ,以下のように述べた。衛生行政の範囲は拡大していて,行政院による法案で衛生署内に設置される予定の4つの處(医政處,薬政處,防疫處,保健處)だけでは対応できないとして,「環境衛生」は空気汚染,騒音,放射線,気候の変化,上下水道,蚊や鼠の駆除など広範な内容を含み,欧米などの世界各国では担当する行政単位を設けており,法案の4つの處に加えて「環境衛生處」を設置するべきであると主張した。一方で劉贊周は,台北市政府に衛生局とは別に設置された環境清潔處のように,環境衛生部門を衛生部門の外に置くことには反対した(『立法院公報』第59巻第28期,1970年4月18日発行,委員會紀錄1, 4)。

同日3番目に登壇し,この合同委員会で初めて発言した呉基福は,まず衛生署設立の重要性を強調した後,現代医学の応用分野として人体の疾病に関する「大衆衛生」と人類の環境に関する「環境衛生」の2つが重要であると主張した。そして世界各国の衛生法規を整理した表を提示して,それらは「医務」,「業務」(「薬務」の誤植と考えられる:引用者),「環境衛生」,「疾病予防」,「保健」に分類されると述べ,欧米,日本などで整備されている衛生法規の多くが台湾では未整備であることを示した。そして,行政院衛生署組織法案の最大の問題として,環境衛生に関する規定が足らないことを挙げ,環境衛生處の増設を主張した(『立法院公報』第59巻第28期,1970年4月18日発行,委員會紀錄1-2, 11-16)。

また,同日6番目に李煥之が発言し,6つの項目の4番目で,法案の各處の業務内容に環境衛生と健康保険に関する記載が足りないことを指摘した(『立法院公報』第59巻第28期,1970年4月18日発行,委員會紀錄3)。同日の合同委員会では,他の複数の立法委員からも法案の4つの處に加えて環境衛生處を設置する提案に賛成する発言があった。

1970年3月18日に行われた第5回の合同委員会では,まず内政部衛生司の張智康司長が,前回の委員会での環境衛生處を増設するという提案に対して,環境衛生の問題は屎尿・汚水処理,空気汚染,飲料水の安全,工業用水汚染など広範にわたり,その重要性を認識しており,法案では最も関係が深い防疫處の業務の範囲としたが,環境衛生を担当する独立した處を設置することも可能であると説明した(『立法院公報』第59巻第28期,1970年4月18日発行,委員會紀錄5-6)。

同日の委員会で劉贊周は,環境衛生處を増設するための法案の修正について書面で意見を述べた。環境衛生處の業務としては,(1)一般廃棄物と屎尿処理の管理,(2)上下水道の設計と管理,(3)空気汚染と水源汚染の防止と改善,(4)放射性廃棄物と危険物の管理,(5)建築衛生,(6)有害な昆虫と動物の駆除,(7)水道水と飲料水の検査と管理,(8)食品と飲料の衛生管理,(9)肉類・乳製品,屠殺場の衛生の管理,(10)住宅・工場・鉱山と市場などの公共空間の衛生管理,(11)衛生工学と環境衛生の研究と設計,(12)環境衛生人員の訓練を挙げた(『立法院公報』第59巻第28期,1970年4月18日発行,委員會紀錄6-7)。

呉基福は同日の委員会で,行政院による法案は環境衛生の重要性を認識しておらず,衛生署内に設置する各處を規定する第4条に環境衛生處を加える必要があること等を主張した。そして行政院による法案に代わる包括的な修正法案を提出した(注28)。行政院による法案とのおもな違いは,衛生署に設置される處と室に関する第4条に「環境衛生處」と「国民医療保険處」を加え,行政院案にあった「技術室」を「衛生企画室」と「衛生調査統計室」に分けること,それらの處と室の業務を規定する条文が加わったことであった。環境衛生處の業務を規定する第9条には,(1)公共の場所の衛生指導と監督,(2)建築物衛生設備の規定と監督,(3)飲料水の衛生指導と監督,(4)下水道の衛生管理,(5)汚物処理の指導と監督,(6)飲食業と洗髪・理容業の衛生指導と監督,(7)公害防止の研究と指導監督,(8)埋葬・墓地の衛生管理,(9)有害動物駆除の指導と監督,(10)野生動物・家畜の死骸処理の衛生管理,(11)その他の環境衛生に関する事項が挙げられた。呉基福による法案は,行政院が提出した法案が全19条であったのに対して,處の増設などにより全22条にわたるものであった(『立法院公報』第59巻第28期,1970年4月18日発行,委員會紀錄9-10, 17-19)。

1970年3月25日の第6回合同委員会では全般的な審議が終わり,逐条審議に移った(『立法院公報』第59巻第28期,1970年4月18日発行,委員會紀錄19-22)。1970年4月8日の第7回合同委員会で,法案で衛生署に設置する處と室を規定する第4条に逐条審議が進んだところで李煥之が発言し,第4条から第10条までと第16条の修正を含む法案の修正意見を呉基福,劉贊周とあわせた3名で共同提案した。行政院による法案とのおもな違いは,第4条で防疫處に代えて環境衛生處を加え,防疫處の業務や食品検査などを保健處に移し,各處の名称を「第一處」から「第四處」までの番号に変更するというものであった。呉基福らによって提出されたこの第4条の修正提案は,この日の合同委員会でいったんは通過する(『立法院公報』第59巻第44期,1970年6月13日発行,委員會紀錄22-25)。

しかし,1970年4月8日に行われた次の第8回合同委員会で楊一峯委員,牛践初委員らによって,修正された第4条で各處の名称を番号とすることの再考を求める「復議案」が提出され,再検討が行われた。立法委員らの第4条に関する討論は各處の名称にとどまらず,防疫處を保健處に統合せずに處を4から5に増やす案も検討された。行政院側から出席していた張智康内政部衛生司長から,處の数を増やすことは可能という説明があり,修正案を共同提案した3名も増設に合意した。最終的に主席(委員長)の張子楊委員が取りまとめて,各處の名称を番号から元に戻し,5番目の處として環境衛生處を加えるよう第4条を再度修正し決定した(『立法院公報』第59巻第45期,1970年6月17日発行,委員會紀錄13-17)。

同日の合同委員会では薬政處の業務を規定する第6条の検討も行われ,行政院による法案にあった「環境衛生用殺虫剤の管理」の項目を第4条に移して環境衛生處の業務に加える修正が行われた。この変更は呉基福ら3名の共同提案によるものではなく,呉基福が提出した法案に対する楊寶琳委員の修正意見が採用されたものであった(『立法院公報』第59巻第45期,1970年6月17日発行,委員會紀錄20-21)。

同日の第8回合同委員会では,増設が決まった環境衛生處の業務内容を規定する第9条についての逐条審議も行われ,1970年3月18日の第5回合同委員会で呉基福が提出した法案をもとにした3名による修正案が検討された。呉基福は先の法案の第9条の11の項目に加えて,「公共衛生施設の監督」と「空気汚染の検査と防止」の2つの項目を加え,原案の「(5)汚物処理の指導と監督」の「汚物」を「一般廃棄物・屎尿等の汚物」に特定し,原案の「(7)公害防止の研究と指導監督」の「公害」を「河川汚染・工業廃水等の公害」と特定するなどの変更を行い,環境衛生處の業務内容を13項目とした案を再提出した(『立法院公報』第59巻第45期,1970年6月17日発行,委員會紀錄23-24)。

1970年4月15日に行われた第9回合同委員会で引き続き,環境衛生處の増設に伴いその業務を規定する第9条について検討が行われた。呉基福の原案の「(6)飲食業と洗髪・理容業の衛生指導と監督」に相当する項目は同じく原案の「(1)公共の場所の衛生指導と監督」の「公共の場所」に含まれると解釈できるという意見が採用され,この項目を削除し,13の項目で構成する第9条が合同委員会で決定された(『立法院公報』第59巻第46期,1970年6月20日発行,委員會紀錄14-17)。

以上のように合同委員会で修正された法案が院会に送られ,二読,三読が行われた。環境衛生處に関連する内容は合同委員会が決定した修正案から大きな変更は行われず,行政院衛生署組織法案は1970年7月10日の院会で成立した。

立法院における法案修正によって,最終的に第9条で示された環境衛生處の13の業務は以下のようなものとなった(『立法院公報』第59巻第52期,1970年7月11日発行,院會紀錄3)。

(1)公共衛生施設の指導と監督に関する事項

(2)公共の場所の衛生指導と監督に関する事項

(3)建築物の衛生施設の規定と監督に関する事項

(4)飲料水の検査と衛生の指導,監督に関する事項

(5)下水道の衛生管理に関する事項

(6)空気汚染の検査と防止に関する事項

(7)一般廃棄物と屎尿等の汚物処理の指導と監督に関する事項

(8)河川の汚染,工業廃水等の公害の研究,指導と監督に関する事項

(9)環境衛生用殺虫剤の管理に関する事項

(10)埋葬,墓地の衛生管理に関する事項

(11)有害な動物,昆虫の駆除の指導と監督に関する事項

(12)死亡した動物,家畜の衛生管理に関する事項

(13)その他,環境衛生に関する事項

13の業務内容のうち,(1)は行政院が提出した法案では保健處の業務を規定した第8条にあった事項を移動したもの,(5)は防疫處の業務を示した第7条にあった「給水と下水道の衛生に関連する部分の確認と監督に関する事項」を修正して移動したもの,(9)は薬政處の業務の第6条にあった事項を移動したものであった。他の10の項目は環境衛生處を設置することにより加わったものであった。また,行政院による法案で防疫處の業務を示す第7条にあった「環境衛生の監督に関する事項」は,環境衛生處を加えたことに伴い削除された。

2.立法院における法案修正の背景

行政院衛生署組織法案の修正案を共同提案した3名の立法委員を中心に,立法院における法案の修正の背景を考察する(注29)

民主化以前の台湾では,国民党政権の権力者であっても,立法院を完全にコントロールすることはできなかった。1948年に中国全土で選出された立法委員で構成された立法院は,中国を代表する政権としての正統性を持ち続けるために不可欠な存在であった。中国大陸での選挙が行えないために全面改選はできず,国民党政権の最高権力者であっても立法委員らの地位を脅かすような政治的圧力をかけることは困難であった。立法委員らの多くは国民党員であったが,中国大陸にいた時期の派閥が残存しており,国民党中央の意向に必ず従ったわけではなかった。一方,中国大陸で選出された非改選の立法委員たちは台湾の社会に政治的基盤をほとんど持たなかったため,立法院が強大な権力を持つこともなかった[松田 2006b, 122-123, 129-150; 清水 2019, 26-29]。言論統制下であっても,立法委員の立法院での言論を完全に統制することはできなかった。中華民国憲法の規定により,立法委員は院内での言論と投票行動の責任を院外で問われることはなかった。

共同提案を行った3名のうち,李煥之と劉贊周は1948年に中国大陸で選出され,国民党政権の台湾への移転後も長く改選されなかった非改選の立法委員であった。一方,呉基福は1969年12月の台湾での選挙で新たに選出された立法委員であった。呉基福は台湾出身で植民地期に東京の日本医科大学を卒業した眼科医で,医師の職業団体である台湾省医師公会の理事長をつとめ,台湾の医療関係者を政治的に代表する立場であった[蔡篤堅 2002, 441-450]。

呉基福と法案修正案の共同提案者となった劉贊周は現在の吉林省出身で,日本に留学し九州帝国大学医学部を卒業した医師であり,医師の別の職業団体である中華民国医師公会の幹部(常務監事)でもあった。劉贊周と呉基福は,呉基福が立法委員に当選する以前から,医師の職業団体などでの活動を通じて関係があった(注30)。李煥之は江蘇省出身で医療や公衆衛生の専門家ではないが,蔣介石が1930年代に中国大陸で提唱した公衆衛生,環境衛生を含む生活改善の政治運動である「新生活運動」にその開始時点から事務局の幹部としてかかわっていた経歴を持ち,公衆衛生に強い関心を持っていたと考えられる(注31)。合同委員会において,李煥之は環境衛生のほかには,研究機関の整備について熱心に発言した。1958年に廃止されていた中央衛生實驗院を再度設立するために,付置機関に関する第15条に「衛生署は中央衛生實驗院を設置することができる」と書き加える修正を実現させた。ただし,中央衛生實驗院は条文に記されただけで再建されなかった。

1969年12月,国民党政権の台湾移転後の初めての立法委員選挙が立法院の欠員補充選挙として行われ,11名が新たに立法委員に選出された。呉基福はこの選挙に国民党から立候補して当選した。この選挙は欠員と人口増による定員不足を補うという名目で行われたため,この11名の任期は1948年選出の非改選議員と同じであり,1991年末に全員が引退するまで改選されなかった。さらに立法院では1972年以降,台湾での51名の立法委員の選出枠が設けられ,3年の任期で改選される増加定員選挙が行われることになった。その後,改選を伴う増加定員選挙の定員は1975年に行われた選挙では52名,1980年の選挙では97名に拡大された[若林 1992, 181-186]。行政院衛生署組織法案の審議が始まったのは,呉基福らが欠員補充選挙で立法委員に選出される直前であった。1969年に台湾で立法委員の補充選挙が行われた背景として,国民党政権が台湾を統治し続ける正統性の根拠を補おうとしたことがあるとされる[若林 2008, 129]。

呉基福が立法委員に当選した欠員補充選挙は1969年12月20日に行われた。立法院の院会で行政院衛生署組織法案の一読が行われた1969年12月16日,呉基福は選挙活動中であり,まだ立法委員に当選していなかった。呉基福ら当選した11名の立法委員への就任は1970年2月24日であった。行政院衛生署組織法案を審議した法制内政兩委員会(合同委員会)でも,1970年1月14日の第1回,1月21日の第2回,1月28日の第3回の際には,呉基福はまだ立法委員に就任していなかった。同年3月12日の第4回合同委員会での発言は,呉基福が同委員会で行った最初の発言であり,直近の劉贊周の発言とともに,衛生行政における環境衛生の重要性を強調するとともに,行政院による法案は環境衛生を軽視していると主張し,環境衛生處の増設を求めるなど,委員会での法案審議を方向づけるものとなった。呉基福は当選したばかりの新人であったが,1948年選出の非改選の立法委員たちにはない,直近の選挙で当選し台湾の人々を代表するという正当性と,台湾社会での政治的基盤を持っていた。呉基福は南部の台湾省第二選挙区で国民党から立候補してトップ当選した。選挙活動で呉基福は,おもに社会福祉,失業対策,社会保険の拡充や医療制度改革の必要性をうったえた(『中央日報』1969年12月12日第6版)。呉基福は台湾全体の医療・衛生関係者の利益を代表し,台湾に住む人々の健康と生活環境を守るという意味での環境衛生を代表しうる立場であったと考えられる(注32)

立法院での活動をみると,呉基福は周到な準備を行って行政院衛生署組織法案の審議に臨んでいたことがわかる(注33)。合同委員会で初めて発言した1970年3月12日の第4回では,衛生行政は疾病対策だけではなく,環境衛生がもう1つの柱として重要であると主張し,環境衛生處の設置を求めた。同時に,世界の主要国の衛生に関連する法律の立法状況をまとめた表を提出し,台湾では多くの分野で法整備が進んでいないことを示し,その後必要となる立法の方向性を示そうとした。衛生行政の世界的な潮流を提示した上で,環境衛生處設置の必要性を専門家の立場から説明しようとした。また同年3月18日の第5回合同委員会では,行政院による法案に代わる修正法案を提出した。呉基福が提出したこの修正法案が,同年4月8日の第7回合同委員会で李煥之,劉贊周と3名で提出した案の元となり,環境衛生處の増設で重要であった第4条と第9条を含む多くの条文での修正が実際に採用された。呉基福が持つ政治的社会的背景が,他の立法委員からの支持を集める上で説得力を与えたと考えられる(注34)

Ⅵ 環境衛生處が環境政策の形成に果たした役割と衛生テクノクラート

行政院衛生署組織法案の立法院での修正が,台湾の環境政策に与えた影響は以下のようなものであった。第4条による,行政院が作成,提出した法案にはなかった環境衛生處の設置は,でみた環境政策,環境行政の時期区分を行った先行研究,通史などでも記されているように,中央政府において実質的に環境政策を担当する行政組織が設立された転換点として重要であった。

立法院での審議の過程から明らかになったように,法案修正の意義はそれだけではない。呉基福らの修正提案により増設が決まった環境衛生處の業務内容は,修正で加わった第9条で明記された。環境衛生處の業務として,「飲料水の検査と衛生の指導,監督」,「下水道の衛生管理」,「空気汚染の検査と防止」,「一般廃棄物と屎尿等の汚物処理の指導と監督」,「河川の汚染,工業廃水等の公害の研究,指導と監督」といった,今日の環境政策の政策領域に含まれる内容が,行政院衛生署組織法に明記された。それら環境汚染対策,公害防止の業務を,環境衛生處は法的根拠を持って行うことが可能となった。環境汚染対策は中央政府が取り組むべき義務となったともいえる。行政院が提出した法案では,「環境衛生に関する業務」が防疫處の業務のひとつとして記載されていただけであり,その具体的な内容は記されておらず,公害防止,環境政策を行政院衛生署が取り組む業務とする法的な根拠は明示されていなかった。この修正により,中央政府レベルでの法律に公害防止と環境保護に関連する文言が初めて書き込まれた(注35)

上記のような経緯で成立した行政院衛生署環境衛生處は,狭義の環境衛生を担当する部局として機能しただけでなく,中央政府において環境政策を担当する最初の行政組織となり,その後の政策形成の基盤となった。1972年9月から環境衛生處の第2代處長となった荘進源は,處長に就任当初,一般的な環境衛生に関する業務もあったが,9割の時間を公害防止に関する業務に費やしたと回想録で述べている(注36)。1972年の飲用水管理条例,1974年の水汚染防治法,廃棄物清理法,1975年の空気汚染防制法等,一連の法案作成と立法院での審議の過程では,環境衛生處が重要な役割を果たした(水汚染防治法のみ経済部水資源統一規劃委員会との共管で,ほかは行政院衛生署の管轄)。行政院衛生署環境衛生處は,1970年代半ば以降の公害防止,環境汚染対策の執行においても,重要な役割を果たした。環境衛生處が立案し1975年9月から1977年6月まで南部の高雄市と高雄県(2010年に高雄市に統合)で実施された「台灣地區公害防止先驅計劃」は大気汚染対策,廃棄物管理を含む包括的な産業公害対策計画であった。この計画は比較的短期間のプロジェクトであり,規制執行の準備としての計画の立案,そのために必要な実態調査と地方政府の環境行政部門の訓練,人材育成に重点が置かれていたと考えられる(注37)

行政院衛生署の部局としての環境衛生處は,立法院での法案修正によって加えられたものであり,行政院の当初の予定になかったにもかかわらず,行政院衛生署の設立と同時に滞りなく設置され,必ずしも十分であったとは評価されていないが,その機能を果たしていた。立法院による組織法修正で加えられた部局であるにもかかわらず,行政組織として発足し一定の機能を果たすことができた理由は,公衆衛生,環境衛生にかかわる専門家とテクノクラートの集団が必要な人材を供給できたことにある(注38)

権威主義体制期の台湾においてテクノクラートと政治指導者が協力して公共政策を推進した事例として,1940年代後半から1950年代前半の農地改革が知られている。農業テクノクラートが主導した政策に対して,最高権力者であった蔣介石が権威を付与して後押しした。テクノクラートらは政治的野心を持たず,権力者を利用して自らの政策理念の実現を目指し,権力者は自らの政治的権威を高めることができた[松田 2006b, 384, 415, 441]。さらに,経済開発の過程で統治エリートの集団のなかでのテクノクラートの比重とその地位が高まった。行政院衛生署設立が進められた1960年代末には,経済政策にかかわる官僚を中心に,テクノクラートが台頭し,政策形成過程での役割が高まりつつあった[若林 1992, 122-124, 170-173]。また,テクノクラートの台頭の背景として,政治指導者らの意向だけではなく,経済援助を通じた米国の影響力も重要であったと考えられている。米国の援助は特にテクノクラートの人材育成を通じて政策形成に影響を与えた[文馨瑩 1990, 226-231]。

医療・公衆衛生もテクノクラートを形成しやすい分野として知られている。1960年代から1970年代初めの台湾の公衆衛生,環境衛生の政策過程で政治指導者とテクノクラートの協力があったと考えられる。1930年代に中国大陸で「新生活運動」を推進して以来,蔣介石にとって公衆衛生,環境衛生は自らの統治者としての権威を高めるための重要な政策課題であった(注39)。衛生テクノクラートらは,従来からある狭義の環境衛生の分野に空気汚染,飲料水の水源汚染,廃棄物管理,騒音などの新たな問題を加えて,公衆衛生の一部として,蔣介石らの権威を利用して推進したと考えられる。また,WHOなどから派遣された国外の専門家とのネットワークを通じて,それらの新たな政策課題の台湾での取り組みを推進した[寺尾 2023b, 74-77]。

Ⅶ 「法統」体制と対外的な危機

行政院衛生署を,内政を担当する内政部の下部組織ではなく,行政院直属の行政組織とする理由として国際的な連携と協力の推進が掲げられていたことの背景として,この時期に台湾の国際社会からの排除,孤立が進みつつあったことの影響が考えられる。行政院が衛生署を行政院直属の行政組織として設立することを決定した1969年半ばから後半にかけて,国際社会における台湾の地位は大きく揺れ動きつつあった。

「法統」とは,1947年の中華民国憲法にもとづいて実施された選挙により組織された中央民意機構および政府であることを根拠とする合法性と正統性を意味する。法統を政治権力掌握の根拠とし続けた台湾の中華民国政府の体制を「法統」体制とよぶ[清水 2019, 注ページ28(第1章の注5)]。国民党政権は,中国大陸のほとんどを実効支配していないにもかかわらず,中華民国政府が中国を代表する正統な政府であると主張し続けた。内戦状態の継続により中国大陸で選挙を行えないことを理由に国政レベルである中央民意機構の改選を行わず,立法院を「万年国会」化した。台湾省政府という,中央政府と領域がほとんど重なる地方政府も,この「法統」体制を維持するために必要とされていた。

台湾における「法統」体制は,米国など主要国による承認や国際連合(国連)における代表権の維持といった「外部正統性」に著しく依存していた。行政院衛生署設立のための準備が行われた1968年から1970年前後は,この外部正統性が大きく損なわれつつあった時期であった。

国連総会において1961年から毎年,中華人民共和国政府の加盟を支持する国々から「アルバニア案」とよばれる決議案が提出されていた。アルバニア案は,中華人民共和国政府代表を国連における唯一の中国代表と認め,蔣介石の代表を国連から追放するという決議案であった。国民党政権を支持する米国は「中国代表権を変えるいかなる提案も重要問題である」とする決議案を毎年可決させ,この問題にかかわる提案の可決には3分の2以上の賛成票を必要とする「重要事項」と指定することによってアルバニア案に対抗した。1961年から国連総会でアルバニア案は毎年否決され続けたが,1965年には賛成と反対が同数(賛成47,反対47,棄権20)になるという,国連代表権の危機が訪れた。しかし翌1966年以降は1969年まで反対が賛成を上回り続けた。1970年の国連総会では賛成が反対を上回った(賛成51,反対49,棄権25)が,先に可決されていた「重要事項指定決議案」により,アルバニア案は可決されなかった。1971年の国連総会では,米国などが提出した重要事項指定決議案を代替する決議案の可決に失敗し,アルバニア案が表決される前に中華民国は国連から退出した[清水 2019, 56-58, 142-157]。

国民党政権が事態をどのように見通していたかは明らかではないが,国連総会の状況をみる限り,衛生署の設立を行政院が準備していた1968年末から1969年半ばには,対外的な危機はまだ決定的なものではなく,国連代表権を当面は保持し続けられるという見通しも可能であったと考えられる。国際社会での地位の維持が客観的にも困難と予測されるようになったのは,国連総会でアルバニア案への賛成が反対を初めて上回った1970年10月以降と考えられる。そして,1971年10月の国連からの退出と1972年2月の米国のニクソン大統領の訪中によって,対外的な危機は決定的なものとなった(注40)

内政部の部局としての設立が決まっていた衛生署を,行政院直属の行政組織としての設立へと行政院が変更した1969年8月から9月,行政院はその理由として,衛生行政が国家の体裁にかかわる課題であることや,国際機関における連携,協力のための交渉を容易にする必要などを挙げていた。この時期には,衛生行政の成果をWHOなどの場でアピールすることにより,国連の代表権と国際社会での地位の堅持につなげようという意向が行政院にはあったと考えられる。衛生署を行政院直属とすることで,衛生署長を閣議に相当する行政院会議の列席者として任命することが可能となった。WHO等の国際会議において,行政院衛生署長を閣僚に準ずる政府代表として派遣し,成果をアピールすることも想定されていたと考えられる。台湾は1965年12月にWHOから世界で最初にマラリア撲滅の認証を受けた[飯島 2009, 160-161]。国民党政権にとって衛生政策はその統治の成果を国際社会にアピールする重要な手段でもあった。また1972年6月ストックホルムで開催された国連人間環境会議への参加の準備も行っており,参加予定の各国が事前に準備するナショナル・レポートを作成して,事務局に提出していた(注41)

行政院衛生署は1971年3月に設立されたが,同年10月に中華民国は国連を脱退し,国連の専門機関であるWHOからも脱退したため,行政院衛生署長がWHOなどの国際会議に中華民国政府を代表して参加して衛生行政の成果をアピールする機会は早々に失われてしまった(注42)。行政院衛生署長の政府代表としての派遣が見込まれた1972年6月の国連人間環境会議にも中華民国は参加できず,代わりに中華人民共和国が中国政府として参加した。

まとめと考察

1971年3月の行政院衛生署の設立,環境衛生處の設置にいたる一連の動きは,以下のように整理することができる。図1に示した3つの外部要因,「台北市の行政院直轄市への昇格」,「国際社会での地位の維持」,「立法院の欠員補充選挙」は,それぞれほぼ独立して発生した事象とみなすことが可能であろう。

図1 中央政府衛生部門の組織形態(案を含む)の変遷とおもな外部要因(1949-1982)

(出所)筆者作成。

「法統」体制において,台湾省政府は一地方政府にもかかわらず中央政府とほぼ重なる行政区域を持ち,内政の一部の行政分野を中央政府に代わって分担していたが,その領域の一部であり重要な部分であった台北市を1967年7月の行政院直轄市への昇格によって切り離された。一部の必要な法制度の改定には立法院の承認が必要であったが,この決定は基本的には行政院が総統の命令を受けて自ら行ったものである。

しかし,この地方制度の変更は行政院自らの組織変更を必要とするような,おそらく事前に十分には予想していなかった,意図せざる影響をもたらした。台湾省政府が中央政府とほぼ重なる領域を持っていたことにより成り立っていた,中央政府の内政の一部の行政機能の台湾省政府による分担は,一部ではあるが重要な部分である台北市を切り離したことによって機能しなくなった。この不整合に対する対応として,台湾省政府への行政機能の分担によって大幅に縮小していた中央政府の部局を昇格させ,その行政機能を拡充させようとした。そうした部局のなかに,衛生行政を担当した内政部衛生司が含まれていた。

当初の検討では,内政部衛生司を昇格させた衛生署は,内政部の警政司など他の部局と同様に,内政部内の部局とすることが1969年5月には決まっていた。しかし行政院は,内政部衛生司のみ,内政部内での衛生署への昇格ではなく,行政組織としてより格上となる行政院直属の行政院衛生署として設立することを1969年9月に決定した。この理由として,先に述べた立法院での行政院衛生署組織法案の主旨説明(1970年1月14日の第1回立法院法制内政兩委員会における蔣彦士行政院秘書長の発言)によれば,衛生政策は国家としての体面にかかわること,国際機関などでの国際連携と協力を容易にすることなどが挙げられていた。それらの背景には,1960年代末までに深まりつつあった対外的な危機に対抗して,衛生政策の成果を国際社会にアピールする可能性が想定されていたと考えられる。

内政部衛生署ではなく行政院衛生署として設立するために,内政部内の部局の場合には不要だった組織法を立法院で成立させる必要が生じた。立法院での行政院衛生署組織法案の審議は1969年12月17日から始まった。1969年12月20日に行われた立法院の欠員補充選挙により台湾地区で新たに選出された呉基福が途中から審議に加わり,1948年選出の非改選の立法委員だった劉贊周,李煥之と共同で法案の修正を提案した。この修正案が採用されたことによって,行政院による法案にはなかった環境衛生處が設置され,その業務として今日の環境政策に含まれる公害対策に相当する内容が組織法に書き込まれた。行政院衛生署の設立時の環境衛生處設置は,行政院が当初から意図していた政策ではなかった。

1969年12月の立法院の欠員補充選挙は国民党政権の台湾への移転後初めて行われた国政レベルの選挙であり,1966年から検討されていたが,たびたび延期されていた。立法院の欠員補充選挙がこの時期に行われなければ,環境衛生處設置を含む法案修正に最も大きな役割を果たした呉基福が行政院組織法案の審議に加わることはできなかった。

蕭新煌が1983年に発表した一連の研究では,1960年から1981年までの立法院での立法委員の環境問題に関するすべての発言を抽出し,分析した結果,一部の立法委員らの発言が環境政策の形成のためのアジェンダ設定の役割を果たしたと結論づけている[蕭新煌 1983a; 1983b; 1983c]。立法委員による環境問題に関連する発言は1970年から増加し,増加定員選挙で大幅に定員が増えた影響が現れる1973年からさらに増加する。1969年の欠員補充選挙と1972年からの増加定員選挙により台湾で新たに選出された立法委員は,1948年におもに中国大陸で選出された非改選議員と比べて,台湾の社会に根ざした「本土性」と各地方の問題と密接に関連した「地方性」を持つことにより,環境政策のアジェンダ設定と政策形成の推進により強く貢献した。換言すれば,各地方の問題であった環境問題が中央の政策対応に反映されるようになったことと,台湾で新たに選出された立法委員が増加していったことには重要な因果関係が見出せる,と蕭新煌は結論づけている。立法院で環境問題について発言した人数でも,発言回数でも,台湾で新たに選出された立法委員が占める割合は,その定員が拡大するに連れて定員拡大の影響を上回る勢いで高まった。1973年には発言人数の約44%(16人中7人),発言回数の約55%(20回中11回)であったが,1981年には発言人数の約72%(32人中23人),発言回数でも約72%(61回中44回)を占めた。1982年当時,立法院に在籍していた立法委員の総数は396人で,1969年の欠員補充選挙の11人と1978年の増加定員選挙の97人をあわせても108人であり,1948年選出の非改選議員が圧倒的多数を占めていた[蕭新煌 1983b, 70-71, 82, 84, 86-87]。

また,周元[1982]によれば,1981年11月に立法院で成立した行政院衛生署環境保護局組織条例案の審議での過程でも,第2条で定める環境保護局の業務のひとつである「空気汚染,水汚染,熱汚染,廃棄物,騒音,振動等の公害防止」に関する「企画と監督」に「執行」を加えて中央政府の権限を強化する修正案に対して賛成の発言の多くが台湾で新たに選出された委員によるものであり,執行は地方政府が担当するといった理由による反対意見の多くが1948年選出の非改選の委員によるものであった(注43)。1970年の立法院における行政院衛生署組織法案の審議での呉基福の一連の発言は,蕭新煌らが明らかにしたような,台湾で新たに選出された立法委員が増加する1973年以降に顕著になる動きに先駆けるものであった。

行政院衛生署,環境衛生處の設置にいたる一連の動きは,誰かがあらかじめ計画したものではなく,いくつかの出来事から予期せぬ影響を受けたことにより必要となった新たな対応が積み重なった結果によるものであった。部分的には,関係する主体が相談し調整した可能性もあるが,すべての過程でそうした調整を行うことは困難であったと考えられる。すべてを最高権力者の命令によって行うことも可能であったかもしれないが,そのような命令は発せられていないであろう。ただし,一連の動きの一部には,台北市の行政院直轄市への昇格のように,最高権力者らによる意思決定が,その意図とは異なる形でかかわっていると考えられる。

また,こうした動きの背後には,公衆衛生を担当する独立した行政組織や公害対策,環境政策を担当する部局の設立,法制度の整備などを目指すテクノクラートらの意向が以前から存在し,台北市の行政院直轄市への昇格という直接は関係がない地方制度の変更や,国際社会での地位の揺らぎへの政権の対応によって偶然に生じた政治的機会を利用したと考えることもできる。衛生テクノクラートの地位は全体に高まり,キャリアの頂点は台湾省政府衛生處長から中央政府の独立した行政組織の長である行政院衛生署長へと上昇した(注44)

すでに述べたテクノクラートと政治指導者の協働に加えて,テクノクラートと立法委員らが行政院衛生署,環境衛生處の設立を目指して立法院での組織法案の審議などで協力した可能性も検討する必要がある(注45)。臨床医であった呉基福らと衛生の専門家としてのテクノクラートらの利害は必ずしも一致しないと考えられる(注46)。行政院衛生署および環境衛生處の設立による中央政府の行政組織の拡充は公共政策としての衛生政策の格上げを意味し,当時の臨床医と医療従事者にとって最重要の目標だった医師法の全面改正のための政治的な基盤となることに加えて,医師法改正に対する支持をうるためにもテクノクラートと協力する誘因があった。利害の部分的な一致だけでなく,臨床医とテクノクラートは共通する専門知識を持ち,政策理念を共有することによって協力した可能性もある(注47)

先行研究や通史では1971年3月に行政院衛生署,環境衛生處がどのような経緯でなぜこの時期に設置されたかは明らかにされておらず,民主的な手続きと社会的圧力がないなかで国民党中央や中央政府の権力者らによるトップダウンで行われたと想定されていたと推測される。この事例においても,トップダウンによる意思決定も行われていたが,一見すると関係がない政策領域への波及(台北市の行政院直轄市への昇格により中央政府の組織再編による機能強化が必要となった)や,想定していた以上に本格的な行政組織の創設(衛生署を内政部の下部組織ではなく行政院直属に変更したことで,組織法の制定が必要となった結果,環境衛生處が設置された)という,当初は意図していなかった結果がもたらされた。

行政院衛生署,環境衛生處の設立にいたる一連の動きは,一見すると無関係と思われる出来事から思わぬ影響を受け,直近の意思決定に着目するだけでは十分に理解できない。台北市の行政院直轄市への昇格の時期,外部正統性が損なわれつつあった時期,衛生署を行政院直属の行政組織とする決定が行われた時期,立法院欠員補充選挙の実施時期など,それぞれが独立した事象と考えられる出来事の発生順序が,政策形成過程において決定的に重要であった[Pierson 2004, 第2章]。

本稿では,1971年3月の行政院衛生署,環境衛生處の設立にいたる一連の動きを取り上げ,行政院が中央政府として行った意思決定と,行政院が必ずしも意図しなかった影響が交錯しながら,1960年代末に台湾が置かれていた国際環境の影響を受けつつ,立法委員やテクノクラートの動きも反映して重層的,累積的に方向づけられた結果であることを明らかにした。民主化以前,行政院環境保護署設立以前の環境政策の形成過程については,先行研究も少なく,その全体像は明らかになっていない。特に1971年の行政院衛生署,環境衛生處の設立以前については,通史等にも断片的な情報が記されているのみである。環境政策の形成過程を明らかにするためには,行政院衛生署設立以前の政策形成につながる動きを明らかにする必要がある。また,本稿で取り上げた行政院衛生署の設立についても,行政院内での意思決定の過程,国民党中央の役割,蔣経国など権力者の決定への関与,テクノクラートの役割等,より詳しく検討される必要がある。それらの詳細な検討は今後の課題としたい。

[付記]

本稿はアジア経済研究所が2022年度に実施した個人研究「権威主義体制下の台湾における環境政策の形成過程―公衆衛生政策の一部から『後発の公共政策』への転換―」の成果の一部である。改稿にあたって2名の匿名のレフェリーから有益なコメントをいただいた。記して謝意を表したい。

(アジア経済研究所新領域研究センター,2023年3月29日受領,2024年2月9日レフェリーの審査を経て掲載決定)

本文の注
(注1)  行政院衛生署は1981年9月から関係機関に通達を送り,遅くとも1982年1月1日までに英文名称を設立時の「the National Health Administration」から「the Department of Health, Executive Yuan」に変更した(行政院衛生署「行政院衛生署英文譯名」,國史館檔案史料文物,典藏號028-010400-0088)。1971年の設立の経緯をあつかう本稿では旧名称を用いる方が望ましいが,副題(AbstractおよびContents)では今日広く知られている新名称を用いる。

(注2)  ただし,中央政府の環境行政組織による通史である行政院環境保護署[2012, 56]および行政院環境保護署[2019, 104]は,いずれも行政院衛生署の設立時期を「民國63年3月17日」(1974年3月17日)と誤認している。

(注3)  1971年の行政院衛生署・環境衛生處設立と同時代,先進諸国では中央政府に環境衛生處よりも高いレベルで独立した環境行政組織が設立された。1970年の米国の環境保護局(EPA)について森田[1987],1971年の日本の環境庁について今村[1976]が,行政学の視点からその設立を行政組織の再編成ととらえて分析している。及川[2003]は,米国で環境保護局に先立って設立された大統領環境諮問委員会(CEQ)の設立を法律学,公共政策学から分析している。いずれも環境行政組織の設立を中央政府の省庁間での権限の分散への対応ととらえている。日本の環境庁設立の目的は,公害行政の「一元化」を省庁間の権限の「総合調整」によって行うことであった[新嶋 2018, 88-93]。行政院衛生署の設立は権威主義体制期に行われ,米国や日本で重要だった省庁間の権限の分散,業界団体の圧力は顕在化しておらず,社会運動は存在しなかった。行政権限の調整は中央政府の省庁間よりも,この時点では中央政府と台湾省政府との間で必要となっていた。その調整の結果として中央政府に設立された行政院衛生署に,1971年以前は衛生行政をおもに担当していた台湾省政府には調査研究機関であった台湾省環境衛生實驗所を除いて存在しなかった環境衛生を専門にあつかう部局として,環境衛生處が設置され,広義の環境衛生である公害防止を担当した。

(注4)  環境保護運動などの社会運動による社会的圧力が環境政策の進展を促したとする研究として寺尾[1993], Tang and Tang [1997], Terao[2002], 何明修[2006]などがある。呉[2012]によれば,民主化以後も環境運動などの社会運動と公共政策の進展との連動が深まった。

(注5)  空気汚染対策については顧慕晴[1982],水汚染対策については寺尾[2019]劉翠溶[2009]などが1970年代以前の政策についても取り上げている。

(注6)  寺尾[2023b, 54-58]では,1971年の行政院衛生署設立以前の地方政府の行政組織の形成を,台湾省政府と台北市政府の環境衛生にかかわる部分を中心に検討している。行政組織としては,研究機関を除けば,WHOから派遣された米国の専門家(Clarence W. Klassen)の提言を受けて1967年に台湾省政府に設置された台湾省水汚染防治委員会のみであり,その組織も土木,建設に加えて産業政策全般を担当する建設庁に所属し,省政府内の衛生處など関係部局から代表を集めた調整機関であった。台北市政府に1968年10月に設立された環境清潔處については,で説明する。また,同時期の地方の条例などの制度については注35で説明する。

(注7)  規律・統制と動員という側面で衛生政策と共通する部分がある文化政策については菅野[2011]がある。毛沢東による文化大革命に対抗し,1966年から台湾で復古主義的な文化政策を推進する「中華文化復興運動」が行われたことに呼応して,1930年代の中国大陸で蔣介石が提唱した「新生活運動」を台湾で復活させる動きがあり,公衆衛生,環境衛生においても上からの規律と規範の強制が試みられた[菅野 2011, 256-265; 深町 2013, 326-327]。

(注8)  先進国の多くでも環境政策は衛生政策の拡張から始まっている。台湾においては,衛生政策のなかでも環境衛生という分野を拡張して対応する試みが顕著にみられる。行政院衛生署環境衛生處長,行政院衛生署環境保護局長などを歴任した荘進源は以下のように述べている。「伝統的な環境衛生の対象は生物的環境で,病毒,細菌,病虫,寄生虫,昆虫,鼠等であり,公害に代表される新たな環境衛生の対象は物理,化学的環境で,大気汚染,水質汚染,騒音・振動,悪臭等になります。従って,公害防止は新たな環境衛生であると云ってよく,日本でも米国でも公害防止の実施は衛生機関に始まり,管理の範囲が広くなるにつれて,最後は独立した環境庁が実施すると云う経緯を辿りました。台湾でも同じく行政院衛生署環境衛生処,後に環境保護局が公害防止業務を開拓し,最後は行政院環境保護署(日本の環境省に相当)で行政院直属機関として環境保全の業務を司ると云う結果になりました」[荘進源 2012, 83-84; 荘 2013, 147-148]。

(注9)  Ⅳの2.Ⅴの2.の一部は,寺尾[2023b, 61-66]第3節で取り上げた議論をもとに,原資料等を用いて再検討したものである。

(注10)  台湾省政府を廃止する動きは1990年代の民主化の過程で本格化し,1998年の省政府の形骸化でほぼ完了し,「中華民国の台湾化」を決定づける動きに連なった。制度変更の過程は激しい権力闘争を伴った。1967年の台北市の行政院直轄市への昇格は,省政府の権限を台北市と分割することによって省政府が存在することの矛盾をかえって顕在化させた。中央政府との重複という矛盾を緩和していた一地方政府である台湾省政府への衛生,農業,観光,気象観測,商品検査,警察,土地政策,公共建設など内政にかかわる一部の行政分野の実質的な分担は,管轄する区域がほぼ完全に重複していた時期には問題を生じさせなかった。しかし,台北市政府の行政院直轄市への昇格により台湾省政府の管轄から外れ,役割分担は不完全なものとなり,特定の行政領域の台湾省政府への分担は困難となったのである。従来から台湾省政府の管轄下になかった金門,馬祖地区とは異なり,台北市は例外としてあつかうには大きすぎた。台北市を切り離されたことにより,台湾省政府は「もう一つの中央政府」から「大きすぎる地方政府」へと変わった。その後の台湾省政府の行政権限を行政院に移す一連の動きは,台北市の昇格によって生じた行政制度の矛盾がもたらした結果であった。台北市の行政院直轄市への昇格は,民主化以後に本格化する台湾省政府の機能の停止,実質的な廃止につながる動きの引き金を,意図せずに引いたと考えることができる。この動きは当初は中央の権限強化であったが,後には地方分権を強化するものとなった。

(注11)  松田[2006b, 252]では,四川省の前に広東省ですでに中央化を行っていたとされている。

(注12)  行政院直轄市(院轄市)制度の歴史については北波[2013]が詳しい。

(注13)  佐藤[2005, 175-176]竹内[2011, 46]山形[2019, 192-193]等が指摘している。陳殿權[1979, 248]によれば,台北市の行政院直轄市への昇格に反対していた論者らが,市長選挙を行わないことが国民党政権にとっての直轄市昇格の本当の目的であると主張した。制度上は行政院直轄市に昇格後も市長選挙を行うことが可能であったにもかかわらず台北市長を官選としたことが,この指摘の妥当性を裏づけているとも考えられる。

(注14)  台湾省議会は「台北改制院轄市專案研究小組」を組織し,提言をまとめて行政院に意見書を提出した(『徴信新聞報』1967年3月4日第2版)。提言には,教育,警察,衛生,水利(治水),食糧,商品檢驗(商品検査)など,台湾省政府が中央政府から多くを分担していた内政部門の組織再編に関連するものが含まれていた。台北市の昇格の後,比較的早く実際に組織再編が行われた分野をみると,警察については,治安維持と業務の統一性のため昇格後も台北市政府警察局は引き続き台湾省政府警務處の指揮監督下に入るべきである,としている。衛生については,公衆衛生行政の一元化のため,台北市にある省の機関はその業務範囲が台北市の管轄区域内に限定されているもののみ台北市に移管可能であるが業務が全省に及ぶ機関は従来の組織を維持するべきとし,台北市政府衛生局については昇格後も引き続き台湾省政府衛生處の指導を受けて業務を行うべきである,としている。詳しくは「本會臺北改制院轄市專案研究小組研究意見書」『第三屆第八次定期大會(一)』台灣省議會, 1967年, 1353-1358.(國史館臺灣文獻館臺灣省議會史料總庫, 巻號003-03-08OA-01, 典藏號 003-03-08OA-01-5-3-0-00103.),曾文銘[2011, 98-99]を参照。

(注15)  台湾省議会の性格と機能については,岸川[2016]に詳しい。

(注16)  徐慶鐘(1907-1996)は台湾出身の農業経済学者。内政部長の後,行政院副院長をつとめた。国立台湾大学での学生で農業経済学者,テクノクラート,のちの1988年から2000年まで総統をつとめた李登輝(1923-2020)を政界に推薦した人物の一人とされる[若林 1997, 139-140]。

(注17)  Jacoby[1966, 168, 188]によれば,1960年から1964年のUSAIDによる台湾への援助総額の約30パーセントが,農村の健康改善,マラリア対策,医療施設の建設,医療従事者の教育,環境衛生,浄水の供給などの公衆衛生に用いられたと推計されている。

(注18)  1958年12月の行政機構改革で,中央政府の多くの行政機関が台湾省政府に移管,統合された。中央衛生實驗院のほかは,交通部中央気象局を台湾省気象所に編入し,交通部公路總局を廃止し道路管理業務を台湾省公路局に移管し,経済部中央農業研究所を廃止し台湾省農業試驗所に編入し,内政部薬品化驗院と内政部生物檢定室を廃止し台湾省衛生試驗所へ統合した(『聯合報』1958年12月5日第3版)。交通部公路總局以外,このとき中央から省へ統合,移管された行政組織の多くは調査研究機関であった。台湾省政府に所属した調査研究機関は,台北市が昇格したことにより台湾省の管轄から外れても,行政権限にもとづく執行を行う他の行政組織とは異なり,台北市内において調査研究活動ができなくなるわけではなく,その影響は小さかったと考えられる。ただし,上記のうち台湾省気象所は1971年7月に台湾省政府から中央に戻され,交通部中央気象局となった。

(注19)  『徴信新聞報』1967年9月18日第2版の台湾省政府担当記者による記事「省與北市間暗中競爭」によれば,7月1日の台北市の行政院直轄市への昇格後,台湾省政府と台北市政府との間で,地方税の徴税の範囲と税率をめぐる混乱をはじめ,さまざまな争いが起きた。台湾省と台北市の上下関係がなくなり,同格の地方政府となったため,多くの行政分野で競争,競合が起きたが,中央政府には調整を行う能力が足りなかった。都市建設,特に広域にわたる調整が必要となる交通系統,洪水防止,住宅建設とコミュニティー開発,上下水道建設,空気汚染と水汚染の防止などの分野で,中央政府の機能強化による調整が必要とされると,この記事では結論づけている。

(注20)  『徴信新聞報』1967年5月31日第2版,曾文銘(2011, 107-108),「台北市改制籌劃小組第十一次會議紀錄」および同会議録の「附件二 關于台北市改制後過渡期間原適用之台灣省政府暨該市所頒布之有關行政法規可否准予繼續採用案」1967年6月30日(國史館檔案史料文物「臺北市改制為院轄市案(五)」典藏號014-010401-0326)を参照。台北市改制籌劃小組は行政院が設置した台北市の昇格の準備を行う委員会で,内政部長,台湾省政府主席,台北市長らが参加した。直轄市昇格後の最初の台北市議会議員選挙は,1969年12月に行われた。

(注21)  1968年10月の時点で,内政部衛生署内に設置する部局である處の案がすでに示されていた。1969年12月に行政院が立法院に提出する「行政院衛生署組織法案」にあった医政處,薬政處,防疫處,保健處の4處に加えて,總務處が含まれていた。内政部衛生署の人員は総員80名を予定していた(『聯合報』1968年10月16日第2版)。後述するように,1970年当時の内政部衛生司の人員は臨時雇用者等をあわせて総勢28人であった。内政部衛生署への改組により人員が約3倍に増員される計画であった。

(注22)  1949年4月,中国大陸での戦況が悪化し,中央政府は組織を縮小するため,地政部,農林部,糧食部,水利部,衛生部,社会部などを廃止し,いずれも署として内政部内に統合した。内政部衛生司と同様,同年9月に内政部内で署から司への改組により内政部地政司が設置された。内政部警政司については,1946年8月15日,内政部警察總署に改組されたが,1949年4月,中央政府機構の緊縮により内政部警政司に戻された。これらの行政組織はいずれも中央政府の台湾への移転の直前に縮小されて内政部内に統合され,内政部の司に改組された。1949年12月から行われた台湾への移転後は,台湾省政府にその機能の多くを分担させていた。

(注23)  蔣介石(1887-1975)からの最高権力者の地位の継承は,1972年5月の蔣経国(1910-1988)の行政院長就任で決定的となったとされ,以後1978年5月の総統就任を経て1988年1月の死去までの約16年間が「蔣経国時代」とされる。しかし,蔣経国は行政院長就任より3年あまり前の1969年6月の行政院副院長就任の時点ですでに中央政府の実質的な権限の多くをほぼ掌握していたと考えられる。特に経済政策,開発政策などに関する決定で蔣経国は行政院副院長就任直後から中心的な役割を果たしていた。1963年12月から行政院長をつとめていた厳家淦(1905-1993)は1966年5月からは副総統を兼任しており,本来は行政院長が兼任する行政院財政経済金融会報(経済関係閣僚会議)の主催者や行政院国際経済合作発展委員会(経合会)主任委員などの役職を副院長就任後は蔣経国が兼任したことが,そうした実態をあらわしていたと考えられる[若林 1992, 179-180; 1997, 117-118; 清水 2019, 171-172]。松田[2006a, 83]によれば,台湾の政策決定過程において通常は行政院の役割が最も重要であるが,この権力移行期には蔣経国を中心とするインフォーマルな集団が重要であったため,資料上の制約からこの時期の政策決定過程を明らかにすることには困難が多い。

(注24)  この文書のほか,この時期の立法院の議事録である『立法院公報』などの行政院衛生署組織法制定時の審議の記録は,立法院國會圖書館「立法院法律系統」から入手できる。

(注25)  張智康はおもに中央政府でキャリアを重ねた衛生テクノクラート(『聯合報』1958年7月24日第3版)。北京市出身で山東省の齊魯大学医学部,米国のジョンズホプキンス大学公衆衛生大学院を卒業した。1949年の政権の台湾移転時には内政部衛生司に勤務しており,中央衛生實驗院院長などを経て,1960年6月から衛生司長をつとめ,1971年3月の行政院衛生署設立時には副署長に就任した(2人のうちの1人)。以後,1980年に退職するまで副署長に在任した。

(注26)  合同委員会の各会の出席委員数は,第1回22人,第2回24人,第3回24人,第4回24人,第5回20人,第6回26人,第7回26人,第8回32人,第9回32人,第10回37人,第11回27人であった。

(注27)  立法院法制内政兩委員会での法案審議では,環境衛生處の設置に関する議論のほか,衛生署を内政部の部局ではなく行政院直属とすることの可否,さらには衛生署ではなく衛生部とするべきか否かについても,多くの立法委員がさまざまな意見を述べたが,委員会として修正案をまとめることはできず,行政院の法案どおりに衛生署を行政院直属とすることとなった。1970年6月19日の院会で始まった二読での張子楊委員(11回中6回の委員会で主席をつとめた)による合同委員会における審議の報告に議論の概要が示されている(『立法院公報』第59巻第46期, 1970年6月20日発行, 院會紀錄22)。また,衛生署を内政部の部局ではなく行政院直属とする理由についての答弁(1970年3月18日の第5回合同委員会)で,張智康衛生司長は,立法委員らの質問にどう答弁するか内政部と行政院に指示を求めたところ,政策に関する質問には答える必要はないといわれたと述べ,代わりに法案の作成過程を以下のように説明した。「衛生署組織法(内政部衛生署の場合は組織条例:引用者)は当初は内政部が起草し,衛生署は内政部に所属する組織であったが,後に行政院が内政部から独立して起草し,行政院に直属する組織に変更された」(『立法院公報』第59巻第28期, 1970年4月18日発行, 院會紀錄8)。この説明から「内政部衛生署組織條例」(案)を内政部が先に用意していたことが確認できる。また,衛生署を内政部の部局から行政院直属へ変更する決定は行政院が独自に政治的な判断で行ったことが窺える。

(注28)  蔡篤堅[2002, 449]に呉基福による行政院案に代わる法案の提出について言及がある。蔡篤堅[2002, 457-459]の「吳基福年表」には行政院衛生署組織法については言及がなく,環境政策に関連する法律では1974年の水汚染防治法と廢棄物清理法について立法委員として制定に関与したことが言及されている。

(注29)  立法院における環境問題に関連する立法委員らの発言については,蕭新煌[1983a, 1983b, 1983c]などの研究があるが,水汚染防治法などの環境法と環境行政組織の組織法の法案審議の過程での発言については行政院が提出した法案に対する受動的なものとみなし,考察の対象としていない。立法院における1974年の水汚染防治法の立法過程については寺尾[2015],1974年の廃棄物清理法については寺尾[2019],1975年の空気汚染防制法については顧慕晴[1982]Terao[2021]などがある。

(注30)  中華民国医師公会全国連合会は1930年に上海市で設立され,1942年制定の「非常時期人民團體組織法」(人民団体法)と1943年制定の「醫師法」にもとづき1943年に中央政府に団体登録されたが,台湾への移転後は活動をほぼ休止していた。劉贊周(1906-1998)は1954年から1979年まで同公会の常務監事をつとめると同時に,呉基福(1916-1985)が理事長だった台湾省医師公会の会員でもあった。両者の接点としては,たとえば1968年3月10日,台湾省医師公会の第10回第2次代表大会にあわせて行われた台湾省医薬機材供給合作社の大会で,高雄市に設立された医療センターに関する呉基福の提案に対して劉贊周は賛成すると発言した(『聯合報』1968年3月11日第4版)。1979年9月,台湾省医師公会は形骸化していた中華民国医師公会に活動の主軸を移し,呉基福が後者の理事長に就任した(中華民國醫師公會全國聯合會ホームページの「公會簡介(https://www.tma.tw/about/index.asp)」を参照,最終閲覧2024年3月21日)。台湾省医師公会は人民団体法にもとづき台湾省政府から設立許可を受けていたが,1979年7月に高雄市も行政院直轄市に昇格し,台北市に続いて高雄市内でも活動の法的根拠が不明確になったことに対応するため,全国組織として先に登録されていた中華民国医師公会に合流する必要があったと考えられる。人民団体法では,同一区域で同じ分野で活動する団体を複数設立することはできなかった[寺尾 2001, 336-341]。呉基福は1985年に死去するまで同公会の理事長をつとめた。

(注31)  李煥之(1910-1983)は1934年2月,蔣介石が新生活運動を開始した江西省南昌で,運動を推進するために南昌新生活運動促進会を組織する準備を行った5人のうちの1人であり,成立した促進会では9人の監事のうち主任,副主任に次ぐ書記に就任した[深町 2013, 64-68]。

(注32)  呉基福は1974年に制定された水汚染防治法の法案審議でも法案の多くの問題点を指摘して修正を迫ったが,それらは十分に反映されなかった[寺尾 2015, 145-146]。水汚染防治法は,法案の段階では経済部水資源統一規劃委員会が単独で所管することになっていたが,立法院での修正により,衛生に関する部分は行政院衛生署が所管することとなった。1975年の空気汚染防制法の法案審議では,呉基福は1974年の水汚染防治法,廃棄物清理法に続いて空気汚染対策の個別法を制定するだけでなく包括的な基本法を制定する必要性を主張するなど,いくつかの重要な指摘を行った。李煥之と劉贊周は空気汚染の規制を実施する区域を限定する条項を削除する修正提案の共同提出者に名を連ねた[Terao 2021, 61-62, 72-73]。

(注33)  呉基福は立法委員に当選する以前から中央政府の衛生部門の拡充に強い関心を持っていたと考えられる。呉基福は1963年12月に台湾省医師公会の理事長に就任した(『聯合報』1963年12月12日第2版)。この期の任期が終わる1967年2月19日の同公会第10回第1次代表大会で通過した2件の重要議案のひとつが,内政部衛生司の組織を拡充して衛生署あるいは衛生部を設立する提言であった(『聯合報』1967年2月21日第2版)。呉基福は1970年4月に台湾省医師公会理事長に復帰し,1976年3月までつとめた[蔡篤堅 2002, 458]。

(注34)  立法院では国民党員が立法委員の圧倒的な多数を占めた。国民党員の立法委員には派閥があり,劉贊周は多数を占める主流派の「座談会派」に,李煥之は台湾への移転までは主流派だったがその後の国民党中央による切り崩しによって非主流派に転じた「C・C派」に属していた。松田[2006b, 135-140],特に136ページの「表2-2 立法院内の党派表(1950-1954)」を参照。

(注35)  1970年の行政院衛生署組織法以前にも,台湾省,台北市などの地方政府レベルの「辦法」や「規則」などでは環境保護や公害防止に関する規定がみられた。なかでも1965年9月に草案が作成され,1966年7月に台湾省議会で承認され,1967年7月に台湾省政府が公布した「台灣省環境衛生管理規則」は空気汚染,水汚染,廃棄物管理などの項目を包括的に取り込んだ内容を含んでいた[寺尾 2023b, 57-59]。この規則(条例に相当)は,台湾省の環境衛生に関する既存の17の規則と辧法を統合すると同時に,空気汚染対策,水汚染対策を加えたものであった。この規則は,空気汚染や水汚染などの環境汚染対策,公害防止が環境衛生の分野にいったんは取り込まれてそのなかで政策形成されたことを示す事例のひとつである。荘進源[2012, 83-84]荘[2013, 147-148]も参照。

(注36)  荘進源[2012, 84]荘[2013, 147]を参照。荘進源は1926年台湾出身で台湾大学工学部,京都大学大学院で化学工学,衛生工学を学んだ。台湾省政府,台北市政府で技官などをつとめた後,1972年10月から1982年1月まで行政院衛生署環境衛生處長をつとめた。1982年1月の環境衛生處の行政院衛生署環境保護局への改組で同局の局長となり,1987年8月に行政院環境保護署に改組されるまでつとめた。

(注37)  公害防治先驅計劃專案小組[1976]行政院衛生署[1978]荘[2013, 154-155]を参照。当時,行政院衛生署環境衛生處長だった荘進源は,行政院秘書長だった費驊(1912-1984)から「中央政府で工業地区を選んで先駆的な公害防止業務を実施し,地方政府の参考に供するように」という指示を受けて,台湾地区工業公害防治先駆計画を立案,実施したと述べている。この計画には行政院衛生署のほか,経済部,台湾省政府,高雄市政府,高雄県政府が参加した。

(注38)  松田[2006b, 151-160]によれば,重要な政策の最終的な決定は国民党中央常務委員会が行っていたが,党には具体的な政策を立案する十分な人材はおらず,多くの政策分野で行政院や台湾省政府に所属するテクノクラートに政策立案を依存していた。

(注39)  「國父」とされる孫文(1866-1925)が1924年に行った「三民主義」に関する講話では,民族主義と民権主義については各6講で完結しているが,民生主義については4講までとなっていた。蔣總統言論彙編編輯委員會[1956]は蔣介石が1953年に発表し,孫文の民生主義の残り2つの講話を補ったと主張したものである。蔣介石による民生主義の残り2講は「育」と「樂」で構成されており,「育」は生育(人口問題),養育,教育などを,「樂」は文化,娯楽,体育,レクリエーションなどを含む。「育」の養育には医療・公衆衛生,教育には医療・公衆衛生の家庭教育が含まれ,「樂」には都市と農村の生活環境の整備,森林と河川などの防災と資源管理,都市の緑地整備など,今日の環境保全と自然保護につながる内容が含まれる。医療,公衆衛生,生活環境と資源の保全などを重視する姿勢は,蔣介石が自らを孫文の後継者と主張する正統性の根拠の重要な部分であった。蔣介石のよびかけで1966年に開始された中華文化復興運動では,1930年代に中国大陸で行った新生活運動で示された生活規範「新生活須知」を「國民生活須知」として復活させた。それらのなかには環境美化や衛生に関する規範が含まれていた[菅野 2011, 256-265]。1960年代末,国民党政権は公衆衛生を重視する姿勢を再び強く打ち出していた。

(注40)  ニクソン大統領の訪中による米中両国間の関係正常化交渉の計画は,1971年7月9日から11日のキッシンジャー大統領補佐官の極秘訪中を受けて7月15日に大統領府により発表された。松田[2006a, 64-69]によれば,中華民国政府(台湾)は米中の急速な接近の動きをこの時点まで予想せず,キッシンジャーの訪中も事前に察知できなかった。

(注41)  参加予定の各国が事務局に事前に提出した,自国の環境の状況に関する報告をとりまとめた外務省国際連合局[1972, 113-136]に,「中華民国」のナショナル・レポートが掲載されている(英語の原文からの翻訳)。同書の金子熊夫(当時外務省国際連合局科学課)の「解説」[外務省国際連合局 1972, 7-20]によれば,ナショナル・レポートの提出期限は1971年3月末であった。内容と作成時期からその原文と考えられる31ページの英語の文書「ENVIRONMENTAL PROBLEMS OF TAIWAN, REPUBLIC OF CHINA, FEBRUARY 1971」が,行政院國際經濟合作發展委員會「空氣汚染與水汚染防治總卷 1971~1972」(中央研究院近代史研究所檔案館行政院經合會檔案, 館藏號36-11-003-007)に収録されている。同文書では,発行の翌月に設立された行政院衛生署を「the National Health Administration」とよんでいる。

(注42)  行政院衛生署の初代署長に就任した顔春輝(1907-2001)は台湾出身で,1948年から1963年まで衛生テクノクラートの当時のキャリアの頂点だった台湾省政府衛生處長をつとめた。退任後はWHOで専門家として南アジア,中東,アフリカなどで防疫対策の顧問,駐パキスタン代表,ジュネーブの本部で感染症対策などを担当し,公衆衛生専門家の国際的なネットワークの中心にいた[張淑卿 2017, 9]。

(注43)  行政院衛生署環境保護局組織条例案第2条のこの修正は実現しなかった。中央政府の環境保護局が直接の執行権限を持たないことになった結果,政策の執行の実効性に重大な制約がもたらされた。行政院研究發展考核委員會[1988, 14]によれば,中央政府の行政院衛生署環境保護局には地方政府の環境保護部門の執行を指揮する権限がなかったため,中央による計画と地方による執行の調整は困難となり,執行の実効性も不確実となった。この研究計画を受託した馬文松,邱聰智らは,組織条例第2条を改正して中央政府の環境保護局による直接の執行を可能にするよう提言した(研究期間は行政院環境保護署設立以前の1985年から1986年)。

(注44)  立法院での行政院衛生署組織法案の審議の過程では,蔣介石が当時推進していた中華文化復興運動を受けて,2名の副署長のうちの1名を中医(中国の伝統医学)の専門家とする修正案が複数の委員から出された。呉基福は自ら専門家としての立場から,副署長などの幹部は医学の特定分野の専門家ではなく衛生行政全般に通じた人物が望ましいと主張し,その提案に反対した(1970年4月15日の第9回合同委員会,『立法院公報』第59巻第46期,1970年6月20日発行,委員會記錄21-24)。副署長のうち1名を中医専門家とする案は合同委員会では付帯決議として採用されたが,院会の二読で取り下げられて実現しなかった。結果として,西洋近代医学の専門家である衛生テクノクラートの高官ポストは削減されなかった。

(注45)  彼らが以前から国際会議などの場で同席し,医学会で同時期に役員をつとめていたことは確認できる。たとえば,1963年11月に行われた台湾省医学会の第18回年会では省政府衛生處長だった許子秋(1920-1988,後の1981年から1986年まで第3代の行政院衛生署長),立法委員の劉贊周らが参加した。年会では役員(常務理事)として許子秋,呉基福のほか,1974年から1981年まで第2代の行政院衛生署長をつとめた王金茂(1913-2002)らが選出された(『聯合報』1963年11月24日第2版)。

(注46)  衛生テクノクラートのリーダーだった顔春輝と台湾省医師公会の幹部だった呉基福は,在学時期は重ならないがともに台南長老教中学校(1939年から長榮中学,現在の長榮高級中学)の出身で,同校および同校を設立したイングランド長老教会を通じた個人的なつながりがあったと考えられる。呉基福は1966年から1985年まで同校の理事長をつとめていた[蔡篤堅 2002, 458]。顔春輝は同教会の英国人医療宣教師,John Preston Maxwell(1871-1961)の支援を受けて同校卒業後に中国大陸に渡り,北京の協和医学院などで医学,公衆衛生を学んだ[張淑卿 2017, 8]。顔春輝の父親,顔振聲(1876-1949)も同校出身の医師で,同教会が台南に設立した新樓醫館(病院)の院長をつとめ,信徒を代表する長老でもあり,同校の熱心な支援者だった[駒込 2015, 173-174, 210, 231-232, 314, 329, 339-341; 『臺灣民報』1926年11月25日第3面]。

(注47)  公共政策の形成過程については,合理的な各主体が諸制度(institutions)の制約の下,それぞれの利益(interests)を追求するモデルでは十分に説明できない場合があり,もう1つの要因として理念・アイデア(ideas)が挙げられる。「後発の公共政策」である環境政策の形成過程は,アクターの利害関係と制度的制約条件だけでは説明が難しいことが多い。専門家集団が科学的知識を共有することは,理念・アイデアが政策形成過程で機能するための条件となりうる[寺尾 2023a, 8-17]。

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