人文地理学会大会 研究発表要旨
2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
セッションID: 309
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第3会場
想像された都市
本居宣長作「端原氏城下絵図」
*上杉 和央
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抄録


  本居宣長(1730年から1801年)は国学者として著名である.彼は,まだ学問世界に身を置く23歳よりも以前から,多くの書物を読んでいるが,同じ頃,地図とも戯れていたことはほとんど知られていない.宣長は,15歳から23歳にかけて,6枚の地図を作製しているが,それらは既存図の単なる模写ではなく,彼独自の地理認識が表現されたものとなっている.その中でも,特に異彩を放っているのが「端原氏城下絵図」(本居宣長記念館蔵)と称される作品である.
  この図には端原氏の治める城下町が描かれている.端原氏とは何者か.実は本居宣長が創りあげた架空の氏族である.地図とは別に,宣長は (架空の)神代に端を発する端原氏の系図,および端原氏15代当主宣政時代の家臣256氏の略系図が記載された「端原氏系図」(本居宣長記念館蔵)と呼ばれている系図も作成しており,この宣政の治める城下町が描かれているのが「端原氏城下絵図」である.法量は51.7cm×72.0cm.裏面に「延享五ノ三ノ廿七書ハジム」とあり,19歳の頃,作製されたことが分かる.彩色は全体には施されていないが,端原氏に関する建造物の一部には朱が用いられている.街路や屋敷割,周辺部に至るまで精緻に描かれ,また系図中の人物がその住所どおりにほぼ矛盾なく記載されるといった芸の細かさである.部分的に空白もあり,もしかすると未完成であったのかもしれないが,全体としてこの地図の凝った趣向には圧倒させられるものがある.
  構図をみてみると,一見して「京都図」に似ていることがわかる.当時,すでに京都図は林吉永を始めとする諸版元から売り出されていたが,その構図ははほぼ一定であった.これらの刊行図は北が上として描かれているが,東を上にして見た場合,「端原氏城下絵図」と京都図の構図は非常に類似したものとなる.系図についても王朝時代が意識されたものとなっており,京都という舞台が意識されていたことは明らかである.この頃の宣長は,京都に関する記事をあちこちから抜書した書物や,洛外図などを作成/作製しており,京都に対して強い憧憬の念を抱いていた.実際,京都に赴いたこともあり,これらを勘案すると京都図を見ていた可能性は極めて高い.
  次に,「端原氏城下絵図」の都市と近世の実際の都市とを比較するため,矢守氏の提示された「城下町プラン」をもとに検討していく.矢守氏がパターンの析出に用いた,城内・侍屋敷地区・下士の組屋敷地区・町屋敷地区・囲郭といった指標をもとに,「端原氏城下絵図」を分析すると,この都市は「郭内専士型」に分類することができる.ここから,宣長の都市形態の理解のひとつに,このような「郭内専士型」という形態があったことが理解される.近世城下町は,それぞれの城主の意図にもとづいて都市が形成されたものである.その意味で,矢守らの分析する「城下町プラン」は支配者側の都市理念ないし都市認識の抽出であろう.しかし,それが市井の町人にどのように認識されていたのかは,あまり明確ではない.この意味で,町人である宣長が空想の都市を「郭内専士型」に描いたことは興味深い.
  「郭内専士型」は近世城下町に広く見られる形態のひとつとされるが,当時の宣長がそのような一般的状況を理解して描いたとは考えにくい(第一,この分類は近代の所産である).それでは,宣長は何をもとに,この形態を思いついたのか.京都や江戸の旅行中に赴いた都市である可能性もあるが,やはり,矢守が「郭内専士型」の代表として挙げた都市,そして宣長が生活していた都市,松坂の影響であろう.宣長は日常生活を営む中で,武士と町人の住居地が区別されていることを,自然に受け止めていた.架空の都市を描く際,この日常経験にもとづく都市形態の認識が反映したと考えられる.「端原氏城下絵図」に描かれているのは,架空の都市である.しかし,宣長がまったくのゼロから創りあげたわけではない.彼の京都への憧れ,そして日常生活における都市空間の認識といったものが基礎となっている.さらに,宣長は「郭内専士型」といった支配者側の理念を(おそらく無意識のうちに)受け止めていることも重要であり,個人的な体験や志向性とともに,近世という時代的なコンテクスト,そして空間的なコンテクストの中で,「端原氏城下絵図」は想像/創造されたのである.

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