アジア経済
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論文
中国における失業の消滅と現実――精簡政策の実施過程を中心に――
許 楽
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2024 年 65 巻 4 号 p. 2-33

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《要 約》

1958年,中国共産党は大躍進運動を背景に,失業現象の消滅を宣言した。しかし,その後間もなくして,都市部の人口削減を目的とする精簡政策が実施され,3年間で2600万もの都市人口が削減された。本稿は,上海市を事例に,「失業消滅」がもたらした影響と,「失業消滅」を維持させた政治的メカニズムを分析するものである。「失業消滅」をめぐり揺れ動く中央政府の労働政策と未熟な計画経済体制は,地方レベルに労働力の削減,労働力の維持・拡大という相矛盾する双方向の圧力をかけた。この双方向の圧力に対応するために,地方政府,企業,基層社会組織,労働者など多様なアクターは,計画経済体制の外部に,労働力の流動を担保する空間を創出した。この空間の存在は,「失業消滅」の現実を支え,中国の計画経済体制を補完する役割を果たした。

Abstract

In 1958, against the backdrop of the Great Leap Forward, the Chinese Communist Party proclaimed that the problem of unemployment had been fundamentally eradicated in socialist China. However, shortly thereafter, the downsizing policy (Jingjian, 精簡 in Chinese) aimed at reducing urban populations was implemented, resulting in a reduction of 26 million urban residents, including a substantial portion of labor force, over the three-year period from 1961 to 1963. Using Shanghai as a case study, this paper analyzes the process of implementing the downsizing policy to reveal the political mechanisms that underpinned the reality of the disappearance of unemployment. The fluctuating labor policies of the central government and the immature planned economic system exerted contradictory pressures at the local level. On the one hand, local governments and enterprises needed to reduce their labor force to meet the demands of streamlining policies; on the other hand, the local need for labor persisted amidst a dynamic political environment and the soft budgetary constraints of the planned economy. To address these conflicting pressures, diverse actors such as local governments, enterprises, grassroots social organizations, and workers created a space that ensured the mobility of labor outside the planned economic system. The existence of this space, formed through the dynamic interplay of various local interests, underpinned the reality of the disappearance of unemployment and complemented China’s planned economic system.

 はじめに

Ⅰ 先行研究

Ⅱ 「失業消滅」と精簡政策

Ⅲ 地方における精簡政策の実施過程――上海市を事例に――

 おわりに

はじめに

産業革命以来,失業という問題は,国家,社会,企業,個人いずれにとっても大きなリスクである。この問題に対し,資本主義諸国は社会保障制度を中心とした解決を模索したが,社会主義諸国は,生産物の公有制を前提に計画経済体制を構築することにより,資本主義が生み出した失業問題を根本から解決することを目指した。1958年,中国共産党は急進的な社会主義化路線へと舵を切るなかで,「失業消滅」(注1)を高らかに宣言した[中共中央文献研究室 1996a, 162-207]。それ以降20年以上にわたり,中国経済は社会主義イデオロギーのもと,「失業消滅」という前提により営まれたのであった(注2)。しかし,失業が消滅したはずの中国社会では,間もなくして都市部の人口削減を目的とする「精簡(以下,精簡)」(注3)政策が実施され,その主要な政策対象である労働者が農村部へと配置された結果,1961年から1963年の間に,全国で職工1887万人,都市人口2600万人の減少が実現した(注4)。完全雇用により失業が消滅したはずの計画経済体制において,なぜこれほど大規模な都市労働力の削減がなされ得たのか。「失業消滅」の前提と実態とに乖離があったのであれば,はたして,「失業消滅」はどのような政治メカニズムによって維持されたのだろうか。

本稿は,一見すると失業消滅の理想とは相容れない精簡政策の実施過程にこそ,計画経済期をつうじた中国の労働体制の実態が映し出されていると考える。そのため,本稿では,中華人民共和国の成立から「失業消滅」宣言,さらには1960年代初期の精簡政策の実施に至る過程を連続的に観察し,上海市を事例に,イデオロギー上否定してはならない「失業消滅」という前提と実態とを持続的に整合させた政治的メカニズムがどのようなものであったのかを分析する。

本稿の構成は以下のとおりである。第Ⅰ節では,先行研究を検討し,本研究の分析視角を示す。第Ⅱ節では,中央レベルに焦点を当て,建国から「失業消滅」宣言に至る労働政策の実施過程と,精簡政策の構想および実施過程とを分析し,2者の連続性を明らかにすることにより,計画経済下の労働体制が抱えていた矛盾を描き出す。第Ⅲ節では分析の対象を地方に移し,上海市を事例として,地方政府,企業,労働者などのアクターが,それぞれの戦略と利益関係に基づき,精簡政策を実施しつつ計画外労働力の流動空間を創出していった経緯を明らかにする。最後に本稿の結論を述べる。

Ⅰ 先行研究

中国計画経済期の失業問題に関する先行研究は,1958年の「失業消滅」を座標軸に,以下の2つのグループに分類することができる。第1に,1958年の「失業消滅」を終着点に,建国初期の失業問題を分析した研究である[李 2002; 顧 2003]。これらの研究は,失業救済,労働分配などの取り組みによって,政府が失業を成功裡に消滅させたという結論を前提に,過渡的な政策として,建国初期の失業救済政策を論じている。第2に,1958年以降も失業という現象が実態として存在した点に注目し,「失業消滅」という公式見解に基づく記述を突破しようとする研究である。たとえば,程[2002]は大躍進運動や文化大革命により再現した失業現象に言及し,それに対処した政府と,労働分配に対する労働者の理解とを評価した。これに対し上原[2009]は,「失業消滅」までのプロセスにおける労働体制の矛盾を指摘し,失業のない社会を可能にした現実として,都市と農村の二元的社会や身分制社会の存在を論じた。郭・陶[1997]丸川[2002, 66; 2021, 101-104]趙[2008]厳[2009, 11-21]任[2010]らも,計画経済体制下の労働分配の非効率性を指摘するとともに,政治運動の影響を背景に,若年労働者を中心とした都市−農村間の労働力移動が動員されたからこそ失業という実態が糊塗されたのだと論じた。また,宋[2021, 上, 56-63, 218-232]は,計画経済体制における労働管理制度の変遷と問題点を分析し,中央政府が建国初期の楽観的な予測に基づき「失業消滅」を拙速に推し進めたことにより,地方政府や企業の混乱を招いたと論じた。これらの研究は,経済学の視点から,「失業消滅」の過程で繰り返し表出した労働分配の構造的問題に焦点を当て,計画経済期の都市と農村の分断的構造に基づく労働体制こそが「失業消滅」を成り立たせたと指摘した。しかし,このような硬直的な労働体制の構造は「失業消滅」を達成し維持する過程において,労働移動の現場である地方レベルでどのように機能したのだろうか。また,大規模な労働移動を引き起こした「失業消滅」というイデオロギー上の前提は,地方レベルで,政府,企業,労働者などの行動や利益関係にどのような影響をもたらしたのだろうか。これらの点について,政治学の視点から検討する余地は残されている。

他方,精簡政策についても,多領域にわたり先行研究の蓄積がある。政治学の領域では,陳[1996]羅[2007; 2015]馬[2016]に代表される研究が,中央レベルの政治過程に注目し,大躍進運動後の深刻な経済破綻と食料不足に直面した中央指導者が,再び計画経済体制のもとに都市-農村間の経済と人口のバランスをとりもどすため,精簡政策を打ち出したことを論じた。一方,柳[2009]王[2014; 2016]朱[2012]林[2019]は,それぞれ江蘇省,天津市,浙江省,上海市などの地方レベルの精簡政策の実施過程に焦点を当て,地方政府を中心に,地方レベルの動員力によって,労働者の不満を和らげ,人口移動を実現した過程を論じた。Fraizer[2002, 215-220]山本[2000, 89-91, 106-129]もそれぞれ,大躍進運動前後の企業管理体制と賃金体制の変遷と混乱を論じるなかで,精簡政策の実施状況に言及した。しかし,「失業消滅」を前提としなければならない状況下において,大規模な都市部労働力削減という任務が,各行政レベルの政府,企業,労働者などのアクターによってどのように捉えられ,彼らの行動や相互の連携にどのような影響をもたらしたのかについては,依然として検討の余地が存在する。また,経済学や人口学に属する研究としては,都市人口の変化や,精簡政策の経済的影響に関する研究が存在し[張 2015; 陳 2016],さらに社会学の研究としては,精簡政策の対象となった労働者の実態に光を当てた研究がある[Brown 2012; 王 2016; 李 2000]。これらの先行研究が一様に焦点を当てるのは,1960年代初期,とりわけ1961年から1963年までの3年間に実施された精簡の政治運動としての側面である。しかし,精簡を都市人口の削減を目的とした継続的政策として理解するならば,分析の射程はより広く設定し得る。短期的な政治運動ではなく,長期的政策として精簡を分析することにより,政策の実施過程で形成されたさまざまな制度的,非制度的な利益関係や慣習がその後の労働行政に残した影響を分析対象に含めることが可能となるだろう。

中国の都市部における計画経済下の労働体制の特徴について,先行研究は,低賃金と引き換えに,正規労働者(中国語:固定工)の雇用,福祉,生活については,国家が職場「単位(計画経済体制下の機関,企業,団体などの職場。以下,単位)」を中心に保障し,単位と労働者との間に一種の庇護と従属の関係を築いていたことを指摘している [Walder 1986; Frazier 2002; Dillon 2015]。その周辺には,臨時労働者,女性労働者,農村労働者など,計画経済体制においてより機動的な非正規労働者が存在し,労働者内部には格差や利益衝突が構造化していた。後者に関する先行研究は,正規労働者と非正規労働者との利益衝突が最も顕在化した大躍進運動や文化大革命時期に集中している[Perry and Li 1997; 山本 2000; 金野 2008]。しかし,これらの議論の前提として,「失業消滅」という計画経済体制下のイデオロギー上の要請が存在していたことに,より注目すべきであろう。

「失業消滅」は,中央政府,労働部門,地方政府それぞれの労働行政のあり方を規定したばかりでなく,労働分配の保障という理念を全面に打ち出すことによって,都市部の労働者の間に雇用への期待を高めた。それは,正規労働者と非正規労働者の格差を顕在化させ,当事者である企業,労働者,基層社会組織間の利益関係をより複雑なものにした。精簡政策は,大躍進運動後,雇用を縮小しながら,都市部の労働体制における「失業消滅」の前提を維持するための政策であったが,正規労働者をも含めた大規模な都市労働力の削減を伴うようになると,「失業消滅」の理念に期待を抱いていた労働者に現実を突きつけたのであった。この意味において,精簡政策は,計画経済体制下の労働体制が「失業消滅」という前提のもとで,実態としてどのように営まれていたのかを再検討するための切り口を提供するであろう。

はたして,「失業消滅」は労働行政の何を変えて,何を変えなかったのか。「失業消滅」宣言後,それを維持させた政治的メカニズムはどのようなものであったのか。この再検討を行うために,本稿はまず,精簡政策とそれまでの労働政策との連続性に着目し,1949年からはじまる「失業消滅」のプロセスと精簡政策の構想をめぐる中央レベルの政策の変遷を整理し,1960年代初期の精簡政策をとりまくマクロな政策環境と計画経済体制の矛盾を抽出する。次に,政策実施過程の重層性に着目し,精簡政策の実施をめぐる中央政府,地方政府,企業,労働者,基層社会などのアクター間の相互作用と利益関係を描き出すことにより,「失業消滅」を支えた政治メカニズムを浮き彫りにする。

本稿はおもに,中央および地方レベルの公文書,档案資料や定期刊行物を資料として使用する。「失業消滅」宣言の影響により,計画経済期の失業に関する統計データには大きな問題がいくつか存在する。第1に,統計資料の断絶である。中国の公式な統計資料においては,「失業消滅」宣言により,1958〜77年の失業者,失業率に関する統計が一貫して存在しない[国家統計局社会統計司 1987, 109]。Emerson [1965]Liu and Yeh [1965]Howe [1971]は,公式データに基づき,失業を含む雇用データを算出したものの,一連の分析はもっぱら1949〜58年の時期に集中している。第2に,統計概念の曖昧さである。「失業消滅」宣言により,公式の失業データがなくなったことに加え,後述するように,実態として配置されていない労働力の存在を表す概念や記述,それらの算出方法は混乱を極めた。同時期には,失業のみならず,就業に関する統計も,おもに国営企業や大型集団所有制企業の正規雇用に集中し,中小の企業の雇用状況や非正規雇用,失業の統計には地域によって正確性にばらつきがあることが指摘されている[Emerson 1982, 4]。第3に,統計データの不正確性である。本稿が扱う時期は,政治的圧力のもと,統計の混乱やデータの捏造が頻発した時期に当たり,使用する公文書上のデータの信憑性も疑わしい。しかし,本稿の目的は,計画経済期の失業の実態を測定することではなく,「失業消滅」宣言以降の労働行政における政治構造を描くことにある。したがって,本稿では,政府公文書や答案資料に記載された統計データの問題を想定した上で,それらのデータを,当時の中央政府,地方政府が,どのように「失業消滅」後の現実を捉えていたのかを示す傍証として使用したい。

Ⅱ 「失業消滅」と精簡政策

本節では,中華人民共和国の建国初期から,精簡政策の終了が宣言された1963年までを射程に,「失業消滅」宣言に至る労働政策および宣言後に実施された精簡政策の構想とその実施状況を論じる。

1.新民主主義から社会主義計画経済体制への移行(1949〜55年)

中華人民共和国の成立当初,新民主主義を掲げていた共産党は,都市部の深刻な失業問題に対処するに当たり,「公私兼顧,労資両利(公私双方に配慮し,労資両者の利益を図る)」を基本方針として,失業者の救済を中心とした失業対策を実施した。1950年6月17日,政府は「失業工人救済暫行弁法」を公布した。そして,各地に失業工人救済委員会を設置し,「以工代赈(公共事業・生産活動をあてがうことによる救済)」を中心とした失業対策を講じた[中央人民政府法制委員会 1952, 623]。しかし,1952年の三反五反運動において(注5),資産階級が批判対象となるにつれ,彼らが大量の失業者を生み出したことが問題視されるようになり,1952年7月,中央政府は「労働就業に関する中央人民政府政務院の決定(中国語:中央人民政府政務院関於労働就業問題的決定)」を公布し,政府労働部門によって労働者の就業を統一的に管理する方針を打ち出した[中共中央文献研究室 1992, 252-260]。

この時期の失業対策における争点は,新民主主義に基づく経済から社会主義計画経済への転換において,企業と労働者の享受する雇用と就業の自由をどのように扱うかという点にあった。1951年まで,政府は都市経済の回復や私営企業との協力を優先する立場から,私営企業に対し,労働者を解雇する自由を一定程度認めていた[上原 2009, 33-34]。失業問題が極めて深刻であった上海市においても,資本家は,生産問題に対応するために雇用と解雇の権利を有すると規定されていた(注6)。また,労働者による自発的な就業も認められており,都市部には政府による労働紹介所が設置され,失業者の就業をサポートしていた[中国労働人事年鑑編集部 1989, 187]。しかし,1952年になり,計画経済下の労働管理体制の構築が目指されるようになると,雇用と就業の自由は急速に縮小した。1952年の「決定」とその後の一連の政策によって,私営企業の解雇の権利は制限され,失業者に対する政府の管理が強化された。それと同時に,企業が労働者を雇用する際には,必ず政府労働部門を経由しなければならないということも規定された。しかし,「決定」が打ち出されると,私営企業だけでなく,国有企業や政府機関でも,政策が正式に実施される前に,一部の企業では労働能力の低い労働者の駆け込み解雇が行われた。また,政府による労働分配の適切な実施を懸念する心理から,政府を経由しない計画外雇用も急増した[宋 2021, 上, 59]。労働部門による統一的な雇用管理への移行の試みは,失業問題を解決するどころか,かえって労働市場や労働体制の混乱をもたらしたのであった。このような状況を前に,中央政府は1953年8月,計画経済下の労働体制の構築までの過渡的措置として,再び失業者の自発的就業を認め,統一な分配の範囲を縮小せざるを得なかった [武・李 1994]。そして,1955年になると,臨時労働者に対する規制を強めるとともに,国家の統一分配を経ない新規労働者の採用を停止し,「統包統配(統一管理・統一分配)」に基づく労働制度を確立した[中国社会科学院・中央档案館 1998, 180]。それに伴い,失業問題についても,失業者の救済から,政府による労働分配をつうじた失業の消滅を目指す方向へと転換した。1956年1月,中央政府は,経済の回復と大規模な生産建設による都市労働力需要の拡大に期待し,より統合的かつ計画的な労働政策を講じることによって,都市部の失業問題を,「5年から7年以内に」完全に解決するという構想を提起した[中共中央文献研究室 1994, 50]。

その一方で,都市人口の増加を抑制するための精簡政策も,この時期から構想され始めた。1954年,第一次五カ年計画が実施されるなか,各大都市は,ソ連専門家の意見に基づき都市人口を削減する計画を立てた。削減に当たっては,失業対策とあわせ,おもに都市に暮らす失業者や遊民に,農村や他の地方での労働を分配する方法がとられた(注7)。しかし,大都市の人口弁公室によって人口削減計画が作成されたものの,その執行体制は極めて分散的であった。政府部門ごとの削減の計画が設定されたものの,各部門には削減を進める動機も財政的資源も不足した(注8)。労働部門と民政部門は,現存する失業者や遊民の救済や管理,労働分配業務の一環として,人口削減の任務を遂行しようとしたが,他の産業部門は,生産の拡大に必要な労働資源をできるだけ多く確保しようという志向をもち,人口削減計画の実施には消極的であった。現に,人口削減目標は,繰り返される生産建設運動のなかで重要視されなかった。上海市は,失業者や労働者を再配置することにより,1955年末時点で619万人であった人口を,第一次五カ年計画終了までに580万人,第二次五カ年計画終了までに540万人,第三次五カ年計画終了までに500万人に削減するという長期的な計画を立てた(注9)。しかし実際には,第一次五カ年計画が終了した1957年年末時点で,都市部の人口数は690万人にまで増加していた[上海市人口和計画生育委員会 2002, 3]。それに伴い,上海市の職工総数も約38.9万人増加したが,それは社会主義建設の成果として肯定的に評価されたのであった(注10)

2.計画経済体制の構築と労働政策の動揺(1956〜59年)

計画経済下の労働体制の構築は,1955年に着手されたが,1956年より全国各地で展開された生産建設運動のなかでいくども方針転換を余儀なくされた。私営企業の国営化,公私合営化が進むなか,社会主義改造の完成に向け策定された大規模な建設計画を達成するため,中央政府は1956年,計画外労働者の雇用に関する許認可権限を,地方政府の労働部門や企業に下放(下位行政レベルへの移譲)した[中国社会科学院・中央档案館 1998, 152]。同時に,企業の経営管理制度もソ連モデルに準じた工場長責任制から,党委員会の政治的指導がより強く働く企業統治への転換を意味した「党委領導下の工場長責任制」に転換された[Schurmann 1966, 284-296; Frazier 2002, 201-205]。権限の下放は,地域経済を拡張したいという選好を有する地方政府や企業の間に,むやみな雇用の拡大をもたらした[上原 2009, 118-120, 126-129]。都市部の人口は一気に増加した結果,同年には100万人を超える失業者の減少が達成された[程 2002, 61]。しかし,雇用の拡大は,当然の帰結として賃金支出の増加を招き,建設資金を圧迫した。こうした状況に直面して,1957年半ばになると,労働部と国務院は,雇用管理の権限を再び中央政府へと回収する方向に舵を切った。しかし,1958年に大躍進運動が始動すると,地方レベルの都市労働力の需要は再び拡張し,中央に回収された雇用管理権限は,再び地方へと下放され,都市部の雇用のさらなる拡大をもたらした。1958年から1960年にかけ,全国で新規に雇用された職工は2500万人に達し,結果として失業は,一時的に「消滅」したのであった[国家統計局 1984, 110]。

これに対し,労働部は,1956年,生産建設運動後の1957年,そして大躍進運動直後の1959年上半期と繰り返される雇用拡張による都市人口の過剰な増加を問題視し,一連の都市労働力削減策を打ち出した。人員を整理し減少させることを意味する「精簡」という言葉が度々政策に登場するようになったのもこの時期である。1957年,労働部は地方政府の雇用権限を制限した上で,臨時労働者や農村出身の労働者を農村に移動させることにより,都市人口の削減を行った。それは,農村労働力の都市への流入を禁じるとともに,都市部企業に対し農村からの労働力の雇用を禁止し,すでに雇用した労働者に農村への帰還を促すものであった(注11)。しかし,削減された労働者に対する補助や補償に関しては,中央レベルの規定がなく,地方政府の裁量に任されていたため,実際には農民や労働者を教育,動員し,農村への帰還を促すにとどまっていた。1956年のこの一連の政策はその後も継承され,大躍進運動下の1958年には,同年以降に雇用された新規の非正規労働者や余剰労働力を中心に労働者800万人の削減が計画された。しかし,前述した大躍進運動の開始を背景に,都市部の企業や各部門は再び大規模な労働力雇用を開始したため,1958年の実際の労働者減少数は358万人に対し,逆に1900万人を超える労働者が新規に雇用された[労働部労働力調配局 1961, 43]。中央政府は1957年から農村労働力の都市への流入を禁じ,1958年には戸籍制度を施行することにより都市−農村間の労働力移動を規制しようとしたが,大躍進運動下で新規に雇用された労働者の大半は,農村からきた労働力によって占められていた[韓 1994, 124]。

大衆動員の手法を用いて展開された生産建設や社会主義化に加え,労働管理政策の度重なる変更を受けて,地方レベルの労働現場は混乱した。1957年,全国の大中都市で労働者によるストライキの波が生じ,上海市では,約3万人規模のストライキも発生した[Perry 1994; Frazier 2002, 197-200; 金野 2008, 144-152]。労働者は私営企業の国営化や公私合営化に伴う賃金や福祉の低下に反発した。また,非正規労働者の解雇,労働者の削減や外地への動員は,ストライキや労使紛争の引き金となった[Perry 1994, 15-16]。中央政府もこの状況を把握し,削減対象となった労働者による地方政府への陳情事件が各地で頻発している事態に懸念を表明した。そして,人員の削減に当たっては必ず配置先を確保しなければならない,長期にわたって労働に従事してきた臨時労働者を安易に削減すべきではない,などの調整策を打ち出したが,大躍進運動の現実のなかで,都市労働力の削減は実質的に停止せざるを得なかった[遼寧省労働庁 1958, 62-65]。

総じてみれば,この時期の精簡政策は以下の特徴を有していた。精簡政策は政府労働部門により主管されていたが,政策を徹底して進めるための財政的な補助はなく,また農村政策と連携した体系的な政策の形成もなされなかった。何より,繰り返し展開された生産建設運動のなかで,各地,各部門の間には,生産目標を達成,あるいは超過達成するために必要な労働力を確保したいという強い動機が働き,都市労働力の削減政策を骨抜きしたが,そのような状況に対し,労働部門は十分な抑制力を行使する権限や能力に欠けていた。労働部門は1958年より労働計画の策定を始め,実際に各地方の労働部門に計画担当の部署を設置したが,計画自体の問題に加え,地方政府や他の部門との方針の対立などにより,計画の管理と実施は難航した[中国社会科学院・中央档案館 2011a, 23; 労働部労働力調配局 1961, 43]。結果からみれば,生産建設運動の度重なる波を受け,精簡政策は効果的に実施されず,地方政府と企業による雇用拡張の衝動を抑制することができなかった。

3.大躍進運動後の調整と精簡政策(1960〜63年)

雇用の拡張は失業問題を「消滅」させたが,国家経済に多くの問題をもたらした。都市部の人口拡張が国家財政負担の増大をもたらしたのと同時に,農村部の労働力の減少は,食糧の供給を危機的状況に陥らせる一因となった。これらの問題に対処するため,中央政府は都市部の人口削減を唯一の方法と認識し,より本格的で,統合的な精簡政策を,運動として発動した。この精簡運動は,1960年5月に農業生産の支援を目的に開始され,全国の職工数を1887万人,都市人口を2600万人減少させた。その成果は1963年7月の中央精簡小組で報告され,運動は終了となった(注12)。この時期の精簡政策は,以下の特徴を有していた。

第1に,労働部門に主管された従来の実施体制と異なり,中央から地方レベルにまで設置された複数の部門による統括組織のもとに実施体制が組まれた。中央には1960年9月,中央精簡幹部和安排労働力五人小組(幹部の精簡と労働力の配置を行う5人チーム)が設置され(注13),さらに1962年2月には,楊尚昆(中央書記処書記)が率いる中央精簡小組が結成された。同小組は国務院,労働部,中央組織部,公安部,人事局,国家計画委員会などの部門の指導者をメンバーとし,精簡に関する日常業務を担当した[馬文瑞文選編集委員会 1998, 432]。同様に,各地方政府にも諸部門の幹部により構成される精簡小組の結成が義務づけられた。この統合的な組織機関の設置は,精簡政策が多様な部署にかかわりを有していることを示すと同時に,労働部門単独では,精簡政策を統括し,執行するに必要な動員力をもち得ない実態に対する反省をふまえたものであった(注14)。中央精簡小組の設置以降,精簡政策は従来より強力に展開された。

第2に,精簡の目標と対象の拡大である。中央政府は1961年から3年以内に2000万人以上の都市人口を削減するという長期計画を立てた[中共中央文献研究室 1997a, 358-360]。1962年1月の中央拡大工作会議(七千人大会)と,1962年2月の中央政治局常務委員会拡大会議(西楼会議)では,都市人口を削減することこそが経済的困難を乗り切る重要な方法であることが繰り返し強調され,同年上半期に700万人,下半期に600万人という精簡目標が設定された。さらに同年5月には,精簡を主題に中央工作会議が開かれ,1962年からの2年半以内にさらに2000万人の都市人口を削減するとの方針が採択された(注15)

以上のような精簡の目標を達成するため,精簡の対象も労働者を中心に,より広い範囲に拡張された。すなわち,精簡の対象単位は企業のみならず事業単位,政府部門にまで広げられ,精簡の対象者も新規雇用の臨時労働者,農村労働者のみならず正規労働者にまで拡張された。また,都市部の食糧需要の抑制が精簡の主たる目的であったため,中央政府の精簡計画においては,商品食糧を食べる人々を一括りとした削減目標が立てられ,労働者自身のみならずその家族も精簡の対象に組み入れられた。単位そのものの撤廃や合併をつうじた人員削減も精簡の一形態として採用され,生産効率の低い都市や農村の公社企業は原則として生産を停止すること,県レベルの工業企業の3分の2を整理し閉鎖することが提起された[楊 2001a, 下, 145; 中共中央文献研究室 1997b, 388-396]。

第3に,精簡の方式にかかわる変化である。精簡の対象の拡大と高い目標値の設定により,より効率的な精簡の方法を講じる必要が生じた。1960年12月,労働部が主催した全国労働庁局長工作会議においては,正規労働者と非正規労働者を区別した方法が構想された。まず,1958年以降に雇用された臨時労働者,契約労働者(注16),地方が無断で募集した労働者など,いわゆる非正規労働者は,1957年や1959年の人員削減時と同様に,精簡政策の第一の対象とされ,農村部へと戻され,人民公社の社員の身分に復帰させられた。労働部門はこれらの労働者について,「(彼らが)依然として多く存在している以上,人員削減を計画する余地がある」と評した。この評価は,労働部門が非正規労働者を機動性のある労働資源と捉え,精簡政策の主たる対象として位置づけていたことを示している[労働部労働力調配局 1961, 43-52]。他方,正規労働者に対しては,「今後5年間,農村から労働力を雇用できなくなるに当たって,人員補充が必要になった場合の予備な労働力」として位置づけ,都市部の企業職工という身分も企業からの賃金支給も維持したまま農村部に移住させる方法が構想された。言い換えれば,正規労働者については,一時的に農村に移動させるが,都市の労働資源としての位置づけは変えず,状況が変われば再び都市の労働力の補填にあてることが前提とされていたのであった。実際に,1961年の2月までに精簡政策の対象となり,農村に移動させられた労働者の内訳をみると,職工の身分を失い,賃金が支給されなくなった者(中国語:不帯工資)が約250万人であったのに対し,所属先の企業から引き続き賃金の支給を受けつつ農村に移動させられた労働者(中国語:帯工資)も160.6万人ほど達していた[中共中央文献研究室 1997a, 244]。

しかし,1961年6月になると,財政負担をさらに軽減するため,「職工の精簡工作に関する若干の問題の通知(中国語:関於精減職工工作若干問題的通知)」によって,正規労働者の精簡についても,賃金支給を維持する方法を廃止し,1958年以前に雇用された労働者に対しては,定年退職(中国語:退休)あるいは退職(中国語:退職)させるという方法がとられるようになった(注17)。ここに,本来であれば労働能力を失った者に対応するために設定されたはずの退職制度は,1958年以前から勤務していたにもかかわらず精簡の対象となり,かつ定年退職の条件を満たさない労働者に対する補償策のひとつとして捉えられるようになった。具体的には,定年退職とされた場合には,勤務年数に応じて毎月,賃金の40〜80パーセント相当額の「退休費(日本における年金に相当する)」が支給された。これに対し退職の場合は,勤務年数に応じて賃金1〜30カ月分の退職一時金(中国語:退職補助費)が支給された。加えて,農村への精簡に当たる外地に移動させられる場合には,労働者がそれまで勤めていた企業から,定年退職の場合には150元,退職の場合には賃金2カ月相当分の「安家補助費(住居を定めるための補助費)」が支給された。このように,精簡対象者に定年退職および退職に準じた補償を与えることによって,1958年以前に雇用された労働者にも対象を広げた精簡の徹底が図られるようになった。これは,精簡対象者の職工としての身分を維持することによって,彼らを都市−農村間の可動的な労働力資源として活用するという労働部の当初の構想が放棄されたことを意味した。一方,1958年以降に雇用された労働者に対する補助はそれに比べはるかに少ないものであった。非正規労働者には勤務年数に応じて月給0.5〜1.5カ月分相当の「生産補助費」を一次支給し,正規労働者に対しては同様に月給1〜2カ月分相当補助費が支給された。同文書では,これらの労働者の社会主義建設への貢献を肯定し,今後経済建設が大きく発展し,農村部から労働力を雇用する場合には,精簡の対象となった労働者が優先的に雇用されることも約束された[河北省労働局 1966, 11-13]。しかし,1962年5月の「よりいっそう職工を削減し都市人口を減少させることに関する国務院の決定(中国語:国務院関於進一步精減職工和減少城鎮人口的決定)」においては,都市部の人口増加をより厳しく禁止するとの方針のもと,精簡の対象となった労働者が農村に移動する際には,原則としてその家族を帯同するということが規定され[中共中央文献研究室 1997b, 388-396],精簡対象者が都市に帰還する可能性は狭められた。

さらに1962年6月の「精簡職工の配置方法に関する若干の規定(中国語:関於精減職工安置弁法的若干規定)」は,精簡対象者への待遇をより明確化した(注18)。それによれば,これらの労働者が農村部に戻る際には,戸籍も食糧配給元も農村部に移動することになるが,農村に戻った最初の1カ月分の食糧配給券は労働者がそれまで勤めていた企業により支給されるとされた。2カ月目から当期の収穫期までは,所属の生産隊や公社の保管する調整用食糧(中国語:機動糧)が販売される。公社に調整用食糧がない場合には,県レベル以上の政府が地方の統一販売用食糧(中国語:統銷糧)を労働者に販売する。また,県および公社は「安置委員会」を設置し,当該地区に移住してきた者がつつがなく農業生産に従事できるよう,彼らが必要とする土地,農具,住宅などの生活資料,生産資料の分配を担うことが規定された[河北省労働局 1966, 36-39]。このように,精簡対象者に対する生活保障については,雇用時期や労働者の身分によって基準は異なるものの,いずれも農村部での安定した生活を保障することが原則となった。このような政策方針の実施をもって,都市−農村間の労働循環を一定程度維持するという初期の精簡政策の構想は放棄された。

中央政府が精簡政策の対象範囲を拡張し続けた主因は,経済難の深刻化にあった。しかしそれと同時に,それまでの精簡政策が,地方レベルでの実施において,中央政府が構想したとおりの効果を上げていないことも一因であった。1961年には,元々中央政府が設定した削減目標が名目上達成されたものの,中央政府がさらなる削減目標を打ち出すや,さまざまな困難に直面した各地方の精簡政策の現場からは,中央精簡小組や中央工作会議に対し,目標達成は困難という意見が提起された[楊 2001a, 下, 147-149, 151-153]。そうであるからこそ,中央政府は,1962年上半期以降,より統合的な管理体制のもと,高圧的な精簡任務を課し,強力な削減策と明確な配置策を打ち出すことによって,このような局面を打破しようとしたのだと考えられる。

しかし,強力に政策を推し進めたのにもかかわらず,1962年の10〜12月期,都市部の人口はむしろ増加した(注19)。精簡政策が終了した1963年時点でも,中国36都市の労働力配置計画は,実施困難な状況に直面していた。「精簡政策の対象となった労働者」,「進学していない若者」など,本来であれば政府によって次の職場に配置されるべきだが実際には仕事をもたずに滞留している,いわゆる「閑散労働力」の合計は,約104.9万人に達していた。そのうち,同年末までに都市部に45.7万人,農村部に18.2万人の労働力の配置が計画されていたが,約4割に当たる40.9万人の労働力の配置については見通しが立っておらず,引き続き多くの閑散労働力を抱えざるを得ないとの展望が,計画には記されていた [中国社会科学院・中央档案館 2011a, 10-12(注20)。統計方法の混乱ゆえに,この数字の信憑性に疑問は残るものの,計画の記述からは,1963年の時点において,都市には企業に職をもたない余剰労働力があふれており,計画経済下の労働体制によって彼らをすべて配置することが困難であった実態が読みとれる。

結局のところ,精簡政策は,計画経済下の労働体制の確立をもって終了したわけではなかった。強制的な労働力の配置によって問題が一時的に鎮静化したことに加え,1963年に社会主義教育運動が開始されたことにより,政治的に強制終了となった側面が強いと考えられる。逆にいえば,精簡運動は,都市部の余剰労働力の問題に,根本的な解決すなわち「失業消滅」をもたらすには至らなかったのである。精簡政策は1963年にその終了が告げられたが,その後都市部の人口削減に向けた取り組みは,対象者を正規労働者から学生や「閑散労働力」に移し,かつ主たる担当部署を中央精簡小組から農林部に設置された安置城市下放職工和青年学生領導小組(都市下放職工・青年学生配置領導小組)に移して継続された。文化大革命の時期になると,中央政府は15年という長いスパンで,各地方に大規模な下放および「上山下郷(学生や労働者を農村に長期間定住させ,自ら思想改造と農村の社会主義建設を進めること)」を計画的に実施するよう要求した[国務院知青弁公室 1981, 3-8, 14-22]。

4.小括――「失業消滅」の現実と精簡政策――

以上の整理をふまえるならば,「失業消滅」宣言に至る労働政策の実施過程の延長線上に精簡政策を位置づけられることは明らかである。新民主主義体制から社会主義計画経済体制へと向かう1950年代初期以降,重工業を中心とした発展計画の推進と,都市部労働力の食糧を賄うための農業生産の確保という2つの目標を前に,いかにして都市と農村の人口および労働力を統制するかという問題は一貫して重要な難題であった。本節で議論したように,とりわけ労働力の統一分配を意味する計画経済下の労働体制への移行が始まった1955年以降,政府の方針は生産建設運動の推進と都市人口の抑制という相反する政策の間を揺れ動いた。地方政府や企業はともすれば雇用を拡大し,大衆動員型の生産建設運動において経済規模を拡張し,生産ノルマを超過達成しようとした。しかし,むやみな雇用の拡大は,失業の減少に寄与する一方で,都市部の食糧難,人件費の増大などの問題をもたらした。これに対し,中央政府は,都市部の労働力を適正規模に抑制する必要を認識し,労働部門をつうじた精簡政策を模索したものの効果は上がらなかった。そして,大躍進運動において,雇用のむやみな拡大が頂点に達し,食糧難,工業と農業の不均衡の問題はもはや無視できないほどに深刻化した。この深刻な危機に対処するために,中央政府は正規労働者をも対象に含めたより徹底した精簡政策を実施するに至ったのであった。すなわち,1961年以降の大規模な精簡運動は,計画経済体制の構築過程で直面した都市労働力の雇用の拡張,都市人口の抑制という相矛盾する要請に応えるための連続した試みの帰結として捉えられる。

他方,大躍進運動下の雇用の拡大を受けて「失業消滅」宣言をしたことによって,政府の労働行政能力もさらなる挑戦に直面することとなった。「失業消滅」宣言以降,政府労働部門にとっては,少なくとも名目上は,失業の存在を認めないということが鉄則となった。これについて,労働部部長馬文瑞は,労働力を計画に基づき配置すべきとの方針を実施する際の困難について,「失業消滅」の影響を次のように語った。「かつてはまだ失業者があり得るものであったため,すべての人を配置しなくてもよかった。だが今の状況は違う。労働力は余剰から不足に転じたのである」。この発言が示すように,企業が過大な余剰労働力を抱え込んだ状況下にあって,労働力は名目上すべて配置され,失業は消滅していた。しかしこうしたなかで,労働部門の労働管理の責任は拡大したものの,配置できる可動的な労働力資源は限定された。「各企業や産業部門は政府に人員不足の状況を訴え,人員増加を要求する一方で,余剰人員を抱えた企業や産業部門は頑なに調整に応じてくれない」という状況が度々生じていた[労働部労働力調配局 1961, 12-14]。このように,失業の消滅は,成熟した計画経済体制のもとで労働力に対する完全なる計画的管理と配分が実現したことを意味するのではなかった。地方政府や企業によるむやみな雇用拡張,労働計画の未熟さに伴う労働力管理の混乱などの問題は,むしろ「失業消滅」に至る過程でいっそう顕在化したのである。

上記のような過剰な雇用の状況について,開発経済学の分野では,「偽装失業(Disguised Unemployment)」という概念を用いる。これは,発展途上国において農業などの伝統部門に,限界生産力がゼロもしくはそれに近い労働力が大量に存在する現象を指す。これら伝統部門の余剰労働力は,近代化の過程で都市の近代部門が求める労働力の源泉となる[Lewis, 1954; 渡辺・佐々木 2004, 98, 544]。この意味において,大躍進運動は大衆動員をつうじて,都市部への労働力移動のプロセスを人為的に加速したとも考えられる。しかし,その規模は計画経済体制下の中国が負担できないほどにまで過大化してしまった[丸川 2002, 34-42]。

ここに,今度は,社会主義下の偽装失業に典型的な現象が立ち現れた。社会主義国家については,都市部における過剰雇用による偽装失業の現象が指摘されてきた。計画経済体制下のソフトな予算制約のもと,企業は労働力を過剰に抱え込む傾向をもつ。他方,政府は,社会主義イデオロギーの正統性を維持するために,失業の表面化を恐れ,過剰雇用の整理に踏み切ることができない[Feiwel 1974; コルナイ 1984; Woodward 1995; 小森田 2000]。この意味において,大躍進運動後に顕在化した,都市部企業の過剰な労働力抱え込みは,社会主義計画経済体制が構造的に生み出した都市部の偽装失業として解釈し得る。しかし,先行研究が主たる分析対象としたソ連や東欧とは異なり,中国では,その人口の大規模性と経済発展の未熟さゆえに,農村から都市への労働力の流動による経済的メリットもその規模も大きく,中央政府にとって,都市部の計画経済体制を維持するべく,都市−農村間の労働力の流動を抑制し,都市部の人口を管理するという任務は,致命的に重要ながら多大なる困難を伴うものであった [Walder 1986, 35-39]。大躍進運動によって都市部の人口過大化に直面した中央政府にとって,「失業消滅」が象徴するイデオロギー面での正統性維持に多少不利に働こうとも,都市部の偽装失業を顕在化し,都市人口の大規模な削減に踏み出すより他に選択肢はなかった。中央政府は,一連の精簡政策をつうじ,都市部の偽装失業者を農村部に帰還させ,それによって都市-農村間の均衡をとりもどし,計画経済下の労働体制のもと,名実ともに失業の消滅した都市を再建しようとした。

しかし,精簡政策による偽装失業の整理は,2つの意味において「失業消滅」の意図とは異なる現実をもたらした。第1に,精簡政策をつうじた大規模な都市労働力の削減は,イデオロギー上の「失業消滅」と現実との矛盾を労働者の前にさらしてしまった。都市部の労働者,とりわけ計画経済体制下で終身雇用が約束されていたはずの正規雇用の労働者にとって,労働の意思と能力を保持しているのにもかかわらず,精簡の対象とされ,都市部の仕事を失わなければいけないという「失業消滅」宣言と矛盾した現実に直面していた。実際に,労働者の間からは「建国初期の状況ですら長きにわたり失業をまぬがれたのに,どうして十数年も祖国の建設に貢献したにもかかわらず,社会主義になって逆に失業させられるのか」といった不満が沸き起こった(注21)

第2に,イデオロギー上「失業消滅」宣言を否定できないという制約のなかで,それでもなお現実に存在する余剰労働力や職のない都市滞留者に対し,政府もまた実質的な失業対策を講じることが求められた。中央精簡小組も,都市部の企業内外に存在する余剰労働力と失業現象との類似性に気づいており,精簡政策対象者の配置方法や,彼らの生活保障にかかわる政策を検討するに当たって,「失業者」への補助や保障に関する諸外国の制度を参考にした[楊 2001a, 下, 154-155]。また,精簡政策の実施を担う地方においてはなおいっそう,企業の外部に滞留していた前述の「閑散労働力」に対し,それを事実上の失業と類似する問題として対応する動きがみられた。実際に,一部の地方レベルの文書において,「閑散労働力」は,極めて失業に近い形で定義された。すなわち,「閑散労働力とは,戸籍が都市部にある者のうち,労働能力があり,就業に適し,本人が就業の意思をもっているにもかかわらず就業していない者を指す」と(注22)

では,地方は,事実上の失業者と類似する閑散労働者にどのように対応し,どのように中央政府から課された精簡の任務を果たそうとしたのだろうか。集権化と分権化の間を揺れ動いた労働行政において,地方や基層レベルでは,精簡政策の実施においてどの程度の裁量空間が成立していたのだろうか。彼らに一定の裁量が働いた時,そこにはどのようなガバナンスが出現したのだろうか。次節では,「失業消滅」宣言後の現実を,地方レベルの精簡政策の実施過程から明らかにする。

Ⅲ 地方における精簡政策の実施過程――上海市を事例に――

本節では,上海市を事例とし,中央政府の労働政策の揺らぎと精簡への圧力の強まりに対して,精簡の実施を担う地方の各アクターがどのように行動したのかを分析する。

上海市を事例とする理由は以下のとおりである。第1に,19世紀後半以来,中国有数の経済都市となり,大規模な都市人口を抱える上海市は,大躍進運動後に直面した人口圧力も相対的に大きかった。都市人口の膨張を危惧し,上海市は第一次五カ年計画(1953〜57年)と第二次五カ年計画(1958〜62年)において,都市人口の増加を抑制する方針を提起した[呉・馮 2003, 259, 273-285]。それにもかかわらず,大躍進運動を経て,上海市の職工数は1957年の212万人から1960年には286万人にまで増加し,精簡を経て1963年にはようやく233万人に減少したのであった。都市人口も1957年の634万人から1961年には716万人に増加し,1963年になって699万人まで減少した[国家統計局総合司 1990]。一方,1952年に全国GDPの5.4パーセント,1960年に10.9パーセントを占め,軽工業と重工業を兼ね備えた上海市は,紛れもなく中国経済のひとつの中心であった[加島 2018, 26-28]。したがって,中央政府も,上海市の経済的役割に配慮しつつ,同市における精簡政策の成否には,大きな関心を寄せ,資源を集中的に投下した。このように,問題の規模という点において,上海市の精簡政策の実施過程には,精簡政策がもたらした諸矛盾が明瞭に映し出されると推察される。

第2に,上海市は,経済の担い手が多様であり,規模や(かつての)所有制,業種の異なる多様な企業,多方面から大都市に集まる労働者,民間のネットワークなど,アクターの相互関係を観察するに興味深い事例を提供してくれると推測される。図1は,上海市における各所有制の職工数と工業企業数の推移を示している。建国初期,軽工業を中心とする上海市には,中小規模の私営企業が多く存在した。1952年の時点で,雇用者3人以下の家庭商業と独立商工業の戸数は企業全体の67.76パーセントを占めていた[金野 2008, 116-117]。これらの企業は1956年前後に急速に国営化ないしは公私合営化されるものの,中小規模の国営,集団所有制企業は存続した。また,図2の各産業の部門の職工数が示すように,工業以外にも,商業,サービス業,運輸業などの産業が,労働力の吸収において一定の役割を果たしていた。さらに,上海市は建国初期に深刻な失業問題を経験しており,前述のとおり1957年には労働者によるストライキが発生した。上海市の経済は,歴史的に,多様な企業,労働者,その他の基層アクターの活発な活動や相互の緊張関係の上に成り立ってきたのである。したがって,同市を事例とすることにより,精簡の実施過程において生じた利益構造を,諸アクターの動きから分析する手立てが得られるのではないかと考える。

図1 1949〜68年上海市職工数および工業企業数の推移

(出所)工業企業個数のデータは上海市統計局[1992, 111],職工数のデータ[上海市労働誌編纂委員会 1998, 126]により筆者作成。

(注)(1)工業企業数のデータに,農村部の村および村レベル以下の工業企業,個人経営者は含まれていない。

(2)「その他の経済類型の工業企業」とは,1949〜55年では私営企業と公私合営企業を指し,1956〜59年では私営企業および外資企業を指す。

図2 上海市における国民経済各部門の職工数(万人)

(出所)上海市労働誌編纂委員会[1998, 131]により筆者作成。

1.上海市政府の行動戦略

精簡政策において,地方政府は非常に多様でかつ相互に矛盾した政策目標を同時に遂行しなければならない状況に直面した。上海市政府が精簡の任務を遂行する上で直面した困難には次のようなものがあった。第1に,上海市には勤続年数の長い職工が多く,都市常住人口を対象に含む精簡政策の実施に困難が伴った。第2に,精簡の対象となった労働者の求める条件と外地の求める労働者の要件の不一致により,彼らの配置や生活保障にいっそうの困難が生じた。第3に,中国経済の中心である上海市は,生産を維持,発展させようとする強い志向をもち,また,その財政体制も,他の地方に比べ,企業との緊密な関係の上に構築されていた[加島 2018]。そのため,上海市の地方政府は,企業と利害をある程度共有しており,労働力の確保を求める企業の姿勢に対し総じて宥和的であった(注23)。このように,精簡政策の実施を担う上海市政府は常に,中央政府から課された精簡という目標,精簡政策の対象となった労働者の再配置という目標を掲げながらも,経済建設の任務を完遂するための労働力の確保という別の目標に配慮する必要に迫られていた。これらの相互に衝突する目標を同時に追い求めた結果,上海市政府の行動には以下の特徴が表れた。

第1に,精簡政策の圧力を軽減し,労働力を確保するために,上海市政府は中央政府の提示する精簡政策の目標人数についていくどもの交渉を試みた。1961年8月,上海市は1963年までの削減目標を60万人と設定した。そして,この数字について中央政府の承諾を得るべく,上海市政府はいまひとつの代替案を中央政府に提出した。それは,上海の都市人口問題の徹底的な解決を目指し,仮に200万人の削減目標を設定した場合,企業の外地への移転を行わねばならず,そうなれば上海市の経済基盤の動揺にとどまらず,全国規模で負の影響が及ぶであろうとの見通しを強調した案であった(注24)。このような代替案との対比の上に交渉を進めた結果,上海市の60万人精簡計画は,中央政府に認可された。その背景には,中央政府もまた,上海市の経済的地位に配慮しなければならなかったという事情があるだろう。なお,精簡政策がさらに一步進展した1962年の時点において,中央政府は上海市に対し,さらに30万人の職工を削減するよう要求したが,この目標は実現できず,上海市の1963年の職工数はむしろ1962年より6万人増加した(注25)

第2に,上海市政府内部には,異なる政策目標を掲げる部門間の衝突が散見された。精簡政策を統括する精簡弁公室は労働部門,経済部門などにより構成される統合的機構であったが,精簡政策の実施を目標とする精簡組織および労働部門と,生産活動の維持,発展を目標とする経済部門との間には軋轢が存在した。経済部門は労働力の削減が生産運動に悪影響をもたらすことを懸念し,精簡工作の抑制を促したり,企業による正規労働者や臨時労働者の雇用を黙認したりした。それに対し労働部門は,企業内部の労働力の配置を合理化し,技術力を向上させたりするなどの方策をつうじて,「増産」と「節約」という2つの目標を同時に追求することを主張し,精簡目標の達成を強く求めた。たとえば,上海市冶金局は所管する企業のために,労働局に労働者9000人の増員を申請したが,労働局の現地調査によると,実際に必要な労働力はその半分ないしはそれ以下であった。このような事例は多くみられた[呉・馮 2003, 355-359]。上海市宝山県の地方政府は,生産運動を優先し,精簡工作については,労働者の情熱が減退してしまうという理由で,詳細な計画も立てず,積極的に推進する姿勢をみせないまま,政策の変化に期待した。このような静観の態度は上海市労働部門によって批判された(注26)。また,1957年に臨時労働者の雇用期限に対する中央の規制が打ち出された際には,この機動的な労働資源を確保するため,上海市政府自ら企業による臨時労働者の留保を認める通知を出し,これは1962年まで実施された(注27)。中央政府は精簡小組の設置によって経済発展と人口削減の間の矛盾を調整するよう試みたが,とりわけ慢性的な人員不足を抱える県レベル以下の政府において,精簡小組は,実質的に労働部門により主導されていながらも,地方政府の掲げる経済発展の目標に従わざるを得ず,矛盾が顕在化する傾向にあった(注28)

第3に,精簡の対象となった労働者の再配置と都市人口の安定化を実現するため,上海市政府は他の地方政府や中央政府と繰り返し交渉を行った。上海市は,大躍進運動以前から,外地の生産建設を支援せよという中央政府の呼びかけに応え,多くの労働者とその家族を外地に再配置してきた[上海市労働誌編纂委員会 1998, 188-189]。それに引き続き1960年代の精簡政策においても,上海市政府は毎年数万人規模の都市人口を近隣の安徽省,浙江省などの農村に再配置する方針を打ち出し,この地方間の人員移動を実現するため,中央政府の協力を要請した(注29)。事実,上海市における精簡政策に際して,中央精簡小組は上海市と他の地域を調整する役割を担い,上海市の経済基盤が損なわれないよう配慮した[楊 2001a, 下, 141]。ただし,上海市としては外地に再配置した人々がそこで農民としての生活を維持できるよう教育したものの,農村部の窮屈な生活に耐えきれず,再び上海に戻る「倒流(逆流)」人口も絶えなかったという[邱 2011]。

以上から明らかなように,上海市政府は人口削減と経済発展のための労働力確保という相矛盾する目標の間でジレンマに陥っていた。地方政府として,経済建設のために雇用に関する権限を掌握し,あらゆる労働資源を生産活動に投入したいと考えていたが,実際には手中の雇用権限は限られており,かつ繰り返し中央政府からの人員削減の指示を受けていたため,それもままならなかった。この双方向の圧力に対応するために,可動性の高い労働資源として重視されたのが,臨時労働者,農村労働者などの非正規労働者であった。1960年代初期の精簡工作において,上海市政府は,表向きは非正規労働者の雇用を認めない姿勢を打ち出したが,相矛盾する政策目標の狭間で,労働力の配置や移動を完全に統制管理することはできず,非正規労働者などの流動的な雇用形態が維持された。

2.企業の行動戦略

精簡政策の実施におけるいまひとつの重要な主体は企業であった。地方政府と同様に,政府の管理下におかれた企業の行動を規定したのは,大躍進運動を背景に,生産拡大のために労働力を確保したいという動機と,精簡政策の指標を達成しなければならないという政府からの圧力であった。他方,計画経済体制において,労働力の配置に関する権限は政府の掌握するところとなり,各企業の雇用に関する年度計画も政府の認可を受けねばならなかった。このような制約のもと,精簡政策の実施過程における企業の行動には,以下の2つの特徴が明らかとなった。

第1に,政府からの圧力を受けて精簡政策を実施するものの,消極的な姿勢をとったり,あるいは逆に無計画に強圧的な方法で実施したりする事例が少なからず生じた。企業のなかには,配置先も決めずに短期間で大量の労働者を強制的に精簡の対象とするところもあった(注30)。大躍進運動の過大な生産ノルマにより,上海市の企業における労働者と幹部の関係は,すでに緊迫したものとなっていたが[金野 2008, 174-180],精簡政策の実施によって,両者の間の矛盾と対立はいっそう顕在化した[林 2019, 196-198]。企業幹部は,今後仕事に復帰できることなどを条件に,労働者に精簡を受け入れさせようとしたが,その約束は履行されない場合が多く,労働者の間には不満が高まった。

その一方,一部の企業は,精簡政策の実施にあたって,より柔軟な対応をとった。たとえば,労働者を,国家予算により賃金を賄う定員から外したり(中国語:暫列編外),国営企業から集団所有制企業に転属させたりすることによって,名目上の職工数を減少させた上で(注31),これらの労働者を組織し,生産任務がないときには政治学習,副業などに従事させ,生産任務がある際には再び労働者として起用した。このように,表向きは政府の精簡圧力に応じながら,雇用の実態は維持する(中国語:明減暗不減)という変則的な方法で対応する企業は数多く存在した。企業のこのような行動の背景には,生産ノルマを達成するためには一定程度労働力を確保する必要があったこと,精簡対象者の再配置先の確保が難しいことに加え,生産に必要な技術労働者を手放したくないなどの理由もあった(注32)。中央五人小組はすでに1961年4月の「農村労働力と精簡下放職工の調整問題に関する報告(中国語:関於調整農村労働力和精簡下放職工問題的報告)」において,精簡の実施により削減された労働者数の計算において,企業内部の労働力調整を含ませることを問題視したものの,この現象は1962年,1963年に至っても上海市のみならず,多くの地方で観察された(注33)

第2に,企業は,精簡政策を実施しつつも,計画経済下の労働体制外で労働力を調達しようとした。実際に,精簡政策により都市労働力を大量に削減した結果,多くの企業が人員不足に直面した。この問題は,本来であれば政府労働部門による企業間,産業間の労働力の調整をつうじて対処するべきものであったが,いずれの企業も労働力の貸し出しには極めて消極的であり,かつ政府労働部門の冗長な手続きに任せていては,しばしば緊急性を要する企業の労働力需要に対応することなど不可能と思われた(注34)。そのため,企業は政府の計画をとおさず,主管部門の黙認のもとで,臨時労働者,農村労働者,すでに精簡対象となり実質的に職場失った労働者,女性労働者などを非正規労働者として雇用することによって,生産現場の労働力需要に対応しようとした。その際,企業が頼りにしたのは,非正規労働者が多く生活している基層社区(居住区),人民公社などとの私的関係であった(注35)。上海市閘北区にある某織物工場の幹部は「女性などの労働力を雇用する際は,区の党委員会に報告せず,できれば街道弁事処にも報告せず,直接居民委員会に行くのが一番手っ取り早く,雇用が保証される」と述べた。上海市の冶金,機械,電機,化工,紡織,軽工業の6つの工業局の統計によると,1959年に雇用された6万人ほどの女性労働力のうち,規則に準じて市党委員会の許可を得たものはわずかに3万人以下だったという(注36)。このような状況下で,この時期,政府の規制下にもかかわらず,基層社会のレベルには,私的関係に立脚した労働仲介職(中国語:包工頭)が絶えず出現した(注37)。精簡の圧力と雇用の需要に対応するため,「外包内做工」,「里弄支援工」(注38)などと呼ばれる多様な雇用関係が発展したのもこの時期であった[上海市労働誌編纂委員会 1998, 6, 176-178]。これらの雇用形態はいずれも,精簡によって職場を失った者,女性労働者などを街道弁事処の管理下に所属させたまま,非正規労働者として企業で労働に従事させるための枠組みであった。つまり,精簡を実施する現場には,企業が,政府による労働分配や労働者の身分獲得などの煩雑な手続きを経由せずに,労働者と実質的な雇用関係を結ぶ迂回路が開かれていたのである。たとえば,虹口区は1961年1~3月に551名の「外包内做工」を増員したが,そのほとんどは企業内の一般労働者と同じように扱われ,労働部門を経由せずに各企業に籍をおく臨時労働者に昇格した。このような状況に対し,市労働工資委員会は,迂回路による雇用が賃金支出をいっそう圧迫していると批判した(注39)。また,農村戸籍の非正規労働者は,現金支給の賃金を受給していたものの,計画経済体制内で実施されていた食糧配給の対象外であったため,ヤミ市場の食糧売買や副食品の購入に頼って生活するよりほかなく,副食品の供給や流通にも混乱を及ぼした(注40)

なお,このような事例は,歴史的に民間セクターの発展を経験してきた上海市のみならず,比較的早い時期から国営企業主導の経済運営がなされてきた遼寧省でもみられた。同省鞍山市の1962年の検査によれば,多くの企業が,政府の許可なしに臨時労働者を雇用していたほか,特定の生産任務について農村部の生産大隊に人員調達を発注し(中国語:発包),精簡によって農村に移住させられた労働者を再雇用したり,農村労働者を雇用したりしていた。このような変則的な雇用については,農村部の生産活動や社会の安定を脅かすと同時に,非合法の労働仲介役に暗躍の空間を提供するものだとして,厳しく批判された(注41)。全国規模で計画経済体制外の雇用が広がっていく状況を前に,労働部は,企業の計画外雇用,迂回路をつうじた農村での労働力の調達,民間セクターによる労働仲介などの問題について,全国範囲で検査を実施した(注42)

3.基層社会の機能――社区,人民公社と労働者――

精簡政策実施の末端に位置していたのは,精簡の対象となった労働者,そして彼らの受け入れ先となった都市部の社区ないし農村部の人民公社であった。

精簡工作の一環として,精簡の対象となった労働者や女性労働者には,彼らが居住する社区ごとに副業があてがわれるケースが多かった。その意味で,社区などの基層組織は,非正規労働者にとって重要な生活空間であった。また前項で論じたように,社区などの基層組織が臨時労働者を受け入れ,企業と協力しながら,就職仲介機能を果たす事例も存在した。たとえば,上海市楡林区の某街道の家属委員会(家族委員会)は,副業として石材加工の工場を組織し,最も多い時で約900人の労働者を有し,さまざまな業務を引き受けた。その様子は「まるで職業紹介所のようであった」と評されるほどであった(注43)

精簡の対象となった労働者のおもな受け皿であった農村部の人民公社もまた,精簡政策の現場を支えるアクターとして重要な機能を果たした。人民公社は,精簡政策により労働力の増加というメリットを享受したが,同時に精簡に伴う大きな負担に苦しんでいた。精簡の状況に関する都市部の単位や企業との連絡体制は杜撰であり,農村部に移住させられた精簡対象者に対する政府の食糧配給は滞り,労働者の再配置に必要な資金も食糧も総じて不足していた。また,勝手に都市部に戻ってしまう労働者も絶えず,精簡により新たに農村に移動してきた者と元々農村で労働に従事してきた一般社員との間に軋轢をもたらした。農村に配置された精簡対象者への食糧や補助の基準や責任の所在について,政府による明確な規定が不足しているなか,人民公社は生産隊の余剰食糧を充当することによって地方政府による配分や補助の不足を補ったが,精簡による移入者の食糧の確保は困難を極めた。1962年4月に上海近郊にある上海県が上海市精簡弁公室に宛てた報告書によると,上海県は1961年1~9月に7460人の精簡対象者を受け入れたが,彼らの1年分の食糧410万斤のうち,県の社隊が農業生産や分配の調整によって確保したのはわずかその11.7パーセントにあたる68万斤にすぎず,342万斤の食糧不足が生じた。そこで,県は上海市にこれらの労働者にかかわる食糧の配分と支援を求めた。1962年6月,中央政府は精簡対象者の待遇に関する詳細な規定を打ち出したが(第Ⅱ節第3項を参照),その後も,精簡対象者を受け入れる農村における食糧不足の問題が継続したことは,10月の報告書に記載された食糧不足に関する記述から明らかである(注44)。農村に移住した労働者の生活が困難を極める一方,精簡による移入者の増加により,公社内の1人当たりの収入が減少する事態に,農民も不満を高めた。農村の幹部の間には,政府の政策に対し,「表向きは農村を支援するといっているが,実際には農村に負担をかけている」と不満も抱く者もいた(注45)。このような状況において,人民公社のなかには,主体的に都市部の企業と関係を構築し,精簡により移住させられた労働者あるいは農村労働者を一時的に組織し都市部の臨時的な生産任務に送り込む体制を整える動きもみられた。こうした動きに対し,上海市労働部門は,農村労働者の無断雇用には,私的関係によるもののみならず,農村の人民公社や生産隊の紹介によるものもあると批判した(注46)。なお,農村部の人民公社や生産隊の紹介により雇用された労働者は,賃金収入の一部を生産隊に上納することが義務づけられていた。このように,企業,労働者,人民公社/生産隊いずれにも利益のあるこうした雇用形態は,1963年以降,「四六工」(40パーセントの収入が労働者個人に,60パーセントの収入が生産隊に還元される労働形態)と呼ばれ,いっそう定着するようになった[上海市労働誌編纂委員会 1998, 6, 179]。

労働者は,一貫して受動的なアクターであった。労働者にとって,精簡とは,職のみならず,都市部でのある程度保障された生活そのものを失うことを意味していた。このような不安から,労働者の間には,精簡政策に関する流言と失業への危機感に起因する不満の声が広がった。しかし,彼らもまた,本人と家族にとって大きなリスクとなる精簡に対処するための戦略を有していた。精簡による農村への移動をまぬがれるため,労働者は,労働者の確保を望む企業に妥協し,不安を抱えながらも他の所有制企業への異動や定員編制外への異動を受け入れ,学習活動や副業生産に従事しつつ,何とかして企業内にとどまり,精簡を逃れようとした(注47)。また,労働者は,精簡の対象とされてもなお,企業との契約関係が維持されるよう,あるいは短期間内に企業に戻ることができるよう,企業との交渉を繰り返した(注48)。結果として,政府の計画管理から除外され,精簡の対象とされた後も,企業と私的関係を保ちながら都市に住み続け,職場復帰を待つ労働者が基層社会には少なからず存在した。

とはいえ,都市部に残るための戦略こそあったものの,労働者にとって精簡は依然として大きなリスクであることに違いはなかった。再就職すれば脱却できる単なる失業とは異なり,精簡とは,労働者にとって一度対象とされたら,計画経済下の労働体制において職工という身分に付帯した福祉を長期的に失うことを意味していたからである。精簡運動収束後の1964年,上海市は「社会閑散労働力資源管理試行弁法」を打ち出し,都市部の余剰労働力を,配置の優先度により5つのランクに区分した。その際最下位にランクづけされたのが,「一度外地にて就業,就学した者,ないしは精簡の対象となり外地に移転したものの,再び上海市に戻り,戸籍をもたない人員」であった[上海市労働誌編纂委員会 1998, 88]。1963年に入り,精簡政策が緩和されると,精簡の対象となり農村に移住させられていた労働者の多くは都市部に戻ることを求めた(注49)。それでも依然として多くの労働者が農村部に残るよりほかなく,上海市労働局の統計によると,1990年に至るまで農村に残ることとなった精簡政策対象者は約7.3万人に達した[上海市労働誌編纂委員会 1998, 203-204]。

4.小括――地方レベルに形成された労働力の流動空間――

本節では,精簡政策の実施主体である地方,基層レベルの各アクターの行動戦略と利益関係を整理することになり,上海市では,精簡が実施された時期,計画経済体制外に労働力の流動空間が形成され,維持されたことを確認した。精簡政策の実施主体である地方政府と企業は,政策に従って労働力を削減しつつ,生産活動に必要な機動的な労働資源を確保するという相矛盾する目標を追求した。その結果,地方や基層社会には,国家計画の枠外に労働力の流動を担保する空間が生まれた。精簡政策対象者の受け入れ先となった基層レベルの社区や人民公社は,彼らを再配置する責任を負わされたものの,そのために必要な資金や食糧があてがわれなかったため,労働力の流動に協力的な対応をとることとなった。そして精簡のリスクにさらされた労働者は,公式ないし非公式のルートをつうじて都市部での就業の維持を求め,また都市と農村,正規労働と非正規労働の間を行き来して自身の権益を最大限守ろうとした。このように,各アクターの相互作用により出現した労働力の流動空間は,生産建設運動のための大量の労働資源の動員を可能にすると同時に,精簡政策の実施においては労働者の不安を緩和し,人員削減の履行を円滑化した。地方レベルの各アクターの利益関係によって構築されたこの空間は,未熟かつ一貫性に欠ける計画経済下の労働体制を補完する役割を果たしたといえるだろう。

では,本節において確認された計画外の空間は,なぜ形成され得たのだろうか。これについては,以下のように説明できるだろう。第1に,一方で労働力を確保しながら,他方で労働力を削減しなければならないという地方レベルのアクターが直面したジレンマは,1950年代の「失業消滅」宣言に至るプロセスにおいてすでに存在していた。中央政府の度重なる労働政策の変更は,1950年代をつうじて,地方政府,企業,労働者間にある種の共通利益に基づく関係を形成していた。財政面で国営企業に依存する上海市政府には,企業と同様に労働力確保を優先する傾向がみられた。また,雇用と解雇が繰り返されるなかで労働者と企業の間にも,不安定な政策に対応するための私的関係が構築された。第2に,水平的な地方管理と垂直的な部門管理とが併存する中国の計画経済体制において,政府労働部門は,「失業消滅」を維持しようにも,完全雇用の実現に向け労働分配を采配するための資源および能力に欠けており,異なる志向をもつ地方政府や経済部門の動きを抑制しながら,精簡政策を効率的に実施する方法ももちあわせていなかった。上海市の事例が明らかにしたように,労働部門は精簡目標の達成を追求するものの,企業間の労働力の調整や余剰労働力の再配分など,労働分配を合理的かつ効率的に実施するための手法を有していなかった。労働部門の弱さを補うために精簡小組という統括組織が設置されたものの,結局は地方レベルの末端にいけばいくほど,経済部門の影響力が強くなり,経済部門の黙認のもとで計画外雇用の現象が蔓延したのであった。このように,計画経済体制下の労働管理の未熟さもまた,大規模な都市労働力削減の過程で,計画の枠外に労働力流動の空間を生み出した要因といえるだろう。第3に,「失業消滅」宣言により,計画の枠外に存在する労働者の生活保障に関し責任の所在が曖昧化されたこともまた,この空間を生じさせた一因になったと考えられる。精簡政策においては,精簡対象となった労働者に対して,農村部への配置を中心に,一定の生活保障策が規定されたが,その給付水準は低く,勤続年数と勤務形態によって労働者間の待遇の格差も大きかった。このような状況下で,労働者は何とか自分の身を自分で守ろうとした。基層社会のアクターにとっても,制度的保障が不在ないし不十分な状況で,精簡対象者や計画の枠外におかれた労働者を管理し,救済しなければならないのは大きな負担であった。このように,「失業消滅」が宣言されたことによって,実質的には失業者に類似する労働者の位置づけが曖昧になり,彼らの生活を制度的に保障する仕組みを構築する契機が失われてしまった。その皺寄せの結果,基層社会のアクターの利益関係や私的関係に基づく自律的な空間が醸成されたと考えられる。

総じてみれば,都市部の人口削減を掲げた精簡政策の実施は,むしろ計画経済体制の外部に労働力の流動空間を拡張させる結果を導いた。この問題を認識した中央政府は,「失業消滅」とともに廃止された公的労働紹介所を各大中都市に再び設置するよう要求し,計画外の空間に対する統制管理を目指した(注50)。上海市労働局も,1963年に社会労働力管理処を新設し,1964年には,精簡政策の実施過程で企業と労働者が自発的に運営するようになった「街道労働服務隊」や,「外包内做」の雇用形態を公に認め,このような形態の労働者は半年で0.6万人から4.7万人にまで増加した[上海市労働誌編纂委員会 1998, 176, 547]。いわば,現状の追認である。しかし,体制外の空間に支えられたこの構造にはやはり問題が存在した。「失業消滅」宣言により,計画外に存在する労働者に対処する責任の所在が曖昧になった状況は変わらず,その存在が公認されたとはいえ,精簡対象者は政府による生活保障の対象外であった。また,この構造においては,労働者の直面する精簡のリスクに格差が生まれ,都市労働者と農村労働者の立場の違いに起因する摩擦が激化したが,政府はそうした問題に対応することもできなかった。結果として労働者の間にはいっそう不満が高まることとなった。

本稿が扱った上海市の事例に基づく上記の分析は,他の地域の状況にも援用可能だろうか。本節の最初に述べたように,上海市の事例は,ある意味で特殊性を有していた。都市人口数で全国第3位の上海市が受けた人口削減圧力は相当に大きいものであったが,全国規模でみればこの3年間の人口増減の幅は相対的に平穏であった[賀 2010]。その背景には,経済規模や社会環境により,精簡対象者の再配置や計画外の労働力流動の空間が相対的に大きく,強い吸収力をもつという上海市の特殊性が指摘できるだろう。柔軟な雇用形態や,基層社会,街道をベースにつくられた労働組織の発展により,労働力の流動空間の吸収力はいっそう増強された。多様なアクターが連携して計画経済体制外の労働力の流動を支えたことが,精簡政策の円滑な実施と人口の急激な変動の回避の同時達成を可能にしたと考えられる。しかし,このような上海市の特徴は,他の地域において同様の動きがみられなかったという結論を導くものではない。計画外の労働力の流動空間の形成が,上海市に限らず他の地域においても普遍的に観察されたことは,本節で随所に示したとおりである。上海市は,当時普遍的にみられた現象を最も鮮明に映し出すプリズムであったといえるのではないだろうか。

おわりに

中国の計画経済体制下において,「失業消滅」の現実はどのような政治的メカニズムによって維持されたのか。本稿はこの問題を解き明かすために,「失業消滅」宣言後に実施された都市労働力削減政策,すなわち精簡政策を対象に,中央レベルの政策構想の変遷と地方レベルの政策実施過程を論じ,未熟な計画経済体制と中央政府の政策の度重なる変更のもとで,地方レベルに計画外に位置する労働力の流動空間が形成された経緯とメカニズムを明らかにした。

重工業優先の発展戦略と未熟な計画経済下の労働体制の矛盾を前に,中国の都市部には,労働力の確保と拡大,労働力と人口の削減という2つの相反する要求が併存する状況が生まれた。生産建設運動を経て労働力吸収の波がピークに達したことにより一時的に実現した「失業消滅」は,都市に過重な負担をもたらし,中央政府は,精簡政策へと急転回した。揺れ動く中央の労働政策と,「失業消滅」宣言による失業対応の責任の曖昧化は,地方レベルに,政府,企業,基層社会組織,労働者によるリスク管理のネットワークを生み出した。計画外に形成されたこの労働力の流動空間の存在こそ,「失業消滅」後の中国の計画経済体制の現実に迫る重要な特徴であると考えられる。

「失業消滅」は,計画経済下の労働体制における矛盾を解決できなかったが,「失業消滅」が象徴するイデオロギーは,各アクターの行動を規定し,計画経済体制の実態を形作る重要な前提となった。「失業消滅」は,国家が労働体制に関与する方法を限定し,労働者の生活保障に対する国家の責任を曖昧化する一方で,地方レベル,個人レベルのアクターがより多くの役割を担う状況をもたらした。このことは,より長期的な視点から社会主義中国における失業対策のあり方を分析する際に重要な視座を提供している。

ただし,本稿が扱った上海市という事例は,精簡政策の実施をめぐる諸アクターの利益関係を鮮明に観察できる事例であると同時に,特殊な事例であるともいえる。「失業消滅」後の中国における計画経済体制下の労働行政の実態をより包括的に捉えるには,他の地方の事例を比較対照する必要があるだろう。この点に関しては今後の課題としたい。

[付記]

本稿は,公益財団法人サントリー文化財団2022年度「外国人若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(サントリーフェローシップ)」による助成を受けた成果の一部である。本誌掲載にあたり,2名の匿名レフェリーより詳細かつ貴重なコメントをいただいた。ここに記して謝意を表したい。

(慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程,2023年3月3日受領,2024年2月9日レフェリーの審査を経て掲載決定)

本文の注
(注1)  計画経済期の中国において,失業(待業)とは,「都市部において,労働能力と就業の意思があるにもかかわらず,職業についておらず,都市部で失業者登録を行った労働年齢にある人員」を指す[国家統計局社会統計司 1987, 270]。建国以降,政府は基本的に失業現象を都市部に限定した問題として捉えていた[Emerson 1965, 41, 54]。

(注2)  1978年以降,中国では文化大革命の収束によって都市部の失業問題が再浮上した。政府はこの問題を「待業」という社会主義特有の概念を用いて捉え,これに対処するための政策を講じ始めた。しかし,1990年代初期に至るまで,社会主義下の「待業」は資本主義における「失業」とは本質的に異なるということが一貫して強調された[崔 1990, 310]。国家統計局が年度統計において「失業」という単語を使用したのは1993年からであり,中央レベルの法律規定の名称に「失業」という言葉が使われたのは,1999年の『失業保険条例』が初めてであった。

(注3)  「精簡」は,直訳すると「簡素にする」という意味である。中国共産党は建国以前から,組織の合理化を目的とする軍や行政機構の人員削減という文脈で「精簡」という語を用いてきた。本稿における「精簡」は,とくに都市部の労働力,人口の削減を指すこととする。

(注4)  職工とは,中国における全民所有制,集団所有制や他の所有制の企業,事業単位,機関,およびその付属機構に雇用された賃金労働者のことを指す[国家統計局社会統計司 1987, 267]。

(注5)  三反五反運動は,1952年に中国の都市部で展開された政治運動である。「三反」とは,官僚機構および共産党幹部を対象に,汚職,浪費,官僚主義の傾向に反対する運動であり,「五反」とは,私営企業を対象に,贈賄,脱税,手抜きや原料のごまかし,国家財産の横領,経済情報の漏洩に反対する運動であった。

(注6)  『人民日報』1949.「解決労資争議的正確道路」 9月6日.

(注7)  上海市人口弁公室 1955.「上海人口規画的初歩意見(草案)」上海市档案館, B25-1-1.

(注8)  具体的に上海市では,人口削減の動員は産業ごとの主管部門が担当していた。商業部門は露天商,飲食業,サービス業に従事する労働者,交通部門は民間運輸業,人力車,三輪車に従事する労働者の動員を担った。上海人口弁公室 1955.「上海第一個五年計画動員外遷人口統計」上海档案館, B25-1-1.

(注9)  上海人口弁公室 1955.「上海人口規画的初歩意見(草稿)」上海档案館, B25-1-1.

(注10)  上海市労働局計画処 1959.「従統計数字看十年来上海労動工資工作的成就」『上海労働』1959(18), 6-9.

(注11)  1956年から1957年にかけて,中央政府は都市部労働者の雇用を制限するべく,「都市の失業問題の解決に関する意見(中国語:関於解決城市失業問題的意見)(1956年8月)」,「農村人口の盲目的流出の防止に関する指示(中国語:関於防止農村人口盲目外流的指示)(1956年12月)」,「効果的に企業・事業単位の人員増加を抑制し,労働者の雇用を制止することに関する通知(中国語:関於有効地控制企業,事業単位人員増加,制止盲目招収工人的通知)(1957年1月)」,「農民の都市への盲目的流入を防止することに関する通知(中国語:関於防止農民盲目流入城市的通知)(1957年9月)」,「各単位が農村から臨時労働者を雇用することに関する暫行規定(中国語:関於各単位従農村招用臨時工的暫行規定)(1957年12月)」,「農村人口の盲目的流出の防止に関する指示(中国語:関於制止農村人口盲目外流的指示)(1957年12月)」などの通知を公布した。

(注12)  1960年9月26日の中国共産党中央による「国家計画委員会・労働部の『当面の労働力の配置と職工賃金問題に関する報告』の転送についての指示(中国語:転発国家計委,労働部〈関於当前労働力安排和職工工資問題的報告〉的指示)」によれば,「労働力の節約」と「農業生産への支援」を中心に打ち出された一連の精簡政策が,1960年代の精簡運動の始まりとなった。また,精簡工作は,1963年7月の中央精簡小組による「精簡任務の達成状況と精簡工作の終了についての意見に関する報告(中国語:関於精簡任務完成情況和結束精簡工作的意見的報告)」において,1963年内の終了が通知された[中共中央文献研究室 1996b, 589-607; 1997a, 550-555]。

(注13)  中央精簡幹部和安排労働力五人小組は安子文(中央組織部部長)を筆頭に,習仲勲(国務院秘書長・国家機関精簡小組組長),劉仁(中央華北局書記),馬文瑞(労働部部長),銭瑛(国務院内務部部長)により構成されていた。

(注14)  精簡小組の組長である楊尚昆は次のように述べた。「元々は労働部の仕事であった(中略)しかし彼ら(筆者注:労働者)を農村に戻すためには,思想教育も必要であるし,物質的な補償や優遇も与えなければいけない。労働部がひとつの部署だけで,総合的な調整を行うのは難しかった」[楊 2001b, 292]。

(注15)  1961年から1962年にかけて,中央政府は「1961年国民経済計画の手配に関する意見(中国語:関於安排一九六一年国民経済計画的意見)(1961年1月)」,「都市人口を減少させ都市食糧販売量を圧縮することに関する中央工作会議の9条の弁法(中国語:中央工作会議関於減少城鎮人口和圧縮城鎮糧食銷量的九条弁法)(1961年5月)」,「1962年上半期に引き続き都市人口700万人を減少させることに関する決定(中国語:関於1962年上半年継続減少城鎮人口七百万人的決定)(1962年2月)」,「よりいっそう職工を精簡し都市人口を減少させることに関する決定(中国語:関於進一歩精簡職工和減少城鎮人口的決定)(1962年5月)」,「精簡任務の完全達成と超過達成することに関する決定(中国語:関於全部完成和力争超額完成精簡任務的決定)(1963年3月)」を発布し,精簡目標の人数を更新した[中共中央文献研究室 1997a, 17-39, 358-360; 1997b, 388-396; 1997c, 165-169]。

(注16)  1959年12月,労働部は「労働力の雇用と配置に関する若干の規定(中国語:関於労働力招収和調配的若干規定)」を公布し,国家の統一分配によらない雇用を行う場合には労働契約を締結しなければいけないと規定した。それ以来,労働契約により雇用された労働者は契約労働者(中国語:合同工)と称された。

(注17)  1958年の「工人,職員の定年退職の処理に関する暫行規定(中国語:関於工人,職員退休処理的暫行規定)」によると,一定の年齢(男性60歳,女性50歳)と勤務年数を満たすと定年退職扱いを受けることができた。年齢や勤務年数が基準を満たさず,高齢や疾患により労働能力を失い,仕事を継続できない場合には,退職として処理された[山東省革命委員会労働局 1977, 213-215]。しかし,実際には,定年退職制度の運用は厳格ではなかった。精簡政策の実施においては,多くの場合,定年年齢に近い労働者が定年退職として扱われ,そうではない労働者が退職として扱われるケースが多かった。また,退職と定年退職では,待遇の面に格差が存在するため,「暫列編外(一時的に編制外に身をおく)」という方法で,定年の年齢になるまで企業職工という身分を維持することを望む労働者もいた(注28を参照)。

(注18)  中国語において,「安置」は,他者の身の振り方を定めること,職をあてがうことを指す。政府が人員の配置において「安置」という表現を用いる場合,そこには「安置」対象の人員が反発したり抵抗したりすることなく,配置先の職場や居住地に移動するという含意があった。事実,後述する農村部の「安置委員会」は,「農村部に戻った人員の生活や生産における困難を解決するため」に設置されたものであった[河北省労働局 1966, 38]。本稿では,中国語の「安置」に対して,「配置」という日本語訳を採用したが,そこに,配置先に定住させるという意味が含まれていることに留意されたい。

(注19)  馬文瑞 1963.「馬文瑞在全国労働計画回議上的総結発言(1963年1月20日)」『労働通訊』1963(3): 1-2.

(注20)  報告において,閑散労働力をめぐる各都市の統計方法は一致しておらず混乱がみられる。104.9万人の閑散労働力の構成としては,進学していない若者(「未昇学的学生」)が42.2万人,精簡対象となった労働者(「被精簡的職工」)が21.3万人,その他(「其他人員」)が41.4万人となっている。なお,「その他」の構成は不明である一方,一部の都市では精簡対象となった労働者を含む非正規労働者を,一部の都市では分類されていないすべての閑散労働者を「その他」の枠に組み入れた。

(注21)  上海市委精簡小組弁公室 1962.「部分職工在精簡工作開展後思想有波動(4月11日)」上海市档案館, A62-2-17-27.

(注22)  「貴州省労働党組関於加強城市閑散労働力的安置和管理工作的報告 (1963年4月17日)」『労働通訊』1963(6): 19.

(注23)  曹荻秋 1961.「減少城鎮人口,大力支援農業生産(7月14日)」上海市档案館, A62-1-3.

(注24)  中共上海市委人口工作領導小組 1961.「関於1961-1963年上海減少城鎮人口的初歩規画(8月20日)」上海市档案館, A62-1-14.

(注25)  「王克同志在市労働局全体幹部大会上的動員報告紀要(1963年3月29日)」上海市档案館, A69-2-166.

(注26)  蘇昔 1959.「増産節約運動余節約労動力有矛盾嗎」『上海労働』1959(18): 31-32.

(注27)  上海市人民委員会 1957.「労働局関於目前工場企業臨時工問題的請示報告(5月4日)」『上海労働』1957(4): 4-6.

(注28)  中央精簡小組弁公室 1963.「関於県和県以下精簡工作情況的資料」『労働通訊』1963(2): 16-22.

(注29)  上海市委精簡小組 1962.「上海市動員城鎮居民去安徽農村挿隊落戸的工作総結」上海市閔行区档案館, 3-1-1341-011.

(注30)  たとえば,某企業は事前に労働者への通知や配置先の連絡をせずに,精簡工作の動員大会で突然精簡対象者リストを公表した。これは労働者の間に大きな不安と不満をもたらし,自殺を図る労働者もいた。「上海県精簡工作中両種做法両種効果的通報(1962年4月30日)」上海市閔行区档案館, 3-1-1259-010.

(注31)  本来であれば,労働者の編制外への移動は,高齢,疾病,障害などにより長期的に仕事に従事できない労働者への臨時的な対応であったが,精簡政策の実施過程においては,精簡対象となった労働者を「一時的に」編制外に移動させるという「暫列編外」のやり方がとられた。このような労働者と企業の変則的な対応に対し,中央政府は1963年4月,「一時的に編制外とされた高齢,疾病,障害職工の配置と処理に関する意見(中国語:関於安置和処理暫列編外的老,弱,残職工的意見)」を発布し,暫時編制外となった労働者の整理を開始し,彼らの定年退職や退職を進めるよう促した。

(注32)  中共北京市委 1963.「転発石景山鋼鉄公司党委関於錬鉄場節約労働力情況的報告(3月23日)」『労働通訊』1963(5): 11-13.

(注33)  「馬文瑞在全国労働計画会議上的総結発言(1963年1月20日)」『労働通訊』1963(3): 3-6.

(注34)  兆権 1957.「進一歩加強企業内部労働力平衡調剤工作」『上海労働』1957(8): 18-20.

(注35)  「厳格控制労動力的増長,少数工廠盲目用人的情況応該制止」『上海労働』1959(3): 1-3.

(注36)  上海市労働工資委員会弁公室 1959.「関於少数工廠企業盲目招用人員的情況反映(1月22日)」[呉・馮 2003, 355-359].

(注37)  この時期,上海市労働局,上海市党委員会の内部雑誌には,企業が労働仲介者をつうじて無断で雇用する行為に対する労働部門の批判が多く記載された。徐匯区労働科 1959.「乱招人的行為応該立即検査糾正(5月8日)」『上海労働』1959(5): 4;「厳格処理部分単位私招農民的錯誤行為」『党的工作』1959(11): 14; 戚世衡 1960.「私招乱挖工人的現象必須厳格制止,中電儀表廠等単位已経認真検査錯誤」『上海労働』1960(2): 21; 潘維新 1961.「有的工場又在私招臨時工」『党的工作』1961(21): 16.

(注38)  「外包内做工」とは,企業が,正式な雇用契約を結ばず,企業外部にいる者(おもに基層社会の余剰労働力)に生産任務を発注(中国語:外包)し,実質的には企業内部の生産ラインに組み入れる(中国語:内做)ことを指す。「里弄支援工」も類似の発想による雇用形態を指し,「里弄」という上海市における街道,社区などの居住区の余剰労働力を組織し,企業生産を「支援」するという名目で,企業内部の生産ラインに組み入れることを意味する。

(注39)  「有些有些企業擅自増加人員的現象必須堅決制止」『党的工作』1961(23): 12.

(注40)  資料によれば,食糧配給範囲外の臨時人口が副食品を食糧として消費したことにより,1959年1~4月のビスケット(「餅幹」)の購買量は71パーセント増加したという。「上海市委関於当前副食品,日用工業品的生産,供応情況和今後安排意見的報告(1959年6月13日)」[呉・馮 2003, 390]. 企業が無断で雇用した非正規労働者や農村労働者が街道の副食品の店舗で副食品を購入し,副食品の流通に混乱をもたらす事態については,批判も提起された。「厳格処理部分単位私招農民的錯誤行為」『党的工作』1959(11): 14. 精簡政策が本格化した1961~62年にかけても,全国の大中都市部では,禁止されていた副食品中心のヤミ市場が繰り返し出現し,政府もそれを黙認せざるを得なかった。上海市は,1961年にいったんヤミ市場を閉鎖したものの,1962年の春には,政策を転換し,郊外に25カ所の市場を指定し,管理の強化を目指した。しかし実際には,上海市内に,実に172カ所の自発的な取引所が存在したという。そこで活躍した政府の認可を受けていない露天商(中国語:無照商販)のなかには,精簡の対象となり職を失った労働者も数多く存在した。「当前城市集市貿易的情況総合(1962年9月)」[中国社会科学院・中央档案館 2011b, 789-791].

(注41)  鞍山市労働局 1962.「関於某些単位私招乱雇工人和随意発包問題的報告(12月7日)」『労働通訊』1963(1): 18-21.

(注42)  労働部 1963.「関於検査私自招収職工問題的通知(3月29日)」『労働通訊』1963(5): 20.

(注43)  楊浦区労動局 1960.「打撃包頭後,必須積極採取措施」『上海労働』1960(3): 28-29.

(注44)  上海県人口弁公室 1962.「関於当前接受安置工作的情況反映(4月25日)」上海市閔行区档案館, 3-1-1259-021; 上海県回郷接待弁公室 1962.「関於対回郷職工安置落実情況的検査報告(10月30日)」上海市閔行区档案館, 3-1-1257-001.

(注45)  上海県人口弁公室 1962.「関於当前接受安置工作的情況反映(4月25日)」上海市閔行区档案館, 3-1-1259-021; 嘉興県委員会「関於動員城鎮人工下郷挿隊情況的報告(1963年5月10日)」『労働通訊』1963(7): 12-19.

(注46)  「厳格処理部分単位私招農民的錯誤行為」『党的工作』1959(11): 14;「不得私自従農村招用労働力」『党的工作』1962(49): 13. この現象は上海市のみならず,他の地方でも観察された。 鞍山市労働局 1962.「関於某些単位私招乱雇工人和随意発包問題的報告(12月7日)」『労働通訊』1963(1): 18-21.

(注47)  上海市委精簡小組弁公室 1962.「当前減人工作的進展情況(4月11日)」上海市档案館, A62-2-17-27.

(注48)  労働者の間には,万が一精簡対象となった場合に,再配置について「行ってもよい3つの場所と行きたくない3つの場所(中国語:三去三不去)」という選好があった。それは,「工場なら行くが農村には行きたくない;都市郊外なら行くが,外地には行きたくない;短期なら行くが,長期には行きたくない」というものであった。上海市委精簡小組弁公室 1962.「部分職工在精簡工作開展後思想有波動(4月11日)」上海市档案館, A62-2-17-27.

(注49)  このような現象は全国各地でみられた。たとえばハルピン市では,1963年に市労働局が受理した陳情案件のうち,3分の1が精簡問題に関するものであり,絶食や自殺事件も発生したという[哈爾濱市地方志編纂委員会 1997, 77]。文化大革命期になると,精簡の対象とされた者による陳情はさらに増加し,彼らを中心とした造反委員会も各地に生まれた。上海市档案局 B336-1-300.

(注50)  「国務院関於全国大中城市建立労働力介紹所的通知(1963年4月30日)」『労働通訊』1963(6): 8-9.

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