人文地理学会大会 研究発表要旨
2004年 人文地理学会大会 研究発表要旨
セッションID: 216
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日中間における地図作製技術の移転について
広西省を中心として
*渡辺 理絵小林 茂
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抄録

19世紀末から20世紀初頭、日中間において、近代地図作製に伴う技術移転が展開した。中国には日本人測量士が招聘され、他方、同時期の日本では中国からの留学生を受け入れ、地図作製の教育を行っている。以上の技術移転は、どのような変化をもたらしたのであろうか。本発表は日中間で展開した地図作製技術の移転についてその概要を報告する。 中国人留学生を受け入れた陸軍陸地測量部修技所は、明治21(1888)年、測量技術者育成のために設置された教育機関である。修技所へ進学した清国留学生は、そこで3年間の地図作製に関する技術教育を受けた。留学制度は、1904年から1911年までの8年で終了したが、その間の入学者数は総計132名に及び、母国帰還後、彼らは中央陸軍測量学校校長など中国の近代測量教育および測量事業の中心的な役割を担った。 同時期、多くの日本人が中国各地の諸学堂に赴き、中国の教育行政や技術指導をおこなった。明治38(1905)年、清国陸軍部測絵学堂教習を務めた土方亀次郎を初めとして、大正5(1916)年まで30名を超す日本人が測量技術者として傭聘され、南京や江蘇省の測絵学堂などに赴いている。そこでは技術指導はもちろん、測絵学堂のカリキュラム編成まで担っている。 さて大阪大学には、光緒34(1908)年に原図が作製された広西省の地形図が所蔵されている。本図の凡例をみると、日本の正式二万分の一地形図に適用された「明治三十三年式図式」と酷似する。当時の広西省龍州には測絵学堂があり、そこでは日本に留学した者が教鞭をとっていた。事実、この測絵学堂の教官の中には、修技所へ留学した袁華選(修技所第3期生)が含まれている。こうした事実は、日中間で展開した技術移転が、中国において日本式図式を採用する契機となったことを示しており、中国と日本の地形図の類似性がここに起因することを物語っている。

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