2025 年 66 巻 4 号 p. 30-60
モンゴル地域における商業活動は古今を通じて行われていたことは周知のとおりであるが,著しく発展を遂げたのは清朝以後のことである 。そのなかで重要な役割を果たしていたのは,いうまでもなく漢人商人を中心とする「旅蒙商」であり,彼らの活躍で,当時,モンゴル地域において,草地取引市場,地方集散市場,定期市場といった3つの異なるパターンをもつ取引市場が形成された。草地取引市場とは,一般的には行商による奥地における取引によって形成されたものであり,「旅蒙商」の最も基本的な形にあたる。地方集散市場とは,牧畜地域と農業地域の境界線付近において店舗を構え,モンゴル人と交易することによってできたものである。定期市場とは上述の2種類の取引市場の中間たるもので,決まった期間内に,決まった場所で行われるものである。そしてこれらのさまざまな形をとる取引市場が互いに緊密に結びつきながら,近代モンゴル地域における貿易市場を独占していたともいえるが,本論文では,内モンゴル・フルンボイル地域に位置するガンジョール・スム定期市を事例としながら,近代内モンゴル地域における定期市場の実態を探るとともに,その近代内モンゴル地域の貿易市場における位置づけを明らかにする。
Commercial activities have been carried out in the Mongolian region throughout the ages, but it was only during the Qing Dynasty that remarkable development was achieved. The Traveling-Mongolia Merchants (旅蒙商), who were mainly Chinese merchants, played an important role in this development. Their activities led to the creation of markets with three different forms: grassland trading markets, local distribution markets, and periodic markets Grassland trading markets were generally formed through transactions carried out by the Traveling Merchants (行商) in the hinterland, which is the most basic form of the Traveling-Mongolia Merchants. Local distribution markets were created by setting up shops near the border between pastoral and agricultural areas and trading there with Mongolians. The periodic market was an intermediate form between the two types of trading markets mentioned above, and took place within a fixed period and at a fixed location.
These various trading markets were closely connected to each other and monopolized the trade market in the modern Mongolian region. In this paper, the Ganjuur Sum periodic market located in the Hulunbuir League of Inner Mongolia is taken as an example to explore the actual situation of periodic markets in modern Inner Mongolia and to clarify their position in the trade markets there.
はじめに
Ⅰ モンゴル地域における定期市の成立条件
Ⅱ ガンジョール・スム定期市に関する基本情報
Ⅲ ガンジョール・スム定期市における取引状況
Ⅳ バルガ地方貿易におけるガンジョール・スム定期市の位置づけ
Ⅴ ガンジョール・スム定期市のその他の側面
おわりに
近代モンゴル地域における「旅蒙商」(注1)による取引市場はその時期と場所,ならびに取引形態により,草地取引市場,地方集散市場,定期市と3種に区別することができる。そのなかで,草地取引市場とは,一般的には行商による奥地における取引によって形成されたものであり,漢人商業資本が辺境に進出するにあたって最も基本的な形態である。その一般的な組織は雑貨類の奥地販売を主とする「出撥子」(Chu bozi)と,牲畜の買い付けを主とする販子(Fanzi)によって構成される(注2)[ガンバガナ 2015, 55-79; 阿部 1939, 19]。地方集散市場とは,牧畜地域と農業地域の境界線付近において雑貨舗,牛馬店などの店舗を構え,モンゴル人と交易することによってできたものであり,有名なものとしては,張家口,ドロン・ノール(注3),赤峰などを取り上げることができる。定期市とは上述の2種類の取引形態の中間たるもので,決まった期間内で,決まった場所で行われるものである。そこには「雑貨舗あり料理店あり,又鍛治屋其他の職人あり,或は牛馬店の出張所あり,或は外国商人の店あり,其他市場の警備に任ずる兵営及び市場を監督し,徴税する衛門等も設けられて,一朝にして大市場が出現するのである」[満鉄 1927, 115]。そして,これらのさまざまな形をとる取引市場が互いに緊密に結びつきながら,近代モンゴル地域における貿易市場を独占していたといっても過言ではなかろう。
旅蒙商に関する研究は,近年国内外で広範な学術的関心を集めている。とくに中国では,その研究が進展しており,歴史的,経済的,社会的など多角的な視点からの分析が行われている。まず,資料集としては,『内蒙古十通:旅蒙商通覧』[邢野・王新民 2008]は,大盛魁を始めとする旅蒙商の数百年にわたる貿易活動を詳細に述べている。『旅蒙商档案集粹』[蒙古国国家档案局・内蒙古自治区档案局 2009]は,モンゴル国文書館に保存されている旅蒙商関連の布告,帳簿,名簿,貨物リストなどの資料を基礎としている。フルンボイル地域に関しては,『呼倫貝爾旅蒙商』[馬洪祥 2010]や『甘珠爾廟会』[暁光ほか 2003]があり,前者はフルンボイル地域における旅蒙商の活動に関する資料集であり,後者は日本語およびロシア語の資料の翻訳である。
つぎに,研究論文に関していえば,盧明輝・劉衍坤[1995]による中原地域とモンゴル地域の貿易において旅蒙商が果たした歴史的な役割を論じた研究,許静[2014, 80-84]による時系列に沿って貿易特権を含む4つの側面からモンゴル地域における旅蒙商の独占的な状況を分析した研究,刁莉[2018, 35-45]によるマクロ的な視点から旅蒙商と旅露商という2つの商人グループの経済活動を考察した研究,魏暁鍇[2020, 67-71]によるこれまでの旅蒙商研究を総括的に検討した研究など数多くあるが,ガンジョール・スム(仏教寺院)定期市に関する研究としては,崔思朋[2024]による多民族国家の形成という視点から論じた研究や,刘屮芊・王学勤[2008],烏日図[2005, 77-79]による概説的な紹介にとどまる研究などが存在する。
このように,旅蒙商に関する先行研究は数多く存在するが,総合的に考慮すると,特定の地域や行事に関するケーススタディの不足や,一次資料の発掘の不十分さ,とくに日本語資料の活用不足が見受けられる。また,数百年にわたる長い歴史を一元的に扱っているため,地域差や時代の変化が十分に反映されていないという問題もある。一方,定期市に関する研究は,世界商業史における重要な課題として多くの研究成果が蓄積されているものの,モンゴル地域における定期市に関しては,ほとんど研究が行われていない(注4)。
したがって,本論文では,「旅蒙商」と「定期市」という2つの視点から,ガンジョール・スム定期市における畜産取引の実態について詳細に検討し,それによって,バルガ地域におけるガンジョール・スム定期市の位置づけを明らかにする。同時に,東アジア地域および世界商業史における遊牧地域ならではの定期市の特性を解明し,定期市研究に新たな視点を提供することをめざす。
資料に関していえば,おもに日本の外務省外交史料館や防衛研究所図書館などの公文書館に所蔵されている現地調査に基づく一次史料の利用に努めた。たとえば,藤野および太田の史料はいずれもこれに該当する。加えて,従来より研究者によって広く利用されてきた南満洲鉄道株式会社の史料や,ウェ・ア・コルマゾフをはじめとするソ連側の史料も分析対象とした。ただし,表4に示されるように,これらの史料にも記録内容に相違がみられるほか,当事者による偏見やバイアスが含まれる可能性があるため,他の史料と比較検討を行いながら分析を進めた。
近代モンゴル地域においては,日常使用物資の需要期,あるいはその生産物資の販売期にあたり,ある一定の地に時期を定め,多数の商人とモンゴル人が集まって相互に必要物資を交易していた。これはいわゆる定期市であり,広大な地域に散在して遊牧生活を営むモンゴル人にとっては極めて必要であり,かつ古くから発達していたものであるが,その原点といえば,じつは中国漢代において長城線付近で行われていた互市にまで遡ることができる[Γangbaγan_a 2021, 45-51]。普段,仏教寺院における法会と一緒に行われることが多かったため,中国語では「廟会」とも呼ばれていたが,宗教行事としての法会とは根本的に違っていた(注5)。後者の方は,仏教寺院が多く存在するモンゴル地域にとっては,あくまでも伝統的な宗教行事であり,寺院の大小問わず,ほとんどの寺院が一年に数度行っていたが,定期市はすべての寺院に開かれるものではなかった。定期市として大く発達をなしたのは数個の寺院だけといっても過言ではない。なぜなら,定期市は,いかなる場所でも発達するわけではなく,それなりの条件,すなわち地理的,宗教上,安全上などさまざまな条件を備えなければならなかったからである。
まず,地理的条件としては,定期市はモンゴル人が生畜を追って,広い範囲から多数来集することができる,しかもその集まった家畜を必要な期間において,容易にその付近に放牧することができる,余裕のある場所が必要である。本論で述べるガンジョール・スムの場合,まさにこの条件を満たしていたといえよう。「フルンボイル地域」(注6)の南端近くに位置するガンジョール・スムは,付近にはフルンとボイルという2つの湖,およびその関係地帯の沼地があって,牧草が繁茂し,興安領から流れ出たハルハ河は付近を潤して,好牧草地が広がり,南方はハルハおよび東西ウジムチンの草原に連なり,西はフレー(現在のオラーンバートル)付近に源を発したケルレン河がセチェンハン・アイマグの沃野を流れてフルン湖に注ぐ。そのため,張家口とドロン・ノールなど南方市場との往来が自由にできただけではなく,東部モンゴル各地のモンゴル人が,家畜とともに牧草地を追いながら,ガンジョール・スムの定期市に容易に来集し,盛大な定期市を形成することも可能であった(図1)。

(出所)阿部[1939, 58-59]より引用。
また,内モンゴル地域においてもう1つの重要な定期市となっていたドロン・ノールの例からみても,「滦河の上流にありて,東部内蒙古のものが来市するに便あり,北京及び山西方面に向かっても沃野続き,且つ古くより興安嶺以東の遊牧地帯に対し最前線にある市場として発達した」[満鉄 1927, 113]ので,自然に盛大なる定期市として発達したのである。また,大巴林旗の大板上の定期市もこれと同様である。すなわち,シラムリン河の流域に随って東西内モンゴルの人々が来集し,定期市を形成していたのである。
宗教上の条件としては,法会に際し,その寺院に高僧がいるか否かによって,モンゴル人の来集に影響するところが大きかった。モンゴル人にとって高僧を尊ぶ気持ちは,まるで仏そのものに対するようで,したがってその寺院に彼らが信仰する活仏がいるかどうかは,非常に重要な問題であった。ドロン・ノールの定期市が盛大になっていたのは,モンゴル人が最も尊敬するチベット仏教の指導者,ダライ・ラマのゆかりのある地であり[満鉄 1924, 62],なおかつ彙宗寺,善因寺という2つの大寺があり,そこにはジャンジャーという活仏がいたからである。内モンゴル地域においては,彼の地位の高さはよく知られていることであり[任月海 2005, 69; Darjai・Soyol 2015, 1],まさにそれが1つの理由で,たとえば,当時,ガンジョール・スムにおける定期市が衰退する傾向に入っていたとき,東清配鉄道および地方当局は,「昔の如き盛に挽回せんとして,彼等の尊信する」ドロン・ノールの活仏をその法会へ招待することを考えていたこともあった[満鉄 1927, 114]。実際招待したかどうかは不明だが,こういう話題が出ていたということ自体,活仏の影響も大きかったことを物語っていることであろう。
そして,上述の2つの条件はおもにモンゴル人と関係するものであるが,それ以外に,国境が安定的かどうか,市場と市場を連絡する地方の治安がよく維持されているか否か,課税が苛酷であるか否かなど政治上の要因によって定期市の盛衰が影響されることもあった。たとえば,1912年の寂れは外モンゴルの独立,民国の樹立など一連の事件による政治的な不安定な時期と重なっており,1928年,1929年に定期市が開かれなかったのは,外モンゴルの国境封鎖,フルンボイル事件(注7)および中ソ紛争が原因である(注8)。
また,中華民国時代の1925年9月15日に,定期市の開始に先立ち,フルンボイル道尹(注9)および交渉委員が「蒙古政庁長」(注10)と連名して,地方商人に対し布告を行い,附近の関係する地方に,ガンジョール・スムに通ずる関係路上は完全に治安が維持されていることを掲示していたのは,商人を安心させるのが目的であった[満鉄 1927, 114]。というのは,モンゴル人の遊牧地帯は比較的に安全であっても,定期市と内地市場を結ぶ地帯が「匪賊」の出没により危険に晒され,商人が定期市に往来の途中においてその厄に遭ったら,その翌年度より定期市の取引に悪い影響を残すこともあったからである。
以下は,その布告の内容である。
「定期市開催期接近セルニ鑑ミ,呼倫貝爾道尹及交渉員公署並ニ蒙古政庁ハ,中外国商人ニ向ッテ至急該定期市ニ対スル準備ヲ整ヘ,同時ニ定期市ニ至ル途中ニ於テ有リ得ベキ危険ヲ避クルタメ,商人各位ガ携帯スル貨幣ノ金額ニ就キ申請ヲ為ス必要アルベキコトヲ予告ス。蓋シ之ニ依リ公署ハ防衛ノ援助ヲ為ス可能ヲ有スベク,又蒙古政庁ハ市開催地マデ護衛兵ヲ提供シ得ベシ」[阿部 1939, 52;馬洪祥 2010, 95]。
なお,1931年の寂れは満州事変と関係しており,それと逆に1938年の市が好調だったのは,同年より,所管の新バルガ左右両旗公署が本市に関する施設,対策を整備し,徴税方法ないし売上げ申告制などを徹底したためである[阿部 1939, 49-50]。このようにモンゴル地方における定期市は宗教上,地理上,政治上の各要件が具備されてはじめて成立した。
ガンジョール・スムは内モンゴルフルンボイル市の新バルガ左旗に位置し,満洲里市より東南方に200キロメートル,ハイラル市の西南175キロメートルのところにある(図2)。乾隆帝の勅令によって,1781~1784年の間にエルグネ河岸の山頂にあった同名のモンゴル・ゲル式の寺を現在地に移して,建設したものである[李萍・李文秀 1998, 1]。寺院内には乾隆皇帝より送られた108巻の聖典ガンジョールが所蔵されていたので,その経典の名に因んでガンジョール・スムと呼ばれることとなった。経典のうち,第1巻はモンゴル語,チベット語,マンジュ語および漢語で書かれ,そのほかの107巻はチベット語で書かれていたという。漢名は壽寧寺[藤野 1934, 3]である。

(注)本図は方位が不明であるが,実際のガンジョール・スムはハイラル市の西南に位置する。
(出所)市橋[1942, 49-50]より引用。
ガンジョール・スムの最も大きな法会である秋期大会は毎年旧暦の8月6日から8月16日まで開催されたが,それに先立ち,定期市はその直前の8月1日より8月5日までの5日間の間に行われた。異なる性格をもつ2つのイベントであるが,普通のモンゴル人はその区別がつかず,習慣としてガンジョール・チョグラガンと呼んでいた。その意味は「集会」である。一方,漢人商人の間では,「廟市」を意味する「廟会」として知られていた[Nekeyitü 2016, 21-25]。
定期市の由来について,『巴爾虎(呼倫貝爾)の経済概観』では,「甘珠爾廟所在地に於ける商業の開祖は支那の商人である。多数の信者が押し寄せるのを予期して,彼等は此の所に廟が創建されたる初頭の年より,廟壁の附近に天幕を張って商業に従事した」[ウェ・ア・コルマゾフ 1930, 154]ことがきっかけとなっていると書かれている。『甘珠爾廟外記』には「ガンジョール・スムが建設された後の1785年に,第1回目の法会が開催された際,ハイラルに滞在していた商人たちが参加し,地元の住民とラマとの間で物々交換という原始的な商業活動を行った」「李萍,李文秀 1998, 1」ことがきっかけだと書かれている。いずれもその原点に漢人商人の活躍があったことを示唆している。
しかしその後,赴市者や店舗が増加し,取引が拡大するに従って,聖域の汚損を恐れ,かつ狭隘化を避けるために,商業活動の中心は寺院の西北方の4~5キロメートルの地点に移された。具体的な移転時期は明確ではないが,定期市場らしい形態が整えられたのは,実際はガンジョール・スムが建立され,法会が執行されてからおよそ20~30年後のこと,つまり,19世紀の初頭ごろのことだったという[阿部 1939, 42-51]。
そのほか,以下のような伝説もある。
「清朝の対蒙政策の一つとして公主を蒙古王に降下したるも,辺境にして慰めるべきものなきを以って,中秋頃一年一回北京方面より商人来蒙を命じ,全地に市を開かさせたものが,慣習となり」[藤野 1934, 4],定期市が形成された。
そしてこのように形成された定期市場は,当時のバルガ地域の経済活動において枢軸的な役割を果たし,周辺の「家畜業者や羊毛業者,並びに対蒙雑貨貿易業者等にとり,経営上の重要な現物市場であるとともに,関連商品の動向を探知すべき前哨線的市場」[阿部 1939, 3]であった。行政長官や政府関係者はおもに行事の主催,治安の維持,秩序の監督,税金の徴収などの業務に従事していた[孛蒙赫達賚 2003, 105]。一方,寺院側は本論文の最後に述べるように法会を行うことで信者を引き寄せるという重要な役割を果たしていた。
2.定期市の概況広大な草原の真ん中に位置するガンジョール・スムは,平時,人影が少なく,とても静かな場所であった。1925年の調査によると「常住」する僧侶の数は約80人で[満鉄 1925, 101](注11),周辺の人々を合わせても500人ほどしかなかったという[ウェ・ア・コルマゾフ 1930, 151]。ところが,定期市が近づくと,状況は一変する。それについて当時の資料では次のように表現している。
「毎年陰暦の八月一日から,遊牧蒙古人は夏の屯営地を後にし,而して甘珠爾廟の附近に於て放射線状に集合している諸々の草原道路に依り礼拝に来る。此時期には草原が活況を呈する。遊牧民の無限の荷車隊が,僅かの距離を明けて,時に二列乃至参列に並び数露里も続いて甘珠爾に押し寄せて来る。彼等の後方には商品を積載した商人の荷馬車隊が続く」[ウェ・ア・コルマゾフ 1930, 153-154]。
そして彼らは予定地に到着するや,外来の商人,購買者および信者は,皆市場地域内のあらかじめ当局の定めた場所に陣をとる。陣の配置状況は年によって多少異なるが,1928年の場合,以下の図3のとおりで,おおむね①ロシア商人市場,②漢人商人市場,③馬市場,④木製品市場と区分されていた。そのなかでは,ロシア商人市場には戦前はザバイカル州,沿海州,黒龍州地方より来るロシアの畜産業者が天幕を張るか,またはモンゴル・ゲルを借り入れて滞在するところであったが,後にロシア商人の数が減ったため,この区域に牛,馬およびその他の畜産を購入するために,来集するすべての人が滞在することとなった。漢人商人の市場は距離的には最も長くて,そこには多くの漢人店舗が露店を交えて立ち並び,その数は数百にのぼっていた。木製品市場には,ゲル用の木壁,屋根棒,頂圓,木製の車輪,牛車などのものが売られていた。これらのものは場所をとるため,与えられた面積が最も大きかった。これに従事するものは主としてモンゴル人であったため,ここではモンゴル人同士の間で取引が行われるのが特徴的であった。それ以外,バルガ地域のモンゴル人信者は旗別に廟の付近に場所が与えられていた。近隣の外モンゴルのセチェンハン・アイマグ,内モンゴルのシリンゴル・アイマグおよびジョーオダ・アイマグより来る信者たちは彼らの区域に滞在していた[ウェ・ア・コルマゾフ 1930, 156-161]。そしてこれらの人々は毎日そこから手持ちの家畜を放牧しながら市に通っていた。

(出所)阿部[1939,58-59]を基に筆者作成。
このように何もなかった草原に一夜にしてモンゴル・ゲルの一大市場が現出し,その盛大さは一見すれば「法会が主なるか,市が主なるかの判断に苦しむ」[満鉄 1925, 88]ぐらいだったという。その定期市にあつまった者の数は最盛期には推定で4万人にも達していたといわれているが[阿部 1939, 46],1923年の調査資料では,モンゴル人約5000名,漢人約1500名,ロシア人35名,英国人2名,そのうち,新バルガ人は4000名,ハルハ人は1000名[太田 1923, 17],なお,1934年には,モンゴル人4576名,うち男3949名,女392名,児童235名,満漢人454名,露人69名,日本人60人あまり[藤野 1934, 5-6],1935年には,モンゴル人約7000名,満漢人約500~600名,邦人約100名,露人約100名が参集している[藤野 1935, 6]。最盛期と比べると大分減っているが,とはいえ依然として多くの人が集まっていたことがわかる。
そしてここでとくに注目したいのは,まず,モンゴル人参加者の数が多いことであり,当時,バルガ地域のモンゴル人の数がおよそ3万ぐらいであったことを考えれば,バルガ・モンゴル人の5~6人のなかから1人が定期市にきていたという計算になる(注12)。とりわけ,その最盛期には数万人の人が参加していたということを考えれば,その割合は最も高かっただろう。つぎに注目すべきは,多くの女性と子どもも参集しているとことで,参加したモンゴル人のおよそ1割を占めている。その理由といえば,定期市とは,信仰心の強い当時のモンゴル人にとっては,市というより,その本来の姿である宗教行事たる法会であったからであり,その上,競馬,相撲など伝統的なスポーツが行われていたということは,彼らにとっては一種の祭りを意味するものでもあったためだが,詳細は最後に述べる。
さて,定期市のあり方をさらに理解するために,ここで1934年のガンジョール・スム定期市の様子を文学的な手法によって如実に描写したものがあるので,その一部を引用しておきたい。これまで述べた内容とちょっと重なる部分はあるかもしれないが,臨場感あふれるこの文章には当時の様子が垣間見られる。
「市場に蒙古包を建て店を張るのは,殆ど総て満人(ママ)商人及び露人商人であり,蒙古人は市の周囲一日本里位の所で手持の家畜を放牧し乍ら屯して毎日市に通ふのである。女は牛車を卸し,男は騎馬で毎朝未明から,市に向って押し寄せて来る。開市期間五日の中初めの二日は市場の北端にある牛馬買付商の包に囲まれた広場で朝まだきから牛,馬の売買が行はれる。即ち最初の二日間は蒙古人が売手になる。売手の蒙古人は売物の馬や牛を二,三頭伴れて騎馬で市場に入る。買手は馬の間を縫ひ,逞しい牛の間を角を掻き分ける様にして,騎乗の売手に「ヤージ」「ヤージ」(幾何か)と呼び掛け乍ら売手の長い袖口に手を入れて売手の指を握る。売値,買値は決して口にしない,指の握り方一つによって売値が決まるのである……
牛,馬の雑踏,蒙人,満人,露人各様の服装,言語,昂奮し切った叫び声,怒声,罵声,名状し難いごった返しの里に牛,馬の取引は進められる。熱し切った雑閙の中に駱駝が登場して,己が身の売られ行くのも知らぬ気に,あらぬ方を虚な眼で眺めやって居るのも蒙古情景の一つである。買手は買付けた牛,馬を直ちに自己の包の裏手に引き込み尻に焼鉄を烙して市場を遠く人目の届かぬ所まで連れ去って税吏の眼を逃れ,脱税を計る。
羊の大量取引は市では行はれずに,羊群の放牧されて居る所まで買手が出張して売買することになって居る。然し市に集った人々が毎日食ふために羊が買はれる。鞍の前輪に羊を抱いて軒毎に羊は要らぬかと廻って,三,四圓で一頭を売捌いて行く。買手の望みがあれば,其場で喉をかき皮を剥ぎ,綺麗に料理して呉れる。丁度,日本の魚屋が魚を料理して呉れるのと同じである。
蒙古人は物々交換を行ひ,貨幣は使はぬ様に一般では考へて居るが,この定期市では真の意味の物々交換は見られなかった。牛,馬,羊の売買は国幣に依る現金取引であり,牛,馬の代りに食料品を渡すが如きことはない。唯,雑粮舗等では羊一頭と麦粉一袋とを交換して居るのを見たが,之は純粋のWaren Warenの形式ではなくWaren Geld Warenであって,三圓の麦粉一袋と一頭三圓の羊とを交換したものであり,これを物々交換と断じ去ることはできない……
第三日目からは牛,馬の売買は殆どなく,稀にあるとしても売残りを売叩く位のもので,第二日目の夕刻には牛馬買ひの商人は引上げて了ふ。第三日目からは雑貨舗,雑粮舗,綢緞舗,飯店等が繁昌する。一冬の食料(主として麦粉,迷子米その他の副食物である。而して蒙古人の主食物は羊肉である),日用品が買はれる。女子供は雑貨舗,綢緞舗を軒並に素見し,玩具に笑ひ興じて居るし,男達は賭博に眈り,高粱酒をあふり,又善良なものは支那料理に一年分の食欲を家族内揃うて満喫さして居る。三日目以後の市場は村祭にも相似た光景で,蒙古人は老若男女一年間の観を一日に尽して帰る」[山形 1934, 4-5]。
本資料では,商人の活動,モンゴル人の生活様式,市場の繁栄の様子など,定期市の日常が詳細に描写されている。類似の記述は「呼倫貝爾壽寧寺市場記」[程廷恒・張家璠 1923, 301]にもみられる。これにより当時のモンゴル地域における定期市の概況を垣間見ることができるが,すべての定期市が必ずしも同様であったわけではない。その規模にも大きな差があった。なかでもガンジョール・スム定期市は,規模の大きい方に属していたと考えられる。
ガンジョール・スムの周辺には,平時,廟を中心として数少ない商人や職人がいた。たとえば,1925年ごろには,木匠3,画工3,泥工2,銀冶工3,皮場2,および山西省系ハイラル「出撥子」6,7戸が居住し,ラマ僧および付近のモンゴル人を相手として取引を行っていたという[満鉄 1925, 88]。しかし,一旦定期市が始まると,すでに述べているように,状況が一変し,多くの商人が年1回のこのチャンスを逃さずに,さまざまな地域から集まってくる。そのなかで最も多かったのは,いうまでもなく漢人商人であった。彼らは当初は,ドロン・ノール街道(図4を参照)(注13)により茶,焼酎,煙草,氷砂糖,お菓子,その他の雑貨および日用品を持ち込み,モンゴル人の家畜および畜産製品と交易を行っていたが,後に東清鉄道が開通すると,その沿線の駅,とくにハイラル,満洲里を通して入ってくるようになった[太田 1923, 2-3]。そのほとんどが資金の面で貧弱な小商人で,通常定期市開催の2,3カ月前より商品買入れなどの準備に取り掛かり,開市の2,3週間前に商品,その他の物資を牛車または馬車に積載して目的地に向かっていた[太田 1923, 20]。後に運搬手段としてトラック,車もあらわれたが,とても少なかった。

(出所)[鐘志詳 2008, 63]を基に筆者作成。
出身地からいえば,山西商人が圧倒的に多かった。理由は,当時,清朝政府がハイラルに駐屯兵を派遣し,市を形成する際,多くの山西出身者が含まれていただけではなく,同方面の商人および手工業者が同行していたからである[阿部 1939, 44]。また,少数ながら外国商人の姿もいたが,彼らは資金の面で圧倒的に強かった。彼らは自らの商品を売るというよりは,現金をもって各々モンゴル人より畜産を購入するのがほとんどだった。漢人商人は1戸あたりの平均金額は約700~800元であったのに対し,彼らは数万元を上回る活動ぶりで,馬を除く畜産物のほとんどは彼らの手によって回収されていた[満鉄 1925, 89]。
そしてこれらの外国商人のなかで最も多かったのは,地理的な原因にもより,ロシア人商人であった。彼らが本市に注目しはじめたのは,およそ20世紀初頭ごろのことであり,当時,おもに満洲里およびハイラル方面より来て,取引のため本市を利用していた。その後,東清鉄道が敷設されると,その数が漸次に増加したが,第一次大戦の影響で,また,減少した。英国商人のなかで,最も影響力をもっていたのは,第一次世界大戦後に活動を始めた英国食糧品輸出会社であった。彼らは,最初は漢人商人を仲介として買付けを行っていたが,後に満洲里のロシア人商人と共同買付けを為すこととなった。資金面で潤沢で,なおかつおもに大口取引を行っていたため,それがあるか否かによって,市場は大きく左右されていた。彼らはおもに生牛羊の買付けをしていた[太田 1923, 21]。当時の資料によれば,1923年の場合,ガンジョール・スム定期市において取引された2606頭の牛のうち,1147頭がこの食料品会社によって買われていた。漢人小売り商人によって買われたのは合計520頭,残りはほとんどがハイラルのスホフ,チチハルのチルスキー,満洲里のツルヒンおよびスモリヤンスキーなどロシア系商人によって買われている[弓場 1924, 49-50]。それ以外にも,米国人,フランス人,およびロシアや米国の国籍を有するユダヤ人商人の姿もたまにみられていた。
また,極めて稀ではあるが,商人のなかには数少ないダゴール・モンゴル人などの現住民の姿もいた(注14)。彼らは布特哈(ブタハ),索倫(ソロン)地域から来たものであった[程廷恒・張家璠 1923, 301]。他の資料では,「1939年にはモリンダワ旗から200台の牛車が供給された」[小柳 1940]と記録されている。つまり,彼らはモリンダワなど興安領森林地域からきたダゴール人であったと考えられる。おもに外モンゴルと西南部に居住するモンゴル人を相手に販売を行っていた[満鉄 1927, 115]。その販売台数は年によって千台にのぼることもあった[太田 1923, 12]。
当時の調査資料によれば,1923年の定期市における店舗の総数は204戸になっており,その内訳を職業別にいうなら,家畜購入商および「伯楽」(仲介人)24戸,雑貨店96戸,大工指物商12戸,銀細工商1戸,薬房・アヘン店4戸,雑貨食料屋台36戸,飲食店22戸,鍛治屋8戸,理髪店1戸。国籍別に示すなら英国人1戸,ロシア人8戸,漢人195戸。また,漢人商家195戸のなかで5戸は満洲里,12戸はドロン・ノールの商人であったが,いずれもハイラルに出店を有するもので,残りはハイラルの商人であった[太田 1923, 5]。そのなかのおもな商家を示すと表1のとおりである。

(注)―はデータなし。留はルーブルのこと。
(出所)太田[1923, 6]を基に筆者作成。
しかしその後,日本支配期には,商人のなかには日本人の姿もみられるようになった。たとえば,1934年の定期市の各国商人の内訳は次のとおりである。日本人3戸3人(朝鮮人1戸1人を含む),露人13戸69人,モンゴル人8戸17人,漢人181戸429人,合わせて205戸518人。そのなかで雑貨類は最も多く156戸338人で総人数の76パーセントを占めていた[藤野 1934, 12-13]。1935年には商家171戸594人のなかで,雑貨商人120戸458人,家畜買付け24戸84人,その他27戸52人で,やはり雑貨商人の数が最も多く総人数の77パーセントを占めている[藤野 1935, 5]。
次の表2はガンジョール・スム定期市の3年間の年度別売上げ比較表であるが,それによると総売上げの大半を畜産品が占めていることがわかる。その理由は,定期市において,畜産品を売ってから,その一部の代金で生活用品を購入していたからである[阿部 1939, 32]。売られていたおもな商品は,煙草,焼酎,小麦粉,茶,木綿,仏像,牛皮,珠数,長靴,牛車,羊毛,羊皮などであり,おもに漢人商人によって販売されていた。相場は,多くの場合,ハイラルにおける相場より3割ないし5割高かった[太田 1923, 10]。

(出所)領事館[1940, 22]を基に筆者作成。
取引が終了すると税金を納付する。家畜の場合は,買主が,他の商品の場合は,売主が納税していた。税制は時代によって異なり,税率や徴税項目も頻繁に変動していた[満鉄 1927, 118]。フルンボイル地域における徴税制度の開始は1761年であり,その後,ガンジョール定期市が始まると,副都統が自ら監督を行い,脱税など不正行為を防ぐために,決まった期間以外の取引を禁じていた[程廷恒・張家璠 1923, 301]。1905年にさらに副都統公署は新バルガ両翼の官兵をガンジョール・スムに派遣し,商人たちに対する監視を行い,規則に違反する者を役所に送致して処罰する方針を採った[李慧 2008, 29]。
自治政府時代には,フルンボイルにおける[各種の税捐収入は同地に於て他の一切の地方的歳入と均しく之を同地方の経費に充当する」と規定され,諸税の徴収は「蒙古政庁」によって実施されていた。しかしその後,1920年1月,民国大統領の徐世昌が政令を発布し,フルンボイルの自治制度が廃止された後,内政,外交,警察,財政などの権限が新たに設置された督弁兼交涉員公署の管理下におかれたため[陸軍省調査班 1932, 127-129],ガンジョール・スム定期市の警備や徴税は中国官憲によって実施されるようになった。「蒙古政庁」はそれには関与していなかった[満鉄 1927, 118]。なぜなら行政改革の際,副都統公署は旧制に従って引き続き存続したものの,「蒙旗」関係の事務を取り扱うのみで,事実上地方行政機関となっていたからである[陸軍省調査班 1932, 129]。
それについて当時の資料では,「公署トシテハ海拉爾より出張セル支那徴収局及ヒ蒙古政庁派出所アリ,前者専ラ徴税ヲ司掌シ後者ハ五十名ノ蒙古兵ヲ以テ市場ノ秩序保安ノ維持ニ当タル」「本年ノ歳市ハ徴収局長ニ於テ旧暦八月一日ヨリ五日迄五日間毎日午前六時ヨリ午後五時迄開市サルヘキ旨ヲ定メ,同時ニ呼倫貝爾督弁ハ本市場ニ於ケル取引ニ対シ一割ノ税ヲ課スコトトナリ」「徴税局吏員ハ市場ヲ巡視シ,各取引ヲ監視シ脱税ヲ防止スルニ努メ,徴税ハ五日ノ歳市終了後ニ於テ為ス」[太田 1923, 6]と書かれている。
さらに,その一割税の詳細について以下のような記録がある。
「歳市ニ於ケル税金ハ家畜ニ対スルモノト普通商品に課スルモノト二種アリ,家畜ニ対スルモノハ徴収局ノ課すスル所謂一割税ニシテ,買主之カ支払ノ義務ヲ負担スヘキモノトス。本税ノ内訳ヲ示差サハ,取引高毎百元ニ付,地方税四分九厘,家畜税四分,家畜付加税一分一厘,合計一割。右地方税ハ従来二分九厘ナリシカ,蒙古兵ノ給養ニ当ツルカ為,蒙古政庁ノ収入トシテ,本年ハ二分ヲ増加セリ。普通商品取引ニ対スル税金ハ海拉爾ニ於ケルト同様,売上高百元ニ付,消費税五分,付加税九厘,合計五分九厘ニシテ,売主之ヲ支払フ。牛車ノ取引ニ対シテハ一車ニ付一元ノ税ヲ課ス。尚右ノ外徴収局ハ蒙古包一戸ニ対シ,其大小ノ如何ヲ問ハス四元ノ家屋税ヲ課ス」[太田 1923, 7]。
徴税額に関しては時期によって大きく異なるが,一説では清朝期の最盛期には,総徴税額は最高で4万元から6万元を超えていたとされている[中野 1930, 18]。しかし,当時の資料をよると,1923年には1万2000元(内訳として生畜取引課税7000元,その他一般地方税5000元)[太田 1923, 12],1930年には8000元となっている[中野 1930, 18]。そしてその徴税額の60パーセントが「支那官憲」に,40パーセントが「蒙古政庁」に割合で分配され,一部は市場商業に使用した地代として寺院に収めていた[中村 1929, 94]。もちろんこれらの数字も必ずしも正確とはいえないが,最盛期に比べてかなりの減少がみられる。一方,当時の税制度自体が不十分であったため,徴税にあたって,取引を秘密裏に行ったり,徴収局に正確な売上高を申告しなかったり,物々交換したり,取引をその場で行わなかったりするなどの方法による脱税行為がよくあったという。たとえば,1934年には関係する店舗166戸のうち,納税を行ったのはわずか68戸であった[藤野 1934, 10]。
このため,「満州国」時代には数回にわたる税制の改良が行われた。初期には家畜税,屠殺税,貨物税,営業税,地皮税などが規定され,徴収されていた[藤野 1935, 51-52]。しかしながら,脱税行為の抑制には至らなかったため,その後も数度にわたる税制改革が実施され,1938年にはさらに強化された税制度が導入された。以下はその課税種目および税率,料金の詳細である。
「一,旗税条例に依らざる特別税
1,地皮捐,(場所代)普通包6-10圓,車商包4圓,車蒙公司一包30圓
2,遊興捐,妓女一名3圓
3,娯楽捐,賭博150圓,骰子室25圓,套圏20圓
二,旗税条例に依るもの
1,牲畜捐,牛馬駱駝購入額の100分の5,羊及び小羊購入額の100分の2.5
2,皮毛捐,一枚に就き購買価格の100分の4」。
徴税を実行していたのは東西新バルガ公署の財務科であり,それにより課税漏れが減少し,1938年の総徴税額は2万600圓で,前年に比べ約7400圓の増加がみられた[阿部 1939, 94-95]。しかし,税率が過度に厳格であると,僅か5日間の市場をめざして遠方から来る商人が減少するため,そのバランスを考慮する必要があった。というのは,「課税が苛酷であるか否か」によって定期市場の盛衰に影響があったからである[満鉄 1927, 114]。
3.ガンジョール・スム定期市における畜産品の取引方法ガンジョール・スム定期市は,家畜を登場させるある種の儀式が日の出とともに行われることによって正式に始まる[ウェ・ア・コルマゾフ 1930, 157]。主要な取引商品は,前にも述べたとおり,モンゴル人が売却する牛,馬,羊,羊皮,羊毛,野獣皮と,商人が販売する米,小麦粉,粉条子,菓子,砂糖,茶,焼酎,馬具,被服,敷物類,フェルト,仏具,靴,モンゴル・ナイフなどであり,前者の方はほとんどがバルガ地域から運ばれていたが,後者の方はおもにハイラル商人によって運ばれていた[満鉄 1925, 89]。
取引の流れは,表3に示されているように,最初の3日間は家畜市場が盛んにして,広場は家畜とモンゴル人とこれを買おうとする商人により雑踏を極め,漢人商人の雑貨および日用品市場は最後の2日に賑わった。というのは,モンゴル人が商品購入のために貨幣を要するので,家畜を売るのが先であったからである。表は1923年のガンジョール・スム定期市における5日間の家畜の取引数量および相場を示すものである[太田 1923, 10]。これからわかるのは,家畜の取引は最初の3日をもっておおむね終了し,第4および第5の両日における取引高は前日に比して羊,馬は半減し,牛は6分の1になっていることである。それに反し,漢人商人の雑貨および日用品市場は主に最後の2日に商品が購入されている。

(出所)太田[1923, 10]を基に筆者作成。
取引にあたって,交渉方法として,おもに買主,売り主ともに袖のなかで手を握って符牒を示して価を定める方法,いわゆる袖内取引方法がとられており,それは日本の当時の馬買によく似ていた。ちなみに,その指の表す意味はおおむね次のとおり。
「一は,相手の拇指を握る。
二は,相手の食指,中指を握る。
三は,相手の食指,中指,無名指の三本を握る。
四は,相手の拇指を除きたる四本を握る。
五は,相手の五指総てを握る。
六は,自己の拇指を除き,四指を以って相手の四指を掻く。
七は,相手の拇指,食指の二指を,自己の拇指と食指の間に入れる。
八は,自己の拇指,食指の二指を,相手の拇指と食指の間に入れる。
九は,自己の食指にて相手の食指を掻き,若しくは相手の食指に曲げて掛ける。
一は,十,百等の数も意味する」
また,販売単位として,一頭単位で売買する方法と一群単位で販売する方法があった。前者の場合,普通とそれほど異なるものはないが,後者の場合,その総額か,または平均価格により取引されていた[藤野 1934, 17]。とくに羊の場合,群れ単位で取引することがよくあった。多数の家畜の取引には,市場の雑踏をさけ,商人側よりモンゴル人の放牧する現地に出張して取引することもあった[満鉄 1927, 116]。支払いは現金取引の方が主だったが,一部では物々交換と似たようなものもあった。たとえば,ガンジョール・スム定期市においては,一千頭の羊が小麦粉と取引された事例がある[藤野 1934, 17]。しかし,それはあくまでも貨幣仲介によるものであったため,実際は物々交換とは本質的に異なっていたといえよう。そして1923年の調査資料によれば,当時は貨幣としておもに袁世凱の肖像を刻んだ大洋銀貨が使用されており,大洋紙幣の割合は約3パーセントであった。また,時には中国銀行,交通銀行などの紙幣も使われていた[弓場 1924, 58]。
馬の取引,とくに競馬用の馬の取引の場合,牛羊と違って,売買両者の立ち合いのもとで,走らせて一頭ずつ評価するのが慣例であった。その際,地元の人がこれを競馬と称して,見物人が甚だ多かった[満鉄 1925, 90]。そして取引が終われば,取引された家畜には各商店の焼き印が施され,他人のものと混同することを避ける。牧夫を有する者はその保管を託し,安全な地に送って放牧させるが,わずかの牛,羊の場合はその院内に繫留し,馬は特別な施設をもうけ,保管を専業とするものに有料で保管を委託した[満鉄 1927, 116]。
また,決済方法により,当時のバルガ地域における取引を現物取引と信用取引に大別することも可能であるが,ガンジョール・スム定期市の場合,貨幣による現物取引が大半を占めていた。草地取引においてよくみられる信用取引を行う者はほとんどなかった。しかし,以前の「信用取引を決済する重要な時所」になっていた[阿部 1939, 26]。その上,定期市における取引は,相互に全く顔知らずの多数の売り手と買い手が1カ所に集まり,その場限りの取引を行っていたため,「出撥子」の草地における取引と多少違って,やや公平な取引が行われることが可能であった[満鉄 1927, 115]。
外国商人の取引方法に関しては,彼らのなかで最も多かったロシア人の場合,漢人とはほぼ等しく,煙草,茶,小麦粉,綿布,その他工業製品を馬車,あるいは自動車に積載し,自身の店員を派遣して市場に搬入し,直接家畜の所有者と家畜を交換していた。しかし,馬の購入にあたっては,老客児(Lao keer)と称するチチハル,ハルビン,長春,奉天および天津方面より来る仲介人に依頼することがほとんどであった。また,英国食料品輸出会社のような資金の面で潤沢なものは,一時に数千頭を買付けするなど大口取引を行うことがよくあり,その際,モンゴル人の許に店員を派して取引させていたが,詳しい検討は別の論文にしたい。なお,取引された家畜は,地理的な関係上主としてハイラルに輸送され,その後,大部分は鉄道によってほかに地域に輸出されていた。満洲里へ輸送されるケースもあったが少なかった[太田 1923, 8-19]。
すでに述べたように,モンゴル人と漢人商人の交易形態を時期的,場所的にみれば,通常草地取引,市場取引,および定期市における取引と3種に区別されるが,もちろんバルガ地域においても例外ではなく,こうした3種類の取引形態が,バルガ・モンゴル人とハイラル商人の間で長い間継続されていた。
そのなかでは,草地取引は,いうまでもなく「旅蒙商」にとっては,最も基本的な取引方法であり,なおかつ漢人商業資本が辺境に進出する際における前衛的な取引形態でもあった。その主役となっていたのは,雑貨類の奥地販売を主とする「出撥子」であり,その組織は地域によって多少異なるが,大体において,当地の問屋的な要素をもつ対蒙取引商舗が,経営の主動分野として店員を特派する場合と,その店員等自身をもって組織し,主家の融資または物的支援下に牧草地域に出向くもの,ならびに小資本を有する者が自力で単独に行うものなどさまざまであった。地域によって撥子(Bozi),売買家(Mai maijia)などさまざまな呼び名があったが,ハイラルでは出草子(Chu caozi)と称されていた。そしてこれらの商人は「一組三人乃至五人で牛車に白面,衣料,靴類,馬具,焼酎,磚茶,煙草等々の蒙古人の必需品,嗜好品を積載して,主として多年馴染みの蒙古部族の遊牧地区に出向し,其の集団的蒙古包を追ひ歩く」[阿部 1939, 19-20]のが日常の仕事で,バルガ・モンゴル人を相手に草地取引を行っていた。
しかし,奥地との交通は常に安全を期し難く,遊牧地を追い歩くのも容易でなかったため,年一度だけ奥地に行き,取引を行っていたが,後に法会が始まると,彼らの活躍で,ガンジョール・スム定期市は,バルガ地方の唯一の便利かつ安全な交易場所となり,付近のモンゴル人は一年間に需要するものを全部同市場より買い求めるようになった[満鉄 1927, 118]。最盛期は光緒中末期とみられ,当時,モンゴル人は遠くフレー,チャハル,熱河方面より,漢人商人は張家口,京津ならびに中原地域より来て参加し,さらにそれに,ロシア人,イギリス人などの外商も加えられ,その数はすでに述べたように,数万人に達していた。持ち込まれた家畜も数万頭に及び,総取引高は数百万元を上回っていた[阿部 1939, 33-47]。だがその後,1903年の東清鉄道開通を契機として,衰退の一途をたどりはじめ,一時,ガンジョール・スム定期市の移転の話まで出ていたという[太田 1923, 23]。
つぎに示す表4は,ガンジョール・スム定期市における畜産品の年別売上高を示しており,筆者がこれまでに収集した資料に基づいて作成したものである。当時の資料には出入りが多く,またその正確性の判定もほぼ不可能であるため,ここでは可能な限り多くの数値を並列することにより,その全体的な傾向を把握することを試みた。その結果,一定の波がみられるものの,東清鉄道の開通により,衰退の道を辿り始めたガンジョール・スム定期市は,その後も政治紛争が生じるたびに不振に陥っていたことがわかる。それでは,その衰退の原因は以下のとおりである。

(注)アルファベットは資料の略号。統計数字と金額の単位には出入りが多くみられる。たとえば,Iによると畜産品取引高と総取引高が同じだが,これは明らかに不可能である。しかし参考のためここではそのまま記入することにした。留はルーブルのこと。―はデータなし。
(出所)[(A)阿部[1939, 49-50, 64-65],(B)調査所[1937, 91],(C)阿斎拉図・河内明[1937, 60],(D)藤野[1935, 1],(E)太田[1923, 12],(F)弓場[1924, 52-53],(G)山形[1934, 4-5],(H)ウェ・ア・コルマゾフ[1930, 165],(I)満鉄[1937, 164],(J)領事館[1940, 22]を基に作成。
(1)交通の発達
東清鉄道が開通するまでは,ガンジョール・スム定期市はフルンボイル地域の唯一の交易市場であり,当時は極めて盛大で,集まる家畜の数が数万に達し,その取引額は数百万元に及んでいた[満鉄 1927, 118]。しかし,鉄道の開通により,その繁栄はハイラルおよび満洲里に奪われ,それに伴い奥地からハイラルへの商品の流通回数が自然に増加し,以前のように本定期を唯一の流通地点とする必要がなくなった。また,鉄道の開通によりモンゴル人が必要とする食料,衣類,雑貨などの商品のハイラルへの搬入が増加し,ハイラルを赴けばいつでも所要品を容易に購入できるようになった。さらに,トラックなどの交通手段の発展により,ハイラルと奥地間の交通が次第に頻繁になり,本定期市の流通拠点としての価値が次第に低下した[阿部 1939, 33]。
(2)奥地取引の発達
奥地との交通の便利化に伴い,ハイラルに拠点をおく畜産品商および雑貨商は,頻繁に販子や出撥子を奥地へ派遣し,買付けや販売活動を行うようになった。さらに,それに奥地に定住する商人の出現が加えられたことで,モンゴル人にとって本定期市の必要性が次第に減少した。
(3)政治的諸紛争
本定期市は,その設立当初より経済的に自然な成長を遂げており,徴税関係やわずかな警備関係を除いて,ほとんど政治的介入は受けていなかったため,地方における政治的紛争,とくに武力を伴う紛争に対しては,防衛能力が不足していた。加えて,清末から満洲建国前後にかけて,本定期市の開催を妨げるような事件は,頻繁に発生し,その結果,衰退を余儀なくされた。具体的には,フルンボイル独立事件,フルンボイル青年団事件,中ソ紛争,満洲事変,ハルハ廟事件,ノモンハン事件などが挙げられる[阿部 1939, 34]。たとえば,1939年の場合,ノモンハン事件により一時中止する形となったが,その後,「対蒙工作上悪結果を招来スル恐レアル」との判断から,期日と場所を変えて開催した。しかし,例年よりは「甚ダ淋シイモノデアッタ」という[小柳 1940]。
(4)国境封鎖
本定期市で流通する畜産品のなかで,とくに牛,馬については,外モンゴルおよびシリンゴル盟ウジュムチン方面からのものが大部分を占めていた。かつてはこれらの地域からの牛,馬が市場の半数近くを占め,来市者の多くも同地域からのものであった。しかし,国境封鎖,特に外モンゴルに対する数回の封鎖は,本定期市の繁栄に決定的な打撃を与えた。また,ロシア領方面との交通断絶も,畜産品取引に大きな影響を及ぼした[阿部 1939, 34]。それについて,当時の日本の外務大臣宛の資料には「外蒙古ノ交易不能の為メ歳市カ地方的トナリタル」「ザバイカル,アムール等露領ヘノ家畜歩送の禁止」と記されている。[田中 1927, 1-2]。さらに,別の資料では,「外蒙が赤化して哈拉哈は純然たる独立国を為し,外人の自由に出入することを許さず,且つ貨物に対して重き出境税を課せる関係上該方面よりは全く貨物及参集者なく唯巴爾虎内のみの市に過ぎさり」[満鉄 1925, 89]と記されている。そしてこれを裏付けるように,1923年にはハルハからの参加者が約1000人であったのに対し[太田 1923, 5],1926年には国境閉鎖のため,その数は20~30人までに減少していた[中村 1929, 94]。
(5)その他の理由
そのほか,政治的混乱状態を背景に各地で発生した「匪賊」などによる市場や途中での襲撃の懸念が挙げられる。ルブールや哈大洋など貨幣の暴落に伴う一般的な不況も影響を及ぼした。また,満州国建国後における市場に関する諸規定や徴税の厳格化はが一般商人にとっては定期市への参加の妨げとなっていたと考えられる[阿部 1939, 34]。
2.バルガ地方貿易におけるガンジョール・スム定期市の位置づけ上述のように,ガンジョール・スム定期市は当初バルガ地方交易の三形態中で,唯一,かつ最大の地位にあり,長年当該地域の人々の生活を支えていたが,その後,1903年の東清鉄道の開通をきっかけに衰退の途を辿り始め,1930年代後半になると,最盛期と比べ,大きく後退していた。では,この衰退はバルガ地方の対蒙総取引において一体何を意味するものであったのか。この問題を解くため,さらに次の3つの視点,すなわち,①家畜取引高,②羊毛,皮類などほかの畜産品の取引高,③日用品など雑貨類の取引高といった3つの視点から考察してみよう。
①に関して,まず表5をみてみよう。これは1936年のバルガ地方における主要な市場の家畜取引高を示すものであり,これによると,牛1万300頭,馬4380頭,羊4万6000頭となっている。それに対し,ガンジョール・スム定期市における畜産品の取引高は表6に表されているように,牛772頭,馬880頭,羊1986頭になっている。両者を比較してみれば,バルガ地方における家畜取引に占めるガンジョール・スム定期市の割合が大きく減少していることがわかる。実はこれを裏付けるように,当事者であるモンゴル政庁長は,当時,次のように述べている。

(注)―はデータなし。
(出所)阿部[1939, 23]を基に筆者作成。

(注)―はデータなし。
(出所)阿部[1939, 64],太田[1923, 11-12],満鉄[1927, 118],藤野[1935, 8-9],満鉄[1937, 166-167]に基づき筆者作成。
「巴爾虎内の家畜類は馬十七,八万万,牛十三,四万,羊百五十万,内山羊二万頭位で,一ヶ年間に馬一万,牛二万,羊十二万頭内外の売却が行われるとのことであるが,昨年本市場に集めらる主なる家畜は,馬三千,牛四千,羊四万五千頭位なりしに反し,今年は僅かに牛二千頭,羊二万頭,馬二千頭,羊皮二,三千枚位で,開市後四日間に於ける取引高は,牛千百頭,羊千頭,馬千頭,羊皮千枚,羊毛一万斤余見当であった」[満鉄 1925, 90]
②に関しては,たとえば羊毛の場合,1938年にはガンジョール・スム定期市が終わるまでにバルガ地域に取引された羊毛の総量は,約4万布度であったのに対し(注15),本定期市において取引されたのは3000布度で,総量のわずか7.5パーセントを占めていた。また,皮類の場合,当時,バルガ地域において出回っていたおもな皮類の年間出回り高は平均で,牛皮はおよそ1万枚,馬皮は約7000~1万枚,羊皮は約4万5000枚程度と推定されているが,そのなかでガンジョール・スム定期市に出回っていたのはほんのわずかであった[阿部 1939, 70-72]。たとえば,1940年には,定期市において出回っていた皮類は,羊皮は2346枚,牛皮は45枚,馬皮は90枚となっていた[領事館 1940, 23]。そのほか,山羊の皮,タルバガン皮,栗鼠皮などの皮類,あるいは一般人にはあまり注目されていなかった木製品市場の場合でも,その取引高はとても少なかった[阿部 1939, 74]。他方,ハイラルを中心とする各市場の売上高は次の表7のとおりとなっており,ガンジョール・スム定期市の衰退は一目瞭然である。

(注)―はデータなし。
(出所)阿部[1939, 71]を基に筆者作成。
③に関しては,さしあたり表8をみよう。これは1936年のバルガ地方種類別商店売上額を示すものであるが,それに対し,ガンジョール・スム定期市における雑貨類など日用品の売上額は7万685元とされており,日用品など雑貨類の売上の面でもガンジョール・スム定期市の占める割合が僅少であったことがわかる[満鉄 1937, 166-167]。

(出所)阿部[1939, 24]を基に筆者作成。
要するに,畜産品の統計からみても,日用品など雑貨類の指数からみても,バルガ地方の商業活動におけるガンジョール・スム定期市の役割は明らかに低下していたといえよう。とはいえ,本定期市には,こうした量的な地位のほかに,牲畜皮毛と雑貨類等各商品の需給,品質,市価等によって現れてくる質的な地位というものがあり,それがあったからこそ,商勢の占いや,商略の再構築などの問題において,本定期市は依然として重要な役割を果たしていたと考えられる。
では,これまで,おもにミクロ的な視点から,バルガ地域におけるガンジョール・スム定期市の位置づけについて考察してきたが,つぎにその視点を変え,マクロ的な視点,すなわち東北アジア地域の商業史,さらには世界の定期市研究の観点から再考察を行った場合,どのような結果が導かれるであろうか。これは極めて重要な課題であるが,まったく異なるアプローチが求められるため,ここでは2つの具体例を提示するにとどめる。
前述のとおり,1912年におけるガンジョール・スム定期市の取引額は約89万3500元であったが,これに対し,中露間のキャフタ経由の貿易額は1542万7412海関両(注16)に達している[孟憲章 1991, 341-342]。1924年には,ガンジョール・スム定期市の総取引高が42万元であったのに対し,東北地域とソ連の貿易額は5283万1230元に達している[孟憲章 1991, 407]。取引額の観点からみると,東北アジア商業全体におけるガンジョール・スム定期市の割合は極めて小さかったことは明白であるが,詳細な検討は今後の課題にしたい。
これまでおもに経済的な視点から,ガンジョール・スム定期市のバルガ地域における位置づけの問題に対しアプローチを行ってきた。しかしながら,その本来の姿はあくまでも宗教行事としての法会であったため,その全過程には,宗教的な要素はもちろんのことであるが,それ以外の文化的,政治的など各要素も含まれていた。すでに述べたように,開催の際に行っていた儀式はその一例にすぎず,そのほかにも,子どもの入廟儀式,バダルチンによる勧進活動,跳鬼を呼ばれた仏教舞踊,相撲大会のような奉仕行事など数多くあった。
子どもの入廟儀式とは,モンゴル人が子どもを僧にする際に行われた一種の行事であり,バルガ・モンゴル人の場合,ほとんどがガンジョール・スムに子どもを小僧として送っていたため,それに伴うさまざまな式典にも参加する必要があった[ウェ・ア・コルマゾフ 1930, 151]。バダルチンとは日本の托鉢僧と似た存在であり,定期市の際にモンゴル人の信者や商人のテントをまわって,祈祷をしながら寄付金を募るのが彼らのおもな役割であった。彼らにとってこれは修行の重要な一環でもあり,集められた金額は一夏にして300~1000元に達していたという[ウェ・ア・コルマゾフ 1930, 153]。また,ガンジョール・スムの小僧たちのほとんどが,周辺地域のモンゴル人の子どもであったため,一般のモンゴル人からみれば,定期市は子どもたちとの面会を果たす機会でもあった。
奉納行事のなかで最も人気があったのは,いうまでもなく相撲大会,競馬,弓道試合であった。周知のとおり,これはモンゴル人にとっては,古くから受け継がれてきた伝統的なスポーツであり,普段,男の3つの娯楽として知られている。したがって,多くの人が見物に訪れるだけではなく,自ら進んで参加するものもいた。その意味では,彼らは定期市の利用者のみならず主体者でもあった。たとえば,1940年の定期市においては,競馬に72頭の馬が参加し,東バルガ旗のボンボ氏の馬が優勝している。また,相撲トーナメント戦に64名の力士,弓道大会には17名の選手が参加している。もちろん参加者はすべてが一般人である。そして,日本の支配期には宣撫宣伝工作の一環としてその種類がさらに増え,講演会,映画会,家畜共進会,紙芝居,ひいては日本相撲までが行事日程に含まれるようになっていた[領事館 1940, 4-12; 阿部 1939, 97]。
つまり,商人にとっては,定期市は商売を意味するものであったが,人煙のない広大な草原に遊牧生活を営む一般のモンゴル人にとっては,それよりもその文化的・宗教的な面の方が重要であった。知人との交流,親戚との再会,あるいはお嫁入りの相談など,モンゴル人の日常生活の一面がそこにあった[三宅 1943, 102]。定期市は商売の場だけではなく,大切な社交の場でもあった。
そしてこれらの文化的な要因があったからこそ,多数のモンゴル人が旅程の遠近を問わず,モンゴルの各地から訪れ,参詣を兼ねながら市場を利用していた。たとえば,1934には,総参加者5161人のうち,モンゴル人は4576人で,88.7パーセントを占め[藤野 1934, 5-6],1938年には総参加者1万4082人のうち,モンゴル人は1万1471人で,81パーセントを占めていた[三村 1938, 6-7]。1940年の場合,参加者8261人のうち,モンゴル人は6626人で,総参加者の80パーセントを占め,ほかは満漢人1091人,ロシア人33人,日本人511人であった[領事館 1940, 14]。
定期市が終わると,その本来の姿である法会が本格的に開催された。その際,信者であるモンゴル人は,参詣のために自らのモンゴル・ゲルを移動させ,ガンジョール・スムの周辺に新たなテント村を形成した。商人たちは各自の店舗を片付け,帰路につく者がほとんどだったが,一部はモンゴル人の後を追って寺院の付近に移り,モンゴル人が故郷に戻るまで,営業を続けた[藤野 1934, 9]。バルガ地域において,ガンジョール・スムは最大かつ総本山たる存在であったため,法会の規模も他と比べてはるかに大きかった。地方の大小寺院より参集した僧侶の数だけでも1000人以上に達した。たとえば,1938年の法会には1450名の僧侶が参加したが,そのうち約400名は常住の僧,1029名はバルガ左右両旗から参加した僧であった[三村 1938, 3]。
以下は参拝にあたって,寺院側から信者に対して公開していた「甘珠爾廟会及ビ定期市工作員及ビ参観者心得(抜粋)」であり,そこから,法会の厳粛な雰囲気と神聖な様子を垣間見ることができる。
「イ,蒙古民族信仰ノ殿堂ナルコトヲ銘記スベシ
ロ,案内ラマノ誘導ナクシテ廟内ニ出入ヲ厳禁ス
ハ,廟ニ奉献スル香料ハ案内ラマニ手交セズグスケラマニ交付スベシ
ニ,信教ノ如何ヲ論ゼス廟内尊像ニ対シ敬虔ナル礼拝ヲナスベシ
ホ,仏像其ノ他廟内ニアル如何ナル物ニモ絶対ニ触ルルベカラズ
へ,理由ノ如何ヲ問ハズラマヨリ物品ノ贈与ヲ受クルベカラズ
ト,本期間中甘珠爾廟内ニ於ケル宿泊ヲ禁ジ理由ナキ長時間ノ休息ハ遠慮スベシ
チ,実物観覧要求等ヲナスベカラズ
リ,其ノ他心ナキ言語挙動ガ想ハザル悪影響ヲ与へ蒙古工作上百千ノ努力ヲ無ニスル結果ヲ招来スル実例多々アリ,苟モ参拝者ハ万全ノ留意ヲナスベシ」
要するに,当時のモンゴル地域では仏教が社会の隅々まで深く根付いていたため,法会は多くの人々にとって生活の一部であるとともに,心の安らぎを求める神聖な空間でもあった。大勢の群衆を引き寄せていた真の原因はここにあり,定期市はまさにそれを利用する形で発展したともいえる。
近代内モンゴル地域には規模の違いはあったものの,数多くの定期市が存在していた。本論文では,ガンジョール・スム定期市を事例として取り上げ,その実態を考察した。結論として,以下の4点が挙げられる。
第一に,牧畜を生活基盤とするモンゴル人と農業に社会的,経済的な基盤を置く漢人の交易の始まりは,漢代ごろに長城線付近で行われていた互市であり,清朝時代には,それが地方集散市として知られていたが,近代に入ってからは,新たな発展空間として,定期市が利用されるようになった。漢人資本の自給自足的純遊牧経済社会への浸透がこのように実現されており,そのプロセスのなかで,重要な役割を果たしていたのは,ほかでもなく,草地取引において中心的な役割を果たしていた「出撥子」であった。したがって,定期市には,地方集散市と草地取引という2つの影が投影されていたともいえる。
第二に,ガンジョール・スムにおける定期市が形成されたのは,法会が始まってから,数十年後のことであり,その元祖は山西出身の「旅蒙商」であった。清朝末期ごろに最盛期を迎え,当該地域の人々の生活には欠かせない存在となっていたが,後に政治の不安定化や鉄道の開通などさまざまな原因により衰退しはじめた。しかし,バルガ地域の商業において依然として重要な役割を果たしていた。
第三に,ガンジョール・スム定期市は商人にとっては,市を意味するものであったが,モンゴル人にとっては,それだけではなく,自らの文化的,宗教的,政治的な諸要素が凝縮された集会でもあったため,一般人の間では,通常,集会を意味する「チョグロガーン」という言葉で呼ばれていた。そしてこうした側面があったからこそ,定期市の繁栄もあったといっても過言ではなかろう。
第四に,貿易額の観点からみると,ガンジョール・スム定期市が東北アジア商業全体に占める割合は極めて小さかった。しかし,遊牧地域における定期市という独自の性格を有していた点は,東北アジア商業史のみならず,世界の定期市研究においても重要な意義をもち,新たな視点を提供すると考えられるが,詳細な検証は,今後の研究課題にしたい。
本件研究は中国社会科学基金研究助成金(課題番号 21XQ013)の助成を受けたものである。
(内蒙古民族大学教授,2024年2月28日受領,2025年6月13日レフェリーの審査を経て掲載決定)