2024 年 65 巻 4 号 p. 34-63
本稿では,オラーンチャブ盟を中心に,蒙疆政権時代における盟旗制度について,領域とジャサグの権限に注目して検討する。盟はモンゴル遊牧社会の動態に沿った組織であったが,農耕化や省県の設置により,内モンゴルでは,20世紀までに盟の解体が進んだ。1930年代,内モンゴル西部において,徳王らは国民政府に対して省廃止を求める自治運動を展開した後,蒙疆政権の支配下に入った。ここで徳王は,新たに盟公署を設置してモンゴル人による支配を強化しようとする。しかし盟はそもそも組織的実態がなく,これをどのように組織化し,運用していくかは,手探りの状況であった。蒙疆政権はオラーンチャブ盟で盟会議を開催したが,そこで王公らは清代の枠組みに沿って,領域とジャサグ制度の維持を求めた。しかし蒙疆政権側はジャサグ制度の維持を認めただけで,開墾地(領域)の問題は解決できなかった。その結果,同盟の各旗は不安定化したまま1945年を迎えた。
This paper examines the Mongolian league and banner system during the Mengjiang regime, focusing on the territory of the Ulaanchab League and the authority of the Jasag. Although the league was organized in line with the dynamics of Mongolian nomadic society, agrarianization and the establishment of provinces in Inner Mongolia led to the dismantling of the league’s territory by the 20th century. In the 1930s, in Western Inner Mongolia, De Wang and his followers started a movement that opposed the Nationalist government and demanded ethnic autonomy and the abolition of provinces, before coming under Japanese rule with the establishment of the Mengjiang United Autonomous Government. At that time, De Wang tried to strengthen the authority of the Mongols by establishing a new administrative office for the Ulaanchab League. However, as the league did not exist as an organization, they explored how to organize and administer it. In 1940, the Mengjiang regime held a conference in the Ulaanchab League, where the princes and local banner administrators sought to maintain their territory and the Jasag system according to the framework of the Qing dynasty. In response, the Mengjiang regime permitted only the maintenance of the Jasag system, but did not resolve the issue of cultivated land (territory). As a result, the banners of the Ulaanchab League entered 1945 in a destabilized state.
Ⅰ 会盟から盟公署へ――内モンゴルにおいて盟はいつ制度化されたのか――
Ⅱ 近代内モンゴルにおける盟旗制度の変化
Ⅲ オラーンチャブ盟における盟旗制度の変遷
Ⅳ オラーンチャブ盟第一回旗盟行政協議大会(1940年5月)における議論
Ⅴ 蒙古聯合自治政府と盟の立場
Ⅵ オラーンチャブ盟における混乱――王公らの離反――
Ⅶ まとめ――蒙疆政権における盟――
清朝支配のもとモンゴル地域の各旗(ホショー)では,世襲王公が牧民を支配した。複数の旗を束ねる組織が盟(チョールガン,またはアイマグ)であり,このような支配体制を盟旗制度と称した。この「盟」と「旗」というモンゴル民族の歴史的な行政制度の名称は,清代,そして中華民国,日本支配を経て,中華人民共和国以降,内モンゴル自治区の行政制度として継承され,現代も一部地域で使用されている。
1939年頃,蒙古聯合自治政府において,シリンゴル盟盟長ソンジンワンチョグ(注1)の秘書を務めたジャグチド・セチンは,20世紀前半期の盟旗制度について,下記のように述べている。
盟長は各旗を監督する責任がある。ただし盟長は自動的に各旗が何をするか指示することはできない。[中略]どのようにしてモンゴルに少しでも進歩的なことをさせることができるだろうか?各旗を監督,指導する機構を,迅速に改善する必要があるが,これはまたそのような変動期[蒙疆政権-引用者注,以下略]にあって,盟ははじめて正式に盟公署の組織を持つことになり,各旗を監督しなければならないだけでなく,各旗の行政をも推進して行かねばならなかった。これは一大改革である。[下線部は引用者による。以下同じ][札奇斯欽 2015,174]
つまりジャグチド・セチンは,内モンゴル西部では,1930年代,すなわち日本統治下の蒙疆政権において初めて「盟公署」の組織が成立したと述べている(注2)。同じく20世紀前半に内モンゴルの民族運動を主導し,蒙古聯盟自治政府副主席となった徳王は,[ドムチョグドンロプ 1994, 201]において,「各盟の行政機構を強化した。清朝時代,本来盟は各旗の会盟の場所で,行政組織ではなかった」と述べている。これらの記録から確認できるように,清朝時代のモンゴル地域では,各旗に衙門(役所)は存在したが,その上部組織である「盟」の機構は実質的には存在しなかった。盟に所属する旗のジャサグ(ǰasaγ:旗の長)らは,数年ごとに決まった場所に集まり「会盟」を行ったが,これは遊牧民ならではの流動的,かつ機動的な組織といえるだろう(注3)。それでは辛亥革命後,これらの盟旗制度はどのような変化を迎えただろうか。
近代内モンゴルにおける盟旗制度をめぐる動きについて説明すると,中華民国成立後,1914年に北京政府は内モンゴルの盟旗地域に特別区を設置し,1928年にこれらを省へ昇格させた。モンゴル側にとって,「省」の設置は領域の解体を意味し,「省」に対抗するためにも「盟」の組織化が急がれた。その後,日本支配時代を含む1930~40年代,内モンゴル西部では急速に盟の設置が進んでゆく。なお,民国初期の「省」の設置問題については,斎木徳道爾吉[2012]など先行研究において,ある程度明らかにされている。また烏力吉陶格套[2007]は,直接盟旗制度の変遷を扱ったものではないが,法制史の視点から,中国の枠組みにおける内モンゴルの制度変革について詳細に検討しておりたいへん重要である。その一方で,1930~40年代の盟旗制度の変革や,それに伴う地域社会の状況に関して,これまでほとんど研究や議論は進んでいない。その背景として,内モンゴルにおいて,世襲王公の支配が断絶し,盟や省(東部では興安省)が制度化された時期が,ちょうど日本の支配時期と重なっていること,また中国においてこの時期の文書史料の公開やその検証が進んでいないことが考えられる。
清朝崩壊から現在に至るまで,内モンゴルの盟旗の枠組みは,開墾による漢人移民の増加や,県の設置により,存亡の危機にさらされている(注4)。また近代以降,盟旗制度は,内モンゴルの領域を示すものであり,旗を支配するジャサグ(世襲王公)らにとって,いかに盟旗制度と自らの権限を維持するかが重要課題であった。清朝崩壊後,モンゴルの支配体制が切り崩されるなかで,1930年代,徳王による内モンゴルの「高度自治運動」には,多くの青年や知識人が共鳴して参集し,「モンゴル再興」を目指すこととなる。その後内モンゴル西部では日本の支配下のもと,綏遠・察哈爾省は廃止され,盟旗制度が採用された。さらに1945年に日本敗戦を迎えた後,中華人民共和国では,内モンゴルの独自の行政区域として盟を採用する。なお,内モンゴル自治区では,行政区域としてチョールガン(盟)やホショー(旗),ソム(蘇木,漢語では村)が採用されているが,これは他の民族自治区にはみられない特徴である。以上の点をふまえ,本稿では,盟の組織の独立化が進んだ1930~40年代を転換期として位置づけ,この時期に旧来の秩序がどのように変化しつつあったのか検討することとしたい。
次に資料についてであるが,1930~40年代の盟旗制度を読み解く上で,ドムチョグドンロプ[1994]は,戦後,徳王が遺した貴重な自伝(証言)であり,また訳者によって詳細な訳注が付されるなど,第一級の資料であることはいうまでもない。しかしながら徳王の自伝には,歴史的に重要な事項でも省略されている箇所が見受けられる点に注意が必要であろう。また,徳王の側近であったジャグチド・セチンの回想録は,戦後日本で刊行されたため『徳王自伝』とは異なる重要な視点が盛り込まれており,自伝とあわせて参照すべき資料である[札奇斯欽 1985; 1993; 2015]。
近年は側近であった呉鶴齢に関する回想録も出版されている[呉 2016]。蒙疆政権の通史としては,これまで森[2000]や祁[2002],内田・柴田[2007]などが刊行されている。また二木[2021]は,蒙疆政権時期に刊行された地図から,同政権の統治や領域の問題に迫る興味深い研究であり,本稿にとっても重要な意味を持っている。しかしながら徳王や蒙疆政権など中央の動向に比べて,内モンゴル西部の地方(盟旗レベル)において,どのような社会の変化が生じたのか,今のところほとんど明らかにされていない。これは先にも述べたように資料の非公開によるが(注5),一方で蒙疆政権期にオラーンチャブ盟公署が編纂した「オラーンチャブ盟第一回旗盟行政協議大会議事録(以下,大会議事録)」[Ulaγančab-un čiγulγan-u alban yamun 1940]が現存しており,地域社会の状況を読み解く上で重要な史料といえよう。また,本稿では戦後中国で刊行された, 中国人民政治協商会議・内蒙古自治区烏蘭察布盟委員会文史資料研究委員会[1997]など,オラーンチャブ盟の地方史なども利用することとしたい。これらの資料をもとに,本稿ではまずオラーンチャブ盟の旗とジャサグ(世襲王公)に注目し,盟旗制度が1930~40年代にどのような状況にあったのか把握する。その上で,「大会議事録」から,蒙古聯盟自治政府,盟公署,そして各旗代表(王公)のあいだで,盟旗の領域や制度をめぐって,どのような議論が交わされたのか検討し,これにより近代内モンゴルの盟旗制度の変革について考えることにしたい。
蒙疆政権期の盟旗制度について検討する前提として,盟旗制度の変遷の歴史について整理しておきたい。清朝は,八旗の制度をもとにジャサグ旗の制度を創設し,特定の氏族からなる貴族集団のなかからジャサグ(旗の長)(注6)を選び,爵位を与えた。それゆえ清朝支配下において,ジャサグは旗の王公と地方官という性格を持っていた[岡 2007, 1, 273]。ジャサグの職務には,皇帝に対する軍事的協力,年班(朝賀のため北京に参観すること),会盟への参加,旗内の統治などがあった。またジャサグは,旗内において行政,財政,司法に関して強い権限を有した[田山 1954, 239-268]。しかし代替わりのさいにジャサグ襲爵をめぐって旗内で争いが起きることがあった(注7)。
清朝時代,内モンゴルには六盟が置かれ,各盟には数個の旗が所属し,各旗はジャサグの支配に委ねられていた。盟は,モンゴル各部の首領が大事件について「会盟」の上議決した制度に由来し,これを清朝が制度化したものと説明される。各盟には盟長,副盟長が置かれ,所属する旗の王公らが兼任した(注8)。清朝初期の「会盟」は,皇帝が派遣した大臣主催のもとで毎年開催されていたが,やがて盟長主催のもと二,三年に一回開催されるようになる[斎木徳道爾吉 2012, 179-181]。「会盟」の開催場所は定まっていたが,そこに常設の機関が置かれることはなかった。
さて,清代以降の内モンゴル西部社会では,清代初頭よりイフジョー盟,すなわちオルドス地域(後套)において,大規模な水利開発が始まり,その影響は周囲にも及んだ。また清朝のジューンガル討伐により,内モンゴルのトゥメドでは綏遠城(現在のフフホト)(注9)が建設され,トゥメド,およびオラーンチャブ盟地域の開発が進んでゆく。さらに19世紀末以降,清朝によって「移民実辺政策」が推進されたことで,内モンゴル全域で開発が本格化する[鉄山 1999]。その結果,20世紀初頭にオラーンチャブ盟周辺では,墾務機関が設立され,武川(注10),五原庁(注11)が設置された。中華民国成立後,開墾事業はますます進展し,同政府は1915年に墾務機関を改組して,綏遠,察哈爾両墾務総局を設立した[趙全兵・朝克 2008, 39](注12)。これ以降,綏遠墾務総局は,オラーンチャブ盟の各地に分局を置いて,各旗で大規模な開墾を行い,武川,固陽,包頭,五原,安北,臨河などの県(ないし設置局)を相次いで設置した(注13)。これらの県は漢人移民を統括したが,これによって県と旗が重複する状況が生まれることとなった。
一方,辛亥革命後,ハルハ・モンゴルでは独立運動が起こり,内モンゴルからも多くの人々がこれに呼応した。これに対して,北京政府は,モンゴル王公の離反を防ぐために1912年8月「蒙古待遇条例」を公布し,清代と同様に王公の爵位や旗の「管轄治理権」を認め,従来の盟旗制度を維持するとした。さらに北京政府では民族関係の事務を扱うために,理藩院に代えて蒙藏事務局(1914年蒙藏院に改編)を置いた。しかし一方で北京政府は「都統署官制」(1914年7月)により,内モンゴルの盟旗地域に,都統の監督下のもと熱河(ジョーオダ盟,ジョソト盟),察哈爾(チャハル部,シリンゴル10盟),綏遠(オラーンチャブ盟,イフジョー盟,トゥメド特別旗)各特別区を設置していた[烏力吉陶格套 2007](注14)(図1参照)。
(出所)曹永年・内蒙古自治区測絵地理信息局・内蒙古自治区測絵学会[2018]より筆者作成。
こうしたなかで内モンゴルでは,領域とジャサグの権限という二つの問題が焦点となった。まず領域に関して,省設置の圧力が強まるなかで,1924年に開催された蒙事会議において内モンゴルの王公たちは,盟旗制度の将来について議論している。そのさい会議では,清代以来の盟を維持する立場と,盟を省に変更して漢人に対抗しようとする立場に分かれた。1928年の南京国民政府成立後,同政府は上記の三特別区を三省に昇格させ,盟と省が重複状態に置かれることとなる[広川 2009; 2010]。しかし,モンゴル王公や知識人らの省設置に対する抵抗が大きかったため,1930年に国民政府は「蒙古会議」(南京)を開催して,モンゴル側の代表と協議の上「蒙古盟部旗組織法」をまとめた(翌1931年10月公布)。この「蒙古盟部旗組織法」には,「蒙古各盟および各特別旗」が行政院に隷属し,さらに盟旗と省県は,互いに対等であることが示されている(注15)。なお,烏力吉陶格套[2007, 129, 154-169]は, この時期,モンゴルの旧来の制度が大きく解体に向かったことを指摘し, 中華民国成立後,清代の会盟の規定は失われ,開催時期も不定期となったと述べる。しかし,省と旗のあいだで紛争が起きた場合,モンゴル側は盟としてまとまり,北京政府に対して要望を出すなど存在感を示した。
つぎに,ジャサグの権限であるが,かつて北京政府は「蒙古待遇条例」(1912年)により,各モンゴル王公の現有の「管轄治理権」は従前のとおりにすると約束していた[光 2001, 4]。しかしその後も,この「管轄治理権」が何を指すのかは曖昧なままであった。また,先に取り上げた「蒙古盟部旗組織法」では,「モンゴル各旗ジャサグは旗務を総理し,所属職員および機関を監督する」(第22条)と,ジャサグの職務を定めたものの[光 2001, 22],その選出方法と王公の爵位については明文化を避けた(注16)。ジャグチド・セチンは,「蒙古盟部旗組織法」により,モンゴルの盟旗制度は中華民国の法律によって保障され,盟旗はその本来の「地方自治権」を維持することができたが,「一方では新旧の対立を調和させ,他方では貴族たちの“世襲”特権を廃止する意図を持っていた」と述べる[札奇斯欽 1985, 39]。また,各旗では,開墾地に設置された県の力が増すにつれ,これまでジャサグが旗内で有してきた,行政,財政,司法,軍事にかかわる権限は弱まりつつあった(注17)。旧来の制度が揺らぐなかで,後述するように,1930年代に内モンゴル西部の旗ではジャサグ襲爵をめぐって,綏遠省とモンゴル王公らが激しく対立する事態が生じた。
2.日本の華北・内モンゴル侵攻と省の廃止1931年9月,日本が「満洲(九・一八)事変」を引き起こし,翌1932年3月,満洲国を成立させた。その後,満洲国は,内モンゴル東部において盟を廃止し,モンゴル人を主体とする興安省を設立する。さらに1933年3月日本軍の熱河省占領後,満洲国の一部となったジョーオダ,ジョソト両盟では盟旗制度は廃止され,熱河省,錦州省が成立するが,同地域のモンゴル人はこれに対して不満を抱いた[広川 2005, 129-130]。
一方,内モンゴル西部では,1930年代初めより,シリンゴル盟スニド右旗王公の徳王らが中心となり,国民政府に対して察哈爾・綏遠省の廃止を求めて「自治運動」を展開していた。これに対し,南京国民政府は,1934年2月「蒙古地方自治辦法原則八項」を採択し,モンゴル側に対してモンゴル地方自治政務委員会(蒙政会:百霊廟)の設置を許可する[森 2000, 73-77]。この「原則八項」では,各盟公署を盟政府に,旗公署を旗政府へと改称し,チャハル部を盟に改めることが盛り込まれた。しかし,国民政府は,従来通り省県を併存させ,盟長やジャサグの権限や任命方法を具体的に示さなかった[黄 1938, 253-254]。
このころから日本陸軍は華北,および内モンゴル西部方面へ軍事的に進出し,徳王と接触する。1935年末,日本陸軍はチャハルの東部(察東)へ侵攻し,1936年1月,張北に蒙政会の名義でチャハル盟公署を設立させた。一方,国民政府は,2月に綏遠省境内蒙古各盟旗地方自治政務委員会(綏境蒙政会)を成立させたため,百霊廟蒙政会は分裂してしまう(7月)。これに対し徳王は,同年2月,スニド右旗に蒙古軍総司令部を設置し,4月に蒙古軍政府(化徳)を成立させた(綏遠事変)[森 2000, 73-77]。
1937年7月,日中戦争がはじまると,8月日本軍・モンゴル軍は,チャハル作戦を展開し,10月に綏遠を,12月に包頭を占領する。12月,関東軍の方針を受けて,蒙古軍政府は蒙古聯盟自治政府(首都:厚和(フフホト))へ改組された。ここで注目すべき点は,綏遠省と察哈爾省を廃止し,新たにチャハル盟,シリンゴル盟,オラーンチャブ盟,バヤンタラ盟,厚和市,包頭市を設置するなど,盟の組織化を進めたことである(図2参照)。北部のシリンゴル盟では遊牧を生業としていたが,南下するにつれて開墾が進み,旗の内部に県が設置されていた。また,新設の蒙古聯盟自治政府は,旧綏遠省の領域のうち,チャハル右翼四旗(旧チャハル部所属),トゥメド旗(旧帰化城トゥメド旗),および12県(豊鎮,興和,陶林,集寧,凉城,和林格爾,托克托,清水河,巴彦[帰綏],薩拉斉,固陽,武川)をバヤンタラ盟に再編する(注18)。バヤンタラ盟では,ほぼ全域で開墾が進み,県と旗の領域が重複していたが,旗公署と県公署を併存させる形式をとった。
(出所)巴彦塔拉盟公署官房[1939],蒙疆新聞社[1938],曹永年・内蒙古自治区測絵地理信息局・内蒙古自治区測絵学会[2018],中国人民政治協商会議・内蒙古自治区烏蘭察布盟委員会文史資料研究委員会[1997]より筆者作成。
(注)蒙疆新聞社[1938]では,従来のオラーンチャブ盟の領域である武川,固陽県が同盟に含めて描いている。一方,二木[2021]掲載の地図(1940年代刊行)は,武川県,固陽県,安北県およびオラド西公旗南部がバヤンダラ盟の領域内に描かれている。
ここで問題となったのは,オラーンチャブ盟の開墾地を含む,固陽県と武川県がバヤンタラ盟に編入されたことである。蒙古聯盟自治政府は,成立当初,旧綏遠省所属の県地域を主体としてバヤンタラ盟を設置したため,上記の県もこれに含めたと考えられる。しかし武川県には,オラーンチャブ盟の四子王旗とダルハン(ハルハ右翼)旗,そしてトゥメド旗の開墾地が含まれ,それぞれの開墾の経緯は大きく異なっていた。たとえば固陽県は,オラーンチャブ盟のオラド東公旗とモーミンガン旗の開墾地を含んでいた(注19)。このように武川,固陽県の土地の開墾の経緯や所属旗は一様ではなく,歴史的背景は非常に複雑であった。しかし上述のように,蒙古聯盟自治政府は武川,固陽をオラーンチャブ盟から分離させ,その結果,旧来の盟の境域とは異なる境界線が誕生することとなった。それゆえオラーンチャブ盟の王公たちは,固陽・武川県内の旗の土地の帰属について不満を抱くこととなった。
つぎに日本の侵攻前後のオラーンチャブ盟の旗の状況について検討することにしたい。清代以来,同盟には,ダルハン旗,モーミンガン旗,四子王旗,オラド西公旗(前旗),オラド東公旗(後旗),オラド中公旗(中旗)が所属していた。中華民国成立より1930年代前半に至っても,内モンゴル西部の各旗では,それまでと同様に,世襲王公や閒散王公(分家した王公)がその身分を世襲し,ジャサグ衙門が旗内を支配する体制に変わりはなかった。先にも記したように1930年代半ばの内モンゴル西部は,日本の軍事的侵攻と,国民政府,および綏遠省の攻勢のはざまで,不安定な政治状況に置かれていた。そのようななかオラーンチャブ盟の旗では,清朝時代と同じくジャサグの継承をめぐって争いが生じたが,ここではオラド西公旗(前旗)と東公旗(後旗)の二つの事例を取り上げることにしたい。
オラド西公旗では,1924年に先代のジャサグのヘシグドルゴルが死去した後,後継ぎがいなかったため,甥であるシラブドルジと,同じく甥のバトバヤルがジャサグの襲爵を争った[恩克巴雅爾 1991, 175-178]。このような状況に対して,オラーンチャブ盟盟長のヨンドンワンチョグは,バトバヤルがジャサグを襲爵するよう主張した。しかし,綏遠省政府の支持を受けて,1931年5月にシラブドルジ(石王)が第16代としてジャサグを襲爵したため,旗内では混乱が生じた。かねてよりシラブドルジは綏遠省の側に立ち,蒙政会に非協力であったという。そのため1935年頃,蒙政会とオラーンチャブ盟の名義でシラブドルジを罷免し,バトバヤルをジャサグに任命した。その後さらに対立が激化し,いったんシラブドルジが旗の実権を握った。しかし,彼は1936年9月に死去してしまう[金海・ 賽航 2011, 1400; ドムチョグドンロプ 1994, 78-81]。一方1934年にシラブドルジには,第三夫人として奇俊峰(1915-1947:モンゴル名,セブルマ)が嫁いでいた。シラブドルジの死後,奇俊峰は1937年3月に男子を出産し,9月に自らジャサグ位に就いた[金海・賽航 2011, 1400](注20)。7月,日本により盧溝橋事変が引き起こされ,帰綏(後の厚和)や包頭が占領されると,オラド西公旗を含むオラーンチャブ盟も日本の支配下に入った。そのさい奇俊峰は,国民党側と連絡を取り,1938年3月に五原に赴き,4月に軍政部によってオラド西公旗保安指令に,さらに5月に国民政府軍事委員会により同旗防守司令部司令等に任命されることとなる。1939年9月になると,奇俊峰は,蒙藏委員会(国民政府)により「護理(代理)ジャサグ」兼綏境蒙政会建設委員会主任に任命され,また息子が「記名ジャサグ」に任命された[烏拉特前旗・王 2017, 701-704]。一方,蒙疆政権下に入ったオラド西公旗では,1938年にアムルサナ(先代の近親,閒散タイジ[tayiǰi:貴族の称号]・ラブソンサンジェの次子)がジャサグ位を襲爵し,1941年に正式にジャサグに任命されている[中国人民政治協商会議・内蒙古自治区烏蘭察布盟委員会文史資料研究委員会 1997, 299]。
2.オラド東公旗(後旗)の事例オラド東公旗では,1922年に第15代ジャサグのエルフセチンジャンバル(額爾克色慶佔巴勒)のもとへ,トゥメド旗の貴族出身の巴雲英(1899-1966:モンゴル名,ドルゴルサン)が嫁いでいた。1932年に巴雲英がゴンガスレンを産むと,綏遠省政府とオラーンチャブ盟は,ゴンガスレンをジャサグ候補とした。しかし1936年8月にエルフセチンジャンバルが死去したさい,百霊廟蒙政会は,その弟のチメドリンチンドルジを「護理ジャサグ」に任命する[蘭 2017, 665-666]。一方,日本が包頭を占領すると,1937年10月に巴雲英は包頭を離れ,五原で抗日戦線に参加することとなる。なお,蒙疆政権下では,チメドリンチンドルジがジャサグに就任したが,これに対して1939年に国民政府は,巴雲英の息子をオラド東公旗のジャサグに任命し,また国民党軍政部により巴雲英が旗の保安隊司令部司令に任命された[中国人民政治協商会議・内蒙古自治区烏蘭察布盟委員会文史資料研究委員会 1997, 431-432; 金海・賽航 2011, 1401-1402]。
以上がオラド西公旗と東公旗における襲爵争いの概要である。清朝時代と異なる点は,国民政府統治下においてジャサグの任命権や選出方法が定まっていなかったことである。そのため,これらの旗では,ジャサグ位をめぐる争いが,綏遠省と蒙政会の主導権争いに発展した。また,その後日本の侵攻に直面した国民政府は,ジャサグの寡婦を,代理ジャサグ,またはジャサグに任命したが,このような方針は伝統的なモンゴル社会の規範からは逸脱したものであった。一方,ドムチョグドンロプ[1994, 299]によると,蒙疆政権では,徳王らがジャサグの任命権を持つようになり,世襲王公らの意向を受けて,その子息を次のジャサグに認定したという。しかし,徳王の自治運動に共鳴し,蒙疆政権に参加した知識人や青年たちにとって,世襲ジャサグの温存は容認しがたい制度であったと考えられる。
3.蒙疆政権時期におけるオラーンチャブ盟の盟長と官僚蒙古聯盟自治政府設立後,内モンゴル西部ではチャハル盟公署を皮切りに,シリンゴル盟公署,およびオラーンチャブ盟公署が設置された。ここでは清末以降のオラーンチャブ盟の盟長について改めて検討することにしたい。なお,盟長に関しては,同盟の通史である,中国人民政治協商会議・内蒙古自治区烏蘭察布盟委員会文史資料研究委員会[1997, 13-14]に歴代盟長,副盟長の一覧が記されているが,この一覧は人名や旗名,着任時期に誤りや遺漏がみられる。そのため,綏遠通志館[2007b]などをあわせて検証したものが,表1である。
(出所)中国人民政治協商会議・内蒙古自治区烏蘭察布盟委員会文史資料研究委員会[1997],綏遠通志館[2007b]より筆者作成。
(注)経歴内の[ ]は生没年,( )はジャサグの在位期間を表す。
まず1920年代から1930年代初めまでオラーンチャブ盟の盟長を務めたのは,ダルハン旗王公(第12代ジャサグ)のヨンドンワンチョグ(1871-1938)であり,1930年代に徳王とともに内モンゴルの「高度自治運動」を推進した人物である。
1936年にヨンドンワンチョグに代わって,盟長に就いたのは,副盟長でオラド中公旗第13代ジャサグの世襲王公バボードルジである。その後,蒙古聯盟自治政府成立を経て,1938年にダルハン旗の閒散王公で,協理のシャラブドルジ(注21)が副盟長となり,バボードルジを補佐した。なお,ジャグチド・セチンによれば,当時バボードルジは盟公署に登庁せず,一切の政務をシャラブドルジが代行していたという[札奇斯欽 1993, 92]。以上のように,蒙疆政権にオラーンチャブ盟長や副盟長に就任した人物は,旧来通り世襲のジャサグや閒散王公であった(注22)。
1938年8月になると,蒙疆聯合委員会(蒙疆三政府の連絡調整機関)の強化に伴い,蒙古聯盟自治政府でも改組が進んだ。同月公布された「盟公署官制」では,盟長の権限について,政務院長の指揮・監督を受け,領域内のジャサグ・総管・県長を指揮・監督する権限を持つことが定められている(注23)。これ以降,各盟では4庁(総務,民政,教育,財政)制度を廃止して,総務庁のもと3庁(民政,畜産,保安)へ改組された(注24)。オラーンチャブ盟公署では,総務,保安,畜産三庁の庁長に地元出身者を任用し,民政庁長を中央から派遣したという[ドムチョグドンロプ 1994, 202]。1939年9月の時点で,同盟公署には,盟長バボードルジ,副盟長シャラブドルジのほか,参与官事務取扱に山本信親,民政庁長リンチンセンゲ,勧業庁長にメルゲンバートル(別名ドブチン)(注25),警務庁長に岩崎敏が配属された[東亜同文会 1940, 650]。その後1940年5月に至るまで,オラーンチャブ盟の盟長,副盟長,民政庁長に変化はなかった(注26)。盟が実際にどのような権限を持ち,活動したかについては不明な点が多いが,世襲王公の影響力が持続していたことは確かであろう。つぎに蒙疆政権時代のオラーンチャブ盟の「大会議事録」をもとに,モンゴル王公や盟公署の官僚らの盟旗制度に対する認識について検討したい。
1939年9月,蒙古聯盟自治政府は,察南・晋北自治政府と合併し,新たに蒙古聯合自治政府(首都:張家口)となる。その範囲は,蒙古聯盟自治政府に長城以南の漢人居住地域を加えた地域となり(注27),モンゴル人主体の自治政府という特徴は薄れた。これに対する国民政府側の動きをみると,同年3月,傅作義は五原に綏遠省政府を再建し,その後,共産党との抗日統一戦線を目指した。秋以降,綏遠省政府は,五原から陝壩へ移転を開始する。さらに同年冬,傅作義は包頭を攻撃し,さらには1940年2月以降,五原・臨河を攻撃したため,日本軍は包頭に退却した。その結果,綏遠省政府と軍事機関は,陝壩に移転する[内田・小林 2007, 327-330]。一方,前年(1939年)から徳王は,蔣介石と水面下で連絡を取っていたが,1940年春に日本側に内通が露見してしまう[ドムチョグドンロプ 1994, 245-257]。
当時オラーンチャブ盟は,国民政府の支配地域であるイフジョー盟と接しており,日中戦争の最前線でもあった。さらに中国共産党も大青山に抗日根拠地を築き,1940年夏には武川県に近接する地域(綏西区武帰県小西梁村)で活動するなど,影響力を強めつつあった[祁 2007, 275-302]。
そのようななか,オラーンチャブ盟公署の主催のもと,1940年5月初旬に3日間にわたり同盟第一回旗盟行政協議大会が開催された。ここでは,当時編纂された『オラーンチャブ盟第一回旗盟行政協議大会議事録』(注28)をもとに,新設の盟やその下にある旗がどのような問題を抱えていたのか検討することにしたい。同会議は,時期的にみて「蒙古会議」(8月末,張家口)を前に,蒙疆政権がオラーンチャブ盟の王公の同意を得るため開催したと考えられるが,ほかの盟で同様の会議が開催されたかはわからない。
この会議にはオラーンチャブ盟に所属する各旗代表(ジャサグや官僚),および盟公署の官僚,中央から蒙古聯合自治政府民政部の官僚などが出席していた(表2参照)。具体的には,盟の参加者のうち,盟長のバボードルジは欠席し,副盟長のダルハン旗王公のシャラブドルジ(議長),盟公署参与官の山本信親,盟公署民政庁長のリン(原文ではrin),同警務庁長岩崎[敏]らが出席していた。なお,民政庁長のリンは,オラド中公旗ジャサグのリンチンセンゲ(注29)(バボードルジの息子)を指すと考えられる[東亜同文会 1940, 650]。またオラーンチャブ盟六旗の代表としてジャサグが参加したが,ジャサグ継承をめぐって混乱していたオラド西公旗と同東公旗からは協理(旗の官僚)が代理として出席していた。さらに,仏教寺院であるシレート・ジョーの代表も旗代表の一員として会議に参加していたが,これについては後述する。
(出所)Ulaγančab-un čiγulγan-u alban yamun[1940, 18-19]より筆者作成。
(注)旗の名称は原文のママであり,[ ]内は筆者が補ったもの。( )内の役職は原文通り。
会議では,盟の組織(庁)に対応して,官房,民政,勧業・警務の部会が設定され,各部会において各旗代表が検討事項を提示し,これに盟や民政部の官僚らが回答する形式をとった(表3参照)。会議の内容は多岐にわたるが,そのなかで本稿では,旧来の盟旗制度や王公の支配体制に関する問題について検討したい。なお,会議参加者のほとんどがモンゴル人であり,議事はモンゴル語で進められた(注30)。
(出所)Ulaγančab-un čiγulγan-u alban yamun[1940]より筆者作成。
2.ジャサグ制度の維持をめぐって
先にも記したように,オラーンチャブ盟のいくつかの旗ではジャサグの継承をめぐって争いが起きていた。それゆえ盟内のジャサグにとって,世襲制度や旗内の支配体制が今後も維持されるかどうかが大きな関心事であったと考えられる。また,後でも触れるように,旗の開墾地に設置された県が,旗に対して地租や税を納めない事例も多くみられ,旗は財政面でも不安を抱えていた。
ジャサグの制度に関して,議長兼副盟長のシャラブドルジは会議冒頭で,以下のように述べている。「我々はこの会議に参加し,旗の事情を改善させる任務があるため,もし十分詳細に協議し,決議を行い,実行するに至れば,この盟旗のジャサグの事情は限りなく改善され,発展するにいたる」(「大会議事録」23ページ)。さらにシャラブドルジは,過去のジャサグの制度をふり返り,「軍閥」および「専横に支配していたジャサグの権力者たち」を批判し,今後,新しい政権(蒙古聯合自治政府)のもとで,ジャサグの制度を刷新することに言及した(「大会議事録」23-26ページ)。
つぎに民政庁長のリンチンセンゲが「盟長の訓示」を代読し,①ジャサグの任務,②行政を温厚に実行すること,③ジャサグの教えの基本などについて説明した(「大会議事録」28-30ページ)。
さらに蒙古聯合自治政府民政部部長のソンジンワンチョグは,「訓示」として以下のように述べている。
[前略]近日,[政府は]市・県官制[1940年]について宣言し,実行させたが,蒙地の旗の制度については古い形式のまま実行し,よりいっそう栄えさせよう。みなさま,ジャサグ旗の制度をより改善させ,ジャサグ公署の主目的を十分知らしめ,盟長,および副盟長,そして参与官とともに,心を一つにして議論し,民衆の考えを安定させ,また将来の大モンゴル国[yeke Mongγol ulus]を創るさいに役立てて,努力して欲しい。(「大会議事録」33ページ)
つまりソンジンワンチョグは,ジャサグ旗の制度を維持しながら,これを徐々に改善するという方針を示した。また,将来的な「大モンゴル国」(注31)設立に触れつつ,会議参加者らに協力を求めた。これに対して,オラーンチャブ盟のジャサグ,および協理を代表して,ツェスドバルジュルが挨拶を述べている。以上のように盟公署側と蒙古聯合自治政府は,ともにジャサグ,もしくはジャサグ旗の制度の維持と改善を提案していたが,具体的な方策は示していなかった。
続いて官房関係の部会にうつり,そのなかで六旗は「オラド中東西,モーミンガン,ダルハン,四子等の旗が提議した件」を提出するが,その内容の一部は以下のとおりである。
一,我がオラーンチャブ盟全旗の旧制度によって,所属するジャサグにより[が],主権を持ち,政治を実行する。また協理(tusalaγči),官吏たち(tüsimed)を,引き続き古い名称(呼び名)になさしめて,すべての公務を補助し,処理してきた秩序によって,現在の新秩序の公務を実行すれば,多くの民は疑念がなくなると請願し,知らせた件[後略](「大会議事録」39ページ)
以上のようにジャサグらは,旧来通り旗に対する主権を維持し,旗の官僚が公務を行うことを改めて求めたが,これらは本会議において承認された。このように政府と盟,旗のあいだで,清代以来のジャサグ制度を維持しつつ,改善させることを確認して会議は始まった。
3.シレート旗の設置要求つぎに,モンゴル仏教寺院であるシレート・ジョーによる「旗」の設置要求について検討するが,ここでの「旗」とは,いわゆる「ラマ旗(lama:僧侶を意味する)」であった。「ラマ旗」とは,チベット仏教寺院の「活仏(化身)」が統治する政教一体の旗を指し,清代では内モンゴル東部のシレート・フレー(siregetü küriy-e)旗(現在の通遼市庫倫旗)がこれに該当する。蒙古聯盟自治政府成立前,第二回蒙古大会(1937年10月)が開催されたが,そこでシレート・ジョー寺廟領地代表(サムダン)と広覚寺(五当召:モンゴル語ではバドガル・ジョー)寺廟領地代表らは,オラーンチャブ盟の管轄下に入ることを求めていた[札奇斯欽 1993, 35-39]。なお,このシレート・ジョーは,上記のシレート・フレー旗とは関係はなく,ダルハン旗,四子王旗,トゥメド旗の境,すなわち武川県内に位置していた(注32)(図2参照)。また,広覚寺も著名なチベット仏教寺院であり(注33),両寺院はともに寺領地と「黒徒」(ハル・シャビナル:qar-a šabinar:俗人の信徒)を有していた。その後の経緯は不明であるが,1940年5月の会議には,シレート・ジョーの代表のみが参加している。当時,シレート・ジョーの代表らは,オラーンチャブ盟「七旗」の一員として参加したが,この時点で旗の設立は認められていなかった(注34)。
さて,シレート旗の設立運動の背景には,フフホト最大のチベット仏教寺院であるシレート・ジョー(席勒圖召,もしくは延寿寺)の存在がある(注35)。シレート・ジョーは,明代(16世紀後半)は小さな寺院にすぎなかったが,ダライ・ラマ3世の圓寂後,寺院の住職がダライ・ラマ4世の即位(座床)に貢献したことから,シレート(モンゴル語で「法座」)・ジョー(寺院)と呼ばれるようになる。またその後,寺院の座主としてシレート・ホトグトは代々転生した。1750年に5世が亡くなると清朝皇帝は,ハルハ・モンゴル(外モンゴル)から定辺左副将軍ツェレン(策凌)の子であり,ツェングンジャブの弟であるリンチンドルジ(仁欽道爾吉)を招いて,シレート・ホトグト6世(阿嘎旺羅布桑達瓦)とした[克什格 1998a, 194]。そのさい6世はハルハから属民や多くの家畜,財宝,大型ゲルを伴い綏遠城へやってきて,これらの属民たちはシレート・ジョーの「黒徒」となる。6世は1764年に清朝皇帝から,帰化城においてジャサグ・ダーラマの職位に任じられ,ますます宗教的に大きな影響力を持った(注36)。その後,6世はトゥメド輔国公からシラムレン地域の広大な牧場を手に入れ,シラムレン河辺に普会寺(シラムレン・ジョー)を築き,そこに100戸余りの「黒徒」を配置して,いわゆる「政教一体」の体制を形成したという[克什格 1998a, 193](注37)。なお,シラムレン一帯は,帰化城将軍衙署の管轄下に置かれ,このような独自の体制は20世紀初めまで維持された。しかし,清末に内モンゴル西部で大規模な開墾が始まった後,1920年前後,トゥメドの有力者によってシラムレン一帯の開墾が進んだ[中国人民政治協商会議・内蒙古自治区烏蘭察布盟委員会文史資料研究委員会 1997, 453]。そのため,ちょうどオラーンチャブとバヤンタラ盟(トゥメド旗)のあいだに位置するシラムレン地域は,武川県のなかに埋没しつつあった。
かねてより中華民国では,内モンゴルの仏教改革が議論されてきたが,1931年6月15日に国民政府は「蒙古喇嘛寺廟監督条例」を公布し,寺院の「黒徒」をすべて解放することや,仏教寺院を蒙藏委員会の監督下に置くこと,喇嘛印務処を廃止するなど仏教寺院に介入する方針を示した[行政院秘書処 1931, 492-493](注38)。このような閉塞した状況のなかで,シレート・ジョーの僧侶のサムダンらが中心となり,1931年に蒙藏委員会に対して開墾停止を訴え出たという。なお,サムダンは,トゥメド右旗出身であり,9歳のときに出家してシレート・ジョーの僧侶になった後,シレート・ホトグト10世(注39)の世話係として,青海タール寺に同行し,そこで学位を取得した経歴を持つ。サムダンは1919年にフフホトに戻った後,シレート・ジョーで役職に就いた。その後1933年に国民党に加入し1934年蒙政会に参加するとともに,1936年にシレート・ジョーにおいてダー・ラマという職位に就いた。1937年に蒙古聯盟自治政府が成立すると,サムダンはオラーンチャブ盟公署参事となる[中国人民政治協商会議・内蒙古自治区烏蘭察布盟委員会文史資料研究委員会 1997, 461-463]。以上のような経緯を経てサムダンは,蒙古聯合自治政府に対してシレート旗の設立を主張するに至ったと考えられる(注40)。
シレート旗代表が会議に提出した「シレート・シャビ旗のジャサグ・ラマたちが述べた件」(「大会議事録」39-40ページ)は以下のとおりである。
査すれば,このシレート・ジョーの俗人のシャビたちのアイマグ(注41)が経験した歴史や秩序も数百年以上となった。大ハーンのハル・シャビ[俗人の信徒]の多くは,召河[シラムレン・ジョー一帯]シレート・ジョー[召]に暮らし,この数十年の間,職業生活の上で阻まれ,さもなければ時勢の悪い影響により,フフホトの土地や和林,清水河,托克托県に分散して暮らしたもの少なくない。成紀732年[1937年]に,ようやく新政権[蒙古聯盟自治政府]を樹立し,完成してから今まで,モンゴル民族を再興する,あらゆるジャサグの政策を,施行する国の基礎を,大きな事業に力を合わせ,また民族の友好・東アジアの恒久の平和へと勢いよく歩みを進めているこの時期,[中略]シレート・ジョーのハル・シャビを一つの場所に集めて組織し,旗を建立し,国の基本の堅固な力を拡大・増加させ,旗民の便益とモンゴル民族を再興する,大シレート・ジョーの蒙民の幸せを望んだことである[後略]。
以上からは,清代以降もシラムレン一帯,およびフフホト周辺において,仏教寺院であるシレート・ジョーによる「俗人の信徒」(ハル・シャビ)の統治が存続していたことがわかる。シレート・ジョーのサムダンたちは,周囲に分散して暮らす「俗人の信徒」を集めて,新たにシレート旗を設立することを政府に求めたのである。
これらシレート・ジョーの案件を受けて盟は,「本会議でいくら決定し協議しても,決定する権利はまた,政府にあるため,臨時に施行させる方案(注42)を,本盟公署から決定し,試させていることを,すでに上に報告した」と述べ,現在政府内で検討中であると述べている(「大会議事録」14ページ)。その後の経過から,1941年頃,政府は正式にシレート旗の設置を許可し,サムダンが旗長に就任したようである。
サムダンたちが,この時期にオラーンチャブ盟に旗設立を求めた理由は不明であるが,いくつかの要因が考えられる。まず,彼らがシラムレンの開墾をめぐってトゥメドの有力者と対立していたことが指摘できるだろう。また,蒙疆政権ないし,日本側にとって,チベット仏教の宗教的権威をもちいて,治安が不安定な同地域のモンゴル人を把握できる利点があった。さらに次の開墾地の事例でも検討するように,オラーンチャブ盟は,武川県の盟への帰属を求めていた。その武川県内部にシレート旗を設置することは,モンゴル側の反発を緩和させる意味を持っていたのかもしれない。このようにシレート旗の設立は,サムダンとオラーンチャブ盟の王公,そして蒙疆政権側の思惑が一致したことで可能になったと推察される。
4.県(開墾地)に対する権利回復の要求つぎに民政部会において「オラーンチャブ盟七旗」の代表らが提出した土地問題にかかわる案件について検討したい。なお,先述したように,この「七旗」とは,オラーンチャブ盟六旗にシレート旗を加えたものである。会議のなかで各旗は土地問題に関する議案を多数提出したが,そこで各旗は開墾地(県)における諸権利の回復を求めていた。その代表的な議案として下記の「七旗の総意」を取り上げることにしたい。
蒙古聯盟自治政府を創設してから,オラーンチャブ盟を創設する前に,武川,固陽,安北県三県を,臨時にバヤンタラ盟に管轄させると宣言したことは,政府の帳簿,および本盟公署の上奏文を査すれば,一つひとつ明らかであり,明確に知らせなくても上の会議で議論している。[中略]今,本盟公署を創設し,三年たつまでに明確な指令により分割して,特別に管理させていない。[中略]このため特別に管轄下の三県を本盟に返還させ,管理させることと,包頭,五原,臨河三県の境内の得るべき土地の権利を取り戻すことを,本盟より処理させて回収させるよう判決し,布告を下し,盟公署,および旗のあいだで経費を十分足りるようにさせ,政治と教育,および,治安部隊すべての振興を図り,他の盟と同じく平等にさせ,皆の望みを実行させることを,強く望んで請願し,奉じ知らせよう。ゆるされるならば上級の会議の王公,官吏さま,大いに照覧し,政府にお伝えし,早期に判決・決定してくださるだろうか。このため上奏する。(「大会議事録」45-46ページ)
下線部分の武川,固陽県は,先述したようにオラーンチャブ盟の開墾地を含むものの,蒙疆政権下においてバヤンタラ盟に編入された開墾地である。また,安北県は,蒙疆政権下でオラーンチャブ盟の所属とされたが,モンゴル側が主張するように旗の実行支配が及ばなかったとみられる。これら三県は,オラーンチャブ盟のすべての旗にかかわる開墾地であり,広大な面積を占めていた。この問題に加えて「七旗」は,オラド三旗の開墾地を含む「包頭,五原,臨河」県内の「得るべき土地の権利」,すなわち賃借料等の回復も要求している(「大会議事録」45-47ページ)。なお,包頭の領域は,オラド西公旗,東公旗の開墾地を一部含むものの,オラーンチャブ盟から分離され,1939年以降バヤンタラ盟に所属していた。また五原,臨河県は,国民政府統治下(イフジョー盟)にあり,権利回復は難しい状況にあった。しかし,モンゴル側にとって,開墾地における地租や税は大きな収入源であり,これらを徴収する権利を維持,または回復することは旗の存続のために非常に重要であった。
以上の問題は,清代以降,旗や盟の領域をまたいで開墾が行われ,そこに県が設置されたことが発端となっていた。つまりモンゴル人の居住地域である盟内部に広大な開墾地を抱え込んでいたといえる。これに対し蒙古聯盟自治政府は,従来の綏遠,察哈爾省を廃止して,盟の制度を採用したが,盟の領域を超えた開墾地(県)を,どのように処理するかについては,解決策を持たなかった。また,盟をまたぐ開墾地(県)の帰属が定まらないことは,盟の領域や境界線が確定しないことを意味していた。
そのことは,下記の旗に対する盟の返答「協議して決定したこと」にも表れている。
この事情は,何度も旧政府[中華民国],および新政府[蒙疆政権]に知らせたことは,すべて公文書にある[とおりである]。いままで特別に批准し,指示してこなかったため,一方で上に再び知らせて,第二に旗の皆が自ら各自行なえばよい[行なうべき]事項にまず取り組んで実行して欲しい。(「大会議事録」47ページ)
以上のように盟は返答し,ここで議論はいったん終了することとなった。
これまで検討した議案は全体の議論の一部にすぎないが,「大会議事録」からは,ジャサグ達が清代以来の秩序に基づく,ジャサグの制度や領域の維持や回復を求めていたことが理解できるだろう。会議の終盤に,蒙古聯合自治政府を代表して,民政部部長のソンジンワンチョグは,オラーンチャブ盟と旗に対して,具体的な「指示」を出した。この「指示」のうち,本稿と関連する部分を抜粋して下記に示すことにしたい。
・漢人の耕作地から耕作料を増やして取り,それを旗の公費に入れさせるという請願項目を,本盟公署から,公文書によって,この[民政]部に知らせれば,まず審議して決定する。(「大会議事録」93ページ)
・武川,安北,固陽三県をオラーンチャブ盟に戻して欲しいという請願項目を,前回,副盟長,民政庁長,参事官たちから,すでに聞いている。この項目は,漢人をどのようにして管理し,またバヤンタラ盟をどのようにして処理するか,また,[三県を]あなた方の盟に入れたら,その行政を実行するさいに,どのように処理すればよいか,非常に重要な事項である。[中略]本[民政]部は,まず早急に多くの部門とともに協議できる範囲のなかで決定しようと考える。我が[民政]部は,多くのみなさんの考えたように処理しようと考えても,また軍隊や多くの関係する土地と関連があるため,これを判定し,処理するさい,かなりの日時が停滞することは間違いない。これをあなた方の多くが,また非難しないことを望んでいる。(「大会議事録」93-94ページ)
・シレート・ジョーのシャビナル[信徒]を本盟に入れさせること[中略],本盟公署がそれらを解決する方法を審議,調査して,本部[民政部]に公文書によって知らせれば,すぐに解決しよう。(「大会議事録」95ページ)
・昨日,第二回会議を開催したさい,皆さんが提議した,ジャサグ旗[の制度]を変更しないという項目は,すでに最初の日の会議で,本官吏より教書に表明したごとく[であり],政府は,これを変えようとは考えていないほか,またジャサグ旗を良くさせることを望んでいるため,これを疑わないで欲しい。(「大会議事録」95-96ページ)
このようにソンジンワンチョグは,政府の方針として,シレート・ジョーの問題について盟側が解決方法を示せば,解決する用意があると述べている。しかし,開墾地に関しては,具体的な解決策を示すことはなく,軍との折衝が必要であると述べるにとどまった。また,ここではジャサグ制度を維持しつつ,改善していくという立場を再び表明した。
続いて,オラーンチャブ盟公署が「教書」を提出し,盟の具体的な方針を示した(注43)。その一部は以下のとおりである。
[前略]いくつかの旗は,過去の古いジャサグの権利があった時代,[旗は]このように毎年集めるべき土地の賃借料を完全に集めることができず,いくらかの土地の漢人農民たちは,最初の民国政府(irgen ǰasaγ)の時代に決定した権利を笠に着て,毎年の賃借料を数通り与えない[など]多くの言い訳を述べ,月日が過ぎ,数年,数十年賃借料を与えない。このような状況はいくらでも多くある。ただ,その時代,旗衙門,およびモンゴル人民たちは土地の権利を完全に失い,取り返す方法や力は無く,容認し続けてきたのである。現在,日本帝国の力で援助した,寛大な施しにより,我がモンゴル政府を設立して,民衆の生活を改善させようと,努力し,処理しているため,現在自ら気にとめて,この機に解決すればよいのではないだろうか。そのため現在本公署より,各旗の土地権利,および全項目の,年に入る賃借料や税金を,完全に旗に戻し,得させることを心にとどめて考えている。[中略]もし許諾して,派遣した官吏たちが所属する旗に至るならば,すべての土地や農地の開墾地の帳簿などを完全にすべて,提出・閲覧させ,審議・記録させ,今後,土地権利を取り戻し,処理することを容易にさせる必要がある。(「大会議事録」103-104ページ)
以上からは,清朝,中華民国時代を経て,オラーンチャブ盟の各旗が,県(開墾地)から賃借料や税金を十分に徴収できない状況であったことがわかる。これに対して盟公署側は,不当な立場に置かれた旗の窮状を訴えるとともに,日本の支配を軸にして,土地にかかわる諸権利を調査し,取り戻そうと述べるなど,一歩踏み込んだ主張をしていた。しかし,これまでみてきたように,この会議において政府は,オラーンチャブ盟の王公らが求めた要求のうち,ジャサグ旗の制度の維持は約束したものの(注44),旗の土地にかかわる権利の回復は,事実上棚上げにしていた。それゆえ会議の内容は,旗のジャサグらにとっては不満の残るものとなったと考えられる。
会議の後,1941年夏にオラーンチャブ盟では,シャラブドルジが盟長に昇格し,バボードルジの長子リンチンセンゲが副盟長に就任している。しかしその後オラーンチャブ盟の各旗では,ジャサグの離反や傅作義の攻撃などさまざまな事件が立て続けに起こった。
まず,モーミンガン旗では,第10代ジャサグのチメドリンチンホルロー(1910-1942)が,モンゴル人民共和国と連絡を持ったという嫌疑を受け,1941年冬に百霊廟特務機関(注45)の浅香四郎によって監禁される事件が起きた。1942年6月2日,監禁中のチメドリンチンホルローは拳銃で自殺してしまう[孫 1997, 159-163]。当時モンゴル人のあいだでは日本側がジャサグを暗殺したという見方も強く[札奇斯欽 1993, 98],ジャサグの死は,モーミンガン旗を二分する争いを引き起こした。これらは,翌1943年3月ジャサグの第二夫人エリンチンダライの率いる隊列が,「密告者」のメイレン(梅林:旗の官職)を殺害し,国民政府側へ逃走する事態へと発展した(注46)。
また,1942年にダルハン旗ではジャサグのツェスドバルジュル(1908-1947?) の指示のもと,旗の兵士が百霊廟特務機関[百霊廟分駐所]に夜襲を仕掛け,さらに1943年には日本との内通者をとらえ,浅香四郎と対立するという事件が起こった[金海 1997, 100-101](注47)。
この事件について,当時モーミンガン旗顧問であった今村陽輝は,事件の具体的な記述は避けながらも,以下のように記している。「盟公署のお膝下のダルハン旗では昭和17[1942]年と昭和18[1943]年春とつづいて大きな事件が起こった。この事件は盟長ダルハン旗出身サラバトルジ[シャラブドルジ],副盟長中公旗出身リンチンツンゴオ[リンチンセンゲ](林泌僧格)両氏の進退にも及ぶ問題であった」。さらに今村はこれらの事件について,「昭和18[1943]年春の事件は盟長,副盟長が北京にゆき,不在の事件ではあったが,盟長サラバドルジベール[シャラブドルジ貝勒]は退いた」と記している[今村 1975, 194-201](注48)。
今村の証言を裏付けるように,オラーンチャブ盟では盟長が交代し,1944年6月,オラド中公旗ジャサグのリンチンセンゲが盟長(蒙古軍第6師師長を兼任)に就任し,また息子のションノドンロブ(雄諾東日布:1920-1949?)も第6師師長団長に就いた。当時リンチンセンゲはこれらを祝賀して,6月(農暦7月20日)に百霊廟南方にチョグト・オボー(オボー:石や木材を積み上げた建造物)を設立し,盛大な大祭を開催したという[吉林太ほか 2017, 887-888](注49)。しかし,大祭を終えてリンチンセンゲとバボードルジらが王府に戻った夜,傅作義がそこへ襲撃を仕掛けたのである。傅作義は,2人とその家族を国民党の支配下にある陝壩鎮へ連れ去り,軟禁状態に置いて監視し,その状態が日本敗戦まで続いたという(注50)[吉林太ほか 2017, 884-898]。徳王は,『徳王自伝』のなかで,盟長リンチンセンゲの軟禁事件について一言も言及していないが,蒙疆政権にとって大きな衝撃であったことは間違いない。
以上みてきたように,1930年代後半から1940年代にかけて国民党支配地域と接するオラーンチャブ盟各旗では,徳王政権,ならびに盟公署の統治を足元から揺さぶるような事態が何度も生じた。結果的にオラーンチャブ盟では,7旗のうち5旗(オラド三旗,ダルハン旗,モーミンガン旗)が混乱状態に陥った上に,盟長までもが不在となり,そのまま終戦を迎えたのである。
本稿では,オラーンチャブ盟を中心に,蒙疆政権時代における盟旗制度について,領域とジャサグの権限に注目しつつ検討してきた。盟は,モンゴル遊牧地域において,移動して暮らすモンゴル民族の動態に沿った組織であった。しかし漢人の移住と農耕化や省県の設置により,モンゴル人の移動は徐々に固定化され,20世紀前半に至って,内モンゴルの盟の枠組みは解体が進みつつあった。また同時に,旗を支配してきたジャサグ(世襲王公)らの権限も弱体化していた。そうしたなかで1920~30年代の内モンゴルでは,王公や知識人らが,盟と旗をどのように「近代的」な組織に再編するか模索したが,一方で変化を望まない王公も存在していた。
1930年代,内モンゴル西部において,徳王らは国民政府に省の廃止を求めて自治運動を展開した。その後,徳王らは,日本の支配下に入り,蒙疆政権を成立させ,ここで新たに盟公署を設置することで,省の支配を取り払い,モンゴル人の支配を強化しようとする。しかしもともと盟は組織的実態がない組織であり,これをどのように運用していくかは手探りの状況であった。本稿において検討したように,蒙疆政権下のオラーンチャブ盟において,盟の上層部は王公らが占め,盟と旗は一体化した状態でもあった。「大会議事録」からは,オラーンチャブ盟各旗のジャサグや代表たちが,清代の枠組みに沿って,領域や,ジャサグの制度を維持しようとしていたことがわかる。これに対して蒙疆政権は,ジャサグ旗の維持を認め,さらにシレート旗の設立を容認した。しかし従来からくすぶり続ける開墾地(県)の帰属や管轄の問題は解決には至らなかった。このことはジャサグの制度を維持したとしても,それを支える盟旗という領域が足元から崩れつつあったことを示している。また,当時の日本側の方針や国民政府の攻勢は,オラーンチャブ盟各旗における内部対立や,蒙疆政権からの王公の離反をさらに助長したと考えられる。
本稿でみてきたように,蒙疆政権では,モンゴルの伝統的組織である「盟」に新たな機能を持たせようとしたが,盟の領域や支配体制は構築の途上にあり,その内実は不安定であった。しかし,蒙疆政権期における盟は,徳王らの省の廃止を求める自治獲得運動や,旧来の世襲制度や権限の維持を求めるジャサグ(世襲王公)の存在,そして日本側による盟旗制度の利用など,あらゆる活動が重層的に合わさり,実現したものである。加えてこの時期,中国の「省」に代わる機構として措定された盟は,モンゴル側にとって,「モンゴル」という枠組みを維持するという意味で,重要な存在であった。それゆえ,盟はその実態よりも,理念や枠組みが何よりも重視されたといえよう。
1945年以降,内モンゴルの盟と旗の枠組みは,廃止と統合,そして再編を繰り返している。これらは1920~30年代と同様に,支配者による,モンゴルの「自治」を縮小しようという意図の現れでもあるが,一方でそこに盟を維持しようというモンゴル民族の意識や「抵抗」を見出すこともできよう。
中華人民共和国成立後に設立された現在の盟は,「地級行政区」に位置づけられ,さらに「地級市」(省と県の中間とに位置づけられる)への変更が進み,風前の灯である。本稿ではモンゴルの伝統的な遊牧社会が残るオラーンチャブ盟について検討したが,漢人移住者の多い地域(バヤンタラ,チャハル盟)ではまた異なる展開がみられたと考えられる。さらに中華人民共和国において,現在に至るまで,盟をどのように位置づけてきたか考察することも今後の課題である。
(新潟大学人文学部教授,2023年8月30日受領,2024年3月8日レフェリーの審査を経て掲載決定)