日本物理学会誌
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固体表面での水素分子の核スピンダイナミクスに見られる磁気・電気的応答―宇宙物理化学から水素貯蔵まで―
杉本 敏樹福谷 克之
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2016 年 71 巻 10 号 p. 668-678

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抄録

核スピンの存在は,量子力学創成期,電子スピン発見から2年後の1925年に証明された.その画期的な発見は,コペンハーゲンのBohr研究室に留学中の堀健夫(朝永振一郎の義兄)による水素分子の分光研究に端を発する.堀は,電子励起スペクトルにおいて,回転量子数が偶数を起点とするスペクトル強度と奇数を起点とする強度に違いがあり,その比が1対3となることを発見した.この実験事実に基づき,Dennisonは陽子が大きさ1/2のスピンを持つフェルミ粒子であることを明らかにし,水素分子には核スピン量子状態が異なるオルト・パラ異性体が存在することを証明した.

このように,水素分子は量子力学の発展に大きな貢献を果たす一方で,宇宙に最も豊富に存在する分子種として星間空間における物理・化学過程に重要な役割を果たしている.近年,遠赤外線天文観測技術の進歩によって星間分子雲中の水素分子の分光が行われ,オルト/パラ比から求まる核スピン温度が回転温度と一致しないという観測結果がしばしば報告されている.回転温度と核スピン温度は観測した分子雲環境の現在と過去の温度を反映していると考えられており,これらを解析することで星間分子雲の熱履歴や年齢,さらには星形成メカニズムの解明につながると期待されている.水素分子の核スピン温度を星間分子雲の過去の温度計として使用する場合,核スピン温度が「具体的にどの程度の時間スケールの過去の温度」を反映しているのかを知る必要がある.核スピン多重度の変化を伴う水素分子のオルト–パラ転換は気相の孤立系では非常に遅く実質的には起こらない.しかし,物質との相互作用によって転換が誘起されるため,種々の星間物質表面での転換確率を実験で明らかにする必要がある.

応用上も,水素は燃焼時に温室効果ガスや有害ガスを発生しないクリーンな燃料として家庭用や自動車用の燃料電池で利用されるほか,ロケット燃料としても利用されてきた.水素を大量に貯蔵する方法として液化貯蔵があるが,オルト水素が混在する水素ガスを液化する際にはオルト–パラ転換に起因するボイルオフが問題となる.これを回避するため,オルト水素をあらかじめパラ水素に転換させてから低温貯蔵する必要があり,そのために古くから磁性体を利用したオルト–パラ転換触媒の開発が進められてきた.

磁性体表面に吸着した水素分子は,表面電子スピンの磁気双極子に起因した不均一磁場でオルト–パラ転換が促進されることが1933年にWignerによって理論的に示されている.それ以来,電子磁性を持たない反磁性物質の表面ではオルト–パラ転換は誘起されないと信じられてきた.1980年代に入り真空技術が進歩するのに伴い,原子レベルで構造や電子状態を規定した清浄表面が得られるようになると,従来は転換を誘起しないと考えられてきた銀・銅等の反磁性金属表面や,極性を有する水分子が凝集したアモルファス氷等の反磁性絶縁体表面においてもオルト–パラ転換が促進されることが次々に明らかになってきた.近年の実験・理論研究によって表面の局所磁場のみならず電荷移動や表面の局所電場によってオルト–パラ転換が誘起されることが示され,固体表面と吸着子が織りなす多彩な磁気・電気的相互作用の全容が解明されつつある.

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