日本物理学会誌
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最近の研究から
レア・イベントを捕えるための新たな分子シミュレーション手法―アミロイド線維形成の理解に向けた取り組み―
伊藤 暁奥村 久士
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2016 年 71 巻 7 号 p. 463-468

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抄録

分子シミュレーションは分子の構造や運動を計算機を用いて数値的に調べる方法である.分子シミュレーションの代表的な手法として,分子動力学法とモンテカルロ法が挙げられる.分子動力学法は運動方程式を離散化して数値的に解く手法である.一方,モンテカルロ法は乱数を用いることで任意の統計アンサンブルを発生させる手法である.これらの手法をタンパク質を含む系に適用することで,タンパク質の運動や性質を原子レベルで調べることが可能である.

タンパク質はアミノ酸がつながったひも状の分子であり,生体内では多くの場合特定の立体構造(天然構造)に折れたたまれている.アミノ酸は天然には20種類存在しており,それぞれ大きさや性質が異なっている.このため,アミノ酸の配列の違いによりタンパク質の天然構造が異なる.タンパク質はそれぞれ固有の構造に折れたたまることで,生命活動の維持に必要な機能を発現する.したがって,タンパク質の天然構造を知ることはタンパク質の機能を理解する上で不可欠である.

分子シミュレーションを用いて,タンパク質の天然構造を原子レベルで調べようとする時,大きな問題が生じる.タンパク質が天然構造に折れたたまるのに要する時間は多くの場合ミリ秒以上である.一方,一般的な並列計算機を用いて,タンパク質の分子シミュレーションを行う場合,計算コストの問題でミリ秒をこえる現象を捕えることは困難である.タンパク質の折れたたみに時間がかかる理由は,タンパク質の折れたたみ過程で多数の自由エネルギー障壁が存在し,この自由エネルギー障壁をこえるのに時間を要するためである.分子シミュレーションにより,実際の折れたたみに要する時間よりも短い時間でタンパク質の折れたたみを捕えるためには,実際よりも短い時間で効率的に自由エネルギー障壁を乗りこえる手法の開発が必要である.筆者らはそのための手法としてレプリカ置換法及びハミルトニアンレプリカ置換法の開発を行った.

タンパク質は天然構造に折れたたまれている時には生命維持に必要な機能を発現するが,天然構造ではない間違った構造に折れたたまると病気を引き起こすことが知られている.このような病気をミスフォールディング病と呼び,代表的なものとしてアルツハイマー病が挙げられる.アルツハイマー病の特徴の一つとして,患者の脳にアミロイド線維と呼ばれる不溶性の線維の沈着が見られることが挙げられる.このアミロイド線維はアミロイドベータペプチドが凝集することで形成されている.アミロイド線維の形成過程を明らかにすることはアルツハイマー病治療のために重要と考えられるが,未だにその過程の詳細は明らかになっていない.アミロイドベータペプチドによるアミロイド線維形成は,実験室系では数時間から数日程度の時間,生体内では数年から数十年で起こるが,これを通常の分子シミュレーションで調べることは時間スケールのギャップにより不可能である.筆者らは,ハミルトニアンレプリカ置換法を用いることで,アミロイドベータペプチドのフラグメントにおけるアミロイド線維形成の初期過程の詳細を明らかにすることに成功した.

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