抄録
本稿では、「二ツ屋村肝煎相馬家文書」を用いて、大館佐竹西家の御勘定場から発行された「物成諸役銀調目録」と、御代官所から発行された「皆済目録」を検証した。その結果、西家家中(陪臣)の知行形態と西家の御勘定場の詳細明らかになった。
慶長十五年(一六一〇)、小場義成は大館に入城した。小場家、後の大館佐竹西家(以下「西家」と記す)は、「城代」として秋田郡北部地域の治安維持や知行地の
管理などを命じられた。西家の家臣団である家中(陪臣)と本藩から派遣された組下給人(直臣)が分担して、その任に当たった。
西家は新田開発によって知行地(高)を拡大し、とりわけ、西家の知行地は大館地域に集中した。村々は、西家(家中)をはじめ、給分(組下給人)・蔵分(本藩)へそれぞれ年貢を納めた。「給分」について個々の給人が、「蔵分」は本藩派遣の代官(郡奉行)が管轄し、西家の知行分は、「御勘定場」が担当した。