日本物理学会誌
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最近の研究から
量子古典ハイブリッドモデルによる溶液系のダイナミクスシミュレーション――溶媒量子効果の取り込みへの挑戦
渡邉 宙志
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2021 年 76 巻 2 号 p. 81-86

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抄録

水分子は我々にとって最も馴染み深い分子である.生命・化学・工学系などの幅広い分野において重要な役割を占めており,その詳細な解析に対する需要は大きい.しかし水分子は分子シミュレーションにおいてその取り扱いが最も難しい対象の一つである.その原因は水分子の拡散にある.拡散現象は分子シミュレーションにおいて真空中や固体系とは違う難しさを生み出している.

水溶液系では溶媒との相互作用により,溶質が真空中とは異なる構造や性質を示すことが多い.よって水溶液系の解析においては,溶質–溶媒,溶媒–溶媒の相互作用を考慮することが非常に重要である.そこで水分子を古典的にみなすか,量子力学的に電子状態まで記述するかという選択は,得られる分子シミュレーションの結果に大きく影響する.分子シミュレーションには大きく2つの分子モデルがある.一つは電子構造まで考慮した量子力学モデルであり,もう一つは古典的な分子力学モデルである.例えばプロトン移動・化学反応など溶液系の多くの現象には,水分子の電子構造が重要な寄与をする.したがって水溶液系の振る舞いを正確に捉えるには,水分子の電子状態まで考慮した量子力学モデルが必要である.ところが量子力学モデルは計算コストが大きく,1~100原子程度の大きさの系しか取り扱うことができない.そのため従来の水溶液系のシミュレーションの多くは分子力学モデルに立脚していた.しかし電子由来の性質を再現できないことは,シミュレーションの有用性を大きく制限する.

この問題に対処すべく量子力学モデルと分子力学モデルのハイブリッドであるQuantum Mechanical/Molecular Mechanical(QM/MM)モデルが有力な代替候補として注目を集めてきた.QM/MMモデルにおいては,系の一部に量子力学モデルを適用し部分的に電子状態を求めるので,通常の量子力学法に比べて計算コストを大幅に削減できる.しかし一般的なQM/MM法では,どの分子を量子力学的,あるいは古典的モデルで扱うかをシミュレーションのはじめに決めると,そのモデルは計算の最中に替わることがない.結果,溶媒の拡散が起こると,溶質周りに配置された量子力学モデルの水分子が拡散してしまい,代わりに古典的な水分子が溶質を取り囲む.その結果,溶質近傍の溶媒に関して量子化学的効果を計算に取り込むことができなかった.そこでこの問題に対処すべくadaptive QM/MM法とよばれるコンセプトが提唱され注目を集めてきた.これはシミュレーションの最中に,溶質との距離に応じて分子定義をon-the-flyで切り替えるというコンセプトに基づいている.しかしこれまでにも幾つかのadaptive QM/MM法が提唱されてきたが,adaptive法の実用化には時間と空間の二つの不連続性が問題となってきた.大雑把に言えば時間的不連続性は計算を不安定にし,空間的不連続性は溶媒和構造を歪めるアーティファクトである.そこで我々は2014年にadaptive QM/MM法の一つとしてSize-Consistent Multi-Partitioning(SCMP)法を提唱した.この方法は,時間的不連続性を完全に取り除くと同時に空間連続性も従来法に比べ大幅に改善する.実際にSCMP法は水溶液系における様々な物性の計算精度を改善することが実証されている.同手法は,従来の溶液系の分子シミュレーションの適用範囲を大きく押し広げ,今まで解析することができなかったミクロな現象に光を当てようとしている.

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