ジェンダー史学
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論文
9世紀日本における女官の変容と「キサキの女房」の出現契機
──上毛野滋子を素材として──
伊集院 葉子
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2013 年 9 巻 p. 39-51

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抄録

 日本の律令女官制度は、男女ともに王権への仕奉(奉仕)を担った律令制以前(7世紀以前)の遺制を踏襲し、天皇の意思伝達・政務運営・日常生活への奉仕を中心的な役割として出発した。しかし、平安初期の9世紀には、律令女官制度は大きな変容を遂げた。氏を基盤とし、男女ともに仕奉するべきだという理念を根幹に据えた女性の出仕形態が失われ、国政に関わる職掌を男官に取って代わられるとともに、皇后を頂点とする後宮制度の確立によって、天皇に奉仕する存在から後宮の階層性のなかに位置づけられる存在へと変化していったのである。
 この律令女官の後退の時期に出現するのが、「女房」である。女房は、天皇に仕える「上の女房」、貴族の家に仕える「家の女房」、后妃に仕える「キサキの女房」があるが、このうち「キサキの女房」の出現は、9世紀の後宮の確立にともなうキサキの内裏居住と不可分のものであった。
 キサキの女房は、本来はキサキに仕える私的存在にすぎない。ところが、キサキが后位にのぼり、後宮のトップの地位を獲得すると、仕える女性たちの地位にも変化が生まれた。女官として公的存在に転化するのである。文徳朝における天皇と母后・藤原順子の「同居」に続き、初の幼帝・清和天皇(在位858-876)の即位によって天皇と母后・藤原明子の内裏内居住が実現し、それをテコにした皇太后の後宮支配が確立した清和朝には、母后の「家人」であった上毛野朝臣滋子が後宮に進出し、最終的には典侍正三位にまで昇った。幼帝即位による皇太后の「皇権代行権能」の発揮が、母后の私的使用人であったキサキの女房を「公的存在」に転化させる契機となったのである。
 上毛野滋子を素材に、キサキの女房が女官という公的存在に転化する具体例を検討し、女性の出仕が、氏を基盤とするあり方から、権門勢家とのつながりに依拠する形態へと変容していく転換点を考察するのが、本稿の目的である。

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© 2013 本論文著者
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