2025 年 66 巻 1 号 p. 82-84
本書は,1880年代から1940年代にかけての英領インド,パンジャーブ州の都市ラーホール(現在はパキスタン領)における「ムスリム市民社会」に関する歴史研究である。とくに研究対象となっているのは,1884年に設立された「イスラーム擁護協会」(以下,「擁護協会」)である。本書の著者は,本書全体の問いを「擁護協会が近代ムスリム市民社会の形成に如何なる貢献をしたのだろうか」(1ページ)と設定している。おもな一次資料としては,擁護協会の年次報告書や理事会議事録などの文書,擁護協会が1885年以降に刊行したウルドゥー語の印刷物が用いられている。ムスリム中間層に対する啓蒙と教育をおもな活動とする擁護協会は,機関誌を刊行しており,複数の学校を運営していた。学校における教科書や女子カレッジで刊行されていた雑誌なども擁護協会に関する一次資料として用いられている。また,同時代の英領インドの他のムスリム団体の刊行物や講演記録なども数多く参照されている。
市民社会はヨーロッパで発達した概念であり,自由と平等を保障された市民,市民が言論の自由を保障された討議の空間が存在することが市民社会成立の条件となる。また,その空間で活動し得る自立した市民の成立も要件とされ,そのためには特権層にかぎられない広範な教育が行われなければならないと考えられてきた。ヨーロッパの場合,そのような教育は,教会による教育の独占を終わらせることが必要であり,市民社会の成立は世俗化を必要とするとも考えられてきた。
本書で論じられているような「ムスリム市民社会」という概念が提示されるとき,多くの場合,ヨーロッパの市民社会とは異なる,自由や平等,自立した市民などのいずれかが欠如したものをあえてムスリム諸国特有の「ムスリム市民社会」として定義し,着目する場合が多い。
本書をとおして,擁護協会の市民社会的性格が史料に基づいて示されている。「ムスリム市民社会」の嚆矢としての擁護協会にみられた市民社会的性格として,中間層の活躍,印刷メディアをとおした啓蒙と開かれたコミュニケーション,宗派を問わないムスリム・コミュニティ統合を志向したこと,女子教育と女性の社会活動への参加,などが取り上げられている。
「第1章 近代ムスリム市民社会を問う現代的意義」では,「ムスリム市民社会」に関する先行研究を紹介した上で,「ムスリム市民社会」概念につきまとうイデオロギー性と現代ムスリム社会におけるこの概念の複雑さが論じられている。ムスリム諸国の市民社会が植民地統治下で発展してきたと主張すれば,植民地統治の肯定的側面を主張することになりかねない。逆に,「ムスリム市民社会」がヨーロッパとは別に中世以来のイスラーム学者らのコミュニティ等から発展したと主張するのであれば,その「ムスリム市民社会」解釈は現代欧米的意味での市民社会概念に反するものになりかねない。本書の著者は,「近現代のパキスタン市民社会は,近代化,在地化,イスラーム化といった複数の過程が競合しながら交わり合うことで展開」(22ページ)してきた,という立場をとっている。
「第2章 英領インドにおける近代ムスリム市民社会の形成とその変容」では,19世紀後半の英領インドで中間層が台頭したこと,彼らが擁護協会を含む結社を設立していった経緯が説明されている。1857年のインド大反乱が敗北に終わった後,インドは英国の直接統治下となった。英領インドの人々は,ヒンドゥー,イスラーム問わず,英国のもたらした文明と行政と経済開発への対応を迫られた。高等教育を受け英国統治下の行政職につく者,近代教育の担い手となる者,専門職や企業経営として名士となる者などが中間層を形成していった。
「第3章 ムスリム中間層の結社としてのイスラーム擁護協会」では,1884年のラーホールでの擁護協会結成とその担い手であったムスリム中間層の人士について述べられている。擁護協会結成の直接の動議と目的がキリスト教宣教師への対抗とムスリム改宗者が出るのを阻止することであった,というインド・ムスリム社会の特殊事情が詳細に指摘されている。このことは,女子教育を含めた教育の普及や出版事業といった擁護協会のおもな活動の動機を伴っていった。また,植民地統治下でキリスト教宣教師たちに対抗するためには武力ではなく言論による必要があったため,擁護協会は市民社会的な開かれた討議を実践するようになっていった。
「第4章 イスラーム擁護協会による宣伝の手段と影響力」では,擁護協会による機関誌刊行について論じられている。キリスト教宣教活動からの防衛を想定した論争や啓蒙の手段として,そしてムスリム中間層のネットワークを広域で構築する手段として,機関誌の刊行は擁護協会の活動の柱であった。
「第5章 イスラーム擁護協会にとっての「ムスリム・コミュニティ」」では,擁護協会が推進しようとしたインド・ムスリム全体を包含する「カウム」概念が扱われている。ヨーロッパを範とする近代市民社会の形成においては,国民としての自覚を促し,その過程で宗教や地域共同体から自立した個人が確立していくことが想定されてきた。もともとアラビア語である「カウム」という語は,同時代のアラブ諸国においては「国民」の意味で用いられることが増えていた。しかしながら,擁護協会はあくまでムスリムの団結と啓蒙をめざす立場から,全インドの国民ではなく,全インドのムスリム,の意味で「カウム」の概念を用いた。擁護協会は,1875年にアリーガル・カレッジを創設したアリーガル運動の影響を強く受けており,創設者であったサイイド・アフマド・ハーンが提唱した「カウム」概念を共有し,具現化しようとした。
「第6章 イスラーム擁護協会と政府との関係」では,擁護協会がムスリムという「カウム」の世論を集約して,植民地政府と交渉しようとしてきた事例が取り上げられている。具体的には,メッカへの巡礼や,道路建設に伴いモスクが破壊された事件などについてである。本章で強調されているのは,擁護協会が植民地政府への忠誠を明確に表明し,その体制内において言論によって交渉しようとしていたことである。
「第7章 イスラーム擁護協会と女性問題」は,擁護協会の女子教育と女性の政治活動への参加について論じられている。近代市民社会の成立には,市民的自由と平等,自立した市民の公共空間への参加が必要とされるが,そこには男性だけではなく女性も同様に参画することが重要となる。「ムスリム市民社会」がヨーロッパの市民社会とは別のものとして論じられるとき,女性の参画のあり方は重要な論点となる。擁護協会が1885年にいち早く女学校を開設した直接の動機は,やはりキリスト教宣教師への対抗であり,宣教師が運営する学校で教育を受けたムスリム子弟の一部にキリスト教への改宗者が出たという事態に対抗するためであった。キリスト教宣教師による教育は女子教育においてとくに有力であり,擁護協会が女学校や女子カレッジを開設していったのもムスリム女子がキリスト教宣教師の学校に行かないようにするためであった。女学校のための女性教員養成も必要となり,後のパキスタンの政府与党,全インド・ムスリム連盟の女性委員会で重要な役割を果たす卒業生を輩出していくことにもつながっていった。
2024年現在,インド経済が世界的に注目を集めているが,インド近代史の宗教と社会については研究の蓄積がいまだ少ない。インド大反乱後,19世紀後半のインドは,ヒンドゥー運動にしてもイスラーム運動にしても,現在まで強大な動員力をもつ南アジアの宗教運動が始まった時期であり,現代インドを理解する上で直接的に重要である。本書は,そのなかでも研究の蓄積が少ない擁護協会についての,一次資料を多く用いた有意義な研究である。
本書の主題である「ムスリム市民社会」について研究することの学術的意義は,自明のものではない。北アフリカから東南アジアに至る多種多様なムスリム諸国の近代に,ヨーロッパで成立したのと同じような市民社会の形成過程を探すことは可能である。欧米でいわれる意味での市民社会は,欧米の影響の産物と考えるのが妥当である。各地のムスリム社会では,19世紀後半から,ヨーロッパを範として世俗的な市民社会形成をめざす運動が存在してきた。しかし,それらの運動は知識人らによる小規模な運動にとどまり,社会の主流となることはなかった。また,教育がイスラームと切り離されることはむしろかぎられており,ムスリム諸国の教育はヨーロッパからの影響を取り入れつつもヨーロッパで起きた教育の世俗化は起こらず,広範なイスラーム教育を普及していった。そのようなヨーロッパとは異なる社会と歴史をもつムスリム諸国においても,市民社会の形成を考察する意義はある。ただし,その考察は時にセンシティブととらえられ,「ムスリム市民社会」という独自の概念が考案され,追究されてきた。
本書の著者は,1880年代から1940年代にかけてのラーホールのムスリム市民社会を論じる上で,「集団による行為の基盤となり,国家に対して影響力を行使するような制度や団体,実践の集合」(21ページ)という市民社会の定義を用いている。この定義であれば,ムスリムの団体にかぎっても,インド・パキスタンには,擁護協会よりもはるかに巨大で現代に至るまで大きな影響力をもつ団体や集団が存在する。すなわち,デーオバンド運動やバレーリー運動,アフレ・ハディース運動などのイスラーム運動とその傘下の学校や諸団体などである。擁護協会を他の運動よりもとくに市民社会的な運動とみなし,その観点から研究するのであれば,具体的な差異が示される必要がある。
擁護協会をとくに「ムスリム市民社会」の萌芽とみなすことの意義については,本書に十分な説得力があるとは言い難い。擁護協会は今日までパキスタンで存続しているが,他の強大なイスラーム運動に比べると存在感は少なく,建国後のパキスタンで「ムスリム市民社会」の牽引役を果たしてきたとも言い難い。印刷物を活用したネットワークの構築や女子教育にしても,デーオバンド運動のような他のイスラーム運動も大規模に行ってきている。何より,1947年にパキスタンが建国され,国軍に権力が集中する権威主義体制が確立されていくにつれて,擁護協会はラーホールで教育行政の一部を請け負うだけの民間団体となっていった。
擁護協会にみられた「市民社会的」ともいえる諸特徴―言論による啓蒙と世論の集約,宗派を問わない全インド・ムスリム団結の主張,女子教育と女性の活動参加等―は,中間層の台頭を除けば,英国直接統治下という状況に擁護協会が適応しようとした結果にみえる。そして,権威主義的なムスリム国家パキスタンが成立してからはその体制に適応し,「市民社会的」な開かれた討議や,世論を動員した上での政府との交渉を行わなくなったようにみえる。
擁護協会は,英国直接統治下では,他のイスラーム運動に比べて,植民地政府やキリスト教徒,ヒンドゥー教徒の他団体と,討議を通じた交渉を試みた面はあった。それは,アリーガル運動の潮流の一部として,植民地政府への忠誠を明確に表明した擁護協会ならではの方針であり,英国からの独立や武装闘争を試みた他のイスラーム運動とは一線を画したものであった。しかし,この方針は,パキスタン建国後は顧みられなくなり,擁護協会はムスリム社会に新たな指針を示して世論を形成する運動ではなくなった。
ムスリム社会における市民社会の形成,という問題は,現代においても緊要な研究課題である。近代ムスリム諸国はほとんどが権威主義国家となり,そこでは市民的自由と公共圏は確立されていない。その結果として,ムスリム内の紛争も多く,経済や行政も脆弱となり,内戦を経て破綻国家となるムスリム諸国も相次いでいる。
パキスタンを含め,ムスリム諸国でなぜ市民社会がごくわずかしか形成されなかったのか,というムスリム諸国に広く共通する問題を,植民地統治時代までさかのぼって,近現代史の研究から検討することは,今日においてこそ重要となっている。この問題についての研究は,権威主義的なムスリム諸国内部での研究が困難であるため,欧米での研究が盛んであるが,日本でもその成果をふまえ,着実な研究を積み重ねていくのが可能であることを本書は示している。