台湾北西部に位置する桃園台地に植民地期に企画・整備された桃園大圳とそれに伴うため池群による灌漑水利は,関係地区の水田の水利を著しく改善し,土地利用を大きく変革したことがよく知られてきた.ただしそのプロセスについてはよく知られておらず,都市化の進んでいない観音郷を例に,近年参照が容易になった植民地期の資料のほか各種統計資料,さらに4時点の地形図にGISによる分析を加えて検討した.
その結果,観音郷では桃園大圳の開発が始まる前にも水田が増加していたこと,灌漑施設の整備は当初計画を現場に合わせて修正しながら実施されたこと,さらに初期のコメの生産量の増大は,水田面積の増大や作付率の向上に伴うもので,土地生産性の向上は遅れて始まることがまず判明した.第二次世界大戦期や終戦直後については不明な点が多いが,肥料の供給などにより1950年代初頭にはすでに戦前期の生産レベルを超え,輪流灌漑の導入もあって以後土地生産性は大きく向上したことが確認された.ただしコメの消費の減少に伴う生産調整が1984年に実施されると,作付率は大きく低下し,生産量も激減して,農業用水の生活用水・工業用水への転用も実施されることとなった.
地形図から得られた情報は「空間的解像度」は高いが,「時間的解像度」は低く,統計資料と相互補完的に使用すべきものであることが判明した.