抄録
本研究の目的は,華人がタイに持ち込んだ菜食実践がいかにタイ社会に受容されているのか,その展開を明らかにすることである。
タイでは,毎年中国旧暦の9月1日から9日まで菜食をする行事が開催される。19世紀前半から,この行事はプーケット県を中心とするタイ南部において広まることになり,現在に至るまで宗教的な儀礼の形式を保ちつつ継承されている。それに対して,タイ南部以外の地域で行われる菜食実践は,タイ南部と異なり,単に菜食料理を食べる取り組みとしてのみ受け止められている。
本研究では,菜食実践のタイ南部からタイ南部以外の地域への伝播にともない,その形式が変化してきた過程に注目し,「宗教的な実践」から「スピリチュアルな実践」への展開という枠組みをあてはめ,説明を試みる。その上で,華人がタイに持ち込んだ菜食実践の,タイ社会の宗教的コンテキストにおける位置付けを考察する。
当初,共同体に根差し,宗教的な要素を多分に含んでいたタイ南部の菜食実践は,広くタイ全土へと受け容れられる過程で,神秘的な体験への個人的なニーズを原動力とする「スピリチュアルな実践」へと変容してきた。タイ南部で行われている菜食実践は,地域共同体の行事としてタイ社会のメゾ領域の「信仰」(非公認宗教)に位置づけられる一方,タイ南部の地域へと広がった菜食実践は,共同体から離れたミクロな私的実践としての「信仰」として理解することができる。