1951 年 27 巻 2 号 p. 192-213
言語表現(過程)説に對するこの鋭い警告はmutatis mutandisに「言語は社會的事實である」と云ふ今日のshibbolethにも適用すると思はれる。蓋し、表現なる言葉のmagicが一世代前の人々を問題の發見よりは隠蔽に導いた如く、今「杜會的」なる名辭のnarcotismは我々のshibbolethを空疎な反復語と化し却て稔り多き研究を阻止してゐるのではないか。一體「社會的」とは何を意味するか。又「言語は社會的事實である」と云ふ措定が我々に與へる効用と限界は如何なるものか。此等の間に原理的な解答を與へんとするのが本稿の主旨である。(Iに於て社會性の眞義糺明、IIを轉機としてIIIにつ至つて社會的見地の限界超克を企圖する。)