アジア経済
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書評
書評:Aditya Balasubramanian, Toward A Free Economy: Swatantra and Opposition Politics in Democratic India.
New Jersey: Princeton University Press, 2023, xxi + 311 + 11pp.
佐藤 創
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2025 年 66 巻 1 号 p. 85-88

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はじめに

本書は,1950年代から1970年代のインドにおいて,「自由経済」あるいは「自由」を標榜して,思想的そして政治的に,当時の国民会議派政権と対峙しようとしたスワタントラ(Swatantra(自由))党の歴史を扱うものである。独立からまもないインドでは,国民会議派が7割を超える議席をもって政権を担当しており,J・ネルーを首班とするこの国民会議派政権により重化学工業化をめざした社会主義型経済計画が実施されていった。この政策により,工業化の主要な役割を担う主体は公的部門とされ,また,貴重な外貨や資源を効率的に用いるため,おもに工業部門を対象として,参入や製造プロセス,価格設定,取引,輸入などのあらゆる場面で許認可を要求する仕組みが1950年代後半までには形作られた。一方,農業部門では,穀物自給率を高め,また工業化を支えるため,農業生産性の向上がめざされたが,これは灌漑の普及などのほか,土地所有権の再配分を行う農地改革を通じての実施が図られた。つまり,経済活動への政府介入は,英領時代よりも著しく広くかつ深いものとなっていったのである。

スワタントラ党はこうした状況に異を唱える勢力により1959年に結党された。同党は,国民会議派の経済政策を,「許認可制度による支配(permit-and-license raj)」(p.3)を生み出し,官僚制度を肥大化させ,個々の経済主体の自主性を損なうものだと批判し,政府による経済への介入を縮小することを求めた。同党に結集した人々は一般には旧特権階級の人々や自由な経済活動を求める財界人であったといわれているが(注1),より具体的に,どのような背景をもち,どのような共通の考え方を育んで結集したのか,また現在に至るインドの政治や経済政策にどのような影響を残したのだろうか。

実際,インドの当初の開発主義は,深刻な国際収支危機に直面した湾岸危機の際に国際金融機関から求められた融資条件に応じる形で1991年に大幅な規制緩和が実施されて,民間主導の政策に転換された。つまり,1970年代に解党したスワタントラ党の求めていた経済自由化が現在では実現されている。このような自由化政策の採用が,1991年頃の外部状況の変化や外圧によって促されたということはもちろん一面の真実である。しかし,やはり国内においても厳しい許認可体制への批判や不満の底流があったことも見逃すことはできない。ただし,国民会議派による計画主義的な経済運営への批判や不満のルーツがどこにあり,どのような形で思想的に鍛えられて,どのようにインド社会において政治的に表出されてきたのかについての研究の蓄積は相対的に手薄な状況にあり,本書はこのような間隙を埋めるものである。

Ⅰ 本書の概要

本書は,ムンバイに今なお存在するある図書室の話から始まる。この図書室は,独立前には社会主義的な運動にも関与していた実業家R・ロトヴァラが,独立後に国家主義の害悪に反対する運動の一環として設立した経済自由主義のプラットフォーム「リバタリアン社会研究所」の残滓である。このような草の根の活動にスワタントラ党のルーツがあることを示唆するイントロダクションのあと,三部で構成され,いずれの部もそれぞれ2章からなる本論が展開される。

第一部は,“Situating Free Economy”と題され,自由経済という概念がどのような文脈と意味において新生インドで唱えられたのか,スワタントラ党の結成前史を扱っている。

第1章“Making a New India: Dreams, Accomplishments, Disappointments, circa 1940-70”は,独立後の経済政策がどのような状況のなかから出現したのかを解きほぐしつつ,第三次までの五カ年計画の特徴や成果を再確認する。また,計画委員会の設置をめぐる政治的駆け引きや設置後の計画委員会人員の急速な増員などの組織的な変化,さらには新たに採用された開発主義の長所を喧伝するフィルム,その考え方を揶揄する小説など,経済政策に関連する社会文化的な諸相にも広く目を配っている。とくに,議会での議論を避ける形で計画委員会が主導しつつあった経済政策が,官僚層の形成と肥大化,許認可権限の拡大へとどのように帰結したか,またそのことに対する不満が,増加しつつあった都市居住者や小規模事業者などの社会階層においてどのように広がっていたかが議論される。

第2章“Indian Libertarians and the Birth of Free Economy”は,とくにロトヴァラというグジャラートにルーツをもちムンバイを拠点とする製粉工場主がどのようにしてリバタリアン社会研究所を設立し,自由経済という概念を標榜して,インドのリバタリアニズムの基礎のひとつを築いたのかに焦点を当てている。具体的には,独立以前は反植民地主義者として国民会議派の主導する団体やヒンドゥ主義の団体,社会主義の団体にもコミットしながら英領インド政府と対峙する運動に参加しつつ,社会学インド研究所を1930年代に設立していたこと,1930年代後半までにはすでに極端なヒンドゥ主義や社会主義とは決別し,政府なしに階級のない社会をめざすという意味で,1949年に研究所の名称をリバタリアン社会主義者研究所に変えたこと,さらに1950年にリバタリアン社会研究所と名称を再変更して,中央集権的な国家主義に反対する運動を展開し始めたことなどの経緯を掘り起こしている。この市井の実業家が,西側諸国の自由主義や農村分権主義を受容しつつ,インド独自の文脈での自由経済思想を育んだ経緯に,同研究所より発刊されていた書籍やパンフレットなどから迫り,経済自由主義に加えて,政治権力の分権性という意味での自由経済という考え方や,穏健なヒンドゥ主義やナショナリズムをベースとしながら政府なくしてカーストを解消するという意味でのリバタリアン社会主義といった考え方が醸成されていったプロセスを探求している。

第二部“People, Ideas, Practices”では,スワタントラ党の主要なメンバーのルーツや考え方を,彼らが背負っていたそれぞれの社会的背景との関係を探りながら明らかにする。

第3章は“Conservative Opposition to the ‘Permit-and-License Raj”であり,スワタントラ党の結成において重要な役割を果たしたタミル出身のC・ラージャゴーパーラーチャーリに光を当てる。彼は党結成当時すでに80歳を超えており,M・K・ガンディーに近い国民会議派の政治家で,独立後には最後のインド総督となった初めてのインド人であり,また中央および州で閣僚も務めたこともある有力者であった。彼は,後に広く人口に膾炙するライセンス・ラージ(許認可制度による支配)という言葉を用いて,官僚制度の肥大化と腐敗を国民会議派の生み出しつつある弊害として批判し,経済学者B・R・シェノイの主張に依拠し,インフレと財政赤字もまた国民会議派の政策的失敗だと糾弾していた(注2)。また,左翼諸政党を除けば国民会議派しか選択肢がない状態は民主主義が片足立ちの状況であると主張し,農村生活の秩序維持や分権化した政府を求めていた。このラージャゴーパーラーチャーリが,広がりつつあった自由経済の思想を,地に足をつけた民主的な政党のプラットフォームの考え方へとニュアンスを広げていったと本章は議論する。とくに,ラージャゴーパーラーチャーリが発表していたいくつかの短編の物語を紐解いて,そこでは農村での社会秩序の変化が考察され,物質的な変化と道徳的な変化の相乗的な問題に深い関心を寄せていたことを明らかにしている。

第4章は,“Beyond Ghosts: Visions and Scales of Free Economies”である。ネルーがスワタントラ党の結成について,前世紀の亡霊のようだという主旨のコメントをしたことがまず紹介される。たしかに,同党の支持層には,かつてのザミンダールや藩王国の支配者層がいた。ただし,とくにライーヤトワーリー制度が主流であった西インドおよび南インドのスワタントラ党支持者層は必ずしも前世紀の亡霊的ではなかったこと,具体的には,テルグ語地域のカンマ,グジャラートのパーティーダール,ムンバイのパールシーといった社会集団につき,彼らがどのようにスワタントラ党の結成に関与し支持していたかをそれぞれの代表的な人物を取り上げ検討する。一人目は,全インド農民組合の共同設立者でもあったN・G・ランガーである。彼はテルグ語を話す土地持ち耕作階級であるカンマの利害を代表しており,この階層の人々は英語教育なども受け企業家を生みつつあり,これに立ちはだかるライセンス・ラージに不満を強めていたという文脈があった。次に,B・パテールと彼の出身母体であるグジャラートのパーティーダールが検討される。パーティーダールもやはり土地持ち階級で農村工業化を担いつつあった。さらに,自由企業家フォーラムとも深い関係を築いていたM・R・マサーニーと,彼の属していたパールシーに焦点が当てられる。パールシーはムンバイを拠点として商業や繊維産業などに進出しており,やはり自由貿易と自由な企業活動,反共産主義という価値観に特徴づけられていたことを指摘する。

第三部“Party Politics”は,実際にスワタントラ党がどのように支持基盤を広げようとしていたのか,その成果と限界を検討している。

第5章“Communicating and Mobilizing: Free Economy as Opposition”は,スワタントラ党がどのようにその主張を社会に訴え,党としての基盤を確立しようとしていたのか,とくにミドル・クラスの市民が国民会議派の経済政策により虐げられているというロジックを採用して選挙キャンペーンを展開した背景やその成果について論じている。党結成時には,ガンディーの「政府権限の増加に大きな不安を覚える。というのは,そのことは……すべての進歩の核心にある個性というものを破壊するという人類へのもっとも大きな害をなすからである」(p.213)という言葉を引用したバナーを掲げ,B・G・ティラクの生誕百年の日に結党の会議を開くなど,自由経済,許認可制度なき経済というスワタントラ党のビジョンを,ティラクやガンディーの系譜に位置づけていたことに触れる。また,党の主張を,イラスト入りのパンフレットなどで英語や地方の言葉で広めようとしたこと,党への勧誘や党員のための研修をどのように展開していたかも掘り起こしている。ただし,党はエリート主義的で,広い大衆運動を展開することに当時の党執行部が及び腰だった様子や,女性からの支持も,旧藩王国の王妃であったG・デーヴィーが同党の国会議員として活動したことが有名であるものの,都市中間層がまだ十分に発展していないこともあり広がりを欠いたことなども検討している。同時に,インフレ,税金,政治腐敗という現在も選挙で重要な争点となるテーマを示して政治動員をスワタントラ党が行った意義を考察している。

第6章は“Against the Tide: Swatantra in Office and Memory”であり,スワタントラ党がどのように中央や州の議会などの統治機構のなかで行動したかを検討する。1967年の総選挙で,国民会議派は大幅に議席を減らし,さらにいくつかの州でも大きく後退した。野党で最も議席を増やしたのがスワタントラ党であった。しかし,国民会議派が分裂すると,スワタントラ党は会議派(O)に支持層を奪われ,さらには会議派(R)が1971年の総選挙で大勝すると,議席を大幅に減らしたスワタントラ党は解党へと向かっていく。それでも同党はいくつかの点でインドの議会政治に重要な痕跡を残していることを論じている。たとえば,一党優勢的な状況のなかで,はじめて内閣不信任案投票を行うところまで持ち込んだことや,議会委員会においてインド統計研究所のガバナンス問題に切り込むなどしたことを通じて,野党の重要性を示したことである。また,基本権である財産権の保障について,国民会議派の介入主義的な政策に対して,議会そして司法を通じて抑制をかけようとしたことなども議論している。

Ⅱ 本書の評価

以上で紹介したような内容をもつ本書には多面的な意義があると思われる。とくに,国民会議派を中心としたインド政治史の文献が圧倒的に多いのに対し,本書はスワタントラ党に焦点を当てて,この時代の変化の底流の一側面を描き出している。その結果,そのルーツやそこに結集した人々や社会階層,関係する雑誌や新聞また団体など,あまり注目されてこなかった主体や要素に光が当たっている。たとえば,第2章で論じられているリバタリアン社会研究所の存在とその歴史や,第4章で掘り起こされているスワタントラ党結成当時の人物群像などである。また,農地改革や銀行国有化と財産権保障との問題にかかわる憲法訴訟についても,スワタントラ党のかかわりをみることにより,特権階級が司法を利用したという側面に加えて,経済への国家介入に反対する思想的な運動の延長に司法闘争も位置づけられるという側面もあることに注意を促している点も,本書の視角が可能にした指摘であろう。このように,本書には,資料を丁寧にあたって掘り起こした知見が多々示されており,インド政治経済史研究の地平を広げている。もちろん,その分,広大なインドの一時代の歴史的な経緯について,対象をどう取捨選択して議論を展開するかについて,議論の余地が残る点が少なからず含まれることは当然であり,評者の関心から二点に触れてみたい。

第1に,スワタントラ党の掲げた「自由」のインド社会における文脈についての考察も興味深い。英領時代から独立後を通じて力をつけつつあった新興の社会経済層が,より自由な経済活動の展開を求めて介入主義的な政策に反対するという側面がスワタントラ党にはあり,そのような社会階層が自由という概念を介して結集した動きを丁寧に示している。他方で,とくにインドのような後進国では,経済への政府介入に反対する考え方や自由至上主義的な主張は,旧来からの特権層の利害と結びつきやすいという傾向があるが,スワタントラ党にはそのような側面が実際にどの程度あったのかという議論がやや手薄である。この点の検討がもう少しあると,この時期のインドにおける自由あるいは自由経済の社会的な意味についてより重層的な理解が可能となったように思われる。

第2に,自由経済ということの意味あるいはリバタリアンの意味についての本書の経済思想史的な検討も重要であろう。とくに,インド独自の文脈での自由経済やリバタリアンの意味について,スワタントラ党にかかわった主要な人物やその代表した社会階層の利害を明らかにすることを通じて,その多様性が明らかにされている。ただし,アメリカや欧州でのリバタリアンの意味も多様であるため,ここで議論されているインド独自の文脈でのリバタリアンの意味が十分には明確化されていないようにも思われ,この点はもう少し敷衍した議論があると読者の理解がより深まったように思われる。

おわりに

本書がそのタイトルにも用いて注目した「自由経済」の考え方をめぐっては,自由経済あるいは経済的な自由と信教や表現の自由など他の自由との関係をどう考えるべきかという難しい問題が存在し,また,ある社会階層による自由経済や経済的な自由の主張が,他の社会階層の経済的な自由を損なう可能性を内包していないかという問題も重要である。自由経済には,このような容易には解決しえない論点が存在し,時代や社会の文脈や変容により繰り返し問われることになる。本書において筆者は,インドも含め世界中で,宗教的あるいは民族的な主流派支配がさまざまな方法で高まっているように観察される現在,スワタントラ党の試みを再訪することは,「現在の最悪の行き過ぎをチェックするための代替の可能性と連帯を想像することに役立つ」(p.298)と結んでいる。宗教的あるいは民族的な主流派支配と経済的な自由主義・保守主義の関係にはいくつもの分岐点があることを,独立前後から1970年頃のインドを事例として,本書は確かに示している。本書の内容は非常に学際的でもあり,インド社会の政治経済的な歴史や発展を研究する者はもちろん,現代社会一般における民主主義と自由主義の複雑な関係に関心をもつ読者に,広く参照されることを期待する。

本文の注
(注2)  シェノイについては,絵所[2002, 9-28]第1章「B. R. シェノイ――忘れられた経済自由主義者――」を参照。

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