抄録
本稿は,インフォーマルなケアを担うがゆえに「政治的主体」であることから疎外される親(母親)の困難に焦点をあて,ケアする人の声に根差した「政治的なもの」をいかに形成していけるのかを問題意識としている。本稿ではケア・フェミニズムの議論に依拠しつつ,「語る」という実践(ナラティヴ)の「政治的ケア」の役割に着目し,障害をもつ子の母親業を担うある女性(A子さん)のライフストーリーを読み解いていく。
A子さんのライフストーリーから,「障害児の母親」として期待される支配的なナラティブに対する,対抗的な語りの実践を読み解くことできた。A子さんの母親業のなかで経験した葛藤の語りは,〈ケアするわたし〉の地点から,ケア対象者であるBさんのニーズを割り切ることを拒否し,「障害者のお母さん」のマスター・ナラティヴを超え出ていくという抵抗的な意味をもっている。
考察では以下を検討した。第一に,母親業を担う人は,他の専門家や支援者と対等の「ケアラー」としてアイデンティティをもつことそれ自体に困難があり,その困難が周囲に対して声をあげることを難しくしている。第二に,〈ケアするわたし〉として語るとは,役割や機能としてではなく,かけがえのない個別の存在として扱われることで可能となる。ケアの倫理に根差した「政治的なもの」を構築していくためにも,ケアする人自身の困難に寄り添う社会的支援が必要である。