比較文学
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論文
Natsume Sōseki in England :
The Meaning of His Encounter with the West
中山 惠津子
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1990 年 32 巻 p. 228-211

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抄録

 日本の近代化を推進していた明治政府は、その一つの政策として有能な人材を西洋に派遣したが、漱石も政府派遣による洋行経験者の一人であった。現在においてさえ海外における日本人のカルチャーショックが大きな問題として論議されていることを考えれば、漱石のイギリス留学(1900年10月より1902年12月)当時における日本と西洋の文明の落差と文化の異質性からみて、明治のインテリゲンチアにとってカルチャーショックがどれ程衝撃的なものであったか、ということは容易に想像できよう。本稿は、漱石がその2年余りの留学においてどのようなカルチャーショックを受け、それにどのように対応しようとしたかを分析し、漱石にとっての留学の意味、ひいては彼の西洋との出会いの意義を探ろうとするものである。

 ロンドン滞在の最初の1、2ケ月間、漱石は当時の日本と比較して遙かに優れた西洋の物質文明に圧倒され、新しいものすべてに魅せられ気分が高揚するという状態であった。しかし、現実の生活の問題に直面するに至って、イギリスに対する印象は否定的のものに変わってゆく。ロンドンの天候の悪さ、金銭的問題、家族との別離、イギリス人の友人を持てなかったこと、イギリス人の日本人に対する偏見、漱石のイギリス人に対する劣等感等が、漱石のイギリスへの適応を妨げたのである。漱石が英文学者であったということは、学者としての劣等感にさいなまれるという意味で苦しいことであった。ある作品に対する自分とイギリス人の解釈が異なった場合、漱石には自分の方が正しいと主張する根拠が無かったからである。イギリス人と日本人の文学観、美的感覚の大きな相違に気付いていた漱石は、どの文学にも当てはまる普遍的に有効な公式を打ち立てようと『文学論』(1907)を書くことになる。しかし、西洋至上主義的な当時のヨーロッパ人にとって東洋の文学をも含めた比較文学というものは想像もつかないものであり、イギリス人の英文学者が日本人による英文学論に関心を示したとは考えられない。誇り高かった漱石は、他の多くの日本人の様に西洋至上主義を信奉することは出来ず、最後までイギリスに適応し得なかったのである。

 漱石がイギリスで不適応に悩み、真剣に西洋文明と対決したことは、漱石にとって苦しくはあっても意義深いことであった。英文学者としての劣等感、不安感をつきつめたことは、後の作家への転身に深く関わってくるからである。又、西洋至上主義の信奉者には到達することの出来ない程深い理解を、西洋と日本の両方について持つことも出来たのである。この様な西洋との出会いを通じて漱石は、西洋的なものと日本的なものの相克というテーマを、その作品においても、その人生においても、真摯に探求したのである。

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© 1990 日本比較文学会
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