智山学報
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近世後期智山学侶の修学状況について
ー安房長勝寺聖教にみる孝完房良恭ー
橋浦 寛能
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2017 年 66 巻 p. _153-_168

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抄録

    本稿では、孝完房良恭という智山学匠であり地方寺僧である僧侶の修学事例を提示することで、近世後期智山学侶の修学状況の一端を示したい。
 洛東智積院を含む新義真言宗団は、江戸幕府の教学振興策もあり、諸宗派と同じく談林を軸とした修学制度のもと成り立っていた。しかし近世中後期になると、時代に合わせて制度が改変(中下り制度)され、また修学軽視(不修不学)の風潮により、論議による研鑽という教学・制度上の根幹が揺らぐ(1)。この傾向は、諸宗派全体に及ぶものとされ、談林に基づいた修学制度は最盛期と比べると、明らかにその機能を低下させる(2)。
 この時代にあって、智積院では安房国僧侶が修学・寺院運営面で大きな役割を果たしたことが知られている。その安房国僧侶が宗団を支えた主因を探る過程の中で、安房長勝寺聖教を調査させて頂く機会に恵まれ、孝完房良恭という学匠の書写聖教を披見する機会に恵まれた。孝完房良恭書写聖教は、同じく安房国出身の江戸愛宕円福寺観如房元瑜(1756~1826)・京清和院大識房宥豊(1760~1824)・智積院第三十三世唯明房隆瑜(1773~1850)といった後の能化や学匠も書写している。この良恭は『智山学匠著書目録(3)』・『密教大辞典(4)』や「智山学匠略伝(5)」(『智山全書』所収)にも取り上げられているが、著名な存在ではない。しかしながら、そこには主に安房国において修学し、田舎門徒寺院住職であった僧侶が、智積院に再住することで、越前国三国滝谷寺・安房府中宝珠院という有力談林住職となり、触頭の一つである江戸愛宕円福寺の住職になるまでの略歴が記されている。
 本稿では、『陀羅尼惣名録』をもとに近世後期智積院の修学状況を概観した上で、安房長勝寺聖教を取り上げ、孝完房良恭の事績から地方寺僧の修学事例を提示したい。そしてなぜ安房国僧侶から多数の人材が輩出されるに至ったのか、その一端を考察したい。

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